2010年01月01日

tabi0325 池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」

初心か欲望のエデュケーションか、それとも・・・
人間はオリンピックで世界新を出したり、月にはじめて行ったり、科学的新発見をしたり、新技術を発明したりすることに、実に過大な評価を付ける、ヘンな動物なのである。ほとんどの動物にとっては、新しいことは善い生涯からの逸脱である。P28
池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」(新潮社 2007)


人はエクスタシーをもとめ、そしてそこに帰着すると満足して安住せずに、飽きる動物である。

規範力が弱くなれば、それから逸脱することは容易である。しかし容易に逸脱できれば、逸脱によるエクスタシーは弱まってくる。だから、あなたがエクスタシーを感じるためには、社会的な規範はもう当てにできず、自分で自分固有の規範を作る他はないのである。P36
池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」(新潮社 2007)


やがて、規範は形だけものとなり、誰もが信じることができる(できた)物語は消えてゆく。いな、はじめからそんなものはなかったのだ、と立命することによって生じてくるのが「我」というものではないだろうか。

嫉妬を正当化するために道徳をもち出すのは、どんな場合でもつまらぬことだ。あなたはどんな規範でも選ぶ事ができる。それはあなたの恣意的な権利(勝手)である。しかし、他人があなたと異なる規範を選ぶのを阻止する、超越的な(絶対の真理としての)根拠はどこにもないのである。P109
池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」(新潮社 2007)


基準設定までの修行として今を捨てる者にとって「我」眩しい。その光に鏡をあてるか、合成素材として用いるかが態度といえるものであろう。

所有は一見、人と物の間の従属関係に見えるけれども、実は人と人の間の物をめぐる排除関係なのである。他人がいない所では、所有という観念は発生しない。他人とはもちろんコミュニケーション可能な何らかの規範を共有した他者のことである。全く規範を共有しない人々の間では、所有などという観念は無意味である。P200
池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」(新潮社 2007)


ここには著者の意図しないところで「我」の一貫性を転覆させるような文言が隠されている。私的所有という神話が解体された世界において、思想とビジョンを設定できるのだろうか。設定するという未来への所作に変更企てることが必要であろうと思っている。有り体に言えば、編定するか。

■参考リンク
モノクロ珈琲:『正しく生きるとはどういうことか』



■tabi後記
2009年は素敵な読書年度でした。そして、元旦から読書会をはじめています。2010年は更新頻度を若干減らしながら、再読した本や、長く付き合えそうな本を公開していきたいと思います。
posted by アントレ at 10:48| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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