2010年02月21日

tabi0338 今福龍太「身体としての書物」

メディアとしての身体、書物としての身体
「書物というイデア」という言葉で、われわれは事物と精神性の統合体としての本というものを想像してみたい。それこそ、書物の本質的な存在様態にちがいない、という直観があるからです。「身体としての書物」というテーマは、「書物というイデア」というテーマと表裏一体のものだと言っておきましょう。P20
今福龍太「身体としての書物」(東京外国語大学出版会 2009)


今福はイデアとは形而上学的な観念や理念ではなく事物と精神性が等号で結ばれるような何かを指す用語であると提示する。その上で「書物」の「BODY」(本質/身体)を探求していく。

持続の書物という言い方で、川を下り、川の流れに全身を浸すようにして『水滸伝』やエドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』、E・R・クルティウスの『ヨーロッパ文学とラテン中世』といった大部の古典を読むことの根拠を問いかけている。グリッサンは、我々はそこでは霊媒状態にあるのだと思う、と言っています。
(中略)
そして、我々がそこに求めるのは、なによりもまず、今日我々に必要な全体性(トタリテ)の先駆的徴候である。我々はそこに不変数をマークし、どうしてこれらのテクストがそれを予兆したのかを知りたいと思う、とあります。「不変数をマークする」とは「不変数を探知するメディア(媒介)にみずからなる」ということでしょう。さらに、それは自分自身の言葉の占いと呼ぶ行為だ、つまり自分自身の言葉の前兆を読む行為だ、ということ。持続の書物を読むことの意味をグリッサンはそのように考えるわけです。P303
今福龍太「身体としての書物」(東京外国語大学出版会 2009)


私が解釈したことは。今福の仕事が辿り着いたのは「不変数を探知するメディア(媒介)にみずからなる」ための予行訓練が「書」で行われていたこと!を発見した営みであったいうことである。この点において、素晴らしいさを感じる。

■参考リンク
DESIGN IT! w/LOVE 身体としての書物/今福龍太



■tabi後記
BlogまでいかなかったものはTwitter書評をしています。

松岡正剛「侘び・数寄・余白 」「文」は記憶する 目の言葉・耳の文字・舞の時空・音の記譜-インタースコアとインタラクティブシステムの歴史/日本美術の秘密 白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし/「負」をめぐる文化 正号負号は極と極。いづれ劣らぬ肯定だ-引き算と寂びと侘び

竹沢尚一郎「社会とは何か―システムからプロセスへ」タイトル負けしている。しかし、社会の発明/社会の発見/社会学の発展を網羅し、「世界システムの中で相互規定しあう存在が、自律的に内的に発展している構造とみなされるようになったのは何故か?」という問いへ移行する様は面白い。

関根 康正 (編集) 「<都市的なるもの>の現在」:社会の<中心>に位置する都市と<境界>に位置する都市。過ごす場所としての都市と生きられる場所としての地域。

シリングスバーグ 「グーテンベルクからグーグルへ―文学テキストのデジタル化と編集文献学」主訳者の明星聖子(カフカ研究者)の解説が面白い。彼女にとっては、嬉しくも悲しい予言の書となった。これからの文学研究は、デジタルの「本」に基づかざるをえない。という意味において。外国文学研究者は文学作品の理解が主目的であって学術版編集行為という「文化のエンジニアリング」には関心がない。その無関心さが編集文献学の空洞化に寄与したと言う。明星は解説においてすら「この仕事を好きでやったのではない」と語る。では、何故が彼女を駆り立てたのだろうか。

田坂広志「企画力」人間と組織を動かす力。立案ではなく実現を志向とする営みであり、一人歩きする紙(推理小説)を創ることの気概を説く。具体的には、掴みの起動、ビジョンの追い風、戦略/戦術/行動計画による構造を要件とする。

アレクサンダー・ゲルマン「ポストグローバル」私たちはこれから、『遅くなっていくこと』に慣れていかなければならないのではないか。能、文楽、花火、武術、香道、染織、流鏑馬、日本酒造り……と好奇心に赴くままの体験報告。
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2010年01月01日

tabi0328 河合隼雄「中空構造日本の深層」

中空は骨抜きにあらず、中空は円環にあらず、中空は・・・
文化比較を行う上で重要なことと考えてきた、父性と母性という観点に焦点をしぼること、多くの対象者に接して統計的な結果を基礎とするのではなく、少数の人にできるだけ深く接して、そこから得た自分自身の感覚を大切にすること、というものであった。そして、自分のいわば主観的体験を大切にしながら、それを補填したり、是正したりするものとして、既にフィリピン文化の研究として出版されている文献を参考にすることにした。それと、文化の底層をなしているもの知るために、フィリピンの神話や民話を読むことにしたのである。P237-8
河合隼雄「中空構造日本の深層」(中央公論新社 1999)


本書のメインは1章にある。ここで行われている河合氏の考察は『古事記』の冒頭に登場する三神タカミムスビ・アメノミナカヌシ・カミムスビのアメノミナカヌシと、イザナギとイザナミが生んだ三貴神アマテラス・ツクヨミ・スサノオのうちのツクヨミとが、神話の中でほとんど無為の神としてしか扱われていないということである。

アメノミナカヌシもツクヨミも中心にいるはずの神である。それが無為の存在になっている。これはいったい何なんだ?という疑問であった。

その疑問が立ち上げる前に、河合氏は科学知と神話知がどのように織りなされてきたかを思索しており、そこで感じたことが中心の欠落である。河合氏がこのような認識をもった上で、取り組んだ仕事が中心を埋める作業ではなく、むしろ徹底して中心を「空」にしてく作業/確認であった。

フロイトは、よく知られているように、自分の精神分析学上の発見を、コペルニクス、ダーウィンのそれと類比している。つまり、彼の考えが世に受け入れられないのは、「人間の自己愛に対する重大な侮辱」を意味しているからであると考える。まず、コペルニクスは、地球が宇宙の中心に位置しているという人間の信仰を破壊し、従って人間がこの世界の中心に存在する主人であるという自負を破壊した。続いてダーウィンは人間が動物以外の何ものでもないことを明らかにすることによって、人間のみが他の生物と異なるという考えを破壊してしまった。これに加えて、フロイトは先に「エス」について彼の意見を紹介したように、人間は実のところ「エス」によって生かされているのであって、自分自身の主人公さえもあり得ないと主張したのである。これら三人の天才の力によって、人間は自分を世界の中心におく世界観をまったく打ち壊されてしまったのである。P15
河合隼雄「中空構造日本の深層」(中央公論新社 1999)


天孫ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に生まれた三神は、海幸彦ことホデリノミコト(火照命)、ホスセリノミコト(火須勢理命)、山幸彦ことホオリノミコト(火遠命)であるのだが、兄と弟の海幸・山幸のことはよく知られているのに、真ん中のホスセリの話は神話にはほとんど語られない。

このことから河合は日本神話は中空構造(中ヌキ)をもって成立しているのではないかと推理し、である。河合は『古事記』の叙述にひそむ神話的中空構造としてズバリ抜き出したのだった。

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河合氏は日本の深層が中空構造をもっていることを、必ずしも肯定しているのではない。そこには長所と短所があると言っている。そこでこんなふうに説明した。

[1]中空の空性がエネルギーの充満したものとして存在する、いわば無であって有である状態にあるときは、それは有効であるが、中空が文字どおりの無となるときは、その全体のシステムは極めて弱いものとなってしまう。

[2]日本の中空均衡型モデルでは、相対立するものや矛盾するものを敢えて排除せず、共存しうる可能性をもつのである。

河合氏はこのような推理のうえで、日本が中空構造に気がつかなかったり、そこにむりやり父性原理をもちこもうとすることに警鐘を鳴らした。

■参考リンク
第百四十一夜【0141】2000年10月2日 
199旅 『中空構造日本の深層』 河合隼雄
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
日本の神話では、正・反・合という止揚の過程ではなく、正と反は巧妙な対立と融和を繰り返しつつ、あくまで『合』に達することがない。あくまでも、正と反の変化が続くのである。つまり、西洋的な弁証法の論理においては、直線的な発展のモデルが考えられるのに対して、日本の中空巡回形式においては、正と反との巡回を通じて、中心の空性を体得するような円環的な論理構造になっていると考えられるP46-47
河合隼雄「中空構造日本の深層」(中央公論新社 1999)
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2009年11月21日

tabi0321 内田樹「子どもは判ってくれない」

開かれた身内

タイトルは「子どもは判ってくれない」にしましたが、以下は「大人は愉しい」と「知に働けば蔵が建つ」からも抜粋しています。

「街場の教育論」,「14歳の子を持つ親たちへ」,「ビジネスに「戦略」なんていらない」なども関連する書評となっていると思います。

今回は保留にしましたが、「日本辺境論」を読んだ際には「内田樹」さんについては論じてみたいと思います。

鈴木さんと話していていちばんスリリングなのは、私が「自分の個性」であると信じていたもののうちのかなりの部分が、「同時代的状況のしからしむるところ」であり、それに含まれないものだけが、ぎりぎりの「自分のユニークさ」だということが分かるからです。
(中略)
「おれはだんぜんこう思うんだよね」と断言するときの「思い」のうちの、どれほどのものが「状況」や「風土」や「階級」や「ジェンダー」や「ハビトゥス」に起因するものであり、どれほどのものが「おれ」自身に由来するものであるのか。それを考えると、なかなか「論争」なんかできやしません。P27-8
内田樹/鈴木昌「大人は愉しい」(筑摩書房 2007)


「他者の痛みを知れ」というような言葉は、いま政治的な場面においても一種のクリシェとなっています。「おまえは他者の痛みが分かるのか?」というようなかたちで政治的恫喝を加える人に出会うと、私はいらだちを覚えてしまいます。「他者の痛み」はその前ではいかなる政治的な大義名分も無効になるような、ある種の「逃れの町」のような原理として語られるべきものではないでしょうか?
(中略)
私が戦後責任論者に対していだく違和感は、「他者の痛み」から政治的価値を演繹するという手法そのもののうちにある種の「倒錯」を感じるからなのです。むしろ「他者の身体の痛み」は政治的価値を相対化してしまうものではないのでしょうか?P50


同学齢かどうかをモノサシにして、江口は「ホッと」したり、「シット」したり、態度を変えている。つまり、学齢が違う集団は、彼が自分の仕事の質を査定するときの参照項としてあまり意味を持っていないのである。
(中略)
自らの位置を知るために、もっぱら同学齢集団を参照し、年齢が上下に離れている人々は「競争」の対象として意識されない傾向。私はこれを「江口寿史現象」(勝手に名前を借りてすまない)と名づけることにする。P42
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


正論家の正しさは「世の中がより悪くなる」ことによってしか証明できない。したがって、正論家は必ずや「世の中がより悪くなる」ことを無意識的に望むようになる。
「世の中をより住みやすくすること」よりも「自説の正しさを証明すること」を優先的に配慮するような人間を私は信用しない。
私が正論を嫌うのはたぶんそのせいである。P81
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


人間の多面的な活動を統合する単一で中枢的な自我がなくてはすまされないという考えが支配的になったのは、ごく最近のことだ。「内面」とか「ほんとうの私」とかいうのは近代的な概念である。
知られるとおり、「内面」は明治になってはじめて出現した。(文学史の教えるところでは国木田独歩の「発明」である)。だから、江戸時代の侍にはもちろん「内面」なんかなかったし、当然にも「アイデンティティ」なんかありはしなかった。P89
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


「今の自分の考え方」は「自前の道具」のことである。ということは、「そのつどの技術的課題にふさわしい道具」とは、「他人の考え方」のことである。
「自分の考え方」で考えるのを停止させて、「他人の考え方」に想像的に同調することのできる能力、これを「論理性」と呼ぶのである。
論理性とは、言い換えれば、どんな檻にもとどまらない、思考の自由のことである。そして、学生諸君が大学において身につけなければならないのは、ほとんど「それだけ」なのである。P104
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


例えば、「国家は幻想である」と断定する人々がいる。まことにご高説のとおり、たしかに国家は幻想である。しかし、「国家は幻想だ」と説く思想家も、その理説をアメリカの大学で講じるために飛行機に乗るときには「菊のご紋章入りのパスポート」を携行することを忘れない。
「貨幣は幻想だ」と断定する人々もいる。まことにご高説のとおり、たしかに貨幣は幻想である。しかし、そう書いたはずの思想家が、ご高説を開陳した書物の印税収入の受け取りを拒否したという話を私は寡聞にして知らない。
「幻想である」と言うことは簡単である。
しかし、「幻想である」とこちらがいくら断定しようとも、当の「幻想」は何の痛痒も感じることなく、相変わらず繁昌し続けるのはいったいどうしてなのかという、より困難な問いに答えることはたいへんにむずかしい。P131
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


Kさんの要約によると、「自由競争したら格差ができてしまうのは当然であって、みんな違った生き方をすればいいじゃないか」というのがネオコンの主張であるようだが、私はそんなことはありえないと思う。
自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
(中略)
それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。P194
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


この本からのメッセージは要言すれば次の二つの命題に帰しうるであろう。
一つは、「話を複雑なままにしておく方が、話を簡単にするより『話が早い』(ことがある)」。
いま一つは、「何かが『分かった』と誤認することによってもたらされる災禍は、何かが『分からない』と正直に申告することによってもたらされる災禍より有害である(ことが多い)」。
これである。P330
内田樹「子どもは判ってくれない」(文芸春秋 2006)


おおかたの人は誤解しているが、ニートは資本主義社会から「脱落」している人々ではない。彼らは資本主義社会を「追い越して」しまった人々なのである。
あらゆる人間関係を商取引の語法で理解し、「金で買えないものはない」という原理主義的思考を幼児期から叩き込まれた人々のうちでさらに「私には別に欲しいものがない」というたいへん正直な人たちが、資本主義の名において、論理の経済に従って、「何かを金で買うための迂回としての学びと労働」を拒絶するように至ったのである。P33
内田樹「知に働けば蔵が建つ」(文芸春秋 2008)


私たちが問題を立ててそれに解答するというのは「問題を解決できることが暗黙裏にはわかっているが明示的にはわかっていない」状態から「明示的にわかった」状態への移行という時間的現象なのである。
私たちは「解答できることがわかっている問題」しか取り扱うことができない。けれども「解ける」ということは飽くまで「暗黙裏に」わかっているすぎないのであって、解いてみせるまでは解けるということは明証的にわからないのである。P159
内田樹「知に働けば蔵が建つ」(文芸春秋 2008)


■参考リンク
横浜ほんよみ生活
体系的な知識とは
愛読書・・・内田樹氏「子どもは判ってくれない」







■tabi後記
今夜は、渋谷慶一郎 × 平野啓一郎対談を聞きにいってきます。
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2009年11月20日

tabi0320 小島寛之「使える!経済学の考え方」

数学を信じられるか、ではなく、数学に信じられるか
ぼくは次第に、彼らとの議論を時間の無駄だと感じるようになりました。彼らの希求する「自由」や「平等」というもの自体は、とてもうるわしく、手放しで「入信」してしまいたい気持ちにはなるのですが、頭の別の側では、何の論理的な支柱もない議論への警報が鳴り響きました。論理なく無批判に信じることを自分に許すと、危険で暴力的なでたらめな思想によってマインドコントロールされてしまうことになりかねない、高校生ながらそういう強い警戒心が芽生えたのです。

それ以来、ぼくは「自由」、「平等」、「正義」といったものを議論することを自分に封印してきました。封印していることさえも忘れるほど長い年月にわたって遮断していました。ところが、プロの経済学者として、ピグーやハルサー二やセンやギルボアやロールズの議論に出会って突然、心に貼られた「魔よけのお礼」がはがれることになったのです。とりわけ、ハルサーニやギルボアのように、完全に数理的な研究者だとみなしていたい学者が、その背後で「平等」の問題を解こうという気概を持っていたことは、新鮮な驚きでした。P232-233
小島寛之「使える!経済学の考え方」(筑摩書房 2009)


・なぜ経済学を学ぶ者が、数学を学ばなくてはならないのか?

その問いに対する真摯な応答が示されている。そして私は、この真摯なる応答によって経済学を学ぶことを辞めようと(とりあえず)決めた。何も私がやる必要はない、という積極的な意味においてである。

経済学は、GDPを「幸福」そのものと捉えていると思われている(思われがちである)。けれど、私が知る経済学者たちは(少なくとも書物においては)、そのような安直姓をもちあわせてはいない。

彼らは、幸福=お金ではないことを当然視したうえで、この2項においてオーバーラップする「部分」もあるので、一旦は代理品としておこうというコンセンサスを持っているのである。(とはいえ、そのコンセンサスが一旦の留保であることを絶えず参照することは、多大な認知的負荷がかかるので、留保は忘却の彼方にいってしまったりもする・・)

このような前提を持った上で、経済学は幸福を効用で測ることにしたのである。効用関数とは「特定の個人の内面」に依拠するものであって、すべての人間に共通のものだとは仮定されていない。効用という概念が発生したのは、19世紀後半にメンガー,ワルラス,ジェボンズらによって「モノの価値とは何か」という問いが発せられたからであろう。

それまで、この問いに対しては、労働価値説や生産費説などがコンセンサスとなっていた。彼らはそのような環境下で、限界効用(及び、限界効用逓減の法則)を見出したのである。

限界効用とはもう一歩外に踏み出すと仮に想定したときに消費が与えるはずの効用のことである。もちろん、限界費用逓減の法則が、効用の個人主義性に関しては保留とされているが、それを差引いたとしても発展モデルを提供したという意味で「歴史」がはじまった。

いささか回り道となってしまったが、私が経済学を学ぶことを辞めようと思ったのは、著者が「なぜ、経済学では数学を用いなければならないのか?」という問いに対して書かれた3つの理由に全面的に同意したからである。そして、納得感をもってしまったからこそ、辞めようと思った。

・数学は、非常語(情緒性の低い)を用いるので、人の情動のようなものを適度に遮断し、冷静な思考を促す。

・数学は、少なくとも理想状態では成立するような例を与えることができる。

・数学は、論証されれば、形式論理上では誤りがないことが確認される。

私には「形式論理上で」という箇所に違和感がある。ゲーデル,ヴィトゲンシュタイン,クリプキなどの仕事を参照するまでもなく、私は数学というものへ信仰を持ち合わせることはできていない。この部分は、岡潔・小林秀雄「人間の建設」,野崎昭弘「不完全性定理」,十川 治江/松岡 正剛 「科学的愉快をめぐって」にて多少の体験的告白をしているので参照頂きたい。

■参考リンク
数理は有利 - 書評 - 使える!経済学の考え方
小飼弾さんの書評に恐れ入るの巻
恐怖のリフレー・ザ・グレートの巻



■tabi後記
久々に安斎ゼミに参加してきた。発想が湧き上がる。6章/最終章が必見である。貨幣保有から得られる効用は、モノを買うことに対して、買うタイミング、何を買うといったことを留保することができるという効能、それが流動性の効用である、と解釈した。
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2009年11月18日

tabi0318 若松英輔「井筒俊彦-東洋への道程」

地球化における円柱たりえる思考
プラトンは『国家』で詩人を追放した。芸術を憎んだからではない。哲学の祖が拒んだのは悪意ある虚構だ。詩人は啓示の通路でなくてはならない。詩人が自分を語り始めるのに忙しく、天啓の伝達者という任を忘れたとき、詩人は「共和国」から追放された。
現代、追放されるのは詩人ではない、哲学者ではないか、『神秘哲学』を読むとそんな作者の声が聞こえてくる。古代ギリシアにおいて「彼らはいずれも哲学者である以前に神秘家であった」と井筒俊彦はいう。彼がいう神秘家とは、瞑想者のことでも神秘論者のことでもない。啓示と理性の間に生き、自らを世界に捧げ尽くす人間にほかならない。
そんな彼が、詩霊の声に耳を傾けることなく、哲学者を研究しているというだけで、ためらいなく自分を「哲学者」と呼ぶ人々と同じ意味で、自身を哲学の徒だとは認識していなかったとしても、超越との繋がりを遮断した営みを哲学だと認めていなかったとしても訝る必要はない。P105
若松英輔「井筒俊彦-東洋への道程」(「三田文学」2009冬季号)


三田文学の井筒俊彦特集が入手困難のため、藤沢さんにお借りして読了しました。井筒氏のエッセイも関心をそそられたが、「読むと書く」の編者をつとめられている若松英輔氏の文章には刺激を受けた。

グローバリゼーションというワードを「地球化」という言葉に翻訳し、その言葉を井筒氏の文脈に落とし込むと、新たな地平が開けるような思いがした。引用文でいうところの、啓示と理性の間の生きるための言葉として解することが出来たからだろう。

短期間ながら東南アジアに「武者修業」に行き、表層面における普遍性/異質性を存分に感じた。しかし、私が切実としたかったのは旅の行程で何度も読んだ「意識と本質」と、この目の前に立ち上がっている「どうしようもない存在分節」との重ね合わせであった。重ね合わせでも無いか、溶け合わせであろうか。そもそも、この違和感の解消方法自体への模索であり、その方法を希求する構造への関心であった。

これから「意識の形而上学」「読むと書く」を創造的に誤読していきたいと思う。その後に、私法による私見を示してみたいと思う。本書は、そのための契機を与えてくれる冊子であろう。

■参考リンク
839旅 井筒俊彦『語学開眼』



■tabi後記
本業と副業(明日の夢/今日のパン)に曖昧ながらも分別を持てるようになったのは大きい。
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2009年11月17日

tabi0316 プラトン「国家」

彼は望んだ。思惑を排した真実を観る者を。
人々はこう主張するのです。― 自然本来のあり方からいえば、人に不正を加えることは善(利)、自分が不正を受けることは悪(害)であるが、ただどちらかといえば、自分が不正を受けることによってこうむる悪(害)のほうが、人に不正を加えることによって得る善(利)よりも大きい。そこで、人間たちがお互いに不正を加えたり受けたりし合って、その両方を経験してみると、一方を避け他方を得るだけの力のない連中は、不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが、得策であると考えるようになる。このことからして、人々は法律を制定し、お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。

これがすなわち、<正義>なるものの起源であり、その本性である。つまり<正義>とは、不正をはたらきながら罰を受けないという最善のことと、不正な仕打ちを受けながら仕返しをする能力がないという最悪のこととの、中間的な妥協なのである。これら両者の中間にある<正しいこと>が歓迎されるのは、けっして積極的な善としてではなく、不正をはたらくだけの力がないから尊重されるというだけのことである。げんに、それをなしうる能力のある者、真の男子ならば、不正を加えることも受けることもしないという契約など、けっして誰とも結ぼうとはしないであろう。そんなことをするのは、気違い沙汰であろうから。P106-7
プラトン「国家(上)」(岩波書店 1979)


永井均「倫理とは何か」で言及されていた「国家」を読み通した。トラシュコマスとグラウコンとソクラテスの対話には「幅」がある。この振り幅をプラトンが演出していると考えると、彼の記述技術への関心が湧き上がってくる。

上下巻を通じて「正義とは何か?」という論点について対話がなされていたわけであるが、その論点は政治的主張の中に立ち消えになってしまったと思われる。プラトンが政治的身体をまとってしまった背景には「ソクラテスの死」という壮絶な思考要請が潜まれているのであるが・・。やはり、その経験が残ってしまっている。思惑として。

ギュゲスの指輪に対する応答の弱さに比して、哲人政治の教育プログラムへの熱の注入から、社会契約の根拠と哲人が政治家にならねばならぬことへの論理的な徹底が不足しているように思われるのだろうか。

そこでもし彼が、ずっとそこに拘禁されたままでいた者たちを相手にして、もう一度例のいろいろの影を判別しながら争わなければならないことになったとしたら、どうだろうーそれは彼の目がまだ落着かずに、ぼんやりとしか見えない時期においてであり、しかも、目がそのように馴れるためには、少なからぬ時間を必要とするとすれば?そのようなとき、彼は失笑を買うようなことにならないだろうか。そして人々は彼について、あの男は上へ登って行ったために、目をすっかりだめにして帰ってきたのだと言い、上へ登って行くなどということは、試みるだけの値打ちさえもない、と言うのではなかろうか。こうして彼らは、囚人を開放して上のほうへ連れて行こうと企てる者に対して、もしこれを何とかして手のうちに捕えて殺すことができるならば、殺してしまうのではないだろうか?P100
プラトン「国家(下)」(岩波書店 1979)


彼が背負った「ソクラテス」はここに表出する。洞窟の比喩。これは自らの体験的告白でらい、洞窟自体への嘆きでもあったのではないだろう。

洞窟は常識であり、識を常としてしまう、人間の恒常的認知性への承認と伴に、そこを逸脱したいという哲学的反逆心の萌芽であろうか。

■参考リンク
ITTOKU TOMANO’s Website
第七百九十九夜【0799】
永井俊哉ドットコム





■tabi後記
2400年前に使われていた「イデア」は、4段階くらい底が深いのかもしれない。彼は観えていたことは想像できるだろうか。
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tabi0315 中村元「龍樹」

相依性という企画
縁起は常に理由であり、空は常に帰結である。無自性は縁起には対しては帰結であるが、空に対しては理由である。すなわち縁起という概念から無自性が必然的に導き出され、さらに無自性という概念からまた空が必然的に導き出される。「縁起→無自性→空」という論理的基礎づけの順序は定まっていて、これを逆にすることはできない。P242
中村元「龍樹」(講談社 2002)


著者は、従来西洋の諸学者はこの「中論」第二章をみて、ナーガールジュナは運動を否定したと評し、ギリシアのエレア派のゼノンの論証と比較をしていたことを紹介する。そして、両者の論理を詳細に比較するならば、類似を認めることは困難であると語る。その根拠として、ナーガールジュナは自然的存在の領域における運動を否定したのではなく、法有の立場を攻撃したことをあげている。

龍樹(龍猛菩薩)は、法有(説一切有部)ではなく法空を説き、無常の中に潜む恒常(形而的有)をも攻撃の対象に当てていった。

我々は「〜がある(ない)」という形式の規定と、「〜である(ない)」という存在の規定を、言語志向性としてもちあわせている。形式/存在、肯定/否定を連立させていくと、「がある(ない)」こと「がある(ない)」、「である(ない)」こと「がある(ない)」、「がある(ない)」こと「である(ない)」、「である(ない)」こと「である(ない)」という16種類の規定がある。私は、このマトリクスをどのように扱っていくかが、1つの言語技術であると思ったのである。

■参考リンク
第千二十一夜【1021】
414旅 中村元『龍樹』



■tabi後記
旅人として問われることを常とする生活を実践することが1つ大事なことであり、その実践は承認にもとづくものではなく自らの秘密を探究/点検していく行為過程であることが大切なのであろう。
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2009年10月19日

tabi0313 島田裕巳「中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて」

生煮え神秘主義者が社会と関係を結ぶ事態の一般的考察
中沢は、ゴジラがくり返し回帰させるものは悪夢を生む抑圧の機構ではなく、心の奥底に潜む、失われた「根源的な自然」の記憶にほかならないと言い、ゴジラをもう一度私たちの手に奪還して、それを創造しなおすべき時がきていると述べている。そして、市場やネットワークを踏みにじりながら、私たちの内部に失われた深さの感触を蘇らせる新しいゴジラが、ふたたび海中から浮上してくる姿を自分は想像すると述べて、「GODZILA対ゴジラ」を締めくくっている。P100
島田裕巳「中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて」(亜紀書房 2007)


中沢は、地下鉄サリン事件の直後、ある元信者に対し「ね、高橋君。オウムのサリンはどうして(犠牲者が)十人、二十人のレベルだったのかな。もっと多く、一万人とか、二万人の規模だったら別の意味合いがあったのにね・・」と言い放った過去がある。

その発言の前には、「宗教とは狂気を持っているものなんだ。そのことに高橋君は気づかなかったの?」と言ったという。その発言に高橋が驚いて、「人を幸せにする、人を救うものを宗教というんじゃないですか?人に苦しみを与えるものが宗教だなんて、僕は聞いたことがないんですけど」と聞き返した。すると中沢は、「歴史的にみてもいろんな戦争を起こしているし、宗教って、そもそもそういう凶暴性を秘めているものなんだよ」と答えたという。上記の発言への批判に対して、彼からの応答は未だにない。

現在、中沢氏は多摩美術大学 芸術人類学研究所の所長を務めながら、ほぼ日くくのち学舍などに顔を出されている。

私は、上記の発言に対しては、価値中立である。そのような凶暴性が自身の内に存在するのは素直に認められる。しかし、発言への批判は「倫理」という底の軽いものではない。むしろ、その不徹底さをこそ批判の俎上にあげる必要があるのではと思う。

さて。島田氏は、中沢氏と旧知の友であった。著者自身もオウムに関する書籍を刊行されており、これらの問題に携わる中で様々な体験をされてきた。

そのような経緯を考えると、本書の意味も深みをもってくる。島田氏は、自身のブログで執筆経緯と刊行後のあとがきを書かれている。

これまで私は30冊以上の本を書いてきたけれど、今回の本を書くという作業は、これまでとは明らかに違った。この本は是非とも書き上げなければならないという強い思いをもちながら書いたことは、これまでなかった。『オウム』には、それに近いものがあった。けれども、今回の方がはっきりとしていた。本が売れようと売れまいと、どう評価されようと、そんなことはいっさい関係がない。とにかく、書き上げなければならないのだと思いながら、私は書き続けた。その意味で、この本は私にとって特別な本なのである。
『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』刊行後の「あとがき」


底が抜けきらない神秘体験、そして社会変革と結びつけない神秘体験。政治性と神秘性の重ねあわせ、ないしは氷塊。非常に大切な論点だと思われる。

■参考リンク
極東ブログ



■tabi後記
明日からアジアを体験してくるわけだが、持っていく書物は「意識と本質」「意識の形而上学」「道元との対話」「龍樹」「国家」にしました。書を持って、旅に出てきます。旅に出て、書を読むかな。
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2009年10月18日

tabi0312 三谷宏治「発想の視点力」

「発想の原理」を発想する。そして、それを感想する。
KJ法でもそうだが、せっかく面白いアイデアがあっても、ヒトはグルーピングという作業の中で、それらのトンガリを落とし、丸めていってしまう。グルーピングとは共通項を探すことなのだから、カード3枚を集約すれば、そのグループの名前はそれらの最大公約数にならざるを得ない。
そうではなく、100のアイデアが出たなら、グルーピングせず一番尖ったものを選び、それを分析して本質を見極め、そこから拡げ組み合わせて新しいアイデアを創り上げることが大切なのだ。発見し、選択し、分析し、組み合わせる。それが正しく発想するためのステップだ。発散と収束、ではない。P5
三谷宏治「発想の視点力」(日本実業出版社 2009)


発散と収束ではなく、「発見、選択、探求、組み合わせ」から発想が生まれるというのは、三谷さん独特の発想だと思う。発見が重要で、そのためには、「比べる」と「ハカる」という視点が重要だという。また、収束では単なる収束ではなく、観想が必要だという。

「正しく決める力」を筆頭に、三谷さんの本が素晴らしいのは、普通のマーケティングの本が「理論→事例」で終わるところを、「理論→事例→抽象化」という手順で説明しているため、納得感が高いことだ。

8月末に三谷さんの家に伺った際に「疑わしきは、測れ。問題は何を測るか。」という言葉を体感させられた。時あるごとにこのフレーズがリフレインしているこtもあり、周囲からのFBによって習慣レベルに落ちていることを感じてきている。

丁寧にハカっていると、やっている人と、やっていない人の差が明瞭になるばかりか、やっている人の中での差異も明瞭になってくる。やはり、本当のプロは、ちゃんとハカっている。自分のカンを信じず、重さや厚さや意味を、ちゃんとハカろうとしている。人間の感覚が、実はいい加減だと骨の底からわかっている。それでいて人間味に溢れている。



■tabi後記
Twitterから逃避するようにBlogに帰ってきた。10/20から11/11東南アジアにいってきます。
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2009年10月10日

tabi0311 NHK取材班「『空海の風景』を旅する」

ZEN/SEX/LSD/BMI
司馬遼太郎が作品のテーマに掲げた「天才」の成立条件とは、一体なんだったのだろうか。その回答が、ようやくおぼろげながら見えてきたように思った。

「空海」とは、限りなくゼロであり、無限だということである。枠外しということである。本当の意味での平等とは、自分が向き合う人をある枠付けしたフレームから見ている限り果たしえない。国家であり、民族であり、宗教であり、性別であり、貧富である。私たちは自分のアイデンティティーを語ろうとするとき、何らかの枠の範囲内にある自分の所属性に頼ろうとする。しかし、その所属性が引き裂かれているマイノリティーの人々も大勢いる。
(中略)
もとより、文字通り枠を外して生きることは困難だ。外側から規定されたアイデンティティーではなく、みずから「おまえはいったい誰なんだ」という絶望的な問いを絶えず自
分に突きつけながら生きてゆくしかないからである。

それを行なおうとしたのが、実は空海だったのではないか。
枠とは、実は外側にあるのではなく、自分の心の中にある。

自分の表皮を一枚一枚めくって削ぎ落としていった時、私たちはたまらない不安におちいる。そして、ふたたび皮をまとって自分と他者を区別し、差別する。人にとって、自分の心の枠を外そうとすることは、みずからの崩壊につながるほど恐ろしいことなのだ。

その不安な作業を、終生、行なっていたのが空海ではなかったかと思う。「天才」とはまさに、その不可能にたえず挑んでいった人間だったのではないかと思える。P362-364
NHK取材班「『空海の風景』を旅する」(中央公論新社 2005)


執筆時期を考案すると、司馬遼太郎は「坂の上の雲」にて日本という国家を書くかわたらで、「空海の風景」のおいて「国家」という枠を外れた人物像を想像していたようだ。

本書は、2002年1月4・5日にNHKスペシャルでテレビ放映された『空海の風景』の制作秘話がスタッフによって執筆されている。プロジェクトが発足してからしばらくして、「2001.09.11」が起きた。そこで問われたのが「なぜ今空海なのか?」ということだった。そして、1976年に司馬遼太郎が描いた「空海の風景」から25年以上が経過した「今」において、どのように空海を描くのか。

本書では、空海の今、そして司馬を通じた空海の今という2つの「今性」を抱え込んだプロジェクトとなっている。複数の時を超越しながら発見された世界観を体感する上では、非常に有益な論考となっている。その中でも私が注目したが「空海と性欲」についてであった。

空海は自分の体の中に満ちてきた性欲というこの厄介で甘美で、しかも結局は生命そのものである自然力を、自己と同一化して懊悩したり陶酔したりすることなく、「これは何だろう」と、自分以外の他者として観察するという奇妙な精神構造をもっていた。この一事で空海は他の若者とまったくちがう何者かとして奈良の大学に存在した。P103-104
NHK取材班「『空海の風景』を旅する」(中央公論新社 2005)


この時の空海の哲学は、後の最澄との関わりにおいて如実に反映されていると思わされた。

想起されるのは、最澄が頼みこんだ『理趣釈経』借覧を拒否したときの空海の姿だ。空海は、この経典が男女間の性交の無自覚的な奔放につながることを警戒していた。たんに欲望を肯定するだけではなく、欲望をみずから自在にコントロールできる境地に達するためには、文字面の理解のみでは不可能とし、そのためには厳しい修行を通じて身をもって経典の真意が体得されることが必要だと考えた。密教に全身を投じる覚悟のない者が、その思想を断片的に吸収、引用することは、薬を猛毒に変えるように、きわめて危険なことと自覚していたと思われる。P299
NHK取材班「『空海の風景』を旅する」(中央公論新社 2005)


先日「LSD: Problem Child and Wonder Drug」というドキュメンタリー映画を見た。この映画は、LSDの発見者、アルバート・ホフマン博士の100歳の誕生日を記念に2006年、1月11-13日にスイスのバーゼル市で開催された「国際LSDシンポジウム」を撮影したものである。

私は、ZEN/SEX/LED/BMIというものを1つの系の中で論ずる可能性を考えてみた。それは意識変容の経験というものではなく、意識変容技術を飼いならす技術という地平での話しである。その話をするためには「倫理」という言葉では扱える範囲が狭すぎる。恐らく「アート/哲学」に対する根本的理解と突発的行動を合わせ持つことでしかものが飼いならせないと思ってきている。これはいよいよ楽しくなってきた。

■参考リンク
241旅 『『空海の風景』を旅する』 NHK取材班



■tabi後記
明日は円覚寺で坐禅会です。
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2009年09月19日

tabi0294 神田昌典「全脳思考」

新たな時の駆け抜け方-逆算から夢中へ-
私の見解では、情報社会とは、情報を収集・整理することが付加価値となる社会。それに対して知識社会とは、収集・整理された情報から生み出された新しい気づき・アイデアを実際に、行動に移すことが付加価値となる社会だ。P28
神田昌典「全脳思考」(ダイヤモンド社 2009)


逆算思考では心からの行動は生まれにくい。あなたの行動も、そして顧客の行動も。たとえ行動が発生したとしても、それは比較型の行動になってしまう。この世界に必要なのは。絶対的に指名(使命)されるような行動である。本書は、どのようにしたら心からの行動、真実の行動が発生していくのかを突き止めていく。

このような思考/発想プロセスを事例を交えて解説されているとこから読み取れるのは、真実の行動は、逆算的(数値/直線的)に現実と未来を繋ぐのではなく、夢中的(物語/曲線的)に現実と未来を混合していくことから生まれるということである(もちろん併用である)。

amazonを見ると様々な視点から評価がなされているが、私は☆が1つだろうと5つだろうと、それは重要ではないと考えている。なぜなら「評価」という行為自体をメタに見ているからだ。そのメタ視点は、本書でも紹介されている4つの思考レベル(U理論)を応用することである。

2.jpg

レベル1や2の段階(Downloading(コピペ的)Factual(事実的))でないと「量的な評価」というのは出来ないものだろう。このような視点をもつことが本書の「評価」と付き合う事であり、「評価自体」と付き合うことなのだろう。Empathetic(共感的)Generative(創造的)として理解をしている人間と付き合っていくことが、行動としての知識社会を生きていけるのではないだろうか。

■参考リンク
【スゴ本】「全脳思考」神田昌典
1247旅 神田昌典『全脳思考』




■tabi後記
今から、日本教育工学会 第25回全国大会 ワークショップ(6)障害を乗り越える(造形)ワークショップと身体・メディアの可能性:光島貴之のタッチアート・ワークショップ- 見えない学びを見えるようにするに参加してきます。
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2009年09月12日

tabi0287 永井均「子どものための哲学対話」

遊生における指南書
人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ。P63
永井均「子どものための哲学対話」(講談社 1997)

結果から逆算することで、行為決定するものには鉄槌がくだされるかもしれない。意味の追求を排し、意味から本質的に逃れるための指南であろうから。私たちは、未来の遊びための準備それ自体を、現在の遊びにすることもできることを示されている。

仕事や遊びは、ひとから理解されたり、認められたり、必要とされたりすることは一番大切だというのは、まちがった信仰なのではないだろうか。他者からの承認によって、自らの存在を規定する者は弱いものである。もちろん、他者からの承認を簡単に無視する事ができないから、難しいところである。誰しもが、心の安定所を持ち合わせながら学問をしているわけではなく、自己を直観しているわけでもない。それを嘆いても仕方がなく、自分がそうあればいいのだろうと思う。あとは流れに身を任せるのみであろうか。

■参考リンク
クオ・バディス?


■tabi後記
自由を鎖とも感じないように遊んでいけばいいのだろう。
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2009年09月11日

tabi0286 鈴木秀子「愛と癒しのコミュニオン」

「自分」を捨てないコミュニケーション
「問題所有の原則」を心して、相手の問題を相手の中にとどめることは、本人が問題の本質の探究を推し進めていくことを可能にすると同時に、本来、自分が解決するべきではない問題を背負いこみ、ピントの外れた対処策に頭を悩ますという無駄を避けることができる。P69
鈴木秀子「愛と癒しのコミュニオン」(文芸春秋 1999)


著者は、賛成でも反対でもない、沈黙という受容感覚にもといたコミュニケーションを示されている。それはシュタイナーが言うところの「自分自身の内なる者が完全に沈黙するような習慣」であろう。本書がユニークなのは、私たちの常識とする「コミュニケーション観」を創造的に破壊しているところだ。なぜなんら、私たちの常識とする「コミュニケーション」の大半が「非受容の態度」で成り立っていると示されるからだ。

例えば、「命令・指示」「注意・脅迫」「訓戒・説教」「忠告・解決策などを提案」
「賞賛・同意」「解釈・分析・診断」「激励・理解・同情」「探る・質問・尋問」・・・このような数々コミュニケーション態度は「非受容的な態度」なのである。なぜこれらが問題なのか?それは、このような態度には、相手を変えようとする意志が内在化されているからだという。そして、これらの言葉を発してしまう背景にある「人に対する恐れ」、この深層背景に対して著者は分析をされていく。

人に相談をするということは、少なからず相手へ依存をし、協同して問題解決をしてもらおうとする心的傾向があらわれている。そして、相談を受ける者も、共に解決をしようという態度が出てしまうものである。本書が提案するのは、それを停止することなのである。それは、相手を1人に突き放すことではなく、相手を1人の問題解決者として尊重し、それに対して「あなた」がどのような相談空間を誘うことができるか?という「愛」(成長へと誘う)の実践することなのだ。

■参考リンク
心のおもむくままに



■tabi後記
Soul Village Philosophia(ソウルビレッジ・フィロソフィア)の説明会に参加する。自分が考えていることが、当たり前のように話される環境には早々出会う事はできない。僕は自分でそういう環境をつくってきたけれど、このような学習環境が「パッケージ」として提供することは滅多にないだろう。

木戸さんをはじめとする講師陣の方々は、徹底した本質思考と言語ゲームとの戯れの中で「自己」を見出し、その探究から表出してきた内なる創造性を、ソーシャルデザインとして「企画」をされている。宇宙の根っこをとらえながら、地球の地に足をつけている人は早々いない。このような方々が存在していることを知っておくだけでも、人生は面白くなっていくだろう。笑

農と脳(生命神秘、宇宙の根源へのアクセス)(自由とは何か、平等とは何か、意識と自己とは何か、能力とは何か)支配と組織、マネーと信用、創造と企画。このようなテーマに関心があれば、講座に出るといいかもしれない。
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2009年09月10日

tabi0285 宮本常一「忘れられた日本人」

深層としての異型
こういう山の中でまったく見通しもきかぬ道を、あるくということは容易ではないという感慨を述べると、「それにはよい方法があるのだ。自分はいまここをあるいているぞという声をたてることだ」と一行の中の七十近い老人がいう。どういうように声をたてるのだときくと「歌を歌うのだ。歌を歌っておれば、同じ山の中にいる者ならその声をきく。同じ村の者なら、あれは誰だとわかる。相手も歌をうたう。歌の文句がわかるほどのところなら、おおいと声をかけておく。それだけで、相手がどの方向へ何をしに行きつつあるかぐらいはわかる。行方不明になるようなことがあっても誰かが歌声さえきいておれば、どの山中でどうなったかは想像のつくものだ」とこたえてくれる。私もなるほどなぁと思った。と同時に民謡が、こういう山道をあるくときに必要な意味を知ったように思った。P24-25
宮本常一「忘れられた日本人」(岩波書店 1984)


一般的に、村里生活者は個性的でなかったといわれている。だが、現代のように口では論理的に時代や自我を語るけれど、私生活や私行の上では、むしろ類型的な者を多く見られるのに比べて、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が多かったのではないか?著者は、そのような「忘れられた異型」に気付かさせてくれる。

本書が描いている世界は「無文字社会の日本」である。つまり、語られてきた日本、あるいは記憶の中の日本といえるだろうか。文化には「記録の文化」と「記憶の文化」という分け方がなされることがおある。

記録の文化は文書・絵巻・建築となり、しっかりと歴史の一時期を告げているものをいう。それは、解読可能な文化である。一方で記憶の文化は、語り継がれ、身ぶりとして継承されてきたものである。漠然とし、語りをする者たちのあいだには食い違いがあったりする。したがって、様々な語りをつなげ、そこからある種の「流れ」を引き出してくる必要がある。著者はそういった語りの束を、1つの「生活誌」として編集することが民俗学のつとめであると考え、実行にうつされたのだろう。

■参考リンク
第二百三十九夜【0239】2001年2月28日
解雇されたので起業します
DESIGN IT! w/LOVE 忘れられた日本人/宮本常一
[掲載]誠Biz.ID書評23号は『忘れられた日本人』



■tabi後記
文字にはなっていない異型の振舞いは、どこにあるのだろうか?この国にはないかもしれない。この球の陸や海やネットワークの中に潜んでいるのだろうか。この時代における「世間師」は実体をもちあわせていないのかもしれない。
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2009年09月08日

tabi0283 竹村真一「地球の目線」

たまたま(球・魂)この星に生まれて
グローバリズムとは、国際社会が一つに結ばれることではなく、宇宙のなかの一個の球"globe"として地球を認識し、その一つの球体をシェアするコミュニティの一員として自「分」を認識することだ。(中略)そして、ここでの主題はメディアでもコンピューターでもなく、あくまで「人間」ーすなわち私たち自信のあり方、私たちが地球やそこに住む他者とどんなコミュニケーションを持ちうるか?という「関係のデザイン」である。P228
竹村真一「地球の目線」(PHP研究所 2009)


私たちは地球の上に立っている。だが、少しだけこの「球」の目線に立ってみれば、この球は「地」よりも「水」によって覆われているがわかってくる。この球が自己を称するとしたら、地球よりも水球と呼ぶのではないだろうか。

earth-1.jpg

そして、この膨大な水が優れた地に暮らす者にとっての保温材となり、緩衝材となり、生命を育む稀有の安定した環境を創出しているのである。

竹村氏は、水に祝福された惑星としての「チキュウ」とそこに暮らす「ニンゲン」との関わりを、水/エネルギー/食料という視点から提案している。そして、本書に含まれる提案には、この惑星には本来エネルギー問題など存在しないという前提が存在している。

なぜなら、この惑星には膨大な自然エネルギーが潜んでいるからだ。そして、その自然エネルギーの元手は太陽にある。(ここで、この惑星は太陽系に存在していることに視点が移行される)

Sun_in_X-Ray.png

800px-Solar_sys8.jpg

上昇気流生み、その空隙にまわりから空気が流れ込むことで風が吹く(風力発電)も、地表の水を山の上まで空輸され、雨が降り、川が流れる(水力発電)のも、海洋温度差、光合成(バイオマス)なども、この無料の自然サービスの賜物であるという。このような好都合な真実に気がつくことから、新たな未来が想像されるのだろう。

■参考リンク
Earth Literacy Program
東京も適度に水没して自然に返るくらいが丁度いいんじゃあないかって思っているんですけれど。笑
地球大学 第93回最終回「地球環境とグローバル・メディアの未来」村井純



■tabi後記
globeの認識として、触れる地球地球時計などが登場してきたのだろう。
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2009年09月04日

tabi0279 老子/小川環樹 訳「老子」

老子とリバタリアニズム
第三章
賢を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざらしむ。得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗(ぬすびと)為(た)らざらしむ。欲す可(べ)きを見ざらば、(民の)心をして乱れざらしむ。是を以て聖人の治は、其の心を虚しくして、其の腹(ふく)を実(み)たさしめ、其の志を弱くして、其の骨を強くす。常に民をして無知無欲ならしめ、夫(か)の知ある者をして敢えて為さざらしむるなり。無為を為せば、則ち治まらざること無し。


もしわれわれが賢者に力をもたせることをやめるならば、人民のあいだの競争はなくなるであろう。もしわれわれが手にはいりにくい品を貴重とする考えをやめるならば、人民のあいだに盗人はいなくなるであろう。もし(人民が)欲望を刺激する物を見ることがなくなれば、かれらの心は平静で乱されないであろう。それゆえに、聖人の統治は、人民の心をむなしくすることによって、人民の腹を満たしてやり、かれらの志(のぞみ)を弱めることによって、かれらの骨を強固にしてやる。いつも人民が知識もなく欲望もない状態にさせ、知識をもつものがいたとしても、かれ(聖人)はあえて行動しないようにさせる。かれの行動のない活動をとおして、すべてのことがうまく規制されるのである。
老子/小川環樹 訳「老子」(中央公論新社 2005)


この章は愚民政策を説いているのではない。老子は、徹底した不干渉主義の政治が人民にとって最もよい政治だと説いているのである。

私たちは、中国を理解する際に、やたらと儒教「論語」を重んじるが、訳者の小川氏は「儒道互補」を説かれている。それは、儒教「論語」と道教「老子」をセットにして中国を理解することである。

内面に確立した道に基づき「治国平天下」を目指す儒家思想を理想主義と形容するならば、自己の外側の道に随順することによって、あらゆる境遇を甘受する道家思想は、現実主義と呼ぶことができる。中国の人々は、この両者を自己の中に併存させながら、状況に応じていずれかを依るべき価値観として選びとり生き抜いていてきたことを理解する必要があるのだろう。

■参考リンク
『老子』老子 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
In Defence of Negative Value



■tabi後記
無事、大学卒業が決まりました。とらわれものなく「道」に従っていこう。
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2009年09月02日

tabi0277 池谷裕二「単純な脳、複雑な「私」」

否定する自由 -リベットを超えて-
僕らがいまここで、重要な結論を手にしたことに気づいてほしい。僕らにとって「正しさ」という感覚を生み出すのは、単に「どれだけその世界に長くいたか」というだけのことなんだ。つまり、僕らはいつも、妙な癖を持ったこの目で世界を眺めて、そして、その歪められた世界に長く住んできたから、もはや今となってはこれが当たり前の世界で、だから、これが自分では「正しい」と思っている。そういう経験が「正しさ」を決めている。この意味で言えば、「正しい」か「間違っている」かという基準は、「どれだけそれに慣れているか」という基準に置き換えてもよい。P111
池谷裕二「単純な脳、複雑な「私」」(朝日出版社 2009)


人は、錯視をはじめとする錯覚をまざまざと見せつけられると、脳の活動こそが事実、つまり感覚世界の総体であって、実際の世界における実在すると思われている「真実」に懐疑的になっていく。

池谷氏は、そのような脳(人間設計)のでたらめさについて、ゲシュタルト群化原理、パターン・コンプリーション、サブリミナル、方法記憶、バイアス(様々な信念(記憶))といったテーマを用いながら、我々にとっての正しさとは、好きと馴れ程度のものでしかなく、日常生活は作話(意味のでっち上げ)に満ちていると物語っていきます。

そして「我々には自由意志はあるのか?」という問いを高校生に発しっていくのです。池谷氏は、リベットの受動意識仮説を紹介したあとで、自由"否定"論を展開していきます。

手首を動かしたくなったとき、たしかに、その意図が生まれた経緯には自由はない。動かしたくなるのは自動的だ。でも、「あえて、今回は動かさない」という拒否権は、まだ僕らには残っている。この構図は決して「自由意志」ではないよね。自由意志と言ってはいけない。「準備」から「欲求」が生まれる過程は、オートマティックなプロセスなので、自由はない。勝手に動かしたくなってしまう。そうじゃなくて、僕らに残された自由は、その意識をかき消すことだから、「自由"意志"」ではなくて「自由"否定"」と呼ぶ。P282
池谷裕二「単純な脳、複雑な「私」」(朝日出版社 2009)


私は、ここに、絶対否定即絶対肯定という考えを垣間みた。

■参考リンク
単純な脳、複雑な「私」 動画特設サイト
池谷さんの本を読む
NOのNOは脳 - 書評 - 単純な脳、複雑な「私」
「脳をハックする」ための最高の入門書――『単純な脳、複雑な「私」』



■tabi後記
すっかり秋になってきました。
posted by アントレ at 14:08| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月29日

tabi0271 梅棹忠夫 編「文明の生態史観はいま」

日本はアジアには属していない、というよりアジアなんて存在しない。
大陸ではなく、海に関心を持ちましょう。海は日本のもともとのふるさとです。海に戻りましょう。海というのはどこのことでしょうか。(中略)大陸へ行くには西に向かって同緯度をたどってゆくわけですが、こんどはそうではなく、南北の同経度連合を考えようというのです。太平洋の諸島を結びあわせた太平洋国家連合というゆきかたがあるのではないでしょうか。日本、インドネシア、ミクロネシア連邦、フィリピン、パプア・ニューギニア、オーストラリア、さらにニュージランド、これらとの島峡国家連合を本気になって考えないといけません。P220
梅棹忠夫 編「文明の生態史観はいま」(中央公論新社 2001)

著者は世界における日本の位置付けを熟考し、東洋・西洋という慣習的区分を乗りこえ、ユーラシア大陸を高度な近代産業文明の段階に達した第一地域、およびそうでない第二地域とに区分する。

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Osuga Blog

そして、日本をユーラシア東側における唯一の第一地域として、ユーラシア西側の西欧諸国と並行的に進化してきたというのだ。第一地域はその特徴として、封建制の存在と早い時期からの市場経済の発達があげられ、第二地域はその特徴として、古くから文明が栄えて専制的帝国を築いたが、封建制を発達させることなく、絶えず遊牧民による破壊的圧力にさらされ続けたことがあげられる。

この理論から考えられるが、中国人とアラブ人の行動様式に多くの共通性があること、日本人と西欧人とに共通する資本主義・市場経済への適応度の高さの指摘などがあるだろう。

「文明の生態史観」がもたらした意義は、東洋と西洋という二分法を放擲させたこと。 単一進化論の神話を破壊したこと(唯物史観では、狩猟ー遊牧ー牧畜と段階説を考えるが、生態史観においては、気候適応しているだけだと考える)。そして、封建社会が日本と西欧にしかなかったということを指摘したことであろう。

以上は「文明の生態史観」についてのレビューであるが、本書のユニークさは「文明の生態史観」出版後に、どのような批判や論理が追加されたのかということ視点が加わっていることだ。その中で特に焦点が当たっているのが、同緯度ではなく同経度というパラダイム転換である。

渡辺利夫「新 脱亜論」で指摘されていたように、日本はもともと海洋国家であるが、西の大陸にばかり関係を持とうとしてきた。最初に大陸に手をだして大やけどをしたのが663年の白村江の戦いで、新羅と唐の連合軍に対して百済と日本の連合軍がこの川で激突し大打撃をうけた。二回目が、秀吉の朝鮮出兵、三回目が日清、日露、日中の大陸出兵へと続いていく。

梅棹氏は、このような西の大陸での痛手や自らのフィールドワークを通じて「アジアというのは、そんなになまやさしいものと違います」という考えをもたれた。アジアの大陸的古典国家は、どろどろした人間の業がいっぱい詰まっているところであり、日本人のようなおぼこい民俗が手をだしてうまくいくものと違うと語っている。



■tabi後記
ガイア的視点にかけると言うのは簡単である。本論のようなクレイジーなことを説得的に語られるような人でありたいと思う。その一方で、観念誘惑には鈍感でもありたい。
簡略していえば「文明は装置系=制度系」であり「文化はそのデザインの問題」であるということになる。そして人類は、人間=自然系としての生態系から、人間=装置系としての文明系に進化してきた。その移行は連続的であり、現代文明といえども多分に生態的要素を残している。P155
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2009年08月28日

tabi0269 中谷宇吉郎「科学の方法」

われわれはただ賭けるだけである。それが生きることだから。
あるところまでは、実験の制度の範囲内でわかる。その先は、実験の誤差である。誤差の範囲内で一致するのだから、これは一致しているといっていたわけである。誤差の範囲内だから、よろしいというのは、法則の方を先に仮定していたのである。何か不変なものがないと、論理の足場がないので、物質不滅とか、エネルギー不滅とかという足場をつくった。今日物質とエネルギーが互いに転換できるということになっても、その和は不変とするのであって、そういうわくを作っておいて、それによって自然界を見ていく。それでやはり人間的要素はいつまでも附随していることになる。P190
中谷宇吉郎「科学の方法」(岩波書店 1958)

小林秀雄「常識」にも登場する中谷宇吉郎の科学哲学エッセイ。統計的手続きによる納得感と誤差に向き合うことが科学哲学の肝であろう。

物質と普通にいわれているものも、またエネルギーといわれている力みたいなものでないものも、本来ともに、自然界の実態ではなく、人間の頭の中でつくられた概念である。そして自然界の実態は、この両者を融合したところにあって、本来互いに移りかわれるものであったのである。P57


ファラデーはクーロムの法則の遠隔作用を否定して、近接作用の理論をつくり、空間のゆがみを電気であるとした。アインシュタインは万有引力の遠隔作用を否定し、近接作用を採用して、重力を空間のゆがみとした。もちろんこれは、人間が見ている世界であり、自然界に眠りし「イデア」を発掘したわけではない。科学とは、先達の信用の上に降り立った上で、その理論における誤差範囲を狭めること、説明範囲の拡張に努めていくのである。
火星へ行ける日がきても、テレビ塔の天辺から落ちる紙の行方を知ることはできないというところに、科学の偉大さと、その限界とがある。P89

ある現象が再現可能・くり返し可能であると見なせる根拠は何か、それはその社会のあるグループにおける多数派がそう見なしているから、という以上の答えはないように思える。当たり前の結論のように響くかもしれないけれど、ある現象が科学的、確率的に扱えるものであるか否かは、その時代の社会的合意によって凡そ決まってしまう。

もちろん、多数決でそのようなことを決めたりしたわけではなくて、例えば、サイコロ投げは確率的現象だと暗黙裡に刷り込まれているわけのである。これに対しても「現象の一回起性」に固執する立場からすれば確率的現象ではない、と強弁することも可能である。大森荘蔵の「賭け」という言葉にみられるような考えである。

■参考リンク
私の人生観を決定づけた大森荘蔵の言葉
第一夜【0001】
第十八夜【0018】
第六百七十夜【0670】
千早振る日々



■tabi後記
Twitter人口が増えてきた。そうなってくると、逃避したくなる。
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2009年08月27日

tabi0266 菅野覚明「神道の逆襲」

嘆息によって道が開かれる
私たちの眼前に、普段通りの変わらぬたたずまいを見せている山や川。そこで営まれる、働き、子を育て、食べ、休息する、私たちの当たり前の暮らし。見慣れた景色と当たり前の暮らしを、私たちは変わることのない自分たちの世界のありようであると信じている。私たちは、普段、そうした見慣れた日常を、あらためてそれが何であるかを問うことはない。しかし、神はある日突然に出現する。景色は一変し、私たちの生は動揺する。一変した風景が元に戻り、私たちが「記憶と経験」とを回復するまでの時間こそが、私たちの神の経験である。P37
菅野覚明「神道の逆襲」(講談社 2001)

今回は、佐藤弘夫「神国日本」(筑摩書房 2006)を交えながら論じていきたい。神道について考える際は、神道を天皇とナショナリズムへ結びつける常識を捨てることが大切になる。

神道は、常民の日常的な習俗とともに培われてきた民俗的な信仰やトーテミズムを含むものの、それをもって神道と言うわけではない。だが、両部神道や伊勢神道や唯一神道のように、独自の教説によって成立したものも神道の本来というものではなく、それらは広い意味での神道の一部にすぎない。

神道は民俗的な習俗をふまえながらも、伝統的な神に対するある自覚にもとづいたものであって、誰もが「それが神道である」と言えない領域に発達していったものなのであろう。その理由はイデオロギー的には説明がつかない。むしろ、日本の歴史の一つずつの「事件」に応じて形成されていったものだった。

これらの認識を踏まえた上で、菅野は、純粋経験に神を捉え、佐藤は、神道にへばりつく誤解を解きほぐすことを目標とする。

佐藤氏から得られた視座は、神道と音楽の根源が絡むところであった。それは引用部の「記憶と経験」の箇所、そして宣長の「もののあはれ」について論じている箇所から得られたことである。
物のあわれというのは、簡単にいえば、事物に出会ったときに「心が動く」ということである。人が事物に触れるとき、心はそれに反応して嬉しい悲しいとさまざまに揺れ動いている。このアナログメーターの針の動きのような心の動揺における事物の感知が、物のあわれを知るということであるとされる。

そして、この心の動揺が著しく大きいときには、その動きは声となって表にあらわれる。この嘆息の言葉もまたあわれとよばれる。あわれとは元来、「ああ」という嘆息の声である。この声は、心の動きそれ自体の表現であり、動きの大きさ、すなわちあわれの深さを表示するものである。あわれが深ければ、それはおのずと声となってあらわれる。この歎息が歌の根源なのだと、宣長はいうのである。P224
菅野覚明「神道の逆襲」(講談社 2001)

カミは、風景としてみずからをあらわしている「裏側」の何ものかなのであろう。それがカミ隠しであり、カミの表出は嘆息にありとする。嘆息は人間と自然の協同作品であり、その作品こそが音の根源であると考えるのは面白い。

■参考リンク
情報考学 Passion For The Future
Goodpic.com
第四百九夜【0409】
第六十五夜【0065】
第九百十夜【0910】





■tabi後記
松岡正剛氏はどこかでこう語っていた。われわれは、結局、こう答えるべきなのかもしれない。「あなたの宗教は何ですか」「われわれはそのような質問に対する回答をもたないような日々をこそ送ってきているのです」と。
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2009年08月26日

tabi0261 小泉文夫「音楽の根源にあるもの」

リズムが生み出すネットワーク
これまで芸術音楽すなわち職業音楽家の音楽と、民俗音楽すなわち素人の音楽という区別は、その中間的なものが多く存在しているが、やはり音楽の分野で最も大きな段階的区別だと考えていたが、実はリズムなどの点からすると、むしろ芸術音楽も民謡も大したちがいはない。それより民俗音楽の中で、芸能化した民謡と、「音楽以前の歌」との間にこそ、最も大きな溝があり、そこに発達段階の上で飛躍があるように思えてきた。P32
小泉文夫「音楽の根源にあるもの」(平凡社 1994)


音楽以前の歌とは何だろう?それはリズムだろうか。そう思うと同時に沸き起こるのは、リズムは歌の前に存在するのだろうか?という問いである。これらの問いへの答えが本書にのっているわけではない。だが、大きな問いをもらうことは出来た。今まで意識していなかったが、私の周囲は様々な音楽が溢れている。そして、溢れていたのだ。相撲の呼び出し、数のかぞえ方、仕事の掛け声、芸能の中のセリフ、BGM、CM、童歌・・・。

「いい調子」という言葉には「調べ(key)」が関係している。身体、他者、風、日、地球、宇宙・・あらゆるリズムの中で、息づく(リズム)私たちを探究する上で、音楽の根源への探究は必要なことであろう。小泉氏は、生活に溶け込む音や、その音を呼び起こすリズム感を起点にしながら比較音楽論を成立させようとしている。その中でも興味深かったのは、日本音楽に見出した「追分形式」であった。

■参考リンク
第六百一夜【0601】
小泉文夫氏の「音楽の根源にあるもの」から〜西洋音楽は絶対で無い!



■tabi後記
朝から晩まで書庫に籠っていた。
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2009年08月25日

tabi0258 高山宏「超人高山宏のつくりかた」

学魔を飼いならせ
まさしくパラッドクスそのものの構造。人間の頭脳また一個の図書館(究極的には四つのアルファベットの順列組み合わせで死ぬまで情報を発生させ続けるアーカイブ)なのだから、要するに人間が何かを知るとはどういうことで、それがパラドックスにならざるをえないのは何故で、たとえば文学と呼ばれている世界とそれが触れた時、確実にメルヴィルのアメリカン・ルネサンスが、ジョン・ダンの醇乎たるマニエリスムが、そして誰もが知るパラドクシスト、ルイス・キャロルがうまれざるをえまい。P33
高山宏「超人高山宏のつくりかた」(NTT出版 2007)


「超人」ができあがるまでの行程をしるした書籍。その中身は知の編集術の公開であり、汎知学の目覚めであり、学魔へいたるための「ブックス・イニシエーション」である。高山氏の本を手に取ったのは、昨晩、藤沢さんと話した内容が起点となっている。

その内容とは、井筒俊彦さんについて話す中で出現した「形而上学者と生きること」、「神秘主義者として生きること」というテーマであった。

僕は、話の枕として、この数週間は驚くほどに「主語(自我)」が欠如しているという話をした。私へ突きつけられる「最近、何をやっているの?」という問いは、非常に答えにくいものとなっていったのだ。もちろん、このような違和感は初めてではない。幾度もあったことだが、この時期ほど言葉にならない時はなかった。

言葉に詰まるというよりは、問われていることが了解できない、意味が明瞭ではないという状態であった。このように記述する方が正確であろう。そして、このような心境とは裏腹に、周りからは存在感があるように思われていた。この「開き」は何なのだろうか?それが、僕にとっての問いでだったのだ。

一つ確かだったことは、「最近、どうあろうしているの?」という問いには応えられそうという気分だった。そして、その思いが昨日頂点に達した。私が言葉に詰まっていた理由は、「無境界」という考えに根付いると直覚したからだ。

人は、深く深く思考をしていくにつれて、無意識、統合意識の領域に足を踏み入れていく。そして、深海領域で浮遊、苦悩している際に、自我(境界領域)としての振舞いを求められるのことは、気持ちが悪くなってしまうのだろう。その「開き」を理解することが出来たのは、非常に大きかった。幸いなことに、周囲からの要請に安易に飛びつくことはなく、焦りの兆候もない。

では内田は、そのまま探究を続ける形而上学者(学魔)なのか、それとも神秘主義者として、無境界のまま境界に出現する者なのか(あ、これが無相の自己か!)は定かではない。

おそらく神秘主義者であろうと思うが、今はまだまだ学びたいと考えている。飽きる果てまでやり抜きいてみたい。それが、半期留年というギフトだと考えている。通俗的な意味で「社会人」として思われるまでの時間は、あと半年間。私の場合、この間に決着がつきそうな予感がしている。

■参考リンク
第四百四十二夜【0442】



■tabi後記
高山氏は、首都大学東京を離れ、明治大学に籍をおかれている。何度か授業を聞きにいったことがあるが、実に悪魔的な授業であった。後期からの授業には出来るだけ出てみよう。
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2009年08月24日

tabi0255 松岡正剛「遊学の話―すでに書きこみがある」

未分化の復権を願いて
一本のカラスムギの根毛の総長は地球を一まわりするという。おそらく朝顔とて同じだろう。そのような朝顔というたったひとつ現象から、われわれは何を語りうるかといえば、きっと何もかもを語りうるにちがいない。植物学はむろんのこと、生物や生命について、土や地質学について、さまざまな化学反応について、ゲーテが全力を傾注した原植物と形態学について、そこから文学史や形態学の発展史に広まることなどについて、また、花の文化史や色の文化史について、朝顔を詠んだ多くの俳人について・・いくらだって、ある。僕が「遊学」と呼んでいるところのものは、このように一本の朝顔でさえ全宇宙を必要としているということだ。これを別の言い方にすれば、宇宙を語るのに天体望遠鏡がいらないこともあれば、朝顔を語るのにも天体望遠鏡が必要だということでもある。P271
松岡正剛「遊学の話―すでに書きこみがある」(工作舎 1981)

私たちは、太陽を肉眼で見て、ゆっくり動いているとおもっているが、太陽は実はものすごい速さで動いている。地球ですら毎秒30kmの猛スピードですっ飛ぶ球塊である。見えているものを見ないこと、そして見えていないこと見えていることの繋がりに敏感でいたい。地球が自転・公転していることが、私のサーカディリズム、心臓・呼吸のリズムへの影響に多感であるかもしれない。

話しは飛んでしまうが、日本人の宗教意識について触れてみたい。一般的に日本人は、「あなた宗教は何ですか?」と問われて、神道か仏教か儒教かと答えることは出来ない。この事態は、宗教的混乱なのだろうか?私はそう思えない。むしろ、どこかで「何かが合成されてしまっているのではと思うのであろう。

私は、その何かを探究し、深化していくことに「東洋的見方」のアプローチがあると考えていたが、松岡氏はこのアプローチの深化には難しさをみている。まず、岡倉天心や鈴木大拙のように「東洋のイデア」という統一性をもつには、政治形態の違いに留意する必要がある。そして、この方法は挫折していくと、カリフォルニアが騒ぎ立てた「東洋への道」に堕ちていった事へ繋がっていくからだと語る。



■tabi後記
更に気になることは、日々、ハトやカラスを多量に見ているのに、彼らが大量に死んでいるのを見たことがないことだ。これは一体なぜだろうか?と考える。

一体、彼らはどこで死んでいるのか!
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2009年08月23日

tabi0253 久松真一「東洋的無」

精神的東洋を索めて
仏教の本質的関心は、人間界がいわんや国家がいかに向上発展するかにあるのではなくして、人間界がいかに棄揚されるかにある。したがって、ここにまた、仏教的批判の根本義がなければならぬ。すなわち人間棄揚の立場から、人間が解脱的であるかどうかを批判するのが、仏教的批判の本質でなければならぬ。ただ、人間の立場に立って、人間の歴史的発展を顧慮し、批判するのみならば、仏教的批判とはいわれない。もしそのような批判ならば、道徳的批判となんら択ぶところないであろう。P208
久松真一「東洋的無」(講談社 1987)

「絶望した私が私自身を救う」ということがある。久松はこのようなプロセスを通れば、無は複雑性であることすら感じられるようになると見た。それが「無相の自己」(formless self)というものがあらわれる瞬間であろう。

無そのものが相貌をあらわして、それを自己とみなせる気分に包まれる。これは主体的無ではなくて、無的主体なのであろう。自身が無の底を割って出湧した自己なのである。それゆえそこには、深さ、広さ、長さの次元が同時にあらわれてくる。

「無相の自己」(formless self)は、近代的自己像と闘いつづけてきた西の哲学の成果に、いまなおクサビを打ちこみうる数少ない「東の溌無」なのだろうか。

■参考リンク
第千四十一夜【1041】



■tabi後記
ICC「学びのテクノロジーとデザイン」に参加してきました。農業の領域では、地産地消に拘りすぎることが、コスト高や環境負荷の悪循環へ入ってしまうことがある。リアルタイムに拘りすぎることにも類似するものが見えた。逆に言えば、そこから、解消のアナロジーも同時に見える。
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2009年08月20日

tabi0249 佐治晴夫/松岡正剛 「二十世紀の忘れもの トワイライトの誘惑」

一メートルで一挙に宇宙を
佐治:たとえばご飯を食べると、口の中にいれて噛むのは自分なんだけど、喉を通ったら私はコントロールできないわけです。誰もが喉を通してご飯を食べ、おいしかったといって生きている。でも、自分ひとりで生きているわけではないということは、もう当たり前のことなのに、「生きるぞ、生きるぞ」と歯を食いしばっている姿は間違っていると思うんですね。

松岡:そうですね(笑)。もうひとつはね、やっぱりこれは現代病だなという気はしてるんですけど、「全体」について何か研究すればすむという病気がはやってるように思うんです。

佐治:安心するんでしょう、「全体」を見ることでね。

松岡:ええ。日本のいまの病気も「グローバリゼーション」とか「国際化」とかいう言葉を使いますが、これはちょっとダメだと思いますね。そうじゃなくて、ちょっと個別でフラクタルで、フラグメントなものひとつで、十分に「全体」と拮抗するものを見出さなければいけない。それが宇宙論であり、生命論だと思うんですね。

佐治:おっしゃるとおりです。だからそこで考えると、どちらかというと東洋的な考え方の中に、そのひとつのヒントがあるということになりますね。

松岡:そうですね。「路傍の石でも語れる」というところ。P312
佐治晴夫/松岡正剛 「二十世紀の忘れもの トワイライトの誘惑」(雲母書房 1999)


目、鼻、耳、口、首、腕、足・・・といった単位で私は形作られない。私は、自分の顔さえ見ることは出来ない。常に「あなたに対してのあなた」であり続ける。

佐治氏と松岡氏には、そのような剛質なフィジカルイメージを破棄したがる。そして、よりナイーブなフィジカルイメージを追求していく。それが面影であり、片割れであり、ウツロウものであろう。このような追求の根底には、「困惑に対する喜び」があるのだろう。

それは「あなたは一個の生命ですか?」という問いを楽しむことと同義である。木を切ることは、人の肺を切ること。自己という一つの束に過ぎないことを「感じてるか」だろう。生命はひとつではない。

あなたの体内に大腸菌が何億いるのだろうか?サナダムシだっているかもしれない。そして、いろんな微生物が生きている。ひとつひとつの細胞だって生きている。それでも尚、自分に拘らせるものは何か?あなたをそうさせるものは一体何にか。そこから探究ははじまる。

■参考リンク
二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑/佐治晴夫、松岡正剛
アニミズムすぎるくらいがほんとうのアフォーダンスでは?



■tabi後記
半径一メートルで一挙に宇宙を語ること。確かに容易なことだ。
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tabi0248 タモリ/松岡正剛「愛の傾向と対策」

思想の猫背をやっつけたい
セイゴオ―今日、どうしても知りたいのは、なぜ、コトバに挑戦したかという一点に尽きるんだな。

タモリ―かんたんに言えば、理由はコトバに苦しめられたということでしょう。それと、コトバがあるから、よくものが見えないということがある。文化というのはコトバでしょ。文字というよりコトバです。ものを知るには、コトバでしかないということを何とか打破せんといかんと使命感に燃えましてね。

セイゴオ―苦しめられた経験とは?

タモリ―ものを知ろうとして、コトバを使うと、一向に知りえなくて、ますます遠くなったりする。それでおかしな方向へ行っちゃう。おかしいと思いながらも行くと、そこにシュールレアリスムなんかがあって、落ち込んだりする。何かものを見て、コトバにしたときは、もう知りたいものから離れている。

セイゴオ―そうね、最初にシンボル化が起こっていて、言語にするときは行きすぎか、わきに寄りすぎてしまってピシャッといかない。ぐるぐる廻る感じです。ヴィトゲンシュタインがそれを「コトバにはぼけたふちがある」と言った。

タモリ―純粋な意識というのがあるかどうかは知らないけど、まったく余計なものをはらって、じっと坐っているような状態があるとして、フッと窓の外を見ると木の葉が揺れる。風が吹くから揺れるんだけど、それがえらく不思議でもあり、こわくもあり、ありがたいってなことも言えるような瞬間がありますね。それを「不思議」と言ったときには、もう離れてしまっている感じがするんですよ。ほんとうは、まったく余計なもののない、コトバのない意識になりたいというのがボクにある。ところがどうしても意識のあるコトバがどんどん入ってきてしまう。それに腹が立った時期があるんスね、そのあと、コトバをどうするかというと崩すしかない。笑いものにして遊ぶということでこうなってきた。

セイゴオ―なるほどねェ。遊ばせていくしかない。P20-21
タモリ/松岡正剛「愛の傾向と対策」(工作舍 1980年)


本書は、ネクラがネアカへ挑戦し続ける軌跡である。タモリは、意味レスとプロレスしてきたのだ。フロイトもニーチェもブルトンも、何もかも暗い。このような「思想の猫背」を退治するために、タもリは意味レスを追求していく。

時が経つにつれて、その営みは「芸」と呼ばれるに至ったが、タモリは、芸自体が意味的に捉えられぬようにしている。そして、そのように予防すること行為からも解放することを目論んでいるように思えた。複雑な構図(実はシンプルすぎる)の中で楽しんでいく人間を垣間みることが出来た。

タモリの多国語 アフリカ編


■参考リンク
愛の傾向と対策って
イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽
寿司とタモリ



■tabi後記
1つ迷言を発見した。言葉は口から出る糞である。手に唾をつけて擦ると臭いのはその証拠である。(松岡正剛)
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2009年08月15日

tabi0243 十川 治江/松岡 正剛 「科学的愉快をめぐって」

ゆるい因果律・にじんだ対称性
松岡ーただ、僕がこれ以上説明できないのは、エピクロスのイメージが、あまりにも凝縮力が強くって、いろいろなものに応用できない。ふつう、僕の思考方法というのはグラフィク・デザインを見ようと、映画を見ようと、物理学を見ていても、それが直ちに他のものの良さに繋がるというので「ほうっ」と感心できるわけね。一人で悩まないで済んだ、解き放たれたなと思う。エピクロスにはなかなか他のものが棲みつかない。だから少し時間がかかると思っている。
実感としてはね、ミシンの先のようなものが「チュチュチュッ」と、細くて覚束ないながらもシャープにキックするようなフィジカル・イメージがある。さっきの喩えでいえば、ミルクのパックのような量子の中で「チュチュチュッ」とキックしている。こんなでたらめな印象だったら言えるんだけれども。(笑)P94
十川 治江/松岡 正剛 「科学的愉快をめぐって」(工作舎 1979)

・科学には厳密がお似合いだ。
・厳密の裏側には不思議が眠っている。
・愉快な科学を巡るため、不愉快な科学を裏返えそう。

このような企図がそこかしこに潜んでいる。

私にとって科学は愉快なものだったか?それが最初に浮かんできた問いである。

科学との出会いは、理科の授業だろうか。僕はこのあたりを想起することが出来ない。いささか想像力にかける。

私が今でも覚えていることは、小学校低学年のことだ。そのときの私は、ガスコンロでトイレットペーパーを燃やすという「偉大なる実験!」をしていた。何度も、何度も燃やしてみたが、一向に燃えない気配がない。僕は「燃えないことがあるのかもしれない!」と言っていた気がする。

その時に声をかけてくれた方は誰だったろう。担任、教頭、校長だろうか。ここは全く思い出せない。声の主は不在である。だが、声だけは私の中にのこっている。

「いや、燃えないということもある」

誰も聞き取っていなかった言葉だけれど、僕の中では確かに残っている。そして幾分か救われた気がした。

僕が、公教育へお願いがあるとすれば、科学哲学と歴史哲学とゲーデル数学の基礎を教えてほしいくらいだ。それを聞かないと、目が輝けない子供がいるはずだから。

■参考リンク
MILBOOKS
第一夜【0001】
第五十四夜【0054】
第六百六十夜【0660】
第八百二十八夜【0828】



■tabi後記
改めてSkypeが便利だと思う。私のSkype IDは「uchida0917」です。
コンタクトとれていない方、気軽に申請下さい。
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2009年08月11日

tabi0237 津島秀彦/松岡正剛 「二十一世紀精神―聖自然への道」

たまに地球のことを想い出してみるのもいい
▲-なぜ、自然的な一日があるか。もちろん、そこには地球が廻っているということがある。われわれは地球の回転とともにある。
★-したがって、われわれは何もしていなくても、畳の上に寝ころんでいても、地球とともに、全宇宙の事態とかかわっているということです。
▲-すべては関係しあっているのです。それが存在の内容でしょう。
★-われわれの内部でも同じ事態がおこっています。血液はぐるぐる廻り、分子は廻り、原子も廻っている。その最小単位である素粒子もスピン(旋転)しています。
▲-われわれは、さまざまな「回転速度」の中にある、と言っていいでしょう。
★-ミクロコスモスとマクロコスモスは、同じ夢をみているのです。そうであるならば、われわれもまた、その夢の世界を知らなければならないし、その夢とともにあることを知らなければならない。P20
注:▲津島秀彦★松岡正剛
津島秀彦/松岡正剛 「二十一世紀精神―聖自然への道」(工作舍 1975)


1日を考えることは、地球を通して全宇宙を考えることである。こう初めから迫ってくるのだから、面白くないはずがない。両氏は、1日を考えるとは「起きること」と「眠ること」であると納得していく。

両氏は、重力観念との闘いこそが人の歴史であるとする。それは、大地にへばりつくのをやめて立ってしまったということ、一切はここから始まるからだ。立ち上がったから手が自由になり、粘土版に文字を彫ることも道具をつくることもできた。

私たちにとっては、何のそのと思われる「起き上がる」という動作は、重力への抵抗する驚異的な習慣であるのだ。次に来るのが「おやすみなさい」という地球への挨拶である。

私たちは、重力からの自由のために「眠る」のである。そして「座る」(禅)という方法まで編み出した。夢をみること、禅的体験にいたること。この体験的時の最中において、重力との闘いは終止符を打とうとされる。

■参考リンク
イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽



■tabi後記
80年代のニューアカデミズムには想像力が及ぶが、70年代の工作舍は異常な雰囲気を朧げに感じられる程度。この10-20年の知的変遷が綴られた資料はあるのだろうか。
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2009年08月10日

tabi0232 竹田青嗣「中学生からの哲学「超」入門」

世界像の崩壊が人を聡明になる
だいたい高校までは、ふつうの人は誰でも、自分の家族、学校、友人などから自然に受け取ったはじめの「世界像」を育て、これをまわりの人間と共有している。これが一枚目の世界像です。ところが、大学などに入ると(もちろん大学だけとはかぎらない)、言葉の力がたまってきて、本とか耳学問で、突然新しい世界像が開かれることがある。世界と人間についてのまったく新しい観念、考え方です(宗教の形をとるこもある)。

これが二枚目の世界像で、これが入ってくると、なかなか強い力を発揮する。というのは、二枚目の世界像は、これまで自分が持っていた考えはみな間違ったもので、ここにこそ「ほんとうの世界」の姿がある、といった一種の世界発見の魅力をもって現れるからです。ちょうど、恋をすると、相手の美質について結晶作用が起こるのと同じく、世界についてのロマン的な結晶作用が起こるのです。P46
竹田青嗣「中学生からの哲学「超」入門」(筑摩書房 2009)

竹田現象学をシンプルにまとめ上げた1冊となっている。

竹田氏は、この引用文に続けて、「二枚目の世界像がさらに相対化されて三枚目の世界像を得たとき、われわれは、世界経験というものの全体像をはじめてつかむのだけれど、そのためには、この二枚目の世界像がなんからの仕方で挫折する必要があるのです。」と語る。

ヘーゲルは、二枚目の世界像に欺瞞に気がつきながらも、それに拘泥することを「不幸の意識」と呼んでいたが、私は、この世界像崩壊にともなう自己修復能力こそが、人を聡明にすると考えている。

客観主義にも懐疑主義にも寄り添わない現象学を目指して
世界の意味の秩序は中心点なる目標を失うと、いったん壊れてばらばらになる。ちょうどクモの巣の真ん中を破ると、全体がばらけてしまうように。しかししばらく存在の重さに堪えていると、世界は不思議な自己回復力で、もういちど意味の秩序を少しずつ張り巡らそうとする。クモが破れた巣を編み直すのと似ている。つまり深刻な挫折を体験すると、人は、世界がいったん壊れ、また自分を編み直してくる、という過程を必ずたどることになります。でも挫折がそれほど深くないと、人はそれに気づかない。挫折が深く、とことんまでいかない場合、根本的な世界の再構成ではなく、いわばつぎはぎ的な修復が起こるのです。P55

竹田氏は、自我の崩壊を夢判断で修復しようとしたが、ついには真の意味を獲得出来なかった。しかし、そこで獲得したのは「自己確信」という所作であった。

「自分の感情の海の中に、絶対的にそうだと思えることと、この先はもう何とも確信をもてないことと、そしてその中間地帯との、三つの領域の境界線がはっきりある、ということが分かること。」という態度を手に入れた。それが現象学研究のはじまりであった。

「世の中には、はっきりとした答えを見いだせる問いと、問うても決着の出ない問いがあるいうこと、このことが「原理」として腑に落ちていることは、どれだけ人を聡明にするかわかりません」と竹田氏は語る。

神は存在するのか、人間と世界の存在の意味はなにか。これらの問いに決定的な答えは誰も出せないという、形而上学の不可能性の原理は理屈では理解できる人も多いでしょう。しかし、このことがいったん深く腹の中におちれば、人間は本当に聡明になります。

この原理(カントによる原理)がわからないと、「人は、いつまでも一方で極端な「真理」を信奉したり、一方で、世の中の真実は誰にもわからないといった懐疑論を振り回すのです」と氏は語る。

■参考リンク
[書評]中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ(竹田青嗣)
社会システムとルール社会を越えていくもの
哲学は哲学者より簡単 - 書評 - 中学生からの哲学「超」入門



■tabi後記
妥当性の強度を欲望相関性で区分したモデルのver0.1が出来上がる。世界像崩壊パターンを区分することで、その人の世界像=疑団=業を知りたいという思いがあるからだろう。
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2009年08月07日

tabi0227 武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」

音楽の起源的な構造を想像的に志向する
<音>が肉体にならずに観念の所有となるのは音楽の衰弱ではないだろうか。この私の原則はたぶん変わるまい。が、これはあくまで観念であって、私はこれを具体的な方法に置きかえなければならない。民族学的な面から、その手段を発見するのも一つの方法にちがいない。民謡には美しいものもあるし力あるものもあるだろう。しかし私はそれに素直にはなれない。私は、もっと積極的に現代を音楽の手掛かりとしたい。現代の視点から民謡を・・・などというただし書きはまやかしにすぎない。なぜなら作者はあまりに現代を客観視しすぎる。作者が相手にすべきは真に同時代の思想や感情である。この激しいウズのなかで、おのれをいかし、それを証すことだけが正しく伝統につらなることにはならないか。P35
武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」(新潮社 1971)


武満は、<音>というものに対しては、標本箱の昆虫のように、外部の体裁だけをととのえた安直な秩序に魂を売らなかったのだろう。人間というものは何でも無いわかりきったことを疑問にしてその葛藤に巻きまれてどうにもならなくなってゆく。言うまでもなくそれは、愚かの骨頂なのであるが、この愚かさそのものが人を人たらしめている。それが、好奇心というものであろう。

彼も、既知の分類表にしたがってそれぞれ「概念」の運命をふりあてていけばよかったのだが、ふと立ち止まってしまった。そして、その立ち止まりの原因をも安易に分類しない。分類しないで居続ける「様」が、その応えになっているのだろう。彼の生活/文章がそれを物語っている。

■参考リンク
第千三十三夜【1033】
どうであれ



■tabi後記
山中俊治さんがディレクションする、「骨」展にいってきた。音の中に潜む「骨」を見出すことは、構造把握という生易しいものではないだろう。構造の裏に潜む構想。それを突き詰める精神を垣間みることができた。
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2009年07月08日

tabi0220 ゲーテ/柴田翔 訳「ファウスト 下」

Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch, du bist so schoen !
メフィスト
どんな快楽にも どんな幸福にも満足せず
次々と移り変わる姿を追って 挑み歩く男だったが
哀れなことには最後になって 何ともつまらぬ
空っぽの瞬間を わが手に握っておきたがった。
随分と俺に手を焼かせたが
時間には逆らえず老いぼれて ついに砂の上で往生だ。
時計は止まった

合唱 
時計は止まった! 真夜中のように黙り込んだ。
針は落ちた。

メフィスト 
針は落ちた。<事成れり!>

合唱 
事は過ぎたり。

メフィスト 
過ぎた? 馬鹿な言葉だ
何で過ぎるのだ?
過ぎたも 初めから無いも 完全に同じことだ!
それでは われらが<永遠の活動>はどうなるのだ
造られたものを無へと帰する活動は?
「これにて事は過ぎたり!」ーいったいどんな意味だね?
それならもともと無かったと同然で
その癖 結局は輪を描いて 有ると同じということになる。
むしろそれより俺の気に入るのは 永遠の空虚という奴なのだ。P475-476
ゲーテ/柴田翔 訳「ファウスト 下」(講談社 2003)


ギリシャに関するパートでは少々つまづいてしまったが、この本は何度も読むことにしようと決めたときに、全てがスッと入ってくるように感じた。引用したのはファウストが絶命した後、作品も終盤にはいった場面である。

このシーンは、メフィストが契約通りと判断しファウストの魂を奪おうとするが、合唱しながら天使達が天上より舞い降りてくるところだ。その後、天使は薔薇の花を撒いて悪魔を撃退しファウストの魂を昇天させる。

私にはこのシーンが未だに理解出来ていない。一般的な理解は、ファウストが「憂い」に視力を奪われても尚、その意思を捨てずに新しい土地に新しい人々の理想郷を作るおとを惜しまなかったことが救済に値する行為だったという判断です。もちろん真理は闇のなかである。

だが、第一部にも書いたように、ゲーテが対峙したのは「全て」である。その「全て」がこれなのか?と思う。考えとしては、華々しい結末を期待する心性にこたえないということや、メシア的救済といった理解もできるであろう。

しかし、それでいいのか?と思う。私が今のところの理解しているところでは、「それいいのか?」と読者へ想起し続けるための「開かれた結末」だったということだろう。

■参考リンク
第九百七十夜【0970】
Wikipedia ファウスト 第二部
精神的陽光
グノー 「ファウスト」 


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■tabi後記
Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch, du bist so schoen ! における「dU」が大切であろう。
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2009年07月04日

tabi0213 丸谷才一「思考のレッスン」

問いをもち、問いをそぎ、問いをそだてる
われわれだってホームグランドは持てる。といっても、これは、よく言われる全集を読めというのとは違います。(中略)そうではなくて、自分にとっての主題というか、もっと広い意味でのホーム・グラウンドがあるようにして読む、それはおのずからできると思うんですよ。たとえばフランス革命史がホーム・グラウンドであるような読書とか、あるいは米ないし稲作という問題が自分のホーム・グラウンドであるような読書とか、それが、本の読み方のコツではないかという気がします。P149
丸谷才一「思考のレッスン」(文芸春秋 2002)


人は図書館/大型書店を回遊することによって、自らの「問い/ホーム・グラウンド候補地」を見つけ出すことができる。

あるコーナーで、ふと足がとまってしまう。ふと手にとった本を数ページを読んでみて、「これは!」と思えるものに出会えらしめたもの。その本が、あなたのホーム・グラウンド候補地になるだろう。

しかし、ここからが大事ところである。

「問いをそぎ」「問いをそだてること」というフェーズに入るからだ。

原初的な「問い」は、誰かの「問い」であることが多々ある。あなたの「問い」は、単に無知だったがために「問い=謎」という形をとっていることが大半なのだ。それを前提にしてもっておくことは非常に大切なことです。

なぜなら、最初に抱いてしまった問いを、何か神秘的なものと勘違いして、それを捨て切れない人が往々にして見かけるからだ。そこで執着しないこと。それが問いをそぐことである。

問いをそぎ、それでも残ってしまうものがある。そこから問いとの伴走がはじまる。それが「この問いをいかに育て上げるか?」というフェーズである。

このフェーズでは「比較と分析を大切にしたほうが良い」と著者はアドバイスする。「これは!」と思った著者の本、それと同カテゴリーの本、また著者が参考/推薦している本を読んでいくのだ。こういった方法で50冊ほど読破していくと、自分の中で「キーワード」が湧いてくると思う。

次はそのキーワードに基づいて「インデックスリーディング」をしていくのである。(具体的な方法は、参考リンクをみて頂きたい。)

この域に達した人は、自分の思考方法を編み出してきていると思う。その時になると、教える立場にたつ機会をえているだろう。本書を入口にして、多くの思索家が生みいでることを期待する。

■参考リンク
読書は人間がベッドの上でおこなう二つの快楽のうちの一つ


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■tabi後記
「まとまった時間があったら本を読むなということです。本は原則として忙しいときに読むべきものです。まとまった時間があったらものを考えよう。」という主張は、ショーペンハウエルを想起させる。
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2009年07月02日

tabi0211 V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」

意味から意身へ
「生きる意味があるのか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。P27
V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」(春秋社 1993)


フランクルの名は「夜と霧」で知っている方もいるだろう。本書はフランクルがナチスの強制収容所から解放された翌年にウィーンの市民大学で自らの体験と思索を語った講演集である。

意味が相対化され、解が納得化された時代において「意」とうのは虚しい。このようなニヒリズムが優勢をしめる中で、フランクルは「意」について探究していく。

「意味から意身へ」というフレーズをつくらせてもらったが、彼が伝えたかったのは「意」を味わうくことではなく、「身」で意することなのだと思う。

つまり色も味もなき「意」(人生=世界)を味わおうとしたり、探そうとしたりするのは笑止千万、荒唐無稽な話なのだ。

未来が無いように思われても、怖くはありません。もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのです。その際、どんな未来が私たちを待ち受けているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのですp28
V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」(春秋社 1993)


意身とは「私は人生にまだ何を期待できるか」から「人生は私に何を期待しているか」という「イミ論的転回」を遂げたときに生ずるのであろう。

■参考リンク
981旅 フランクル『それでも人生にイエスと言う』


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■tabi後記
つぶやき書評になってしまった。
多くを書くまでもないのだろう。

posted by アントレ at 21:23| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0210 マーカス・バッキンガム「さあ、才能に目覚めよう」

強みの理解が他者の理解を導く
「強み革命」を起こすには、弱点にこだわるのをやめ、人に対する認識を改めることが何より大切だ。人に対する正しい認識を持ちさえすれば、配属、評価、教育、育成などその他の事柄もすべて自ずと正しい方向に向かうはずだ。それをすでに実践している、すぐれたマネジャーが、共通して持っている二つの認識を示そう。
1.人の才能は一人ひとり独自のものであり、永続的なものである。
2.成長の可能性を最も多く秘めているのは、一人ひとりが一番の強みとして持っている分野である。p12
マーカス・バッキンガム「さあ、才能に目覚めよう」(日本経済出版社 2001)


本書は、「才能(強み)」とは、無意識に繰り返される思考、感情、行動のパターンと定義する。ユニークだと思った点は「才能」はなんら自慢すべきものではないという視点である。

一般的に才能という言葉は、持って生まれた「特殊な」資質および素質と考えられている。もちろんこの考え方自体は誤りではないが、才能が宿っているのは「ごく少数の人」と考えてしまうのは誤りなのだろう。

また「強みは常に完璧に近い成果を生み出す能力」とも書かれている。この完璧に近い成果というものが、インパクト勝負になってしまうと「少数」という考え方がつくのだろう。

本書ではそのような「インパクト」を問題とするよりも「満足のいく結果を出すには、あらゆることがうまくこなせなければならないのは嘘」であることを認識することに重きをおいている。

この主張を極端にすれば「オールラウンドはいらない」ということであろう。だが、ここで伝えられていることは「強みが見えれば、自分の(相対的な)弱みもみえてくる」ということだ。強みに気づくことで「餅は餅屋」という考えを理解できる。

この理解が「チーム」で仕事をするということに情熱をもたせるのだろう。

強みはどう表現されるのか?

例えば「人あたりがいい」という表現は何をさすのだろうか?

・一度しか会ったことのない人とでも信頼関係を築く才能があることなのか?
・初対面で相手に好印象を与える才能があるのか?


「自主性がある」とはどういうことか?

・どのような業務を与えられても意欲的に取り組む姿勢があるということか?
・意欲をかきたてられる目標を与えられると、がぜんやる気を起こして取り組むことか?

これと同じようなことが本書で提示される「強み」にもいえる。

テストを行なった人は、包含、社交性、内省・・・といった34の強みから5つの強みが提示されていると思うが、ここで提示された5つの強みは「深堀り」されなくてはいけないだろう。ここで示された言葉から演繹的に強みを理解することが求められるのです。

私は、

1 収集心 Input
2 指令性 Command
3 個別化 Individualization
4 活発性 Activator
5 着想 Ideation

という言葉があてがわれた。

明らかなことだが「この5つが私の強みです」などと語っていては意味がない。この言葉(概念)を踏み台にして、過去の事例(現在の状態)を探っていくことが大切である。

ここで提示された「強み」は想起を促進するためのツールなのであって、語るための強みではない。語るためには、エピソードを誘発するような「問い」が必要である。

テスト実施後に送られてくる「強み」の解説があると思います。その解説を参考にしながら「問い」をつくりだすことが必要です。

例えば、私は以下のように「問い」を設定して、エピソードや習慣化された行動特性(頑張り方の根っこ)を掘り下げて行きました。

1 収集心 Input
・今までどのようなものを集めていただろうか?
・集めたものをどう整理していたのか?
・集めたものをどのように活用していたのか?

2 指令性 Command
・どのような考えを他人に押しつけてきただろうか?
・対決を恐れずに突き進んだことは何だったか?
・自分が強い存在感をもったのは何時だったか?

3 個別化 Individualization
・どのような一般化、類型化に我慢できなかったか?
・どのような人の個性、物語を理解しようとしてきたか?

4 活発性 Activator
・皆が恐れる中で行動を起こさずにいられなかったことはありますか?

5 着想 Ideation
・ほとんどの出来事を最もうまく説明できる考え方はありましたか?
・どのように誰でも知っている世の中の事柄をひっくり返しましたか?

皆さんもやってみれば分かると思いますが「示された強み」には「問い」に変換しやすいものとしにくいものがあります。

私でいうなら、1,2,3は変換しやすいが、4,5は変換しにくい部類にはいりました。この部類わけが生じるのは興味深いところです。

つまり「なぜQuetion-Induced(質問誘発性)に差が生まれるのか?」ということです。これから考えてみたいとテーマです。

■参考リンク
これで百戦危うからず? - 書評 - さあ、才能に目覚めよう



■tabi後記
思索のヒントとして「キャリアをつくる9つの習慣」に記載されている、コミットメント系、リレーションシップ系、エンゲージメント系という動機性質はつかえると思った。

・コミットメント系
達成動機(最上志向など)、パワー動機(闘争心)

・リレーションシップ系
社交動機(親和欲)、伝達動機、理解動機、感謝動機

・エンゲージメント系
自己管理動機(鍋奉行)、外的管理動機(ルール志向)、抽象概念動機(内省)、切迫動機(活発性)

とわけられている。
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2009年06月30日

tabi0206 デカルト「方法序説」

モウラアウラ

本書の正確なタイトルは、「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(序説)、加えてその方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」である。

全体で500ページを超えるこの大著の最初78ページが「方法序説」であり、3つの科学論文集の短い序文となっている。

デカルトは、ありとあらゆる書物を読むことで、真理を獲得できると考えていたが、それによって多くの疑いと誤りに悩まされ、自分の無知を知らされることになってしまった。

デカルトは、この旅にあまりに多く時間を費やすと、しまいには自分の国で異邦人になってしまうと考えていた。それは、過去の世紀になされたことに興味をもちすぎると、現世紀におこなわれていることについて往々にしてひどく無知なままになるということであろう。

以上の理由で、わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問(人文学)をまったく放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探究しようと決心し、青春の残りをつかって次のことをした。

旅をし、あちこちの宮廷や軍隊を見、気質や身分の異なるさまざまな人たちと交わり、さまざまの経験を積み、運命の巡り合わせる機会をとらえて自分に試練を課し、いたるところで目の前に現れる事柄について反省を加え、そこに何らかの利点をひきだすことだ。

というのは、各人が自分に重大な関わりのあることについてなす推論では、判断を誤ればたちまちその結果によって罰を受けるはずなので、文字の学問をする学者が書斎でめぐらす空疎な思弁についての推論よりも、はるかに多くの真理を見つけ出せると思われたからだ。P17
デカルト「方法序説」(岩波書店 1990)


モウラになるか。アウラになるか。更に言葉遊びをするならば、「モアウラ(More裏)」という言葉生まれてくる。「ヨリウラ」とは「何より」なのか、「ウラ」は何を示すか。メタファーとして思索してみてほしい。

世界が欲する自分の秩序という視点

「餅は餅屋」を感じきったデカルトは、自分の仕事を「全生涯をかけて自分の理性を培い、自ら課した方法に従って、できうるかぎり真理の認識に前進していくことである」と確信している。
わたしの第三格率は、運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めることだった。そして一般に、完全にわれわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけることだった。

したがって、われわれの外にあるものについては、最善を尽くしたのち成功しないものはすべて、われわれにとっては絶対的に不可能ということになる。そして、わたしの手に入らないものを未来にいっさい望まず、そうして自分を満足させるにはこの格率だけで十分だと思えた。P38
デカルト「方法序説」(岩波書店 1990)


デカルトを還元主義者の一言で片付けられるだろうか?いや、そういう問いではないかもしれない。

私は彼の著作を読むことで「自身にあるデカルト」を気づこうとてもしたのではなく、デカルトが見ていた地平は「還元主義」だったのだろうか?という違和感があるからだ。

もちろん、問いは謎のままである。

■参考リンク
方法序説×方法叙説
哲学書を無心に読むこと……的
困難は分割せよ・・・ルネ=デカルトの教え



■tabi後記
どうも近音異義語(韻)が引っかかるらしい。
posted by アントレ at 22:35| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月29日

tabi0201 高橋昌一郎「ゲーデルの哲学」

判事が、「あなたは、現在ドイツ市民権を所有していますね」と尋ねると、ゲーデルは、それを遮って「いいえ。オーストリア市民権です」と言った。「いずれにしても、独裁国でしたな。しかし、わがアメリカ合衆国では、そのようなことは起こりえませんからね」と判事が言うと、ゲーデルは、「それどころか、私は、いかにしてそのようなことが起こりうるのかを証明できるのですと言った。アインシュタインとモルゲンシュタインは、慌ててゲーデルを制して、一般質問に話題を戻した。一九四八年四月二日、ゲーデルとアデルは、アメリカ合衆国市民権を宣誓した。P155
高橋昌一郎「ゲーデルの哲学」(講談社 1999)


ゲーデルの入門書として評価が高い一冊。ゲーデルの死後に明かされた大量の遺稿から、ゲーデル像を新たに築きなおし、ゲーデルによる神の存在論的証明について、日本で始めて紹介した点がユニークなのだろう。

ゲーデルの不完全性定理によって「人間の知性の限界が示された」という人もいるが、少し注意が要る。直接的には「形式化できる論証」の限界が示されたのであって、それ以外の人間の知性ー形式化されていない価値観・感性・構想・意図・直観などまでにはかかわっていないからである。P273
野崎昭弘「不完全性定理」(筑摩書房 2006)


ゲーデルには、ウィーン学団期とプリンストン高等研究所期があると考えられており、後者の時期において、形式化されていない知性を探究するために、反人間機械論や神の存在論へ向かったとされる。

このあたりの文章にふれると、理性主義を貫く神秘学者というようなイメージを抱かされる。自身の思索をガベルスベルガー式速記にまとめあげたことにも関心がむく。

理性の限界が示されたときに、その理性を脱構築(脱魔術)してしまうのは容易い。その容易さに溺れずにいることは大切であろうが、魔術の起源問題に寄り添いすぎずにいることと並走させていたい。

限界の果てに何をみるのか。限界から何が生まれるのか。限界の敷かれぬところへいくのではなく、限界の敷く/敷かれぬという地点ではないところへいくのか。「ところへいく」から離れるのか。「はなれる」などの述語をどう扱うかも射程にはあると思えば、一向に深みがましてくる。

追記
高橋悠治 × 茂木健一郎: 他者の痛みを感じられるかと併せてみるといいかもしれません。

■参考リンク
第千五十八夜【1058】
数式なしでわかった気になれる「ゲーデルの哲学」
337旅 『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』



■tabi後記
周囲はボルタリングに嵌っているようだ。事の真偽を確かめるべくRhino and Birdいってきます。
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2009年06月24日

tabi0197 入不二基義「哲学の誤読」

哲学の文章は「誤読」の可能性に満ちている

そう、本書は誘惑する。

「誤読」にはどのような可能性かあるのか?

ここであげられているのは4つの誤読である。

1 すべてを人生や道徳の問題であるかのように曲解する「人生論的誤読」
2 思想的な知識によってわかった気になる「知識による予断」
3 「答え」を性急に求めすぎて「謎」を見失ってしまう「誤読」
4 そして新たな哲学の問いをひらく生産的な「誤読」

本書は、大学入試に出題された野矢茂樹・永井均・中島義道・大森荘蔵の文章を精読する試みである。出題者・解説者・執筆者だけではなく、入不二自身の「誤読」に言及したうえで歩をすすめていく。ここでは第二章 <外>へ! ―永井均「解釈学・系譜学・考古学」(ぜひ本文を読んでみて下さい)のみ取り上げる。

「過去の過去性」のとらえかた

「鳥はもともと青かった」という解釈学的な生から始まっていた考察は、一巡りして、「鳥はほんとうはもともと青くはなかった」という逆の解釈学的な意識(自己解釈)に落ち着くことになる。「解釈学的な生→進行形の系譜学→完了系の系譜学→新たな解釈学的意識」というように。内部から始まって、それを外部から視線で疑い、疑いが明らかにしたことに基づいて、それを前提とする新たな内部へと回帰したことになる。P109
入不二基義「哲学の誤読」(筑摩書房 2007)


解釈学、系譜学は過去の過去性を殺すとことで一致する。「系譜学には迂回性があるぶん解釈学より深みがある」と感じてしまうのは「人生論的誤読」であろう。

そして、過去殺しへの抵抗として考古学的視点が提出される。ここで、フーコーを想起するものは「知識による予断」による「誤読」をおこなってしまうことになる。

われわれは、そのように「忘却」のほうを主体にただ黙々と生きているのだとすると、そのわれわれの姿は、解釈学的な生を「物語」だと気づくことなく、ただ端的にその生を生きるだけのあの「彼ら自身」の姿に似てこないだろうか?ただ忘却にまかせて生きている「われわれ」とは、実は「彼ら自身」のことなのではないか?そして、疑いの視線もなくただ忘れながら生きることと、過去の過去性を殺さないように努めることとは、実は一致するのではないか。P131


考古学的視点とは「みつめられない過去」にまなざしを向けるという撞着的な営みであり、その営みすらも忘れることでしか「過去性」には到達できないと語られる。だがその視点では「解釈学的物語」に気がつかない「彼ら」と同じである。またもや解釈学の地平へと回収されてしまう。と著者は解説していく。

ここで「では一体何なんだ!」と叫んでしまうのは、哲学ではない。「どうぞ文学でも宗教でもいって下さい」というコトバがきこえてくる。このような注釈も飽き足りてるかもしれないが。さて「ここから」思考を生み出していくが哲学であろう。

総じてみると「解釈学・系譜学・考古学」は循環運動のように見えなくもなかった。だが本質的には解釈学だったのであり、そして「解釈学」というコトバが生まれない地点へ立戻らされてしまったのである。「この地点に立たされた」ということは、語れるのだろうか。語らないのではなく、語れないことが本質であるような状況では、いかなる発話も「知識による予断」となってしまうだろう。この地点とあの地点(これが過去!)をつなぐものを求めるのか(統合,体系)、単に知りたいのかといわれたら、後者に近いと思う。

■参考リンク
『哲学の誤読』入試問題の哲学的読み
高速道路効果抜群「哲学の誤読」
2002年東大前期・国語第四問「解釈学・系譜学・考古学」



■tabi後記
大学にいる1,2年生はDQNばかり。
元気なら、それもありだろう。
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tabi0196 クリステンセン/レイナー「イノベーションへの解」

製品がどのような用事をするために雇われているかを理解できれば、そしてうまく片づけられずにいる用事にはどんなものがあるかを知ることができれば、イノベーターは顧客の目から見た真の競争相手を打ち負かすために、製品を用事のあらゆる側面において改良するための、明快なロードマップを手に入れられる。P97
クリステンセン/レイナー「イノベーションへの解」(翔泳社 2003)


「イノベーションのジレンマ」は破壊的な技術革新を受けて優位を脅かされる側の企業に視点を置いていたが、「イノベーションへの解」ではその技術革新で新事業を構築し、優位企業を打ち負かそうとする側に置いている。

この「破壊される側ではなく破壊する!側となって」という立場が本書の特色である。

本書にも書かれているが、抜け目の無い投資家は、企業の既存事業の期待収益率を株価に織り込むだけでは飽き足らず、経営陣がまだ立ち上げてもいない新規事業から将来生み出すであろう成長まで織り込んでしまう。

本書で書かれているのは、この飽くなき成長をドライブさせる「投資家」から逃れる為の成長ではない。実際のところは、本書から「成長(イノベーション)」に対する根本思想は読み取ることはできないが、クリステンセンが教育、医療といった領域で破壊的イノベーションの可能性を思索している事から推察してみるといい。

さて、本書で扱っているトピックは広範である。

どうすれば最強の競合企業を打ち負かせるのか、どのような製品を開発すべきか、もっとも発展性のある基盤となるのはどのような初期顧客か、製品の設計、生産、販売、流通のなかでどれを社内で行い、どれを外部に任せるべきか…というような、きわめて具体的な意思決定の「解」が提出されている。

また、議論の進め方にも関心がもてた。「適切な分類を行うことが、取り組みに予測可能生をもたらすための鍵となることを説明する」という考えをベースに敷きながら、理論が予測できなかったであろう例外や特殊事例を発見しようと真剣に努力している。そうすることによって理論を大きく向上させようとしているのだ。

クリステンセンから破壊的プレイヤーへに送られた問い

新市場型破壊
・これまで金や道具、スキルがないという理由で、これをまったく行わずにいたか、料金を支払って高い技能を持つ専門家にやってもらわなければならなかった人が大勢いるか?

・顧客はこの製品やサービスを利用するために、不便な場所にあるセンターに行かなければならないか?

ローエンド型破壊

・市場のローエンドには、価格が低ければ、性能面で劣る(が十分良い)製品でも喜んで購入する顧客がいるか?

・こうしたローエンドの「過保護にされた」顧客を勝ち取るために必要な低価格でも、魅力的な利益を得られるようなビジネスモデルを構築することができるか?

・このイノベーションは、業界の大手企業すべてにとって破壊的だろうか?

もし一社もしくは複数の大手プレイヤーにとって持続的イノベーションである可能性があれば、その企業の勝算が高く、新規参入者の見込みはほとんどない。


■参考リンク
「場面」 経営戦略コンサルの洞窟
戦略的コスト構造を武器に
UBブックレビュー



■tabi後記
本文もさることながら、注も面白い。彼らの賢さやユーモアが非常にあらわれている1例を紹介しよう。

われわれの知り合いはおそらく気付いているだろうが、ファショナブルなブランド服に身を固めることは、われわれがこれまでの人生で片づけようとしてきた用事ではない。したがって最新ファッションにはまったく何の洞察も持っていないことをここで告白する。おそらく永久に収益性が高いままだろう。われわれに分かるものか。P206
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2009年06月14日

tabi0184 佐藤雅彦・菅俊一・石川将也「差分」

aとbの差を取ることで、「ある表象」が生まれる。

sabun.jpg

この2枚の絵の差分を取ることで、「もりあがる」という感覚が、我々の内に生まれる。P3-5
佐藤雅彦・菅俊一・石川将也「差分」(美術出版社 2008)


本書は李英俊さんに勧めてもらいました。ありがとうございます。

「差」を取ることで何かが生まれる。
差分とは、隣り合ったものの差を取った時の「脳の答え」である。


このように始まりが告げられる本書は、絵本といっていいのか、差本とでも称せばいいのだろうか。中々、紹介に困る本である。なぜなら、この本が「示されていないことを示すこと」によって成り立っているという奇妙な構図をもっているからです。

人は様々な感覚において差を取りながら生きている。動きが見えるのも、音楽が聴けるのも、物語を感じるのも、味を感じることも、悲しむことも、すべて差をとった結果である。といえるかもしれない。

差分を別の言葉と関連させると、仮現運動になるだろう。映画やパラパラ漫画のように、一つひとつは静止している画像を連続して見ると、それがあたかも動いているように見える。このように実際には動いていないものが、仮に動いているように見える現象を「仮現運動」という。

点から線が立ち上がること

認知科学的に読むならば、この本によって認知の不完全さを露呈した例を数多く採取できるであろう。いや<完全>さを感じるということだろうか。

差分の前に立たされた者は、認知対象を「捨象」し身勝手に「補完」する。それをバイアスと呼ぶか、プライミングと呼ぶかは、あなた次第である。

正直なところ、私にはそこに関心はない。私が関心をもったのは「点」という形が「線」という意味になったことである。点と線をつなぐもの、それはAとBを足し合わせた「+」ではなく、AからBを引き算する「−」にあることである。

■参考リンク
『 差分 』 刊行



■tabi後記
昨日は入不二基義さんの「哲学文献講読演習」(テキストは「転校生とブラックジャック」)に参加させて頂いた。私を含めて学生が6人だけだったので、有意義に過ごす事が出来た。
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2009年06月02日

tabi0181 米山優「情報学の基礎」

要するに学問の世界で言えば「永遠真理」への信奉、日常的な世界では日々起こった出来事への絶対的な信頼である。(中略)いずれの場合も背後で起こっていることは、言うなら<時間を止めている>という事態なのである。そこには、過去から引き続いてきているような秩序を超えて別の新たな秩序へと向かおうという眼差しは、もはや無い。<すべては既に終わっている>というところから事柄を始めるようなものである。p8
米山優「情報学の基礎」(大山書店 2002)


米山情報学西垣情報学と「生命性」という点において類似がみられるが「時間性」を所与としないところに相違がある。

米山が潜在的に問おうとしているのは

・時間が「持続」している心理的実在感は「何を」跳躍しているのだろうか?
・論理的実在感は時間を「断続」するさいに「何」を抽象してまうのか?

この2側面ではないだろうか。

すでに存在してしまった仮説。仮説はそれが有効に機能しているかぎりでは仮説でないという逆説的な性格を有している。この<逆説性>のゆえに科学は、真の目的性の探究に関して禁欲を装いながら、似非目的性を排除するかのように実は作用に吸収させ、以て作用性と目的性とを同一視するという不条理に陥る可能性を有している。P44


米山にとって、ある思想/方法に関心を抱く定点は、「Given」に対して「強さ」がみえるか「弱さ」をみえるかなのだろう、それが棄却するまでは、それは仮説とたりえないこと、一切は与えられていると主張することに対する「とりあえずさ」への感度である。

先の問いはこう変換されるかもしれない、

・確かさのあるリアリティー
・どこかに潜むアクチュアリティー

を繋ぐものとは?繋ぐものがあると思わせる誘惑性に毒されているか?

私は、その非実在と実在を紐帯するモノへ関心はいかない。そこに場,編集といった概念装置を導入することにって地平がひらけるように思えないから。心理的納得と論理的説得の同時的存在を希求するということ事態がすでに所与とされている。そうなると自己言及的無限にたたされることになるのだが、そこで終えることは何も考えることにはならない。

そこで、何に対峙しているのか、されそれを見つめたい。

■参考リンク
第六百七十一夜【0671】
アイス・W・フラハティ「書きたがる脳 言語と創造性の科学」



■tabi後記
Inspiration(Cool+Coollect=Coolect)⇔Exspiration(Cool+Edit=Credit)
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2009年05月29日

tabi0180 岡本太郎「日本の伝統」

なぜこの本を読むのか?

誰しも青春の書というものがあるだろう。私だったら「自分の中に毒を持て」を青春の書の1つとしてあげる。岡本太郎が晩年に記した著作である。

「何だ、これは!」という彼の咆哮は私をとらえて離さなかった。「何だ、これは!」を駆り立てるモノ、そして「何だ、これは!」に駆り立たされるモノの間に芸術が宿っていると解釈しながら、彼が実践する「自らの命を燃やす実存主義的生き方」に共感していた。

その岡本太郎が、日本、そして伝統と如何に対峙したのか?彼にとって「日本的なモノ」「伝統的なモノ」は如何にうつっていたのか?彼の知見を梃にすることで私の考えはすすんでいくと思ったのだ。


自分の中にドク(読/毒/独)をもて

岡本太郎の生き方はクールであり、セクシーである。ただ留意してほしいのは、一見、実存主義は自分を救ってくれるかのように思える事である。

だが、実存主義ほど苦渋に満ちた生き方は他にない。

なぜなら、実存的に生きるということは、人生の価値を自分の主観で定義するしかないからだ。学歴も、ルックスも、地位も、名誉も、資産も、なにも自分を満たしてはくれない。

他者と比べて「より自分は優れているぞ」という感覚を基底とする相対的なアイデンティティは、どれも偽物とされてしまうのだ。自分自身の命を、自分の手で激しく燃やし続けることでしか、自己の存在理由を確認できないのだ。

これは、ほんとうに孤独で、辛い道である。そして、この孤独な道を選び取った者は、命を激しく燃え上がらせるために、苦境へと苦境へと自らを追い込んでいくしかない。この点は岡本太郎も指摘するところである。

何をすればよいのか、それがわからない、と言うかもしれない。(中略)こういう悩みは誰もが持っている。では、どうしたらいいのか。まず、どんなことでもいいからちょっとでも情熱を感じること、惹かれそうなことを無条件にやってみるしかない。情熱から生き甲斐がわき起こってくるんだ。情熱というものは、”何を”なんて条件つきで出てくるもんじゃない、無条件なんだ。何かすごい決定的なことをやらなきゃ、なんて思わないで、そんな力まずに、チッポケなことでもいいから、心の動く方向にまっすぐに行くのだ。失敗してもいいから。何を試みても、現実ではおそらく、うまくいかないことのほうが多いだろう。でも、失敗したらなお面白いと、逆に思って、平気でやってみればいい。とにかく無条件に生きるということを前提として、生きてみることをすすめる。無条件に生きれば、何かが見つかる。だが、必ず見つけようとガンバル必要もない。(中略)遊び心といってもいい。好奇心の赴くままにといってもいいかもしれない。だが好奇心という言葉には何か、型にはまった安易さを感じる。軽く素直に動けばよいということだ。人生、生きるということ自体が、新鮮な驚き、よろこび、新しくひらかれていく一瞬一瞬であり、それは好奇心という浮気っぽいもの以上の感動なんだ。P36-37
岡本太郎「自分の中に毒を持て」(青春出版社 1993)


私は、欺きはかる自分に「毒」を持たせるためには、自分を「読」む必要がある。そして毒により己を殺した後には、「独」が残ると考えている。あなたはそれに耐え続けなければならない。それすらも快感であると思える時まで。


幻としての伝統
伝統とは何か。それを問うことは己の存在の根源を掘りおこし、つかみとる作業です。とかく人は伝統を過去のものとして懐しみ、味わうことで終ってしまいます。私はそれには大反対です。伝統―それはむしろ対決すべき己の敵であり、また己自身でもある。そういう激しい精神で捉え返すべきだと考えます。P284
岡本太郎「日本の伝統」(光文社 2005)


実存主義という過酷な精神で伝統を捉えると、そこに己を見いだす事になる。

なぜ肉を食べているのか?なぜ漢字/仮名/片仮名を使用しているのか?今、この地点において私を成立させている生活基盤から伝統を捉えていくという方法である。そして、その地平は「あなた」のものでしかありえない。

むしろわれわれは、近代文化を生んだ西欧によって育てられている。(中略)もし伝統というものが、私が先ほど言ったように現在に生き、価値づけられるものだとするならば、ここでわれわれにとっての伝統の問題はすっかり様相を変えてしまうでしょ。
それは何も日本の過去のあったものだけにはかかわらない、と考えた方が現実的ではないか。なにもケチケチ狭く自分の承けつぐべき遺産を限定する必要はありません。どうして日本の伝統というと、奈良の仏像だとか、茶の湯、能、源氏物語というような、もう現実的には効力をうしなっている、今日の生活とは無関係なようなものばかりを考えなければならないのだろう。P274
岡本太郎「日本の伝統」(光文社 2005)


彼はこのような激烈な意見を述べながら、縄文土器/弥生土器/光琳/庭などを考察していく。それは岡本にとっての伝統であったからだろう。私にとって「縄文土器/弥生土器/光琳/庭」は伝統となりえない。無論、あなたにとってもだ。

だが、私と岡本が共有出来る「伝統」があることも感知出来る。

それは何なのだろうか?それは日本というワードで語れるのか?

しかし、とすると、ちょっとおかしい。われわれにとってアクロポリスも伝統であり、ピラミッドも古代メキシコも神殿も中国・殷周の青銅文化、仏教芸術、ゴシック、バロック、ロマンティスム、すべて伝統であるとするならば、じゃあ、伝統なんてものは無えじゃねえかってことになる。
「伝統」とわざわざ区別してよぶ以上、さまざまある中の、ある一定の何か局限されたものを言うはずで、何でもかんでもみな伝統だなんて、そんなら伝でもなきゃ統でもない。その他のもろもろと区別し、局限する何か、ーそれが何かという問題でしょう。P276
岡本太郎「日本の伝統」(光文社 2005)


松岡正剛は「日本という方法」でこの問題を解消しようとしているが、内田は何と名づけるか?ここは未だ言語化されないでいる。

■参考リンク
306旅 『日本の伝統』 岡本太郎
第二百十五夜【0215】
DESIGN IT! w/LOVE
己の命を燃やす実存主義的な生き方





■tabi後記
言葉にすること、過去をつくること。過去をつくること、現在をつくること。現在をつくること、言葉をつくること。
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2009年05月28日

tabi0179 吉本隆明,糸井重里「吉本隆明の声と言葉」

なぜ吉本隆明/糸井重里に出逢ったのか?

吉本さんの仕事をみていると、私はこの人を避けては通れないなあーと思ってしまう。それは、「言語にとっての美とは何か」「日本語のゆくえ」「共同幻想論」といった吉本の著作に反応するという意味でもあるが、私におとずれる「この避けられなさ」は、彼(ら)との出逢いが影響していると思っている。その出逢いは10年前、つまり中学時代に遡る必要がある。

私が吉本隆明を知ったのはいつだったろうか。それは恐らく「ほぼ日」ではなかった。
糸井重里を知ったのはいつだったのか。それも「ほぼ日」ではなかった。

大学に入ってからは「ほぼ日」を筆頭に吉本隆明/糸井重里の言葉にふれることが多くなってきた。彼らの言葉に触ればふれるほど、彼らの言葉を以前から知っているように、自分で考えた言葉であるように思えてきた。

それからというもの「彼らとの出逢いはいつだったろうか」という問いがやんわりとまとわり付いていた。

私にとって吉本隆明/糸井重里は2人で1人である

先の問いは「悪人正機」という文庫本を手に入れたときに氷塊することになった。

というのも、私がこの本を手に取ってパラパラと読み進んでいくと「私はこの本を読んだことがある!」という強烈なデジャブを抱いたからだ。

それは今まで2人の本に対して感じてきたものとは大きく異なった。ロジック上でのデジャブではなく「本当に再読したことがある」という経験であった。

そのデジャブを遡っていくことで、吉本隆明/糸井重里との出逢いの場所に舞い戻る事ができたのだ。その場所で私は、吉本隆明/糸井重里という1組の存在と出逢ったのだ。

その場所は99年5月中旬から00年1月中旬まで「週刊プレイボーイ」において連載されていた「悪人正機頁」であった。およそ10年前の出来事である。(詳細時期はこのページで判明)

どうしてプレイボーイを立ち読みしていたのかは読者の類推に任せるが、当時「悪人正機頁」を必死に読んでいた記憶は朧げながらのこっている。そして彼らが話していたことは、自らの思考の源泉、いや元ネタになっていることが多分にあるのだ。(気付けばレビューする本とは関係ないところへ突き進んでいるが、それもいいだろう。笑)

言葉の一番の幹は、沈黙です。言葉となって出たものは幹についている葉のようなもので、いいも悪いもその人は関係ありません。P31
吉本隆明,糸井重里「吉本隆明の声と言葉」(東京糸井重里事務所 2008)


吉本が語ることに依拠するならば、私はこの書籍(というよりもCD)に対して「とりあえず聴いてみなよ」としか言うことはない。

であるなら「沈黙」となっていたこと、いや「沈黙」しようと思っていたことを言葉に表出してみることにしよう。今回は「悪人正機」というネタ元を参照しながら、私の思考を探っていきたい。


辿り着いたのは、「死」は自分に属さないという考え方

この考え方は12歳の私には幾ばくかの影響を与えた。祖父が亡くなってからしばらくが経っていたが、私の中では依然と「死」がマイブームになっていたことも関連するだろう。私の関心事は「死ぬこと」と「眠ること」の違いであった。

今、睡眠をとってこのまま起きられなかったらどうしようか?今、いる世界が眠っているときの夢でないといえるのだろうか?という問いが僕を躍起にさせていた。

そのようなマイブームをもつ私に「死が自分のものじゃないってことが言える」という語りかけが到来したのだ。そして、それは十分生きるための「抜け道」になってしまった。(ある意味で、この地点で私の哲学は死に絶えたのだろう)

彼の言葉を聞いて、じゃあ結局、生きる価値はどこにあるんだ?と問いたくもなったが、私はそのように問いはしなかった。というのも、その問いは本当に分からない問いだったからだ。だからこそ気軽に問う事も出来なかった。「悪人正機」の中で吉本はこう語っている。

何で価値があるかなんて、分かんないですよ。分からなくても、ある場合には何かに夢中になってるから、その時間があるから、まあ、間に合っているというか、生きてるほうにいるわけだけれど、生きてどうするんだなんて言われても、そんなの何もないですよね。そんなものないし、あるぞ、みたいなことを言うのはおかしいんじゃないかと、逆にそう思いますよね。P23
吉本 隆明,糸井 重里「悪人正機」(新潮社 2004)


あと2つ。

吉本隆明/糸井重里からもらったことを紹介したい。

1つ目は「根底では普通の人をバカにしないほうがいいということ」。
2つ目は「純粋ごっこはもう仕舞いだ」ということです。


人は「自分は、このようにちゃんとしたことを考えているんだ」と強く思えば思うほど、周りの他人が自分と同じように考えていなかったり、全然別のことを考えていたりすると、それが癪にさわってしょうがなくなることがあります。(私はそうでした。そして、そうなることは今もあります。)

でも、それはやっぱりダメなんだと。真剣に考える自分の隣の人が、テレビのお笑いに夢中になっていたり、あっち向いてホイで遊んでいたりするってことを許せなくなってくるっていうのは、何かが間違っていると思えることの大切さ。(この訂正感情の先に政治的次元がまっているわけではない)

2つ目の「純粋ごっこ」というのは、この世は全部ひとりひとりであることである。

中学や高校時代の友人とは疎遠になっていく。それは環境下や志向が大幅に変わるのだから仕方がないことだろう。私は「友だちがたくさんいるよ」と安易に発言する人をあまり信用しない傾向にある。

それは根本的には純粋ごっこは終わっているのであって、純粋ごっこで知り合った「友人」が、現在も「友人」として1人以上いる人間は早々いないと考えているからだ。1人以上いる方は、相当に運が良いのだと思います。

デフォルトはゼロだと私は考えている。社会的関係によって自らは創られ、承認され、形作られるが、結局は人は孤独であるというのが芯にある。12から13才にかけて「週刊プレイボーイ」で学んだのは、「結局、人生というものは孤独の闘い」であるということ。

■参考リンク
ほぼ日刊イトイ新聞 - テレビと落とし穴と未来と。
ほぼ日刊イトイ新聞 -吉本隆明 「ほんとうの考え」
人間が投影された“話し言葉”を聴く悦び
極東ブログ
A man I love to hate - 吉本隆明の声と言葉





■tabi後記
読自の結果がこのような形に逢着することもあるんだと。
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2009年05月27日

tabi0177 オマル ハイヤーム「ルバイヤット」

なぜこの本を読むのか?

本書は「内田に何読ませたい?」企画に藤沢さんからレスポンスを下さったものです。正確には、Blogで★★★★★が付いている書籍を勧めて頂いたので、このリストから私が気になったものをピックアップして読むことにしました。藤沢さん、ありがとうございます!

434の4行詩が織りなす世界観 -人生の無常、宿命、酒の讃美-

私が引き留められたのは、最初と最後に編まれた4行詩である。これらの詩からは、人生の無常、宿命を詠っている。そして、その詩にはさまれて「酒の賛美」が詠われるという構造になっている。

一 悲哀を糧として霊魂を苦しむるは、此の厭ふべき地に棲息する人間の運命なり。故に此世を最も早く去れる者は幸福といふを得べく、更に此世に生れ来らざる者は最も幸福なり。P21

二 「永遠」の秘密は汝よりも我よりも隔たれり、宇宙の謎語は汝にも我にも解せられず、汝と我との言葉は幕の後にあり、然れども、若し幕裂けなば、汝と我とは如何になるべき。P21

二一二 我等は生命の書籍より抹殺せられざるべからず、我等は死の腕のうちに息を止めざるべからず、おお心を迷はす捧盃者よ、欣々として我に強酒を持ち来れ、我は土とならざるべかざるが故に。P130

四三四 或者は宗教と信仰とを瞑想す、或者は懐疑と知識との間に彷徨す。忽ち番人は叫んで曰く、<愚かなる者よ、汝の道は此処にもあらず、其処にもあらず>と。P243
オマル ハイヤーム「ルバイヤット」(筑摩書房 2008)


私は初読みの段階で、ルバイヤットを読むことが出来ていなかった。訳のリズムに乗れなかったこと、「酒の賛美」に意味を見いだす事が出来なかったことが大きいだろう。


幾読の果てに創出する意味

ハイヤームが示す「酒」とは何なのだろうか?前提としては、ハイヤームはそこに意味を見い出してはいないだろうということです。それを踏まえたうえで私が考えたのは、「酒」は1つの出口なのではないかということだ。

最初は<神秘的事態>にいたるための「入口」として解釈していたが、どうもハイヤームが示しているのは異なるのではないかと思えてきた。

ハイヤームが示そうとしたのは、すでに入口は閉じられている。そして、私たちは既に出口の目の前にいるということだったのではないだろうか。その出口に何があるかは分からない。出てみなくては分からない。

酒後の世界は飲んでみなくてはわからない。飲まれてみなくては何が起こるか分からない。酒を象徴とするならば、我々は何を飲み,何に飲まれているかという問いが生まれてくる。

■参考リンク
1046旅 オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』



■tabi後記
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2009年05月26日

tabi0175 駒崎弘樹「働き方革命」

なぜこの本を読むのか?

先日のtabi後記で書かせて頂いた「内田に何読ませたい?」企画へのレスポンスが数名からありました。本書は、最初にレスを下さった平田さんから勧めて頂いたものです。また、本書以外に「神秘学総論」「バーナード組織論研究」も勧めて頂きました。平田さん、ありがとうございます!


本書が提案する変化は「会社人から社会人へ」

著者はNPO法人フローレンス代表の駒崎弘樹さん。前著の「社会を変えるを仕事にする」は私の周囲に大きな影響を与えていたが、この「働き方革命」は「社会を変えるを仕事にする」を学生時代に読み、企業人となった方にこそお勧めしたい。

駒崎氏が目指す「働き方革命」は「会社人から社会人」への変化を企図するものである。いや、ここでは「変化」というの言葉は使用するのは語弊があるかもしれない。なぜなら「変化」には犠牲が伴った決断をイメージさせるから。

会社人から社会人からの「変化」はすでに「犠牲が伴わせていたこと」を再統合させる営みである。そして、その再統合には量的負荷の増加を伴うことなく、むしろ低減されることになる。なぜなら再統合過程において負荷処理に対して「質的な変化」が寄与されるからである。このロジックが本書の哲学となっている。


観客にならない「あなた」に送られてたメッセージ

本書を読んで「働き方革命」の未来に共感する一方、その未来が"現実的"な地点に落としことの困難さを感じる方もいると思う。

本書でも言及されているが、会社人は「普段の業務」で手一杯である。3ヶ月ごとの目標設定,360度評価,日々溜まる何十通のメール,日々更新されるプロジェクト情報・・・。

このような緊張が詰まるストレッチ環境は「成長」を求める人間にとって非常に有意義な環境である。だが同時に「こんな忙しい自分」が「ワークライフバランス」など出来るはずがないとうブレーキにもなっている。(「ベンチャー」「経営者」という状況が追加されると、更なるブレーキがかかる)

このような環境が「デフォルト」となっている人に対して、別のデフォルトを理解してもらうことは困難をきわめるであろう。

その困難さは本書の終盤でリアリティーをもって語られる。それは著者自身が、旧友に「働き方革命」を提案する場面に垣間みえる。

「あーそういうの何だっけ。ワークライフバランスとかっていうんだっけ?いるよ、そういうこと言う人。何か自分だけ残業しないで帰って、俺とかがそいつの終わらせなかった仕事の尻拭いするんだよね。僕、キャリアアップのための資格の勉強で忙しいんです、みたいな。やれやれだよ。」
(中略)
「違う、そういうニュアンスじゃないんだ。自分のために、自己中心的に仕事の手を抜いて、自分のために時間使おう、って話じゃないんだ。何ていうか、人生そのものを『働く』として捉えるんだ。『働くこと』と『そうじゃないこと』があるんじゃなくって、食いぶちを稼ぐことも、家族と生きることも、自分のために学ぶことも、全部ひっくるめて『働く』っていう風に考えたらどうか、っていうことなんだよ。『働く』を『他者と自分のために価値を生み出すこと』とするんだ。俺たちは職場であろうが、地域であろうが、価値を生み出せるんだ!」
「はい?働くっていったら会社行ったりすることだろ、普通。」
(中略)
「あのさ、そういのうって、俺たち一般人がどうこう言っても、難しいんじゃないかな?政治家とか官僚とかさ、いるわけだろ。彼らは俺らの税金で食ってんだからさ、ちゃんと働いてもらえれば良いんじゃないのか。何でお前がそんなに熱くなってるんだ。」
(中略)
「おいおい、勘弁してくれよ。高校時代いつも俺のノート見てたお前でも、新聞くらいは読んでるよな?大不況だぞ。この不況でな、明日切られるかも分からない人がたくさんいるんだ。食いぶち稼ぐのに皆精いっぱいなんだ。俺なんて子ども2人抱えている。そんなことを言う余裕が、世の中にあると思うか?」P180-183
駒崎弘樹「働き方革命」(筑摩書房 2009)


本書は、この困難さに対する「解決策」は用意されてはいない。そこに不十分さを覚える方もいると思う。確かに、その気持ちは分かる。しかし、この気持ちを覚える自分をもう一度見つめてる必要があるだろう。

そこで必要な問いは、「あなたは観客になっていないか?」というものであろう。この問いを持つことが出来たら著者の意図は伝わったことになる。一方、この問いをもてずに「解決策」のなさをもって本書を閉じる方は誤読をしたことになる。


変化は常に小さく始まる

もちろん人はそう簡単に変らない。であるならば、気付いてしまった「私」が変わればいいのだろう。そのような「私」が幾多の束になることで「社会に渦巻くブレーキ」を解除させることが出来るのだろう。本書は、そのような可能性を示唆するために書かれているとと感じた。

本書の「革命」という言葉は「むやみやたらな変化」という地点で捉えるのではなく「働く」という言葉が「傍を楽にする」という語源的な地平をもつことの捉え直しをこそ必要としているのだろう。視点のずらしによって得られる「気付き」が「あなたである「私」」の生活に注入されることを祈念しているのである。

■参考リンク
tacanoblog



■tabi後記
友人にアドバイスをもらってレビュースタイルを変えてみました。いかがでしょうか?
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2009年05月19日

tabi0165 井筒俊彦「意味の深みへ 東洋哲学の水位」

「現実」は一つのテクストだ。「現実」は始めからそこにあるものとして、客観的に与えられたものではなく、人間がコトバを通じて、有意味的に織り出していく一つの記号空間である。だが、コトバには、いま述べたようなアラヤ識的基底がある。コトバを、社会制度としての「言語(ラング)」の側面だけに限定して見る人は、コトバの表層構造だけしか見ていない。そこには、慣習的な意味を担う慣習的な記号のシステムがあるだけだ。そしてまた事実、我々は、通常、コトバを主としてこのような次元で使い、理解している。しかし、もし我々がコトバの深層的意味構造に気づき、それに注意を向けるなら、文化の本源的言語性に関する我々の見方は根本的に変ってしまうだろう。(中略)コトバが文化の源であると言う時、我々は、「コトバ」を、このような意味で、社会制度的「言語」表層からアラヤ識的「意味可能体」の深層に及ぶ有機的構造において理解しなければならない。辞書に登録された語の表層的存在分節のシステムが、それだけで直ちに「文化」を構成する、とは考えないのである。P80-81
井筒俊彦「意味の深みへ 東洋哲学の水位」(岩波書店 1985)


「人間が絶対の事実だと信じて生きている世界は、実は言語によって意味づけられた相対的世界である。だから、言語が違えば生きている世界も変わるのだ。」このような指摘を耳にしたことはあるだろう。例えば、日本語圏では虹は七色だが英語圏では六色であるとら、イヌイットは「雪」というものを100通りの名詞で表現出来るという指摘である。

本書で井筒氏が論じようとしているのはラング/パロールで語る箇所の先。通常の言語学でいう「言語の意味」の外へ出ていこうとしている。井筒氏は「意味の深み」、意味というものがまさに生成する場所を求めていたのだろう。彼が、古今東西の宗教・哲学テキストに光当てるのは、意味生成の現場を見ようとした人々の思索の足跡を探るためである。そこには、空海真言論、易経、ユダヤ教カバラ思想等が含まれている。

■参考リンク
784旅 井筒俊彦『意味の深みへ 東洋哲学の水位』



■tabi後記
「意識と本質」を読み通せずにいる。井筒氏との並走が終わることに感慨深さがあることや、「彼の仕事から私は何を学んでいるか?」を吟味していることが歩みを遅めている。
posted by アントレ at 23:09| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0162 井筒俊彦「神秘哲学 第二部 神秘主義のギリシア哲学的展開」

言詮不及。それが神秘家の我々にたいする最後の言葉である。このような体験の内実が哲学の対象となり得ぬことはいうまでもない。人間的ロゴスが思惟となり言語となって発動するところ、そこにはじめて哲学は成立するのであるから。しかしながら、その反面に於いて、哲学と神秘主義とは互いに断ちがたい宿命のきずなによって固く結ばれているのである。おもえば人間とはまことに逆説的な存在である。黙々たる瞑想の秘境に帰融しきることこそ神秘家本来の面目であるのに、そしてこの幽遂な境域に於いて直証された事柄が絶対に言詮不及であることを知りすぎるほど知っているのに、それにもかかわらず、彼はあえてこの言詮不及なるものを知解によって論考し言語によって詮表せずにはいられない激しい欲求に駆られることがあるのだ。人間がもって生まれた形而上学的衝迫の不気味な力がここにある。思惟すべく、かつ思惟し得るものごとを思惟するのみでは足りず、かえって絶対に思惟すべからざるものを、絶対に思惟すべからずと知りながら、しかも止むに止まれぬ衝動に駆られて思惟しようと切なくも焦心する、ここに人間的ロゴスの世にも不思議な運命の道があるのだ。P194
井筒俊彦「神秘哲学 第二部 神秘主義のギリシア哲学的展開」(中央公論社 1991)


第一部に続いて、プラント、アリストレス、プロティノスを神秘主義的観点から捉え直す。ギリシア的思惟の底には、密議宗教的な神秘体験のパトスが渦巻いてるという直覚のもとに書き上げた論考となっている。

井筒氏は、このパトスの地下の声に耳を傾けることを通じて、神秘主義的実在体験の哲学化を意図している。井筒氏の仕事を俯瞰できる者にとっては、大乗仏教/スーフィズムといった歴史的具体例を通じた「神秘主義的実在体験の哲学化」を把握している。

しかし、「井筒的方法論」なるものが確立される前において彼の仕事は奇妙この上ない視点であったのだろう。本書の言葉をつかうなら、井筒氏は「私のギリシャ」(東洋のギリシャ)を見いだしたということである。彼にとって思想とは永遠不易・唯一普遍な哲学的組織体系してではなく、言語や風土や民族性を軸としてその周囲に現象し結晶する流動的な実存的意味構造体として措定されていたのである。

この多用多彩な各言語文化組織を、つまり言語意味構造体を、形成する無量無数の一語一語こそが例外なく一語の意味単位であり、この意味単位が、対象認識の鋳型として働くことによって、存在単位を(一切の存在者を一切の機能)を鋳造し分節するというものであったのだ。

■参考リンク
1005旅 井筒俊彦『神秘哲学 第二部 神秘主義のギリシア哲学的展開』



■tabi後記
今日は、美と言語の分節関係について思索をしていた。
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2009年05月17日

tabi0159 脇田玲・奥出直人「デザイン言語2.0」

この制作を機会に、「伊東さんのおつくりになる建築は抽象的なのですが、その中に住む人間は、毎日じわじわ髭をのばしていたり、粘液質の汗を流していたり、非常に生々しい身体性を捨象できない存在です。このような人間の身体性についてはどうお考えですか」と質問したところ、「生身に身体は抽象化できない」というお返事でした。
抽象性を追求してきたけれども、実は最近新たに物質性にも注目し始めているとおっしゃっていました。ただし「物質には興味はあるけれども、木肌が気持ち良いというところに帰っていくわけにはいかない」と言われて、なるほどと思いました。ノスタルジックに考えてしまうと、やはりなじみのある物質性の方向に戻りたくなってしまう。しかしそうではなく、私たちが持っている感覚の感じる力を、物質の方にもっと開いていくようなやりかたで、何かを敏感に感じ取っていくということではないかと思うのです。抽象でも、安直な素材志向でもない物質性のとらえ方・・・。伊東さんがそれを「『HAPTICな抽象』」とでも呼ぶかなと言っておられたのが印象的でした。P96(原研哉「HAPTIC」)
脇田玲・奥出直人「デザイン言語2.0」(慶應義塾大学 2006)


SFCで行われているゲストレクチャシリーズ「デザイン言語総合講座」の模様を収録した一冊。本書には、原研哉氏や永原康史氏のようなグラフィックを中心にしたデザインに関わる方だけでなく、ロボティクスの研究家である山中俊治氏、デザインとは異質なところでは日本料理家の柳原一成氏といった、合計12名の方の講演を、「身体性と知覚のデザイン」「メディアのデザイン」「空間のデザイン」の3つのテーマに分けて収録しています。

12名の方が別々に、それぞれの専門領域の話をされているのですが、そこにはすべてに共通する基盤のようなものがあります。それが身体性や人間の欲望を問いつめる所作、人/色/形/音が動くなかに立ち現れることに寄り添うこと、視覚だけでなく五感すべてを考慮にいれる見方であったりします。このような様々な視点が提供される中で、原研哉氏の「HAPTIC」という概念について取り上げてみたいと思う。

物づくりのモチベーションがテクノロジーの側から供給される状態が久しく続いています。「HAPTIC」展は、新素材に駆り立てられるのではなく、人の感覚を発端とする物づくりを意図的に際だたせる試みです。HAPTICとは触覚を喜ばせるという意味。触覚性を物づくりの第一義とした時、どんなデザインが生まれるか。ここでは、22人の建築家やデザイナー、左官士、ホームエレクトロニクスのメーカーなどに依頼し、HAPTICな日用品をデザインしてもらいました。毛の生えた提灯、柔らかいドアノブ、果皮そのままのジュースパック、蛙の卵のようなコースターなどなど、新鮮なプロダクツが誕生しています。テクノロジー・ドリブンではなくセンス・ドリブンの世界をご堪能ください。
「HAPTIC」展


HAPTICとは触覚を喜ばせることであると同時に、そのプロダクツに触れる中で人のセンスを蘇らせるという視点があると思います。(後者は「欲望のエデュケーション」という概念に通じると思います)

引用文にある「HAPTICな抽象」は、「私秘と公共の境目」といってみたり、「色即是空/空即是色の隙間から」という言葉で表現しようとしてみたりした事をズバッと捉えられてしまった気がする。語呂も悪い、抽象って言葉も二押しくらいできそうだが、その余白タップリ感がまた居たたまれない。

■参考リンク
デザイン言語2.0 ―インタラクションの思考法/脇田玲、奥出直人編
デザイン・プロセスにおいて知らないことを発見することの重要性
テキスト情報過多の時代に人は何を感じるか
デザイン言語2.0「日本料理をデザインする」 



■tabi後記
昨日、NPO法人 Educe Technologiesが主催する「デザインの基礎 ワークショップ」に参加させて頂いた。懇親会を含めて、色々と思索をすることが出来た。非常に感謝している。
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2009年05月13日

tabi0153 井筒俊彦「神秘哲学 第一部 自然神秘主義とギリシア」

底なき無の心底に陥没しようとする万物を抱きとめ、これを存在につき還すものであるからには、それは森羅万象の生命の源泉、あらゆる存在の太源、いや「存在」そのものでなければならないであろう。それでは、宇宙的愛の主体としての「存在」は窮極に於いてそも何者であり、かつ人はいずこに求めて、この「一なるもの」に逢着できるであろうか。
この真摯な求問にたいして、自然神秘主義は一つの意外な解答を提出する。すなわち、汝の尋求する真実性は、渾然たる一者としての宇宙そのものであり、そしてその宇宙は汝自らにほかならぬ、と。いたずらに妄情を起し、外に向って真実性を尋ねることをやめよ、散乱の念虜を集定して心に塵累を絶ち、ひたすら汝自らの胸の奥処に神を求め、求めつつ汝の心底をうち破って大宇宙に窮通せよ、と。これがすなわち「汝自らを識れ」という神託の神秘主義的解釈である。P34
井筒俊彦「神秘哲学 第一部 自然神秘主義とギリシア」(中央公論社 1991)


自然神秘主義がもたらした解答は、多くの素朴な人々を困惑させ、歴史的宗教の信仰に生きる敬虔な人々に恐るべき冒涜にみえたようだ。それも当然だろう。人が直ちに神となり、自然的宇宙がそのまま絶対者となるモデルをとって生きてなどいないのだから。

自然神秘主義に於いては、人間の絶対否定即絶対肯定となり、人間意識は無に帰することによって宇宙意識となるのである。そこから井筒氏は、宇宙的覚者の生々脈動する意識からどのような思想が発展して来るのかを探究する。そして、この自然神秘主義思潮が勃興した背景をホメロスに遡って考察していくのである。

ホメロスをヘシオドスと対比させて、理想/現実,純客観/主観,ディオニュソス/アポロン,内的霊魂/外的霊魂となる。ここまで書いて考えたが、両者を「ホメロス・ヘシオドス的」と一括りにし、ホメロス/ミレトス学派(擬人神/自然)とするほうが構造としては正確であろう。

そして、彼らの対立構造がヘラクレイトス/タレスと発展し、プラトンにおいて調和が計られたが、再度スプリットしてしまう。内的霊魂は宗教(ユダヤ/キリスト教)へ、外的霊魂は科学(アリストレス)へと引き継がれていく。このような構造を感じることができた。

■参考リンク
1000旅 井筒俊彦『神秘哲学 第一部 自然神秘主義とギリシア』



■tabi後記
なんとなく体力を分解したくなった。

(1)体力の定義
体力とは人間の活動や生存の基礎となる身体的能力とする。主として生存に関与するものを防衛体力とし、主として活動に関与するものを行動体力とする。

(2)体力の分類
防衛体力は、4つに区分される。
1物理・化学的ストレスに対する抵抗力(寒冷、暑熱)
2生物的ストレスに対する抵抗力(菌、ガン細胞)
3生理的ストレスに対する抵抗力(運動)
4精神的ストレスに対する抵抗力(不快)

そして、行動体力も3つに区分される。各能力をもう一段階掘り下げると、7つの力で構成されることがわかる。()には、各体力の測定手法を書いてみた。

1行動を起こす能力
1.1筋力(握力、背筋力)
1.2筋パワー(垂直跳び)

2行動を持続する能力
2.1筋持久力(上体起こし、懸垂)
2.2全身持久力(1500m、シャトルラン)

3行動を調節する能力
3.1平衡性(視覚がバランスを支える、閉眼片足立ち)
3.2協調性(ジグザクドリブル、ボールを的に当てる)
3.3敏捷性(反復横跳び)
3.4柔軟性(前屈)
posted by アントレ at 16:35| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月12日

tabi0150 ジークムント・フロイト「モーセと一神教」

われわれは、エス論者が同時にひとりのユダヤ人でもあった事実を、心情的に出ではなく、思想史的な条件として、深刻に受け止めなければならない。フロイトがひとりのユダヤ人であった事実がモーセ論における「生命と歴史」の謎に深々と突き刺さっているからである。興味深く、また重要な書簡がある。一九三四年九月三◯日付けのアルノルト・ツヴァイク宛のものである。そのなかの一箇所に「新たな追害に直面して人びとはまた、いかにしてユダヤ人は生れたのか、なにゆえにユダヤ人はこの死に絶えることのない憎悪を浴びたのか、と自問しております。私はやがて、モーゼがユダヤ人をつくったという定式を得、私の作品は「モーゼという男- 一つの歴史小説 -」という標題をつけられました:とある。モーセがユダヤ人であったか、エジプト人であったか、これは現下の文脈ではあまり大切ではない。トーテミズムや人類の強迫神経症すなわちエスの勢いではなく、「モーセという男」が「ユダヤ人をつくった」と言明されていることこそが重要なのである。P258 解題 歴史に向かい合うフロイト
ジークムント・フロイト「モーセと一神教」(筑摩書房 2003)


本書の楽しみは3つある。1つはフロイトによる「ユダヤ人論:歴史のIF」としての楽しみ、2つめは、エス論者であるフロイトが自説を徹底した批判精神で論をすすませていくこと。ここでは、フロイトのイメージがガラっと変化するだろう。最後の、3つめは、自らがユダヤ人であることへの闘争である。フロイトがこの仕事に取り組んでいるときは、折しもヒトラーがドイツ政権を担っているころである。この3つの側面を丁寧に論じてるのが、松岡正剛だろう。久々に唸らせてもらった。

私なりに「ユダヤ人論:歴史のIF」についてまとめると、紀元前14世紀ごろアメンホテプ4世がファラオに即位した。頭に変形があったこのファラオは八百万の神信仰であったエジプト宗教を改革し、唯一神アテンを信仰する一神教、「アートン教」を開祖したのだ。このファラオは首都をテーベから300キロ近く離れたアマルナの地に移し、「新しい住民」を呼び込んで政治と宗教を一本化させたという。(エリアーデは、アメンホテプ4世の宗教を「実際には二神教であった」と評しているが)

ところが、このファラオの治世は17年しか続かず、神官団に説得された次代のファラオは首都を元のテーベに戻した。そして、このアマルナの地に残された人々こそが「ユダヤ人」の祖先だとフロイトはいうのだ。やがて異端の宗教である一神教(アートン教)を信じるユダヤ人たちはエジプト人に追い出されることになる。そして、そのユダヤ人を率いたのがモーセ(エジプト人)であったとフロイトは論じる。また、1つ気になったのは、アメンホテプ4世の次のファラオの名前はツタンカーメンであるということ。あの黄金のマスクを残した若き王である。エジプト王朝/エジプト学に関心をもつかたの気持ちがわかるような気がします。

私は、自らが歴史性に紐付けられた存在であることを知れば知るほど恐怖を覚える。それは自由意志礼賛/制約嫌いからくるのではなく、何かもっと根源的な忌避からきている気分のような気がしている。私の根源に眠るもの、フロイトもそれを探究していたのではないだろうか。

■参考リンク
第八百九十五夜【0895】
成毛眞ブログ
エジプト、ナイルを下る



■tabi後記
やはり1つの書籍を精読するのも良い体験になる。
posted by アントレ at 23:24| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0149 池上高志「動きが生命をつくる」

もちろん、なぜ水が0度で凍るか、ということと、生命や意識の語り方は同じには出来ない。原子・分子だけを役者にしよう、というのが物理フレームの原理主義的な立場だとしたら、より妥当な役者、物理フレーム以外の「中間レベル」を求めてきたのが複雑系である。

物理フレーム原理主義者からは、中間レベルなんかは、人の作り出した方便で精密ではない、ということをいわれる。例えば、リンパ球はばい菌を攻撃する、という中間レベルの記述に対し、実際はリンパ球は別に「攻撃」しない、とするのが物理フレーム主義だ。それは単なる大きな分子どうしの相互作用だという。事実、リンパ球がばい菌を攻撃する、という物語をそのまま乗せてしまったモデル/シミュレーションは、リンパ球という役者の持つ不透明さに細胞免疫システムの本質が隠蔽されてしまって、何故「自己」が守られるのか、というストーリー自体に説得力がなくなってしまう。

一方、ある言葉をきいて女の子が駆け出す。これを物理フレーム原理主義で考えてもらちがあかないのは明白である。ひとつは物理フレームですむものであり、もうひとつは物理フレームに乗っかりつつも、他の役者を立てざるを得ない中間層のストーリーテリングという記述方法が必要だ。生命は後者に属している。P201
池上高志「動きが生命をつくる」(青土社 2007)


理解/認知には、コミュニケーション的/論理的/言語的//感覚的/生命的/.../と広がっていくイメージががあるのだが、池上氏のいう中間層は感覚/生命的理解に寄ると思われる。池上氏のいう「分かり方の模索」に感覚的理解がもてる。

言葉による公共性や普遍性というテーマは、「日本語が亡びるとき」でも喚起されていたが、ここで論じられているのは言語経済学によって消える言語感覚という話ではなかったか。その点で、この書籍には言語によらずして確保される「公共性(分かり方)」を、どのように明示していくかという営みをしているように思えた。明示の地平としてアートを論じる。


渋谷慶一郎+池上高志/「filmachine(フィルマシン)」

■参考リンク
池上高志先生インタビュー
複雑系で迫る躍動の科学
モナドの方へ



■tabi後記
この2ヶ月間は4時-5時に起きていることが多い。太陽と格闘をするのも楽しいものです。僕は、7時半,2時20分,18:30分あたりにショートスリープをとって23時くらいに寝ています。結構、寝るほうですね。
posted by アントレ at 22:04| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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