2009年11月18日

tabi0319 茂木健一郎「脳の饗宴」

統計描写に誠実であること/現象への補助線/前提原理のメス
「反応選択性」の概念は、ニューロンの活動の特性を特徴づける上では、それなりの有効性を示してきた。その一方で、そもそも、神経細胞の活動からいかにして意識を生まれるのかという第一原理にかかわる問題においては、「反応選択性」とその背後にある統計的アプローチはほとんど有効性を持たない。
その本質的な理由の一つは、統計的手法の基礎となっている「アンサンブル」概念が、意識を生み出している神経細胞ネットワークの構造的、因果的な拘束条件を反映していないという点にある。P21
茂木健一郎「脳の饗宴」(青土社 2009)


港千尋、渡辺政隆、布施英利、池上高志・郡司ペギオ-幸夫との対話が纏められている。茂木氏のラディカルな問題意識が存分に展開されている。中でも、茂木健一郎/池上高志/郡司ペギオ-幸夫「意識とクオリアの解放」が刺激的な対話だった。

池上氏がリベットの実験(触覚刺激のほうが脳への直接刺激よりも先に感じること)を例に挙げて「物理学で言うところのエンピリカル・サイエンスと脳科学で言うところのエンピリカル・サイエンスというのは違うね。カウンター・ファクチュアル(反事実的)なものを扱えるところとか。」という提起から、生命/意識の本質へ迫り始める。

茂木 世界がどうしようもない形で進行してしまっているという事実はあって、それを記述するのは物理主義でかなりうまくいっている。だからどうしようもない形で世界が進行してしまっているという事実を、どういう風にお前のモデルが引き受けているのかがわからない。P218

郡司 留保というのは、さっきも言ったように、ある個物を自明な個物であると知ることと、「わたし」が指定しているんだということとが、両義的にあること。前者をaと書くと、後者は{a}と書けて、つまり要素と集合の混同を意味している。でも両者の差異は、決して要素を集めるという複数性に依拠しているわけじゃない。複数性や別の可能性、他でもあり得たという提示の仕方ではなく、個物を指しながら、個物の外部に言及すること、それが留保だと思う。P222


郡司氏は、外部が(別の可能性が)、アクセスしやすいという問題と、常に問題を解決する方法がアクセス可能(オープンエンド)というのは次元の違う問題で、後者は生命の本質だと語っている。

統計的描写に限界を感じながらも、その記述された現象をどのように還元するか(補助線)を引くかという「ダーウィン的」仕事や、「留保性」という際と際の中に潜みながら構造把握につとめていく姿勢を垣間みることができた。

■参考リンク
茂木健一郎 クオリア日記
Another Heaven



■tabi後記
先週からプログラミング(PHP/Processing)を習い始めた。これが最後の挑戦になると思う。
posted by アントレ at 19:33| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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