2009年10月06日

tabi0308 開高健「ベトナム戦記」

ルポルタージュ、それは内面の戦争
銃音がとどろいたとき、私のなかの何かが粉砕された。膝がふるえ、熱い汗が全身を浸しむかむかと吐気がこみあげた。たっていられなかったので、よろよろと歩いて足をたしかめた。もしこの少年が逮捕されていなければ彼の運んでいた地雷と手榴弾はかならず人を殺す。五人か一〇人かは知らぬ。アメリカ兵を殺すかもしれず、ベトナム兵を殺すかもしれぬ。もし少年をメコン・デルタかジャングルにつれだし、マシン・ガンを持たせたら、彼は豹のようにかけまわって乱射し、人を殺すであろう。あるいは、ある日、泥のなかで犬のように殺されるであろう。彼の信念を支持するかしないかで、彼は《英雄》にもなれば《殺人鬼》にもなる。それが《戦争》だ。しかし、この広場には、何かしら《絶対の悪》と呼んでよいものがひしめいていた。P168
開高健「ベトナム戦記」(朝日新聞社 1990)


ベトナム社会主義共和国は、面積 32万9241km2(日本の約90%),人口約8520万人(2007年)で、国民の約90%がキン族(ベト族)で、その他は50以上の少数民族が存在する国でラウ。宗教は約80%が仏教徒,キリスト教(9%),その他はイスラム教,カオダイ教,ホアハオ教,ヒンドゥー教となっている。

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1887年から1954年7月にディエンビエンフーの戦いでフランスが敗北するまで、フランスの支配下になったインドシナ半島東部地域である。ジュネーヴ協定を結び、ベトナムから撤退し、独立戦争は終結した。

同時に、北緯17度線で国土がベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)に分断される。そして10月、南ベトナムではアメリカを後ろ盾にゴ・ジン・ジェムが大統領に就任、国名をベトナム共和国にする。それ以来、この「南北ベトナム」は世界の象徴として語られ始めるのである。

あとで私はジャングルの戦闘で何人も死者を見ることとなった。ベトナム兵は、何故か、どんな傷をうけても、ひとことも呻かない。まるで神経がないみたいだ。ただびっくりしたように眼をみはるだけである。呻めきも、もだえもせず、ピンに刺されたイナゴのように死んでいった。ひっそりと死んでいった。けれど私は鼻さきで目撃しながら、けっして汗もかかねば、吐気も起さなかった。兵。銃。密林。空。風。背後からおそう弾音。まわりではすべてのものがうごいていた。P168
開高健「ベトナム戦記」(朝日新聞社 1990)


私は《見る》と同時に走らねばならなかった。体力と精神力はことごとく自分一人を防衛することに消費されたのだ。しかし、この広場では、私は《見る》ことだけを強制された。私は軍用トラックのかげに佇む安全な第三者であった。機械のごとく憲兵たちは並び、膝を折り、引金をひいて去った。子供は殺されねばならないようにして殺された。私は目撃者にすぎず、特権者であった。私を圧倒した説明しがたいなにものかはこの儀式化された蛮行を佇んで《見る》よりほかない立場から生れたのだ。安堵が私を粉砕したのだ。私の感じたものが《危機》であるとすると、それは安堵から生れたのだ。広場ではすべてが静止していた。すべてが薄明のなかに静止し、濃縮され、運動といってはただ眼をみはって《見る》ことだけであった。単純さに私は耐えられず、砕かれた。P169
開高健「ベトナム戦記」(朝日新聞社 1990)


■参考リンク
ベトナム・ハノイに行ってきました。



■tabi後記
本を読んで分かることは部分的かつ一面的であることは、人並み以上には感じているつもりである。それでも読むのはなぜだろうか?それは、実際に東南アジアに行く,見るという「経験主義」に振り切らないための防波堤なのかもしれない。ただし、知識の確認作業として「現地」へ行くのではない。外的確認→外的統合→崩壊→内的統合→内的確認が起きるのではと企図している。
posted by アントレ at 15:00| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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