2009年11月17日

tabi0316 プラトン「国家」

彼は望んだ。思惑を排した真実を観る者を。
人々はこう主張するのです。― 自然本来のあり方からいえば、人に不正を加えることは善(利)、自分が不正を受けることは悪(害)であるが、ただどちらかといえば、自分が不正を受けることによってこうむる悪(害)のほうが、人に不正を加えることによって得る善(利)よりも大きい。そこで、人間たちがお互いに不正を加えたり受けたりし合って、その両方を経験してみると、一方を避け他方を得るだけの力のない連中は、不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが、得策であると考えるようになる。このことからして、人々は法律を制定し、お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。

これがすなわち、<正義>なるものの起源であり、その本性である。つまり<正義>とは、不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと、不正な仕打ちを受けながら仕返しをする能力がないという最悪のこととの、中間的な妥協なのである。これら両者の中間にある<正しいこと>が歓迎されるのは、けっして積極的な善としてではなく、不正をはたらくだけの力がないから尊重されるというだけのことである。げんに、それをなしうる能力のある者、真の男子ならば、不正を加えることも受けることもしないという契約など、けっして誰とも結ぼうとはしないであろう。そんなことをするのは、気違い沙汰であろうから。P106-7
プラトン「国家(上)」(岩波書店 1979)


永井均「倫理とは何か」で言及されていた「国家」を読み通した。トラシュコマスとグラウコンとソクラテスの対話には「幅」がある。この振り幅をプラトンが演出していると考えると、彼の記述技術への関心が湧き上がってくる。

上下巻を通じて「正義とは何か?」という論点について対話がなされていたわけであるが、その論点は政治的主張の中に立ち消えになってしまったと思われる。プラトンが政治的身体をまとってしまった背景には「ソクラテスの死」という壮絶な思考要請が潜まれているのであるが・・。やはり、その経験が残ってしまっている。思惑として。

ギュゲスの指輪に対する応答の弱さに比して、哲人政治の教育プログラムへの熱の注入から、社会契約の根拠と哲人が政治家にならねばならぬことへの論理的な徹底が不足しているように思われるのだろうか。

そこでもし彼が、ずっとそこに拘禁されたままでいた者たちを相手にして、もう一度例のいろいろの影を判別しながら争わなければならないことになったとしたら、どうだろうーそれは彼の目がまだ落着かずに、ぼんやりとしか見えない時期においてであり、しかも、目がそのように馴れるためには、少なからぬ時間を必要とするとすれば?そのようなとき、彼は失笑を買うようなことにならないだろうか。そして人々は彼について、あの男は上へ登って行ったために、目をすっかりだめにして帰ってきたのだと言い、上へ登って行くなどということは、試みるだけの値打ちさえもない、と言うのではなかろうか。こうして彼らは、囚人を開放して上のほうへ連れて行こうと企てる者に対して、もしこれを何とかして手のうちに捕えて殺すことができるならば、殺してしまうのではないだろうか?P100
プラトン「国家(下)」(岩波書店 1979)


彼が背負った「ソクラテス」はここに表出する。洞窟の比喩。これは自らの体験的告白でらい、洞窟自体への嘆きでもあったのではないだろう。

洞窟は常識であり、識を常としてしまう、人間の恒常的認知性への承認と伴に、そこを逸脱したいという哲学的反逆心の萌芽であろうか。

■参考リンク
ITTOKU TOMANO’s Website
第七百九十九夜【0799】
永井俊哉ドットコム





■tabi後記
2400年前に使われていた「イデア」は、4段階くらい底が深いのかもしれない。彼は観えていたことは想像できるだろうか。
posted by アントレ at 13:17| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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