2009年11月21日

tabi0321 内田樹「子どもは判ってくれない」

開かれた身内

タイトルは「子どもは判ってくれない」にしましたが、以下は「大人は愉しい」と「知に働けば蔵が建つ」からも抜粋しています。

「街場の教育論」,「14歳の子を持つ親たちへ」,「ビジネスに「戦略」なんていらない」なども関連する書評となっていると思います。

今回は保留にしましたが、「日本辺境論」を読んだ際には「内田樹」さんについては論じてみたいと思います。

鈴木さんと話していていちばんスリリングなのは、私が「自分の個性」であると信じていたもののうちのかなりの部分が、「同時代的状況のしからしむるところ」であり、それに含まれないものだけが、ぎりぎりの「自分のユニークさ」だということが分かるからです。
(中略)
「おれはだんぜんこう思うんだよね」と断言するときの「思い」のうちの、どれほどのものが「状況」や「風土」や「階級」や「ジェンダー」や「ハビトゥス」に起因するものであり、どれほどのものが「おれ」自身に由来するものであるのか。それを考えると、なかなか「論争」なんかできやしません。P27-8
内田樹/鈴木昌「大人は愉しい」(筑摩書房 2007)


「他者の痛みを知れ」というような言葉は、いま政治的な場面においても一種のクリシェとなっています。「おまえは他者の痛みが分かるのか?」というようなかたちで政治的恫喝を加える人に出会うと、私はいらだちを覚えてしまいます。「他者の痛み」はその前ではいかなる政治的な大義名分も無効になるような、ある種の「逃れの町」のような原理として語られるべきものではないでしょうか?
(中略)
私が戦後責任論者に対していだく違和感は、「他者の痛み」から政治的価値を演繹するという手法そのもののうちにある種の「倒錯」を感じるからなのです。むしろ「他者の身体の痛み」は政治的価値を相対化してしまうものではないのでしょうか?P50


同学齢かどうかをモノサシにして、江口は「ホッと」したり、「シット」したり、態度を変えている。つまり、学齢が違う集団は、彼が自分の仕事の質を査定するときの参照項としてあまり意味を持っていないのである。
(中略)
自らの位置を知るために、もっぱら同学齢集団を参照し、年齢が上下に離れている人々は「競争」の対象として意識されない傾向。私はこれを「江口寿史現象」(勝手に名前を借りてすまない)と名づけることにする。P42
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


正論家の正しさは「世の中がより悪くなる」ことによってしか証明できない。したがって、正論家は必ずや「世の中がより悪くなる」ことを無意識的に望むようになる。
「世の中をより住みやすくすること」よりも「自説の正しさを証明すること」を優先的に配慮するような人間を私は信用しない。
私が正論を嫌うのはたぶんそのせいである。P81
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


人間の多面的な活動を統合する単一で中枢的な自我がなくてはすまされないという考えが支配的になったのは、ごく最近のことだ。「内面」とか「ほんとうの私」とかいうのは近代的な概念である。
知られるとおり、「内面」は明治になってはじめて出現した。(文学史の教えるところでは国木田独歩の「発明」である)。だから、江戸時代の侍にはもちろん「内面」なんかなかったし、当然にも「アイデンティティ」なんかありはしなかった。P89
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


「今の自分の考え方」は「自前の道具」のことである。ということは、「そのつどの技術的課題にふさわしい道具」とは、「他人の考え方」のことである。
「自分の考え方」で考えるのを停止させて、「他人の考え方」に想像的に同調することのできる能力、これを「論理性」と呼ぶのである。
論理性とは、言い換えれば、どんな檻にもとどまらない、思考の自由のことである。そして、学生諸君が大学において身につけなければならないのは、ほとんど「それだけ」なのである。P104
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


例えば、「国家は幻想である」と断定する人々がいる。まことにご高説のとおり、たしかに国家は幻想である。しかし、「国家は幻想だ」と説く思想家も、その理説をアメリカの大学で講じるために飛行機に乗るときには「菊のご紋章入りのパスポート」を携行することを忘れない。
「貨幣は幻想だ」と断定する人々もいる。まことにご高説のとおり、たしかに貨幣は幻想である。しかし、そう書いたはずの思想家が、ご高説を開陳した書物の印税収入の受け取りを拒否したという話を私は寡聞にして知らない。
「幻想である」と言うことは簡単である。
しかし、「幻想である」とこちらがいくら断定しようとも、当の「幻想」は何の痛痒も感じることなく、相変わらず繁昌し続けるのはいったいどうしてなのかという、より困難な問いに答えることはたいへんにむずかしい。P131
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


Kさんの要約によると、「自由競争したら格差ができてしまうのは当然であって、みんな違った生き方をすればいいじゃないか」というのがネオコンの主張であるようだが、私はそんなことはありえないと思う。
自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
(中略)
それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。P194
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


この本からのメッセージは要言すれば次の二つの命題に帰しうるであろう。
一つは、「話を複雑なままにしておく方が、話を簡単にするより『話が早い』(ことがある)」。
いま一つは、「何かが『分かった』と誤認することによってもたらされる災禍は、何かが『分からない』と正直に申告することによってもたらされる災禍より有害である(ことが多い)」。
これである。P330
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


おおかたの人は誤解しているが、ニートは資本主義社会から「脱落」している人々ではない。彼らは資本主義社会を「追い越して」しまった人々なのである。
あらゆる人間関係を商取引の語法で理解し、「金で買えないものはない」という原理主義的思考を幼児期から叩き込まれた人々のうちでさらに「私には別に欲しいものがない」というたいへん正直な人たちが、資本主義の名において、論理の経済に従って、「何かを金で買うための迂回としての学びと労働」を拒絶するように至ったのである。P33
内田樹「知に働けば蔵が建つ」(文芸春秋 2008)


私たちが問題を立ててそれに解答するというのは「問題を解決できることが暗黙裏にはわかっているが明示的にはわかっていない」状態から「明示的にわかった」状態への移行という時間的現象なのである。
私たちは「解答できることがわかっている問題」しか取り扱うことができない。けれども「解ける」ということは飽くまで「暗黙裏に」わかっているすぎないのであって、解いてみせるまでは解けるということは明証的にわからないのである。P159
内田樹「知に働けば蔵が建つ」(文芸春秋 2008)


■参考リンク
横浜ほんよみ生活
体系的な知識とは
愛読書・・・内田樹氏「子どもは判ってくれない」







■tabi後記
今夜は、渋谷慶一郎 × 平野啓一郎対談を聞きにいってきます。
posted by アントレ at 15:28| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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