2009年05月08日

tabi0140 井筒俊彦「叡知の台座 井筒俊彦対談集」

このセム的存在感覚というものは、東洋思想そのものの重要な一つの基礎であるだけでなくて、西洋文化の深い理解のためにも、どうしても身につけておかなくてはならないものじゃないでしょうか。(中略)「神は死んだ」というニーチェ的なテーゼ、遠藤さん的にいえば、「神は沈黙しきってしまった」ということになるかもしれませんが、そういう状況を、少なくとも思想界の前衛的領野では、みんなが表面的に受け入れて仕事している。ところが、「神は死んだ」と口先で言うことはたやすいけれど、実は、そう簡単なことではない。キリスト教的西洋では大問題です。なにしろ、神の死、神不在、ということは、西洋文化のコンテクストでは存在の中心点がなくなるということですからね。そこには当然、言い知れぬ不安があり、焦燥感がある。脱中心の時代などというと、勇ましくて、いかにも聞こえはいいけれど、本当は大変な危機的状況じゃないでしょうか。P12
井筒俊彦「叡知の台座 井筒俊彦対談集」(岩波書店 1986)


遠藤周作、ジェイムズ・ヒルマン、河合隼雄、上田閑照といった思索者との対談集。どれも素晴らしい対談となっているが、ここでは遠藤周作との対談から引用させて頂いた。

井筒氏は、セム的存在感覚を「真に生きた神、人格的一神にたいする情熱的な、なまなましい信仰をもとにして、それを全存在世界の極点として表象する(その実在をわれわれが信じるか信じないかは別として)、そういう形で存在性のギリギリの原点を表象するということ」と定義する。

この感覚は、イスラーム/新約/旧約の三宗教(及びそれから派生した宗教)に存在する聖的な感覚であり、仏教には存在しない感覚であると語る。井筒氏が考える東洋とは地理的東洋ではなく精神的東洋である。その地平は、日本,チベット,中国をはじめとして、インド,トルコ,ペルシャまで延びる。この広大な範囲において、精神的東洋を直観する土台となっていたのは、彼の言語感覚によるところが大きいだろう。

井筒氏は、徹底的/独創的な思考として注目されるほかに、ギリシャ語、アラビア語、ヘブライ語、ロシア語、パーリ語など20ヶ国語を習得・研究し、西洋哲学を徹底して研究した後に、言語と無意識の関連性に関心が向いていったのだという。それが「言語アラヤ識」という考えであろう。

それまでは、パロール/ラングの領域で思考をすすめていたようだ。井筒氏は言語アラヤ識という考えを起点にして、宗教と哲学を結ぶ接点としての「神秘主義」に思考の射程をのばしていく。

東と西との哲学的関わりというこの問題については、私自身かつては比較哲学の可能性を探ろうとしたこともあった。だが実は、ことさらに東と西とを比較しなくとも、現代に生きる日本人が、東洋哲学的主題を取り上げて、それを現代的意識の地平において考究しさえすれば、もうそれだけで既に東西思想の出逢いが実存的体験の場で生起し、東西的視点の交錯、つまりは一種の東西比較哲学がひとりでに成立してしまうのだ。
これは「意識と本質」あとがきにある文章。井筒氏の肩に乗りながら、「読書と無意識と芸術表現」というテーマで思索していきたい。

■参考リンク
553旅 井筒俊彦『叡知の台座 井筒俊彦対談集』
学(ぼ)ぶログ 



■tabi後記
パラレルデットライン読書によって導かれる思考の内的連環構造を進化的なモデルで表現してみたい。
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2009年05月06日

tabi0136 岡田英弘「歴史とはなにか」

くりかえしになるが、世界の変化に法則があるわけでも、一定の方向に向かって進化しているわけでもない。だから、「古代」と「現代」、という時代に分けかたはいいけれども、古代から現代への進化の中間期として、「中世」などというものを挿入するのは、不合理である。まして、未来に世界がとるべき姿があらかじめ決まっていて、それに向かって人類の社会が着々として進化しているなどというのは、あまりにも根拠ない空想であって、とうていまじめな話とは思えない、ということだ。P145
岡田英弘「歴史とはなにか」(文藝春秋 2001)


自らがこの世界に生まれる前にも世界が存在していると仮定したときに、私たちの目の前には歴史が立ちはだかる。宇宙開闢の歴史から、生命誕生の歴史、人類祖先の歴史、経済、宗教、組織、共同体、国家・・・といった様々な概念には「歴史」が紐づいている。

本書では、歴史を「人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、斜述する営み」と定義されている。このような定義で歴史を捉えると、インドとイスラム文明には歴史がないことになる。なぜなら、輪廻転生やアッラーといった人智を超えた概念が文明を貫いているため、人間の認識だけで世界を描くことがそもそもできない。ということは、「歴史」という概念がそもそも冒涜となってしまうのである。

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歴史を成り立たせるには、「1 直進する時間の観念」「2 時間を管理する技術(暦,年代)」「3 文字」「4 因果律の観念」が必要であって、これらの要素が存在/軽視されている集団は少なくはないのだ。一方、地中海や中国文明においては、ヘロドトス、司馬遷という二大歴史家が誕生した。彼らの世界においては、合理的精神(変化/正統性)を文明が有していたから歴史が重宝された。

この他にも、神話の扱い方、時代の区分は、現代と古代(いまとむかし)の二分法しかないということ、そしてその分岐点はどこにあるのかということ、現代と古代は常に移ろいゆくわけだが、いかにして歴史を記述していくのかといった論考が入っているので歴史の学習に気乗りがしていなかった方にはお勧めしたい。

歴史認識というと靖国/北方領土といった言葉で思考がストップしてしまうと思うが、そもそも「歴史とは何か?」というフレームワークから考えることで話にも深みが出るだろう。

■参考リンク
601旅 岡田英弘『歴史とはなにか』
資料室:歴史とはなにか
新しい創傷治療



■tabi後記
この2日間で幾度もブログを更新をしたためか「読書法」に関する相談を幾度もうけた。その場で話をしたところで人の習慣は変わらないので、読書法を教える前に「いかに毒書に陥らず、読書にもっていけるか」を話すようにしている。
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2009年05月05日

tabi0133 永井均「マンガは哲学する」

私がマンガに求めるもの、それはある種の狂気である。現実を支配している約束事をまったく無視しているのに、内部にリアリティーと整合性を保ち、それゆえこの現実を包み込んで、むしろその狂気こそがほんとうの現実ではないかと思わせる力があるような大狂気。そういう大狂気がなくては、私は生きていけない。その狂気がそのままその作者の現実なのだと感じたとき、私は魂の交流を感じる。それゆえ、私がマンガに求めているものは、哲学なのである。P4-5
永井均「マンガは哲学する」(講談社 2004)


マンガでしか表現できない哲学があるという直観にもどづく1冊。私は、「マンガという表現形式」と「マンガというジャンルが人の情報対峙における与える影響」に関心があったので楽しむことができた。

マンガは、実際には発音が伴わなければならないせりふが文字で書かれるという約束事で成り立っている。マンガを読んでいる物は、それを意識していないからこそマンガを自然に読むことができる。

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文字がつくられ、その文字の発音が与えられているにもかかわらず、私たちの頭の中には なんの発音も発生しない。

後者の視点として、このようなコンセプトが堂々と流通することへの愉快さをおぼえる。本書でも登場する『気楽に殺ろうよ』は、性欲よりも食欲が隠されるべきもので、殺人の権利が売買されるのがあたりまえであるような、別の世界に入り込んでしまった男の話である。

そこでの話しを引用すると『食欲とはなにか?!個体を維持するためのものである!個人的、閉鎖的、独善的欲望といえますな。性欲とは?!種族の存続を目的とする欲望である!公共的、社会的、発展的、性格を有しておるわけです。と、こう考えれば、地球社会のありかたもあやしむに足りませんな!』永井さんはこの立場を、「彼の態度を見ていると、いかなる相対化の理屈も、実はそういう絶対性の上にのっかってしか機能しないことがよくわかるのである」と述べている。相対主義の泥沼、その果ての神秘化、それらの往還といった思考形態を深める意味で「相対主義の極北」を本棚からとりだしてみる。

■参考リンク
格安哲学
走りながらOSを変える
吉田戦車



■tabi後記
以前、銭ゲバの書評をしたことがあるが、私の中では新鮮な書評体験であった。(ドラマが放映されていた時ほどではないが、この記事には常時アクセスがある)マンガ/絵本/俳句/絵画/音楽といった芸術表現にとらわれずにtabiをしてみようかと考えている。

『マンガは哲学する』永井均(講談社)が扱っている作品一覧

■第1章 意味と無意味
藤子・F・不二雄「ミノタウロスの血」小学館文庫『異色短編集1』
藤子・F・不二雄「気楽に殺ろうよ」「サンプルAとB」小学館文庫『異色短編集2』
藤子・F・不二雄「絶滅の島」「流血鬼」コロコロ文庫『少年SF短編集2』
手塚治虫「ブラック・ジャック」講談社
吉田戦車「伝染るんです。」小学館
中川いさみ「クマのプー太郎」小学館
諸星大二郎「感情のある風景」集英社『夢みる機械』
城アラキ・甲斐谷忍「ソムリエ」集英社
福本伸行「カイジ」講談社

■第2章 私とは誰か?
萩尾望都「半神」小学館文庫 
萩尾望都「A-A´」小学館文庫 
吉野朔実「ECCENTRICS」集英社
士郎正宗「攻殻機動隊」講談社
高橋葉介「壜の中」朝日ソノラマ『怪談』
川口まどか「ツイン・マン」秋田書店
田島昭宇・大塚英志「多重人格探偵サイコ」角川書店

■第3章 夢−世界の真相
高橋葉介「夢」朝日ソノラマ『怪談』
佐々木淳子「赤い壁」「メッセージ」「Who!」フロム出版『Who!』
諸星大二郎「夢みる機械」集英社『夢みる機械』
楳図かずお「洗礼」小学館文庫

■第4章 時間の謎
藤子・F・不二雄「ドラえもん」小学館
手塚治虫「火の鳥−異形編」講談社
星野之宣「ブルーホール」講談社
佐々木淳子「リディアの住む時に」フロム出版『Who!』
藤子・F・不二雄「自分会議」小学館文庫『異色短編集1』

■第5章 子どもV・S死−終わることの意味
楳図かずお「漂流教室」小学館
楳図かずお「わたしは真悟」小学館
諸星大二郎「子供の遊び」集英社『不安の立像』
松本大洋「鉄コン筋クリート」小学館
吉野朔実「ぼくだけが知っている」集英社
永井豪「霧の扉」中公文庫コミックス『永井豪怪奇短編集2』
しりあがり寿「真夜中の弥次さん喜多さん」マガジンハウス

■第6章 人生の意味について
西原理恵子「はにゅうの夢」双葉社『はれた日は学校をやすんで』
業田良家「自虐の詩」竹書房文庫
しりあがり寿「髭のOL藪内笹子」竹書房
坂口尚「あっかんべェ一休」講談社漫画文庫
つげ義春「無能の人」新潮文庫『無能の人・日の戯れ』
ゆうきまさみ「究極超人あ〜る」小学館
赤塚不二夫「天才バカボン」竹書房文庫

■第7章 われわれは何のために存在しているのか
星野之宣「2001夜物語」双葉社
星野之宣「スターダストメモリーズ」スコラ
石ノ森章太郎「リュウの道」竹書房文庫
永井豪「デビルマン」講談社
岩明均「寄生獣」講談社
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2009年05月04日

tabi0127 レーモン・クノー「文体練習」

音声のレベルでの共通性や類似をテーマにした「21.区別」「22.語尾の類似」「46.音の反復」「82.聞き違い」などになると、もはや原文の表面上の「意味」は全面的に無視せざるを得ない。「意味」を無視した翻訳が翻訳と呼べるかどうかはわからないが、とくにかく原文はひたすら音を問題にしているのである以上、訳文でも日本語の音でそれに相当するものを見つけてゆくほかはない。(中略)さてこのような無謀な「翻訳」の試みを通して感じたものは、「自分の」無力さであっても「日本語の」無力さではなかった。「ことばの壁」にぶつかって進退きわまることもしばしばだったが、ひねくりまわしているうちにどこかに迂回路が見つかって「やれば何とかなるものだ」という思いをすることが多かった。P149-151 訳者あとがきより
レーモン・クノー「文体練習」(朝日出版社 1996)

本書は、たったひとつの些細な出来事を、99通りににおよぶ書き換えによって構成した一冊。

些細な出来事とは、

ある日、バスのなかでソフト帽をかぶった26歳くらいの男が隣の乗客が押してくるので腹をたてるものの、その口調はたいした剣幕ではなくて、別の席があくとそそくさと座る。その2時間後、サン・ラザール駅前のローマ広場でその男をまた見かけた。連れの男がいて「君のコートにはもうひとつボタンがいるね」と言っているのが聞こえた。

これだけのことである。

モノーは、この出来事を第2番では、わざとくどくどと書いていく。そして、第3番ではたった4行にし、第4番はメタファー、第7番は夢として、8番は予言として、10番は虹の七色として書いていく。彼はこのように文体を変えてみせていくのである。

読者は、表現の地平に驚きをもつと同時に、フランス語→日本語という翻訳がなされたという事実に驚きをもつ構成になっている。私が気づけたことは、「言葉にならないことを言葉でする」前に、「文体から言葉がでてくること」を刻むことである。

■参考リンク
第百三十八夜【0138】2000年9月27日
ウリポ(潜在文学工房)からウバポ(潜在マンガ工房)へ


■tabi後記
Twitterを再開しました。
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tabi0125 中島義道「「私」の秘密 -哲学的自我論への誘い-」

私とは、ー不思議なことにーこういうかたちで過去形を使える者なのです。そのためには、私は<いま>存在していなければならない。過去形を使える者は、現在生きている者です。現在生きつつ、過去においていかに「あった」かを語っているのです。
ここに、現在という時と過去という時という互いに両立しない時、互いに否定的関係にある時(現在は過去ではなく、過去は現在ではない)を「つなぐ」存在者が前提されている。「私はいま覚醒しているが、同一の私がさっき熟睡していた」のです。この同一性の了解こそ、私というあり方を了解することです。
とはいえ、私は現在と過去から等距離にあって、現在と過去を「つなぐ」のではない。現在生きつつ、あくまでも現在の側から過去をつなぐのです。こうして、独特の仕方で過去と現在とを「つなぐ」ところに、すなわち「つながれる」ものとしての現在と過去とが一挙に出現するところに、私が出現します。P15-16
中島義道「「私」の秘密 -哲学的自我論への誘い-」(講談社 2002)


想起モデルと、記憶の糸でつながれる私という考えは同意ではないと感じるのだが言葉にできない。その言葉にできない感を表現する為に、僕の読自模様を公開してみよう。

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「cogito, ergo sum(我思う、ゆえに我あり)」を知らぬものは少ないが、立ち止まる人は多くはない。考える(cogito)と存在する(sum)という視野に 「我思うが、我あらぬ」「我思わぬが、我ある」「我思わぬ、我あらぬ」という視点を挿入し、この「私」(我)がなぜ<私>(我)なのかという視点が入ることで深みと怖さがましてくる。

■参考リンク
まちょっと、本のこととか
増田的認識論不足



■tabi後記
「今、ここに、私としてに存在していること」が問いである。存在としての世界の切り取りが自身が命を絶たずに生存する理由であり、命が経たれても存在できる理由であろうか。その理由からも離脱するのがエックハルトの視点か?
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2009年04月27日

tabi0117 安部公房「第四間氷期」

「それで?」と私がうながしたのに、頼木があわててうなずき返し、
「ええ、それで・・・その結果、分ったことは、やはり、駄目だということだったのです。」
「なにが駄目だ?」
「つまり先生は、やはりその未来には、耐えられなかったということです。結局先生は、未来というものを、日常の連続としてしか想像できなかった。その限りでは、予言機に大きな期待をよせていらっしゃったとしても、断絶した未来・・・この現実を否定し、破壊してしまうかもしれないような、飛躍した未来には、やはりついて行くことが出来なかった。先生は、プログラミングにかけては、最高の専門家かもしれませんが、プログラミングというのは、要するに質的な現実を、量的な現実に還元するだけの操作ですね。その量的現実を、もう一度質的現実に綜合するのなければ、本当に未来をつかんだことになりません。分りきったことですが、先生は、その点でひどく楽観主義的だった。未来をただ量的現実の機械的な延長としてしか考えていなかった。だから、観念的に未来を予測することには、強い関心をよせられたけど、現実の未来にはどうしても耐えることができなかった・・・」 
「分らんね、何を言おうとしているんだか、さっぱり分らんよ!」
「待って下さい、具体的に説明します。後でテレビでお目にかける予定ですが、先生は、その未来に対して公然と反対の立場をとられたのみならず、しまいには、予言機の予言能力にまで疑いをもち始めた。」
「知らないよ、その過去形をつかわれたって・・・」
「でも、予言機が予言してしまったのですから、仕方がない・・・その未来の実現を妨害するために、約束を破って、たとえばつい数時間前にしかけたように、組織の秘密を暴露してしまうことになるんです。」
「かまいやしないじゃないか。水棲人間をつかった海底植民地なんかに反対して、何がわるい。それだって、新しい条件におけるつまり第二次予言値として、立派な未来じゃないか。そんな馬鹿気た未来を未然に防止するためにこそ、予言機の利用価値もあるんだと、私は思っているな。」
「予言機械は、未来をつくるためのものではなく、現実を温存するためのものだと仰るんですか?」
「ね、そうでしょう・・・」と和田がせきこんだ調子で、割込んできて、「結局それが、勝見先生の考え方の根本なのよ。もう何をいっても無駄らしいわ・・・」
「おそろしく一方的な言い方だね。」こみあげてくる怒りを、かろうじてこらえながら、「なにも、その海底植民地の未来だけが、唯一の未来だというわけではあるまい。予言を独占しようとするくらい、危険な思想はないんだ。それはいつも私が口をすっぱくして注意してきたはずじゃないか。それこそファッショだよ。為政者に神の力を与えてしまうようなものだ。なぜ、秘密が暴露されてしまった場合の未来を、予測してみようとしないんだね?」
「しましたとも・・・」抑揚のない声で、頼木が一気に言った。「その結果、先生は、殺されてしまうことになるのです。」
「誰に?」
「外で待っている、あの殺し屋にですよ・・・」P258-261
安部公房「第四間氷期」(新潮社 1970)

自分がふつふつと考えていた概念が、1つの物語として緻密に設計される様に圧倒されてしまった。間氷期というテーマ設定、それに対する予防事業を描き出したことの圧倒されたのだ。ただし、これは本書のサブテーマである。

メインテーマは、サブテーマが設定される過程にある。それを、僕の言葉でいうと、「質性を確保する為の量化作業に質性が宿ってしまった際の応答」というテーマである。

そのテーマが予言機と予言機プログラマーを一体化させる過程にあらわれている。予言機作成者の行動が予言機に予言されてしまう。その現実に立たされたときに本性が現れる。「断絶の未来」に対して露呈した1人のプログラマーが「保守的な、あまりに保守的な姿」が描き出されるのだ。更に加えれば、彼を裁判にかける研究室メンバーの「革新的な、あまりに革新的な姿」も描き出されるのだ。



■tabi後記
村上龍と同時に買った本書。この2冊を連続的に読めたのは幸せである。連想がふくらんでいく。
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2009年04月25日

tabi0112 松井孝典「人類を救う「レンタルの思想」」

農耕牧畜とは、地球システムの物質・エネルギー循環を直接利用する生き方であり、それゆえ新しい構成要素を作って生きる生き方なのである。生物圏の中の物質・エネルギー循環に比較して、その循環の流量は桁違いに大きく、従ってより多くの人類の生存が可能になる。

人間というスケールでこのことを論じれば、この時欲望が解放されたといってよい。以来人類は、大地を、そして地球を「所有」すると、錯覚するようになった。

より多くの人が集団で住むようになり、食糧生産に直接関わらなくて生きられる人が多くなり、さまざまな分業体制が生まれ、人間圏の内部システムの構築に必要な共同体が形成され、その共同体の求心力としてさまざまな共同幻想が作られた。P7
松井孝典「人類を救う「レンタルの思想」」(ウェッジ 2007)

人類は欲望を持つ。それは潜在的に現生人類(ホモサピエンス)という種が分化した時から持っていたのだろう。しかし生物圏のなかにとどまっていた時、その欲望は分をわきまえたものにならざるをえない。

生物圏の食物連鎖に連なるということは、配分されるパイが生物圏の内部での分配により規定され、自分の欲望のままにならないからです。農耕牧畜の開始により、原理的には人類は、それまでのそうした禁欲的な生き方から解放された。

人類は約一万年前そうした選択(これまで何度となく指摘してきたように、生物圏から分化し、新たに人間圏をつくるという生き方)をした。なぜ一万年前かといえば、その頃氷期が終わり、間氷期が始まったからである。間氷期の訪れとともに気候が安定化し、毎年規則的に季節が巡ってくるようになる。季節が巡れば、同じような食糧を定期的に採取することができる。そのことに気付いた人類が、それを自ら栽培しようと考え始めたとしても不思議はない。

その時人類は労働を通じて自然の恵みを採取し安定的に食糧を得るという生き方、すなわち、自らの欲望を満足させる道のあることに気付いたのである。P24
松井孝典「人類を救う「レンタルの思想」」(ウェッジ 2007)


松井孝典との対談相手として岩井克人、糸井重里がでていたので読了。
この3人は私が教養を身につける際の案内人であった。

彼らを見ていて共感するところは、「自分の頭で考え、自分の世界観をもたない限り、自分はここにいる意味はない」というスタンスで生きているところかな。そして、そのために「わかる」と「いきる」をつなげようとしているところ。

岩井氏:
主流派経済においては、欲求(食べたい)と欲望(うまいものが食べたい)が分岐されていない。欲求だけで考慮しても、人口が増えていくと一人当たりの自然資源が低減していく。その欲求にしたがうだけでは「コモンズの悲劇」になってしまうので、それをさけるために私的所有が発明された。それが、外部不経済(乱獲)の内部化(所有権の設定)であった。

しかし松井と岩井は、主流派経済学が、所有権が人間圏で閉じたモデルであること、欲望自体の考察を勘定にいれていないことに限界を感じている。

以下、まとまっていないのでメモ程度に。(いずれ更新されます)

・未来世代の所有権?
・動物、植物、生物の所有権?
・多世界の所有権?

が議論する必要があるかということ。

・資本主義とは私的な利潤の追求を目的とする経済活動
・人はなぜ利潤を追求するのか?
・貨幣があるから
・なぜ貨幣を追求するのか?
・交換可能性があるから
・なぜ交換可能性が必要になったのか?
・価値尺度機能(何でも交換出来る)
・価値保存機能(もっていても腐らない)
・移動容易性(もちはこびやすい)
・交換可能性から貨幣自体を選好ようになった
・なぜ宛先なき貨幣(可能性自体)を求めるようになるのか?
・貨幣の前に法律があり、その前に言語がある。

ということ。

■ 参考リンク
631旅 梅原猛・松井孝典『地球の哲学』
書評 - われわれはどこへ行くのか?



■ tabi後記
更新はしていなかったが読書は習慣されていた。
テキストベースで蓄えることも習慣されていた。
だが、それを人に伝えるために編集しなおすことが習慣されていなかった。

人に言葉を伝えること。
それは著者と読者の繋ぎ目になること。
分かることは変わることでしかないことを伝えきること。

1つ1つの更新をなおざりにせずにいきたい。
posted by アントレ at 15:53| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月12日

tabi0109 多木陽介「アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン」

デザインというのは一つの専門分野であるというよりは、むしろ人文科学、テクノロジー、政治経済などにおける批評力を個人的に身につけることから来るある態度(世界や仕事に対する取り組み方)のことなのです。P20

まるで現代の人類学者の言葉のような95年の「学生たちへの助言」にも「人々の当たり前な身振りや慣習順応的態度、人が気にもとめないようなフォルムを批評的な目を持って観察することを」学びなさい、とあるように、世界を前に、分析し、いつでも批評的精神で物を見よ、目の前に提示された現実を鵜呑みにせず、ごくありきたりになってしまっている物のあり方をもう一度批判的に見直し、そうでない物事の在り方を探すための足掛かりにしろということなのだ。P57
多木陽介「アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン」(AXIS 2007)


昨日、三鷹天命反転住宅に行ってきた。荒川修作+マドリン・ギンズが建築した住居である。

「死なないための家」こんな命題を掲げて作られた住居に関心をもった。この住居は、体の外側から人間の宿命(=死に向かう宿命)を変えていくために、家を精密な遺伝子のように構成し、形作っている。

荒川が考える「死なない」とは、「死ぬことをさける」ということではなく、「生きていない」ことをやめてみなませんか?思い出そうよ。ということではないだろうか。

これが、この住宅に数十分浸った感想である。

この家は、身体の知覚を呼び覚ます家である。ここに住むことによって新たな身体の行為や動きが生まれ、そしてその動作を毎日知覚することで人間の未知の可能性が開かれる空間。空間には直線が殆どなく、身体の知覚を刺激する曲線が交差している。床の凹凸が私の三半規管への挑戦してくる。笑

荒川修作の住宅を感じながら、カスティリオーニを読了した休日。

以下の、写真から私の体験をトレースしてくれれば嬉しい。

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■ 参考リンク
ひらめく発想のマネジメント力
アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン
"ほんもの"の生活?
視野は広くを意識して



■ tabi後記

Finish!!

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2009年03月30日

tabi0105 ショウペンハウエル「読書について」

自分の考えをもちたくなかったら、一番確実な方法は、一分でも空き時間ができたらすぐに本を手に取ることだ。
(中略)
結局のところ、自分自身の根から育った思想だけに真実と生命が宿る。実際に完全に理解できるのは、自分の思想だけだからだ。本で読んだ他人の思想は、他人の食事の残り物、知らない客が脱ぎ捨てた服のようなものである。私たちの内部からあふれ出た思想が、春にいっせいに咲きほこる植物だとすると、本で読んだ他人の思想は、石に痕跡をとどめる太古の植物である。P13

文体は主観的でなければいいのではなく、客観的でなければならない。どうしてその必要があるかと言うと、言葉というものは、著者が考えているまさにその内容を、読者も自動的に想起できるように組み立てなければならないからだ。しかしそれがうまくいくには、思考にも重力の法則が当てはまるということを、著者がつねに意識していなければならない。つまり思考が頭から紙に下りていくのは、紙から頭に上がっていくよりはずっと容易なのである。P131
ショウペンハウエル「読書について」(PHP研究所 2009)

本書は「読自祭 」と共鳴するところが多かった。

私は、「1日1冊の書籍を読むこと」は全くもってスゴいことと思っていない。ましてや、それを推奨しようとも考えていない。この事を意外に思う方がいるようなので、ちょっと説明をする。

私はこういう考えをもったのは、読書家には、毒書家/読自家という分かれ道があることに気づいたからです。それは「生きるために水を飲むようなインプット経験」と「徹底的思索を行える耐性/体力」がついていない段階で、読書が習慣化してしまうのは危険であるという気づきでした。

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上記を満たさない方は、読書をすることによって、他人に思考の道を歩くことのプロになってしまう。その果てには毒書家が待っています。他人に思考の道を歩くことが容易になってしまった現代(検索バカ)においては、読書においても、他人に思考の道を歩くことに慣れてしまいがち。そういった危機意識を明文化してくれたのが本書です。

本来ならば、本すら読まないで思索を行えるのが良いのだが、読書をせずして天才と呼ばれた人間は皆無といってもよいだろう。読書には価値があるが、「本を読んだら、今度は自分を読め」という言葉を認知する必要がある。読書時間の倍の時間をかけて思索をしてほしい。読書自体に価値を認めない方は、自分の思考の道を相対化することを怠っているか、自分の思考を曝すことにより得られる「批判経験」の価値を感得できていないかもしれない。

下記の参考リンクには読自家へ歩むための方法論が銘記されている。参照あれ。

■ 参考リンク
母の名は「不遇」 - 書評 - 読書について
本ばかり読んでるとバカになる
本を探すのではなく、人を探す



■ tabi後記
「Think Straight, Talk Straight(単純に真っ直ぐ考え、率直に言う)」ってのは素敵な指針である。
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2009年03月25日

tabi0102 竹井隆人「社会をつくる自由」

私の言う「集合住宅デモクラシー」で果たされるのは、自らが社会をつくる主体たることを認識し、自らの「自由」を社会のためにどれだけ制限していくかを決定する政治的過程に関わることである。すなわち、それは他者や社会、あるいは「お上」や「コミュニティー」に隷従することなく、自らを治めることでもある。自ら「責任」を負えぬことなど「自由」であるはずがない。自らの「責任」を自覚できることが「自由」なのであり、そこに「正義」はあるのだ。P144
竹井隆人「社会をつくる自由」(筑摩書房 2009)


人間は、生まれ落ちたその日から「政治(集団意識決定の調整行為」)と切り離されない存在になる。これは、Aristotleが「人はポリス的動物である」という言葉に由来した考え方であろう。

私は、「Political apathy」(政治的無関心)について考えるとき、しばしばこの前提を思い返す。それは、この前提が政治的無関心にとって無力であることを確認するためだ。

私は政治期無関心の解消のために「投票における地域/世代間格差を解消しろ!」と叫ぶことを理想としていない。そもそも解消せざるをえないのか?そもそも「政治」は何を指しているのか?私は、「政治的」関心をもったときの宛先を問いたい。

そもそも投票される「政治」のサイズへ疑問符をなげかけること、ポリスが単一でしかないことに疑問符をむけることを希望している。

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読自内容を煎じ詰めると、「移動の自由がほしい」ということだ。私は、共産主義,社会主義,新自由主義といった主義/主張/制度が存在することは肯定しているが、それを「私」に強制してほしくない。これは、消極的自由という「立場」である。

誤解を回避するためにいっておくが、私は消極的自由を社会に強制したいとは思っていない。気持ちよく生活を送ることを考えると、「社会をつくる自由」がOSになってしまうことを意見しているのだ。その自明さを自明のものとするには「議論」が必要である。(OSがファジー語になっていることは認める。的確なアナロジーをするために学習中です。)

さて、その自明さとは何だろうか?

簡潔に述べるならば、「判断力/思考力が養われた成人は、「社会をつくる自由」,「社会を選ぶ自由」がデフォルトとする」ことです。そのOSにいかなるアプリケーション(共産主義,社会主義,新自由主義)をのせても構わない。

今の社会は、家電量販店で販売されるパソコンのようにデフォルトが肥大化している。不要なアプリケーションがドシドシと搭載されているのだ。

そんなに不満ならアンインストールをするなり、DELLパソコンや自作PCを選べば良いだろうと言う方がいると思う。それが、真っ当な意見である。

社会に目を向ければ分かることだが、インストール/アンインストールする行為に「自由」という言葉はあてがわれていない。こういった社会になれ!ではなく、こういった社会「も」つくれる自由が、「社会をつくる自由」である。

■ 参考リンク
「社会をつくる自由」について



■ tabi後記
自由を得るために、教育という言葉が発生する。教育は強制という形をとるが、短期的強制を回避することによって長期的強制(Ex「自由からの逃走」)を招くことになるならば致し方ない。(もちろん、「自由から逃走する自由」もあります。)私は、そういう判断のもとで教育に価値をおいている。
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2009年03月22日

tabi0101 野田智義 金井嘉宏「リーダーシップの旅」

実績を上げ、人の信頼をかち取り、信用を蓄積していくことは、自分にとってリーダーシップの旅を準備するためにも、旅を始め、継続するためにも有効だ。では、私たちは、この数年で、どんな信用を蓄積したのだろうか。それは、裸の自分として得た信用だろうか。それとも、名刺や所属する組織の肩書によって得た信用だろうか。

信用(信頼)の蓄積には、落とし穴が待ち構えている。手段であるはずの信用蓄積が、いつの間にか目的になってしまうと、私たちは旅に出ることができなくなる。しかも、皮肉なことに、努力家で責任感が強い人ほど、日常に追われ、不毛な忙しさから抜け出しにくい可能性がある。

立ち止まり、自分と対峙し、改めて自分が来た道を振返る。そこに、自分が本当に望んでいたものがあれば、大人になっても夢や志をもつことができる。

現在の競争だけにとらわれていないか。忙しいふりだけをして、「見えないもの」を見ること、大きな絵を描くことを忘れていないか。リーダーシップの旅においては、立ち止まって振り返らないと、見えないものがある。P177
野田智義、金井嘉宏「リーダーシップの旅」(光文社 2007)


本書は、信用蓄積が自己目的化してしまうことを肯定せずに指弾する。中毒者への処方箋は「リード・ザ・セルフ」である。この作業が、 「べき」と「したい」を繋ぐものとなる。

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「Lead the People,Society」をするにあたって、問題のでっち上げへの共感が必要とされている。個人の想いをぶちまけるのではなく、「Sensing Capability」(どのように時代を意味づけ、現前する機会をつかみ取るかの理解)がもとめられるのだ。

■ 参考リンク
私の旅がはじまった契機の本
あなたのまわりに、リーダーはいますか?
わずか10%の可能性でも:OJTなのか、OFF-JTなのか?



■ tabi後記
Sensing Capabilityは

・Inflection Point(時代の変曲点)
アンディー・グローブ(インテル 共同創業者)
・Contextual Intelligence(生きている時代の脈絡を読み取る知性)
ニティン・ノーリア『時代の中に (In Their Time)』

とも言いかえられている。
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2009年03月16日

tabi0096 ジョン・スチュアート・ミル「自由論」

この小論の目的は、じつに単純な原則を主張することにある。社会が個人に対して強制と管理という形で干渉するとき、そのために用いる手段が法律による刑罰という物理的な力であっても、世論による社会的な強制であっても、その干渉が正当かどうかを決める絶対的な原則を主張することにあるのだ。その原則はこうだ。・・・文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである。P27

この原則は判断能力が成熟した人だけに適用することを意図している。子どもや法的に成人に達していない若者は対象にならない。……同じ理由で、社会が十分に発達していない遅れた民族も、対象から除外していいだろう。……専制統治は、未開の民族に進歩をもたらすことを目的とし、実際にその目的を達成することで手段としての正しさを実証できるのであれば、正当な統治方法である。P28

人間は支配者としてであろうが、市民としてであろうが、自分の意見と好みを行動の規則として他人に押しつけようとする傾向をもっており、この傾向は人間性に付随する最善の感情と最悪の感情のうちいくつかによって強力に支えられているので、権力を制限しないかぎり、この傾向を抑制するのは不可能である。そして、権力は弱まっているどころか強まっているのだから、道徳的な確信によって権力の乱用に強い歯止めをかけないかぎり、現在の状況ではこの傾向がさらに強まっていくと覚悟しなければならない。P37
ジョン・スチュアート・ミル「自由論」(光文社 2006)


・無謬性の想定は真理を遠ざける態度である
・自分の意見に対してだされうる反論はすべて知る必要がある
・反論と反論へ反反論が論を精緻になっていくからだ
・しかし、精緻さが真理へ到達することはない
・その真理は状況/時代によるものであるからだ
・真理は到達されることはなく、希求する態度に内在している

■ 参考リンク
お互いに不干渉/消極的自由論
リバタリアニズムと右翼・保守・左翼・リベラルとの違い
ミル『自由論』新訳と官僚制への批判
ミル『自由論』:悪魔の代弁者
言論の自由について



■ tabi後記
4年ほど前はディベート三昧だった。科学者の態度と科学哲学者の態度を持ち合わせることがバランスのとれた知性であると思う。
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2009年03月13日

tabi0094 梅田望夫「ウェブ時代をゆく」

再読こそが書籍の醍醐味。忘却するという人間らしさに感謝をもちたい。
「群衆の叡智」とは、ネット上の混乱が整理されて「整然とした形」で皆の前に顕れるものではなく(いずれウェブのシステムが進化すれば、そいうことも部分的に実現されるだろうが)、「もうひとつの地球」に飛び込んで考え続けた「個」の脳の中に顕れるものなのだ、私はあるとき強くそう直感した。「新しい脳の使い方」の萌芽を実感した瞬間でもあった。ネット空間と「個の脳」が連結したとき、「個」の脳の中に「群衆の叡智」をいかに立ち顕れさせるか。この部分は確実に人間の創造性として最後まで残ってくるところのように思えた。P17

ウェブ進化は、経済や産業に直接的に及ぼすインパクト以上に、私たち一人ひとりの日々の生き方に大きな影響を及ぼすものなのである。「経済のゲーム」のパワーで産業構造がガラガラと変わるのではなく、「知と情報のゲーム」のパワーで、私たち一人ひとりの心のありように変化を促していく。「もうひとつの地球」の本質はそこにあるのだ。P50

今までは組織への加入は「全人参加」がデフォルトだったわけですが、ネットによってこれは「気持ちだけ参加」が可能になったわけです。そして今後は「気持ちだけ参加」こそ普通になるのではないかと思います」と問題提起した。人間はそもそも多様な能力と関心と知識を持った存在だが、工業化時代の組織では、本来多様であるべき一人の人間の能力・関心・知識の「ほんの一部」を切り取り、その「ほんの一部」をもって「全人」とみなし、「全人参加」をデフォルトとした。ネットはここを突き崩す可能性を提示している。P81

良き「志向性の共同体」作りに多くの人がリーダーシップを発揮するようになれば、無数の営みの中から、「一日五分の善意や小さな努力」を持ち寄る参加者を世界中から惹き付ける創造的コミュニティーも現れるのではなかろうか。P86
梅田望夫「ウェブ時代をゆく」(筑摩書房 2007)


私は「読自祭 」というイベントを毎週おこなっている。読自祭とは「 本を読んだら、今度は「自分」を読め」というコンセプトを実践する集まりである。

対象としているのは、

・読書量よりも積読量のほうが多くなっている方
・1日1冊の本を読んでいきたいと思っている方
・書籍に読まれるのではなく、自分を読むことに関心がある方
・1時間で「利己的な遺伝子」「影響力の武器」「ゲーデル・エッシャー・バッハ」を読めるようになりたい方

です。この会の縛りは、「60分間で書評せよ! 」ということだけ。プレゼン資料は、テキスト,マトリクス,フローチャート,マンガ,etc。

大事にしているのは、書籍内容を網羅的にまとめるのではなく、書籍からインスパイアされたこと、その人間が思考してしまったことを表現することです。 つまり、 書籍を踏み台にして「あなた」の思考を共有することがミッションになっています。

このような事をやろうと思った背景を説明したい。

現在、日本では毎日200冊の出版物が刊行されています。つまり、年間7万冊超の出版物が刊行されていることになります。この刊行スペースでは、 熱心な読書家 でも新刊の1%も読むことはできません。

このような出版環境と相まって、読書に関する本も目につくようになりました。「本を読む本」 という真っ当な読書論や、本田直之さんの「レバレッジ・リーディング」 、 成毛眞さんの「本は10冊同時に読め」 などの用書論が筆頭にあげられるでしょう。

私はこの状況を楽しむと同時に、半ば憂いております。なぜなら、読書の根本である「読自」についてほとんど語られていないからです。

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そもそも「読自」とは何なのだろうか?
それは文字どうり、自分を読むということです。 自己分析と違う点は、(読書を通じて)自分を読むということでしょう。 この考えを言語化するきっかけを与えてくれたのが、 「読んでいない本について堂々と語る本」 でした。

この本を3行でまとめると、

・われわれはたいていの場合、「読んでいる」と「読んでいない」の中間領域にいる。
・ある本について的確に語ろうとするなら、ときによっては、それを全部は読んでいないほうがよい。
・本を読まないことも、厖大な書物の海に呑み込まれないように自己を律するための立派な活動なのだ。

つまり、われわれは常に未読状態であり、 未読状態においては「堂々と語る」ことが非常に大切である。 そして「堂々と語る」ためには「読自論」が必要なのです。

上記を読んで、

・未読状態とは何か?
・堂々と語ることがなぜ大事なのか?
・読自論とは何か?

という問いが浮かんだ方がいると思う。 この3つの問いに、簡単に応じたい。 まず認識してほしいのが、 われわれは、常に「5つの未読状態」にあり、 読書に対して「3つの強迫観念」をもっているということです。 そして、その強迫観念への対処法(4つのコメント法)が習慣となっていないのです。

では、3つの強迫観念とはなんでしょうか?

それは、

・本を読まねばならない読書義務
・読むなら全部読まねばならない通読義務
・語るためには読んでいなければいけないという規範

ということです。

そして5つの未読状態とは、

・ぜんぜん読んだことがない本
・ざっと読んだことがある本
・人から聞いたことがある本
・読んだことはあるが忘れてしまった本
・読んだことすら忘れてしまった本

をさしています。

対処法としての4つの未読本コメントとは

・気後れしない
・自分の考えを押しつける
・本をでっち上げる
・自分自身について語る

となっている。更なる詳細は書籍に譲ります。

読自祭は上記を基本にして、4〜6人が集まる中で知性が創発されています。僕は、こおで生み出される知性を何かしらのツールで構造化できればと思っています。

また、そのツールによって読自祭が各地で行われることを目論んでいる。そして、そのツールが本書で言及される「文系のためのオープンソース(知的生産ツール)」になることを企図しているのです。

■ 参考リンク
梅田望夫『ウェブ時代をゆく』を語る
生命保険 立ち上げ日誌
極東ブログ
「ウェブ時代をゆく」(1) 儲からない仕事がしたい
「ウェブ時代をゆく」(2)ロールモデリング―「よいこと」を抽出する技術
梅田望夫と福澤諭吉
「世界観、ビジョン、仕事、挑戦――個として強く生きるには」講演録
グーグルに淘汰されない知的生産術
読売新聞書評欄連載で選び評した12冊の本



■ tabi後記
ふと、「CQ+PQ>IQ」という式を思いだした。CQとは好奇心指数(Curiosity Quotient)。PQは、熱意指数(Passion Quotient)である。 引用元は「フラット化する世界」。
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2009年03月09日

tabi0091 中原淳,長岡健「ダイアローグ 対話する組織」

つまり、「対話」が組織変革や組織学習に大きな効果を発揮することもあれば、特定の組織文化や組織理念を長期間にわたって根づかせてしまうこともあり得るということです。組織の改革において、「対話」はたしかに意義深い有用なものです。ただし、それは普遍的な万能薬ではありません。対話の意義について知ることは、対話のポジティブな側面を手放しで称揚することではありません。対話がもたらす「意図せざる結果」についても、しっかりと見据えていく必要があります。P181
中原淳,長岡健「ダイアローグ 対話する組織」(ダイヤモンド 2009)


「ダイアローグ・オン・ダイアローグ」の基軸となる本だろう。ダイアローグの機会がひろがりそうだ。本書から、ダイアローグ分類の着想をえたので、「思考形式」(論理実証モード/ストーリーモード)、「態度習慣」(他律(依存)/自律(内省))の2軸で整理してみました。思考形式については説明が必要なので、本書から引用したいと思います。

「論理実証モード」は「ある物事が正しいのか、間違っているのか」を問い、厳密な分析を通して、物事の真偽を明らかにしようとします。これに対して、「ストーリーモード」とは、「ある出来事と出来事のあいだに、どのような意味のつながりがあるか」を注視する思考の形式です。ストーリーモードのもとでは「物事が正しいか、何が間違っているか」はあまり問題にはならず、むしろ「それは現実味に富んでいるか」「それは、腹に落ちているかどうか」が重要とされます。P52


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それでは、ボックスについて説明します。価値判断を加わえていますが、「分類」として捉えてもらいたい。どれが良い、悪いというものではない。

パッケージダイアローグ
・暗黙知共有
・ナレッジマネジメント
・理念浸透(=モノローグ)

パッケージダイアローグはビジネスフィールドで語れてきた「対話」である。上記の言葉が象徴的な例だろう。暗黙知は、形式知とセットで語られる。「暗黙知をナレッジマネジメントによって、形式知という知恵にしましょう!」などと語られているかもしれない。

ディペンデンスダイアローグ
・社員改造
・過剰適応(洗脳)
・学習棄却の重要性

ディペンデンスダイアローグ(依存的対話)はパッケージダイアローグによって「対話漬け」になってしまった状態。意図がない場合は悲惨であるが、「宗教から布教/洗脳プロセスを取り入れて、経営に活かそう」という意図をもっている方も存在しているだろう。アンラーン(学習棄却)による、過剰適応から脱却が求められる。

セルフダイアローグ
・リフレクション
・省察的実践者
・突貫工事のエキスパート

セルフダイアローグ(自己内対話)は自己啓発に近いだろう。自らの心的傾向(バイアス)や強みを棚卸しする習慣がついている方々だ。「ドラッカーの「プロフェッショナルの条件」がいいよ。」といっていそうである。(哲人政治の現代版というイメージをもてる)セルフダイアローグに長けている方には、自らの対話を場としておこなことが問われているだろう。

ダイアローグオンダイアローグ
・メタ認知
・対話を通じた学びほぐし
・ワークライフラーニング

最後になってしまったが、ダイアローグオンダイアローグ(メタダイアローグ)についてふれたい。デヴィッド・ボーム 「ダイアローグ」を読んだ時の想いをのせてみよう。

「『愛があればすべてうまくいく』と言う人がいる。だが残念ながら、すべてを救う愛は存在しない。だから、もっと良い方法を考えなければいけないんだ。」
デヴィッド・ボーム 「ダイアローグ」(英治出版 2007)


対話の目的は、物事の分析ではなく、 議論に勝つことでも意見を交換することでもない。そして、対話の何よりの障害となるものは、想定や意見に固執し、それを守ろうとすることだ。 われわれは様々な想定(意見)をもっている。想定とは、過去の思考の結果である。 そして人は、想定(意見)と自分とを同一視し、それを守ろうと反射的な対応するかもしれない。

ある人は、何かが問題だという。ある人は、その考えが問題で、こちらの視点からみると「これこそが」問題だという。 そして二人はひとたび離れて、「何が問題なのか考えてみよう」というが、問題だと描写する、思考構造自体が問題を生み出しているのだとしたら、我々はどうするだろうか。

そこで、個人的思考と集団的思考に関する考察があらわれる。ボームは対話における目的を「意味の共有」とする。そして、意味の共有に到ることは、集団的思考を一にすることであり、対話はそこに到るまでのプロセスであるとする。「対話」をおこなうためには「想定(=個人的思考)を保留状態」にする必要性があるとし、集団的思考(=暗黙知)の深層構造を解明する必要があると語るのが本書である。彼が想い描く深層構造は、「いかなる意味を共有してきたか」といことであろう。それは文化であろうか。

松岡さんが書くように、 この著作は、ボームが全体性の回復を叫ぶあまりに部分(断片的)に回収される可能性がある。ボーム自身は、部分と全体を語る言葉(記述スタイル)を探索していたのだろう。

拡散的になってしまったが、一人ひとりが本書から汲み取った「違和感」にもとづいて、ダイアローグ・オン・ダイアローグをおこなっていってほしい。

■ 参考リンク(私がお気に入りの記事をBlogからピックアップした)
僕らは皆、「素朴教育学者」である
社会って、いったい、「誰」ですか?
パネルディスカッション



■ tabi後記
本書にも秀逸なマトリクスがあふれている。
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2009年03月06日

tabi0088 山田ズーニー「おとなの小論文教室」

ズーニーさんへ
お返事ありがとうございました。「愛するものを手放しなさい」。とてもショックな文章でした。
あの相談メイルを書いたあと、彼に手紙を書いたのです。
書き始めて、本人に渡すまで5日間。書いては寝かせ、読み返し、書き直し、書いては寝かせ、読み返し、書き直し。手紙を寝かせるということは初めての経験です。
そしてこの5日間は『要約』の作業でした。
要するに?
私が彼に伝えたいことは何なのか。
最初の手紙は言い訳のオンパレードでした。読み返すと嫌気がさしてきました。そして書き直します。こんどは、相手の気持ちを動かそうとする下心が丸見えの演出がかかった手紙。
(中略)
結局、自分が手紙の中で一番強く書いたのは「あなたを取り戻したい」ということではなかった。そういう諦めの悪い願いは持っているけれども「あなたが自分自身のまま変わらないでいてほしい」ということを書いた手紙になりました。

「あなたがあなたらしく生きる道を
私が塞いでいるのであれば
それは私自身がそれを許さない」と。

それが一番の想いだと自分で気づけたので落ちつきました。P69
山田ズーニー「おとなの小論文教室」(河出文庫 2009)


ほぼ日の連載はみていたのに、彼女の魅力に気づいていなかった。彼女のメッセージをつうじて、人との接し方を再考させられた。


今回は図解ではなくショートエッセイでまとめます。


要約によって

世界は要約で出来ている

要約をひもとこうとする者などいやしない

それが分かっているだろうか

分かってもらわなければ

それで終わりなのだ

あなたの人生は他人に決められる

あなたの人生は完全に他人に決められる

悲観する必要はない

あなたには出来る事がある

1つだけ

それは他人の"動機"を創ることだ

動機とは他人の次の行動を創ることだ

動機はあなたへの印象も形づくる

良き印象は他人の行動を創りつづける

あなたの人生は完全に他人に決められている

しかし、他人の"動機"は創ることができる

何によって

あなたの要約によって

密度濃く

相手が動きたくなる

機会を提供する

そんな文章表現をしていこう

じょじょにじょじょに

■ 参考リンク
いま書き始めることが世界を変える〜『おとなの小論文教室。』



■ tabi後記
図解だけが全てだろうか。表現手段はいくらでもある。実験をしていこう。
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2009年02月24日

tabi0080 グリーンリーフ「サーバントリーダーシップ」

私達は、何かに打ち込む人と狂信者の違いは、無私無欲にあると考える人もいる。しかし、狂信者の多くは喜んで自分の人生を諦める。その違いは思いやりにあると考える人もいる。しかし、狂信者の多くは、他人の苦境を受け入れる、深い思いやりを持っている。信じてほしいが、私は価値のない狂信者を知らないのだ。彼らの価値が好まれない場合もあるかもしれないが、確かに価値はあるのだ。狂信者たちは自分が絶対に重要だと思ったものに、我を忘れるほど関わりを持つと考えられている。(中略)ホッファーの主張によると、コミットメントと狂信主義の決定的な違いは「不確実性」だという。狂信者には迷いがない。つまり、狂信者には答えが見えているのだ。狂信者には、本当に起こっていることが何なのかわかっている。狂信者には計画がある。(中略)グリーンリーフはこうしたことをよく理解していた。コミットメントについて議論したとき、彼はこう言った。「結局、人は選択せねばならない。おそらく、同じ目的や仮説を繰り返し選択するだろう。だが、それはいつも新鮮で開かれた選択だし、いつも不安の影が差している」。そう、いつも不安の影が差しているのだ。P541
ロバート・K・グリーンリーフ「サーバントリーダーシップ」(英治出版 2008)


とうとうサーバントリーダーの原典が訳された。導きながら/尽くす。尽くしながら/導くという止揚をおこなう姿勢がリーダー論の中で冴え渡ったのだと思う。それを図解する過程で「サーバントリーダーシップ」の"止揚"面に注目しているだけではいけないなと自覚した。

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なぜかというと、「何を」導き、「何を」尽くし、「何に」導かれ、「何に」尽くすのかという問いを発する必要があるからだろう。

この図は、フリーライダー/フォロワー/リーダー/サーバントリーダーという序列付けを行ったものではない。ボックスは等価であると考えた時に、自らが、ある状況、相手に対してどういった態度をとっているかを見極めるためのリトマス紙として、この概念が生まれたのだと思い立った。

つまり、マトリックスにおける右上の箱が創造されたことによって、残りの3つの箱が生まれたと。マトリックス創出をアフォードする概念として「サーバントリーダー理論」を捉えていくのが良いと考えた。

■ 参考リンク
お気楽、極楽日記



■ tabi後記
気づけば花粉症もなおっていた。
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tabi0079 永井均「倫理とは何か」 第3章

『社会契約論』は「人間は自由なものとして生まれついたが、いたるところで鉄鎖につながれている」という有名な文章で始まっています。この一文からわかるように、ルソーが提起している問題は、じつはホッブズやヒュームのそれとは違う問題なのです。一七五五年の『人間不平等起源論』で、ルソーは概略以下のようなことを言っていましたーー自然状態においては、人々は互いに独立していて、質素で素朴ではあるけれども平等であり、生まれつきそなわっている自己保存の本能と憐憫の情だけで、十分に生きていけた。ところが、現在の社会状態を見てみよ。人間はいたるところで、人為的な取り決めによって生じた不平等に苦しめられているではないか。この人為的につくられた不平等の原因を究明し、それを克服するための新たな社会契約のあり方を探究するのが、自分の課題であると。P88
永井均「倫理とは何か」 第3章(産業図書 2003)


前回の続きになります。

ルソーは、自身が提示する新たな社会状態の中で、人間は実際よりも価値ある存在であると人から思われたいという欲望を抱くようになる、と言っています。

つまり、充実した人生を生きることが、他人にどう思われるかに左右されるようになると。こうして人間は、偽装を本質とする存在になり、他人に対するまなざしは嫉妬を本質とするようになる。そのような人間観を図解してみた。

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ルソーは、他人の不幸を見る喜び、他人の幸福を見る悲しみ。自分を幸福に見せる喜び、と、自分の不幸を見られる悲しみ。これが市民社会の現実だと喝破した。「人間不平等起源論」や「社会契約論」を書いた後の、「エミール」「告白」「孤独な散歩者の夢想」に関心がある。社会契約を考えきった人間が、いかに社会から追放され/追放していったのか。このあたりをアナロジーで捉えることに学習欲がわいた日々である。

■ 参考リンク
ジャン・ジャック・ルソー『孤独な散歩者の夢想』
鹿島茂『ドーダの近代史』



■ tabi後記
この読書会も後半戦に突入してきた。読了後の計画も考えながら、突き進めたい。
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2009年02月21日

tabi0076 ケン・ウィルバー「存在することのシンプルな感覚」

しかしこの「目撃者」とは何か?誰、あるいは何が、すべての対象を目撃しているのか?行く雲、浮かぶ上がってくる思考、眼の前を通っていく対象、これらを見つめているものは何か?誰、または何が本当の「見者」なのか?私であるものの核心にある、この純粋の「目撃者」とは何か?この単純な目撃の意識は、非二元の伝統が主張するところでは、まったくそのまま「スピリット」それ自体、「目覚めた心」それ自体、「仏性」それ自体、「神」それ自体である。P361
ケン・ウィルバー「存在することのシンプルな感覚」(春秋社 2005)


「あなたは誰ですか?」という問いに対して「肉体の眼「心の眼(理知の眼)」「観想の眼(黙想の眼)」という3視点からの紹介をしたい。

誰かがあなたは誰ですかと尋ねた時、正直に、ある程度、きちんとした答えを行おうとする時、基本的にわたしたちはどうするだろうか。いったいあなたの頭のなかをよぎるものは何だろうか?

あなたは、おそらく自分のアインデンティティ(自分とは誰か、ということ)に関して、もっとも基本的と思われる事実、良いこと、悪いこと、価値のあること、ないこと、科学的な答え、私的な答え、哲学的な答え、宗教的な答えを提出するだろう。

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例えば、「私はユニークな人間だ。いろんな能力に恵まれている。いつもは親切だが、時には、冷淡だ。父親であり、弁護士である。釣りと野球が好きだ」というように。このように、あなたの頭のなかに浮かぶいろんな思考のリストは進んでいく。

しかし、アイデンティティをこのように設定しようとする、この思考の進行の底に流れるプロセスがある。それは、あなたとは誰かと尋ねられた時に起こる、非常にシンプルなプロセス(リアクション)である。あなたが自分とは何かを説明しようとする時、実際には何か起こっているかといえば、それは自覚しようとしまいと、あなたの経験の領域のなかに、ある境界線を引いているのである。

そして、その境界のこちら側にある、と感じられるものを「自分」とよび、その境界の外側にあるものは「自分ではない」と呼んでいるのである。すなわち、あなたのアイデンティティは、言い方を変えれば、あなたがどのように、その境界線を引くかにかかわっている。

その境界線はセルフイメージ、心持ちと呼ばれているものだろう。私は、どういった質問を自分に浴びせているかによって境界線はぶれていくと考えている。(It depends on "Self-Quetion-Quality".)

■ 参考リンク
263旅 『存在することのシンプルな感覚』



■ tabi後記
「禅,瞑想とビジョナリスト」の関係付けはおもしろい視点だと思う。
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2009年02月16日

tabi0073 福澤諭吉 「学問のすすめ 現代語訳」

百回の説明も、一回実例を示すのにはおよばない。いま、自分から官に頼らない実例を見せて、「世の中の事業は、ただ政府のみの仕事ではない。学者は学者として、官に頼らなず事業をなすべし。町人は町人で、官に頼らず事業をなすべし。政府も日本の政府であり、国民も日本の国民である。政府を恐れてはいけない、近づいていくべきである。政府を疑うのではなく、親しんでいかなければならない」という趣旨を知らしめれば、国民もようやく向かっていくところがはっきりし、上はいばり、下は卑屈になるという気風も次第に消滅して、はじめて本当の日本国民が生まれるだろう。それは、政府のおもちゃではなく、政府に対する刺激となる。学術、経済、法律の三つも自然と国民のものになり、国民の力と政府の力のバランスが保たれる。そうすることによって、日本全国の独立を維持すべきなのだ。P59
福澤諭吉 「学問のすすめ 現代語訳」(筑摩書房 2009)


良い仕事。抜粋部分を文語体で記すとこうなる。

百回の説諭を費やすは一回の実例を示すに若かず。今われより私立の実例を示し、「人間の事業はひとり政府の任にあらず。学者は学者にて私に事を行なうべし、町人は町人にて私に事をなすべし、政府も日本の政府なり、人民も日本の人民なり、政府は恐るべからず近づくべし、疑うべからず親しむべし」との趣を知らしめなば、人民ようやく向かうところを明らかにし、上下固有の気風もしだいに消滅して、はじめて真の日本国民を生じ、政府の玩具たらずして政府の刺衝となり、学術以下三者もおのずからその所有に帰して、国民の力と政府の力と互いに相平均し、もって全国の独立を維持すべきなり。


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政府転覆ではなくて、政府より市場価値のある事務機能(ex 外交、防衛、治安)、マネジメントモデルを提供することが大事である。そのためにはフィジビリティースタディーが必要となってくる。そういった政府競合可能性のあるビジネスリスト、リストへのチャレンジャー、チャンレジャーへのアタッカーシステムの提供が求められる。

■ 参考リンク
近代的日本国民の青写真 - 書評 - 現代語訳 学問のすすめ
民主制・自由主義・個人主義
「タメグチ」的ガバナンスの歴史



■ tabi後記
探究観が高まる時期です。1日では読めない書籍に対峙することになるので、Blogの更新頻度が低くなります。これはこれで良い傾向。
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2009年02月09日

tabi0069 神永正博「学力低下は錯覚である」

大学にいると、学内改革の話ばかりである。教育や組織については皆一家言あるのだが、議論が全くかみあわない。かみあわない原因の多くはデータがないことである。あるいはきわめて限定された調査で得られたデータが話をややこしくする。大学教員の友人たちと話をすると、この現象は局所的なものではなく、日本中の大学で起きていることのようである。改革を成功させるのは難しい。欠点のよくわかっている現在の組織から、欠点のよくわからない組織に変えるということだからである。感情的な議論を繰り返した挙句、最悪の選択をしてしまうことは避けたい。議論する時には、可能な限りデータを集める必要がある。地味で時間のかかる作業だが、ここからスタートすることが、結局は改革を成功させる近道なのではないだろうか。多くの大学には、この種の仕事をする専門家がいないが、今後その重要性が増してくるに違いない。P137 あとがき
神永正博「学力低下は錯覚である」(森北出版 2008)


・大学生の数学力が非常に低下している(分数ができない大学生)

・国際的にみて日本の子供の学力が低下している(原因は「ゆとり教育」)

この2点をクリティカルシンキングしていなければ読んで頂きたい。

著者は、

・大学生たちの学力は年々下がっている
・高校卒業生たちの学力は下がっていない

というパラドックスに明快な解答を与えている。簡易に答えると、少子化が進んで高校卒業生が減っているのに、大学の定員は減るどころか増えたからというものだ。

・大学生の数学力が非常に低下している(分数ができない大学生!)

という現象には、大学生の質的変容があるのだ。

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18歳人口は平成4年に209万人にピークを迎え、平成19年に130万人(ピーク時の63.4%)になっている。そして、大学数は昭和61年の465校(短大548)から平成17年に726校(短大488)へと増加傾向にある。(短大の推移をみれば分かるように、大学も淘汰傾向にはいってくる。ここでは入学者まで言及が出来ていない。また海外留学生/海外進学も考慮にいれる必要があるだろう。)これらの影響から進学率は95年40.7%から05年51.3%に達した。

私の親世代で日本大学に入学した人は、現在の東京大学に入学出来るという話をよく聞く。そして、大学院が30年前の大学の役割を果たしているとも。

■参考リンク
この読後感は錯覚じゃないよね?
「学力低下は錯覚である」の補足



■tabi後記
tabi0011 中西準子「環境リスク学 不安の海の羅針盤」と同姿勢を感じる。
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tabi0068 ゲイリー・ハメル「経営の未来」

実をいうと、「エンプロイー(従業員)」という概念は近代になって生み出されたもので、時代を超越した社会慣行ではない。強い意思を持つ人間を従順な従業員に変えるために、二十世紀初頭にどれほど大規模な努力がなされ、それがどれほど成功したかを見ると、マルクス主義者でなくてもぞっとさせられる。近代工業化社会の職場が求めるものを満たすために、人間の習慣や価値観を徹底的につくり変える必要があった。

・生産物ではなくて時間を売ること
・仕事のペースを時計に合わせること
・厳密に定められた間隔で食事をし、睡眠をとること
・同じ単純作業を一日中再現なく繰り返すこと

これらのどれ一つとして人間の自然な本能ではなかった(もちろん、今でもそうではない)。したがって「従業員」という概念が-また、近代経営管理の教義の他のどの概念であれ-永遠の真実という揺るぎないものに根ざしていると思いこむのは危険である。P163
ゲイリー・ハメル「経営の未来」(日本経済新聞社 2008)

著者に感謝をするには、行動に反映させるに尽きる。数年後に見返される本なのだろうが。ハメルは「すでに起こった未来」を認識するテキストを提出してくれた。

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ポータビリティー、トランスファブル視点の有無が従業員/構成員をわける。組織形態/雇用形態の障壁が緩和/多様になっていけば、ジョブディスクリプション等によって貢献範囲が規定されていく。そこでは、ヒエラルキーではなくコミュニティー視点になるのではなと。会社員ではなく、社会員というセルフイメージを養っておく必要がありますね。

■ 常識となりそうな前提

・経営者よりも社員の給与が高くなる
・プロジェクトメンバー、マネジャーが社外メンバー
・ウィキノミクスマネジメント(ボランティアマネジメントから学べるかと)

■ 参考リンク(多くを学ばせて頂いた。感謝。)
「経営の未来」に従業員の未来を見る
Management Revisited: 経営の未来(再)
681旅その1 ゲイリー・ハメルほか『経営の未来』



■ tabi後記
内田のことを掘り下げたがる人に3日連続でお会いしている。2時間ほど喋り続けていると、発話中の自分に気づかされることが多々ある。インタビューをされることの価値は、場に気づかされるということかな。素敵な時間です。
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2009年02月05日

tabi0066 中川邦夫「問題解決の全体観」

仮説志向には修正が付き物であり、修正すれば一時的に仕事が後戻りする。分かっていてもこれを避けたいのが人情である。しかし、仕事が遅れたり、自分の意見を修正することを嫌って、最初の仮説を押し通そうという態度が単なる保身でしかない。あくまでも仮説志向とは良い答えにたどり着くための方法論であって、そこで立てた仮説に引きずられては全く意味がない。こうしたときには、私がコンサルティングを始めた頃にマッキンゼー社東京事務所長が語った言葉を思い出す。「大きな絵を描け。そして間違っていたら、それを消せるような大きな消しゴムを持て」P227
中川邦夫「問題解決の全体観」(コンテンツファクトリー 2008)


上下巻で6000円だが、「問題解決の全体観」というタイトルどうりの価値ある書籍です。必殺仕事人のこだわりを体験できます(丁寧につくられた書籍ですからね)。

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自分のスキルセットを把握、確認するための副読書になるだろう。戻るべき場所となる書籍かな。補うべきところ、進化(深化)させるところは別の書籍(実践)で行うのが良い。

■ 参考リンク
全体観.jp
「問題解決の全体観」レビュー




■ tabi後記
時間どうりに書評を終えられた。ほっ。
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2009年02月02日

tabi0064 ジョージ秋山「銭ゲバ」

いつも私だけが
正しかった
この世にもし真実が
あったとしたら
それは 私だ
私が死ぬのは
悪しき者どもから
私の心を守るためだ
私は死ぬ
私の勝ちだ
私は人生に勝った


そうだ
てめえたちゃ
みんな
銭ゲバと同じだ
もっと
くさってるかもしれねえな
それを証拠にゃ
いけしゃあしゃあと
生きてられるじゃねえか P395-6
ジョージ秋山「銭ゲバ 下」(幻冬舍文庫 2007)


銭ゲバのゲバは(Gewalt(独):威力・暴力)の略で、「銭に執着している、ガメツイ」という意味で使われています。しかし、こういった解釈でも勿体無いと。

私は、ゲバの2側面に着目した。信仰対象としての「ゲバ」(外在ゲバ)と、「ゲバ」に心酔する他者を救済(解放)したいと思わせる<ゲバ>(内在ゲバ)である。そして、蒲郡風太郎(銭ゲバ)が外在ゲバと内在ゲバの妥協点を見出すために「自死」という生き方を採用した。それが「人生(=ゲバ)に勝つ方法」だったのである。

内在ゲバというのは、ゲバにゲバしている状態(ゲバゲバ)である。その状態が最もあらわれているのは上巻終わりの箇所。(P494-497)

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銭ゲバと無縁である小畑純子との出会いに、蒲郡風太郎は「真実」を見るのであった。しかし、ゲバの縁からは逃れられなかった。小畑純子も「銭ゲバ」となってしまったのだ。

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作者を模していると思われる、秋遊之助(正義ゲバ)にとって成し遂げられない偉業(=人生勝つ)を蒲郡風太郎が成し遂げてしまった。そして、秋遊之助は鮫島勝利(法ゲバ)、大学伸一郎(愛ゲバ)といった人間とは決して分かり合えぬ悩みを持ち合わせているのである。彼の読者ターゲットは現代に生きる「秋遊之助」ではないだろうか。

結論めいたいことは控えておきたい。本書を起点に各自の思考が発展する事を願いたいからだ。共有出来る事があれば、ぜひ対話を!

■ 参考リンク
[書評]自死という生き方 覚悟して逝った哲学者(須原一秀)




■ tabi後記
素敵なマンガに出会わせてくれた安斎さんに感謝!
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2009年01月30日

tabi0061 ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」

書物が知識だけでなく、記憶の喪失、ひいてはアイデンティティーの喪失も結びついているということは、読書について考察を加えるさいにつねに念頭に置いておかなければならない要素である。(中略)創造そのものが、その対象が何であろうと、書物から一定の距離をとることを要求する。というのも、ワイルドが示しているように、読書と創造のあいだには一種の二律背反が見られるのであって、あらゆる読者には、他人の本に没頭するあまり、自身の個人的宇宙から遠ざかるという危険があるのだ。読んでいない本についてのコメントが一種の創造であるとしたら、逆に創造も、書物にあまり拘泥しないということを前提としているのである。P70,218
ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」(筑摩書房 2008)


本読みの方なら「読んでいない本について堂々と語った」経験は1度や2度ではないだろう。自らの有限な人生において、書籍を読む事と、自らを読む事の統合作業は極めて大切です。関連すると、必読書という概念は怖いものです。「これを読まなくていけない!」という社会的な義務感に縛られた読書を続けていくと、気がつくと生気が吸い取られている。積まれた書籍がプレッシャーとなり、自己否定感に襲われてしまうのかな。

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読む事は忘れ続ける事であり、自らの自己を変容(脱臼)させ続ける<クセ>になることも。

■ 参考リンク
読書論の極北
「読んでいない本について堂々と語る方法」はスゴ本
本を買ったが読まずに積んでそのままにしてしまう「積ん読」を防ぐ3の方法



■ tabi後記
天気が悪いが暖かい。明日で1月も終わりです。
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2009年01月25日

tabi0056 三谷宏治「正しく決める力」

『重要思考』の第一ステップ、大事なコトから考える、は体感できただろうか。慣れれば決して難しいことではない。「差」に流れず、その「重さ」を常に気にすることだ。

・何かを考えるときには必ず「それって大事だったけな」と自分に突っ込む

・人に話すときには必ず「そもそも○○が大事で、だから○○でこんな差をつけた」と必ず「大事であること」を最初に言う

ピラミッドもフレームワークも何もない。たったそれだけのことに、気をつけることで身に付く、しかし最強の力だ。自らへの問い、「それは大事か?」を心に刻もう。P39
三谷宏治「正しく決める力」(ダイヤモンド 2008)


考えがまとまってスッキリした。本書のキーワードを僕の言葉に変換すると、「重要思考」は「戻るべき問い(前提)をもてい!」ということで、「Q&A力」は「ロジックを乱し/乱すことを歓待/率先せい!」になり、「喜捨法」は「捨てずして何を拾う?」になる。自分/組織にとって切実なものをえぐり出す思考。その法則をまとめている書籍です。

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もったいないと思った点は、「章の入魂/ペース/配分」です。1章に力を注いだためか(それだけ「大事なコト」だったと察する)、後半になるにつれて失速感、文脈が斬られる感じをおぼえてしまった。具体的な部分としては、Webでの連載コラムを転載していることも影響していると思います。

また本書では「大事なコト」があっさりと決まるのだが、「誰にとって」を考えた時に、事業目標が決まっている組織において「重要思考」をする事と、個人のキャリアを考える際に「重要思考」をする事が同じレベルで論ぜられるのか?と思った。この疑問が浮かんだのは、自分ルール(主観)を持ち合わせた人でないと、チーム主観によって世界に眠る客観(潜在ルール)を掘り起こすことは出来ないと思っているからだろう。(深さや濃度のレベルは計れないので、なんともいえない)

■ 参考リンク
三谷宏治 金沢工業大学大学院 教授
私事歳時記@はてな



■ tabi後記
火曜日で大学4年間が終わる。私はもう1年行くのだが^^;
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2009年01月22日

tabi0054 アラン・ホブソン「夢に迷う脳」

ここで二つの定理を示したい。(1)心とは、脳内情報のすべてである。(2)意識とは、こうした情報を部分的に脳が自覚することである。(中略)意識が心脳のどこにでも(身体にさえ)在ると言われては、人は不服なのだろうか?熱いコンロに触れたら、神経終末は「わぁ!なんて熱さなんだ。そこから離れた方がいい」とメッセージを送るだろう。手が火口に触れそうになれば、脳を介さない反射作用によって手をさっと引っ込めるだろう。どちらの場合も、私たちは周囲の状況に気づき反応しているのである。これは意識ではないのだろうか?P301-302
アラン・ホブソン「夢に迷う脳」(朝日出版社 2007)


射程の広い議論を行っています。いやあ、良い意味で裏切られた。狂気も夢もどちらも錯乱なのだと、これまでも幾度となく考えてきたが、本書を通じて改めて実感した。(夢にとらわれている時、私たちは気が触れているも同然ではないか!)しかし、これだけの理由では「夢」に関心をよせたわけではない。

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私が夢に関心をもちはじめたのは、「明晰夢体験」ができる人間になったからだ。一時期は、風景、時間、色、身体を自らの思うように変化させることができた。「夢の世界での万能観」と現「実世界での制約観」に悶え苦しんだ時もある。そういった思いをもちながら、各概念をマッピングした。(P111に掲載されているABMモデルを参照する。)

■ 参考リンク
本よみうり堂 評・西川美和(映画監督)
今週の本棚:養老孟司・評



■ tabi後記
これから大学クラスの集まりがある。4年前に出会った彼・彼女も企業社会へ羽ばたいていく。大きく跳んでほしい。
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2009年01月20日

tabi0050 中島義道「「哲学実技」のすすめ」

いや、幸福を真実と同じレベルで考えてはならない。いますぐに説明するよ。真実をいつでも貫き通すことはたいへん難しいのだ。だが、だからといって簡単に「しかたがない」と呟いていい問題ではない。このことをカントほど考え抜いた哲学者をぼくは知らない。ぼくは、三〇年以上カントを読んできたが、やっと最近ここに潜む恐ろしく深い根が見えるようになったよ。カントは殺人鬼に追われた友人を匿い、追手から「どこにいるんだ?」と聞かれたときでさえ、嘘を言うべきではないと断言している。友人を場合によっては殺しても嘘をついてはならないと確信している。友情よりも真理が断固優先すべきであることを確信している。この非常識なカントの見解は、予想通りたいへんに評判の悪いものであり、さまざまな人が「融和策」を出そうとした。しかし、ごく最近のことだが、ぼくはカントのこの嘘に関する議論は文字通り受け取っていいのではないかと思い始めた。P141
中島義道「「哲学実技」のすすめ」(角川書店 2000)


中島は「哲学者」マーケットでポジショニングをとれている数少ない人である(思想家にスライドしてきているが)。先日取り上げた「日本語が亡びるとき」に出てきた叡智探究者という概念。この概念を4つに分類してみた。

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叡智探究者には、4つの自己が常に内在していると考えている。それは、哲学者、思想家、宗教者、啓発者である。あなたの中に内在する「哲学者」という自己を認識するうえで、本書は優れている。

■ 参考リンク
[Review]: 「哲学実技」のすすめ
Don't be evil. 邪悪になるな。
最後がおちゃらけにしてあるが…これはとてもよい本だったと思う…



■ tabi後記
正統性を与える概念として「権威→マネジメント→?」の「?」を埋める言葉を探していた。岡田×神田のCDを聞く中で、「ゲームマスター(シナリオライター)」が暫定では良いばと思えてきた。ハメルの議論を発展させる形でまとめていく。
posted by アントレ at 19:22| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月19日

tabi0049 ウォルター・ブロック「不道徳教育」

人々が自由に暮らせるのはよいことであり、自由を否定するのは近代=文明社会の否定だーー。このことは、一部の過激な宗教原理主義者を除けばだれも反対しないだろう。異論がないのは、その命題が「正しい」からではなく、すべての議論の前提になっているからだ。私たちは、生きるうえで「自分は人間である」という前提(これも近代のイデオロギーのひとつ)から出発するしかない。それと同様に、近代というパラダイムが変わらないかぎり、「自由」の価値を否定することもできない。このことをもっとも簡単に言うこともできる。

リバタリアニズムというのは、ようするに次のような政治思想だ。人は自由に生きるのがすばらしい。これに対して、リベラリズムは若干の修正を加える。人は自由に生きるのがすばらしい。しかし平等も大事である。「自由主義」に対抗する思想として保守主義が挙げられるが、それとても「自由」の価値を否定するわけではない。彼らは言う。人は自由に生きるのがすばらしい。しかし伝統も大事である。たったこれだけで現代の政治思想の枠組みが説明できてしまった。アメリカの共和党と民主党が典型だが、二大政党による政治的対立というのは、「自由」をどのように修正するのか(あるいはしないのか)の争いなのだ。P19-20
ウォルター・ブロック「不道徳教育」(講談社 2006)


原書のタイトルは「Defending The Undefendable」(擁護できないものを擁護する)。タイトルどうり、売春婦、シャブ中、恐喝者、悪徳警察官、闇金融といったThe UndefendableをDefendingしていく。

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社会起業家を目指される方には、リバタリアン思考に対して批判精神もちながら読んで頂きたい。1つ1つに批判を行うのは相当体力を奪われる作業だと思いますので、折りに返して本書を読むことを勧めたい。

■ 参考リンク
システムエンジニアの晴耕雨読
ezaka takeru's memo



■ tabi後記
本書をリコメンドされていたhidetoxさんに感謝。
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2009年01月15日

tabi0046 水村美苗「日本語が亡びるとき」

西洋と非西洋のあいだにある非対称関係はこれからもずっと存在し続ける。それはあたりまえです。でも、今、その非対称関係に、それと同じくらい根本的な、もう一つ新たな非対称関係が重なるようになったのです。英語の世界と非・英語の世界とのあいだにある非対称関係です。(中略)一度この非対称性を意識してしまえば、我々は、「言葉」にかんして、常に思考するのを強いられる運命にあるということにほかなりません。そして、「言葉」にかんして、常に思考するのを強いられる者のみが、<真実>が一つではないということ、すなわち、この世には英語でもって理解できる<真実>、英語で構築された<真実>のほかにも、<真実>というものがありうることーーそれを知るのを、常に強いられるのです。P87-88
水村美苗「日本語が亡びるとき」(筑摩書房 2008)


著者の意図を実行するとしたら、真実に肉薄することが動機の源泉になるという前提を置き、その動機を満たすためには【「言語の相対的緊張性」と「アルターエゴを獲得」が必要である】と納得してもらうことだろう。それが欲望のデザインである。

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「母語滅亡の緊張感」は近代文学へ通暁する事ではない。これは保守と伝統の違いを心得る事になると思うので、別の機会に論じたい。「アルターエゴの獲得意識」は英語を始めとする外国語の習得ではない。翻訳的知性を併せ持ちながら、主観の内に客観性を宿そうとする悪魔的態度である。この考えは石井遼介さん『英会話ヒトリゴト学習法』レビューから得ている。

■ 参考リンク(時系列掲載)
本書を起点にした思考プラットフォームが生成されたのを確認出来る。
水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。
今世紀最重要の一冊 - 書評 - 日本語が亡びるとき
人間は書かれてあることではなく、読み取りたいことを読む
英語の圧倒的一人勝ちで、日本語圏には三流以下しか残らなくなるが、人々の生が輝ければそれでいい
英語の世紀に生きる苦悩
水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』を読む
英語の世紀で日本語を話せるよろこび
言葉は何を乗せているのか
福翁の「はげしい」勉強法
英語を話すときの英語人格は、選べるのではないか?



■ tabi後記
何度聞いても、岡田斗司夫×神田昌典の対談CDは素晴らしい。
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2009年01月06日

tabi0035 ダニエル・C・デネット「自由は進化する」

人類は、これまで不自由に甘んじるしかなかった部分ー近視や病気を含む肉体的な各種環境要因ーも技術によりますます解放できるようになり、自由を拡大し、それに伴う責任も拡大させた。でも、いまの人類は自分の自由にビビって、変な退行ラッダイト嗜好が一部で見られるようになっている。そうした動きは遺伝子操作や薬物療法など、人間のもつ不自由を減らしてさらなる選択の自由(と責任)をもたらす発展を否定しようとし、ひどい時には現在のすでに得られている知識すら否定しようとする。これがデネットの言う「人類の自由はもろいし、保護しなければ壊れてしまう」ということだ。安易なラッダイトや無知礼賛に流されてはいけない。あらゆる知識、特に科学は人類を解放し、さらなる自由(と責任)をもたらす。これこそが、自然の生み出したシミュレーションツールとしての自由を活用するということであり、自然が人類に託した責任に応えるということなのだ。P450(訳者解説より)
ダニエル・C・デネット「自由は進化する」(NHK出版 2005)


デネットは、自然科学のもたらしたさまざまな決定論的議論(例えば、ラプラスの悪魔、利己的遺伝子、ミーム、遺伝要因、環境要因、ユーザーイリュージョン説など)の自由意志を否定する様々な議論を潰すことをしつこく繰り返すとともに、自由意志があるというオカルティズム寄りの議論も丁寧に潰してくれる。

本書の8章で、先日言及した受動意識仮説の根拠となっているリベットが批判されていたので、興味深く読ませてもらった。全ての行動が「意識による決断」→「行動」をとるわけではないことという気づき。

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■ 参考リンク
DESIGN IT! w/LOVE



■ tabi後記
バファリンを大量摂取しているが、体調が回復しない。こういう時は、黙って休息するに限る。

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2009年01月04日

tabi0033 井筒俊彦「イスラーム文化」

われわれの実存の中核には自我意識がある。「我」、わたし、というものが先ずあって、その周りに光の輪のように世界が広がる。自我意識は人間存在の、人間実存の中心であると同時に、世界現出の中心点でもあります。しかし、それは同時にすべての人間的苦しみと悪の根源でもあるのです。人間に我があるから苦しみがあり、悪がある。ふつう世間で悪と呼び、苦悩と呼ばれているもの、また、シャーリアで罪と考えられているものは、ことごとく我に淵源する。だが、それだけではありません。スーフィーの見地からすれば、自我意識、我の意識こそ、神に対する人間の最大の悪であり、罪であるのです。P217
井筒俊彦「イスラーム文化」(岩波文庫 1991)


「意識と本質」に腰を据える前に、こちらを読了。商人であり、政治家でもあったマホメット。マホメットが「神との対話」をおこなうことによりイスラム教が誕生した。

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■ 参考リンク
228旅 『イスラーム文化』 井筒俊彦 ★★★★★
イスラーム文化 その根柢にあるもの



■ tabi後記
38.5の熱が出たが、バファリンを飲んだら治ってしまった。先ほど、BookOffとamazonから大量の本が届いた。書棚も購入しないといけない。
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2008年12月23日

tabi0019 下條信輔「サブリミナル・マインド」

最後に、前講までで述べた自己知覚・帰属・情動などの社会心理学の分野での諸知見とつきあわせてみると、共通に浮かび上がるわれわれ自身の人間像は次のようなものになりましょうーー「人は、自分の認知過程について、自分の行動から無自覚的に推測する存在である」と。P89
下條信輔「サブリミナル・マインド」(中公新書 1996)


今まで読まなかったのを後悔。「認知的不協和」「情動の末梢説」「帰属理論」「知覚的防衛」「閾下知覚」「無自覚の故意」などについて思索することが出来ました。

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何を載せようかと考えた末に、ジョハリの窓を選択。本書には出ませんが、この窓を軸にしながら読み進める「顕在記憶/潜在記憶」、「自己/他者・環境」などを整理出来ると思います。

■ 参考リンク
藤沢烈Blog
情報考学 Passion For The Future


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2008年12月19日

tabi0015 永井均「西田幾多郎 <絶対無>とは何か」

数学の試験問題を解きながら、ふと今朝の車内の出来事を思い出し、それらと無関係に脚にかゆみを感じる時でさえ、それら複数の事象をまとめている「私」などというものは存在しない。存在するのは、数学の試験問題を解こうとしていること、今朝の車内の出来事を思い出されていること、脚にかゆみが感じられていること、そうした諸々のことだけだろう。それなら、なぜそれらはばらばらにならないで、一緒に感じられるのか、と問われるなら、後の西田の用語を使って、同じ「場所」に起こっているからだ、と答えるのはごく自然な発想ではなかろうか。そして、その「場所」を、あえて名づけるなら、「私」と呼ぶのだ、と考えることができる。だから、この場合の「私」は、「私は」という主語的統一ではなく、「私に於いて」という述語的統一なのである。西田自身の比喩を使っていえば、それは、一つの点ではなく、一つの円である、ということになる。P19
永井均『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』(NHK出版 2006)

本書にて西田への関心が高まった。ただ今回の目的は永井の<哲学>を用いて思考することである。

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以下の文章を図解したつもりでいる。

「E」を、西田のいう「言語に云い現わすことのできない」はずの「直接経験の事実」だけを特別に指す特別の語だと解釈してみよう。するとウィトゲンシュタインはこう言っていることになる。ーーいや、しかし、その「直接経験の事実」だって、われわれの共通の言語に含まれる言葉じゃないですか。だから、初めから「直接経験の事実」という言葉が位置を持つ言語ゲームに乗っかっているんですよ。もしそれを拒否しようとするなら、あなたは最後には分節化されていない音声だけを発したくなる段階に達してしまいますよ。そして、そのときでさえ、その音声がもし何らかの意味を持つなら、それはそれが意味を持つような言語ゲームの中に位置づけられているからなのですよ。もしそうでないとしたら、恐ろしいことに、あなたの叫び声は誰にも何の意味も持たないのですよ。

西田側は、こう反論することができる。ーーわれわれの共通の言語に含まれる語だって、直接経験の事実じゃないですか。「直接経験の事実」を使った言語ゲームだって、はじめから純粋経験のうえに乗っかっているんですよ。もしそれを拒否しようとするなら、あなたは最後には分節化されていない音声を発することができない(分節化されている音声しか、すなわち言語ゲームの中で有意味なことしかいえない)段階に達してしまうんですよ。言語ゲームの中にきちんと位置づけられているあなたの言葉は、「みんな」からは理解されても、あなた自身にとっては本当は何の意味もないかもしれないんですよ。そっちのほうがよほど恐ろしくないですか?P46-47

もちろん、そうは言える。いや、しかし、そんなことがどうして「言える」のか。そんなふうに純粋経験について一般的に語る「言語」を、西田哲学はどこからどうやって手に入れるのか。この問いがつまり、デカルトが直面しなかった西田に固有の困難から彼がどうやって脱出できるのか、という問いである。答えは一つしかない。それは、純粋経験それ自体が言語を可能ならしめる内部構造を内に宿していたから、というものである。「分節化されていない音声」が一つの言語表現になりうるのは、外部から「一定の言語ゲーム」があてがわれることによってではありえない。そうではなく、内側からの叫びのような音声を自ずと分節化させる力と構造が、経験それ自体の内に宿っていることによって、なのである。P47
永井均『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』(NHK出版 2006)


posted by アントレ at 01:32| Comment(1) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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