2010年03月01日

tabi0342 南直哉「『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか」

而今(しきん)の運動様式を経歴(きょうりゃく)と言う

而今はSikinという。Jikonでもなく、Nikonでもなかった。前後も古今も過去も未来もない。ゼノンのパラドックスが想定する「時間」もない。入不二基義「時間は実在するか」は参照出来そうにない。いよいよ私の頭を1つもって、思考を強いられることになってきた。本にすがり付く習慣がついてるわけではない。なので恐れも、不安もない。

本書における『正法眼蔵』読解のポイントをもう一度整理しておきたい。ポイントは四つである。

その一、つねに変わらず同一で、それ自体で存在するものとして定義されるもの、それは仏教では「我(アートマン)」と言われるが、他に「実体」と呼ぼうと「本質」と呼ぼうと、はたまた「神」「天」と呼ぼうと、こういうものの存在を一切認めない。

その二、あるものの存在は、そのもの以外のものとの関係から生成される。これが本書における「縁起」の定義である。

その三、我々において「縁起」を具体的に実現するのは、行為である。関係するとは行為することであり、行為とは関係することなのだ。

その四、「縁起」であるはずの自体を、「実体」に錯覚させるのは、言語の機能である。と、同時に「自己」は言語内存在として構築される。

以上四点が、本書が提案する『正法眼蔵』を通読する場合の基本原則である。P78
南直哉「『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか」 (講談社 2008)


しかし、この心の揺れはなんだろうか。もう一切依頼すべきことがないという感覚。それは自らをもって依頼を生み出さざるをえないという創造意欲の裏返しだろうか。而今(しきん)で生きるとは何だろうか?それは生きられるのか?生きているといえるのか?言語機能からは脱落して、非言語機能に依頼するのも手出し、言語機能が構成されていく流れに依頼をしていくのも手だと思いつつある。

■参考リンク
tabi0126 南直哉「日常生活のなかの禅―修行のすすめ」
tabi0314 岩田慶治「道元との対話」
tabi0315 中村元「龍樹」



■tabi後記
3月に入りました。

>>

今福龍太「ここではない場所 イマージュの回廊へ」一つの都市の体験の背後には、つねにかならず別の都市の経験や記憶の痕跡が付着し、ときにはその記憶の方が、現実の都市の表層の蚕食して生き生きと現れだす。「都市」を経験するとは、畢竟、そうした重奏する記憶の召喚と、連鎖的に現れる無数の異なった都市的イマージュの喚起の行為にほかならない。P2
posted by アントレ at 10:48| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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