2010年03月01日

tabi0342 南直哉「『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか」

而今(しきん)の運動様式を経歴(きょうりゃく)と言う

而今はSikinという。Jikonでもなく、Nikonでもなかった。前後も古今も過去も未来もない。ゼノンのパラドックスが想定する「時間」もない。入不二基義「時間は実在するか」は参照出来そうにない。いよいよ私の頭を1つもって、思考を強いられることになってきた。本にすがり付く習慣がついてるわけではない。なので恐れも、不安もない。

本書における『正法眼蔵』読解のポイントをもう一度整理しておきたい。ポイントは四つである。

その一、つねに変わらず同一で、それ自体で存在するものとして定義されるもの、それは仏教では「我(アートマン)」と言われるが、他に「実体」と呼ぼうと「本質」と呼ぼうと、はたまた「神」「天」と呼ぼうと、こういうものの存在を一切認めない。

その二、あるものの存在は、そのもの以外のものとの関係から生成される。これが本書における「縁起」の定義である。

その三、我々において「縁起」を具体的に実現するのは、行為である。関係するとは行為することであり、行為とは関係することなのだ。

その四、「縁起」であるはずの自体を、「実体」に錯覚させるのは、言語の機能である。と、同時に「自己」は言語内存在として構築される。

以上四点が、本書が提案する『正法眼蔵』を通読する場合の基本原則である。P78
南直哉「『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか」 (講談社 2008)


しかし、この心の揺れはなんだろうか。もう一切依頼すべきことがないという感覚。それは自らをもって依頼を生み出さざるをえないという創造意欲の裏返しだろうか。而今(しきん)で生きるとは何だろうか?それは生きられるのか?生きているといえるのか?言語機能からは脱落して、非言語機能に依頼するのも手出し、言語機能が構成されていく流れに依頼をしていくのも手だと思いつつある。

■参考リンク
tabi0126 南直哉「日常生活のなかの禅―修行のすすめ」
tabi0314 岩田慶治「道元との対話」
tabi0315 中村元「龍樹」



■tabi後記
3月に入りました。

>>

今福龍太「ここではない場所 イマージュの回廊へ」一つの都市の体験の背後には、つねにかならず別の都市の経験や記憶の痕跡が付着し、ときにはその記憶の方が、現実の都市の表層の蚕食して生き生きと現れだす。「都市」を経験するとは、畢竟、そうした重奏する記憶の召喚と、連鎖的に現れる無数の異なった都市的イマージュの喚起の行為にほかならない。P2
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2010年02月25日

tabi0341 ハワード・ジン「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史」

負の伝統を鮮やかに暴き出すことにより、英断は下されていく
もしも政府を<改変もしくは廃止>することが国民の権利だとしたら、当然政府を批判することも、国民の権利にふくまれるだろう。

また、昔からの国民的英雄の過ちを指摘しても、若い読者を失望させることにはならない、ともわたしは考える。英雄だと教えられてきた人物のなかにも、尊敬に値しない者がいるのだという真実を語るべきなのだ。P8
ハワード・ジン「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史」(あすなろ書房 2009)

本書は1492年のコロンブスのアメリカ発見から2006年のブッシュ大統領の時代までの裏アメリカ史である。アメリカに憧れている人々はもとより「アメリカ人」自身が衝撃を受ける内容であった。しかしそれは、まさしくもう一つのアメリカの顔であり、強者からだけ見ていては歴史の真実は分からないことを私たちに教えてくれる。

コロンブスのアメリカ大陸到達は、先住民族(インディアン)の虐殺と、白人による領土拡大の始まりであり、それに伴う労働力の不足を補うためにアフリカから黒人を奴隷として連れてきたことが、その後アメリカ社会をゆがめ蝕み続ける人種差別問題の発端となった。

また、アメリカ独立宣言は人間の平等と生命、自由、幸福の追求の権利を謳い、民主主義の勝利宣言だと考えられているが、実は少数の富裕層の既得権益を守る宣言であり、先住民、黒人、女性は守るべき対象とされていなかった。

アメリカ史の実態は国内的にはインディアン迫害と奴隷制と身分差別を機軸とする暗黒、対外的には覇権国家として侵略という暗黒の歴史の連続だったのだ。

著者のハワード・ジンは世間的に人気があるから、個人的に溺愛しているからアメリカを研究対象と選んだのだろうか?いや、そうではない。むしろその対象を批判的に再検討すれば自分自身の思考を深めることができる。そのような確信があるからこそ、その対象を選び取ったのだった。

そして、負の伝統を鮮やかに暴くことによって後世の人々に適切な知識を与え、それを基にした判断力を養ってもらいたい。この2つの思いが、彼の研究生活を支えてるのだろうと思うような内容であった。

■参考リンク
"westory" - 書評 - 学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史
弱者が見たアメリカの本当の歴史書評





■tabi後記
今年中にアメリカを経験してこようと思います。
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2010年02月24日

tabi0340 今福龍太「群島ー世界論」

「大陸」という概念に対抗する「群島」というわけではない。その語り方。
いまを覆う、外なる、内なる廃墟。海洋交通によって開けた「近代」という前進する歴史の逆説。海を統括することで大陸原理による世界支配を数世紀にわたって続けた国家の逆説。それらを痛苦とともに負って、歴史を海の姿に反転させること。陸上に具現された秩序や体系ではなく、海面下に沈められていた統一と共鳴関係を歓喜の記憶の波打ち際に浮上させるために。海の凡例
今福龍太「群島ー世界論」


大陸島と大洋島という地理学的イメージは、想像力の場においては、分離と再創造という運動性として認識される。島は、大陸からみずからを分離することで「無人島」として生まれ出、その島の創造のエネルギーを繰りかえす力が、より独立した始原的大洋島の出現を促す。すなわち、「島についての想像力の運動は、島を作り出す運動をやり直す」のである。P79
今福龍太「群島ー世界論」


インディアンや琉球の民における世界は、所有という観念が、無私の贈与がもたらすコミュニケーションへの信頼によって裏打ちされていた。そこで所有することは、寄りつくものをいただき、ふたたびそれをどこかに向けて与えてゆくという行為の連鎖にほかならなかった。

群島世界では、異人はその世界に神話的贈与をもたらす「寄留者」であり、汀に流れ着く異物もまた異世界からの神秘的な「寄留物」「寄物」として深い信仰と崇拝の対象にさえなった。茅ヶ崎をはじめとする日本の「浦」という地勢には、海上の道などの考察がある。

■参考リンク
森のことば、ことばの森
今週の本棚:沼野充義・評 『群島−世界論』=今福龍太・著



■tabi後記
海から陸をみつめるという視点はとても面白い。

坐禅会(3/6 17:00-3/8 11:00)の申し込み完了。起床午前4時 朝晩坐禅 昼は作務、提唱、入浴有り 午後9時消灯。無言の空間にて己から湧き上がる声を聴く時間になりそうです。http://bit.ly/aEfKrr

フリード/ハンソン「小さなチーム、大きな仕事―37シグナルズ成功の法則」計画はただの予想。利益を上げる方法はあとから見つけるのはNと。ワーカーホリックはヒーロー感覚を楽しんでいるだけ。などの経験談を語る。昼間の仕事を副業にし、平日の数時間/週末を本業にする術も説かれている。
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2010年01月18日

tabi0336 伊藤春香「わたしは、なぜタダで世界一周できたのか?」

旅は日常か非日常か、それとも。
世界一周をよく「自分探しの旅」などと表現する人がいる。
私はこの「探す」という言葉が女々しく嫌だった。

「自分探しするくらいなら、理想の自分を思い描いて、それに向かって『自分作り』したらいいのに」などと、屁理屈をいつも頭の中でこねていた。

そんなアンチ・自分探しの私でも、この旅行で新たに自分の嫌な部分や、逆に柔軟な部分を発見したのかもしれない。

不本意ながら、世界一周は究極の自分探しだったんだと思う。自分を探していたというよりも、自分自身とずっと対話していた。P214
伊藤春香「わたしは、なぜタダで世界一周できたのか?」(ポプラ 2009)


コンテクストが変わることによって開示されるコンテンツに察知しやすい体づくりが最近の関心だったりします。〈変化〉は巨視、微視、意識、無意識に起こり続けていますから(その「起こり続け」もまた同様である)、彩度/精度/強度をもった<思考>をしていくために旅というものを活用している。さて次は自分の体をどこへ投げやろうか。

本書をこのような文脈で読みすすめていったときに思ったのは「自分」が限定的な世界にいること(そして「いてしまったこと」)の自覚と、◯◯としてもあれたかもしれない自分の自覚(とはいえ、◯◯としてあっていることの自分)、この2つの振り子の中に佇む「自分」を探求することが旅なのではないかということです。

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3ヶ月前に旅にまつわる10の名言(といわれるもの)に対峙することで、「旅」という言葉にチューニングテストを行っていました。

以下には、納得するもの、首をひねるもの、理解不能なものがあると思いますが、各自で「旅」という言葉と距離感をはかってみてほしい。その立ち位置を記憶し、半ば忘れ去りながら考えてみるといいかなと思います。

>>

人生とは旅であり、旅とは人生である
中田英寿


旅というものには、条件があるんです。それは「戻ってくる」ことです。戻ってこなかったら、「蒸発」と呼ばれてしまうでしょう。ですから、「どうやって戻ろうか」をずっと考えながら旅をすること、それが旅なんですよ?
三浦じゅん


旅するおかげで、われわれは確かめることが出来る。たとえ各民族に国境があろうとも、人間の愚行には国境がない。
ブレヴォ


旅の最大の悦びは、おそらく事物の変遷に対する驚嘆の念であろう。
スタンダール 


辛い時もあるさ。でも独りになるには、旅が一番だからね。この間も話したように、僕は孤独になるために旅をするんだ。長い間の孤独の生活から、春、このムーミン谷に帰って来た時の喜びは…なにものにもかえがたいものだよ。
スナフキン


旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道連れにしてはならぬ。
ブッダ


ウチは田舎だったから郵便局にハガキを買いに行くのさえも『旅』だったよ。
リリー・フランキー


ロバが旅に出かけたところで馬になって帰ってくるわけではない。
西洋のことわざ


「旅」にはたった一つしかない。自分自身の中へ行くこと。
リルケ


旅の本当の意味は、俗な言葉だが「自分を発見する」ことにある。
山下洋輔


>>

10月に1ヶ月ほど東南アジア(タイ/カンボジア/ベトナム/ラオス)へ、先日まで2週間ほど上海近郊(上海/南京/蘇州/杭州/紹興)へ足を伸ばしていました。時折考えていたのは「旅」に非日常性をもたせることでも「日常」を美化するためでもなく、自然なものとして旅をとらえたいということです。

中田さんは、人生は旅という非日常性を醸し出しながらも、その旅は人生であるという日常への着地を表現されています。そこに「人生/旅」の二重性をみるのは難しくないでしょう。

三浦さんの言葉には、童歌「とおりゃんせ(通りゃんせ)」にある「行きはよいよい 帰りは怖い」に類似する趣きを感じます。

「どうやって戻ろうか」というのは、どこに戻ろうかという話しではなく、どのような体裁をつけようか/どの面下げて帰ろうかという話なのかもしれない。バックパッカーが背負っているのは、荷物ではなく出発としてきた場所/関係なのだろうか。

ブレヴォ/スタンダールは、文化,言語,時代が異なるにつれて普遍性と特殊性への嗅覚が鋭敏になることを強調しているのだろうか。これは旅の非日常化を試みているように思う。

スナフキン/ブッダは、旅をある目的にしている。前者は一人になるためであり、後者は師をみつけるためであると。私には、一人になることと師をみつけることは表裏にあると思っている。それは、無私になるというコインにのせることによって。

リリー・フランキー/西洋のことわざには、旅の日常を垣間みることができない。リリーさんには、距離/無人という変数が組み込まれると旅が成立するという前提がある。

そしてことわざには、何が人を変化させるのか?という逆説的な問いと、そもそも変わったというための「差分」どり自体に不可能性をみているのではないか?これは時間という概念への問いであろう。

リルケ/山下洋輔は、シンプルであるが、一定の納得を得られる言葉ではないだろうか?

■参考リンク
本当の修学旅行
【必見?】はあちゅうの世界旅行記が半端ない件



■tabi後記
そもそも「旅」という言葉をチューニングしようと思ったのは、

・旅で一番のトラブルは何だったか?
・旅で一番インパクトのあったことは?
・旅でカルチャーショックだったことは?
・旅が終わって、次に何をしていくのか?
etc..

そもそも「旅」にいくと、こういったことが問われるのは何故なのか?と思いはじめたことが契機でした。そして結論をいってしまえば、こういった質問を浴びることが常であるような生活をする必要があるなあと思いはじめたのです。

それは、他人のアテンションを振り向ける言動や情報発信をしていくということではなく(結果的にそうなってしまうのだろうが)、旅人として問われることを常とする生活を実践することが1つ大事なことであり、その実践は承認にもとづくものではなく自らの秘密を探究/点検していく行為過程であることが大切なのでしょう。
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2010年01月13日

tabi0335 クリス・アンダーソン「フリー」

有料からの逃走、およびフリーのコストについて
ほとんどの起業家は、需要な価格弾力性が常に存在することを前提にしています。つまり、売るものの価格を下げれば下げるほど、需要が上がるはずだと考えます。これが罠なのです。彼らは、「月々わずか二ドル」というビジネスプランを用意すれば、収益チャートが右肩上がりになるはずだと期待するのです。

しかし、実際は売上げを五ドルから五◯◯◯◯万ドルに増やすのは、ベンチャー事業にとってもっともむずかしい仕事ではありません。ユーザーになにがしかのお金を払わせることがもっともむずかしいのです。すべてのベンチャー事業が抱える最大のギャップは、無料のサービスと一セントでも請求するサービスとのあいだにあるのです。P84
クリス・アンダーソン「フリー」(日本放送出版協会 2009)


クリス「フリー」は商売根性を奮い立たせるという意味において良書であり、無料の正当化に与する書ではない。社会に新たな価値/文化を問いながら持続性(収益性)から逃げずに事業運営をしたい方は読んでみてほしい。

ここでいう「フリー」というのは、マネタリーコストにおける無料であり、心理コスト、エネルギーコスト、タイムコストなどが「フリー」になっていると主張するわけではない。

非貨幣市場における「フリー」は評判と注目を得るために行為する人々にもとに成立している。個人的には「「有料」であったという知覚態度を獲得するためにどうするか?」という視点を深掘っていく契機になりました。

■参考リンク
価格を捨てる勇気
「無料」だからこそ「最高品質」になりえる<無料>の逆説





■tabi後記
南京、蘇州、杭州、そして紹興と移動してまいりました。到るところにマクドナルド、KFC、スターバックスが待ち構えています。
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tabi0333 ジョナサン・コット「奪われた記憶」

私たちの記憶はなぜ存在するのだろうか?
あなたはなぜ、私たちが本来の真の自分を忘れているとお考えなのでしょうか。また、どうしたら私たちはそれを思い出せるのでしょうか。

M(トマス・ムーア)グノーシス主義的な質問ですね。グノーシス主義者たちは、心は彼方から地上にやってきた後、自分たちがどこからやってきたのかを忘れてしまうと言っています。ですから彼らはこう問います。私たちはどうしたら思い出せるのか?どこに兆候があるのか?グノーシス主義者たちは、私たちは時どきメッセージを受けとると言います。夢は、私たちの記憶の、私たちが本質的に何者であるかということの源であるという人もいます。そして、それは何千年もの間、問われてきた問いなのです。P178
ジョナサン・コット「奪われた記憶」(求龍堂 2007)


「ショシンタブレ - 0からやりなおしたろう - 」

planA-syosinsya.jpg

こんなタイトルで妄想企画書もどきを書いたがことがありましたので添付しておきます。

概要:

この習慣っていつ身についたのかな?

あなたは、そんな思いを抱いたことがあるだろうか。


どうして歯を磨けるようになったのだろう?
どうしてがゴミ箱にゴミを捨てるようになったのだろう?

ショシンタブレは、あなたが抱いた問いにこたえてみせます。

そのためには、
あなたにとって当たり前になっていることを消してしまう必要がある。


それがショシンタブレが提供するサービスです。

詳細:

ショシンタブレは、記憶をリセットするのではありません。

習慣消去によって生じるであろう、初心。


その初心がありもしない方向へ帰着するのを見守るサービスです。

私たちは初心者志望の味方です。

歯をみがけなくなったら、あなたの生活は歯みがきに挑戦する生活にかわります。人は習慣に飼いならされ、それが出来なかったときへさかのぼることが出来ないようです。

ショシンタブレはそれを可能にしようと思うのです。

あなたが歯みがきだけが抜け落ちた生活をするとどうなるのだろう?

記憶は消しても、体が覚えているかもしれませんだがそれもまた新たな発見でしょう。
そのような発見こそが、ショシンタブレたる者の試みなのです。


開発責任者談話:
情報を蓄えることによって選択の習熟・成熟を計っていこうとする世の中の流れにのりたくない。この天の邪鬼さだけが開発の起点でした。MIB社が志しているのは未熟への道です。もはや未熟でもないのかもしれない。行為が欠落したまま生活は行なわれるかもしれないから。

■参考リンク
極東ブログ [書評]奪われた記憶(ジョナサン・コット)



■tabi後記
MIB社は粛々と成長しているようです。21日のゼミには潜ってみよう。
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2010年01月11日

tabi0332 レーニン「帝国主義論」

「帝」「国」の止揚。帝はどこへ?国はなにへ?
一般的に、あらゆる定義の意義は、条件付きで相対的なものである。したがって、定義に頼るばかりでは、ある現象が完全に熟した段階で周囲とどのような結びつきをもつかを全面的に把握することはできない。そのことを承知した上で、帝国主義の五つの特徴を含んだ定義をすればよいだろう。

(一)生産と資本の集中化が非常に高度な発展段階に到達し、その結果として、独占が成立していること。
(二)銀行資本と産業資本が融合し、その「金融資本」を基盤として金融寡占制が成立していること。
(三)商品輸出ではなくて資本輸出が格段に重要な意義を帯びていること。
(四)資本家の国際独占団体が形成され、世界を分割していること。
(五)資本主義列強が領土の分割を完了していること。

帝国主義とは、特殊な発展段階に達した資本主義のことである。その段階に至ると、独占体と金融資本の支配が形成され、資本輸出が際立った意義を帯びるようになる。また、国際トラストが世界分割を開始し、資本主義列強が地球上の領土の分割を完了する。P175
レーニン「帝国主義論」(光文社 2006)


93年前に本書が予言したことは現在の世界で起きているようにみえる。内容を一言でまとめるなら「肥大化した金融資本が世界を分割支配し、国家を動かす」というもの。

だが、レーニンがみていた20世紀初頭の帝国主義は、産業資本主義によって蓄積された資本が工業や農業として植民地に投資されるもので、そのためには領土の再分割が必要だったが、現代の帝国循環はアウトソーシングなどの形で行なわれるので、領土を奪う必要はない。この意味で、ネグリ=ハートのいうように、現代は帝国主義ではなく「帝国」なのかもしれない。

この新しい「帝国」の特徴は、資本が工場のような直接投資に限らず、投資ファンドによる企業買収のような形で、収益最大化を求めて世界中を駆け巡ることだ。日本の資本効率の低い企業がねらわれるのは典型例である。

■参考リンク
レーニン『帝国主義論』と現代世界
産業資本主義と金融資本主義
なぜ資本主義はいつも国家独占的なのか
新帝国主義論



■tabi後記
上海日誌:

初日の昼は、ステイ先の近くの韓国料理(ING)へ行きました。復旦大学と上海財経大学の学生が頻繁に利用するお店で、25元で豚肉の甘辛炒め+白米を堪能した。375円なので結構高めでした。同様の物はコンビニ(LAWSON)で8元です。

この近辺は何千人規模で留学生寮があるため、彼らをターゲットにした商売が盛んである。例えば、 MTB/ロードバイクを販売する店が構えてある。

ボロい商売の構造へ迫っていきたい。GIANTが一台2000元ほどで売られている。原価70%と仮定すると、1日3台/30日営業で54,000元の粗利になる。賃貸料は8000元ほど、人件費は2名を10時間常駐させても6000元の人件費(10元/H)なので、40,000元の利益になる。

この形式で3店舗経営をすれば、15万元ほどの月間利益になる。商材を化粧品やバックを変えて、月に3-5万元ほどの収入を得る中卒や高卒の方々が相当程度いると考えられた。3万は日本円で45万円、物価を反映させると120万円/月くらいの感覚であろう。

上海市内の主要大学は、復旦大学と上海財経大学と上海交通大学と上海大学であるが、他にも専門学校のような大学が20個ほど出来上がってきている。中国の大学進学率は20%であるから、大卒者は珍しいことになる。

ただ、中国人の見方としては「大学生は将来有望ですね!」というものではなく、新卒でも5000元ほどの収入しか得ることができなく、就職口が確保するのも危うい状況なので、中学/高校を卒業し引越業者/タクシー運転手などの職で7000元ほどの収入を得ている者が多くいると聞く。

上記重労働の旨みについて考察してみる。中国のタクシー運転手は、タクシー会社から1台を2名でレンタルする。24時間勤務を交代交代でこなしてく勤務体系だ。営業費用は、1日あたり420元で、ガソリンと洗車は個人負担であるから、損益分岐は500元あたりである。

初乗りが12元なので、50人(平均20元)ほど接客をすれば500元/日ほどの利益になる。月15日勤務で7500元の収入である。客数でいくか、単価でいくかは運転手次第であるが、上海浦東空港から市内まで150-200元なので、往復3回こなせば7500元は稼げることになる。

次は風俗のケース。サービス体系は本番あり/なしの2ラインになっており、価格は150元/50-100元と分かれている。多くの方は150元コースを採用していますが、売春がバレたら重罪は必至である。店主と公安で取引関係が出来ているので、摘発されるずに済んでいる。

私が取材をしたところは、取り分は店主が6割、女性が4割になっていた。私が話しをした店主は人柄が大変良い方だった。収入を推察してみよう。仮に4割の取り分だとしたら1行為で60元になる。

20日勤務で1日5人の相手が出来るとすれば6000元の収入になる。生活する上で、ギリギリのお金である。私の友人が「あなたを買うとしたら、いくらでいいですか?」と聞いたところ3500元/月で十分ですと答えたという。過酷な労働環境における嘆息をきいた気がする。

タクシーと地下鉄を駆使し、様々なところに行ってきた。中でも印象に残ったのは、新天地と田子坊である。両者とも数十店舗が密集した1つの「町」のようになっている。前者は、欧州資本が主導で、後者は日本資本が主導である。

田子坊は密かに有名になりつつあって店の半分以上が日本人オーナーである。前者は観光スポットと非常に有名であり、新天地周辺の土地価格の高騰ぶりがすごかった。恐らくオフィス用だと思うのだが、200平米で1000万元ほどであった。

5年で投資コストを回収するには16万元(240万円)/月で貸さないといけない。現地でお会いした学生は、6000元で同じ広さのマンションをシェアしているらしいので、外資系企業をそそのかさないと難しい価格帯かもしれない。

次は中国の大学入試です。大半は、高考の点数で決まるといっていい。日本でいうセンター試験のようなもの。この点数は後々まで影響を及ぼすようです。彼は◯◯省で3番の成績だったなど、まるで日本の国家公務員1種試験のようです。

中国の大学(復旦大学しか存じないが)は記憶重視型のテストが多いため、地名や人名などを中国語で覚えることに留学生は苦労する模様。反対に、記述型のテストになると、物事を考えるという側面で留学生が優位になるようです。

北京、清華、復旦の学生は中国語、英語、第二外国語(日本語が多い)のトリリンガルが大半です。文理を問いません。これから会う子も三ヶ国語に、高度なプログラム技術を持ち合わせています。背景としては、卒業要件としてTOEIC900クラスの英語が必要とされていることが挙げられます。

日本では詰め込みの是非が問われることが多いですが、主体性なき詰め込みのおかげで、数百万人のトリリンガルが出来上がっていることの脅威を感じました。創造性の重要さを噛み締めながら、私が中国語/英語に十分な能力がないことに多少苦渋しております。

話しは戻りますが、ここ最近の復旦大学留学生でも、MARCHを辞退して、こちらへ留学するケースは2,3人のもようです。大学から海外留学をするとなると、80%程度はアメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージランドなどの英語圏への留学でしょう。

その中で私は、非英語圏への留学が高まることのではと考えています。フランスやドイツや韓国などではなくインド(英語)や中国(中国語)やアフリカ諸国(フランス語)、南米諸国(スペイン語)などです。

日本の大学に進学する時点で将来は危険である。日本の大学は内容ないのに、学費や生活費は高いから行きたくない。どうせ留学するなら成長が期待できる新興国/途上国へ早期関わっていきたい。日本語と英語は出来て当然であり、もう1つの言語を身につけるために留学をしていく。このように思っている高校生がいるんじゃないかと思いつつあります。

最後に日本人留学生についてです。彼らの98%は消去法で中国へ留学に来ているようです。主観的統計なので、信憑性は期待しないで下さい。主に、ISI国際学院や鴎州などが斡旋をしているため、中国/九州地方(山口、福岡、広島など)から上海に来ている学生が多いです。関東出身者は長野県の子がいたくらい。

3年前までは、日本人で復旦大学に入るのは偏差値50前後の人たちが主だったようです。当然ながら大学の勉強についていくことが出来ずに、基本的には5-6年間通う人が大半のようです。

蛇足ですが、海賊版DVD(24やプリズン・ブレイク)が格安で手に入るため、生活リズムを崩してまでDVD中毒になってしまう人が多いとか。また、東京のように学外活動をする人がとても少ないようです。

そもそも中国の学生は勉強(GPA)が第一のため、単位で必要なインターンシップを除いて、外部で自己研鑽するという習慣がない模様です。さて、話しは戻りますが、ここ最近の復旦大学留学生は、MARCHを辞退して、こちらへ留学するケースが多くなっているといいます。

大学から海外留学というと、80%程度はアメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージランドなどの英語圏への留学でしょう。その中で私は、非英語圏への留学が高まることのではと考えています。

フランスやドイツや韓国などではなくインド(英語)や中国(中国語)やアフリカ諸国(フランス語)、南米諸国(スペイン語)などです。日本の大学に進学する時点で将来は危険である。日本の大学は内容がないのに、学費や生活費は高いから行きたくない。

どうせ留学するなら成長が期待できる新興国/途上国へ早期関わっていきたい。日本語と英語は出来て当然であり、もう1つの言語を身につけるために留学をしていく。このように思っている高校生がいるんじゃないかと思いつつあります。

以上、色々と雑記しましたが、みなさまの知識/経験に照らし合わせて訂正/追加すべき箇所がありましたら、教えてください。それでは出掛けてきます。
posted by アントレ at 12:26| Comment(1) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月02日

tabi0331 竹内靖雄「国家と神の資本論」

「無」政府(政府を感じさせない)のために何ができるか
文明にふさわしい「良い政治」は、「民の害にならぬことをする政治」であり、もっと正確にいえば、それは「民の害になることをしない政治」を意味する。民主主義であるというだけの理由ですぐれた政治であると思うのは根拠のない迷信であろう。P51
竹内靖雄「国家と神の資本論」(講談社 1995)


オバマ氏は大統領就任演説で「我々の政府が大きすぎるか小さすぎるかではなく、それが上手く働いているか」という表現をされていたが、上手く働くというのは、ある事業仕分け人の力が優れていることでもなければ、戦略提示することでもない。さも「無」政府(政府を感じさせない)かのように振舞うことである。それがWorkしている証拠。

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話しは変わるが、日本は高齢者比率25%(4人に1人)という社会が実現されようとしている。平成20(2008)年では高齢化率が最も高いのは島根県で28.6%、最も低い沖縄県で17.2%となっている。このまま、医療技術の進歩と過剰医療で寿命がさらに延びると、やがて高齢者の割が3人に1人(2035年)、2人に1人(2060年)となる時代が来るだろう。

社会はこのような老人大国が到来することに憂鬱になっているようだが、どのようにして問題を先送りせずに解決/予防するかが大切である。対処する変数としては、もっと人がたくさん死ぬようにして平均寿命を大幅に引き下げるか、子供をたくさん生んで若年人口の比率を高めるかする以外にない。前者は論外であるとされ、後者も非現実的であると思われている。

では、この課題にアプローチしていくか。以前このテーマを考えていたときに浮かんだのが、「死を受け入れる欲望をもちやすい社会」という前者へのアプローチであった。そこで「楽死」ということ概念が考案された。

詳細は機会があれば話すが(それは、関連する書に出会ったときであるが)、この言葉で私が提案したことは「高齢者」のパラダイムを変換ということであった。後期高齢者という年齢による「老」のズラシではない。愛され老人になることでも、要介護認定されることでもない。介護と育児の同時性、介護と学習の同時性という一石二鳥の仕組みをつくることであり、医療行為の尊さを消失させることであった。

ここで考えたことは、先日話題になった琴坂さんの記事に色濃く反映されている。この記事では「では、どうするのか?」というところは書かれていないが、その問いにこそ起業家は応えるべきなのだと思う。それは政策でも言論でも構わないけれど、事業をもってして応答する者が待たれている。

国という固まりの上に存在する、企業という固まりに取って有益な人材は、国ではなく企業に優遇される。強い国に所属しそれに認められ続ける人材は生き残る。世界に認められる「お金」という力を持つ人々は、それが世界の成長にあわせて成長していくことで、特に日本の衰退に影響される事は無いのである。かれらにはそれほど大した問題(少なくとも死活問題では)ではない。
構造的に不可能に等しい挑戦


そもそも、日本に生まれただけで、大した努力もせずに楽しく暮らせると思っている若者は、世界を見て、貧困を肌で感じて、そこから這い上がろうとしている自分たちと同年代の若者の力と、情熱と、信念に触れるべきとも言える。

毎日15時間労働して、ろくに楽しみもせずに、月に5万円もかせげず、しかもその半分以上を家族に送金しているような若者が、世界には五万といる。ニートが出来るような日本は、まだまだ皮下脂肪の固まりであり、それに安住してしまっているのである。
構造的に不可能に等しい挑戦


■参考リンク
ローカル化する日本〜日本が“アジアの辺境”になる日
日本の強みは東京にある
小浜逸郎ライブラリ



■tabi後記
3日夜まで栃木 宇都宮へ農作業や温泉を堪能していきます。4日から16日までは上海近郊へ旅立ちます。
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2010年01月01日

tabi0330 マキアヴェリ「君主論」

まきゃべりずむ?
17 冷酷さと憐れみぶかさ。恐れられるのと愛されるのと、さてどちらがよいか
たほう、人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を、容赦なく傷つけるものである。その理由は、人間はもともと邪なものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは、自分の利害のからむ機会がやってくれば、たちまち絶ち切ってしまう。P99
マキアヴェリ「君主論」(中央公論新社 1995)


25 運命は人間の行動にどれほどの力をもつか、運命に対してどう抵抗したらよいか

わたしが考える見解はこうである。人は、慎重であるよりは、むしろ果断に進むほうがよい。なぜなら、運命は女神だから、彼女を征服しようとすれば、打ちのめし、突きとばす必要がある。運命は、冷静な行き方をする人より、こんな人の言いなりになってくれる。P147
マキアヴェリ「君主論」(中央公論新社 1995)


目的のために手段を選ばないでいい。マキアヴェリズムという言葉ほど誤解されてきた言葉はめずらしい。マキアヴェリは「目的のために手段を選ばないでいい」などと一度も書いておらず、『君主論』のどこを読んでもこのような論旨が展開されていない。

むしろ本書を読む限りでは、マキアヴェリは徹底した手段志向であると感じる。彼の論理階層に徹した文章を読めば理解出来る。君主をターゲットにしたビジネス書を読み終えた気分です。

■参考リンク
第六百十夜【0610】2002年09月02日
390旅 マキアヴェリ『君主論』



■tabi後記
入不二さんの書籍あたりから運命論を押さえてみようかな。
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tabi0327 川島武宜「日本人の法意識」

所有と共有の合間に在する、資本を飼い慣らす作法
もちろん、西洋の諸社会においても、道徳や法が社会の現実の圧力に抗しきれず、これに対応して調整をおこない妥協する、という現象は、実際には不可避である。それにもかかわらず、意識や、思想の上では、当為と存在との二元的対立が絶対視され、したがって現実への妥協ないし調整は、日本社会におけるように「なしくずし」にではなく正当性の信念をつくりだすための種々の操作をともなって、抵抗ののちに、断続的な形態をとってあらわれるのを常としているように思われるのである。P45
川島武宜「日本人の法意識」(岩波書店 1967)


本書において「近代化」という言葉は、支配=服従的な社会関係(或いは集団)の解体と「自由平等」な個人のあいだの社会関係(或いは集団)の成長を意味している。別の表現をもちいれば、特定個人的且つ情動的な制裁の退化と非特定個人的且つ理性的なサンクション(特に、法的サンクション)の成長ということである。

川島氏は、「文字の次元における法」の近代性と、「行動の次元(法の機能)における法」の前近代性とのずれを認識した上で、どのような制度設計が可能となっていくかを提案していく。

日本の伝来的な権利意識のもっとも基本的な特色は、その内容の不確実性・不定量性ということ、および、それと関連しているところの・権利をめぐる規範と事実の分裂・対立が稀薄であるということ、であった。いま、以上に述べたような所有権の意識を、そのような権利意識の基本的特質に照準点をおいて再構成するなら、次のように言うことができる。すなわち、右のような所有権の意識においては、その時その時の事実の状態が権利の規範的内容に影響を及ぼすのであり、したがって、そこでは事実と規範とは明確に分裂し対立しておらず、事実と規範とは、はじめから妥協することが予定されており、言わば「なしくずし」に連続しているのである。P85
川島武宜「日本人の法意識」(岩波書店 1967)


川島氏は「入会(いりあい)」という概念の重要性についてが指摘している。
入会とは地域住民が一定の範囲の森林や原野や漁場について、そこから発生する資源(木材、薪、魚など)を共有することである。
川島氏は「入会権」の研究をつうじて、それが日本人の共同体構築技術の根幹にかかわるものであることを解明した。この箇所に、ソーシャルキャピタル/パブリックドメインといった概念を連関させてくる人もいるのだろう。

所有物についてどのような行為もなし得るということは、現代においては、所有者である以上当然であるように見える。しかし、このことは近代法(資本制社会に固有の法)の歴史的特質にすぎない。近代以前の社会では、土地、山林、原野、河川等については、それぞれの『物』の性質・効用に応じて、またそれぞれの主体に応じて、限定された異る内容の権利が成立したのであり、(・・・)そうして、それらの権利は言わば並列的に、ひろい意味での『所有』と呼ばれていた(たとえば、地代徴収権者は上級所有権 Obereigentum 或いは直接所有権 dominium directum をもち、地代を払う耕作権者は下級所有権 Untereigentum 或いは利用的所有権 dominium utile をもつというふうに)。だから、一つの物の上に重畳して、いくつもの『所有権』が成立し得たのである。P65
川島武宜「日本人の法意識」(岩波書店 1967)


このようなあいまいな所有権意識というのは、私的所有権を「所有の原基的形態」とする社会においては、原理的に排除されている。私たちの社会はすべてのものが「個人の所有物」で埋め尽くされている。個人が私的に所有することができないし、するべきでもないものをどのようにして他者と共有するか、その「やりくり」の技術を錬磨してゆくことを通じて、ひとは市民となっていくと考えられている。

■参考リンク
第二百六十七夜【0267】2001年4月10日
仕事納めはラジオ
tabi0010 青木人志「「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人」
313旅 『日本人の法意識』 川島武宜
日本人の法意識について〜21世紀の日本法は如何にあるべきか〜



■tabi後記
入会に付随する「技術」に前近代的を覚えてしまうのは、私たちがネットワーク技術に包囲されているからだろう。単なる「入会(いりあい)」の提唱ではなく、「入会2.0」を実装することが急務となっているのだろう。自身が出来る範囲で実装に励んでいく。
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tabi0326 P・F・ドラッカー「仕事の哲学」

仕事/経営/歴史/変革の哲学を10の言葉に編み直しました

変化を観察しなければならない。その変化が機会かどうかを考えなければならない。本物の変化が一時の流行かを考えなければならない。見分け方は簡単である。本物の変化とは人が行うことであり、一時の流行とは人が話すことである。
P・F・ドラッカー「仕事の哲学」(ダイヤモンド 2003)


社会生態学の仕事とは何か。それは、通念に反することで、すでに起こっている変化は何か、流行の言葉で言うところのパラダイム・チェンジは何かを問いつつ、社会とコミュニティを観察することである。次に、その変化が一時的なものでなく、本当の変化であることを示す証拠はあるかを問うことである。そして、もしその変化に意味と重要性があるのであれば、それはどのような機会をもたらすのかを問うことである。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


我々は、どこに最終的な問題解決への道があるかを知らないという前提でスタートしなければならない。したがって、不統一、多様性、妥協、矛盾を受け入れなければならない。我々は、一つのことだけは知っている。計画屋の絶対主義的二者択一からもたらされるものは、専制しかないという事実である。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


現存する仕事はすべて正しい仕事であり、何がしかの貢献をしているはずであるとの先入観は危険である。現存する仕事はすべて間違った仕事であり、組立て直すか、少なくとも方向づけを変えなければならないと考えるべきである。
P・F・ドラッカー「仕事の哲学」(ダイヤモンド 2003)


あらゆる活動にリスクが伴う。しかも昨日を守ること、すなわちイノベーションを行わないことのほうが、明日をつくることよりも大きなリスクを伴う。イノベーションに成功する者は、保守的である。保守的たらざるをえない。彼らはリスク志向ではない。機会志向である。成功したイノベーションは驚くほど単純である。イノベーションに対する最高の賛辞は、「なぜ、自分には思いつかなかったか」である。
P・F・ドラッカー「変革の哲学」(ダイヤモンド 2003)


優先順位の決定には、いくつかの重要な原則がある。すべて分析ではなく勇気にかかわるものである。第一に、過去ではなく未来を選ぶ。第二に、問題ではなく機会に焦点を合わせる。第三に、横並びではなく独自性をもつ。第四に、無難で容易なものではなく、変革をもたらすものを選ぶ。
P・F・ドラッカー「仕事の哲学」(ダイヤモンド 2003)


現代社会では、もはや直接的な市民性の発揮は不可能である。我々が行えるのは、投票し、納税することだけである。しかし、NPOのボランティアとして、我々は再び市民となる。社会的秩序、社会的価値、社会的行動、社会的ビジョンに対して、再び直接の影響を与えられるようになる。自ら社会的な成果を生み出せるようになる。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


経済開発こそ、我々の時代の中心的課題である。だが今日にいたってなお、我々は誤解したままである。経済開発とは、貧しい人を豊かにすることであると思い込んでいる。我々の課題は、貧しい人たちを生産的にすることである。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


今から二〇年後あるいは二五年後には、組織のために働く者の半数は、フルタイムどころか、いかなる雇用関係にもない人たちとなる。とくに高年者がそうなる。したがって、雇用関係にない人たちをいかにマネジメントするかが、中心的な課題の一つとなる。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


人口が減少する豊かな先進国のすぐ隣に、人口が増加する貧しい途上国がある。人の流れの圧力に抗することは、引力の法則に抗することに似ている。それでいながら大量移民、とくに文化や宗教の異なる国からの大量移民ほど、危険な問題はない。最も深刻なのが日本である。定年が早く、労働市場が硬直的であり、しかも大量移民を経験したことがない。
P・F・ドラッカー「歴史の哲学」(ダイヤモンド 2003)


■参考リンク
「経営者の条件」まとめ







■tabi後記
経営の未来を予見するドラッカーは自身の思想が衰退期に入ったことを宣言したのだろう。
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tabi0325 池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」

初心か欲望のエデュケーションか、それとも・・・
人間はオリンピックで世界新を出したり、月にはじめて行ったり、科学的新発見をしたり、新技術を発明したりすることに、実に過大な評価を付ける、ヘンな動物なのである。ほとんどの動物にとっては、新しいことは善い生涯からの逸脱である。P28
池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」(新潮社 2007)


人はエクスタシーをもとめ、そしてそこに帰着すると満足して安住せずに、飽きる動物である。

規範力が弱くなれば、それから逸脱することは容易である。しかし容易に逸脱できれば、逸脱によるエクスタシーは弱まってくる。だから、あなたがエクスタシーを感じるためには、社会的な規範はもう当てにできず、自分で自分固有の規範を作る他はないのである。P36
池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」(新潮社 2007)


やがて、規範は形だけものとなり、誰もが信じることができる(できた)物語は消えてゆく。いな、はじめからそんなものはなかったのだ、と立命することによって生じてくるのが「我」というものではないだろうか。

嫉妬を正当化するために道徳をもち出すのは、どんな場合でもつまらぬことだ。あなたはどんな規範でも選ぶ事ができる。それはあなたの恣意的な権利(勝手)である。しかし、他人があなたと異なる規範を選ぶのを阻止する、超越的な(絶対の真理としての)根拠はどこにもないのである。P109
池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」(新潮社 2007)


基準設定までの修行として今を捨てる者にとって「我」眩しい。その光に鏡をあてるか、合成素材として用いるかが態度といえるものであろう。

所有は一見、人と物の間の従属関係に見えるけれども、実は人と人の間の物をめぐる排除関係なのである。他人がいない所では、所有という観念は発生しない。他人とはもちろんコミュニケーション可能な何らかの規範を共有した他者のことである。全く規範を共有しない人々の間では、所有などという観念は無意味である。P200
池田清彦「正しく生きるとはどういうことか」(新潮社 2007)


ここには著者の意図しないところで「我」の一貫性を転覆させるような文言が隠されている。私的所有という神話が解体された世界において、思想とビジョンを設定できるのだろうか。設定するという未来への所作に変更企てることが必要であろうと思っている。有り体に言えば、編定するか。

■参考リンク
モノクロ珈琲:『正しく生きるとはどういうことか』



■tabi後記
2009年は素敵な読書年度でした。そして、元旦から読書会をはじめています。2010年は更新頻度を若干減らしながら、再読した本や、長く付き合えそうな本を公開していきたいと思います。
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2009年12月12日

tabi0324 福岡伸一「世界は分けてもわからない」

個人という幻想、一貫という妄想
私たちヒトは全身の細胞をすべて数えるとおよそ六十兆個からなっているといわれています。しかし、ヒトひとりの消化管内に巣くっている腸内細菌の数はなんと百二十兆〜百八十兆個にも達していると推定されるのです。つまり私たちは自分自身の三倍もの生命と共生しているわけです。その活動量たるや尋常なものではありません。

私たちの大便は、だから単に消化しきれなかった食物の残りかすではないのです。大便の大半は腸内細菌の死骸と彼らが巣くっていた消化管上皮細胞の剥落物、そして私たちが自身の身体の分解産物の混合体です。ですから消化管を微視的に見ると、どこからが自分の身体でどこからが微生物なのか実は判然としません。ものすごく大量の分子がものすごい速度で刻一刻、交換されているその界面の境界は、実は曖昧なもの、きわめて動的なものなのです。P82-83
福岡伸一「世界は分けてもわからない」 (講談社 2009)


鈴木健「Divicracy: Dividual Democracy 〜近代個人民主主義から分人民主主義へ〜 」Ustream(45:00から)で拝見した。

プレゼンの中では、分離脳やリベットやジョン・C・リリーのイルカ/鯨の話を用いて「Dividual」という概念を補強されている。「胃」による投票を行うという発想は、そういった背景による。本書の動的平衡も、分人民主主義というものを支える思想になるだろう。

彼女の視線は私におそらく赤い光の粒子を投げかける。彼女の視線に気がつかない私の眼に、ごくわずかな光の粒子が入ってくる。斜めの方向から私の網膜の周縁部に。視細胞はその粒子を鋭敏に検出し、信号はすばやく視神経を伝わって脳に注意喚起をもたらす。私はおもむろに顔を上げて光の方向を見る。彼女の視線はまっすぐにこちらを貫いている。ほんの一瞬、眼と眼が合う。彼女ははっとしてその美しい髪を揺らしながら視線をはずす・・・。P34
福岡伸一「世界は分けてもわからない」 (講談社 2009)


■参考リンク
読書の記録
All About ...+Me
活かす読書



■tabi後記
今見ている視野の一歩外の世界は、視野内部の世界と均一に連続している保証はどこにもない。

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2009年12月08日

tabi0323 三浦俊良 「東寺の謎―巨大伽藍に秘められた空海の意図 」

空海にとって東寺講堂二十一尊像は宇宙だったのか
人間はいつも崖っぷちにたっているんだと。崖っぷちにたって明日もわからない、一寸先もわからないところにたっているのが人間なんだということです。明日もあさってもあるとおもうのが問題なんです。ちゃんと生きているということは、目標に向かって命をかけ、そして願いを込めてやりとおすこと。「信に死して願いを生きる」ということです。
(中略)
ひとりひとりが独立者です。独立者の集まりが、仏教でいう運命共同体、つまり僧伽(さんが)なのです。P361-362
三浦俊良 「東寺の謎―巨大伽藍に秘められた空海の意図 」(祥伝社 2001)


空海の風景を探るために、東寺を訪れました。

空海は774年6月15日に、讃岐国(香川県)多度郡屏風ヶ浦で生まれ、父は多度郡の郡司の佐伯直田氏(他の説もあるが)、母は阿刀氏の出身で、のちに玉寄御前といわれる。空海は幼名を真魚といった。15歳から阿刀大足のもとで学業に励んだのち、18歳で大学に入学するが、1年で大学を飛び出してしまう。

僕は、大学を飛び出した793年から空海が「日本」に帰ってくる806年までの期間に多大な関心を寄せている。周知のとおり、空海は恵果を引き継いだ。密教の教えを伝える伝法阿闍梨は、龍猛、龍智、金剛智、不空、善無畏、一行、恵果、空海となる。これを真言宗伝持八祖という。

恵果は、805年12月15日、空海と出会ってからわずか半年後に入滅される。この半年間に、空海と恵果の間で交わされたのは何だったのか。灯明が消えかかるときに一瞬大きく燃え上がる輝きに似ている半年間。大学も日本も仏教も、様々な概念を飛び越えていったトラベラーとして空海を探求していきたいと思っている。



■tabi後記
平安京は桓武天皇によって794年11月22日に遷都されたが、ここの朝堂院は10年前に建てられたばかりの長岡京(平城京が遷都したところ)の建物が移築されていること知った。奈良に偏在する「せんとくん」は批判的な素材を提供してくれる。「「京」の変遷」ということも関心がある。
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2009年12月06日

tabi0322 西岡常一/小川三夫/塩野米松「木のいのち木のこころ」

宮大工、彼らは、寺院建築に山の命を生き移す者
弟子のなかにも早く覚えたいからといって本を読むやつがいる。鉋の刃はこうしたほうがいい、こういうときはこうすればいい、って書いてある。そいつがそのことを仲間に話すわな。みんな、なるほどと思う。言葉っていうのは便利で、なるほどと思えばそれで自分ができる気になるからな。俺にも聞いたようなことを質問してくる。しかし、俺は言葉では教えんよ、やって見せるんだ。しかし本で覚えたことは自分の手でやっていないから、俺が手本を見せてもなかなかわからんわ。そういう意味で本を読んでも無駄や。それどころかそんなことに気を遣い、意識するだけ上達は遅くなる。棟梁が俺に手紙をくれて、「心を空にして指導教示を受け入れる様に」って書いてあったけど、そのとおりなんだ。P293
西岡常一/小川三夫/塩野米松「木のいのち木のこころ」(新潮文庫 2005)


西岡常一にとって寺院建築とは千年近い山の命の形を変えたものだった。

西岡常一や弟子の小川三夫の言葉を噛み締めれば噛み締めるほど、彼らは希有な仏教信者なのだという思えてくる。彼らは、その生き方こそが神官に近いのかもしれない。

法隆寺の棟梁といっても、毎日仕事があるわけではない。そのような仕事のないときには農業をやって食っているのだという。「宮大工というのは百姓大工がいい」というのは、彼が農業専門学校に通わされたことに起因していると思う。(その推挙をしたのが彼の祖父である)。

神官として生まれついて定められた信仰の派生に宮大工があるのだろうか。

■参考リンク
一生を、木と過ごす。宮大工・小川三夫さんの「人論・仕事論」。「これでも教育の話」より。
[書評]宮大工西岡常一の遺言(山崎祐次)
見知らぬ世界に想いを馳せ



■tabi後記
金曜、土曜と奈良・京都を探索しております。法隆寺には行かないと思いますが、三十三間堂/興福寺/東大寺/東寺などは圧巻とするものがありました。
posted by アントレ at 11:36| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月18日

tabi0319 茂木健一郎「脳の饗宴」

統計描写に誠実であること/現象への補助線/前提原理のメス
「反応選択性」の概念は、ニューロンの活動の特性を特徴づける上では、それなりの有効性を示してきた。その一方で、そもそも、神経細胞の活動からいかにして意識を生まれるのかという第一原理にかかわる問題においては、「反応選択性」とその背後にある統計的アプローチはほとんど有効性を持たない。
その本質的な理由の一つは、統計的手法の基礎となっている「アンサンブル」概念が、意識を生み出している神経細胞ネットワークの構造的、因果的な拘束条件を反映していないという点にある。P21
茂木健一郎「脳の饗宴」(青土社 2009)


港千尋、渡辺政隆、布施英利、池上高志・郡司ペギオ-幸夫との対話が纏められている。茂木氏のラディカルな問題意識が存分に展開されている。中でも、茂木健一郎/池上高志/郡司ペギオ-幸夫「意識とクオリアの解放」が刺激的な対話だった。

池上氏がリベットの実験(触覚刺激のほうが脳への直接刺激よりも先に感じること)を例に挙げて「物理学で言うところのエンピリカル・サイエンスと脳科学で言うところのエンピリカル・サイエンスというのは違うね。カウンター・ファクチュアル(反事実的)なものを扱えるところとか。」という提起から、生命/意識の本質へ迫り始める。

茂木 世界がどうしようもない形で進行してしまっているという事実はあって、それを記述するのは物理主義でかなりうまくいっている。だからどうしようもない形で世界が進行してしまっているという事実を、どういう風にお前のモデルが引き受けているのかがわからない。P218

郡司 留保というのは、さっきも言ったように、ある個物を自明な個物であると知ることと、「わたし」が指定しているんだということとが、両義的にあること。前者をaと書くと、後者は{a}と書けて、つまり要素と集合の混同を意味している。でも両者の差異は、決して要素を集めるという複数性に依拠しているわけじゃない。複数性や別の可能性、他でもあり得たという提示の仕方ではなく、個物を指しながら、個物の外部に言及すること、それが留保だと思う。P222


郡司氏は、外部が(別の可能性が)、アクセスしやすいという問題と、常に問題を解決する方法がアクセス可能(オープンエンド)というのは次元の違う問題で、後者は生命の本質だと語っている。

統計的描写に限界を感じながらも、その記述された現象をどのように還元するか(補助線)を引くかという「ダーウィン的」仕事や、「留保性」という際と際の中に潜みながら構造把握につとめていく姿勢を垣間みることができた。

■参考リンク
茂木健一郎 クオリア日記
Another Heaven



■tabi後記
先週からプログラミング(PHP/Processing)を習い始めた。これが最後の挑戦になると思う。
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2009年11月17日

tabi0317 阿部公房「他人の顔」

仮装と仮想
人間の魂は、皮膚にある・・・文字どおり、そう確信しています。戦争中、軍医として従軍したときに得た、切実な体験なんですよ。戦場では、手足をもぎとられたり、顔をめちゃめちゃに砕かれたりするのは、日常茶飯事でした。ところが、傷ついた兵隊たちにとって、何がいちばん関心事だったと思います?命のことでもない、機能の恢復のことでもない、何よりもまず外見が元通りになるかどうかということだったのです。P29-30
阿部公房「他人の顔」(新潮社 1968)


45年前に突きつけられたテーマは今もカタチを変えて伏在している。心理的/社会的アイデンティティーとなるものは、脆いものか、操作性があるのか、適応されるのか、いかにして飼いならすのか。これはZEN/SEX/LSD/BMIと連環してくれるテーマであろう。

むろん能面に、ある種の洗練された美があることくらい、ぼくにだって理解できないわけではなかった。美とは、おそらく、破壊されることを拒んでいる、その抵抗感の強さのことなのだろう。再現することの困難さが、美の尺度なのである。P82
阿部公房「他人の顔」(新潮社 1968)


1つの方途として「美」へ着目しているのだが、よくある「美の礼賛」とは違った視点を与えているように思われた。その差異は、礼拝性から破壊性へのずらしであり、浸透性から弾力性へのずらしもであると思う。

でも、もう仮面は戻ってきてくれません。あなたも、はじめは、仮面で自分を取り戻そうとしていたようですけど、でも、いつの間にやら、自分から逃げ出すための隠れ蓑としか考えなくなってしまいました。それでは、仮面ではなくて、べつな素顔と同じことではありませんか。とうとう尻尾を出してしまいましたね。仮面のことではありません、あなたのことです。仮面は、仮面であることを、相手に分らせてこそ、かぶった意味も出てくるのではないでしょうか。あなたが目の敵にしている、女の化粧だって、けっして化粧であることを隠そうなどとはいたしません。けっきょく、仮面が悪かったのではなく、あなたが仮面の扱い方を知らなさすぎただけだったのです。P267
阿部公房「他人の顔」(新潮社 1968)


表皮における「仮」性と「真」性の対比から、裏皮における仮と真へ移動していることは着目したいが、私の中で妻のメッセージは「No meaning」である。理由を語れる地点は立てていない。無意味なのではなく、無・意味なのである。

■参考リンク
Taejunomics 安部公房、他人の顔。



■tabi後記
このBlogは「言語スタイル」を試行するための場所にしようと思っているので、しばらくは「分かりやすい」とは到底言えぬ記事が多くなると思います。
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2009年10月09日

tabi0310 山本冬彦「週末はギャラリーめぐり」

画廊は無料の美術館
私は今美術館に飾ってある作品が当時、町の画廊に飾られていたと仮定して、自分はそれを買っただろうか?という「買う(所蔵する)」モードで見るようにしています。買うというモードで観ることで現代のギャラリーで見る作品だけでなく、既に美術館に収まった歴史的な作品も選択肢となるわけで、時空を超えた自分だけの空想コレクションを楽しむことができるのです。P143
山本冬彦「週末はギャラリーめぐり」(筑摩書房 2009)


美術館に行くと一番混んでいるのが、入り口の作家の略歴と解説ボードの前でしょうか。そこには、過去の知識や成果をトレースすることによって「◯◯展」を見たという実感を得るためのイニシエーションが交わされているように思ってしまいます。

そこには本当の鑑賞家ではなく、単にキュレーターが決めた通りの観光コースを見学した旅行者を見ているような気分です。評価の定まった作家、人気の作品というのは当然専門家が選んだものであり、その意味で価値のあるものには違いありませんが、それでは単なる追体験に過ぎないのではないでしょうか。

自ら主体的に「鑑賞」したいならば、無名との対峙、そして「見る」という安全地帯における楽しみよりも一歩踏み込めな「買える」スタンスに立てる場所にいくのが望ましいのではないか?そして、著者は、そのためにこそ画廊は開かれていると説明されています。

あなたは「買って手に入れたい」、「盗んででも自分のものにしたい」、そのように思える「モノ」に最近出会えていますか?心をかき立てるような情熱的で創造的な消費行為を行なっていますか?そのようなメッセージを本書の底流には感じます。

それらの「所有」「消費」という欲望が、なぜ湧き上がってくるのか?この作品に執着する私は何者なのか?このような自己省察の機会としても、ギャラリー巡りをすることは有意義なのかもしれません。本書で紹介されている画廊巡りコースや展力というサイトなどを利用して、町へ飛び出してみるのも良いかと思います。

■参考リンク
はるレポート
久恒啓一の「今日も生涯の一日なり」



■tabi後記
本書は長谷川徳七「画商「眼」力」を生活に落とし込んだ本だと思います。天気は快晴。
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2009年10月07日

tabi0309 湯浅誠「どんとこい、貧困!」

日本に生まれたという「溜め」を生かすには
”溜め”とは、「がんばるための条件」で、人を包み込むバリアーのようなもの。 お金があるのは、金銭の”溜め”があるということ。 頼れる人が周りにたくさんいるのは、人間関係の”溜め”があるということ。 そして、「やればできるさ」「自分はがんばれる」と思えるのは、精神的な”溜め”があるということだ。

誰もが同じ"溜め"をもっているわけじゃない。"溜め"の大きさは、人によってちがう。

たとえば、お金持ちの家に生まれて、両親がいい人でやさしく、頼りがいがあって、自分も自信満々、いつだって「自分はできるさ」と思えるような人は、お金、人間関係、精神的な”溜め”が全部そろっているから、大きな”溜めに包まれている。

逆に、お金のない家に生まれて、両親も仲が悪く、自分のことなんてかまってくれない。自分も、いつもどうしても「どうせおれ(私)なんて…」と思ってしまう人は、包んでくれる”溜め”が小さい。P45〜46
湯浅誠「どんとこい、貧困!」(理論社 2009)


「反貧困」を掲げる彼らの活動は、ぼろぼろになってしまったセーフティネットを修繕して、すべり台の途中に歯止めを打ち立てること、貧困に陥りそうな人々を排除するのではなく包摂し、”溜め”を増やすことであるという。

本書を読む限りでは「自己責任論」を否定して、最低賃金や生活保護などの「ナショナルミニマム」を引き上げるよう政府に求める、伝統的な「ものとり論争」を感じてしまう。もちろん、そういった側面だけが彼らの全てではない。無謬性の想定はなく、建設的な姿勢もみられる。

しかし、それを差引いても「溜め」を分配することに視点が行き過ぎるあまりに「溜め」の視点が狭くなっている。

こういう事後の裁量的再分配が横行する社会においては、誰も財を築こうとしないだろう。これは深刻な私有財産権の侵害だ。もし日本が「経済的に成功すれば公権力がやってきて収奪する」ような不公正な社会だと認知されれば、そのような「後出しジャンケン」を嫌う資本が海外流出し、より深刻な不況を生むだろう。

あなたが起業家だったら、日本で起業するか? あなたが投資家だったら、日本に投資するか?
非正規雇用問題:「ババ抜き」ゲームをやめればいい


上記の記事を読んで、自らが想定しているものをフラットにしてみよう。その上で「溜め」について考える。本書でいう「溜め」というのは、アマルティア・センのいう「Capability」のことであろう。「Social Capital」や「ハビトゥス」などを連想する方もいるかと思う。

確かに、生まれながらによって獲得している「溜め」があるのは事実である。これを反論することは出来そうにない。

だが、溜めを分配せよ!というのは視点として狭いのではないだろうか。私が一読する中で考えていたのは、溜めがない中に「溜め」をみることだった。

例えば、本書で取り上げられる「貧困層」の中で読み書き計算が出来ない人は少ないだろう。これは「溜め」ではないだろうか?世界には読み書き計算が出来ずにいる人は五万とおり、それらを教育する者も不足している。

生活保護が数万円もらえることは世界的にみれば「溜め」である。手当による年収100万円というのは、日本国という最低限の生活をするコストが高い場所にいると貧困になってしまう。しかし場所を移せばどうだろうか?

以上のことは、弱者を甘やかすのではなく、弱者を成長させる仕組みをつくるには(例えばグラミン銀行のように)どうすればいいかという思念の過程である。

今の私が思い浮かぶアイデアは、ホームレス、ワーキングプアといわれる貧困層を、「海外で活躍する人材」として途上国へ送り込むことだった。カンボジアやバングラディッシュにおいては、彼らの教育水準や所得水準は十分に「溜め」がある状態である。

初期投資として30万円を渡航費と現地語の修得のための貸出しを行い、途上国で教師などの仕事について頂く。現地で稼ぐ収入(教師/通訳/その他)から利率を乗せて返還してもらうという仕組みである。

この人材育成/派遣は、もし実現出来るとしたら外交的にも優れた政策ではないか。一人でこのような想像をしていた。ワーキングプアではなく、教育者として途上国に派遣する事業を行なう。住む場所がなく、家族等の身寄りがいないというのは、ある視点でみれば「失うもの/背負うもの」がないということであり、最上にフリーな方々なのではないだろうか?

繰り返して言う。【あなた】がやるべきことは「差別反対」と叫ぶことではない。被差別者を自ら雇い、ボロ儲けすることだ。

雇用差別などという問題は存在しない。そこにアービトラージの機会があるだけである。【あなた】がすべきは、「差別」の告発ではなく、「被差別者」(とあなたが考える人たち)を雇って、自らボロ儲けすることである。それが社会の変革になる。
雇用差別という問題は存在しない


私には高等教育まで無償化したところで、中国をはじめとした労働者にコストで勝てるとは到底思えない。また、世界水準で創造的な仕事をする人材に「全員」がなるとも到底思えない。

であるならば、自らの「溜め」よりも下にいる層に対して、貢献するモデル。自己重要感を獲得できるように「雇用」をするのがよいのではと考える。

■参考リンク
池田信夫 Blog 反貧困―「すべり台社会」からの脱出
雇用保険制度は失業率を底上げしている



■tabi後記
ざっくりしたアイデアなので、建設的にデータや実現可能性を模索してみたいと思う。
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2009年10月06日

tabi0308 開高健「ベトナム戦記」

ルポルタージュ、それは内面の戦争
銃音がとどろいたとき、私のなかの何かが粉砕された。膝がふるえ、熱い汗が全身を浸しむかむかと吐気がこみあげた。たっていられなかったので、よろよろと歩いて足をたしかめた。もしこの少年が逮捕されていなければ彼の運んでいた地雷と手榴弾はかならず人を殺す。五人か一〇人かは知らぬ。アメリカ兵を殺すかもしれず、ベトナム兵を殺すかもしれぬ。もし少年をメコン・デルタかジャングルにつれだし、マシン・ガンを持たせたら、彼は豹のようにかけまわって乱射し、人を殺すであろう。あるいは、ある日、泥のなかで犬のように殺されるであろう。彼の信念を支持するかしないかで、彼は《英雄》にもなれば《殺人鬼》にもなる。それが《戦争》だ。しかし、この広場には、何かしら《絶対の悪》と呼んでよいものがひしめいていた。P168
開高健「ベトナム戦記」(朝日新聞社 1990)


ベトナム社会主義共和国は、面積 32万9241km2(日本の約90%),人口約8520万人(2007年)で、国民の約90%がキン族(ベト族)で、その他は50以上の少数民族が存在する国でラウ。宗教は約80%が仏教徒,キリスト教(9%),その他はイスラム教,カオダイ教,ホアハオ教,ヒンドゥー教となっている。

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1887年から1954年7月にディエンビエンフーの戦いでフランスが敗北するまで、フランスの支配下になったインドシナ半島東部地域である。ジュネーヴ協定を結び、ベトナムから撤退し、独立戦争は終結した。

同時に、北緯17度線で国土がベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)に分断される。そして10月、南ベトナムではアメリカを後ろ盾にゴ・ジン・ジェムが大統領に就任、国名をベトナム共和国にする。それ以来、この「南北ベトナム」は世界の象徴として語られ始めるのである。

あとで私はジャングルの戦闘で何人も死者を見ることとなった。ベトナム兵は、何故か、どんな傷をうけても、ひとことも呻かない。まるで神経がないみたいだ。ただびっくりしたように眼をみはるだけである。呻めきも、もだえもせず、ピンに刺されたイナゴのように死んでいった。ひっそりと死んでいった。けれど私は鼻さきで目撃しながら、けっして汗もかかねば、吐気も起さなかった。兵。銃。密林。空。風。背後からおそう弾音。まわりではすべてのものがうごいていた。P168
開高健「ベトナム戦記」(朝日新聞社 1990)


私は《見る》と同時に走らねばならなかった。体力と精神力はことごとく自分一人を防衛することに消費されたのだ。しかし、この広場では、私は《見る》ことだけを強制された。私は軍用トラックのかげに佇む安全な第三者であった。機械のごとく憲兵たちは並び、膝を折り、引金をひいて去った。子供は殺されねばならないようにして殺された。私は目撃者にすぎず、特権者であった。私を圧倒した説明しがたいなにものかはこの儀式化された蛮行を佇んで《見る》よりほかない立場から生れたのだ。安堵が私を粉砕したのだ。私の感じたものが《危機》であるとすると、それは安堵から生れたのだ。広場ではすべてが静止していた。すべてが薄明のなかに静止し、濃縮され、運動といってはただ眼をみはって《見る》ことだけであった。単純さに私は耐えられず、砕かれた。P169
開高健「ベトナム戦記」(朝日新聞社 1990)


■参考リンク
ベトナム・ハノイに行ってきました。



■tabi後記
本を読んで分かることは部分的かつ一面的であることは、人並み以上には感じているつもりである。それでも読むのはなぜだろうか?それは、実際に東南アジアに行く,見るという「経験主義」に振り切らないための防波堤なのかもしれない。ただし、知識の確認作業として「現地」へ行くのではない。外的確認→外的統合→崩壊→内的統合→内的確認が起きるのではと企図している。
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2009年10月04日

tabi0303 旅行情報研究会「バックパッカーズ読本」

恐れずに。しかし、気をつけて。
バックパッカーの旅を最も適切にいい表せるのは「貧乏」ではなく「自由」というキーワードだ。現地に着いた瞬間から、どこへ行くにも、なにをするのも自由。自分で好きな場所に好きな宿を探し、チケットを取って行きたい待ちに行く。見たい国へと旅をする。いつ食事を取ろうが、観光しようがしまいが、すべては旅行者の自由なのである。P1
旅行情報研究会「バックパッカーズ読本」(双葉社 2007)

今更バックパーカーに興味が出てきた私には、事前準備、危険対策、様々な交通モデルプランから各国/旅人のデータまで、最低限必要な知識が網羅的に編集されていたので分かりやすかった。

普段から、日々の生活が東京のいたるところでも行なえるかのか?を実験しているのだけれど、最近そこまでの差異が見えてこないことに不満を抱いていた。関西や四国や沖縄といった国内の旅行にいくよりも、海外に出ていってしまった方がトータルでは後者の方が安く上がってしまう可能性があることに気がついてから興味がわいてきたのだった。

同時に読ませて頂いた「週末アジア!」は、現役サラリーマンの著者が、週末にアジアを旅して得られた体験と情報がまとめられている。

週末だけで海外旅行なんてもったいないしなぁ・・・と迷うのが普通の思考感覚なのかもしれないが、少しでも行きたいという気持ちがあれば、思い切って行っちゃったほうがいい。ソンクラーンに参戦してみて、改めて強くそう感じた。どんなに短期でも旅であることには変わりがなく、短期だからこそ強烈に残る記憶をたよりに、ここまで書き進めてきた。たとえ仕事が忙しくても、行こうと思えば週末だけでもアジアには余裕で行ける。問題は、行こうと思うどうか、なのだ。P223
吉田友和「週末アジア!」(情報センター出版局, 2008)


乗継便の関係で、週末海外旅行をするならば、中国・韓国よりもタイやマレーシアに飛んでしまった方が現地に長くいられる。このような環境が整えられてきてからは、高城剛の「サバイバル時代の海外旅行術」にみられるように、アジアや世界を歩きながら、新しい時代を考え/仕事をしていく人が当たり前になっていくのを感じている。

■参考リンク
1140旅 旅行情報研究会『バックパッカーズ読本』
1148旅 吉田友和『週末アジア!』





■tabi後記
ネックとしては、1ヶ月分の本を持っていくのは荷が重いこと、そしてBlog更新の環境がえられるかということだろう。本はスキャンしてデジタル化してしまえばいいと思うが、ネット環境はいかんともしがたいか。
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2009年10月03日

tabi0301 堀井憲一郎「落語論」

読書もまた落語ではないだろうか
落語はきわめて個人的な体験である。これがどうしようもない出発点である。そこにいろんな可能性が秘められており、絶望的な評論の限界がある。落語の評論は、すべて嫉妬から生まれる。落語は音楽である。また落語は言葉で綴られる芸能である。(中略)落語を評論するものにとって、落語は言語になる。演者にとって落語は音であり、観客にとっても音である。でも、ごく一部の「落語を家に持って帰って振り返りたい"執着する者"」にとってだけ、言語なのだ。ここのところにまず評論の悲しい出発点がある。P160-161
堀井憲一郎「落語論」(講談社 2009)


堀井氏の語り方は、実に巧みである。語りの隘路を提示しながらも、自らも語りの世界に身をおいている。言語的執着で抜け落ちるもの示しながらも、己の執着(嫉妬)をあらわにしていく。このような自己撞着な態度が落語なのかもしれない。

確かに落語は言葉だけに絞り込むと論じやすい。だからほとんどの落語論が、『落語で語られたこと』をもとに展開されているのだ。(みなさんがお気づきのように、それは落語だけに言えることではない)

そして残念なことに、その方向で精緻に語られれば語られるほど、落語の根源からずれていく。落語は、常にそういう“近代的知性の分析”の向こう側にいると著者は語る。ではその向こう側とは何だろうか?

堀井氏は、落語は“厄介な存在である人間”をそのまま反映したものであると語る。そもそも矛盾しているし、言ってることとやってることが違っている。言うことは変わるし、場面によって行動も違ってくる。それが落語であると。その矛盾の中に、或る種の「系」を発見してしまい(勘違いをしていまい)、その概念的魅力を執筆まで忘れない人間が「論」をするものなのだろう。ロゴスへのパトスと、パトスへのログスが垣間見える書籍である。

■参考リンク
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
このブログをどうしようか考えている。僕は、1日1~3冊読んでいることを表現したかったわけではなかった。読書家と思われる事が最も避けなければいけないところだから。
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2009年09月23日

tabi0300 傳田光洋「第三の脳」

皮膚に魅了されて・・それはヒフミと一二三
視覚と聴覚の世界がテクノロジーの発達で無限に広がっても、私たちは皮膚が感じる世界から逃れられない。(中略)視聴覚が築き上げた人間の社会でも、皮膚感覚は暗黙知として大きな意味をもっています。眼で見た世界では説明がつかないことが、皮膚から考えると理解できる。皮膚が見る世界に思いをはせ、皮膚が語ることに耳を傾けることが、今の私たちに必要だと信じます。P217
傳田光洋「第三の脳」(朝日出版社 2007)


子どもの頃からタオルケットやガーゼの肌感覚が忘れられず、未だに愛用しているものが何点かある。そのような生活的事実を思うにつけ、皮膚が生命と環境との物理的境界ということを超えているのでは?と思うようになってきた。

また、DID・触覚的自我タッチアートのワークショップ経験を通じる中で、思考する素材としても「皮膚/触覚」というものへの魅力も湧き上がってきている。

書籍においても、肌感覚の良い本,悪い本が存在する。ページのしなやかさや、古本にみられる独特のやわらかさ、大型本固有の重量感など。視覚を引き算したあとに足し算されてくる感覚がある、その感覚は脳に思考だけは追いついていけないところが間々あるような気がしている。その気は、どのように思わされてしまったのか。なぜ芽生えてしまったのかと問われると、いささか言語化に苦労する。

■参考リンク
手作りスキンケアから現代思想まで
MyPlace
BOOK LOVERS Vol.250 神田昌典



■tabi後記
細々とはじめて300記事に到達しました。tabi300と「第三の脳」は若干かけてみた。笑
posted by アントレ at 21:54| Comment(1) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月22日

tabi0299 プラトン「メノン」

「◯◯とは何か?」とは何か?
ソクラテス:とすると、君みずからの認める事柄から帰結するのは、結局、いかなる行為でも徳の部分をともなえば、それがすなわち徳にほかならないということなのだ。なぜなら、正義をはじめ、そういったひとつひとつのものは、徳の部分であると君は主張するわけだからね。
ーなぜぼくがこういうことを言うかというと、つまり、全体として徳とは何かを言ってくれというのが、僕の要求だったのに、君は徳そのものが何かを言うどころか、どんな行為でも徳の部分をともないさえすれば、それが徳であるなどと主張する。あたかもそれは、徳とは全体として何であるかを君がすでに言ってしまっていて、君がそれを部分部分に切り分けても、ぼくにはすでに理解できるはずだといったような調子だからだ。

だからね、親愛なるメノン、ぼくは思うのだが、君はもういちど振り出しにもどって、徳とは何であるかという同じ問をうける必要があるのだよーもし徳の部分をともなうすべての行為は徳であるということになるならばね。なぜならこれこそ、すべて正義をともなう行為は徳であるとという主張の意味するところなのだから。ーそれとも君には、もういちど同じ問が必要だと思えないかね?ひとは徳そのものを知らないのに、徳の部分が何であるかがわかると思うかね?P40
プラトン「メノン」(岩波書店 1994)


学習想起説に紙幅をとられており、徳の考察、及びそこから派生するイデア、イデアへ到達するための道筋については生煮えとなっている。「国家」への布石となる書籍として読ませて頂いた。

学習想起とは「マテーシス(学習)はアナムネーシス(想起)である」という考えで、魂が生前にすでに感じていたことを想起することこそが、学ぶことの本性なのであるというものである。

徳は教えられるものか?資質として得られるものか?というメノンの問いに対して、ソクラテスは「そもそも徳とは何か?」という問いを発していく。確かに大切な問いである。だが、この問いによってソクラテスが探求しようしたのは何だったのか?と考える。それはイデアである。この一言で片付けるのは見当違いであると思う。

そもそも「◯◯とは何か?」とは何か?、◯◯に入るのが徳にせよ、創造性にせよ、リーダーシップにせよ、本書でいうところの「たまたま降りてきたもの」なのだろうか。その事を「天啓」や「神の導き」ともいえば、「ひらめき」や「まぐれ」という言葉も宛てがわれている。

■参考リンク
メノンの問いとソクラテスの問い
プラトン「メノン」におけるメノンのパラドックスと想起説
407旅『メノン』プラトン



■tabi後記
10月はアウトプット月間にしてみようか。そのための読みだめをしておこう。
posted by アントレ at 21:31| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0297 キャロル S.ドゥエック「やればできる!の研究」

学びはギフト、それは自己を手放すことの返礼。
問題なのは、そのこしらえようとする自己ー全能で、強くて、良い自己ーがこちこちマインドセットになりがちなことだ。だんだんと、そのような固定的な資質を本来の自分であるかのように思いこみ、それを確認することで自尊心を保とうとするようになる。マインドセットを変えるにはまず、その自己を返上する必要がある。P239
キャロル S.ドゥエック「やればできる!の研究」(草思社 2008)


本書は、「自分の能力や知能に対する信念」(知能観/マインドセット)こそが、後続する学習のあり方、その後の人生のあり方を決めてしまうという説を展開する。

本書で扱う知能観は、「FixedMindset」(こちこちマインドセット/固定的知能観)と「Growth Mindset」(しなやかマインドセット/拡張的知能観)の2種類に分かれている。

「Fixed Mindset」を持つ人は、自分の能力は固定的で、もう変わらないと「信じている人」は、努力を無駄とみなし、自分が他人からどう評価されるかを気にして、新しいことを学ぶことから逃げてしまう。

それに対して「Growth Mindset」は、自分の能力は拡張的で変わりうると「信じている人」 は、人間の能力は努力次第で伸ばすことができると感じ、たとえ難しい課題であっても、学ぶことに挑戦する。

Mindset Schoolを主催する安斎さんは、Fixed Mindset(こちこちマインドセット)を「うぬぼれマインドセット」と「あきらめマインドセット」とFixedする場所によって分類されていた。

私が興味を持ったのは「本気で努力するのが怖い」という表現である。Growth Mindsetの持ち主は、潜在能力が開花するのには時間がかかるのを知っているが、Fixed Mindsetの持ち主は、一発/一瞬で「成否」を決めてしまうがあまりに、物事に本気で取り組むことを避けるという指摘である。ここには、鷲田氏が書かれている「「待つ」ということ」に関する論考と通底するものがあるだろう。

■参考リンク
キャロル=ドゥエック著「やればできるの研究」を読んだ!
上田信行先生の「プレイフルシンキング」を読んだ!



■tabi後記
未来が出現する瞬間を、刻々と待ち仰せている。
posted by アントレ at 19:28| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月21日

tabi0296 重松清/茂木健一郎「涙の理由」

視覚を奪う涙。その危険をさらすことによって、私は何を得ようとしているのか?
茂木:今日、重松さんとお話しして、インターネットに象徴される日本、現代の流通や情報化、そういうものに対する対抗軸が涙であるという、大切な発見をしました。しかも、その涙は、安易な借り物ではなくて、自分の人生の一回だけの、生の奇跡の中で、命のパズルがカチッとはまった瞬間に流れる自分だけのかけがえのない涙です。
(中略)
重松:涙は、平穏なもの、平板なものに、突発的に生まれる、風穴みたいなものです。その風穴にも、さまざまな風穴がある、俺は、この対談で辿り着いた、「自分だけの涙」というものに、ものすごく惹かれました。小説は、宿命的に、一人でも多くの人に届けるためのものだから、最大公約数的な涙を作ったほうが、もしかしたら流通しやすいかもしれない。けれど、少なくとも物語の中の登場人物に流させる涙は、その登場人物にとっての「自分だけの涙」を流させなければいけないし、「自分だけの涙」は、読者自身の自分だけの涙にも届くんじゃないかなと、改めて信じる。信じたくなった。P248
重松清/茂木健一郎「涙の理由」(宝島社 2009)


物理学者のリチャード・ファインマンは、妻のアイリーンを亡くした時に涙が出なかったという。しかし、それからしばらくして、街中を歩いていて店のショウウィンドウの中にきれいな服が飾られているのを見て、「ああ、アイリーンだったらこんな服を着たがるだろうな」と思った瞬間に、もうこの世にはアイリーンがいないのだと気づいて、号泣したと、自伝『ご冗談でしょうファインマンさん』にある。

すぐれた映画や小説もまた、私たちを泣かせるが、自分自身の人生のさまざまな要素がそろって凝縮した時に流れる涙は、天からの贈り物であって、一つの奇跡である。それは、一生に一回訪れるかどうかもわからない不意打ち。このように語る茂木氏はこの対談の過程において、ずっと「インターネット」への対抗軸を探していたようです。

もちろんインターネットはすばらしいものであり、これからもヘビーユーザーであり続けると思う一方で、それだけでは危うい、なにかが失われると感じていた。そして、その対抗軸が、単に「身体に還れ」とか、「自然に親しめ」ではいけない、とも思っていたと語っています。

茂木氏は、カウンターポイントはそんなに簡単には見つからないと思っていたが、重松氏と向き合っている中である感触を得た。それが、さまざまなものがはまることによって初めて流される、「私の人生だけの涙」というものだったのだ。



■tabi後記
TOKYO FIBER '09 SENSEWARE展に参加してきました。
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2009年09月20日

tabi0295 中沢新一「三位一体モデル」

少子化してしまった現代
ひとつには、安定した同一性をおびた秩序をつくりだそうとする「父」の原理。もうひとつは、「霊」という増殖原理。そして、それらを媒介する「子」の原理。キリスト教では、以上の三つの原理をを組み合わせ、しかも、それらが絶対にはずれないようにした。そのうえで、この構造を、世界で起こることを理解するためのモデルにしようと考えたのです。P50
中沢新一「三位一体モデル」(東京糸井重里事務所 2006)


増殖し、不安定で予測不能な「霊」は、私たち人間の世界にかならずつきまとっています。そして、これを「神(父)」がコントロールしようとしている。神は、安定性や予測可能性の原理によって霊のはたらきを管理しようとする。

そのさい、人間の世界に、神の意思を媒介する原理が必要となってきますが、それが「子」の原理となります。科学は「父なる真実」を実験や試行錯誤をつうじて伝える「子=科学者」たちによって、「知(霊)」が知を生んで増殖してゆく。

このように、現代の「父」(超国家,宇宙)において増殖する「霊」(科学的知と貨幣(信用))を媒介する「子」が(トランスヒューマン)となっていかなければいけないのだろう。

■参考リンク
ほぼ日刊イトイ新聞 - 『三位一体モデル』を読んだ人たちに聞きました
1048旅 中沢新一『三位一体モデル』



■tabi後記
未だ、霊と子の取り扱い方が理解出来ていない。私には、次の時代の父や霊はすでに語られているように思う。であるならば、今の時代では「悪霊」と取り扱われていることを「聖霊」と見立ててしまう「子」が必要だと思う。
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2009年09月18日

tabi0293 ジョナサン・D・モレノ「操作される脳」

1人2役の複雑な対話 -神経科学者と神経倫理学者-
長期的に見るならば、人類がこれから辿るべき道筋は、人類の繁栄を妨げる問題の打開に向けて、建設的な手法や技術を大幅に増やし、無差別的な破壊力の増大にそういった手法や技術で対応していくというものだ。人類の合わせ持つ、破壊と建設という一見したところ相反する特質を、神経科学の力をもって、なんとかして関連づけなければならないのだ。神経系は耐え難いほどに複雑ではあるが、それをもっと深く理解することができれば、私たちは心の戦争への向かうのをやめ、魂の平和を目指せるのではないだろうか。P359
ジョナサン・D・モレノ「操作される脳」(アスキーメディアワークス 2008)


本書が紹介していくDARPA(米国防総省国防高等研究計画局)の最先端脳科学研究は、人間の脳を意図的に操作する可能性を探っている。

(1)相手の思考を読み取る、(2)思考だけで物を動かす、(3)記憶をすべて完全に残す、(4)恐怖や怒りや眠気を感じなくする、(5)外気に合わせて体温を変動させて冬眠する、(6)炭水化物型代謝を脂肪分解型代謝に切り替えてダイエットする、(7)傷を急激に治す自己治癒力を高める、(8)他人をロボットのように自在に操作する―といったこと脳科学の可能性を示す、興味深い研究事例が次から次に出てくる。

このような可能性を示しながらも、神経倫理における問いを混入させている。BMIが浸透していくことは止まる事はないだろう。反社会的な技術や思考を用意するということは、われわれ自身が技術に飼いならされないための予防的対抗措置であるのだろう。

■参考リンク
事実はSFよりも奇なり「操作される脳」
『操作される脳』――ビジネスパーソンは管理される
764旅 ジョナサン・D・モレノ『マインド・ウォーズ 操作される脳』



■tabi後記
このような本をどのように生活に反映させるかを考えている。
posted by アントレ at 22:59| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月16日

tabi0291 ベン・コーエン /マル・ワーウィック 「ソーシャルビジネス入門」

経済活動は交換ではなく交歓ではないか
アメリカ人のほとんどが、人生にはスピリチュアルな側面があると信じている。人々が集まって企業になったとたんスピリチュアルな面は突然消えてしまうのだろうか。私たちはそう思わない。「与えたものには与えられる。種を撒けば芽が出る」という教えは、個人の生活だけでなく、ビジネスにも当てはまるはずだ。P38
ベン・コーエン /マル・ワーウィック 「ソーシャルビジネス入門」(日経BP 2009)


本書の原題は「Values-Driven Business: How to Change the World, Make Money, and Have Fun」である。「バリュードリブンビジネス」として出版をすると、「一瞬で」内容を伝えるのが出来ないと思われるが、私には原題のタイトルの方が的を得ているように思う。ここが訳書の悩ましいところなのだと考えさせられた。

さて、世の中で取り上げられる「企業」の大半が「大企業」である。それらの中には、経営の未来に取り上げられるような企業や、地球システムにおける人間圏という価値観、思考をもってビジネスを行なっているところも多少はある。では、実際のビジネスにおいて多数を占める「中小企業」は、大企業の模倣をして上手くいくのだろうか?スモールビジネスにはCSRなど関係ないのだろうか?著者は、それが違うと言う。そして、スモールビジネスだからこそ「価値観主導型のビジネス」を行なえるということを多数の事例を用いて説明していくのである。

ここで取り上げられる組織は、仕事を「志事」と捉え、バリューチェーンに志を入れることでプロフィットの先にあるものを見つめていく。彼らは、商品,サービスの交換関係だけで経済活動が終わりになるなど微塵も考えていない。人間的、精神的なつながりを取引先、顧客、パートナー社員、地域コミュニティーなどに希求するような存在なのである。

ドライな関係をビジネスに求める人にとっては、一見、暑苦しく、教条的な聞こえてくるソーシャルビジネスであるが、本書で取り上げらる事例は、クールとウォームの二面性を持ち合わせたプロジェクトデザインの集積である。

■参考リンク
社会起業に目覚める【ほぼ日読書日記 2009年8月6日】





■tabi後記
昨今、見えていないことが見えているんだよ、ということを伝えてあげるのは大切な気がしてきている。
posted by アントレ at 18:25| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月15日

tabi0290 松井孝典「われわれはどこへ行くのか?」

地球に所有されるということ
たとえば太陽光の入射により海が暖まるから水の蒸発が起こります。太陽の熱を吸収し暖められて、その熱の一部を大気に運ぶわけですね。その際、大気中で水蒸気が凝結し、そのときにまわりの熱を奪って冷えて、というぐあいに、エネルギーの受け渡しもやっているのです。ですから、関係性は物質循環であると同時に、エネルギーの移動でもあるわけです。循環というか、エネルギーの流れというかは、何に注目するかの違いで、関係性という意味では同じことです。
モノが移動するわけですから、何か駆動力が必要です。その駆動力は何かというと、ここでの例の場合は明らかに太陽のエネルギーです。P34
松井孝典「われわれはどこへ行くのか?」 (筑摩書房 2007)


ASIA INNOVATION FORUM のトップバッターとして松井さんが講演されていたのが印象に残っている。彼が提起する「地球システムにおける人間圏」というコンセプトは2日間に渡って参照されていたからだ。

著者の根底には「地球システムをつくって生きているわれわれとは何なのか?」という問いがある。この問いこそが、「われわれとは何なのか?」という問いの本質に迫るものとかんがえているからだろう。そして、地球システムにおける構成要素と駆動力と関係性を明確にしながら、1つの「部分」である人間圏について論じていく。

「人類を救う「レンタルの思想」」にて、生物圏から人間圏へ移行していったプロセスを知ることが出来たが、本書は「地球環境」というものを「地球環境問題」としてではなく、1つのシステムとして冷静に論じている。

Oil Based EconomyからSun Based Economyという考え方が、ASIA INNOVATION FORUM におけるコンセンサスとなっていたが、松井さんの視点を取り入れると、人間圏が太陽系に拡張したところと見る事ができる。次はプラズマ圏や銀河系といったところへ人間圏はシフトしていくのだろうか。もしくは人間概念を変更していくのだろうか。

■参考リンク
書評 - われわれはどこへ行くのか?
2旅 松井孝典『われわれはどこへ行くのか?』



■tabi後記
未来を創る者は、いわゆるなマクロトレンドによって内的直観の優先順位を騙されていけないのだろう。そこの耐性がクリエイターには求められる。
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2009年09月14日

tabi0289 ナシーム・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン(上)」

そしてブラックスワンもプラント化された
この本で黒い白鳥と言ったら、それはほとんどの場合、次の三つの特徴を備えた事象を指す。第一に、異常であること。つまり、過去に照らせば、そんなことが起こるかもしれないとはっきり示すものは何もなく、普通に考えられる範囲の外側にあること。第二に、とても大きな衝撃があること。そして第三に、異常であるにもかかわらず、私たち人間は、生まれついての性質で、それが起こってから適当な説明をでっち上げて筋道をつけたり、予測が可能だったことにしてしまったりする。P4
ナシーム・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン(上)」(ダイヤモンド 2009)


タレブ氏は「Platonicity(プラトン化されたもの)」という用語を用い、過度に単純化させるあまりに、しばしば本質まで削ってしまう科学的なモデリングに対して批判をおこなっている。帰納にまとわりつく誤謬について何年も頭を抱えてきた人には、一般ビジネス書でこの類いの本が売れるのは嬉しいことかもしれない。

著者が指摘するように、確かに過度の単純化はモデリングにおいては致命傷である。そして、ソ連の崩壊はBlack Swanだから予想できない、911はBlack Swanだから予想できないとするのも、Black Swanの定義が「予想不可能だが、一度起きるとそのインパクトが強大で、起きた原因を後知恵解釈しかできない事象」なので、そう考えるのもありだと思う。

一方で、ベルカーブ(正規分布)批判における「単純化」という概念の「程度」について、ほとんど言及していないのが喉元を引っかかる原因となった。彼の言うBlack Swanは定性的な話で「Black Swanってあるよね、あるある」だけで終わってしまう。飲み屋において「人生って予想できないことが多いよねえ」と言っている学生の人生哲学と変わらないところが多々あるように思う。(古典的教養と文学的な表現で目を眩まされていけないのだろう)

■参考リンク
wrong, rogue and log The Black Swan
wrong, rogue and booklog
Sceptical Positivism
「ブラック・スワン」、読んだ。
ブラック・スワンとレバノン
「黒鳥」の正体 - 書評 - ブラック・スワン
ナシーム・ニコラス・タレブ「まぐれ」を読んで





■tabi後記
今日、明日とASIA INNOVATION FORUMに参加しています。
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2009年09月13日

tabi0288 ジェームス・W・ヤング「アイデアのつくり方」

関係ないことなんてない
既存の要素を新しい一つの組み合わせに導く才能は、事物の関連性をみつけ出す才能に依存するところが大きいということである。アイデアを作成する際に私の心のはたらき方が最も甚だしく異なるのはこの点であると思う。個々の事実がそれぞれ分離した知識の一片にすぎないという人もいる。そうかと思うと、一つの事実が一連の知識の鎖の中の一つの環であるという人もいる。この場合一つの事実は他の事実と関連性と類似性をもち、一つの事実というよりはむしろ事実の全シリーズに適用される総合的原理からの一つの引例といった方がよさそうである。P28-29
ジェームス・W・ヤング「アイデアのつくり方」(阪急コミュニケーションズ 1988)


ヤング氏は、アイデアが生み出される原理として、次の2点を挙げています。

1.アイデアは既存の要素の新しい組み合わせでしかないということ
2.その新しい組み合わせを発見する才能は、事物の関連性を見いだす能力に依存すること

この原理は様々な方が述べているので、人口に膾炙している感がある。しかし、それを地で行い、アイデアメタボになっている人は稀である。著者も、この方法論を公開したからといって「世界総アイデアマン」になることはないと断言されている。

そして、以下の5ステップがヤング氏が提案するアイデアの創られる過程と方法である。当たり前を当たり前としてとらえずに熟読してみてほしい。

意識的な活動:
1.資料収集の徹底:対象に関係する特殊知識と、世間のできごと全般の一般知識を、常日頃からファイリングする。

2.嫌になるまで資料を咀しゃく:集めた事実をさまざまに組み合わせ、頭に浮かぶことを紙に書いていく。アイデアが出なくて絶望的な気分になるまで続けるのがポイントだ。

無意識的な活動:
3.問題を意識から外す:音楽を聴いたり、映画に出かけたり小説を読むといった、想像力や感情を刺激することに心を完全に移す。

4.アイデアの誕生:すると、ひげをそったりシャワー浴びているといった期待していない時にこそ、突然アイデアがひらめくという。

意識的な活動:
5.人に話しながら具体化:アイデアは心にしまわず、理解ある友人に伝えることでさらに形になっていく。

この当たり前のステップをどれだけ高速、繰り返し行なっていけるかが「アイデアの神様」と付き合い続けられる秘訣なのだろう。ポアンカレは「これまでは無関係と思われていたものの間に関係があることを発見することが美的直観である」と言っているが、この考えが具体化されたのが本書であり、その具体化したプロセスに自らを寄り添わせていくためには、自らのテーマとリラックスのポイントを実験を繰り返しながら開拓することが必要になってくると思う。

■参考リンク
アイデアのひねり出し方
意識的にアイデアを見つけ出すための5ステップ
『アイデアのつくり方』と図書館



■tabi後記
TSUTAYA TOKYO ROPPONGIに来ているが、このようなサードプレイスストアが増えていくと面白くなりそうだ。
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2009年09月09日

tabi0284 佐々木俊尚「仕事するのにオフィスはいらない」

IC(Interdependent Creator)というワークスタイル
ノマドについて、ここでいったん整理して定義し直してみましょう。

第1に、ノマドは本質的にフリーランサーです。会社と社員の契約を結んでいるかどうかという形式的な問題ではなく、その精神において。自宅にいようが、カフェにいようが、あるいは公園のベンチであっても、どこでも仕事ができるからこそノマドなのです。

第2に、ノマドは、パーマネントコネクティビティで動いています。オフィスという場所に押し込められているから仕方なくつながっているのではなく、自分から望んで仲間や友人、家族、同僚たち、そして仕事ともしっかりとつながっているのです。

第3に、ノマドはアテンションをコントロールする人たちです。セルフコントロールができてこそ、ひとりの場所でも仕事を完璧に仕上げることができるようになります。

第4に、ノマドは鍛え上げられた情報強者です。顧客や同僚とのメールやメッセンジャーのやりとり、そして業務分野における膨大な専門情報まで、こうした情報を自由自在にコントロールする力を持ってこそ、自由なワークスタイルを実現させることができます。P30
佐々木俊尚「仕事するのにオフィスはいらない」(光文社 2009)


今までは、IC=Independent Contractor(独立請負人)という言葉が主流であった。だが、この言葉を嫌悪する人もいた。

そこで「請負ではなく、創造する人なんだよ」という意味を込めて、IC=Independent Creator(独立創造人)という言葉を用いる人もちらほら出てくることになる。フリーエージェントやクリエイティブクラスも、そのような流れではないかと理解していた。そして、本書で扱われる「ノマド」というスタイル。

この言葉には「Independent」(独立)ならぬ「Interdependent」(共立:オープンコラボレーションという意味をのせて)というニュアンスが込められています。Independent Contractor(独立請負人)からInterdependent Creator(共立創造人)へ。

このようにまとめてしまえば、ただの言葉遊びに過ぎない。本書で紹介されているガジェットやアプリケーションをつぶさに観察/実験することで、自らにマッチするスタイル(アテンションコントロール法)を紡ぎ上げていく。それこそが大切になってくる。

■参考リンク
Be Free, at Home - 書評 - 仕事するのにオフィスはいらない
明日のノマドに開放された窓〜ノートPCとiPhoneで自立と自律を手に入れる
フリーランスはどこへ向かうのか? - 僕のフリーランス学



■tabi後記
21世紀の歴史」に言及しているのも興味深かった。それにしても早朝のスターバックスは快適である。Mac Bookはバッテリーの持ちがいまいちだけれど、電源がない環境では、それが制約になって作業がはかどります。
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2009年09月07日

tabi0282 アニリール・セルカン「ポケットの中の宇宙」

宇宙は馴染みのもの
いま日本に暮らしていて、僕がラクにしていられるのは、日本人が宗教をあまり問題にしないからです。これは大事なことで、世界の中で日本が最も心地よく感じる理由で、それが間違いなく日本のよいところです。もちろん、日本人にしても宗教心が薄いわけではなく、人々の気持ちの中には仏教や神道の教えがあるようです。とはいえ、それは人の邪魔をしないものなです。P18
アニリール・セルカン「ポケットの中の宇宙」(中央公論新社 2009)


あなたのポケットの中には何がありますか?

家の鍵、免許書、iphone、財布などなど、色々なものが入っていると思います。著者は、はじめの中で「わたしたちにとって宇宙はいかに馴染み深いものなのか?」と語ってくれます。それが「ポケットの中の宇宙」というタイトルに結びついたのでしょう。

本書は、宇宙に関する話題だけではなく「水」と「エネルギー」と「食料」をメイントピックとして論じています。そして、彼の自伝を交えながら、空気スタンド、爪携帯、IT戦争、ゴミ問題というアイデアをエッセイとしてまとめているのです。

私が、このエッセイを読みながら感じるのは、「無」と「唯今(ただいま)」という考え方です。(これは彼が好きな漢字のようです。)セルカンは「無」と「唯今」という言葉に、ラッセルの世界五分前仮説、エヴェレット多世界解釈で論じられているような背景をこめているように感じました。

■参考リンク
アニリール・セルカン
アニリール・セルカン特別講演、世界にはおもしろい人っているもんですなあ。



■tabi後記
20年後はすぐにやってくる。振返ればとてつもない変化をしていると思うが、変化のただ中にいる者には、それが馴れになってしまう。クレイジーパワーが必要なのかもしれない。
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2009年09月05日

tabi0280 ブラフマン/ベックストローム「ヒトデはクモよりなぜ強い」

頭を殴ったら死ぬか?
クモの頭を切り落としたらそのクモは死ぬ。企業の本社機能を破壊したら、おそらくその組織は壊滅するだろう。だからこそ、暗殺者は一国の大統領を狙い、軍隊は国の首都を攻撃するのだ。ミズーリ州の平凡な男、ジョーの命が危険にさらわれることはたぶん、ない。
ヒトデ型組織には切り落とすべき頭がないことが多い。スペイン軍がアパッチ族のナンタンを殺すと、次々に新しいナンタンが登場した。ビル・Wなき後も、アルコホリックス・アノニマスは広がり続けた。レコード会社がなんとかイーミュールの創業者をつかまえても、そのサービスにはなんの影響もなく、続いていくだろう。P50
ブラフマン/ベックストローム「ヒトデはクモよりなぜ強い」(日経BP社 2007)


本書に太字で記載されていた箇所を写経する。クリティカルに眺め、自分の言葉へ持っていこう。

「分権組織における8つの法則」

1.分権型の組織が攻撃を受けると、それまで以上に開かれた状態にあり、権限をそれまで以上に分散させる。
2.ヒトデを見てもクモだと勘違いしやすい。
3.開かれた組織では情報が一カ所に集中せず、組織内のあらゆる場所に散らばっている。
4.開かれた組織は簡単に変化させることができる。
5.ヒトデたちは、誰も気づかないうちにそっと背後から忍び寄る性質がある。
6.業界内で権力が分散すると、全体の利益が減少する。
7.開かれた組織に招かれた人たちは、自動的に、その組織の役に立つことをしたがる。
8.攻撃されると、集権型組織は権限をさらに集中させる傾向がある。
 
「ヒトデとクモの見分ける10の質問」

1.誰かひとり、トップに責任者がいるか?
2.本部があるか?
3.頭を殴ったら死ぬか?
4.明確な役割分担があるか?
5.組織の一部を破壊したら、その組織が傷つくか?
6.知識と権限が集中しているか、分散しているか?
7.組織には柔軟性があるか、それとも硬直しているか?
8.従業員や参加者の数がわかるか?
9.各グループは組織から資金を得ているか、それとも自分たちで調達しているか?
10.各グループは直接連絡をとるか、それとも仲介者を通すか?

■参考リンク
ヒトデはクモよりなぜ強い | EXDESIGN
分散化とは「問題にかかわる者を意思決定に参加させること」
『ヒトデはクモよりなぜ強い』 「ヒトデ型」をありのままにとらえる
嫉妬が生みだす公正な社会
書評 - ヒトデはクモよりなぜ強い



■tabi後記
出会うための言い訳(良い訳)をつくってあげるのが大切だなと思う。
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2009年09月03日

tabi0278 澁澤龍彦「胡桃の中の世界」

ミクロコスモス・スコア
実際、『胡桃の中の世界』はリヴレスクな博物誌のようなもので、私はここで、幾何学的なイメージや石や動物や各種のオブジェや、あるいはシンメトリーや螺旋やユートピアや庭園や小宇宙などといった、気に入りのテーマを飽きもせずに語っている。(中略)ひたすら原型を求め、イメージの結晶を求めていた私だったが、いまや、それをロマネスクにふくらませることに楽しみを味わっているというわけだ。P283-4
澁澤龍彦「胡桃の中の世界」(河出文庫 2007)


本書は「人類の〈結晶志向〉の夢の系譜」を一冊に封じこめた奇想の博物誌と評されている。冒頭には「石の夢」というエッセイが収められており、プリニウスの「博物誌」からはじまり、ガストン・バシュラール「大地と休息の夢想」、ロジェ・カイヨワ『石の書』、さらには『和漢三才図会』まで渉猟し、興味深いエピソードを掘り起こしていく。

その中でも印象に残るのがアタナシウス・キルヒャーの『地底世界』である。

6059287.jpg
地球の断面図 A・キルヒャー『地底世界』1664年

この図について澁澤氏は、以下のように説明している。

一六六四年にアムステルダムで刊行された『地底世界』、それまでの多くの資料を集大成しているが、それだけではなくて、広範囲な一つの宇宙開闢説となっているところに第一の特徴があった。キルヒャー独特の筆触で描かれた地球の断面図が挿入されていて、それを眺めると、地殻の内部で燃えている火は、細い運河のような数多の裂け目を通り、火山となって地表に噴出している。鉱物も金属も、この燃える地殻の内部から自然に生じるということが示されているのである。地球は一個の有機体であり、自然は人間のように考えたり行動したりする。澁澤龍彦「石の夢」


イエズス会士であるキルヒャーは、すべての現象の背後に神の摂理を見いだしている。自然界において奇蹟を起こすのは常に神の力であり、天に新しい星が生まれるのも、石の中に形が生じるのも全ては「神の力」だという。現在の自然科学とは相反するが、このような神秘主義的解釈は中々面白い。

並行してナシーム・ニコラス・タレブ「ブラックスワン」を読んでいる。そうすると「プラトン的知性」という言葉に敏感にならざるを得ない。2つの書籍で、プラスマイナスを往還することになるからだ。

タレブ氏はマイナスの語尾をもって「プラトン的知性」を語っているが、澁澤氏は神秘的な「プラトン的知性」を面白がっている。双方の知性を併せ持ちながら「黒い白鳥」について語っていくことが必要かもしれない。

■参考リンク
[澁澤龍彦]「異端の肖像」「胡桃の中の世界」「エピクロスの肋骨」



■tabi後記
航海には地図がいる。さて、そもそも「その地図」をつくった人は、どうしたのだろうか。おそらく、大まかな予測を片手にもちながら航海をはじめたのだろう。そして、もう一方の手で地図をつくっていった。
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2009年08月31日

tabi0275 中西昭一 編「ワークショップ 偶然をデザインする技術」

ワークショップは創造と解体。0から1を生み出し、1を0へ戻していく。
どんなに自らが提供する商品やサービス、ブランドが所与のものであっても、それらを中立的な存在として徹底して位置づけ、ここから開発対象となる商品やサービス、ブランドのコンセプト、デザイン、コミュニケーションなどにアプローチする。「つくって、さらして、振り返る」というアクティビティを繰り返しながら、参加者は自らの「まなざしの革新」を通して、徹底してコンセプト、デザイン、コミュニケーション等の可能性に近づこうと努力する。このようなアクティビティを繰り返した結果、クライアント側・受注者側を含めた参加者全員が「学ぶ側」に位置するようになる。これが良いワークショップである。P31
中西昭一 編「ワークショップ 偶然をデザインする技術」(宣伝会議 2006)


一般的に、ワークショップの役割は4つに分類されてきた。(参考:中野民夫「ワークショップ」

・自己啓発系
・身体解放系・身体表現系
・社会的合意形成型
・創造力開発系

この本で扱うのは4つ目の「創造力開発系」のワークショップ。私がこの本を手にとった理由は、ブレインストーミングとワークショップの類似性、差異、その組み合わせを考えたかったからです。

この本から得られた仮説としては、ブレストは「コラボレーションのプラクティスではない」ということ。それは、個々の貢献と場の貢献と違いとも言えるかもしれません。何人か集まってのブレストは「プロトタイプをつくるためのプラクティス」ではあっても「コラボレーションのプラクティス」ではないのかもしれないということ。

本書では「中立変異の蓄積」「拘束状況の緩和」を進化のダイナミズムの源泉と位置づける「木村学説」の隠喩が用いてワークショップが説明されています。

すでに価値の決まっている「1」をどのように「10」にしていくかを考えるのではなく、中立的な「0」の蓄積から、参加者がワークの体験を共有していくプロセスで「1」を発見していく。

もしくは、同じワークの共有を通じて、すでに価値があるとされる「1」をもう一度見つめなおすことで解体しながら、それを再度中立的な「0」に戻し、それから再創造のプロセスにのせていく。こうした「解体と創造」の場がこの本で論じられるワークショップ。

ワークショップは、「ワークショップ的」という形容詞に身を潜める事で、あらゆる場所に侵入しています。(本書でも「ワークショップ・バブル」と書かれていたが)この本にも「ワークショップ的」な事例が多数紹介されている。その中で私が面白いと思ったのは「ピクニカビリティ」という言葉でした。

以下に引用してみます。

「ピクニック」というコンセプトには、強力な「イデオロギーの漂白力」があるのだ。東京ピクニッククラブでは、そのことを「ピクニカビリティ」という造語で呼んでいる。これは基本的にはピクニックしやすい都市やピクニック・スキルを身につけた人のことを評価する言葉だが、もうちょっと抽象度を上げて語るならば、ピクニックとは、自由にスタイルを与える行為であり、ピクニカビリティとは、いわば「自由の力量」を表わす尺度のような概念だともいえる。

「拘束状況の緩和」は、私の考えでは、場の持つピクニカビリティを高めることである。ピクニックとキャンプの違いをご存知だろうか。ピクニックは本来社交の場であり、ホストとゲストがない平等な集会である。だから煮炊きのような労働を誰かに課すようなことはしない。これに対してキャンプは軍隊の行動スタイルが基盤になっており、設営や炊事といった労働とその役割分担を通じて仲間意思を共有しようとするものだ。拘束状況のアレンジメントを遊ぶタイプのレジャーである。

私はピクニックが優れてワークショップ的であると思う。逆かもしれない。ワークショップがこなれてファシリテーターを必要としなくなった時、それはピクニックのように自由で楽しい雰囲気になる。どんな人も参加し、それぞれが理解可能なように語り、新たな「発見」を共有する場となるだろう。P132
中西昭一 編「ワークショップ 偶然をデザインする技術」(宣伝会議 2006)


■参考リンク
Blog@Yui はてな出張所
DESIGN IT! w/LOVE ワークショップ―偶然をデザインする技術/中西紹一編著
DESIGN IT! w/LOVE 新しい発想、技術の導入時に問われるプロデュース力



■tabi後記
雨降る中、情報デザインファーラムに参加してきた。情報デザインは、分かりやすく伝えるためではなく、良い体験をつくるためにある。いい言葉です。
posted by アントレ at 23:38| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月30日

tabi0274 入山映「市民社会論」

ボランタリーの失敗という思考軸
ここで錯綜しているかに見える議論の整理を試みると、とりあえず論点は先の公益法人制度の問題点に対応して、四つに分かれていることがわかる。
その一は法人成立にあたっての許可主義と、それと表裏一体の関係にあった指導監督体制の問題。
その二は、法人法定主義を採るわが国の法体系のなかで、これまでの「公益法人」に代わるものが必要か否か。必要ならばどのような法人類型を構築するかという問題。
その三は、どのような活動を営む法人に対して、どのような税制上の優遇措置を講じるのか。その理由は何かという問題。
そして最後に、既存の公益法人のなかで、いかがと思われる存在はどのようなもので、それをどのように淘汰するかという問題。さらには将来にわたりそのような存在の発生を阻止することは可能か、という問題である。P140
入山映「市民社会論」(明石書店 2004)


市場の失敗と政府の失敗を補う希望の星としてのNPOという見方は「社会起業」という言葉の登場によって、徐々に盛んになっている。 「市民セクターの可能性」と題した議論はこれまでも連綿と続いてきた。レスター・サラモンの「ボランタリーの失敗」という理論は、その中でも急進的なものといえるだろう。

本書では、官民、公私といった「当たり前」に使用される思考軸に対して、懐疑の目をもちながら、この次の可能性を探っていく。副題が「NPO・NGOを超えて」となっているのにも納得がいく。

私が興味を持った点は、正統性(legitimacy)の問題と答責性(accountability)の問題である。そして、市民組織と民主主義は3重の意味で関係がないという議論である。

正統性の問題とは、市民社会モデルには、かつて選挙によって選ばれた人々が行っていた決定を、選挙によらない主体が行うようになるという「民主主義的欠陥」を指摘されることである。

答責性の問題は、影響力を行使するNPO/NGOが引き起こした結果に対して「政治的責任を追及する実効的手段」がないという問題である。この2つは、表裏の関係といっていいだろう。

そして、市民組織は民主主義とは1重の意味で関係がない議論について。

まず第一に、組織そのものの目的はいかようにでも反民主主義的でありうるということ。アルカイダもKKKも、はたまたオウム真理教も市民社会組織である。 第二は、組織運営が民主的になされる保証がないということ。成員がそれに同意し、望むならばどのような独裁的・非民主的な運営も可能であるからだ。そして第三は、多くの市民社会組織が部分利益を代弁するという性格をもち、ごく一部の社会階層の利益を極大化し、それを固定する機能を十分に果たしうること。この3つを射程入れながら、市民組織と民主主義については考える必要があるだろう。

■参考リンク
社会変革ベンチャーキャピタリスト ータイズ財団



■tabi後記
戦後初、2大政党における政権交代がなされた。民主主義を採用する国としては、今までが異常な事態だったのだろうか。事態の行く末を見守ると同時に、国家というレガシーシステムを移管するためのプログラミングをしておこう。
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tabi0273 加藤秀治郎「日本の選挙」

投票はどこから来たのか、投票は何か、投票はどこへ行くのか
選挙制度の議論のパターンをみると、教育問題とよく似ているところがある。まず、誰でも口が出せるし、それを直接の専門とする学者の意見があまり尊重されないことである。また、思い込みの強い議論が多く、意見のことなる人の間では有益な討論がなされないのも似ている。
(中略)
さらには、思想的バックボーンに無頓着な議論が多いことも似ている。多様な教育制度にはそれぞれ理念があるのだろうが、あまりそんな話は聞かない。選挙制度でも平気で思いつきのような改革案が出されてくる。P4(はじめに)
加藤秀治郎「日本の選挙」(中央公論新社 2003)


小選挙区制は安定した政権(二大政党)がつくれるが死票が多い、比例代表制は選挙民の意見を正確に反映しかつ死票がないが小党分立で政権が安定しない・・etc。選挙制度の報道は同じことを繰り返している。

このようなメッセージの裏には何があるのか?そもそも選挙制度とは何か?そして選挙制度はどうなるのか?本書は選挙制度の話は、上記の報道だけでは片付けられないことを教えてくれる。

もともと小選挙区制と比例代表制は根底にある理念が異なっている。選挙制度を論じるには、まず依って立つ政治理念を明確にしなくてはならない。オルテガ・イ・ガセトは「大衆の反逆」にて「民主政治は、その形式や発達の程度とは無関係に、一つのとるに足りない技術的な細目に、その健全さを左右される。その細目とは選挙の手続である。それ以外のことは二次的である。もし選挙制度が適切で、現実に合致していれば、何もかもうまくいく。もしそうでなければ、他のことが理想的に運んでも、何もかもダメになる」と語っている。

90年代の政治エネルギーの大半を選挙制度改革費やしたかに思えるが、井堀利宏氏の「世代間選挙区」のような発想が根源的に議論されたのだろうか。そして、その議論は我々に届いているのだろうか。

以前から、一票の格差に関する話題はことかかない。住居地域における1票格差の議論は徐々に顕在化してきている。また、シルバーデモクラシーといわれる世代間1票格差も注目を浴びている。一方で、誰も当選させたくないけれど「あの人だけは当選させたくない」という意思表示をするための負の投票権(マイナス投票)という考え方も上がってきている。

このように多様な側面がある「選挙制度」について考える日が、人生に1度くらいあっても良いだろう。投票はどこから来たのか、投票は何か、そして、投票はどこへ行くのだろうか。

■参考リンク
選挙の前に読んでおきたい本&目を通しておきたいWebサイト



■tabi後記
ブライアン・カプラン「選挙の経済学」では、大多数の有権者は、市場メカニズムを過小評価し、貿易の利益を過小評価し、労働の価値を過大評価し、経済をあまりに悲観的に見通す傾向がある。こうしたバイアスが存在するために、私たちはわざわざ間違った政策を選び、民主主義を台無しにしていると論じている。

近年は、政党や個人といった縛りではなく「政策」をベースにして投票を行なおうという声が上がっているが、どのマニフェストも判を押したように同じ構図になっている。「両政党の違いよりも、政党内部の違いの方が大きい」という指摘は、1つの迷言として考えておきたい。
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tabi0272 山口昌男「学問の春 <知と遊び>の10講義」

文化の創造性は危機に直面する技術
「ポトラッチの社会学的基礎」というセクションの最後に、「ポトラッチのような術語は、ひとたび科学的用語のなかに受け入れられてしまうと、たちまち符牒にされやすく、人々はこの言葉を使いさえすれば、もうそれである現象の説明がついたように思って議論をやめてしまいがちな、そういう言葉の一つのなのである」(p.142)と書かれている。使いやすくて意味的な根拠がなくなっても使い続けられる言葉を、ブランケット・タームと英語ではな言う。ブランケットというのは毛布だから、何でもくるんじゃうということ。大風呂敷というわけではないんだけれども、ポトラッチにはその恐れがあるということで、ホイジンガは注意を喚起している。P251
山口昌男「学問の春 <知と遊び>の10講義」(平凡社 2009)


ヨハン・ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」を通じて、人々とその暮らしを、そして万巻の書物を、学ぶことの愉しみを体感する講義録である。ホイジンガを起点にしながら、ヨセリン・デ・ヨングを中心にしたライデン学派、デュルケーム、モースを中心にするフランス社会学やレヴィ=ストロースなどを比較的に扱っていく。山口氏は、このような文化比較が、文化創造、解釈に繋がっていくと話す。

この講義の結びでは、われわれの世界がそうはならなかったもう一つのもの、もう一つの姿、オルタナティブな世界について、われわれが知覚を、情報をもつということの大切を説かれています。そこには「失われた世界の復権」というメッセージが込められており、未知のテーマに肉迫する学びのスタイル、あるいは知の迷宮での発見法的なさまよい方を教える姿勢が垣間見えた。

■参考リンク
読み出すと止まりません、山口昌男『学問の春』



■tabi後記
飛行機で五時間以内で行ける国の言語を一つくらいやっておくことと良いよ、というアドバイスをポロッと話せる人はそう多くないだろう。
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2009年08月28日

tabi0268 渡辺利夫「新 脱亜論」

東アジア共同体は夢物語か
東アジアはその統合度を一段と高めるために、二国間、多国間でFTA・EPAを積極的に展開し、この地域を舞台に自由化のための機能的制度のネットワークを重層的に張りつめるべきであろう。しかし東アジアの統合体はFTA・EPAという機能的制度構築を最終的目標とすべきであって、それを超えてはならない。共同体という「共通の家」の中に住まう諸条件をこの地域は大きく欠いており、また共同体形成の背後に中国の覇権主義が存在するとみなければならない以上、東アジア共同体は日本にとってはもとより、東アジア全体にとってまことに危険な道である。P286
渡辺利夫「新 脱亜論」 (文芸春秋 2008)

「不条理に満ちた国際権力世界を生き延びていくためには、利害を共有する国を友邦として同盟関係を構築し、集団的自衛の構えをもたなければ容易にその生存をまっとうできない。叶うことであれば同盟の相手は強力な軍事力と国際信義を重んじる海洋覇権国家であって欲しい。」これを渡辺氏がイギリスへ送ったラブレターとして読むのもよいが、このような感慨をもたざるを得なくなったことに注目したい。つまり「なぜアジアではないのか?」という問いへの応答である。

大雑把に言えば、渡辺氏は「EUのまねをして東アジア共同体をつくろうというのは幻想である」という主張をされている。そして、この主張を支える点として1.経済発展段階の相違,2.政治体勢の相違,3.安全保障枠組みの区々,4.日中韓の政治関係における緊張状態,5.中国の地域覇権主義の5つを上げている。

渡辺氏の思考前提には、西洋と東洋、ヨーロッパとアジアという従来の思索軸はない。梅棹忠夫氏の「文明の生態史観」によるユーラシア大陸中心部と大陸周辺部国家群という対比的分類を基礎にされている。「ヨーロッパ的普遍主義」に対して「アジア的特殊性」を対置し、後者によって前者を超克しようするパターンをとるのではなく、日本はむしろ「ヨーロッパ的普遍主義」の一員として国家戦略を立てたほうがよいというのが著者の結論である。

■参考リンク
「文明の生態史観」と東アジア共同体
【正論】「新脱亜論」で訴えたかったこと
池田信夫 blog
文明の生態史観



■tabi後記
「文明の生態史観」と東アジア共同体に渡辺氏の主張がまとめられている。
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2009年08月27日

tabi0265 マルセル・モース「贈与論」

我々は何を受領してしまったのか?(返報性の起源)
現在では、われわれは以前ほどポトラッチの存在に否定的ではなくなってきている。第一に、サモア島における契約的贈与体系は婚姻の時以外にも広がっている。それは、子供の出生、割礼、病気、娘の初潮、葬式、商取引に伴って現れる。第二に、いわゆるポトラッチの二つの本質的要素が確認されている。一つは、富が与える名誉や威信や「マナ」であり、もう一つは、贈与のお返しをすべきであるという要素である。返礼をしないと、このマナ、権威、お守り、そして権威そのものである富の源泉などを失う恐れがある。P30
マルセル・モース「贈与論」(筑摩書房 2009)

モースは、伝統社会においては「贈与」「受領」「返礼」の三つの義務が存在すると考えた。この3プロセスは伝統社会においてだけ見られるものではない。そのようにモースの研究は現代でも脈絡をもっている。

私が気になるのは「返報性の原理」が生まれた地点である。モースの理論を理論の拡大解釈をしてみるなら「受領」が生まれた場所である。恐らく、我々が贈与をしたことは「神」への返礼であったのだろう。

それは、生命が生まること、生きるだけの動植物、自然環境を受領してしまったからだろうが(原罪や業と云えるのか)。であるならば、なぜ「神」は宇宙を贈与したのだろうか。それは誰に対する返礼なのか、想像が働くところだ。

■参考リンク
池田信夫 blog
前回紹介したマルセル・モースの『贈与論』の続き
1205旅 マルセル・モース『贈与論』



■tabi後記
更に想像すると「神」が受領してしまったものは何か?になるだろうか。
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tabi0264 道元/懐奘「正法眼蔵随聞記」

只管打坐・止観駄坐
六ノ二十四 学道の最要は、坐禅これ第一なり
禅師の御教示。
悟りの道を学ぶ上で最も重要なのは、坐禅が第一である。大宋国の人が、多く悟りを得るのも、みな坐禅の力である。文字一つ知らず、学才もなく、愚かな鈍根の者でも、坐禅に専心すれば、長い年月産学した聡明な人にもまさって、出来あがるのだ。したがって、悟りの道を学ばんとする者は、ひたすら坐禅して、ほかのことに関わらぬようにせよ。仏祖の道は、ただ坐禅あるのみだ。ほかのことに、従ってはならぬのだ。P337
道元/懐奘「正法眼蔵随聞記」(講談社 2003)

この言葉に続いて懐奘(えじょう)は、禅師に坐禅と看語(古人の語録を読むこと)について問う箇所がある。それは、語録や公案を見ている場合、百千に一つくらいは会得できたと思われるときがあるが、坐禅にはそういったものが一切ない。それでも、坐禅を心掛ける方がよいのだろうか?という問いである。

それに対して道元禅師は、少し判ったような気がすることが、仏祖の道から遠ざかることなのだと教示される。人とおしゃべりせず、聾唖者のように、常に独り坐禅することを心がけることを強く説くのだ。

私は、只管打坐という言葉を、止観駄坐であると思っていたことがある。もはや坐ることもなく、万物流転のなるがままに世界を止観せよと受けとっていたのだ。

■参考リンク
懐奘 finalventの日記
426旅 懐奘『正法眼蔵随聞記』



■tabi後記
D・ロッシ「バフチン以後 <ポリフォニー>としての小説」を読んだ時に思ったのは、公案や問答をポリフォニーとして扱うことは可能か?という問いであった。本日、書庫籠り2日目である。
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2009年08月26日

tabi0262 湯谷昇羊「立石一真「できません」と云うな」

「しってます」と云うな
「こんなふうに、科学、技術、社会の間には二方向の相互関係があって、お互いが因となり果となって社会が変貌し、発展していくんや。つまり、サイクリック・エボリューション、円環論的なツー・ウェイの関係があって、常にサイクリックに流れている」
「何で人間だけが常にそういう新しい技術や商品、システムを求めて進歩を図ろうとするんですか」
「それはなあ、人間の一種の業や、常に進歩したいという意欲が元になってるんや」P244
湯谷昇羊「立石一真「できません」と云うな」(ダイヤモンド 2008)


人間を最も人間らしく遇する道は、その介在をなくすことのできない仕事だけを人間に残して、機械にできることは機械にやらせることである。これはサイバネティックス創始者ノーバート・ウィーナーの言葉である。オムロン(立石電機)創業者の立石一真は、この言葉を地で行なっていた。



ウィーナーの言葉を復誦するだけなら誰もが出来るが、立石氏はそれを事業として表現していった。そして、彼の行動と思考の連続によってSINIC理論というものが生まれた。SINIC理論(Seed-Innovation to Need-Impetus Cyclic Evolution)とは、立石氏が1970年国際未来学会で発表した未来予測理論で、科学と技術と社会の間には円環論的な関係があり、異なる2つの方向から相互にインパクトを与えあっているとする見方である。

m_pic_01.gif
未来を描く「SINIC理論」

ひとつの方向は、新しい科学が新しい技術を生み、それが社会へのインパクトとなって社会の変貌を促すというもので、もうひとつの方向は、逆に社会のニーズが新しい技術の開発を促し、それが新しい科学への期待となるというもの。この2つの方向が相関関係により、お互いが原因となり結果となって社会が発展していくという考えがSINIC理論である。

■参考リンク
教師が教わる生徒 - 書評 - 立石一真『できません」と云うな



■tabi後記
遅咲きの人を見ると、塩谷賢さんの話を思い浮かべる。茂木さんがブログで書かれていたことだ。ソクラテスより引用。

ボクは、塩谷と深夜の牛丼屋に
たどり着いて、本当にうれしかった。

塩谷には、57歳まで、
社会的身体をまとうことを
猶予してもいいよ。

「どうしてだい」と塩谷が
聞くから、
「カントが純粋理性批判を出版したのは
57歳」
と呪文のように答えた。
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2009年08月25日

tabi0259 高山宏「アリス狩り」

若い日の自分は本当に面白い他人
ヴィクトリア朝英国への総批判としてひっくり返っていくのも、遅れて来すぎたのか早く来すぎたのか、ともかく「人類の進歩と調和」の社会風潮に置き去りにされた男の、置き去りにされることによって初めてものが見えるようになる、その視のすごみと怨みが深く根づいているがためなのである。誰もが軽薄にしゃべり散らしている傍らで、キャロルはどもるよりなく、やがて赤面して黙りこむしかなかったが、それ故にこそ、「不具の肉体が、その不具性のゆえに他に先立って見なければならない肉体や社会のさまざまな背理や暴力を言葉として対象化するとき、リズムの音楽性によってかろうじて生の恐怖として堰を破ることを耐えているナンセンス詩」、見かけの数学的論理学的に潔癖な言語宇宙の皮膚の下に言わく言いがたい怨嗟と狂気のよじれを秘めた作品ー『アリス』ーを生んだのであった。P24
高山宏「アリス狩り」(青土社 2008)


超人の処女作が新版になっていた。高山氏の研究は、ルイス・キャロル「アリス」に始まり、メルヴィル「白鯨」へと発展していく。そして本書には、彼の学士論文、修士論文が収められているが、既にして超人の様相が垣間見える。

その様相とは、テキストから醸し出されるアイロニカルライフ(隘路似加流来歩)の臭気である。氏のように博物学的知性を持つものは、澁澤龍彦が言うように、イデアに生きず、イコンに生きてるいるように感じる。

言語やカタチの束によって紡げないことを誰よりも了解しながらも、その矛盾へ言葉やカタチ投企していく。直線的ではなく、円環的な振舞いであることを分りながらも尚、関係の糸を紡ぎ合っていく。

その地平において読み手は無事ではいられない。その行為を虚しい感じるとのか、「必死だなおい」と嘲笑するのか、隘路に活路を見出すのか、「そのまま」で居続けるのか、居直るのか。ここには、どうする「の」かを問う切迫性が内在されている。だがしかし、その切迫性に焦せる「の」はイマイチだと感じている。まずは「乗」っからないことだ。

■参考リンク
第四百四十二夜【0442】
■[書物]高山宏「アリス狩り」
あらゆる知がネットワーク状に連鎖する――高山宏さん



■tabi後記
もはや、何を書いているか分らないくらいが楽しいかもしれない。「江戸はネットワーク」ならぬ「シャレはネットワーク」。笑
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2009年08月24日

tabi0256 リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」

利今的な遺伝子
本書の全体を通じて私は、遺伝子を、意識をもつ目的志向的な存在と考えてはならないと強調してきた。しかし、遺伝子は、盲目的な自然淘汰のはたらきによって、あたかも目的をもって行動する存在であるかのように仕立てられている。そこで、ことばの節約という立場からは、目的意識を前提にした表現を遺伝子に当てはめてしまったほうが便利だというわけだった。たとえば、「遺伝子は、将来の遺伝子プールの中における自分のコピーの数を増やそうと努力している」と表現した場合、実際の意味は「われわれが自然界においてその効果を目にすることができる遺伝子は、将来の遺伝子プール中における自分の数を結果的に増加させることのできるような挙動を示す遺伝子だろう」ということなのだ。P303
リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」(紀伊國屋書店 2006)

ドーキンスは、進化論の誤解釈自然主義の誤謬について触れながら、自身の著作が何を意図していないかを述べている。この部分を読み過ごすと、「ドーキンスは、生物は遺伝子のためのサバイバル・マシンであるとみなした」という予断がかかってしまうのだ。

確かにドーキンスは、生物は遺伝子の乗り物(ヴィークル)にすぎないと言っている。そして、このキャッチフレーズが、人々の「ドーキンス像」にいくぶんかの「まやかし」が入ってしまったのだろう。盲目的にプログラムされているのはわれわれだけではなく、地上の生物のすべてであると彼は説明しているが、ドーキンスがこの本で一番説明したかったことは「協力はいかに進化したのか」ということなのである。遺伝子が利己的であることなど、ドーキンスにとっては当然すぎることだったのだろう。

ドーキンスは、第三版のまえがきに、「人生を生きるに値する温かさを、科学が奪い去ると言って非難するのは、途方もなく馬鹿げた間違いである」と言う。彼はその後に、こう説明する。

おそらく、宇宙の究極的な運命には目的など実際に存在しないだろうが、われわれのなかで誰であれ、人生の希望を宇宙の究極的な運命に託す人間など本当にいるのだろうか。もちろん、正気であれば、そんなことはしない。われわれの生活を支配しているのは、もっと身近で、温かく、人間的な、ありとあらゆる種類の野心や知覚である。
 
■参考リンク
第千六十九夜【1069】
分かりやすさという罠「利己的な遺伝子」



■tabi後記
ドーキンスを問いとして捉えるのは、本来の意図とずれるのであろう。問いとしてもつのなら、「あなたは一個の生命ですか?」になるのでしょう。
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tabi0254 鈴木大拙「東洋的な見方」

妙なるもの
東洋の人は、すべて何ごとを考えるにしても、生活そのものから、離れぬようにしている。生活そのものに、直接にあまり役立たぬ物事には、大した関心をもたぬのである。そうして、その生活というのは、いわゆる生活の物質的向上ではなくて、霊性的方面の向上である。
それゆえ、この方面を離れないように、物事を考えて進む。庭を作るにしても、何か心の休まるように、品性の高まるようにと構想を立てる。音楽を学ぶにしても、それがどれほど、その人の霊性的面に利することあるか否かと考える。絵をかくにしてもまた然りで、古人は胸に万感の書を収めておかぬと、ほんとうの絵はかけぬといった。美というものは、霊の面から見るべきで、単なる抽象的美をのみ云々すべきでないのである。P29-30
鈴木大拙「東洋的な見方」(岩波書店 1997)


「東洋的」という言葉を聞くと「西洋的」を想起しています。まず行なわなければいけないことは、この想起の基になっている「地理・風土」という分節単位を滅することであろう。大拙が用いる「東洋的」という言葉は、その実践であろう。彼が示したのは、人に内在する思考形式の1つの形である脱思考の現れである。

それが、大拙は世界の只なかで「無分別の分別」を説いたことになる。彼は、西洋世界に対しては、「分別ではない無分別の分別」を挙揚し、翻って伝統世界に対しては「無分別ではない、無分別の分別」と強調するのである。限りなく相反する概念の中で、のたうち回りながら、圧倒的な実在感を感得すること。それこそが「自由」であると、大拙は語る。

■参考リンク
275旅 『東洋的な見方』 鈴木大拙、上田閑照(編者)
半死半生というより六死四生
松岡正剛の千夜千冊『禅と日本文化』鈴木大拙



■tabi後記
ICCにてグループワークをした際に起点となったのは、参加者と切り離されたところでRTDやらないでよー、でした。RTDに気をとられるあまりにワークへ没頭できない不満。RTDに参加したいのに出来ない不満。この2つが出ましたが、これらはRTDへ主眼があてられすぎた余りに起きたのかもしれません。
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2009年08月23日

tabi0252 岩井寛「森田療法」

生の欲望こそ自由
「あるがまま」とは、事実をそのままの姿で認めるということである。たとえば、苦手な上司と面接をしなければならないときに、会って自分の構想をよりよく披瀝しようと考える一方で、あの上司は苦手だからなんとかその場を繕って逃げてしまいたいという考えも浮かぶ。これは両者ともに、その現実と直面している人間の欲望なのであって、一方では、苦しくても自己実現をしたいという欲望と、他方で、苦しいから逃避をしたいという欲望と、両者ともにその人に付随する人間性なのである。P13
岩井寛「森田療法」(講談社 1986)

神経質(症)者は、理想が高く、"完全欲へのあらわれ"が強いために、常に"かくあるべし"という理想的志向性と"かくある"という現実志向性が衝突してしまう。そして、その志向性が乖離するほど、不安、葛藤が強くなってしまうのだ。

森田療法はこのような状態に対して、心の不安を「異物」として除去しようとせず、そこに日常とのおおらかな連続性を容認するところを基礎とする。よく知られるフロイディズムとは、依って立つところが大きく異なる。

岩井氏の考え方は、森田療法にすべてに一致しているわけではないが、「あるがまま」の気持ちこそが不安の異常な増幅を解消しうるとする。"かくするしかない"という低きにつことする欲望を"そのまま"にして、もう一方の"かくありたい"という自己実現の欲望を止揚していこうとする欲望の方向性を考えるのである。

■参考リンク
Report 本に溺れて浮いてみる



■tabi後記
本書は、岩田氏が死の間際にいながら口述で完成したもの。終末に出てくる「生きることの自由とは、意味の実現に賭けることなんです。」という言葉の重さを感じる。

周りからは「無理をしないで辞めたほうがいい」という心配の声、「そこまでして名誉がほしいか」という非難の声があったようだ。しかし、どの言葉も岩田氏にとって「あるがまま」ではなかったのだろう。
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2009年08月22日

tabi0251 松岡正剛「神仏たちの秘密」

マレビトは目撃されるのか。
誰だって、好きなものがいろいろあります。きっと、たったひとつのジャンルのものを限定して好むということは、めったにないと思います。でも、「たくさん」という状態をそのまま保つことは案外難しくて、たいていそれらはジャンルというものに分けられて、「どういうジャンルの音楽が好きだ」とか「これこれのジャンルのアートが好きだ」といったところに追いやられていってしまう。
そこをそうしないで、なんとかもう一度述語化してみる。好きなものがあれば、それをさまざまに言い換えてみる。そこからもう一度主語に戻していったときに、今度は沢山の主語が騒然と立ちあらわれていくはずです。P83
松岡正剛「神仏たちの秘密」(春秋社 2008)


松岡氏は、日本には「アワセ・ソロイ・キソイ」という方法があると話します。「アワセ」(合わせ)は二つのものを合わせること、「ソロイ」(揃い)は合わせたものを揃えていくことをあらわします。さらにそこに比較がおこると「キソイ」(競い)になるのです。

この方法で大事なことは、最初に競争や闘いがあるのではなく、まず「アワセ」のための場があるということでしょう。逆に、「アワセ」がないと、場が成立しない。そこからキソイが生まれ、同型・同質ではなく、不揃いでありながらソロイ(揃い)をしていくのが日本流なのでしょう。

追記
本書収録の3回は、それぞれこんなタイトルで開催されたそうです。

第1講 笑ってもっとベイビー 無邪気にオン・マイ・マインド
第2講 住吉四所の御前には顔よき女體ぞおはします
第3講 重々帝網・融通無礙・山川草木・悉皆成仏

本書では、さらにそれぞれの回にサブタイトルがつけられています。こっちをみると、それぞれの回でどんな内容が話されたか、すこし想像できるようになってきます。

第1講 外来文化はどのようにフィルタリングされてきたか
第2講 日本にひそむ物語OSと東アジア世界との関係
第3講 仏教的世界観がもたらした「迅速な無常」

■参考リンク
シリーズ「連塾…方法日本」:『神仏たちの秘密』特集ページ|春秋社
松岡正剛の千夜千冊『てりむくり』立岩二郎
松岡正剛の千夜千冊『神々の猿』ベンチョン・ユー
連塾・方法日本1 神仏たちの秘密―日本の面影の源流を解く/松岡正剛
864旅 松岡正剛『神仏たちの秘密 日本の面影の源流を解く』
華厳の思想/鎌田茂雄



■tabi後記
無事NewRINGへの提出が終了した。
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2009年08月20日

tabi0250 高橋克己/松岡正剛「神秘と冗談」

神秘は降りぬことなく、傍らにあり。
松岡:なるほど。その「外にあるものと一緒に走ろうとする覚悟」ですか、それはすごくよくわかる。大切ですね。自分一人で自己瞑想の中で突進してしまうのではなくて、たまたまそこにあるモノたちや気配たちを伴って走る。決して簡単なことではないけれど、それができないとメディテーションという営為はふたたびフロイトの"エス"に戻ったりしてしまう。(中略)

高橋:場所から見離されてしまう。

松岡:まったくそういうことです。自身の心的瞑想状況が「場の濃度」としてスタートせずに、最初っから「場からの自立」になってしまう。いま、大変なヨーガ・ブームや密教ブームが押し寄せつつあるけれど、この「場との同時的伴走力」がだんだんと軽視されているようにおもう。今日の話のはじめの方でも出たけれど、いわゆる"サイキック・マスターベーション"に陥りかねない。P94-95
高橋克己/松岡正剛「神秘と冗談」(工作舍 1979)


笑いについて。本書を読みながら考えたのは、笑いは間に合わせであるということだ。一体何の間に合わせなのか。笑いは、ある人物(ヒトモノ)が、自らの内側(本質/実存/恥部・・)を外側に開いている(曝している)にもかかわらず、私は、その「内側のはかなさ」に答えられないでいる事態への応対、つまり、答えたい何かが裏返って表出してしまったもの。それが、笑いではないかと思うのだ。

アンドレ・ブルトンが「ナジャ」の最終行で「美は痙攣的なものであるにちがいない。さもなくば存在しないであろう」と語っているが、この表現には目眩はあるが、儚さが存在しない。しかし、人はブルトン以上の事が上手く言えないのだ。その時に起きるのが笑いではないか。「そうではなく・・・」の「・・・」が表出された結果であろうと考える。この文章が「神秘と冗談」に結びついているかは定かではない。



■tabi後記
アルファベット27文字で構成される宇宙に甚だ驚きをもつのだが、母語がもちあわせる表意+同音異義語という構成にも同様の驚きがある。そして、いささかの執着がある。
posted by アントレ at 20:54| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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