2009年10月19日

tabi0313 島田裕巳「中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて」

生煮え神秘主義者が社会と関係を結ぶ事態の一般的考察
中沢は、ゴジラがくり返し回帰させるものは悪夢を生む抑圧の機構ではなく、心の奥底に潜む、失われた「根源的な自然」の記憶にほかならないと言い、ゴジラをもう一度私たちの手に奪還して、それを創造しなおすべき時がきていると述べている。そして、市場やネットワークを踏みにじりながら、私たちの内部に失われた深さの感触を蘇らせる新しいゴジラが、ふたたび海中から浮上してくる姿を自分は想像すると述べて、「GODZILA対ゴジラ」を締めくくっている。P100
島田裕巳「中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて」(亜紀書房 2007)


中沢は、地下鉄サリン事件の直後、ある元信者に対し「ね、高橋君。オウムのサリンはどうして(犠牲者が)十人、二十人のレベルだったのかな。もっと多く、一万人とか、二万人の規模だったら別の意味合いがあったのにね・・」と言い放った過去がある。

その発言の前には、「宗教とは狂気を持っているものなんだ。そのことに高橋君は気づかなかったの?」と言ったという。その発言に高橋が驚いて、「人を幸せにする、人を救うものを宗教というんじゃないですか?人に苦しみを与えるものが宗教だなんて、僕は聞いたことがないんですけど」と聞き返した。すると中沢は、「歴史的にみてもいろんな戦争を起こしているし、宗教って、そもそもそういう凶暴性を秘めているものなんだよ」と答えたという。上記の発言への批判に対して、彼からの応答は未だにない。

現在、中沢氏は多摩美術大学 芸術人類学研究所の所長を務めながら、ほぼ日くくのち学舍などに顔を出されている。

私は、上記の発言に対しては、価値中立である。そのような凶暴性が自身の内に存在するのは素直に認められる。しかし、発言への批判は「倫理」という底の軽いものではない。むしろ、その不徹底さをこそ批判の俎上にあげる必要があるのではと思う。

さて。島田氏は、中沢氏と旧知の友であった。著者自身もオウムに関する書籍を刊行されており、これらの問題に携わる中で様々な体験をされてきた。

そのような経緯を考えると、本書の意味も深みをもってくる。島田氏は、自身のブログで執筆経緯と刊行後のあとがきを書かれている。

これまで私は30冊以上の本を書いてきたけれど、今回の本を書くという作業は、これまでとは明らかに違った。この本は是非とも書き上げなければならないという強い思いをもちながら書いたことは、これまでなかった。『オウム』には、それに近いものがあった。けれども、今回の方がはっきりとしていた。本が売れようと売れまいと、どう評価されようと、そんなことはいっさい関係がない。とにかく、書き上げなければならないのだと思いながら、私は書き続けた。その意味で、この本は私にとって特別な本なのである。
『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』刊行後の「あとがき」


底が抜けきらない神秘体験、そして社会変革と結びつけない神秘体験。政治性と神秘性の重ねあわせ、ないしは氷塊。非常に大切な論点だと思われる。

■参考リンク
極東ブログ



■tabi後記
明日からアジアを体験してくるわけだが、持っていく書物は「意識と本質」「意識の形而上学」「道元との対話」「龍樹」「国家」にしました。書を持って、旅に出てきます。旅に出て、書を読むかな。
posted by アントレ at 15:02| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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