2010年02月22日

tabi0339 小坂井敏晶「責任という虚構」

規範という錬金術
責任という虚構。大切なのは根拠の欠如を暴くことではなく、無根拠の世界に意味が出現する不思議を解明することだ。どうせ社会秩序は虚構に支えられざるをえないから、より良い虚構を作るよう努力すべきだという意見もある。しかしそんなに簡単に世界の虚構性を認めてよいのか。逆説的に聞こえるかもしれないが、根拠に一番こだわっているのは私の方なのだ。道徳や真理に根拠はない。しかしそれにもかかわらず、揺るぎない根拠が存在するように感知されなければ人間生活はありえない。虚構としての根拠が生成されるとともに、その恣意性・虚構性が隠蔽される。人間が作り出した規則にすぎないのに、その経緯が人間自身に隠される。物理的法則のように客観的に根拠づけられる存在として法や道徳が人間の目に映るのは何故か。これが本書の自らに課した問いだった。P257
小坂井敏晶「責任という虚構」(東京大学出版会 2008)


我々は結局、外来要素の沈殿物だ(と言い切れるときもある)。私の生まれながらの形質や幼児体験が私の性格を作り行動を規定するなら、私の行為の原因は私自身に留まらず外部にすり抜ける。犯罪を犯しても、そのような遺伝形質を伝え、そのような教育をした両親が責められるべきではないか。どうして私に責任が発生するのか。(と問いたくなるときがくる。)

アイヒマンリベットも知ってはいました。人間の自由意志に関連する書籍も幾多と読んできましたが、それらの書籍をベースにした上で世の中と「必死」に接合しながら思考する著者に感銘した次第です。

■参考リンク
障害・介助・ベーシックインカム
翻訳・戦略ブログ
arsvi . com



■tabi後記
BlogまでいかなかったものはTwitter書評をしています。

ヴェルナー「べーシック・インカム 基本所得のある社会へ」必要最低限の所得をすべての国民に支給し、人はそれぞれが意義あると観る仕事をする、という構想。労働と所得の切り離しが消費と創造の世界を生み、労働/雇用創出至上主義からの脱却が「不安のない社会」を形成すると説く。

ヴェルナー「すべての人にベーシック・インカムを―基本的人権としての所得保障について」前著は対談本で、本書が単著となっている。財源(付加価値税)や移行過程における社会福祉の扱いなどについて精緻に論をすすめている。

山住勝広/エンゲストローム 「ノットワーキング 結び合う人間活動の創造へ」活動システムにおけるコラボレーションの創発を促すために「結び目づくり(knotworking)」と名づけることが出来る、新たな活動の形態やパターンに焦点をあてた。http://bit.ly/cISNCW

フルフォード「世界と日本の絶対支配者ルシフェリアン」ベンさんの本を立ち読む。彼はキャラ立ちしてるよね。amazonをみて、09年も精力的に活動されていることを確認。これからもスコトーマ外しに尽力してもらいたい。http://bit.ly/avLjnl

高城剛「オーガニック革命」何を食べるかは単なる趣向やライフスタイルを超えた、アイデンティティの根幹に関わる問題であるとし、自分の健康の先に、自然環境の健康があることを説く。ファーマーズマーケットと出る度に @yusuke51 かあと思いながら読んでました。侵入された!
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2010年02月20日

tabi0337 ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」

他者とは「異なる論理空間」の別称にほかならぬか
5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
5.61 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
それゆえわれわれは、論理の限界にいて、「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。
なるほど、一見すると、「あれは存在しない」と言うことでいくつかの可能性が排除されるようにも思われる。しかし、このような可能性の排除は世界の事実ではありえない。もし事実だとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならない。そのとき論理は世界の限界を外側からも眺めうることになる。
思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。
5.62 この見解が、独我論はどの程度正しいのかという問いに答える鍵となる。
すなわち独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語れられえず、示されているのである。
世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。
5.621 世界と生とはひとつである。
5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス)P115-6
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」(岩波書店 2003)


論理空間とは、現実世界をそこに含むような、可能な状況の総体である。『青本』にはウィトゲンシュタイン哲学の根本洞察が垣間見える。

「他人は『私が本当に言わんとすること』を理解できてはならない、という点が本質的なのである」

また、『論考』以前に書かれた『草稿』において独我論はすでに芽を出している。

歴史が私にどんな関係があろう。私の世界こそが、最初にして唯一の世界なのだ。私は、私が世界をどのように見たか、を報告したい。
世界の中で世界について他人が私に語ったことは、私の世界経験のとるにたらない付随的な一部にすぎない。
私が世界を判定し、ものごとを測定しなければならない。
哲学的自我は人間ではない。人間の体でも、心理的諸性質をそなえた人間の心でもない。それは、形而上学的主体であり、世界の(一部なのではなく)限界なのである。人間の体
はしかし、とりわけ私の体は、世界の他の部分、つまり動物、植物、岩石、等とともに、世界の一部である。


本書の訳者でもある野矢は「『論理哲学論考』を読む」において、現象主義的独我論と存在論的独我論という言葉を用いている。

そして、存在論的独我論について一歩足を踏み込むのがこの問いである。

「いま現在の論理空間において構成された動作主体としての私の通時的同一性と、論理空間の変化に応じて寸断される存在論的経験の主体たる私との関係」

記憶。

その1単語において、自我の同一性を担保できると思える方も少ないだろう。

ここでも立ちはだかるのが「時間」という事態である。

永井均の「独今論」や入不二基義「時間論」に興味をもつのは当然のことなのだろう。この2名もウィトゲンシュタイン哲学に「支配」された者であるのだから。

■参考リンク
第八百三十三夜【0833】03年08月07日
続:同一性・変化・時間
341旅 『ウィトゲンシュタイン入門』 永井均
342旅 『論理哲学論考』 ウィトゲンシュタイン






■tabi後記
Twitterに没頭した数カ月であったが、そろそろBlogに戻ってこようと思う。そして、次は「アナログ」へ向かっていこうと思う。
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2009年11月16日

tabi0314 岩田慶治「道元との対話」

自分の中の秘密を点検していくこと
自分自身にとっては、人類学のフィールドワークと『正法眼蔵』の探究とは、やはり、別のことではなかった。私にとっては、異民族と異文化のなかで経験をつみ、それらについてしらべることが、もう一冊の『正法眼蔵』を読むことであった。フィールドワークがそのままで私の座禅であった。(中略)私はフィールドワークにしたがいながら、異国の山河大地、草木虫魚が、そして人間生活の諸相が語りかけてくる問題を、自分で納得のいくように解こうとしただけである。P7
岩田慶治「道元との対話」(講談社 2000)


23日間の東南アジア生活の最初3日間をこの本で過ごしていました。

手足などの「かたち」にこだわらずに、闇となっていく自分を座禅と人類学の視点から内省した本となっている。

つい最近まで、調査地でのベットの具合など考えたこともなかった。しかし、心身のやすらぎ、やすらぎのなかでの発想ということの問題性に気づいた途端に、さまざまな民族のなかでの経験が、一挙によみがえってきたのである。昼の、右往左往している自分ではなくて、夜の、しずけさのなかの自分。あれも知りたい、これも知りたいと知の探究にまぎれこんでいる自分ではなくて、自分自身の内部に自己解体をとげて自分というものの輪郭を失おうとしている自分、その自分の方がほんとうの自分に近いのではなかろうか。そこからの発想の方が、机を前にして、ねじり鉢巻で、無理矢理に考えだされた理屈よりも真実に近いのではなかろうか。そう気づいたのである。P24
岩田慶治「道元との対話」(講談社 2000)


このような発狂と興奮の最中に知が萌芽してくるのだなあと我事ながらに読み込むことが出来た。Blogにしたためるほどに言葉が浮かんでこないでいる。

私が本書から得られた視点は、私の秘密を点検していく作業には幾多の道筋があること。その道筋に真実になること。そして「而今の山水は、古仏の道現成なり」という言葉において生活するということ。この3点であると思う。

■参考リンク
ぼくらは少年演出家



■tabi後記
地理的に移動することが「他人の関心(一番インパクトあったことは?,カルチャーショックは?といった質問群!)」を集めるのはなぜなのか?そして、日常から、そのような関心を集めていないのは何故なのかということだろう。
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2009年09月06日

tabi0281 ヘッセ「シッダールタ」

汎知の鼓動を確かにするとき
「おん身は賢い、沙門よ」と世尊はいった。おん身は賢く語ることを心得ている、友よ。あまりに大きいに賢明さを戒めよ!」仏陀は歩み去った。そのまなざしと半面の微笑は、永久にシッダールタの記憶に刻みつけられた。P39
ヘッセ「シッダールタ」(新潮社 1971)


読自者の記した書物である。それは「ヘッセの読書術」を実践していった者の記録である。

自分を読もうと欲する者は、あらかじめ予想した意味のために、記号と文字を軽蔑する。そして、彼らにとって悩ましきは「時間」であった。
よく聞きなさい、友よ、よく聞きなさい!私もおん身も罪びとである。現に罪びとである。だが、この罪びととはいつかはまた梵になるだろう。いつかは涅槃に達するだろう。仏陀になるだろう。さてこの『いつか』というのが迷いであり、たとえにすぎない!罪びとは仏性への途上にあるのではない。発展の中にあるのではない。われわれの考えでは事物をそう考えるよりほかしかたがないとはいえ。ーいや、罪びとの中に、おん身の中に、一切衆生の中に、成りつつある、可能なる、隠れた仏陀をあがめなければならない。ゴーヴィンだよ、世界は不完全ではない。完全さへゆるやかな道をたどっているのでもない。いや、世界は瞬間瞬間に完全なのだ。P142
ヘッセ「シッダールタ」(新潮社 1971)

一回性への賛美に寄り添ってしまう、一瞬という忘却性。それは記憶となり、文字となり、言葉となり、己を周囲を縛っていく。それが記憶というものに付帯する拘束性と影響力であろう。覚者が悩むべきは時間であった。その悩みから解脱することこそが、読自の旅なのである。
それは知っている、ゴーヴィンよ。気をつけるがよい。その点でわれわれは意見のやぶの中に、ことばのための争いの中に巻きこまれている。愛についての私のことばがゴータマのことばと矛盾していること、一見矛盾していることを、私は否定できない。だからこそ私はことばをひどく疑うのだ。この矛盾は錯覚であることを、私は知っているからだ。私はゴータマと一致していることを知っている。ゴータマがどうして愛を知らないことがあろう!いっさいの人間存在をその無常において、虚無において認識しながら、しかも人間をあつく愛し、辛苦にみちたながい生涯をひたすら、人間を助け、教えることにささげたゴータマが、どうして愛を知らないことがあろう!P146
ヘッセ「シッダールタ」(新潮社 1971)


シッダールタとカマーラとの対話では、静かな避難所を自身の内部にもちあわせてることが、賢き者の条件とされているが、本書の最後には、その避難所すら消えていることに気がつくだあろう。それは「全て」が避難所となされることと、避難をする必要もない心性をもつことの同時性の確保といえるだろう。

■参考リンク
50歳までに読んでおいてよかった本?
230旅 『シッダールタ』 ヘッセ
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
有機的なつながりとは何か?接触時間、頻度、対話の質、いずれでもない気がする。一度たりとも会ったことがなくとも、互いが何をしているか知らなくても、感じてしまう情報はあろうだろうか。我々は、何につながれていないのか、そして、何がつながれる必要があるのだろうか。
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2009年08月28日

tabi0270 くらたまなぶ「リクルート「創刊男」大ヒット発想術」

ちゃんと生活しながら、喜ぶ。驚く。怒る。不思議がる。
マーケティングは「人の気持ちを知る」と訳した。「いい気持ち」ももちろん参考にするので、この訳はこれでOK。しかし、マーケティングの究極の目標は、「人の嫌な気持ちを知ること」だと思っている。今とりかかっているこの市場で、このテーマで、この対象者が、
「もっともアタマにきていることは何か」
「うんざりしていることは何か」
「あきらめてしまっていることは何か」・・・。
それさえ見つければ、それを言葉にすることさえできれば、金脈を掘り当てたようなものだ。まだ商品に手を触れていなくても、サービス内容を検討していなくても、である。P103
くらたまなぶ「リクルート「創刊男」大ヒット発想術」(日本経済新聞社 2006)

ビジネス書の中で最も影響を受けている本かもしれない。手に取ったキッカケは、御立尚資「戦略「脳」を鍛える」の参考文献だったためだ。

私がこの本から学んできた事は「予断を排すること」と「無私になること」である。ビジネスを通じて、こういった学びが出来そうだと知ったのは良かった。その時の私は、目が爛々としていたことだろう。なぜなら「民俗学」や「人類学」や「哲学」に関心を持っていた人間が「ビジネス人類学」という可能性を発見したのだから。
相手がふと口ごもる、言いよどむ、視線をそらす、話題を変える・・・。それを自分の目や耳で確かめて、自分の口でキャッチボールしてみないと、なかなか「不」の核心をつかめない。何でも一人でやるっていう意味じゃない。プロジェクトが何人いても、それぞれが他人まかせにしないという意味である。当事者意識を持って、それぞれがみずから「不」をつかみとる。偉いか偉くないかも、知識も経験も性別も年齢も関係ない。個々人の手ごたえが重要だ。P104

まるで心理カウンセラーやFBI捜査官のようである。ここで示されている、くらた氏の人間観察の根底には「属性の誘惑に負けちゃダメだ。」という思いがある。そんなワナにはまったら「夢」を見つけることなんかできないのだ。

例えば、「関西人ちゅうのは簡単にカネ出さへんで〜」「30代は買わないでしょう」といった「属性の誘惑」である。まとめる集団がデカくなるほどまったくのウソではなくなってしまう。つまり、何を言ったって当てはまるのだ。だからこそ、なおさら始末が悪くなってくる。

属性を議論していれば仕事をした気になってしまう。しかしその実、仕事は止まっている。ただプロフィールを評論しあっているだけだから。属性で商売ができるほど、市場は甘くない。その事を痛感できる本である。

予断を排し、無私へと至る
いくら体験があっても、知識が豊富でも、年齢層がぴたりと一致しても、自分一人で何万人、何十万人のユーザーを代表することはできない。だからこそのヒアリングである。
「嫌いな人」「見知らぬ人」の声も聞かなくてはならないのである。変に自信があるとヒアリングがおろそかになる。オレ自身で十分だ。ま、それでも反省しながら何とか聞きまくった。「声」がたくさん集まり、だんだん核心に近づいてくる。似たような「気持ち」には容易に感情移入できるのに、自分と違うタイプの「不」には腹が立つ。共鳴できない。会議の席上で反論してしまったりする。
「家庭教師のバイトやる奴なんて、お坊ちゃん、お嬢ちゃんだけだろ、どうせ」いや面目ない。きわめて柄の悪い「自分マーケティング」の男だったのである。そんな学習のおかげで、「自分派」の人間がそばにきたら、今はこう言えるようになった。「君の意見はわかった。ところで君って何割のユーザーを代表してるんだい?」P110


■参考リンク
824旅 くらたまなぶ『MBAコースでは教えない「創刊男」の仕事術』



■tabi後記
Mimic Comic Workshopに参加してきた。自分たちの体を動かして、マンガのコマを作成し、10Pのマンガを作成するというものだ。3時間ほどかけて出来上がった作品は、それなりに面白いものとなった。なぜマンガは面白いのか?という問いは、これからの時代において考えなければいけないことの1つであろう。
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tabi0267 高山宏「近代文化入門」

「ちがう」という時代に「同じ」をさぐる
何となくいろいろとつながってひとまりと意識される世界が、主に(1)戦乱その他の大規模なカタストロフィーを通し、かつ(2)世界地図の拡大、市場経済の拡大といった急速に拡大する世界を前に一人一人の個人はかえって個の孤立感を深めるといった理由から、断裂された世界というふうに感じられてしまう。その時ばらばらな世界を前に、ばらばらであることを嘆く一方で、ばらばらを虚構の全体の中にと「彌縫」しようとする知性のタイプがあるはずだ。それがマニエリスムで、十六世紀の初めに現れて一世紀続いたとされる。P62
高山宏「近代文化入門」(講談社 2007)

王立協会成立から300年(1660年-1960年)が、高山氏における近代300年である。その300年は、脱魔術化-魔術化の系譜であり、1660年以前-1960年以後において魔術(マニエリスム)が公然と扱われていることを示すための区切りである。

1957年に出版された「迷宮としての世界」ホッケは、次の2点を主眼にしてマニエリスム論を行なった。

1 つなげることで人を驚かせる技術論
2 つなげる方法として魔術的なものをいとわない

それは「分け」ないでワカルことを目指していたのだ。「わけず」に「つなぐ」ことによる理解である。駄洒落がつなぐことの低いレヴェルであるとすれば、魔術思考、魔術哲学が一番高いレヴェルであるとしたのである。このような研究を始動していったのが、1960年代に成熟していくワルブルク研究所(ウォーバーグ研究所)であった。ここからホッケイエイツスタフォードが生み出された。

マニエリスムを振返る
この本なりのマニエリスムの定義をもう一遍整理してみると、それは三つの条件からなる文化相だった。

(1)認識論的な哲学
(2)光学を中心とする自然科学
(3)幻想文学といわれる文学

この三つ組がたえず繰り返されている。引き金になるのはいつも、人間の置かれた不安な状況である。ソリッドなものが成り立たなくなり、固定されたものや足を置ける地盤がなくなったとき、こういったタイプの文化が登場する。
(中略)
「ファンタジー」とは元々はギリシャ語の「ポス」という言葉で、正式には"Phos"と綴る。「光」という意味であった。ギリシャ人が考えていた幻想とは、つまり光あっての幻想である。であるなら、非常に飛躍した比喩を使うと、「光の世紀」たる十八世紀は壮大なファンタジーの世界だったことになる。

「見える」こと即ち「わかる」こと。見えないものは断面にしてでも切り割いてでも何でもいいから、とにかく「見える」ものにする。これはこれで合理という名の狂ったファンタジアなのだ。幻想とは、光の対蹠地にあるものではなく、光そのものが何かの形で変質していくものである。ぼくは光のパラダイムとして近代を考えようとして、合理<対>幻想という批評的バイアスを棄てた。P293-294
高山宏「近代文化入門」(講談社 2007)

本書で紡がれる歴史
1525年 再洗礼派トマス・ミュンツァー処刑
1527年 サッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠事件
1532年「ガルガンチュアとパンタグリュエル」フランソワ・ラブレー
1534年 ミュールハウゼンの反乱
1564年 シェイクスピア生誕
1570年 ユークリッド「原論」英訳 ジョン・ディー序文
1592年 ヨハン・コメニウスウス生誕(ボヘミア 薔薇十字団
1601年 「ハムレット」,リアルの誕生(OED)
1603年 エリザベス一世没
1608年 ジョン・ディー没
1616年 シェイクスピア没,セルバンテス没
1617年 「両宇宙誌」ロバート・フラッド(薔薇十字団)
1618年 三十年戦争始まる
1631年 ジョン・ダン没(英文学 マニエリスム)
1632年 ファクトの誕生(OED)
1637年「屈折光学」デカルト
1642年 ニュートン生誕
1645年「アリストテレスの望遠鏡」テサウロ(アナモルフォーズ:多は一の中にある)
1646年 劇場封鎖令,ライプニッツ生誕
1648年 三十年戦争終わる
1649年 ピューリタン革命
1651年「リヴァイアサン」ホッブズ
1654年 ヨハン・コメニウス ロンドンへ亡命
1658年 レキシコグラファー(辞書編集者)の誕生
1660年 王立協会(自然知を促進するための王立協会),「世界図絵(オルビス)」
1667年「王立協会史」(初代総裁 トマス・プラット),リプリゼンテーション(表象契約)の誕生。(1966年 フーコー「言葉と物」)
1667年「失楽園」 ミルトン
1670年 ヨハン・コメニウス没
1671年「光と陰の大いなる術」キルヒャー
1678年「天路歴程」 バンヤン
1704年「光学」ニュートン
1707年 リンネ生誕
1709年 コンポジション(構図),ピクチャレスクの誕生
1716年 ライプニッツ没
1719年「ロビンソン・クルーソー」,デフォー(知の商人)
1720年 南海泡沫事件
1727年「四季」ジェイムズ・ワトソン,ニュートン文学
1728年「サイクロペディア」チェンバーズ
1757年「美学」バウムガルデン
1753年 大英博物館条例(ミュージアムが始まり、ヴンダーカンマー(驚くべきものを集めた部屋)の終焉)「植物の種」リンネ,「美の分析」ホガース
1762年「崇高と美の観念の起源」エドマンド・バーク
1775年「観相学断片」ラファーター
1852年「ロジェのシソーラス」(ロングマン)ピータ・マーク・ロジェ(王立協会員)

■参考リンク
近代文化史入門 超英文学講義/高山宏



■tabi後記
昨日から半藤一利「昭和史」を読み始めていたところ、ライフネット 出口治明さんが紹介されていた。
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2009年08月24日

tabi0257 ケン・ウィルバー「無境界―自己成長のセラピー論」

することなく、あるように。
誰もが正当なものとして受け入れるもっともありふれた境界線は、有機体としてのからだ全体を取り囲む皮膚の境界だろう。これは普遍的に受け入れられている自己/非自己の境界線のようである。この皮膚の境界の内側にあるものは、ある意味ですべて「わたし」であり、その境界の外側にあるものはそのすべてが「わたしではない」。(中略)だが、「あなたは自分がからだだと感じますか?それとも自分がからだをもっていると感じますか?」と聞いたとすると、ほとんどの人が車や家やほかの物と同様に、自分はからだをもっていると感じる。P18-19
ケン・ウィルバー「無境界―自己成長のセラピー論」(平河出版社 1986)


こういった状況にの下では、からだは「わたし」というより「わたしのもの」として存在する。「わたしのもの」とは定義上、自己/非自己の境界の外側にあるものである。そして人は、自らの有機体全体の一局面に、より基本的で親密なアイデンティティを感じる。それは、心、魂、自我、人格などとして知られている「小さな自己」なのである。

ウィルバーは、往々にして人は、原初の境界を探究し、破壊しようとすると語る。それは、臭いのモトを断つ!という姿勢のあらわれだろうか。だが、原初の境界は存在しないのだ。

なぜなら「自分」と呼ばれる内なる感覚と、「世界」と呼ばれる外なる感覚は、同じ一つの感覚の二つの名前だからだ。これは、そう感じるべきというものではなく、そうとしか感じられないことだと、ウィルバーは語る。なぜ、そう感じざるを得ないのだろうか?

統一意識は真の自己には境界がないという認識であり、鏡がその対象を抱擁するようにあらゆるコスモスを抱擁する。前章で見たように、統一意識の最大の障害は原初の境界である。原初の境界は外の世界の体験者としての内側の「小さな自己」という空想を生み、われわれはまちがってその「小さな自己」にのみアイデンティティをもってしまう。だが、クリシュナムルティがしばしば指摘しているように、個別の自己、「内なる小さな人間」は、すべて記憶によって構成されている。つまり、いま、このページを読んでいるあなたのなかの内なる観察者は、過去の記憶の集合体にすぎないのだ。P125
ケン・ウィルバー「無境界―自己成長のセラピー論」(平河出版社 1986)


このあたりのウィルバーの論運びは、カウンセリング体験を漂わせる。もちろん、ウィルバーやクリシュナムルティは、過去を記憶していることが悪いとはしない。彼らが問題とするのは、そういった記憶がいまの瞬間の「外」に別個に存在しているかのように、すなわちそれらが外の現実の過去の知識を含んでいるかのようにとらえ、それらの記憶との同一化してしまうという事実である。

その事実は、記憶=自己もまた同様に、現在の体験の外にあるように思わせてしまう。そうなると現在の体験である自己が、現在の体験をするようになる。これが「原初の境界」なのである。

■参考リンク
74旅 『無境界』ケン・ウィルバー



■tabi後記
この2日間で松岡正剛、久松真一、岩田寛、鈴木大拙、ドーキンスを読んできたが、今ここでウィルバーによって繋がれた。内震えるような体験が音読の響きと共に去来してきた。これから友人を連れ立って、藤沢烈さんにお会いしにいく。今日は、僕にとって素晴らしい日になりそうだ。
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2009年08月13日

tabi0239 ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」

自由の極北としての遊び
カイヨワは、1競争と2運の組み合わせと3模擬と4目眩の組み合わせのみを根源的、あるいは本質的とし、しかも3と4の組み合わせから1と2の組み合わせに移行するところに、近代社会への決定的な道程を読み取っているのである。彼はじつに慎重な表現をえらびながらも、目眩の支配する混沌の領域(3,4)から、競争の支配する計算の領域(1,2)への社会と文化の移行を、人類の歩みとして当然、かつ支持しうるものとしている。P355
ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」(講談社 1973)


本書の訳者解説には、ホイジンガ,カイヨワ,訳者(多田道太郎)の思考が結晶化されている。カイヨワは2つの「遊」をみたのではないだろうか。

1つは、目眩の支配する混沌の領域(聖)から、競争の支配する計算の領域(俗)への移行に「遊」であり、もう1つは競争の支配する計算の領域(俗)から、目眩の支配する混沌の領域(聖)への移行(逆行くにみた「遊」である。

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カイヨワは、目眩の支配する混沌の領域が「聖なるもの」であり、競争の支配する計算の領域が「俗なるもの」でする。そして、それを往還するのが「遊び」であるとするのだ。混沌から計算へというのは、ミクロコスモスからマクロコスモスの統合過程に似ている。

ホイジンガは、客観科学主義時代への移行に伴って喪失してしまった「聖なるもの」を「遊び」の中に残存していることを突き止めたのだ。そして、カイヨワは、ホイジンガの視点を正当に引き継ぎながらも、その概念を発展させていく。

計算と混沌という軸だけでなく、意志と脱意志の往還があることを突き止めたのだ。この4方向の移動に自由論(遊び)を絡めて壮大に論じていく。

一般的に見方では、聖と遊は、生活を軸として対照的な位置を占めている。遊びは、当然生活を恐れる。生活は、一撃にして遊びを打ち砕き、消滅させるからである。反対に、生活は聖なるものの持つ至高の力に対して不安なまま依存している。

聖なるものからの「脱却」として俗があり、俗生活からの「脱却」として遊びがある。そのように考えられている。そして自由とは、歴史的にみて、何からの束縛からの自由であった。聖から俗へ、俗から遊へ。このようなヒエラルキー構造をカイヨワは指摘しながらも「遊」という概念のもつ「浮遊性」にも注目した。その浮遊性というのは、最初に指摘した往還としての「遊」であろう。

遊びの定義と分類
1.自由な活動
すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
2.隔離された活動
すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
3.未確定の活動
すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
4.非生産的活動
すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
5.規則(ルール)を持った活動
すなわち、約束事に従う活動。この約束ごとは通常法規をを停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが適用する。
6.虚構の活動
すなわち、日常生活対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。P39
ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」(講談社 1973)


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■参考リンク
第八百九十九夜【0899】
第七百七十二夜【0772】
アクスラインの遊戯療法の8つの基本原則とロジェ・カイヨワの『遊びと人間』に見る“遊び”の本質
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
【遊楽せし魂を】 内田洋平

真に美を見出すは、退屈也

善に美を見出すは、窮屈也

美に美を見出すは、偏屈也

真善美

この3対関係を考察せすもの、いづこにもおる

いづこの中で光るには

真善美より遊離すること


遊離するとはいかなるか

つまりは疑悪醜を察し

行いしめること


ひねりのさきに真善美をあらわし

そこで落ちつく

振り切るのは控えること

ひねりの構造にすら

飽きをもてめてしまう

その心的性向がある

それを弁えること


弁えるとはいかなるか

弁えの連続性のなかに佇むことである

遊楽せし魂を習熟すること
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2009年07月08日

tabi0219 ゲーテ/柴田翔 訳「ファウスト 上」

全ての果てにある全て!
天主
よいだろう。お前にまかそう!
彼の精神をその根源から引き離し
もしお前の手におえるものなら
それを好きなように引きずり下ろしもするがよい
そして最後には恥じ入って白状するのだ
心ばえ秀でた人間は 暗くおぼろなる衝動のうちにあっても
自分の踏むべき道を忘れることは決してないものだと。P30
ゲーテ/柴田翔 訳「ファウスト 上」(講談社 2003)


小説/戯曲を読むということは主張をもとぬことであろうと思う。バフチンポリフォニー理論にもとづいて考えると、「ファウスト」という作品に登場するファウスト・メフィスト・天主・マルガレーテ(グレートヒェン)・学生などの言葉を拾い上げることは控えることになる。

ある人間の発言から何かを論じるのではなく、関係性(場)に起ち現れていること「全て」がファウストという作品なのである。この視点から論じると、ファウストはメタポリフォニーな作品だといえそうだ。なぜならファウストが望むものは『全て』であるからだ。そして、メフィストも<全て>、天主も【全て】を希求している。ゲーテは全ての連なりによって「全て性」を論じているように思えるのだ。

■参考リンク
第九百七十夜【0970】
475旅 ゲーテ『ファウスト 第一部』
Wikipedia:ファウスト 第一部
精神的陽光
グノー 「ファウスト」 


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■tabi後記
古典を読むと、眠りし魔物を呼び起こすことになる。非常に危険な営みだ。スポーツやグラディエーターの世界を体感するようだ。
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2009年07月07日

tabi0217 玉城康四郎「仏教の根底にあるもの」

見性から性見へ
「形なき純粋生命が、全人格的思惟を営みつつある主体者に顕になるとき、初めて人間自体の根本転換、すなわち目覚めが実現する」このなかで、主体者はなにか。さらに具体的には何を指すのか。それがブッタのいう業熟体であり、いわゆる人格的身体である。唯識思想のアーラヤ識もこれにつながるが、単に識というのみでは不徹底である。識も何もかも呑みこんでいる身体がここに問われている。P306

存在の統括体が、業熟体であり、人格的身体である。それは、自己意識も、無意識も一切が融けこんでいる、自己存在の根源体であり、自己の自己なるものである。同時に、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものとの交わりにおいてこそ現われているものなるがゆえに、宇宙共同体の結節点である。私性中の私性と、公性中の公性との、二つの同時的極点である。P307
玉城康四郎「仏教の根底にあるもの」(講談社 1986)


禅では全人格的な推理および体得を「見性」と呼ばれている。性を見るとは、確かに体得することであるのだが、そのことが問題であると玉城氏は言うのだ。

なぜなら、見性ではどうしても見る主体が残ってしまうからだと。

実際に残って、元の木阿弥の日常の自己に戻ってしまう。そこで玉城氏は、瞬発的/一時的な神秘体験ではなく、持続的なこととして見性を取り扱っていくことにする。

すると、仏教の根底が「性見」にあるかもしれないと思いはじめたのだ。それから十年くらい経った時に「性が見われる」ということを原子経典の文献で抑えたのである。それが「ダンマ」であり、「如来」であり、「アーラヤ識(能蔵、所蔵、執蔵)」と「マナ識」の関係である。

このような根底の視点から法然・親鸞・空海・道元を同質的に論じていったのが本書である。今までは、法然・親鸞は浄土教として連続しているが、空海(真言)や道元(禅)は、浄土教とは異質的なものと考えられてきた。しかし根底から見れば、まったく同質的であるのだ。

■参考リンク
仏教の根底にあるもの NHK教育テレビ「こころの時代」
覚醒・至高体験の事例集 玉城康四郎氏


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■tabi後記
実際のところは、全く消化しきれていない。久々にスゴい学者に出会った気がします。
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2009年06月03日

tabi0182 入不二基義「時間は実在するか」

「なぜ過去があるのか?」

この問いに、さしたる目新しさはないだろう。ここのところ生々しさと嘘らしさを調停するモノに、関心がむおていたので、本書で取り上げられる「見かけの現在」という言葉に良き感触をおぼえた。

校舎が聳える新御茶ノ水駅までに色々な者と車を共にしなくてはならない。私は1駅を過ぎるごとに「この人は誰なのか?」「なぜ、私の目の前に存在しているのだろう?」という驚きを問いはじめてしまう。そして、その驚きの種が「いたるところにあることに」視点がずれると、一気に飽きが覆ってくるのだ。この瞬間瞬間で僕は持続的存在としているらしい、そのことに飽きもある。

持続ゼロで、時間の一定部分ではない「瞬間」においては、どんなものも「動く」ことができないだけでなく、「静止する」こともできないからである。動くことが可能なところでのみ、その否定形としての静止もまた意味を持つ。一定の幅を持った時間の持続においてのみ、その間動くことが可能であり、また、その間静止することも可能なのである。しかし、「瞬間」は、短い時間(時間の一部分)ではなく、時間の限界(リミット)である。瞬間という限界においては、矢は(動くのでも静止するのでもなく)ただ「ある」としか言えない。その「ある」は、「運動」と「静止」の対比以前の「ある」としか言えない。P19-20
入不二基義「時間は実在するか」(講談社 2002)


本書で批判的に検討されることになるマクダガートの時間論は、過去から未来へと動く「今」に視点を置いたA系列の時間と年表のように過去から未来までを一望に見下ろすB系列の時間とに時間を分けて、時間の本質はA系列にあるとする。しかし、A系列は矛盾をもつがゆえに、時間は実在しないという結語する。

B系列は、「順序+時間」という仕方で構成されている。つまり、無時間的な順序関係に、さらに時間がつけ加わることによって、B系列は成立している。その「時間」の部分を提供しているのが、A系列であった。そして、「(無時間的な)順序」の部分に対しては、C系列という呼称が与えられている。P102


B系列は、A系列が前提となり、A系列もまたB系列にもたれている。私は、この構造に対すると、三項をたてる策ではなく、ある言葉で、ある言葉を覆ったときに現れる様相から捉えたくなる。

その様相とは、二項の内に一方であるが、その作動内に対立項を含め、内包することである。「言葉」で「言葉の外」を生み出しつつも、「言葉の外」を<言葉>自らが回収し、さらに新たな<外>を生み出す。その反復が無情に繰り返されるだけだろうか。言葉の分節による網の目にすべてが取り込まれるという発想ではなく。

既知と思われている歴史、油断すると起源に誘惑される自体、それらを招くも、撥ね除けるも1才時に発達的に獲得したという「事実」。その時、分節は全体から局所へと堕落していく。言語論的転回でも何でもよろしい。ただ、この知見もまた分節化の賜物なのである。この不思議な構造に関心がわかずにはいられない。

先ほど、入不二氏の新著を拝見させて頂いたのが、読み手ではなく書き手として対峙せざるをえない文章であった。どうしてこのように書くことができるのだろうか。そのスタンスを引用させて頂きたい。

随想を書くということは、「寸止め愉楽と困難」を内包している。議論の森の奥深く分け入ることを控え、その寸前で立ち止まり、森の在処や入り口を指し示す。その指し示し方・立ち止まり方、その寸止めの形姿に、全神経を集中する。シンプルかつ豊穣に指し示し、美しく立ち止まれるかどうか・・・、それが問題である。寸止めの所作は、独特の困難を伴うけれども、エロティックな快楽をもたらしてくれる。(中略)しかし、このように逡巡していると、随想はいつまでも完成には至らないだろう。どんなに不完全に思われても、どこかで断ち切って終わらせなければならない。現実の中でのこの終わらせ方もまた、「寸止め」という所作なのだと思う。P226-228
入不二基義「足の裏に影はあるか?ないか?」(朝日出版社 2009)


■参考リンク
感じない男ブログ
現実に階梯はあるか? ないか? (1)





■tabi後記
更新過程であるという<弱さ>/直立不動という<強さ>。弱さという強さではなく、リンケラビリティーというニュアンスではないか。
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2009年05月27日

tabi0178 井筒俊彦「コーランを読む」

なぜこの本を読むのか?

今を逃したら読めそうにないというのが本音である。以前からコーランを読み解きたいという思いをもっていた。その思いに「コーラン」の訳者である井筒俊彦へ関心が高まりが作用したことが、イスラム教の聖典を読もうと思った理由である。


7行に360P

本書は、岩波書店が主催した全10回のセミナーを記録したものである。コーランを読む前に解説書を手に取った理由は、井筒さんであれば「どんな言語テクストに対して、どんな解釈学的操作を加えるか」ということを主眼にしながらコーランと対していると考えられたからだ。その視点をもったうえで「コーラン」に立ち向かってみたいと思うのである。

セミナーを記録したものとなっているためか非常に読みやすいものとなっている。しかし、その内容は恐ろしいほどに深い。

それは「コーラン」を「読む」とはどういうことなのか?という問いを徹底的に追求してくからである。その姿勢は114章ある「コーラン」の中でも1章7行だけを解説するところからも分かるだろう。この7行にコーランの全てが凝縮されている。その7行を360ページにもわたって解説していく。


コーランはいかなるテクストか?- 成り立ちと構成 -

コーラン(クルアーン)は、イスラーム教の信徒が声を出して読むべきものである。コーラン(クルアーン)は、読誦すべき聖典という意味をもっている。

コーランは始めから1冊の本の形になっていたわけではなく、切れ切れの短い文章が方々に散らばって保存されていた。その理由は、コーランに記録されている神のコトバ、すなわち啓示は約二十年間にわたって、少しずつ、断片的に啓示が下ってきたからだ。

二十年間に渡る啓示は、マホメットの付き人が羊皮紙の切れ端、動物の骨、石、岩、椰子の葉などに書きとめていた。また、文字に書かずに記憶の形で保存したものも相当あったそうです。このような啓示の断片を編纂したのが、第三代目の教皇(カリフ)オスマーンである。

つまり、私たちが「コーラン」という名で読んでいるものは、西暦七世紀の末に編纂された「オスマーン本」ということです。(メッカ期/メディナ期,編纂順序/啓示順序の逆転については「イスラーム文化」などに詳しい)


コーランをエクリチュールの次元からパロールの次元へ引き戻す

成り立ちと構成をおさえたうえで、井筒氏は「コーランをエクリチュールの次元からパロールの次元へ引き戻す作業」を行う。私のコトバにするなら、読書から読話への地平展開である。「コーラン」を「読む」とは1章7行を読むという事である。この7行に全てが凝縮されている。

開扉ーメッカ啓示、全七節ー
慈愛ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において・・・
一 讃えあれ、アッラー、万世の主、
二 慈愛ふかく慈愛あまねき御神
三 審きの日の主宰者。
四 汝をこそ我らはあがめまつる、汝にこそ救いを求めまつる。
五 願わくば我らを導いて正しき道を辿らしめ給え、
六 汝の御怒りを蒙る人々や、踏みまよう人々の道ではなく、
七 汝の嘉し給う人々の道を歩ましめ給え。


1行1行の解説は本書にゆずるとして、私が関心をもったことを記して行く。

1つめは名前を呼ぶということは霊的実体にふれるということであり、危険な行為であったということだ。その雰囲気は1行目にあらわれる。ユダヤ/キリスト教においては無闇矢鱈に神/サタンの名前を呼ぶ事はつつしまれている。なぜなら「名」を発するという事は、その霊的実体にふれることであり、召してしまう可能性があると考えられているからだ。

そして2行目にみられる「慈愛ふかく慈愛あまねき御神」は、イスラーム教には「ジャマール」(美,美しさ)の精神が底流していること。そして「ラフマーン(普遍性)」と「ラヒマーン(勘定性)」という慈悲があるのである。ここで注目したいのは、「ラフマーン/ラヒマーン(慈愛ふかく慈愛あまねき)」が神を修飾する形容詞ではなく、神の名であるということだ。

そして、ジャマールという精神に対するのが3行目にみられる「ジャラール」(威厳,尊厳,峻厳)の精神である。この精神が反応するのは、人のプロソワ(対自的存在)側面に対する者だ。プロソワをアンソワ(即自的存在)にもたらすことをジャラールは担っているのだ。


コーランの著者は誰なのか?

ここで考えたいのは「コーランの著者は誰なのか?」ということです。

井筒氏がいうように、コーランの著者はムハンマドによって1クッションをおいているが、それでも神のコトバであるという。モーセもキリストも神の予言者であったがアラビア語で啓示をうけたのがムハンマドである。

神とムハンマドにおける啓示にはガブリエルが翻訳的仲介を担っている。つまり、三項関係のパロール構造が成立しているのである。

「審きの日の主宰者」ー最初に申しましたように、これは概念的なレベルでの表現です。醒めたる意識でものをいっている。(中略)けれども、その陰には、別に二つの表現(あるいは意識)レベルがひそんでいる。(中略)レアリスティックな表現のすぐ下に、物語的な意識の次元が、そしてまたその下にはイマジナルな意識次元がひそんでいて、この三重構造体の表面に、「審きの日の主宰者」といういかにも冷静を装ったような表現が出てきているのです。そこまで読みとらないといけない。「審きの日の主宰者」、つまり最後の審判の日にこれを主宰する神のことか、という程度の読み方ではだめなのです。P268
井筒俊彦「コーランを読む」(中央公論社 1991)


ここに私は上記にあるコーランのレトリック構成「リアリスティック/ナラティブ/イマジナル」に注目した。私はこのレトリック構成が、啓示の3項関係にみられた「ムハンマド/ガブリエル/アッラー」に対応するのではないかと考える。

■参考リンク
762旅その1 井筒俊彦『コーランを読む』
762旅その2 井筒俊彦『コーランを読む』
『コーラン』と『コーランを読む』を読む



■tabi後記
大学事務室が私の履修申請ミスに気がつくことが出来なかっため、卒業のハードルが一段高くなってしまった。あらら。善処をして頂いたので感謝を述べたい。

いや、人生何がおこるか分からないが、これだからこそおもしろいとも思う。

司馬遼太郎が「世に棲む日々」にて、

おもしろき こともなき世を おもしろく(高杉晋作)
すみなすものは心なりけり(野村望東尼)

という歌を記していたが、まさにその心が試されるのだろう。良いストレッチである。中原淳さんが引用してくれた私の言葉ともシンクロしますね。
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2009年05月19日

tabi0163 入不二基義「相対主義の極北」

クーンのアイデアにも、科学という活動をパラダイムに内在的なものと捉えるという(1)の側面と、パラダイムは転換することによって複数化するという(2)の側面が読み取れる。さらに、通約部不可能性という概念から分かるように、パラダイムは単に複数なのではない。複数のパラダイムは強い意味で断絶している。この断絶性を、相対主義の基本構図の第三のエレメントとしておこう。P24(1)内在化(2)複数化(3)断絶性

ところで、文化相対主義の言説自体も一つの「文化」の内から発せられるし、言語相対主義の言説自体も何らかの「言語」によって表明される。ウィンチの言説自体もある種の「言語ゲーム」に他ならないし、「パラダイム」についての言説も何らかの「パラダイム」において生み出される。相対主義の基本構図には、実はこのようなループが埋め込まれている。つまり、「内在化が行われ、その内在化したあり方が自体が複数化し、しかも互いに断絶している」ことを見て取る視線自体も、さらに何かへと内在化させられて、超越性を否定される。相対化する作業が、ブーメランのように戻ってきて、その作業自体を相対化する。この第四エレメントを再帰性と呼んでおこう。P26(4)再帰性

ヘルダーの場合には、文化や民族による相対性が、神の摂理の絶対性へとつながるという意味で、相対主義は絶対主義へと通じている。一方、認識の「枠組み」の場合には、その無根拠で自律的な絶対性自体が、当の「枠組み」の成立に相対化されるという意味で、絶対主義が相対主義へと通じている。こうして、相対性を追いかけることが絶対性へと、そして絶対性を追いかけることが相対性へと反転する。この点もまた、相対主義という考え方を構成する重要なエレメントである。この第五のエレメントを、相対性と絶対性の反転と呼んでおこう。P32(5)相対性と絶対性の反転

プロダゴラスの相対主義説ー人間尺度説ーは、単なる人間主義ではなく、このような非-知の次元(神的な領域)へと通じていると考えるべきであろう。つまり、彼の「人間尺度説」は、単純に人間を謳歌することや人間の驕りなどではない。むしろ、その非-知の次元こそが、相対主義・懐疑論・ニヒリズムを駆動させているのではないかと思われる。プロタゴラス的な「人間中心主義」は、非-人間主義によってこそ立ち上がる、逆説的な人間中心主義である。これが、相対主義の第六のエレメントである。P36(6)非-知の次元
入不二基義「相対主義の極北」(筑摩書房 2009)


この時に言及してから暫く経ってしまいました。期待どおり、強靭な思考と出逢えた。

入不二氏は「「私たち」は自らを相対化していく無限運動というあり方をしている」という極北を起点にして、「私たち3」と「未生(私たちが未だ生れぬ状態)」という事態を「アキレスと亀とルイスキャロルの三者関係/マクダガードの時間論/クオリア/ネーゲルの実在論」を題材にして輪郭付けをしていく。

まず、入不二氏は相対主義を論じる準備として6つのエレメントを提示する。この6つのエレメントは、相対主義について思考をしたことがあれば考えられるエレメントであろう。ただ、このエレメントに基づいて「アキレスと亀とルイスキャロルの三者関係/マクダガードの時間論/クオリア/ネーゲルの実在論」を論ずることが出来る様に驚嘆してしまった。

私が相対主義を思索するのは些か処方的であった。論が交わされる度に沸き上がる相対主義。痛快な思索をおこなっているときこそ背後から迫ってくる相対主義。深き意味において「一なるもの」を探究する営みに対して、相対主義という道具立てで迫ってくる「安易な知性」に構える必要があると考えているのだ。本書で触れられるところの、未生/運動体/極北は「一なるもの」への探究と通ずるものがあると感じる。

■参考リンク
入不二基義Wiki



■tabi後記
芸大修士生と議論をしているときに時空間が停止した。それは「複製可能性の喚起」という言葉を発話した時だった。その瞬間に全てが停止した。想起するだけで鼓動が速くなる。一体、あれは何だったのだ。本日、調べものをするなかで「アウラ」「複製技術時代」という概念を思い出す。「私のベンヤミン」が生まれるかもしれない。
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2009年05月14日

tabi0154 茂木健一郎/黛まどか「俳句脳」

「山路来て何やらゆかしすみれ草」という松尾芭蕉の句には、一瞬の自然の移ろいを感知している芭蕉という人間性の他には何もない。しかし、山道のすみれに己の詠嘆を「なにやらゆかし」と預けたことを起点とし、その背後に芭蕉の人生の映し鏡ともいうべき世界が広がり始める。「何もない」からこそ「全てがある」という反作用の法則が名句においては成り立つというのが、俳句という文学の実に宇宙的なところだ。
(中略)
私にはこの営みが「言語の起源に遡る行為」に思えてならない。言語から日常の意味をいったん洗い落とし、その語が生まれたばかりの場に立ち返り、原初の輝きを求める。そんな仕事に思えてならない。いうなれば俳句とは、「言語再生」の技術である。言語の再生産により、自分が感じていること、あるいはその世界観、宇宙観を短い言葉で提示できるという、「文字による技術」なのである。P15-16
茂木健一郎/黛まどか「俳句脳」(角川書店 2008)


私にとって、反復的な内省をせまってくる書籍だった(反省)。分かることは変わるということであるが、分かるには分けることが大切になってくる。

私が分かるためには、何によって分けられうのかに依存しているとすると、私は言語(日本語)を通じて世界を捉えている(分かっている)。そして分けるためには日本語の語彙数/分節数が大切になってくる。私はそう考えていた。

だが、今回の読書を通じて、語彙数/分節数と言語に対する生き方の反省を迫られた。それが、本書でいう俳句的生き方という可能世界についてである。

ここでいう生き方の反省というのは、「ある出来事を記述する語彙数を増やせ」ということではない、どれだけの存在を無感していたか。日本言語語を発する者からメッセージを捉えることに励みすぎている自分への戒めとなることである。また、単なる自然主義に陥ることではないと付言しておこう。

語彙数を増やすいうことの例をあげると、春という季節に思いを寄せる思いを表現するために、「春立ちぬ」「春兆す」「浅春」「春爛漫」「行く春を惜しむ」と言うことができる。桜にしても「初花」が満開となり「花吹雪」して、散り敷いて「花屑」、散った花びらが水面に浮いて「花筏」といった表現が行える。

このように目の前に現れている出来事の感じを表現する為に語彙が多いほど、豊かに、深く認識することができる。この行いも非常に大切であろうが、そこにはキリがない。キリがある/キリがないという軸の中で世界を捉えることは的を外しているのではと気付かされたことだ。そこから俳句的生き方が立ち上がってくる。

俳句的生き方とは、道ばたの花/木々/虫などに焦点をあてるといった話ではない。僕はそこに大きな転換をみた。それは、私がどれだけの存在を無感していたか。(それが私でもあった/でもあるのに!)この気づきが良かったのは、私が日本言語話者のメッセージを捉えることに励みすぎていることへの戒めとならなかったことだ。全面的に肯定したうえで、尚かつ否定でもあったということだ。つまり、軸が変わったということである。

私を単なる自然主義に陥らせるわけではなく、ウィトゲンシュタイン齧りにさせるわけでもない、キリがある/キリがない、言内/言外という軸で世界を捉えることではなく、余白内/余白外という気づきを得たこと。そこから俳句的生き方が立ち上がってくる。

「言いおほせて何かある」という芭蕉の箴言を思い出す。この文字に「言外の余剰」「語りえぬもの」といったメッセージを想起してはならないのだろう。これより先のメッセージは今後の思索の中で示していきたいと考えている。

古池や蛙飛び込む水の音
松尾芭蕉

■参考リンク
今週の本棚




■tabi後記
本書は☆☆☆☆☆にしましたが、一般的には☆☆☆の本だったかもしれない。改めて、書籍評価はその人間の抱え込むもの/人間の状況によってブレブレになると感じた。再読に意義があるのも分かってくる。
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2009年05月05日

tabi0130 ミチオ・カク「サイエンス・インポシッブル」

文明が次の段階の文明へ移行するという保証はまったくない。最も危険を伴うのは、タイプ0からタイプIへの移行とも考えられる。タイプ0文明は、文明の発展段階でありがちな派閥主義と原理主義と民族主義にいまだに悩まされており、こうした民族感情や宗教感情のせいで移行は失敗に終わりかねない。銀河系でタイプI文明が見つかっていないひとつの理由は、この移行が起きずに文明が自滅してしまったからなのかもしれない。いつか、われわれがほかの恒星系を訪ねたときに、大気が放射線で汚染されたり、生命を維持できないほど高温になったりして自滅した文明の廃墟を見つけることになるのだろうか。文明がタイプIIIの状態に達したころには、銀河内を自由に飛びまわり、地球に到達することさえできるエネルギーやノウハウを手にしている。P208
ミチオ・カク「サイエンス・インポシッブル」(NHK 2008)


今日の物理学者には、陽子の中身から膨張宇宙に至るまで、四三桁ものスケールで物事を考えている。微小/極大思考を併せ持つ彼らにとって、未来のテクノロジーがおおまかにどんなものになるかについて、そこそこ自信をもって語れ、ただ単にありそうにないテクノロジーと、本当に不可能なテクノロジーとを、きちんと区別できるんじゃないの?と思って本書を読みすすめたが、やはり期待どうりであった。

本書では、「不可能」なことを三つのカテゴリーに分けている。

第一のカテゴリーを、「不可能レベル1」とする。これは、現時点では不可能だが、既知の物理法則には反していないテクノロジーである。だから今世紀中に可能になるか、あるいは来世紀にいくらか形を変えて可能になるかもしれない。テレポーテーション、反物質エンジン、ある種のテレパシー、念力、不可視化などがこれにあたる。

第二のカテゴリーは、「不可能レベル2」とする。これは、物理的世界に対するわれわれの理解の辺縁にかろうじて位置するようなテクノロジーだ。かりに可能だとしても、実現するのは数千年から数百万年も先のことかもしれない。タイムマシン、超空間飛行の可能性[超空間とは3時元を越える高次元のこと]ワームホールを通過する旅などがこれになる。

最後のカテゴリーは・「不可能レベル3」だ。これは、既知の物理法則に反するテクノロジーにあたる。意外にも・この種の不可能なテクノロジーはきわめて少ない。もしもこれが本当に可能になったら・物理学に対するわれわれの理解が根本的に変わることになる。

彼も書いていることだが、このような分類は非常に重要だと思う。SFに登場する多くのテクノロジーは、まつたく不可能なものとして科学者に切り捨てられているが、実のところ、「「われわれのような文明」にとって不可能である」いう意味なのだ。

惑星一個のエネルギーを使う、タイプ1文明
恒星一個のエネルギーを使う、タイプ2文明
銀河系規模のエネルギーを利用するのが、タイプ3文明

同時に、不可能レベルが上がるにつれて、文明タイプが変容していくという指摘が興味深い。今のわれわれは「タイプ0文明」であって、タイプ1に移行するには数世紀かかると。

■参考リンク
951旅 ミチオ・カク『サイエンス・インポッシブル』
不可能とは、可能性だ「サイエンス・インポッシブル」



■tabi後記
啓蒙主義的な進歩史観に辟易する方もいると思うが、辟易するだけでは、あなたが思い描く方向にも、描かない方向にも進化はしていかない。
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2009年04月08日

tabi0108 生嶋誠士郎「暗い奴は暗く生きろ」

「【人は多くの他力、他人の愛とか思いやりによって生かされている。自力だけで何でも事をなしてきた、これからもそうだ・・・というのは間違い。人は多くの他力によってこその今なのだ】という思い。」P69

「この"ガテン度数"("手に職が有るか無いか度数")という言葉を世に広めたいね。そしてこの度数の低い者は、我々リクルートの人間を含めて「頭を低くして生きる」という姿勢。そう、さあらば、国会議員も評論家も銀行員もマスコミも「自分たちだけでは商売がなり立たない」自覚のもとで頭が低くなり、世の中がまともになる感じがするけど、どうだい」P72

新しい事業は面白い。立ち上げる過程のあれこれも楽しいが、それが成長路線に乗れば喜びも格別だ。だがそれは既に完成している既存事業の利益を使っての行いである。そして既存事業は、おおむね地味で丹念な積み重ねが要求される。そこで言う。

『お互いに「今日のパン」チームと「明日の夢」チームを時々乗り換えながら進もうぜ』と。大切なことはお互いのエールの交換。とりわけ「明日の夢」を追う人達は、「今日のパン」チームに対する感謝の心を忘れてはいけない。その心があれば、新規事業は正しく会社の期待になる。P162
生嶋誠士郎「暗い奴は暗く生きろ」(新風舍 2007)


クリエティブクラスという言葉が流行っていた。

私にとって魅力的な言葉であった。

本書に登場する"ガテン指数"と"他力本願"という概念の前にたたされるまでは。
"クリエティブクラス"への憧景は静かに息をひそめていった。

それは、「両者において価値分別」はないことの知覚である。(今更といわれてしまうかもしれないが、、)私が一面的な阿呆になり、概念の強制熱が高まっていた事である。

本日、その肝を冷やされた。

気づこうと思っていたのかもしれない。
気づたいすら思っていたのかもしれない。

だが、私の自己欺瞞を痛烈に指摘してくれる方がいなかった。
多分いたのだろう。

ただ、指摘される姿勢をあらわせていなかった。
そういう人をさけていたのかもしれない。

今思うことは。


あー両方、楽しそうだなということ。


そこの本質を見極めてこそ、「他力本願」という意味がわかる。ガテンクラスとクリエティブクラスという根のない対立意識はいたるところにあるようだ。

・管理部門とライン部門
・支社と本社
・発展途上国と先進国

etc

本書の言葉を借りるならば、前者は風である。

後者に心地よさ、追い風を提供している。もちろん、彼らに風自体の存在はみえない。自らが動いてい事実をもってしか風の存在は推し量れない。

私は「どのような風」に支えられているだろうか?

この問いを自らへ「そっと」あてはめてみたときに、広がったのは歴史だった。正確にいえば、僕が生まれてから今に生きる道のりである。

・ふらっと立ち寄ったお店
・いずこで生産されたトマト
・理不尽にも怒鳴り散らしてくれた先生
・名もなき僕をひろいあげてくれた助産師

僕は生かされてきた。

そして、生きるときに入った。

そのための力。何かを生かし、守っていくための「力」が必要である。「被ガバナンス能力&君はそうなるな」という精神をもちあわせて生きていきたいと素直に思えた。


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2009年01月22日

tabi0053 ジャック・アタリ「21世紀の歴史」

アジアでは、自らの欲望から自由になることを望む一方で、西洋では、欲望を実現するための自由を手に入れることを望んだのである。言い換えれば、世界を幻想と捉えることを選択するか、世界を行動と幸福を実現する唯一の場であると捉えるかの選択である。すなわち、魂の輪廻転生か、それとも魂の救済かという選択である。(中略)ここで未来への教訓。宗教の教義は、たとえどれほど影響力があったとしても、個人の自由の歩みを遅らせることには成功しなかった。実際に、宗教であろうが宗教から独立した権力であろうが、現在までにいかなる権力も、この歩みを持続的に押し止めることはできなかった。P49-53
ジャック・アタリ「21世紀の歴史」(2008 作品社)


引用部は本書の根幹ではないが、こういった前提を著者がもっていることを明らかにしておく。議論のプラットフォームとなる書籍だと思うので、テクニカルタームで軸を作成した。監視体制/修繕体制、海賊企業/調和重視企業は、ぜひとも本書で確認してほしい。

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「自己監視財」としてのノマドオブジェ(Ex emobile,iphone)と超監視体制から逸脱していく「自己修繕財」(Ex レーシック、美容整形等)の市場推移を保険/娯楽という文脈で語るのが新鮮であった。そして、監視社会(Ex 生態認証)における免罪符(Ex 低温状態に自殺サービス)という概念が興味深い。

■ 参考リンク
763旅その1 ジャック・アタリ『21世紀の歴史』
763旅その2 ジャック・アタリ『21世紀の歴史』



■ tabi後記
卒業研究、期末テストを控えている学生たちよ。共に頑張ろう。
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2009年01月06日

tabi0038 森村進「自由はどこまで可能か」

リバタリアニズムは「いかなる国家(政府)までを正当とみなすか」と「諸個人の自由の尊重を正当化する根拠は何か」という二つの論点によって分類することができる。前者の論点については、

1 国家の廃止を主張する一番ラディカルな立場が「アナルコ・キャピタリズム」(無政府資本主義)」あるいは「市場アナーキズム」であり、

2国家の役割を国防・裁判・治安・その他の公共財の配給、あるいはその一部だけに限定しようとするのが「最小国家論」であり、

3 それ以外にある程度の福祉・サービス活動も行う小さな政府を唱えるのが「古典的自由主義」である。

後になればなるほど相対的には穏健な立場と言えるが、3が擁護する政府も、今日の大部分の政府よりはるかに控えめな活動しかしない。(中略)個人の自由の正当化の根拠という後者の論点については、

I 基本的な自由の権利、特に自己所有権に訴えかける「自然権論」と、

II 自由を尊重する社会の方がその結果として人々が幸福になるとする「帰結主義」と、

III 理性的な人々だったらリバタリアンな社会の原理に合意するはずだとする「契約論」に三分できる。P21-22
森村進「自由はどこまで可能か」(講談社現代新書 2001)


新書でここまで読み応えがあるものは少ない。以下は、引用文に基づくリバタリアンの分類です。後者の軸にダブリが生じているため、きちんとした区分は行えない。改良の余地があるだろう。

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■ 参考リンク
大阪市立大学法哲学ゼミ
リバタリアンFAQ
Cook it simple, insanity



■ tabi後記
37.1度まで下がってきた。早めに就寝し、万全なる早朝を迎えようと思う。
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2009年01月05日

tabi0034 永井均「倫理とは何か」2章

ホッブスの真の課題は、刹那的で深謀遠慮に乏しく非理性的に利己的なだけの人間を、狡智にたけた一貫性のある理性的に利己的な人間に引き上げることにあったんだ。だから、さっきのような仕方で問題が立てられて、それこそが問題だと意識されたとき、真の問題はすでに暗黙のうちに解決されているんだ。社会契約のポイントは、本当は、契約を守るか破るかなんてことではない。計算高く、守るつもりのない約束をするやつがいたって、一向にかまわない。それがほかならぬ約束として理解され、まさに約束したふりをして人をだませるようになれば、しめたものなのさ。そういうことが有効になされる社会では、社会契約はもう成功しているんだよ。もう成功した視点にしか立てないんだ。P80
永井均『倫理とは何か』(産業図書 2003)


前回の続きになります。

この章はすごいです。社会契約という信念体系に人々が、<それ以前>を言及することは出来ないということ(不可逆的で非遡及的)が興味深い。

個人が持続的に存在しているという契約を担保しているものは、「記憶」であるから、そこの探究が必要なのではと思う。

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■ 参考リンク
トマス・ホッブズ
松岡正剛「リヴァイアサン」

■ tabi後記
本日から大学の図書館がひらいている。本を返し、借りてこようと思う。
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2008年12月19日

tabi0014 永井均「倫理とは何か」序章 1章

この本が対象としている読者は、その内容が何であれ、悪いことをしたくない、できるなら善いことをしたい、という願望を持っていない読者である。その手前で、そもそもそのような願望を持つべきかどうか、なぜ持たねばならないとされるのか、という段階の問題を感じている読者である。P5

アインジヒト:自分の腎臓を商品として売り出しては、どうしていけないのか、とかね。こんな問題はチャチだな。問われるべきは最も根本的な問いは、そもそも「いけない」とはどういうことか。とか、なぜ、およそ「いけない」ことなどが存在しうるのか、とか、そういう問題だと思うね。逆に言いかえれば、一般的に「他人にとって悪い」という意味で「してはいけない」とされることを、人は「してもいい」のではないか、といった問題だ。

裕樹:つまり、結局のところ、そもそも「してはいけないことなんか、世の中に存在しえないんじゃないか」という問題だよね。

アインジヒト:いや、世の中に存在したとしても、それをしてもいいんじゃないか、という問題だな。P19

永井均『倫理とは何か』(産業図書 2003)


本書の読書会がひっそりとはじまりました。全8,9回になるかな。興味ある方は連絡下さい。

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ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ホッブズ、ロック、ルソー、ヒューム、カント、ミル、ベンサム、ロールズ、ローティ、ロージックなどを踏み台にして思索を深めたいと考えていたので、丁度良い機会です。

正義を手段し、幸福を目的とすること自体お粗末で、幸福も手段なんじゃないの?というパートナーの問いはナイスだと思いました。ただ、「目的を手段化する心理的傾向」って無限退行にすすむ可能性があるのと、未来の獲得形質の評価を現在の自分が下すことって何か違うと思っているので、慎重に対処していこうと思う。

訂正 
P 15 6 行目 悪→善

■ 参考サイト
雑記帳
チロリン村の模倣と創造

posted by アントレ at 00:38| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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