2010年01月02日

tabi0331 竹内靖雄「国家と神の資本論」

「無」政府(政府を感じさせない)のために何ができるか
文明にふさわしい「良い政治」は、「民の害にならぬことをする政治」であり、もっと正確にいえば、それは「民の害になることをしない政治」を意味する。民主主義であるというだけの理由ですぐれた政治であると思うのは根拠のない迷信であろう。P51
竹内靖雄「国家と神の資本論」(講談社 1995)


オバマ氏は大統領就任演説で「我々の政府が大きすぎるか小さすぎるかではなく、それが上手く働いているか」という表現をされていたが、上手く働くというのは、ある事業仕分け人の力が優れていることでもなければ、戦略提示することでもない。さも「無」政府(政府を感じさせない)かのように振舞うことである。それがWorkしている証拠。

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話しは変わるが、日本は高齢者比率25%(4人に1人)という社会が実現されようとしている。平成20(2008)年では高齢化率が最も高いのは島根県で28.6%、最も低い沖縄県で17.2%となっている。このまま、医療技術の進歩と過剰医療で寿命がさらに延びると、やがて高齢者の割が3人に1人(2035年)、2人に1人(2060年)となる時代が来るだろう。

社会はこのような老人大国が到来することに憂鬱になっているようだが、どのようにして問題を先送りせずに解決/予防するかが大切である。対処する変数としては、もっと人がたくさん死ぬようにして平均寿命を大幅に引き下げるか、子供をたくさん生んで若年人口の比率を高めるかする以外にない。前者は論外であるとされ、後者も非現実的であると思われている。

では、この課題にアプローチしていくか。以前このテーマを考えていたときに浮かんだのが、「死を受け入れる欲望をもちやすい社会」という前者へのアプローチであった。そこで「楽死」ということ概念が考案された。

詳細は機会があれば話すが(それは、関連する書に出会ったときであるが)、この言葉で私が提案したことは「高齢者」のパラダイムを変換ということであった。後期高齢者という年齢による「老」のズラシではない。愛され老人になることでも、要介護認定されることでもない。介護と育児の同時性、介護と学習の同時性という一石二鳥の仕組みをつくることであり、医療行為の尊さを消失させることであった。

ここで考えたことは、先日話題になった琴坂さんの記事に色濃く反映されている。この記事では「では、どうするのか?」というところは書かれていないが、その問いにこそ起業家は応えるべきなのだと思う。それは政策でも言論でも構わないけれど、事業をもってして応答する者が待たれている。

国という固まりの上に存在する、企業という固まりに取って有益な人材は、国ではなく企業に優遇される。強い国に所属しそれに認められ続ける人材は生き残る。世界に認められる「お金」という力を持つ人々は、それが世界の成長にあわせて成長していくことで、特に日本の衰退に影響される事は無いのである。かれらにはそれほど大した問題(少なくとも死活問題では)ではない。
構造的に不可能に等しい挑戦


そもそも、日本に生まれただけで、大した努力もせずに楽しく暮らせると思っている若者は、世界を見て、貧困を肌で感じて、そこから這い上がろうとしている自分たちと同年代の若者の力と、情熱と、信念に触れるべきとも言える。

毎日15時間労働して、ろくに楽しみもせずに、月に5万円もかせげず、しかもその半分以上を家族に送金しているような若者が、世界には五万といる。ニートが出来るような日本は、まだまだ皮下脂肪の固まりであり、それに安住してしまっているのである。
構造的に不可能に等しい挑戦


■参考リンク
ローカル化する日本〜日本が“アジアの辺境”になる日
日本の強みは東京にある
小浜逸郎ライブラリ



■tabi後記
3日夜まで栃木 宇都宮へ農作業や温泉を堪能していきます。4日から16日までは上海近郊へ旅立ちます。
posted by アントレ at 06:52| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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