2010年02月20日

tabi0337 ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」

他者とは「異なる論理空間」の別称にほかならぬか
5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
5.61 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
それゆえわれわれは、論理の限界にいて、「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。
なるほど、一見すると、「あれは存在しない」と言うことでいくつかの可能性が排除されるようにも思われる。しかし、このような可能性の排除は世界の事実ではありえない。もし事実だとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならない。そのとき論理は世界の限界を外側からも眺めうることになる。
思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。
5.62 この見解が、独我論はどの程度正しいのかという問いに答える鍵となる。
すなわち独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語れられえず、示されているのである。
世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。
5.621 世界と生とはひとつである。
5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス)P115-6
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」(岩波書店 2003)


論理空間とは、現実世界をそこに含むような、可能な状況の総体である。『青本』にはウィトゲンシュタイン哲学の根本洞察が垣間見える。

「他人は『私が本当に言わんとすること』を理解できてはならない、という点が本質的なのである」

また、『論考』以前に書かれた『草稿』において独我論はすでに芽を出している。

歴史が私にどんな関係があろう。私の世界こそが、最初にして唯一の世界なのだ。私は、私が世界をどのように見たか、を報告したい。
世界の中で世界について他人が私に語ったことは、私の世界経験のとるにたらない付随的な一部にすぎない。
私が世界を判定し、ものごとを測定しなければならない。
哲学的自我は人間ではない。人間の体でも、心理的諸性質をそなえた人間の心でもない。それは、形而上学的主体であり、世界の(一部なのではなく)限界なのである。人間の体
はしかし、とりわけ私の体は、世界の他の部分、つまり動物、植物、岩石、等とともに、世界の一部である。


本書の訳者でもある野矢は「『論理哲学論考』を読む」において、現象主義的独我論と存在論的独我論という言葉を用いている。

そして、存在論的独我論について一歩足を踏み込むのがこの問いである。

「いま現在の論理空間において構成された動作主体としての私の通時的同一性と、論理空間の変化に応じて寸断される存在論的経験の主体たる私との関係」

記憶。

その1単語において、自我の同一性を担保できると思える方も少ないだろう。

ここでも立ちはだかるのが「時間」という事態である。

永井均の「独今論」や入不二基義「時間論」に興味をもつのは当然のことなのだろう。この2名もウィトゲンシュタイン哲学に「支配」された者であるのだから。

■参考リンク
第八百三十三夜【0833】03年08月07日
続:同一性・変化・時間
341旅 『ウィトゲンシュタイン入門』 永井均
342旅 『論理哲学論考』 ウィトゲンシュタイン






■tabi後記
Twitterに没頭した数カ月であったが、そろそろBlogに戻ってこようと思う。そして、次は「アナログ」へ向かっていこうと思う。
posted by アントレ at 23:47| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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