2010年01月18日

tabi0336 伊藤春香「わたしは、なぜタダで世界一周できたのか?」

旅は日常か非日常か、それとも。
世界一周をよく「自分探しの旅」などと表現する人がいる。
私はこの「探す」という言葉が女々しく嫌だった。

「自分探しするくらいなら、理想の自分を思い描いて、それに向かって『自分作り』したらいいのに」などと、屁理屈をいつも頭の中でこねていた。

そんなアンチ・自分探しの私でも、この旅行で新たに自分の嫌な部分や、逆に柔軟な部分を発見したのかもしれない。

不本意ながら、世界一周は究極の自分探しだったんだと思う。自分を探していたというよりも、自分自身とずっと対話していた。P214
伊藤春香「わたしは、なぜタダで世界一周できたのか?」(ポプラ 2009)


コンテクストが変わることによって開示されるコンテンツに察知しやすい体づくりが最近の関心だったりします。〈変化〉は巨視、微視、意識、無意識に起こり続けていますから(その「起こり続け」もまた同様である)、彩度/精度/強度をもった<思考>をしていくために旅というものを活用している。さて次は自分の体をどこへ投げやろうか。

本書をこのような文脈で読みすすめていったときに思ったのは「自分」が限定的な世界にいること(そして「いてしまったこと」)の自覚と、◯◯としてもあれたかもしれない自分の自覚(とはいえ、◯◯としてあっていることの自分)、この2つの振り子の中に佇む「自分」を探求することが旅なのではないかということです。

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3ヶ月前に旅にまつわる10の名言(といわれるもの)に対峙することで、「旅」という言葉にチューニングテストを行っていました。

以下には、納得するもの、首をひねるもの、理解不能なものがあると思いますが、各自で「旅」という言葉と距離感をはかってみてほしい。その立ち位置を記憶し、半ば忘れ去りながら考えてみるといいかなと思います。

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人生とは旅であり、旅とは人生である
中田英寿


旅というものには、条件があるんです。それは「戻ってくる」ことです。戻ってこなかったら、「蒸発」と呼ばれてしまうでしょう。ですから、「どうやって戻ろうか」をずっと考えながら旅をすること、それが旅なんですよ?
三浦じゅん


旅するおかげで、われわれは確かめることが出来る。たとえ各民族に国境があろうとも、人間の愚行には国境がない。
ブレヴォ


旅の最大の悦びは、おそらく事物の変遷に対する驚嘆の念であろう。
スタンダール 


辛い時もあるさ。でも独りになるには、旅が一番だからね。この間も話したように、僕は孤独になるために旅をするんだ。長い間の孤独の生活から、春、このムーミン谷に帰って来た時の喜びは…なにものにもかえがたいものだよ。
スナフキン


旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ。
ブッダ


ウチは田舎だったから郵便局にハガキを買いに行くのさえも『旅』だったよ。
リリー・フランキー


ロバが旅に出かけたところで馬になって帰ってくるわけではない。
西洋のことわざ


「旅」にはたった一つしかない。自分自身の中へ行くこと。
リルケ


旅の本当の意味は、俗な言葉だが「自分を発見する」ことにある。
山下洋輔


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10月に1ヶ月ほど東南アジア(タイ/カンボジア/ベトナム/ラオス)へ、先日まで2週間ほど上海近郊(上海/南京/蘇州/杭州/紹興)へ足を伸ばしていました。時折考えていたのは「旅」に非日常性をもたせることでも「日常」を美化するためでもなく、自然なものとして旅をとらえたいということです。

中田さんは、人生は旅という非日常性を醸し出しながらも、その旅は人生であるという日常への着地を表現されています。そこに「人生/旅」の二重性をみるのは難しくないでしょう。

三浦さんの言葉には、童歌「とおりゃんせ(通りゃんせ)」にある「行きはよいよい 帰りは怖い」に類似する趣きを感じます。

「どうやって戻ろうか」というのは、どこに戻ろうかという話しではなく、どのような体裁をつけようか/どの面下げて帰ろうかという話なのかもしれない。バックパッカーが背負っているのは、荷物ではなく出発としてきた場所/関係なのだろうか。

ブレヴォ/スタンダールは、文化,言語,時代が異なるにつれて普遍性と特殊性への嗅覚が鋭敏になることを強調しているのだろうか。これは旅の非日常化を試みているように思う。

スナフキン/ブッダは、旅をある目的にしている。前者は一人になるためであり、後者は師をみつけるためであると。私には、一人になることと師をみつけることは表裏にあると思っている。それは、無私になるというコインにのせることによって。

リリー・フランキー/西洋のことわざには、旅の日常を垣間みることができない。リリーさんには、距離/無人という変数が組み込まれると旅が成立するという前提がある。

そしてことわざには、何が人を変化させるのか?という逆説的な問いと、そもそも変わったというための「差分」どり自体に不可能性をみているのではないか?これは時間という概念への問いであろう。

リルケ/山下洋輔は、シンプルであるが、一定の納得を得られる言葉ではないだろうか?

■参考リンク
本当の修学旅行
【必見?】はあちゅうの世界旅行記が半端ない件



■tabi後記
そもそも「旅」という言葉をチューニングしようと思ったのは、

・旅で一番のトラブルは何だったか?
・旅で一番インパクトのあったことは?
・旅でカルチャーショックだったことは?
・旅が終わって、次に何をしていくのか?
etc..

そもそも「旅」にいくと、こういったことが問われるのは何故なのか?と思いはじめたことが契機でした。そして結論をいってしまえば、こういった質問を浴びることが常であるような生活をする必要があるなあと思いはじめたのです。

それは、他人のアテンションを振り向ける言動や情報発信をしていくということではなく(結果的にそうなってしまうのだろうが)、旅人として問われることを常とする生活を実践することが1つ大事なことであり、その実践は承認にもとづくものではなく自らの秘密を探究/点検していく行為過程であることが大切なのでしょう。
posted by アントレ at 16:54| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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