2010年02月21日

tabi0338 今福龍太「身体としての書物」

メディアとしての身体、書物としての身体
「書物というイデア」という言葉で、われわれは事物と精神性の統合体としての本というものを想像してみたい。それこそ、書物の本質的な存在様態にちがいない、という直観があるからです。「身体としての書物」というテーマは、「書物というイデア」というテーマと表裏一体のものだと言っておきましょう。P20
今福龍太「身体としての書物」(東京外国語大学出版会 2009)


今福はイデアとは形而上学的な観念や理念ではなく事物と精神性が等号で結ばれるような何かを指す用語であると提示する。その上で「書物」の「BODY」(本質/身体)を探求していく。

持続の書物という言い方で、川を下り、川の流れに全身を浸すようにして『水滸伝』やエドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』、E・R・クルティウスの『ヨーロッパ文学とラテン中世』といった大部の古典を読むことの根拠を問いかけている。グリッサンは、我々はそこでは霊媒状態にあるのだと思う、と言っています。
(中略)
そして、我々がそこに求めるのは、なによりもまず、今日我々に必要な全体性(トタリテ)の先駆的徴候である。我々はそこに不変数をマークし、どうしてこれらのテクストがそれを予兆したのかを知りたいと思う、とあります。「不変数をマークする」とは「不変数を探知するメディア(媒介)にみずからなる」ということでしょう。さらに、それは自分自身の言葉の占いと呼ぶ行為だ、つまり自分自身の言葉の前兆を読む行為だ、ということ。持続の書物を読むことの意味をグリッサンはそのように考えるわけです。P303
今福龍太「身体としての書物」(東京外国語大学出版会 2009)


私が解釈したことは。今福の仕事が辿り着いたのは「不変数を探知するメディア(媒介)にみずからなる」ための予行訓練が「書」で行われていたこと!を発見した営みであったいうことである。この点において、素晴らしいさを感じる。

■参考リンク
DESIGN IT! w/LOVE 身体としての書物/今福龍太



■tabi後記
BlogまでいかなかったものはTwitter書評をしています。

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竹沢尚一郎「社会とは何か―システムからプロセスへ」タイトル負けしている。しかし、社会の発明/社会の発見/社会学の発展を網羅し、「世界システムの中で相互規定しあう存在が、自律的に内的に発展している構造とみなされるようになったのは何故か?」という問いへ移行する様は面白い。

関根 康正 (編集) 「<都市的なるもの>の現在」:社会の<中心>に位置する都市と<境界>に位置する都市。過ごす場所としての都市と生きられる場所としての地域。

シリングスバーグ 「グーテンベルクからグーグルへ―文学テキストのデジタル化と編集文献学」主訳者の明星聖子(カフカ研究者)の解説が面白い。彼女にとっては、嬉しくも悲しい予言の書となった。これからの文学研究は、デジタルの「本」に基づかざるをえない。という意味において。外国文学研究者は文学作品の理解が主目的であって学術版編集行為という「文化のエンジニアリング」には関心がない。その無関心さが編集文献学の空洞化に寄与したと言う。明星は解説においてすら「この仕事を好きでやったのではない」と語る。では、何故が彼女を駆り立てたのだろうか。

田坂広志「企画力」人間と組織を動かす力。立案ではなく実現を志向とする営みであり、一人歩きする紙(推理小説)を創ることの気概を説く。具体的には、掴みの起動、ビジョンの追い風、戦略/戦術/行動計画による構造を要件とする。

アレクサンダー・ゲルマン「ポストグローバル」私たちはこれから、『遅くなっていくこと』に慣れていかなければならないのではないか。能、文楽、花火、武術、香道、染織、流鏑馬、日本酒造り……と好奇心に赴くままの体験報告。
posted by アントレ at 18:37| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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