2009年08月17日

tabi0246 ジョン・エルキントン/パメラ・ハーティガン「クレイジーパワー」

Boys be Crazy
グローバル企業は今、影響力のある社会・環境起業家を血眼になって探している。なぜだろうか?理由はおもに三つある。一つ目は、マーケット情報を得るためだ(社会・環境起業家は、市場のリスクと機会を測る敏感なバロメーターとなる)。二つ目は、人材の維持と開発に役立つからだ(成功した起業家とともに仕事をさせることが、社員の定着率や能力開発の向上につながると考える企業が増えている。たとえば、大手コンサルティング会社のアクセンチュアなどがそうだ)。三つ目は、最近の世界経済フォーラム(ダボス会議)で、あるCEOが率直に言ったように、「人気のある人と協力していることを世間にアピールしたい」からだ。P21
ジョン・エルキントン/パメラ・ハーティガン「クレイジーパワー」(英治出版 2009)

本書は、劇作家のジョージ・バーナード・ショーの言葉から始まる。

「常識のある人は、自分を世間に合わせようとする。非常識な人は、世間を自分に合わせようとする。ゆえに非常識な人がいなければ、この世に進歩はありえない」

この言葉に従って、本書で取り上げる社会・環境起業家は「非常識」な人間ばかりだとしていく。その代表例として上がってくるのが、ムハマド・ユヌスである。

彼は、2006年にノーベル平和賞受賞であるが、数年前、自分を含めた社会起業家のことを「70%クレイジー」だと言ったという。実際、他の起業家の多くも、友人や家族にさえ「クレイジー」呼ばわりされている。クレイジーとは有能の裏返しだ。

彼らは、解決困難なことに(解決する事とも思われていないことに)ソリューションを模索し、見つけてくる。普通の人ならリスクの大きさに怖気づく状況の中で、成功と失敗という対義語はなく、両方とも学習であると考えるのだ。つまり、学ぶ人がいるか、学ばない人がいるか、その違いでしかないのだろう。起業家は、生まれながら起業家である。という言葉には、ウィルソン・ハーレルを彷彿させるものがあった。

■参考リンク
753旅その1 ジョン・エルキントンほか『クレイジーパワー』
753旅その2 ジョン・エルキントンほか『クレイジーパワー』
海外MBAの新しいマネジメント教育、志向性の潮流@WSJ



■tabi後記
久々に大学図書館へ行ってくる。僕が借りようとする本の書庫率が増してきた。開架で借りれるような書籍を選んでいるようじゃ「まだまだ」なのかもしれないなあ。
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2009年08月16日

tabi0245 松岡正剛「日本流―なぜカナリヤは歌を忘れたか」

多様の一途、一途の多様な国のこと
ようするに、ひとつのものから二つの相反するものや相対するものが出ているのです。いわば「一」から「一、一」が出ているのです。これはまさに日本流です。
(中略)
こうした一対の発想を進めるにあたって最初にヒントになったのは、私の母の学校の先生であった美術史家の源豊宗さんと親しく話せるようになったときに、「あはれ」と「あっぱれ」というのは公家と武家とが一対であるように、もともとは一対の言葉なんだよということを教えられたことです。
ここから先は一瀉千里というほどではないですが、次々に日本にひそむ一対が見えてきた。人々の生活にさえ「ハレとケ」があったということ、文字には「真名と仮名」があったということ、宮廷建築には「唐様の朝堂院と和様の清涼殿」があったということ、こういうことがやっと目の前を横切りはじめたのです。P234
松岡正剛「日本流―なぜカナリヤは歌を忘れたか」(朝日新聞社 2000)

まず、日本は多民族国家であり、大きく分けて空間的には東西二つの(あるいは琉球、アイヌも含めて四つの)文化圏と、時間的には縄文、弥生、古墳、平安、鎌倉・・・などの文化が複合的に組み合わさった立体的な文化の座標軸があり、その上をネットワーカーと呼ばれる、例えば出家者・遁世者、職人・芸能者などの遍歴民、遊行者などが動き回ったことで文化が混ざり合って出来ているという考察がある。

この考察に基づいた上で、日本における「多様の一途、一途の多様」と称する姿が起ち現れてきたようだ。松岡氏が、一対の構図を捉えた契機、「この一対を生み出す元々の分光器は何のなのか?」という問いをもちはじめた起点が記されている。その問いに対する思考は、「遊行の博物学―主と客の構造」でみてとれる。

「序章 歌を忘れたカナリヤ」で参照されている童謡






■参考リンク
Kousyoublog



■tabi後記
代々木公園で「新たなプロボラの形を提案する」というグループワークを催してきた。出会い系にインセンティブを求めるプランが多かったが、いくつかのアイデアは思考を刺激するものとして参考になった。個人的には、もう少し準備しておけば良かったなあと。
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tabi0244 道元「典座教訓・赴粥飯法」

食の根拠を問うていくこと。
十五 五つの瞑想

遍槌を聞くを候ち、合掌し揖食して、次に五観を作す。
一つには、功の多少を計り彼の来処を量る。
二つには、己が徳行の全欠をはかって、供に応ず。
三つには、心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。
四には、正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんが為なり。
五には、成道を為の故に、今此の食を受く。P193
道元「典座教訓・赴粥飯法」(講談社 1991)

訳文:

食事が全員にいきわたった合図の遍食槌が聞こえたら、合掌し、食事に対して頭を下げ、次に五つの事柄について心にえがき反省する。

一つに、目前に置かれた食事ができ上がってくるまでの手数のいかに多いかを考え、それぞれの材料がここまできた経路を考えてみよう。

二つに、この食事を受けることは、数多くの人々の供養を受けることにほかならないが、自分はその供養を受けるに足るだけの正しい行いができているかどうかを反省して供養を受けよう。

三つに、常日ごろ、迷いの心が起きないように、また過ちを犯さないように心掛けるが、その際に貪りの心、怒りの心、道理をわきまえぬ心の三つを根本として考える。食事の場においても同様である。

四つに、こうして食事を頂くことは、とりもなおさず良薬を頂くことであり、それはこの身が痩せ衰えるのを防ぐためである。

五つに、今こうやって食事を頂くのには、仏道を成就するという大きな目標があるのである。

以上が、引用文の訳(P194)である。

近藤正晃ジェームスさんのインタビューを聞き直すと、精進料理の話しが出てくる。近藤さんは、学生時代の座禅体験が食への意識を問いなおす契機になったという。

そこで問われた事は、

・あなたのために植物を殺してきました。
・この植物が喜んであなたに命を捧げたいと思うことをしていますか?
・もしそれだけの価値を出しているなら、堂々とお食べ下さい。
・ところ、あなたは、他の命の食べ物になる気はありますか?
・肉を食べたいなら、せめて自分で殺して下さい。

というものであった。これは本書の内容に通じる内容である。

私は、ベジタリアンでも、マクロビオティックの実践者でもないが、周囲がそのように変化してきていることをヒシヒシと感じる。「食」への態度を確立することは、生命哲学を持論化することと類似するのだろう。もちろん、哲学を重苦しく考えずに、単純に実践している人こそが、長続きするのかもしれません。

食事五観之偈
gokannoge.jpg
過を離るることは貪等を宗とす

■参考リンク
tabi0126 南直哉「日常生活のなかの禅―修行のすすめ」
新社会人が読んどけと思う本のリスト
風を待ちながら・・・



■tabi後記
Twitterでつぶやきをすると「朝トモ」がいることに気がつく。AM4-5時に起きている人は、意外といるみたいだ。
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2009年08月15日

tabi0242 W・チャン・キム/レネ・モボルニュ「ブルー・オーシャン戦略」

Shape!Shape!!Shape!!!
差別化と低コストのトレードオフを解消して、価値曲線を刷新するためには、次のような四つの問いを通して、業界のこれまでの戦略ロジックやビジネスモデルに挑むとよい。
●Q1 業界常識として製品やサービスに備わっている要素のうち、取り除くべきものは何か
●Q2 業界標準と比べて思いきり減らすべき要素は何か
●Q3 業界標準と比べて大胆に増やすべき要素は何か
●Q4 業界標準でこれまで提供されていない、今後付け加えるべき要素は何か P51
W・チャン・キム/レネ・モボルニュ「ブルー・オーシャン戦略」(ランダムハウス講談社2005)

ブルーオーシャン戦略(バリュー・イノベーション)を実現するためには「低コスト」と「差別化」が同時に実現することが大切になる。

ピクチャ 1.png
BOS Concepts, Tools & Frameworks

それを実現するためのフレームワークとして「戦略キャンパス」、「四つのアクション」、「6つのパス」が用意されている。引用で取り上げた「四つのアクション」は、仕組みはモノやサービスに対して、

1. すっかり取り除く要因は何か?(Eliminate )
2. 大胆に減らす要因は何か?(Reduce)
3. 大胆に増やす要因は何か?(Raise)
4. 新たに付け加える要因は何か?(Create)

という問いをもつことが、戦略キャンバスを描く上での助けになります。

ピクチャ 3.png
BOS Concepts, Tools & Frameworks

人は、青い鳥と青い海を求めて旅立っていくのだろうか。コップ一杯のインクを海にたらし、均一になるよう海をかきまぜて、海の水をコップ一杯取り出したときに、もとのインクの分子は何個コップに入っているだろうか?という問いがある。

この比喩を青い海にも適応してみよう。青い海には、赤いインクが入ってくる。それは、気づかぬ内に一滴ずつ入ってくるのだろう。その気配を察知するためには、海の水をかきまぜ続けることと、海を泳ぐの止め、コップを取り出し、海を掬うことが大切になってくる。ここで考えられたのは、変化と止観という相矛盾する2つの視点である。

■参考リンク
戦略的コスト構造を武器に
不況は起業に有利か?/哲学的起業家の可能性
ブルーオーシャン戦略の4つのアクション
厳選書評ブログ



■tabi後記
午前は上野公園、午後は清澄庭園でお話をする。合間合間に溜まっていた物事をこなすことができた。TODOリストは、HAVE TO DOリストではなくWANT TO DOリストとしてこなしくのが大事。
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2009年08月14日

tabi0241 松岡正剛 「遊行の博物学―主と客の構造」

風のスサビ(荒び/遊び)。凝固と気化を反復するように。
私が本書のそこかしこで考えてみたかったことは、こうした主客の構造が、日本においてはしばしば反転や転移、あるいはソラリゼーションをおこしているということである。それは「手前」という自分をあらわす卑下した言葉が、急に語調を荒げた「てめえ!」という相手をあらわす言葉になってしまうという、この日本人ならたいがいが知っている逆転用法に顕著にあらわれている。あるいは、先にのべたような大事な客が来ると、自分の席をゆずって勧めるという行為によくあらわれている。P409
松岡正剛 「遊行の博物学―主と客の構造」(春秋社 2000)

本書は、遊びやスサビの奥にウツという考えがあること。それが現実になって、うつろっていくことに注目しています。

「アソビ」というものの奥には「スサビ」(遊び→荒び)があり、「スサビ」が「アソビ」をつくって日本を動かしたという点がユニークです。さらにそのアソビが「数寄(スキ)」という考えへウツっていくことを示唆しています。

また、さまざまなところにムスビをつくり、そのムスビ同士を結んで全体として動いていたことを「中世ネットワーク社会=贈与経済」と記している箇所は、現代へのアナロジーとして捉えられることも多いと思います。

このような思考を辿るにつれて、人々はそういった文化を持ちながら、頭巾をかぶり、杖を持ち、箱を持ち、そして江戸社会になれば印籠を持って動いていたのか?と問うようになった。

いやむしろ、ここにはコトバの用法を考える必要があるのかもしれない。◯◯風や風土,風味,風俗は、文化を規定するコトバとして用いられているが、「風のようにウツろいゆくこと」自体を捉えるのは如何にして可能なのか。

ウツ(ウツツ/ウツロウ)をウツワ(コトバ)へ入れるというより、ウツがウツワへ隠れてゆく、逃げてゆくプロセスとして捉えながら、問うていくのが気分的に良い。

■参考リンク
[第10談]「ここから日本文化論が出遊する−本書の位置と意味」
[第11談]「遊行を語るマルチメディアへ−本のかたちを手法とアイテムで超えていく」
遊から遊へ



■tabi後記
以前から企画されていた、安斎ゼミ秋月電子通商フィールドワークが実行されることになった。メイドカフェへのフィールドワークも行なわれようなので、楽しみにしている。
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2009年08月13日

tabi0240 杉浦康平 「文字の美・文字の力」

人々が気づかぬ場所にひっそりと現れ、棲みつく文字
いま、多くの文字は、パソコン、携帯メールやTVの画面…などの中に収まり、書くものから見るものへ変わりつつあります。
だが文字は昔から、書いたり刻んだりして記すもの、「身体を動かして生み出す」ものでした。漢字は象形文字だと言われますが、その成立過程を考えてみても、自然の風景を写しとる、動物の姿を書き記す、人間のたたずまいを表現する…といった身体的な行為が文字のかたちの背景に潜み、文字に生気をあたえています。
(中略)
もう一つ、文字にとって大事なことは、「声の乗り物」だということです。ただ単に目で見るだけでなく、人間の音声をも写しとるものでありました。
文字は黙っていない。叫びを発しています。P4
杉浦康平 「文字の美・文字の力」(誠文堂新光社 2008)

手足をのばし、声をのせて踊り出す文字。

呪力あふれ、霊気をはなつ文字。

本書は、思いがけないふるまいで、眼に見えない力をたぐりよせ、日々の暮らしを活気づける文字たちの、予想をこえた変幻の妙、魅惑にみちた姿・形に眼をこらしていく。

私は、キーボードの上にある指を左右上下に動かすことによって、大半の文字を生み出している。近年は、全くもって形/サイズが身体次第の文字を生み出せていていない。

もちろん、その状態を問題であると言うのは易しい。その問題だと思ってしまったことを「伝統」帰りの論理に用いるのではなく「伝統」を創るための論理として思索していきたい。

豊穣を生む「山水」の絵文字 芹沢_介
IMG_0301.JPG

いのち宿る墨汁の「心」字
IMG_0302.JPG

sugiura-moji.jpg
idea-mag.com

■参考リンク
それでも、デザインの核は装飾である。
生きた文字が溢れている
芹沢_介の文字絵・讃/杉浦康平
杉浦康平先生のトークショウ「壽字爛漫(じゅじらんまん)に行ってきたよ



■tabi後記
識が熟し爆発しそうである。この動力をもちいながら、様々なことへ決断をくだしていこうと思う。
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2009年08月12日

tabi0238 トム・ケリー 「発想する会社!」

ブレスト。それは、礼拝のように。
「あなたがたはブレインストーミングをしていますか?」という質問に「イエス」と答える人の目には、「そんなことはとっくにやっている」と言わんばかりの独りよがりが見てとれる。実際、ビジネス・コンサルティング会社のアーサー・アンダーセンによる最新の調査では、七◯パーセント以上のビジネスマンが自分の組織でブレインストーミングを活用していると答えている。
(中略)
同じアーサー・アンダーセンの調査で、ブレインストーミングをしていると答えた人の七六パーセントが、回数が多くても月一回だと認めている。多くても月一回。私は映画ファンを自認していて、たいてい年に三◯本から四◯本の映画を映画館で観る(そして同じくらいの数をビデオで観る)が、それが多くても月に一本になったら、以前は映画ファンだったと言わなければならないだろう。
トム・ケリー 「発想する会社!」(早川書房 2002)


・その場所から飛び出して、市場、顧客、製品を観察しよう!

・狂ったようにブレインストーミングをしよう!

・山のようにプロトタイプをつくろう!

これが本書のメッセージである。

IDEOで日々行われているという「観察」「ブレインストーミング」「プロトタイプづくり」は、個人間の知識移転を促進させ、暗黙知の広がりを可能にするのでしょう。そこからイノベーションが生まれてくる。核となる3つの手法の中で、「ブレインストーミング」における秘訣と落とし穴を列挙しておこう。

■よりよいブレインストーミングのための7つの秘訣

1. 焦点を明確にする
2. 遊び心のあるルール
3. アイデアを数える
4. 力を蓄積し、ジャンプする
5. 場所は記憶を呼び覚ます
6. 精神の筋肉をストレッチする
7. 身体を使う

■ブレインストーミングを台無しにする6つの落とし穴

1. 上司が最初に発言する
2. 全員に必ず順番がまわってくる
3. エキスパート以外立入禁止
4. 社外で行う
5. ばかげたものを否定する
6. すべてを書きとめる

これらはどれも当たり前のことで、なんら特別なルールがあるわけではない。そう、大切なのは、方法論でなく回数なのだ。IDEOでは「ほぼ宗教みたいなもので、ほぼ毎日、礼拝のように」行われている。創造性は、日常の連続から生まれてくるものであって、そのための習慣・雰囲気・空間を組織が担う必要があるのだろう。

060807_kelley4.jpg
IDEOで使われている、イノベーションを起こすためのステップは、理解、観察、視覚化、評価と改良、実現の5つからなる。

■参考リンク
100%のなかの確率を高めるのではない。その外の世界を発見するのがイノベーション
ユーザーに尋ねても必ずしも正しい答えは返ってこない
IDEOが教える「イノベーションを生む秘けつ」



■tabi後記
開高健「人とこの世界」が文庫化されたので、久しぶりに手にとってみた。もし、本書を読まなかったら、広津和郎,大岡昇平,武田泰淳,きだみのる,金子光晴,今西錦司といった方々と向き合うことはなかったんだろう。

本書は「対談→作品論→人物」という型が3,4回転して1対話の構成になっているため、不思議な読書体験ができます。ちなみに、開高さんは父方の実家近く(井荻)に住んでいました。
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2009年08月11日

tabi0235 鈴木一誌「ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン」

書体、文字、ページのむこうにいる「あなた」
ひとつずつの活字を拾うことで行になり、行が集まってページとなる。ページが累積して書物ができる。この過程を、ページネーションと言う。ページネーションとは、本の一ページを生み出していく行為でありつつ、同時にページ相互の連続性を誕生させていくことだ。
(中略)
ページは、相互にあらわれとして共通したものをもっていなければ、視覚的な連続性を読者に伝えれない。また、何時をもって一行とするか、行がどのような書体によって形成されるのか、行と行のあいだの余白はどのくらいかなど、ページを発生させるルールが必要となる。そのルールの束をフォーマットと呼んでおく。
(中略)
垂直に累積するばかりでなくズレながら水平にも伝播していくページのフォーマットは、われわれを何重にもとり巻いている文字やことばと干渉しあい、われわれの生活環境そのものとなっているにちがいない。P9-10
鈴木一誌「ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン」(青土社 2002)


鈴木氏は、デザインは、ときには「情報を公開する技術」をあつかうのではなく、つねに「情報を公開する技術」なのだろう。と語りながら、デザインが既に隠してしていることがあることも認める。テクストが裸の状態で提示されることは滅多にないからだ。

デザインが見る者の行動に関与しているという意味での政治性は、すでに発動している。その事態をあらためて対象とすることでしか、つまりは対抗的にしかデザインは政治性を取りもどせないことを深く自覚しているのだ。このような自覚から、最大の観察対象となるの自分を思索していくのである。

書体、文字、余白、ページ、装幀のむこうがわにいる「あなた」とこちらがわにいる「あなた」、それを取り持つデザイナーは開かれたデザインをしながらも、閉じられたデザインをする。このアンビバレンスな存在であり続けるには、深い哲学が必要であろう。本書では、その一端を垣間みることが出来る。

■参考リンク
文字の官能性、書物としての身体
デザイン:情報を公開する技術
解釈を代行するのが道具



■tabi後記
「身体」や「他者」という言葉に重きをおきすぎる時流には乗りたくない。
posted by アントレ at 09:53| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0234 藤井直慶「つながる脳」

我慢の表と我慢の裏が社会をつくる
それでは、強いサルから弱いサルに移行したときに発現される機能とは何でしょう。それは今回の実験の見えてきた通り、行動の「抑制」であると僕は考えます。強いサルに対して、自己の欲求を抑制することが彼らの行動から私たちが見ることができる最大の変化です。ということは、抑制の形をとって表現される弱いサルの行動は、非言語的なメッセージとして私たちが理解できるように、強いサルにも間違いなく伝わっているはずです。つまり、抑制というものが社会性の根本にあるのではないかというのが、この実験を通じて到達した僕の考えです。P128
藤井直慶「つながる脳」(NTT出版 2009)

「それで安心した」
「何が安心したんだ」
「結論が常識に一致したからさ」

一読後、小林秀雄「常識」の会話を思いだした。

抑制(我慢)が社会性の本質であるというメッセージに驚きを持つ者は多くないだろう。この常識から推論できることは、社会契約の合理性(我慢の表)とそれに伴う革命の論理(我慢の裏)である。

「リヴァイアサン」に見られるように、自分も他人も自己保存権を優先するという現実を認識したからこそ、それを調停するための社会契約がつくられた。人は、競争や憎悪や対立や摩擦や侵犯を積極的に予防するために我慢をしたのである。それが社会性という名をもったのである。

一方で、我慢に裏がある。我慢を消極的予防(保留)とするのが革命の論理である。我慢の背後に、社会の安定は実は下が決めているという心が含まれているのだ。

下位のサルは常に上のサルに従っているのではなくて、相手の力を常に観察し、隙があれば上手く上のサルの餌をちょろまかす。このような生物としての図太さが、革命の論理になっているのだろう。

■参考リンク
勢川びきのX記:4コマブログ
下位の「したたかさ力」



■tabi後記
天気/天災を意識的に感じられる期間は、人にいかなる影響を及ぼしているのだろうか。実家のマンションは11Fであるが、昨年に耐震工事が行なわれたので、以前よりも強い揺れを感じない・・。
posted by アントレ at 08:18| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月10日

tabi0233 松岡正剛「17歳のための世界と日本の見方」

トレース・クリエイターとしての編集者
そのままではいっしょにしにくいものや、それまで誰も関係があると思っていなかった現象や情報に、新しい関係性を発見をしたり、もう一つ別な情報を加えることによって関係線を結んでいく。新たな対角線や折れ線を見つけていく。このときに、編集工学が大事にしているのが「方法の自由」ということなんですね。方法を自由自在に使うことで、どんな大胆な編集をすることもできる。それは、この講義の最初でのべた「関係の発見」ということです。P310
松岡正剛「17歳のための世界と日本の見方」(春秋社 2008)

本書には数多くの編集者があらわれる、その編集者自体を編集することによって、我々は「見方」というものを体験的に獲得していくように構成されている。

紀元前6世紀から5世紀にかけた宗教編集者、三位一体の編集者、ミクロコスモスとマクロコスモスを並走させたバロック時代の編集者、関係性自体を具象化する編集者・・。松岡氏が用いる「編集」という概念は多義に及ぶ。このような状態にある概念を、厳密性という名の下に評価することは容易い。

深沢直人氏が、「すばらしいものはもう過去に達成されていると思います。すべて完璧に達成されてしまっている。」と語っていることを思い出すにつれ、私たちは過去を完全にトレースすることすらも出来なくなってきたと考えてしまう。

このような事態は、職人技法が語られる際によく取り上げられるテーマだ。僕がテーマとしたいのは、もっと生活的なこと、かつ非生活的なこと。五感や運動や喜怒哀楽といったものから、論理・情理の構成や感動・畏敬の対象といったことである。私は三浦梅園のような思考表現・編集方法がしっくりきそうだ。

■参考リンク
まずはテーブルに載せてみなけりゃはじまらない!
17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義/松岡正剛
146旅 『17歳のための世界と日本の見方』 松岡正剛
ワニの脳とネズミの脳と



■tabi後記
amzonから本が届くまでに「読みたい」気持ちがなくなってしまう。奇跡的に立ち会われた「欲」が喪失してしまうことを、「読みの保留」というコンセプトで認めていたが、この欲を救済するコンセプトも必要であると感じている。方法的に解決したい。
posted by アントレ at 19:26| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0231 ジャック・ワース「売り込まなくても売れる! 」

最高の営業は、生涯の付き合いとなる出会いとなること
サム:セールスが「説得」でないなら、いったい何なのでしょう?
VP:見込み客と《合意を重ねていく》のがセールスなのだよ。見込み客というのは、まず商品に対するニーズがあり、商品を希望し、資金があり、こちらが【満足条件】を満たせば一定の時間で購入契約をする意志のある相手のことだ。P45

われわれは反論の「処理」はしない。【高確率セールス】の環境では、買い手はセールスパーソンとの《合意に達するプロセス》の途中にいるのであって、無理に勧めれられたら抵抗しようと身構えているわけではない。「反論」は、買わない理由や言い訳になって表面化するのではない。検討し、話し合い、交渉すべき課題として出てくるのだ。P54
ジャック・ワース「売り込まなくても売れる! 」(フォレスト出版 2002)

■セールスは売り込みではない
この一言が世に通じれば、どれだけ素晴らしくなるだろう。そもそも、「売ろう」とし過ぎることはセールスではないというメッセージから本書は始まる。

■プロセス全体がクロージング
そして、セールスは客に買わせることではなく、双方向のビジネスの下地があるかを見ることである。満足条件を満たすためのヒアリングを行なうプロセス全体がクロージングになるのであり、それが満たされれば相手からYESという声を引き出せる。

■顧客志向は、顧客の意図を裏切ることも包含する
そのためには、相手のニーズを引き出す必要があるだろう。良く言われる例えであるが、顧客はドリルではなくドリルの穴がほしいのだ。大切なのは、ウォンツを見ずに、ニーズを捉えるということ。

■顧客は良い提案が欲しい。私は良い提案がしたい。その下地を築くこと。
「今回○○なわけですが、いまの××に何かお悩みでもおありですか?」 という質問からニーズ探索の旅ははじまっていく。

決して表面的なウォンツに食らいついてはいけない。顧客の成功に貢献するための本質的な経営課題を抽出する必要があるのだ。そのためには憚らずに理想(満足条件)を聞こう。

「良いご提案をさせて頂くために、○○のことをいくつかおうかがいしてもよろしいですか?」

「今回○○なわけですが、どのような××になれば、ご満足にほんの少しでも近づきますか?」

顧客は良い提案が欲しい。私は良い提案がしたい。その下地を築くことである。

■「良いものがわかるあなた」のために、顧客は何でも話してくれる
ヒアリングを許可をとることの裏には「私は良いものが分かる人間である。」という社会的証明が隠れたメッセージとなっている。

ヒアリングが承認されるなら、何を聞いてもいい。聴きにくいことでも何でも。「良いものがわかるあなた」のために、顧客は気づかずうちに普段なら答えないことでも聞かれると答えてしまう。

■顧客のために影に隠れるキーマンを特定せよ
満足条件が確認され、その条件にあなたが貢献出来ることが明らかになったとしよう。しかし、そこでセールスは終わらない。影に隠れるキーマンを特定する必要があるからだ。

「お客様が、この人の意見も尊重した方がいいと思われる方は、他にいらっしゃいませんか?」

という質問が大切である。

この問いで相手に「失礼」なく、キーマンを特定できる。セールスは、ヒアリングしたこと(満足条件)にズレがないかを「確認」していくプロセスである。その中で、安心感は形成されていく。

■再現性のある教え
人間は、自分の話を聞いて貰うだけで満足はしていない。それが本当に伝わったか、それが本当に共感されているか、行動レベルで落とせているかが確認できて、満足をする。

その作業を怠って、信頼関係を手に入れるのは難しい。人間的な魅力や説得の話術で信頼関係が手に入ることもあるが、それは仕組みではなく才能と個性であり、普遍的なものではない。再現性を確保した教えを頂いた。



■tabi後記
昨日参加させて頂いた李英俊さんの「セールスプロフェッショナル講座」の内容をブレンドしながら書評をしました。
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2009年08月08日

tabi0229 樫尾直樹「スピリチュアリティを生きる」

開花する明日の能力が文化をつくる
中牧:やっぱり上田さんのやってることは教育じゃない。
上田:何なんでしょうね。
中牧:梅棹忠夫先生のテーゼのひとつに、「教育はチャージで、文化はディスチャージである」というのがある。これまでの議論はその線に沿ってもいたわけですが、上田さんが考え、実践していることは、教育の現場にいるから、教育と間違いやすいけど、まぎれもなくクリエイティブな文化活動ですよ。
上田:なるほどクリエイティブな文化活動か。僕はポエティックス・オブ・ラーニングというか「学びをつくる」っていう言い方がわりと好きなんです。共につくっていくという共同性、楽しい仲間といっしょに、わいわいがやがや言いながらつくっていくというプレイフルな姿勢、これですね。
中牧:それこそ文化の創造ですよ。過去の出来事や伝統をたたき込むのとわけがちがう。
P101
樫尾直樹「スピリチュアリティを生きる」(せりか書房 2002)


本書内「スピリチュアルな場をつくる」の「プレイフル/ピースフルからスピリチュアルへ」という対談から引用しました。

教育という言葉は、「目指すべき姿と現状の姿にギャップを見出し、それを埋める手段である」と考えられることが多いだろう。しかし、そもそも目指すべき姿が教育者に見えていることは少ない。たとえ、見えていたとしても、それを教えるのは教育の使命だろうか?

Jean Piagetは「教育の使命は、子どもから創造者をつくることにあるので、世の中に適合して、よろしくやっていく人間をつくることにあるのではない。そのためには、子どもに教えてしまってはならない。子どもが自分で考え、自分でつくっていくように助けるべきである。」と語っている。

私は学習者に「もう教えられたくない!自分で学ぶ!」という気持ちをつくるために、「あえて教えにいく」という自己撞着な態度をもつことこそが教育者の姿勢だろうと考えている。学びたいだけではたりず、学び合いの促進や、学びほぐしの仕立てなども大切であろう。このように、問いは深まるばかりである。

■参考リンク
私のワークショップ未来図
上田信行 インタビュー 教育って、面白くていいんだ!
上田信行先生の「プレイフルシンキング」を読んだ!



■tabi後記
昨日、東京大学総合研究博物館で行なわれている「鉄 - 137億年の宇宙誌」にいってきた。入口には、「そもそも鉄という元素が、いかにして誕生したのか?」という問いがある。地球の重量の1/3は鉄。それならば「地球は鉄の惑星」と名づけてみるのはどうだろう?と提案してくるのだ。このような小粋さがあった。
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2009年08月07日

tabi0228 池田洋一郎「ハーバードケネディスクールからのメッセージ」

ボランティアをOJT研修/CSRと最解釈したビジネス
営利と非営利の垣根をまたいでNPOと企業をつなぎ、双方の強みを活かし、弱みをサポートし合いながら相乗効果を発揮する手助けをしながら恊働へと導いていく、そんな「触媒(Catalyst)」の役割を果たすプレーヤーが必要であり、それが僕のPAEのクライアントとなったコモン・インパクトなのだ。具体的には、

・潜在力はあるけれどスキルのある人材(とそういう人を雇うお金)が足りないためマネジメントの問題に直面しているNPO

・企業経営と社会の両方に実質的なインパクトを与えるCSR活動に取り組もうと考えているが具体的なアイディアが浮かばず悩んでいる大企業

という二つのプレーヤーとの間に、「Skill based volunteering(スキル・ボランティア)」という架け橋をかけてマッチングするというサービスを展開している。P295
池田洋一郎「ハーバードケネディスクールからのメッセージ」(英治出版 2009)


彼のブログを始まりから終わりまで付き合っていた私は、本書をブログ読者の延長として楽しませてもらった。

今回取り上げるのは、Skill based volunteeringである。この考え方は、Probono,Professional Volunteer,Service Grantとも称されている。

私がこのコンセプトを知ったのはコンサルティング会社のプロボノ活動であった。しかし、プロボノを研修/CSRとして再解釈してプロボノの規模を増加される流れを知ったのは、このブログを通じてだった。

プロボノは、ロールとセルフのつながりをつくっていると思う。ロールはビジネスパーソンという仮面であり、ビジネススキルという提供技術だ。そのロールが、セルフ、一人の人間として捉えられることによって、原初的な承認欲求が満たされるのだろう。

本書にも「自分の持っているスキルが社会の中でこんなに役に立つものと知らなかった"ありがとう"と人から感謝されることがこんなにすばらしいものだとは、長年その感覚を味わっていなかった。」と描かれている。

この欲求は、バックオフィスなどのストレスフルな環境下にいる方に潜在しているのではと思う。ストレッチされた環境下では、多くのスキルが身につけると思うが、スキルを得て、「成長」した後が問題となってくる。そのスキルの宛先が中々見えないのである。

それは、顧客から直接感謝の欠如や、高度専門人材が周囲にいることによる相対的な劣等感があるためだろう。こういった環境下での不満足観が、自分自身にも及んでしまうのがメンタルヘルスなのだろう。

プロボノを行なう組織は、たいてい小さい。そういった場所では、オーナーシップをもって仕事をしなくていけない。また社外に出ていく事は、リフレクションを行なう絶好の時間なのだろう。

■参考リンク
全ての官僚の皆様に読んでもらいたい本
Key Considerations for Launching a Skills-Based Volunteer Program
PDF:Skills-based volunteerism at Deloitte
PDF:Skills-based Volunteerism Presented by: Juliana Deans–Deloitte



■tabi後記
国立西洋美術館にいってきた。何がすごかったかというと、ロダンとカリエールに壮絶したこと。そして、そして2人が繋がっていたこと。この心情は、関連書籍を読む中で記していきたい。

ロダンは、既知から未知へという驚きだった。まあ、これは良くある。しかし、カリエールはスゴい。これは何だろう。もうドカンと稲妻がおちてくるような感じだった。というよりも、稲妻をつくった自分に驚いた自分という思いだった。
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tabi0226 ニコラス・P・サリバン「グラミンフォンという軌跡」

ベーシックライツ・ベーシックニーズ
ある日、コンピュータのネットワークがつながらなくなって困っていたカディーアの胸に、ふとバングラディッシュの田舎にある祖父の家の記憶がよみがえってきた。戦争を逃れてひっそりと暮らした村の記憶だ。電話がなかったので、弟の薬を探すため一日かけて10キロの道を歩いたことがあった。ところが薬局に行ってみると、薬剤師は薬を入手するために村を離れており不在だった。なんというムダだ。カディーアはマンハッタンのオフィスで数時間仕事ができなかっただけで、イライラした。だがバングラディッシュは、アレクサンダー・グラハム・ベルが電話を発明して以来ずっと、電話によるコミュニケーションができず骨抜きになっている。
「私は、<つながること>はすなわち生産性なのだと気付いた。それが最新のオフィスであろうと、発展途上国の村であろうと」P42
ニコラス・P・サリバン「グラミンフォンという軌跡」(英治出版 2007)

私は、グラミン・グループが単に貧困を解消する組織とはとらえていない。グラミンフォンをはじめとする企業によって「貧困解消」が行なわれる可能性はあるだろうが、私が興味をもつのはそこではない。途上国と呼ばれる国に住む人々が、モバイルバンキング、モバイルコマースという地点から技術的な生活を送っていることに興味がある。

これからバングラディッシュは、技術的には先進国、生活的には途上国という状態が続いていくだろう。私は、このような時代に生きている・生きてしまう人間が何を考えるているかを対話してみたかった。

■参考リンク
書評『グラミンフォンという奇跡』
グラミンフォンが営利事業として成立する理由
愛の手より種籾 - 書評 - グラミンフォンという奇跡



■tabi後記
僕がバングラディッシュで問いたかったことは、すでに退屈時代における遊びとして問われていた。問いは深まっていく。
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2009年08月06日

tabi0223 飯田美樹 「caf´eから時代は創られる」

カフェ。それは、才にきづき、才をのばし、才がひらく場所。
カフェに出会い、人生が開けていく以前の彼らは決して「天才」と呼ばれるほどの人物ではなく、まだまだ無名の若者である。ただし、才能のある人が皆「天才」になれるわけではないように、カフェに通った人が皆「天才」になれるというわけではない。
(中略)
第一に彼らに共通している点は「何者か」になりたいという想いを長期間持ち続けていることである。第二に、彼らは自分の周囲の人たちとは異なる価値観を持っており、それを大事にするが故に周囲からなかなか理解されずに孤独を感じることである。第三に、彼らはそれ故自分を周囲に合わせて曲げようとはせず、そのかわりに自分を認めてくれそうな人や居場所を「ここではないどこか」に求めるということである。P68
飯田美樹 「caf´eから時代は創られる」(いなほ書房 2008)


caf´eから時代は創られる。それは名詞ではなく形容詞としての宣言。カフェではなくカフェ的であるならば、カフェ的は何か?を問うのは袋小路になりそうだ。それよりもカフェ的な場をつくるなかで、カフェ的「知」をつみあげるほうが全うであろう。

◯◯的という言葉は、幻影的な装いもつことから、コミュニティーに膾炙しやすい。しかし、リジッドな言明がもとめられるときに(それは定義!)、その影は脆くも消えてしまう。その儚さを取り繕うための言語操作をおこなうか。はたまた、脆さを修繕しながら、事路なる理解をえていくか。そんな日々を送れそうだ。

■参考リンク
tabi日記002 「09/03/27 学びと創造の場としてのカフェ」
出会いと創造の場 : 飯田美樹「Cafeから時代は創られる」を読んだ!
カフェ研究会が終わった!: 場づくりのサイエンスとアートをめざして



■tabi後記
蕁麻疹のためバングラディッシュ渡航はあきらめ、日本におります。1週間ほど療養したおかげで、ほぼ全快になりました。
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2009年07月21日

tabi0222 川口盛之助「オタクで女の子な国のモノづくり」

女性的な細やかさや恥じらいの心情と、子供のような好奇心やファンタジー的な世界観が、日本のモノづくりの特徴の下地にあることがわかってきます。女性的で子供っぽい、すなわち「女の子っぽい気質」こそが、日本企業が一連の製品を生み出してきたユニークさの源泉なのです。P213
川口盛之助「オタクで女の子な国のモノづくり」(講談社 2007)


日本企業が開発、製造する製品をリバースカルチャリングすることによって「女性的で子供っぽい」というモノづくりの背後にある精神を汲み取っている。著者のことは、川口盛之助の「ニッポン的ものづくりの起源」という連載記事で知っている方もいるだろう。

子供のファンタジーの世界観
針ですら供養するほど道具に感情移入し(擬人化)、箸や茶碗のように「自分専用」にこだわる道具へのパートナー感覚をもています(個人カスタマイズ)。また、誰もが潰すのが癖になる気泡シートに愛着を持って「プチプチ」という商標名をつけ(病みつき)、自動車の室内の静粛性を完璧にせずエンジン音を効果音にしてしまう発想(寸止め)も卓越しています。これらは、いずれも、日本人が「マシンとうまくつき合うメンタリティを持っているが故の特徴」と言えるでしょう。子供のファンタジーの世界観に近いものがあります。P212

子供っぽさを構成する4つの法則があるという。メモと示唆を交えて書いておこう。

法則1 擬人化が大好き

供養とタンの世界が象徴としてあげられている。いかなる物も供養の対象とするメンタリティーと◯◯タンにより全てが萌え擬人化されるということだ。僕が注目したのは、後者の中に潜んでいる「メタ擬人化」という現象である。メタ擬人化とは、既に擬人化されている対象を更に擬人化(萌え擬人化)することである。

法則2 個人カスタマイズを志向する

著者は、検索のカスタマイズが出来ないかと思案している。例えば、特定人物の検索モードを体験(イチロー検索,部長検索,村上春樹検索・・・)、時間をずらした検索(2年前検索)をすることで、2年前のページしか引っかからない状態をつくる。この空間内でピックアップしたおもしろい記事を「現在ボタン(仮)」で戻すと、その記事を参照してきた2年分の記事が表示されるといったシステムだ。

携帯の未来像として考えられているのは「ケイタイは目玉のオヤジになる」というものだ。つまり、ウェアラブル、ナビゲーション、カウンセリング&コーチングといった機能を備えた、自分を分かっていて良いアドバイスをくれる奴という存在だろう。

法則3 人を病みつきにさせる

これは、ザリガニワークス 自爆ボタンや無限プチプチに代表とされるもである。裂きたくなる、つぶしたくなる、触りたくなるといった、病みつきアフォーダンスを製品に潜ませていると。自爆ボタンにいったっては、自爆機能がないボタンという、押す事だけが目的化された製品となっている。

法則4 寸止めを狙う:
できることをあえてやらないことが、習熟化という楽しみを付与することができるのだ。ディスプレイ行為と寸止め的贅沢の対比。クルマの走行音は、もう消せるにも関わらず、ドライビングサウンドという見せ方によって機能を保っている。

女性的な繊細さや相手を慮る心情
預金通帳すら抗菌処理するほど、日本人は清潔や長寿への貪欲さがあります(健康長寿)。一方では、マネキンまでアニメ風にしてしまうデカダンぶりを発揮します(生活の劇場化)。それでも、周囲への配慮や遠慮の精神を忘れず、腹の虫が鳴くのを抑えるお菓子を作る(「恥ずかしい」対策)と同時に、運転中、隣の車線に割込んだときには、尻尾を振って「ありがとう」と表現する装置を開発しています(かすがい)。(中略)このあたりの特徴は、女性的な繊細さや相手を慮る心情に通じるものがあります。P213

そして、女性らしさを構成する4つの法則がある。

法則5 かすがいの働きをする

法則6 「恥ずかしさ」への対策になる
恥じらい気質という才能から製品が生まれている。用足しの恥ずかしさから生まれた音姫であり、腹の虫の恥ずかしさから生まれたお菓子や、生理用ナプキンの開封音から生まれた製品など。

法則7 健康長寿を追求する
ありとあらゆるものが抗菌される潔癖志向と身体にいいもの(ビタミンなど)を出す電気製品の登場

法則8 生活の劇場化を目指す
象徴例は、ボクといっしょに食べようよ、イーテぃン。

このような8法則から、

法則9 地球環境を思いやる 気配りの文化
法則10 ダウンサイジングを図る ビルトイン化になる、折り畳み

という2法則の記述がなされている。本書には日本人ではなく日本語人という表現がつかわれている。その背景に、角田忠信の理論を用いているのが興味深かった。

同世代の日本語人は、男性的/女性的の軸ではなく両性具有っぽく、大人っぽい/子供っぽい軸ではなく、幼形成熟(ネオテニー)を体現している気がしている。この世代が、どのような製品(未来)を開発/表現していくのか。それはそれで楽しみである。

■参考リンク
書評 - オタクで女の子な国のモノづくり
日本語ということばを使う日本人




■tabi後記
久々の再開。書きかけのレビューが溜まりに溜まめてしまった。僕にとって、読みと書きを分けることは苦行でしかない。
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2009年07月09日

tabi0221 ウィリアム・イースタリー「エコノミスト 南の貧困と闘う」

貯蓄=投資は成長の主因にならない
資金ギャップ・モデルがそのとおりなら、今ではザンビアは一人当たり所得二万ドルの工業国になっていたはずである。しかし現実は、一人当たり所得六◯◯ドルの貧困国である。(この水準は独立時の三分の一である)。ザンビアは資金ギャップ・アプローチの最悪のケースである。ザンビアは多くの援助を受け取ったが、援助が流入する前にかなりの投資率を達成していた。しかし援助が増えても、ザンビアの投資率は上昇するのではなく、低下し投資水準がどうであれ成長はもたらされなかった。P59
ウィリアム・イースタリー「エコノミスト 南の貧困と闘う」(東洋経済新報社 2003)


イースタリーは、援助機関が採用するハロッド=ドーマ・モデルにもとづいた資金ギャップアプローチは、発展途上国の成長を生んでこなかったと指摘する。

以下で、資金ギャップアプローチの理論的背景に説明を加えます。

マクロ経済学では、国民総生産は、現在の「消費」と将来の生産能力増加のための「投資」に分けられる(Y=C+I)が、発展途上国では元々の所得水準が低いために所得の多くが現在の消費に用いられ、十分な投資を行うことができない。

だから、国が目標とする経済成長率にとって必要な水準の投資と実際の投資額とのギャップを埋めることが、開発援助の意義であるとされています。(モデルにおいては、貯蓄と投資が一致することを前提に貯蓄率が用いられる)

例えば、ある国において生産量を1単位増やすのに必要な資本への投資額が5であることが知られているとします。

この場合に、目標とするGDP成長率が6%とすれば、必要な対GDP投資率は30%(6%×5)となります。このとき、この国の対GDP貯蓄率が10%だとすれば、対GDP比で20%の投資が不足しているということになります。

そこで、この対GDP20%に相当する額の援助をすれば、目標成長率が達成できる。という論理をつくりあげるのが、資金ギャップモデルなのです。

そして、イースタリーは、資金ギャップ・モデルの前提である「資本への投資額」と「経済成長率」が一定比率の正の相関関係を有するという仮定を批判します。

資金ギャップ・モデルは、設備投資に対して資本が投入されれば、一定比率で生産量が増えると仮定していますが、通常、生産設備への投資を増やしていった場合、限界生産量は当初は増加しますが、以降は少しずつ低下していくことが知られています。

資金ギャップ・モデルでは、その限界を克服するために、発展途上国においては余剰労働力が豊富にあり、企業の生産能力の制約条件は「生産設備の不足」だけであると仮定しているのです。

しかし、発展途上国においては、余剰労働力が豊富にあると仮定するよりは、その生産要素の初期配分のあり方(労働力と設備の割合)に応じた生産技術が「すでに」用いられていると仮定する方が自然です。

そうすると、生産性の制約条件が資本的要素だけであって余剰労働力は遍在しているという仮定は現実的ではありません。これがイースタリーの批判の一つめの理由です。

もう一つの批判は、発展途上国側におけるインセンティブの歪みの問題です。

援助国側の開発援助額決定が資金ギャップ・モデルに従って決定される。そして、資金ギャップが存在する限り援助はなされるということを、発展途上国が知っていた場合どうなるでしょう。

常に資金ギャップを最大化するような戦略をとることが最も自己の利得を最大化することにならないでしょうか?

具体的には、消費を増加させ、貯蓄を抑制する政策を採用することです。意図的にこのような戦略をとることにより、途上国は常に援助を受け取ることが可能になるのです。

概ね、イースタリーは、このような批判を加えた上で、ハロッド=ドーマ・モデルからソローモデルの解説にうつっていきます。

その後のイースタリーの主張は、技術発展と人的資本の蓄積が成長の要因であるということです。そして、そのためには知識の波及と移転が必要だと説きます。私は、イノベーションにまつわる話しは、クリステンセン/レイナー「イノベーションへの解」に触れるほうが説得的であると思います。

債務救済には新政府のコミットを添えて
借入れを増やそうとするインセンティブを避けるためには、債務救済が今後二度と行なわれなくてすむような信頼性のある政策を、債務救済プログラムによって確立するよう努めなければならない。もしこれがむずかしいとするなら、そもそも債務救済の発想自体が問題である。途上国の政府には、いざとなれば債務が救済されることを予想して、借入れを続けようとするインセンティブが強すぎるのである。P191
ウィリアム・イースタリー「エコノミスト 南の貧困と闘う」(東洋経済新報社 2003)

支援機関はインセンティブの歪みを是正すると同時に、HIPC側に債務救済にコミットメントがともなう事を確約させ、HIPCに説明責任を求めていく必要がある。

また、国を富ますのではなく、人を富ますという前提を抜きにして経済開発は語れないだろう。人的資本投資が国外への人材流出を加速させることも視野にいれる必要がある。

■参考リンク
Libertarianism@Japan The Elusive Quest for Growth 
サックスとアンジェリーナ・ジョリーの重荷(1)
「開発」(あるいは「発展」)って何だろう? (1)
イースタリー講演と日本の開発援助
ハイエクと知的財産権


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■tabi後記
知が広がることよりも、無知が広がることを実感していたい。
posted by アントレ at 07:27| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月07日

tabi0216 茂木健一郎/江村哲二「音楽を「考える」」

異常が正常になったとき
作曲ということの一つには、自分の心の奥底にある、ある意味では決して開いてはいけない部分に、何かを探って切り裂いていく、そういう過程があるんです。(中略)それを茂木さんは「自分が傷ついていくこと」と表現しています。自分が傷つくことをやっていながら、「傷ついている」ことそのものを表現してしまったらおもしろくもなんともない。その「傷ついていく」プロセスが何か新しいものを生み出すわけです。P22
茂木健一郎/江村哲二「音楽を「考える」」(筑摩書房 2007)


作曲とはいわば、ぎりぎりの境界線上に位置しながら生み出し続けるものである。

モーツァルトの弦楽四重奏K465《不協和音》冒頭のアダージョは、そういった「闇」の部分をかいま見せている作品である。弦楽四重奏K465《不協和音》は対斜という問題を含んでいる。

Mozart 'Dissonance' Quartet K.465


しかし、ウェールベルンや現代の曲に慣れ親しんだ人たちには対斜や半音階進行などは「正常」なことであろう。私も何の違和感も聞ける。

Anton Webern Fünf Sätze 1


しかし「正常」は「異常」であったのだ。

「異常」といわれる地点へ跳躍したものの軌跡が音楽には存在している。それはジョン・ケージ(「きく」の復権)も、ワーグナー(無調性という時代性の表現であり、12音技法への確かなつながり)もそうであろう。

本書では、マルセル・デュシャン(1回性の創出)も一例としてあげられている。このような視点は、解釈学・系譜学・考古学を実践しているようで心地よいものがある。

John Cage "4'33"


John Cage about silence


Richard Wagner. Tristan - Isolde Prelude


Mozart Piano Concerto No. 9, First Mvt, Mitsuko Uchida


■参考リンク
江村哲二の日々創造的認知過程
想い出


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■tabi後記
Youtubeへの投稿数にあらためて驚いてしまう。
posted by アントレ at 02:27| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0215 糸井重里「ほぼ日刊イトイ新聞の本」

クリエイターの「まかないめし」を提供してもらう
「あの会社の『幸福感』が好きだから、私はこのクルマに乗るのよ」というようなことを、いまの人たちは、無意識にやっていると、ぼくは思う。P348

つまり、ぼくは、「あらゆる不幸は、全力を尽くせないという悲しみにあるのではないか?」と考えているのだ。逆に言えば、不幸に思える環境でも、全力を尽くすことができたら、ものの見方ひとつで、死ぬ前に「あぁ、面白い人生だった!」とつぶやくことができるかもしれない。
『ほぼ日』は「人が全力を尽くす場を開拓するメディア」になりたいと思うし、すでに読者から反響をもらっているように、「人が全力を尽くすことを手助けするメディア」でありつづけるべきだろうと思うのだ。P352
糸井重里「ほぼ日刊イトイ新聞の本」(講談社 2004)


糸井さんとの出会いはなぜ吉本隆明/糸井重里に出逢ったのか?に書かせてもらったが、「ほぼ日」との出会いは未だに分からない。恐らくは、ネットサーフィンで出会ったのだろう。

このように出会いの起源がモヤモヤしているときは「その物事との出会い方」に焦点をあてたくなります。また、出会い方よりも付き合い方に特徴があるのでは?と考えたくもなる。

私の付き合い方は「ほぼ日」をRSS登録し、ほとんどの記事をスルーするような状態です。(山田ズーニーさんの記事をたまに見るくらい。)

けれど、対談企画が立ち上がってくると様子がかわる。池谷さん、岩田さん、吉本さんなどが、それである。これが「まかないめし」といわれるものであろう。

糸井さんは「ほぼ日」というものを放課後のパワー/退社後のパワーを突き動かすメディアにしたいと語っていた。私は、それを突き動かす役割はサイトにあるのではなくて、手帳をはじめとする物販品が担っていると思っている。

手帳などをつうじて、ほぼ日的幸福感に僅かながらに接触していることが、(近づき離れずという)出入り自由な宗教性が演出されていると考えている。

■参考リンク
ほぼ日刊イトイ新聞
人格というブランド


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■tabi後記
Grameen Change Makers Programに内田も参加することになりました。告知した時は別予定が入っていたため、参加など考えてもいませんでした。

と思っていたら、V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」を読了した後から嘘のように予定キャンセルが発生したのです。笑

ということで「バングラディッシュへ行ってほしいという人生からの期待だな」と錯覚して、応募したのです。行くからには成果出してこようと思います。考えを整理したうえで、旅立とう。
posted by アントレ at 00:29| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月01日

tabi0209 藤井大輔「「R25」のつくりかた」

無意識に辿り着くインタビュー
「ダ・ヴィンチ」時代、作家のみなさんと一緒に、人間の奥深い業のようなものを追いかけていたこともあり、そもそも人間はそんなに単純なものではないと思っていました。パソコンの画面からラジオボタンで調査票に答える、でも、それは本当の気持ちなのか。そのデータをそのまま考察して、「これがファクトです」と単純に分析してしまうのは、あまりに危険なことではないか。人間とはもっとややこしくて難しくて面倒臭い存在のはずではないか・・・。人は簡単に本音を語らない。P41-42
藤井大輔「「R25」のつくりかた」(日本経済新聞出版社 2009)


くらたまなぶ「リクルート「創刊男」の大ヒット発想術」を地で行なったような内容となっている。「M1層のイタコ化」という表現や「帰りの電車で読む」という状況設定から判断した。

tabi0209.jpg

R25をAMIAモデルでまとめてみた。私自身は「R25って読んでいるの恥ずかしくない?」という層にあたってしまうので、1事例として興味深く読ませて頂いた。(参考リンクが充実しています)今後の展開に注目したい。

追記
R25式モバイルは、2005年7月のサービス開始以来、多くのお客様にご支持いただいておりましたが、諸般の事情により、2009年7月30日(木)17時をもちましてサービスを終了させていただくことになりました。
http://r25.jp/b/static/a/static/stn/mobile

■参考リンク
"「R25」のつくりかた" のつくりかた
藤井大輔著「R25のつくりかた」を読んだ!
「R25」のつくりかた
1042旅 藤井大輔『「R25」のつくりかた』



■tabi後記
R25って読んでいるの恥ずかしくない?という層は、どのような本音をもっているのだろうか。
posted by アントレ at 19:18| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0208 盛田昭夫「MADE IN JAPAN わが体験的国際戦略」

われわれは一技術者にすぎなかったのに、企業的大成功を夢みていたのである。ユニークな製品を作れば大儲けできると考えていた。私はこのテープレコーダーを必ず成功させてやろうと決意した。

毎日チャンスをとらえては人に見せた。トラックに積んで会社や大学に持って行き、友人の家を回り歩き、彼らの話し声や歌を吹き込んでみせた。まるで芸人になったようだ。

機械を回しては人の声を録音し、本人に聞かせてやると、みな大喜びしたり驚いたりした。だれもがこの機械を気に入ってくれた。が、だれ一人買おうという人はいなかった。みんな異口同音に言ったことは、「確かに面白い。だがおもちゃにしては高すぎるよ」であった。

ようやくわれわれは、独自の技術を開発しユニークな製品を作るだけでは、事業は成り立たないことを思い知ったのだった。大切なことは商品を売るということだった。P113
盛田昭夫「MADE IN JAPAN わが体験的国際戦略」(朝日新聞社 1990)


盛田氏は、同じ高価なものでも、なぜ実用価値の無い骨董品が買う人がいて、実用的なテープレコーダーが売れないのかを考えた。

その結果、「買い手にその商品の価値をわからせなければ売れない」ことに気がついた。そして、商品の価値を分かってもらえる人にアプローチをしたのである。それが最高裁判所の速記担当者であった。

娯楽としてではなく実用として認識価値をもってくれる相手へ、商品を売り込みにいくというマーケティングが記されている。ここで感得したことがウォークマンなどのマーケティングへ活かされていったと思うと、彼の原点はテープレコーダー営業にあったのだと考えさせられる。

■参考リンク
Made on the Japanese Soil
895旅 盛田昭夫『MADE IN JAPAN わが体験的国際戦略』



■tabi後記
やはり、早朝に読むほうがいいかもしれない。
posted by アントレ at 07:08| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0207 魯迅「故郷/阿Q正伝」

自己への期待と共同幻想

希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。
魯迅「故郷/阿Q正伝」(光文社 2009)P69


帰郷の船の中で「わたし」は故郷への未練を捨て 「ホンアル」や「シュイション」を始めとする「新しい世代」に期待を寄せる。

だが、この期待は「ルントウ」へ抱いていた期待と同じものであることに気づかされる。そして「わたし」は、他者に期待をかけてばかりで何もしていなかった自分に気付くのである。これが最終場面での大きな「心の転換」である。

引用の部分には 「わたし」 が「他者」へ期待するのではなく 「自己」へ期待し希望の実現に向かって歩き始めようとする意志が表現されている。

この意志は「Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.」というJohn F. Kennedyが要求したものと類似する。

自剰期待が生む精神的勝利

「結局俺は息子に殴られたようなもの、今の世の中、間違っとるよ・・・」こうして彼も満足し勝利の凱歌とともに去っていくのだ。P81
魯迅「故郷/阿Q正伝」(光文社 2009)


魯迅は「阿Q正伝」において、列強に侵略されながらも中華思想という文化の高さがあることで現実を見ずに、むしろ侵略してくる相手を軽蔑することによって精神的勝利(安定)を保とうとした当時の人々を滑稽に描こうとした。

私は「阿Q」の中に「故郷」の「わたし」から地続くものをみる。それは「偶像崇拝」という事態である。

「故郷」における崇拝対象が「他者」であった。そしてそこから「自分」へとまなざしが移行していった。ここで物語は終わらない。魯迅は更に先をみていたのだろう。それが「阿Q正伝」で描かれる事態である。

人はまなざしの対象であった「自分」を「崇拝」として対象化してしまう。魯迅は目線であったものが、対象へ変わりきってしまうことへ危惧をしたのだろう。私にはそのように感じられた。

■参考リンク
第七百十六夜【0716】
新春プレゼント魯迅「故郷」の感想文



■tabi後記
光文社古典新訳文庫は解説が充実している。例えば魯迅と村上春樹について。「阿Q」の「Q」は中国語で幽霊を意味する「鬼」に通ずるという。そして、魯迅文学の愛読者である、と村上自身が語っている文章が紹介されている。

「Q氏」という人物が登場する短篇小説(「駄目になった王国」)を村上氏が書いていることから、その影響が垣間見えると藤井氏は指摘している。本書刊行後に出版された「1Q84」もまた「阿Q」からきているのだろうか。
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2009年06月30日

tabi0205 G・ポリア「いかにして問題をとくか」

われわれは全体の仕事を4つに区分することとしよう。まず第1に問題を理解しなければならない。即ち求めるものが何かをはっきり知らなければならない。第2に色々な項目がお互いにどんなに関連しているか、又わからないことがわかっていることとどのようにむすびついているかを知ることが、解がどんなものであるかを知り、計画をたてるために必要である。第3にわれわれはその計画を実行しなければならない。第4に解答ができ上がったならばふり返ってみて、もう一度それをよく検討しなければならない。P9
G・ボリア「いかにして問題をとくか」(丸善株式会社 1954)


このように数学を教えてもらった生徒は幸せだろう。55年前の本であるが「いかにして問題をとくか 」というプロセスを探究した結果は全く色あせない。55年経過することで、中川氏のような書籍が出来たのだろう。

tabi0205.jpg

今でも価値があると思ったのは、計画立案(方略立案)における「問題の言い換え」であろう。これはクレージーブレインストーミングとしても使われている。

例えば「どのようにして子どもに苦い薬を飲ませることができるか?」を考えてみる際に、「子ども」を「猫」に「苦い薬を飲ませる」を「お化け屋敷につれていく」と置き換えてみる。

この置き換えた問題について、ブレインストーミングを行っていくのだ。その後に、そこで出たアイデアを本来の問題に適用できないかを考えるということ。

このワークはアナロジーを誘発するものなので、本書で扱われている「問題の言い換え」よりも広義になっている。しかし、問題を言い換えてしまうという掟破りは大切な作業であろう。



■tabi後記
この本には出版社丸善としての志が感じられる。この時代、この本を手にとった者は何を議論したのだろうか。
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2009年06月29日

tabi0203 猪野健治「山口組概論―最強組織はなぜ成立したのか」

ヤクザ(任侠道)になるしかなかった人間の存在

山口組が暴対法違憲訴訟を起こした際に弁護団が用意した原告側尋問書案には次の一節がある。

<任侠道に差別はない。彼ら(引用者注・被差別部落出身者や在日朝鮮人、前歴者)の受け入れを拒否するようになったとき、それはすでに任侠道と呼ぶことはできない>

ここでいう<任侠道>がギリギリの土俵際まで追い詰められている。その問題意識が本書執筆へ私を駆り立てた。P265
猪野健治「山口組概論―最強組織はなぜ成立したのか」(筑摩書房 2008)



元公安調査庁調査第二部長の菅沼光弘は、山口組のナンバー2である高山清司から聞いた話として、ヤクザの出自は部落(同和)60%、在日韓国・朝鮮人30%、一般の日本人など10%であるという見解を示している。(あくまで伝聞資料である)

マイノリティが暴力団員となるのは、差別により経済的な理由で学校に通えなかったり、就職差別で一般的な職に付くことができなかったりしたためというケースが多い。著者は、ヤクザには「かけこみ寺」としての機能があったことを指摘している。

マフィア(暴力団)になるしかない制度改革

しかし現在の状況としては、「任侠道」というセーフティネットは瓦解の危機にある。官憲による改正暴力対策法に影響を受けて「できのわるい」(ハイリスク)人材がリストラされているのである。人材育成機関としてヤクザをポジショニングしてみると、更なる考察が出来るかもしれない。

P.S.
最強組織が成立したのは山口組が「力」をもたなくなったからだろう。

田岡一男が山口組三代目を襲名したのは一九四六年(昭和二十一年)、三十三歳のときである。須磨の「延命軒」で執り行われた襲名式には親代わりとして国会議員・佃良一も列席した。田岡一男は、襲名にあたって三つの誓いを自らに課した。

・組員各自に正業をもたせること。
・信賞必罰によって体制を確立すること。
・昭和の幡随院長兵衛を目指すこと。P79


■参考リンク
第百五十二夜【0152】
任侠は弱し官吏は強し - 書評 - 山口組概論



■tabi後記
何事もですけど。1回じゃ分からないものです。当然ながらですけれど。ただ、やり続ければ分かるかといったら、そうでもないのも現実。明日もやりたいか?といわれて「もちろん」とこたえるならば、やればよい。楽しいかどうか。楽しめそうかどうか。
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tabi0202 大蔵雄之助「一票の反対―ジャネット・ランキンの生涯」

気にしているのは再選よりも50年後に何と言われるか

おそらく百人ぐらいの議員は彼女と同じ事をしたかったであろう。一人としてそうする勇気がなかっただけのことである。当新聞は彼女が立場上とった考え方とは全面的に意見を異にする。あdが、それにしても何という勇気ある行為であろうか!今から百年後にこの国で、道徳的義憤に基づく勇気が、真の勇気が称えられる時、信念のために愚かしくも堂々と立ち上がったジャネット・ランキンの名前が、その業績の故にではなく、その行動の故に、記念の銅像に刻まれるであろう。P39
大蔵雄之助 「一票の反対―ジャネット・ランキンの生涯」(麗沢大学出版会 2004)


ジャネット・ランキンの名を知る人は多くないかもしれない。1888年に米国で生まれ、女性初の下院議員になった。女性の参政権運動を率いた人でもあるから、日本なら市川房枝のような存在であろうか。

生涯を通じて平和主義者として活動し、アメリカ合衆国が第一次・第二次大戦に参戦することに対して、ただ一人両方に反対したことで知られ、ベトナム戦争での反戦活動の先頭にも立った。

68年前、日本軍は真珠湾を攻撃した。それを受けた議会の対日宣戦決議に、一人反対票を投じたのがランキンである。議会は日本への憎悪を燃やし、上院は満場一致で可決し、下院は賛成が388、彼女だけがノーを唱えた。

この反対票で、ランキンは全米を敵に回してしまう。非難が渦巻き「売国奴」のレッテルを張られた。頼みの故郷 モンタナからも「あなたの味方なし」と電報が届く。その後、再選されることはなかった。あの「一票」は散った花なのか、それとも、後世に種子を残しているのだろうか。

■参考リンク
ちょっこっと
映画の街ロサンゼルスで A Single Woman
ジャネット・ランキン - Wikipedia



■tabi後記
ボルダリング終了。この遊戯は、登る経路、登り方について考え、実践することで快感を得る営みな気がする。手足を制約にしながら方略を考えること。最低限の疲労で登ることに関心があれば、やってみてほしい。
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2009年06月28日

tabi0200 鴨下信一「日本語の学校」

声に出すことからどう声に出すかへ

朗読・音読とは何か、と聞かれたら<文を区(句)切って読むことだ>と答えます。

日本語は世界一美しい言葉です

あなたはこれをどう句切りますか?

ひと息で読めますーいきなり困った答えですが、まあ結構。その読み方を0とします。でもそのほかに、少くとも二通りに句切れます。

1 日本語は/世界一美しい言葉です
2 日本語は/世界一/美しい言葉です

1では「日本語」という言葉に聞く人の注意がいきます。ああ、日本語について話すんだな、ということがはっきりする。文の「構成」、つまり「意味」がはっきりするんです。

2では「世界一」に注意がいくでしょう。こうすると何か「気分」「感情」が入ってくるような気がしませんか。感情が生れるということは、そこに「表現」が存在するということです。この区切り方は「表現」のために句切るのです。(中略)

読み手は<自分で句読点を再構成しなければならない>、これが大事な点です。P18-20
鴨下信一「日本語の学校」(平凡社 2009)


本書は「声に出して読む」ことから「どう声に出して読むか」かへ焦点をあてる。そして、声に出して読むことで見えてくるだろう<何か>、日本語の<何か>を探ろうとしている。

自身の「読書」を考えると、音読でも黙読でもない。速読ですか?といわれるが、そうでもない。(ここを語り出すと時間がかかるので「そうです」といってしまうのだが)

近い感覚では、見つめているといえるだろう。まなざしを送っている。(フォトリーディング的ではある。もちろん、プロの写真家が被写体と対峙する感覚で「フォト」という語彙を使用しているなら)

けれど、フォトリーディングとも異なる気がしている。そう思うのは、フォトするのはテクストではないからだ。むしろインナーテクストである。

目は本を、耳は心を、体は声を、口は言葉に「まなざし」をむけている。諸感覚を分けてるいないことを伝え買った。かといって5感というように統合的ではなく。あえていえば繋ぎ目と繋がるような営み。

■参考リンク
こどものもうそうblog



■tabi後記
tabi200まで6ヶ月強かかったことになる。
年末までに400と決めていたので、予定としては順調である。

振返ってみると、本を読んだ月ほど調子がいい月だった。
6月が不調だったかというと、まだ2日あるので保留しておくが。笑

2009年06月(19)
2009年05月(60)
2009年04月(15)
2009年03月(22)
2009年02月(23)
2009年01月(34)
2008年12月(29)

7月からは60冊/月は保っていきたい。
陰ながら読んでくれてる皆さん、ありがとう。(tabi後記しか読んでくれない方も。)

内田はまだまだ頑張ります。
posted by アントレ at 18:12| Comment(1) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月27日

tabi0198 野崎昭弘「不完全性定理」

ヒルベルトによって映えるゲーデル

いくつかの公理と、その公理によって証明された定理を使えば、どんなものでも証明できるという数学体系をヒルベルトは望んだ。そして、彼はそれを実現しようと努力したのである。

ついでながら、ヒルベルトののロマンチックな標語「われわれは知らねばならない。われわれは知るであろう」は、ゲーデルの定理からそれが不可能とわかっているいまでも、私の好きな言葉である。特に「知る」というのが「何となくそう思う」とか「暗記する」ということではなく「理解する」ということであって、「納得するまで根拠をと問う」知性にもとづいていることに、私は感動を覚える。P270
野崎昭弘「不完全性定理」(筑摩書房 2006


誰しも、大なり小なり「ヒルベルト欲」と「ゲーデル欲」があるのだろうと思う。ここではゲーデル欲だけを取り上げる。

・すべてのxyzについて、x+(y+xz)=(x+y)+z
・すべてのxyについて、x+y=y+x
・ある特別の対象eがあって、すべてのxに対してx+e=x

例えばこれが、僕らの生きている系の話であるとしよう。ゲーデル欲は、このようなテンションなのだ。常に「であるとしよう」とする。

話をすすめると、このような系だとeというのは0しかありえない。だからと言って、上記三つの公理が、e=0でしか成り立たない、ということにはならないのである。

ある系では「+」という記号が「×」という意味で使われているとしよう。(クワス算を想起してもらってかまわない)そうなると、e=1である。

また「x+y」が「xyの大きいほう」を表わす系が存在するとしよう。するとこちらもe=1となる。

さらにある系では「x+y」というのが「xyのうち辞典のあとに出てくるほう」という意味だとする。するとe=その辞典の最初の見出し語ということになる。

どうだろうか?

公理というのは系の前提を生み出すもので「実際そうであるかどうかは関係ない」というの「ゲーデル欲」をなんとなく分かっていただけたであろうか。

ヒルベルトは死んだのか?隠れただけか?

ゲーデルの不完全性定理によって「人間の知性の限界が示された」という人もいるが、少し注意が要る。直接的には「形式化できる論証」の限界が示されたのであって、それ以外の人間の知性ー形式化されていない価値観・感性・構想・意図・直観などまでにはかかわっていないからである。P273
野崎昭弘「不完全性定理」(筑摩書房 2006)


限界を示せぬものを求めるために、不完全証明をおこなっていく。ヒルベルト欲を満たすために、ゲーデル欲を開放していく。どちらにも振り切らずに、その循環自体の新鮮さを楽しむことが、大なり小なり学びには潜んでいるのだろう。

■参考リンク
第千五十八夜【1058】
書評 - 不完全性定理



■tabi後記
最近のキータームであるベタ認知とメタ認知。これは、ヒルベルト欲とゲーデル欲に変換できるだろう。
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2009年06月22日

tabi0193 松山太河 編集「最高の報酬」

本書は、石橋さんに頂いた書籍です。ありがとうございました。

今回の読みでは、8フレーズが切り取られました。
(200フレーズあるようです)

photo.jpg

以下に、1つずつ味わいながら写経をおこないました。
この作業を時系列で追いかけてみると良いかもしれません。


僕が今までやってきた仕事の中で一番大切な仕事は、
一緒に仕事をすべき本当に優秀な人物を探すことです。
一人でできない仕事を成功させるためには、
優れた人物を見つけなければいけないのです。P35
スティブ・ジョブズ(アップルコンピュータ共同創業者)

頭のいい人は批評家に適するが、行為の人にはなりにくい。
すべての行為には危険が伴うからである。P69
寺田寅彦(物理学者)

新しいことをやろうと決心する前に、
こまごまと調査すればするほどやめておいたほうがいいという結果が出る。
石橋を叩いて安全を確認してから決心しようと思ったら、
おそらく永久に石橋は渡れまい。
やると決めて、どうしたらどうしたらできるかを調査せよ。P74
西堀栄三郎(南極観測隊隊長)

私の事業的信念は、それが世に価値のあるものならば、
数字的に自信がなくとも、
正しく行えば成し遂げられるということである。P81
大谷竹次郎(松竹社長)

何でも思い切ってやってみることですよ。
どっちに転んだって人間、
野辺も石ころ同様骨となって一生を終えるのだから。P108
坂本龍馬

毎年8〜10%の人が辞めていく。
優秀な人が辞めるんだ。なぜかって?
それがシリコンバレーだ。
スタートアップにリスクはないよ。会社をつくる。
製品ができない。利益がでない。お金が底をつく。
終わりだ。それだけだよ。
そんなものはリスクじゃないんだ。P180
スコット・マクネリー(サン・マイクロシステムズ 会長兼CEO)

アイデアの良い人は世の中にたくさんいるが、
良いと思ったアイデアを実行する勇気のある人は少ない。
我々は、それをがむしゃらにやるだけである。P187
盛田昭夫(ソニー共同創業者)

人生で犯しがちな最大の誤りは、
誤りを犯さないかと絶えず恐れることだ。P197
エルバート・ハバード(作家)




■tabi後記
「ストレスフリーの書棚術」という本があってもよさそうだ。
posted by アントレ at 22:24| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月21日

tabi0188 本多勝一「ルポルタージュの方法」

ルポルタージュの方法に関しては719旅 本多勝一『ルポルタージュの方法』を参考にしてほしい。

ここではルポルタージュ記者の条件にふれたい。ここで記載される条件は「◯◯の条件」とすれば何でもあてはまってしまう汎用性をもっている。

佐々木氏の一文をもじればー「表現せずにはおれない、せっぱつまったもの、ひたむきなもの、不正への怒りさえもっていれば、技法なんておのずと会得できる。技法とは、何も持たぬ者が、ルポルタージュ記者らしく見せる粉飾なのよ。その証拠に、うまいルポ=ライターなんて、みんな二流じゃないか」で、佐々木氏の示した六つの条件をそのままルポルタージュに適用しますとー

ルポタージュ記者の条件

1.感激屋
2.うぬぼれ
3.劣等感
4.ひねくれた心
5.体力・活力
6.文才

P278
本多勝一「ルポルタージュの方法」(朝日新聞社 1983)


6つの条件の中で「2.うぬぼれ」に着目したい。

これは比較における度量衡が下手であることだろうと考える。(本当は上手なのであるが)逆にいえば、「教養ある俗物」として過ごす人は、比較下手(上手)である。

画家なら北斎,セザンヌを度量衡にし、思想ならニーチェやデリダを度量衡にし、起業ならジョブズやゲイツを度量衡にして、、。つまりは、そんなのを初めに比較しとったら「Just do it」にいかないだろということであります。

そこで強調されるのが「うぬぼれ」である。

1.感激屋
3.劣等感
4.ひねくれた心
5.体力・活力
6.文才

が全部備わっていながらもルポを書けない人が多くいたことを述べています。彼らは世界第一級の作品と自らを比較しているのだから、いつまでたっても自分の仕事が恥ずかしくなるであろうと。そして「書く」ことをやめ鑑賞者になっていく。



■tabi後記
毎日更新していると思っていたら夢での出来事だった!それを今気がつく。記事はあるので、徐々に更新していこう。蒸し蒸しとする日も好きである。
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2009年06月17日

tabi0187 小林秀雄「考えるヒント」

「ヒント」とは制することである

「考えるヒント」を読む前に題名について考えてしまう。

考えるヒントとは、

・考えるためのヒントなのか

・ヒントが考えていることなのか

・ヒントを考えることなのか

はたまた・・。

言っておくと、僕は言葉を遊びをしたいわけではない。笑

この本を読み終わってからも「考えるヒント」が意味するところを考えているのである。
書籍自体は、流れるような文体で、縦横に論をはずませる様に驚かされる。

しかし「ここで記された文章は何を意味していたのか?」それを問うてみたいのだ。

読了後に気づいたのは「ヒント」は「制する」という発想である。
こう考えてみると本書はスムーズに読めそうだ。

制するとは何を制するのか?

それは「考える」こと、考えることを制するのである。

どのようにか?それは、単純な論理、二項対立で事をすませないこと。

二項対立が沸き上がってきたら、安易に弁証を企てようとすること。これらの<考えるヒント>を制したい。そのような思いが小林にはあったのではないか。

ヒットラーは権力だけを信じたが、この言葉を深く感ずるか、浅薄に聞き流すかは、人々の任意に属する。彼は政治家だったから。

権力という言葉が似合うのだが、彼の本質は、実はドステフスキイが言った、何物も信じないという事だけを信じ通す決心の動きにあったと思う。ドストエフスキイは、現代人には行き渡っている、ニヒリズムという邪悪の一種の教養を語ったのではなかった。しっかりした肉体を持ったニヒリズムの存在を語ったのである。この作家の決心は、一種名状し難いものであって、他人には勿論、決心した当人にも信じ難いものであったようだ。P121
小林秀雄「考えるヒント」(文芸春秋 2004)


喩えるなら「考えに粘着性」をもたらしたといえる。

概念や概念前の生の状態にある言葉を浮遊させること。対立する概念に出逢わした際に一方に振り切らず、かといって対立を弁証しない。ただ浮遊させ、遊離させておく。そのような概念操作?を実地でしめしながら、それを読者に強いること。それが「考えるヒント」だったのではないか。

■参考リンク
批評トハ
人生というのは思い通りにならないものだが



■tabi後記
今からNPO法人 Educe Technologiesの総会に参加させて頂く。
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2009年06月16日

tabi0186 ジョン・ケープルズ「ザ・コピーライティング」

心を動かすレターは「Benefit」を書いている。

何よりもまず、見出しには「得になる」ものを必ず盛り込むこと。相手のほしいものがここにある、と見出しで知らせるのだ。このルールはあまりにも基本的なので言うまでもないことかもしれない。ところが、毎日のように大勢のコピーライターがこのルールに反しているのだ。P84
ジョン・ケープルズ「ザ・コピーライティング」(ダイヤモンド )


これを理解し、実践するだけでライバルを一網打尽に出来るであろう。

いや正確にいうと「Benefit」を書くためには、それが伴った商品/サービスをつくらざるを得なくなる。実体なきところに言葉はあらわれず、実体なきところに言葉をあてがうと精神が滅ばされる。それでは事は続かない。

言葉の力を知ることになるからこそ、その力を何のために使うのかを自問することになる。そして、その答えは、まさにケープルズが、本書の最後に引用した言葉──「広告とは、教育である」──から読み取れる。

広告を打つということは、数万人に言葉を発する教師であると自覚したとき、私たちは売上を上げることに焦点をあてながらも、よりよい社会の礎となる言葉を、選択することになる。

未来を描くレター

1 それがなんであるか(feature)
2 それを使うとどうなるか(advantage)
3 さらにその結果、その人個人には何がもたらされるのか(benefit)

つまりベネフィットというのは「購入者の未来」が描かれているのである。
「ありそうでなかったこと」・「あきらめていたけど叶えたかった未来」である。

マニュアル販売のサイトを例にとってみよう。

1 それがなんであるか(feature)

このマニュアルは、なんと368ページものボリュームで、その中には儲けるための100種類の方法がこれでもかと書かれています。それがたった2分でダウンロードできます!

2 それを使うとどうなるか(advantage)

このマニュアルには、100種類のインターネットビジネスが詳しくステップバイステップで解説されていますので、あなたは読むだけで、誰よりも早くその全てを理解することができます。

3 さらにその結果、その人個人には何がもたらされるのか(benefit)

このマニュアルに書かれている100のビジネスモデルのうち、たった1つを、そのまま真似してみてください。3日後にはあなたの口座に350万円以上振り込まれていることをお約束します。

「Benefi」tを描く事も肝心であるが、結局は「1にテスト、2にテスト、ひたすらテストすること」ということケープルズの哲学を忘れてはいけない。

今は、コンバージョンレートを測ろうと思えば、いくらでも測る事ができる時代である。ケープルズの哲学をより実践出来るようになった。しかしレートオタクになるのは禁物である。その時は原点にかえることが求められる。

テストをするその言葉にBenefitは描かれているかということを。そのときダイレクトレスポンス広告は、新しい時代における役割を見出すのかもしれない。

■参考リンク
papativa.jp
マインドマップ的読書感想文
活かす読書



■tabi後記
人に語りかける最中に自身を大きく揺さぶる事がある。本日発生した心境変化は強烈なものだった。数秒間コトバが出てこなかったくらい。ソクラテスが聞いた「デーモンの声」を体感した気分である。
posted by アントレ at 22:56| Comment(4) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月15日

tabi0185 岡潔・小林秀雄「人間の建設」

小林:わかりました。そうすると、岡さんの数学の世界というものは、感情が土台の数学ですね。

岡:そうなんです。

小林:そこから逸脱したという意味で抽象的とおっしゃったのですね。

岡:そうなんです。

小林:わかりました。

岡:裏打ちのないのを抽象的。しばらくはできても、足が大地をはなれて飛び上がっているようなもので、第二歩を出すことができない、そういうのを抽象的といったのです。

小林:それでわかりました。P45

岡潔・小林秀雄「人間の建設」(新潮社 1965)


対話は「数学が抽象的になってしまった」という岡潔のつぶやきからはじまっていく。

岡がこの問いをもったのは、マッハボーイの証明と出逢ったからからだそうです。(証明内容を調べようとして分かったのですが「マッハ・ボーイ」は人名ではなく「むちゃくちゃなことをする人」という意味なようです。40年前は注とかないんだなー。)

本書で記載されているところによれば、あるマッハボーイは「アレフゼロとアレフワンの中間のメヒティヒカイト(無限の強さ(濃度))の集合が存在するか」を考察したようです。

「アレフゼロとアレフワンとの中間は存在しない」と「アレフゼロとアレフワンとの中間は存在する」という2つの命題を仮定し、普通にみれば矛盾するとしか思えないことを無矛盾であることをは証明したと。

岡は数学基礎論におけるこの証明に対峙したときに「感情の満足ということ無しには、数学は存在しない」という考えをもつようになったそうです。

そしてこのように語っています。

その感情の満足、不満足を直観といっているのでしょう。それなしには情熱はもてないでしょう。人というのはそういう構造をもっている。(中略)だから感情ぬきでは、学問といえども成立しえない。P43


彼は「証明は感情の僕であること」を理解してしまった。(そして、そこで歩みをとめてしまったといえるかもしれない)

デフォルトへの怒り・破壊衝動・落ち着き

彼も指摘していることだが、数学は積木細工のようである。いろいろな概念を組み合わせて次の概念をつくる。そこから更に新しい概念をつくるというやり方が、幾重に複雑にんされている。その概念を素朴に観念に戻して、何に相当するのか、ちょっとわからなくなっていると。

私は、このような特殊な体系をもつ数学に好感をもっていなかった。それはゼロベースで参加できることが気持ち良さだと思っていたからだ。

ある対象に気がついた時点で、うずたかく積まれていると、それを崩壊したくなるのは感情としてであるだろう。アインシュタインが「量子」を感情として認められなかったように、私は小学校1年の時に、「加法」を認めたくなかった。しかし「1+1=2がいやだ、いやだ」というだけで代案をもっていない自分が非常に嫌だったことを覚えている。

今も生きるマッハボーイ

「気持ちいい」・「気持ちわるい」ことの汽水域に佇むのが哲学とあると思えてきた。ある人には「気持ちよさ」を哲学にもとめることは「快楽」をもとめることになる。それは科学になる。「気持ちわるさ」をもとめることは「救い」をもとめることになる。それは宗教になるのだろうか。その中間が存在することを証明するのは、もしかしたらマッハボーイなことなのかもしれない。笑

けれど芸術や哲学は域内で息をするという運動であり、脈打つ形式なのであろう。必ずしも「気持ちいい」ものでないことも分かっている。だが、同時に、その木を登ってみたいという感情も生まれる人はいるのであろう。

■参考リンク
第九百四十七夜【0947】
書評 - 春宵十話



■tabi後記
小雨だったので5kmほど走ってきた。身軽になりたい(自分とアイデアを切り離したい)ので自由大学のコンテストに参加しようと思う。
posted by アントレ at 22:34| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月13日

tabi0183 岡島悦子「抜擢される人の人脈力」

仮説的に生きなければ、あなたの旅ははじまらない

本書は「人脈スパイラルモデル」を築いて行くための五つのステップが説明されている。
この本で、私が感じたのは「仮説的人生」を生きるというメッセージであった。

岡島さんが提唱する「人脈スパイラルモデル」は五つのステップで構成されている。

STEP1「自分にタグをつける」
自分が何屋なのか請求ポイントをはっきりさせる

STEP2「コンテンツを作る」
「お、こいつは」と思わせる実績事例を作る

STEP3「仲間を広げる」
コンテンツを試しあい、お互いに切磋琢磨して、次のステップを共創する

STEP4「自分情報を流通させる」
何かの時に自分のことを思い出してもらうよう、種を蒔く

STEP5「チャンスを積極的に取りに行く」
実力以上のことに挑戦し、人脈レイヤーを上げる


私が感じた「仮説的人生」という考え方は、STEP1「自分にタグをつける」に最も感じるところだった。

本書では、自身を内省すること、その内省に基づいて考えられた「やりたい仕事」を実現するために「今」どんな努力をしているかを説明できる人はそう多くはないと述べられていたが、私はこのような事態がなぜ起きるのかを考えたかった。

この本を読んでいない方でも、自分へのタグづけをしよう、しようと思っていながらも出来ていない人が多い。私はその課題に対して、2つの考えを提示したい。(とはいっても、有効なのは実質1つであるが。笑)

まず1つめは「タグづけをしないというタグづけ」という考えである。この考えは分かる人には分かるようなものなので、詳細は書かない。このような戦略をとる人を「パンタギスト」(Pan-tagist)と呼ぼう。

もう1つの考えというのは「人脈スパイラルモデル」に「STEP0」を挿入すること。

STEP0「限ることは、拡げること」という考えを徹底理解する

本来この部分は、STEP1でおこなわれることだが、私には切り離して考える方がしっくりくる。よくよく読み込んでみると岡島さんも、STEP0を真に受け止めていることがみてとれる。

世の中の皆さんにわかりやすくするために、私は自分ことを「あえて」ヘッドハンターと呼んでいますが、私の仕事の実態は、「人材を切り口とした経営コンサルティング」だと思っています。もっと言えば、真の「経営のプロ」人材を増やすことができるのであれば、自分の業や肩書には、特にこだわるつもりはないのです。「自分の仕事のドメインは自分で定義する」。これが、現在の私のスタンスです。P224
岡島悦子「抜擢される人の人脈力」(東洋経済新報社 2008)


ここの「あえて」がキーワード。

そして「あえて」であることを知ることがSTEP0の意味である。

「あえて」は「相手は全てを理解してくれないのだから、情報を絞る必要がある」という人の認知に根ざした納得から生まれてることではない。

恐らく「人は何者にでもなれる/なれた」というオープンエンドな考え方が根ざしているのだろう。このように「自分は他人の勘違いで形づくられる可能的存在である」という開放的な意味で納得するほうが健康的であろう。

本書では「勘違い」を「買いかぶられる」という言葉で表現をしていたが、この現象は、他人から「◯◯君に△△を任せてみたい。一緒に考えてほしい。」というオファーによって自らが欲していたものが「他者の力を借りてメタ認知」されることをあらわしているように思う。

「自分で自分をタグづける」というのは「他人からのタグづけ」を導く為のツリ
でしかないのだろう。他人の勘違いは、あなたの実力(できる)だけではなく、可能性(できそう)に着目してなされる。真理は常に「そうだったのか」という想起として言語化される。

もちろん、人脈をえるためには「自脈」を感知することが必要であるが、その脈の鼓動を記述する言葉は遅れてやってくる。そして、その言葉を与えてくれるのは他人を迂回することによってであることが多いのであろう。

タグをつけることは、自らの固定化をはかることになってしまう。そのように考えて、その行為を忌避するのではなく「タグをつけることは、新たなタグを生み出す土壌づくり」であると感得したところから、新たな理解は生まれてくるのではないだろうか。

■参考リンク
書評の御紹介:「藤沢烈 BLOG」より
書評のご紹介4:磯崎さんの「isologue」より
書評のご紹介12:渡辺千賀さん「On Off and Beyond」より
書評のご紹介13:小飼弾さん「404 Blog Not Found」より



■tabi後記
Blog再開。更新が滞っていた理由は、学生証が紛失し、図書館で本が借りられなかったからかな。ということにしてみよう。
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2009年05月26日

tabi0176 白川静「漢字」

なぜこの本を読むのか?

日頃から拝見しているDESIGN IT! w/LOVEの日本語ということばを使う日本人という記事に触発されたことが大きい。本記事に興味をもったのは、「ことばと国家」「意味の深み」で論じられる内容と重複するところがあると感じたからです。そこで、棚橋さんの文字観/言葉観に影響を与えている白川静さんの本を手に取った次第です。

私が白川静さんを知ることになったのは、松岡正剛さんの書評であろうと思います。それ以降は、棚橋さんのBlogの記事や松岡さんの書籍を読ませてもらった程度だと思います。


発話社会から文字社会へ-文字によって無意識は生まれたか-

マクルーハンのアイデアに好奇心を思っているためか、本書をタイトルのように紐付けてしまった。

古代にあっては、ことばはことだまとして霊的な力をもつものであった。しかしことばは、そこにとどめることのできないものである。高められてきた王の神聖性を証示するためにも、ことだまの呪能をいっそう効果的なものとし、持続させるためにも、文字が必要であった。文字は、ことだまの呪能をそこに含め、持続させるものとして生まれた。P13
白川静「漢字」(岩波書店 1970)


言語とは「音」であって、漢字などは「表記」であるから、漢字の意味というのは「音」に付属するのものであると考えられる。つまり「表記」は「音」を写し取る性質を持つのである。このような視点で白川さんの漢字研究を辿って行くと、立ち所に混乱を招く。

なぜなら、音を写し取る「表記」に「意味」を見て取ろうとする行為は、部分的な解釈となりうるからである。その解釈を一般言語理論に組み立てることは困難を伴うだろうなと感じる。端的に言えば、漢字の語源は、音に意味を与える方向から考察されるのがセオリーであるのだから。

つまり、表記システムとして共通のコード化された状態を「共時システム」として取り出し、そのモデルのなかで音と意味のネットワークを考察するということである。

文字に可能性を見いだしたのは何故なのか?

だが、白川氏は表記である「文字」に可能性を見い出す。彼は、その地平から様々な物語を紡いでいくのだが、私は、喉につっかえた小骨があるため、いまいち「グッ」とこない。ここで白川氏からエスケープすることも出来るのだが、彼が文字にみた可能世界を探究してからでも良いと思う。私の読み込み不足であることは確かなので、白川氏や、その批判的存在である人物。さらには正統的なソシュール/バンヴェニスト/オングという路線を開拓しながら、探究をすすめていきたい。

■参考リンク
第九百八十七夜【0987】
漢字という虚構
漢字は表意文字という話
いまなぜ白川静なのか
漢字―生い立ちとその背景/白川静
299旅 『漢字―生い立ちとその背景』



■tabi後記
先の書籍で大活躍していた「SlimTimer (オンライン仕事タイマー)」であるが、どうも肌感覚にあわない。

私はバイブカードe.ggtimerを使用しているのだが、SlimTimerのようなレポート機能があるほうが望ましいとも思っている。
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2009年05月23日

tabi0174 リチャード・ワーマン「情報選択の時代」

この偉大な情報化時代とは、本当は「情報に非ざるもの」の爆発、すなわち、データの爆発の時代なのである。強まる一方のデータの猛襲を処理するには、データと情報を識別しなくてはならない。P41

私は、情報の学習全般に適用でき、とくに不安を生み出す要因を減らすのに役立つような、いくつかの原則を採用した。おそらく私の核心にもっとも近いーそしてもっとも根源的なー原則は次の三点である。
(1)自分の無知を受容すること
(2)答えよりも問いにずっと多くの注意を向けること
(3)解決にたどりつくために、反対方向に進むのも厭わないこと P51

学習とは、自分が何に興味をもっているかを思い出す過程と定義できる。学習とは情報の獲得とみなすことができるが、獲得をはじめる前に、まず興味がなくてはならない。興味こそ、あらゆる活動の源泉であり、学習に先立って要求されるものだ。(中略)興味に関して問題なのは、どれを選ぶかということよりも、興味と義務との区別をつけることだ。多くの人が、自分の純粋な興味と、これだったら人間的な面白みを増してくれるだろうと思うものーつまり、本物の興味と、罪の意識あるいは状態ーとを区別できない。P156,160
リチャード・ワーマン「情報選択の時代」(日本実業出版社 1990)


リチャード・ワーマンは、1984年にTED(Tecnology,Entertinment, Design)を設立した方です。「自分の専門領域は好奇心である」と語るように、TEDのキャッチコピーは「Ideas worth spreading」となっている。

TEDは学術・エンターテイメント・デザインなど様々な分野の人物が講演を行なうイベントです。興味深いスピーチばかりなので視聴してみるのをお勧めします。(金曜日にTED TOKYO LIVEが開催されたみたいですね )

ワーマンが提唱する「Understanding Bussiness」というのは、ユーザビリティービジネスと近い内容である。情報デザイン(情報をデザインビではなく情報にデザイン)ビジネスが成立している状況においては、20年前の本書が色あせることはないだろう。今も理解を創り上げる人/情報を編み込む思想はもとめられている。

西垣氏は情報について「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」と定義されていたが、ワーマンは明確な定義をあたえてはいない。

むしろ「情報に非ざるもの」への言及と情報は個別的枠組みにおいて意味生成されるという浮遊性について語っている。「情報」を扱いづらく/可能性を秘めた概念と捉えることが、リジットな定義を拒むことになったのだろうか。20年経過した今、ワーマンが何を考えているのだろうか。

引用文にあるように、私は「無知と学習」について「無知となり学習すること」が大切である考えている。それは「あなたにとっての学習」は教育をされることがなかっただろうし、「あなたにとっての学習」は「あなたの納得感」で試行錯誤されたうえで体得されると考えるからだ。

例えば、学ぶこと=本を読むことであるという考えは「あなたにとって」正しいことではないかもしれません。もちろん比重の問題ではあるのですが、書籍だけの学習は万人にとっての望ましい方法にはなりえないとういことです。この考え方は学習/教育は個別性に基づくという発想であり、その発想は多重知能理論によっています。

再度書きますと、「自分に適した学習方法は何か?」を学習することは大切であり、そこから学びとったものが、あなたにとっての情報」になるのです。

その情報を相手にとっての「Form」にしてあげることが「In-Form」(相手の型にデータを情報化してあげる)の語源的定義になるのでしょう。

■参考リンク
学習とは何がおもしろいかに気づくこと - ワーマン 『情報選択の時代』
第千二百九十六夜 2009年4月28日
LATCH - 5つの情報の整理棚



■tabi後記
「内田洋平に何を読ませたい?」というメールを少しづつ送信している。
読書に偏りが出てきたので気分転換をしたくなったからだ。

内容は、以下に該当する書籍を教えてもらうというものです。

・あなたが読んで良かった本

・内田に読ませたらおもしろそうな本(未読可能)

・読みたいと思っているけど中々読めていない本(高い/歯が立たなそうという意味で)


PCアドレスを知らない方にはお送り出来ていないので、もし「お、読ませたい本があるぞ!」という奇特な方は、コメントかメール(プロフィールに記載)をください。

楽しみにしています。
posted by アントレ at 21:32| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0172 米山優「自分で考える本 情報から創造へ」

通常のハイパーテクスト論ではテクスト間のリンク構造ばかりに目がいっていることが問題なのです。それに加えて、リンクをつけつつ輝きを増していく関係項・ノードこそ主題化しなければならないのです。その一つの関係項・ノードとして位置づきうるものこそが、実は読者だと考えてみましょう。関係項・ノードが輝きを増していくというのは、読書で言えば対象である書物に受肉している思想を、読者の現に今の営みの中に言わば再現することでしょうし、しかも、その際、再現しつつも読者の主観が入り込むことによって、かえって読者そのものの思想を形成することでしょう。P133-134
米山優「自分で考える本」(NTT出版 2009)


GTDとテクスト論と情報論を絡めた異色な書籍です。「一体私は何をやろうとしていたんだっけ?」という問いを持たずに、ストレスフリーな知的生産を行うための仕事/読書術を書かれています。

米山氏が採用するGTDは「片づける必要のあるものはすべて明確にし、それらを、論理的で信頼のおける「システム」の中におさめすっきりとさせること」を目標につくられた仕事術です。

デビット・アレンが定義する"物"というのは「あなたがそれに対する次のステップを決めないままに、あなたの精神的、現実的な世界の中に、あなたが放置しているもの」であり、アレンは、人の意識はRAMにあてるのではなく、それを空っぽにしてディスプレイ(表現/表示)に集中させてほしいという考えがあるようです。

1952年生まれの米山氏がGTDを実践されていることもさることながら、知的生産ツールへの好奇心には驚かされた。

情報カード,Hybercardにはじまった知的生産術が、iGTD,Filemaker Pro,ドラゴンスピーチ,インスピレーション,VoodooPad,PersonalBranといったツールを巧みに使用されるまでになるのだから。

彼が知的生産にこだわる理由は「自分で考える本 情報から創造へ」というタイトルに凝縮されている。情報が存在する場所に到達するための仕組みを考えずに自分の記憶だけを頼りにしていると「当該の本を探す手間によるストレス」「その本の何ページにあるのかを探す手間によるストレス」「書いてある情報を移動させる手間によるストレス」の3ストレスにさらされてしまう。彼はそのストレスを何としても回避しようとし、"物"に左右されることによって発生する「読書そのもののストレス」も減らそうとGTDをはじめたのだろう。

■参考リンク
第六百七十一夜【0671】
哲学・美学・情報学とイタリアのページ



■tabi後記
他者の眼の意義を改めて知る。
posted by アントレ at 18:35| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0171 清水幾太郎「論文の書き方」

私だけの経験ではないと思うが、読んでいる間は、「なるほど」とか、「そうだ」とか、心の中で相槌を打ちながら、一々判って行くけれども、また、読み終わった瞬間、一種の空気が心の中に残りはするけれども、肝心の書物の内容は、輪郭の曖昧なもの、捕えどころのないものになってしまう。日が経つにつれて、それさえ何処かへ蒸発してしまう。糸が切れた風船のように、空へ消えてしまう。(中略)風船を地上に繋ぎとめておく一つの方法、つまり、内容を自分の精神に刻みつけておく一つの方法は、読んで理解した内容を自分の手で表現するということである。読んだことを書くということである。P7
清水幾太郎「論文の書き方」(岩波書店 1959)


彼は「文章には、犯罪に通じるような個人性があると同時に、貨幣に似た社会性がある」という根本思想をもっている。そこから紡ぎ出される言葉/文/文章に響かされた。彼の言葉でいうならば、「無闇に烈しい言葉を用いると、言葉が相手の心の内部に入り込む前に爆発してしまう。言葉は相手の心の内部へ静かに入って、入ってから爆発を遂げた方がよいのである。」ということである。

清水氏は、読む人間から書く人間へ変るというのは、言ってみれば、受動性から能動性へ人間が身を翻すことであると言う。これは、話し言葉には味方の大軍がいると言い換えられる。日常における会話では、言葉が独力で働いているのではなく、周囲に協力者がいて、言葉を補ってくれているということだ。しかしながら文章においては、言葉は常に孤独である。それは言葉だけの世界であり、何処を眺めたって協力者などいやしない。会話において多くの協力者がやってくれた仕事を、一つ残らず、言葉が独力でやらなければならないということである。

己の筆力のみでそれを達成しなくてはならないのです。この達成のためには、日本語に対する甘ったれた無意識状態から抜け出し、日本語を自分の外部に客観化し、これを明瞭に意識化しなければならない。その上では、自らが使用する語彙の「定義不足」と「文と文の接続(詞)」に何よりも気をつけなければならない。

■参考リンク
東京大学で学んだ、卒論研究の進め方
東大で学んだ卒業論文の書き方



■tabi後記
珍しい部類に入ると思いますが、私は卒論は1年時に書き終えてしまいました。けれども時が経てば関心も変化するもの。改めて卒論を書きたくなってきました。
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tabi0170 大津由紀雄/波多野誼余夫/三宅なほみ「認知科学への招待2」

三宅:「できあがった研究ではなくて、本来はこういう研究をやっていたらいいのではないかというのをしゃべって」というシンポジウムをやったのね、そしたら大学院生ぐらいの人たちから反応があったの。「この人たちがどういうことをやりたくて研究をやっているのかというのが、見えた気がした」研究の裏にあるもの、なんでああいう研究をしているのか、その狙いみたいなもの、それがわかってよかった」んですって。P276
大津由紀雄/波多野誼余夫/三宅なほみ「認知科学への招待2」(研究社 2006)


前書と本書の編集をされていた波多野誼余夫氏の死を偲ぶ鼎談が掲載されていた。後任として編集にあたられた三宅さんは、認知学会のジャーナルにて波多野氏の追悼文を書かかれたそうです。その執筆にあたっての話が興味深かった。

三宅さんは、いたるところに拡散していた彼の研究史を再構成する中で、「波多野氏が研究するなかでベースとしていたものを何だったのか?」という問いをもつことになったそうです。つまり、彼は人生を通じて何をしようとしていたのか?そして何を為すことができなかったのか?という問いをもつことになったということです。その問いに対する三宅さんの見解を答える中で鼎談は進行しています。

私が関心をもてたのは、波多野氏の批判的態度と愛智精神です。彼は、社会構成的に人は発展を遂げていくというイメージをもたれていたため、チョムスキーを始祖とする生成文法に反発的するイメージを抱いたそうです。しかし彼は、それを表にださず(そもそもそういう次元でとらえていないかもしれませんが)、素直に生成文法から学べところを学び、改善できるところは代替案で示し、生成文法を下地にする学者と共に学び合っていたそうです。

私が考えさせたのはは、深い部分での思想/信条対立についてでした。深いことの話ができるのは嬉しいのですが、こういった経験をくれる人々は確固とした知識、認識をもちあわせている者同士でしょう。そうすると深い地点で相手との超えられない壁や、相手の思慮不足を意識(or思い込み)してしまった時の対応が大切になるでしょう。対立や不和については、哲学/教育学的に様々な研究がなされて思いますが、それを自らの生き方に反映させるのは万年の課題。

この本を読んで私がもった問いは、「自分は何かに対立しているのではないか?」「その対立を逃れる為に読書/発言/論理構築をしていないだろうか?」というものでした。深さがない人とは対立傾向(無視に近いかな)にあると思いますが、その深さの理解がロゴス上のものでしかないのが居たたまれなく感じております。

その他の思考形態も可能であることは分かっているが、ロゴスの俎上にのせた対話をおこなってしまう自分がいることを再認識した次第です。



■tabi後記
昨日/今日と更新が滞りましたが元気にやっておりますよ。
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2009年05月20日

tabi0169 西垣通「続 基礎情報学」

基礎情報学ではAPS(オートポイティック・システム)ではなく、「階層的自律コミュニケーション・システム」という用語を用いる。また、簡単化のためこれを「HACS」と略記する。HACSはヴァレラの提唱した自律システムの概念を踏まえた閉鎖系であり、APSと比較したとき、三つの特徴をもっている。
第一は、単独のシステムではなく、われわれヒトの心的システムと構造的カップリングした「複合システム」であるということだ。この心的システムこそが、対象システムを内側から観察し記述する存在、つまり「内部的な観察者」なのである。
(中略)
第二の特徴は、その名が示すように、階層性をもつということである。(中略)APSの内部にさらにAPSが包含されていることはありえず、たとえば心的システムと社会システムは相互浸透という対等の関係にあると考えられている。(中略)HACSの階層性は物理空間内の包含性ではなく、位相空間内の拘束/制約関係であることに留意しなくてはならない。すなわち下位のHACSは上位のHACSの直接の構成素になるのではなく、ただ上位のHACSに対しその構成素産出のための素材を提供するのみなのでらう。
(中略)
HACSの第三の特徴はその構成素が「コミュニケーション」であることだ。細胞やタンパク質などの物質が構成素になることはない。(中略)すなわち構成素はあくまでもコミュニケーションという一過性の「出来事」であり物質ではないのである。P31-33
西垣通「続 基礎情報学」(NHK出版 2008)


前著でも言及されていた「HACS」(階層的自律コミュニケーション・システム)をDID(ダイアローグ・イン・ザ・ダーク)と触覚的自我ワークショップの体験から感じてみたい。

最近、木曜18時から早稲田で行われている安斎利洋ゼミにダイバーしている(潜り)。「デジタルメディアゼミ」という名がついてるが、実際はクリエイター養成私塾という様相です。

安斎さんが全身全霊を込めて?ワークショップを展開されているので、こちらが表現の火種をとらえて、勝手に創作したるというのが良きスタンスなのでしょう。

さて。先週のゼミではアイマスクをしながら自画像創作を行いました。自画像を自我像と解釈するらば、顔を描く必要はない。

このワークショップの目的は「触覚的自我」を体験するというものである。「触覚的自我とは何か?」という問いが立ちあがってくると思うが、私自身も明確な意味を抱けていない。

そこで、先日参加したDID(ダイアローグ・イン・ザ・ダーク)の体験報告から「触覚的自我らしさ」を感じてもらえればと思う。DIDは「光」という我々の日常生活を支える要素を引き算した環境を提供する。

この環境から学べることは、

・視覚を相対化し、四感が際立つということ」
・匿光(誰からも見られない世界)に快感を見いだせること
・見える/見られるということが不快なことでもあると認知すること

であろう。

鳥も石も木も水も他人も匂いや音や服の手触りによって識別できること、クラヤミ下でも安心感/雰囲気を醸し出すことが可能であることが理解できる。

私はこのことから見える/見えない軸での世界解釈から、聞こえる/聞こえない軸へ、そして触れる/触れられない軸へと感覚の度合いが移行していった。

目、耳、手という認知器官の移動だけでなく、それによってコミュニケーションを発動していたことを内省していくのだ。いきなりだが、ゼミでの制作過程を公開する。

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手のほうが紙を切断しやすいという原初的発見
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とはいえ折れ線が決めればハサミが便利

結果、私の作品。

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私は、この作品を観てしまった人からの問いが欲しい。

・左にあるのはメガネですか?
・KとYは何を意味するのですか?
・右下にあるめくれているものは何か?
・右下にあるのは本ですか?
・その裏にあるのは何ですか?
・左上のメガネの淵はどうしてはみ出しているの?
・なぜ画用紙は半分におられているのか?
・どうして3面になってるのか?
etc・・

全てに意図が宿っています。ただ2パーツ以外は無計画でした。

あるアイデアがあるアイデアを生み、あるアイデアが先のアイデアと繋がっていくプロセスに楽しみを見いだしながら創作が終了する。一番感動をしたのは、創作後に自らの作品をみた時だった。

感動を呼び寄せたもの、それは「大きさ」でした。尺度にしていた「自分の手の大きさ」に驚きをもたらされたのだ。目を尺度にしてあらわれる大きさ、手を尺度によって切り取る世界の大きさの差異に遭遇してしまったのです。

■参考リンク
今週の本棚:松原隆一郎
第千六十三夜【1063】
www.さとなお.com(さなメモ): ダイアログ・イン・ザ・ダーク
MindsetWEB:ダイアログ・イン・ザ・ダークに行ってきた!



■tabi後記
この時間まで起きてるのはまずいなあ。夕食前に60分ほど仮眠をとってしまったのが祟っている。
posted by アントレ at 23:35| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0168 西垣通「基礎情報学」

いまいちどポイントを整理しておこう。第一に、情報の「意味」は、一般には解釈者によって異なる。したがって、解釈者/受信者を等閑視して情報を議論することはできないが、解釈者/受信者は常に「生物」である。第二に、生物はオートポイエティック・システムであり、刺激ないし環境変化に応じ、あくまで自分自身の構成にもとづいて自らを内部変容を続ける。その変容作用こそが意味作用である。したがって情報に関するこういった「自己言及=自己回帰」的な性質を明示しなくてはならない。第三に、意味作用する喚起する「刺激」や、それによって生じる「変容」の本質は、物質でもエネルギーでもない。それは「形」であり、「パターン」である。これら三点から、次のような情報の定義がみちびかれる。情報とは、「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」である。P27
西垣通「基礎情報学」(NHK出版 2004)


オートポイエーシスを起点にしながら、情報(機械情報/社会情報/生命情報)について考察をすすめる。情報はあくまで非物質的存在であり、実体概念ではなく関係概念である。例えば、爪の細胞自体は常に入れ替わっているが、我々はそれを同じ「爪」として認知している。これは情報が一種の「パターン=形相」であることを示唆している。そしてあらゆる情報は、基本的に生命体による認知や観察と結び付いた「生命情報」である。引用文にある情報の定義は、情報という「作用」ではなく、情報の「担体」に他ならない。前者の定義を与えるのは本書全体に任せたい。

久しぶりにオートポイエーシスというシステム概念にふれたが、これは興味深い理論である。観察者と行為者を分離することにより入出力の不在を発見し、システムに自己閉鎖系を付与するという発想。たんなる自己認識ではなくて自己制作だとするならば、オートポイエティック・マシンには「入力も出力もない」という条件にするのではなく、「出力がそのまま入力になる」と表現するのがいいのではと感じる。

本書や参考リンクに触れることで、構造と構成の関係、構造的カップリング、アルトポイエーシス/オートポイエーシスという概念を連環的に理解することができた。読自を言い換えるなら「オートポイエティク・リーディング」がいいかもしれない。

私たちは、読書過程(ここでは「本」という狭義の読みに焦点をあてている)にて世界の解釈フレームが変わるとき「稲妻が落ちてくるようにビビっときた」「レンガで殴らるようにガツンときた」と感じていると思う(比喩を実経験している人はいないのに。笑)。人はこの瞬間に「線をひく」「ポストイットを貼る」「3色ボールペンでマークする」「PCに抜き出す」etcといった表現をしているが、私にはこの表現が公共的に無視されていると感じる。線を引く行為(傍線でも波線でも構わない!)は、書籍情報に反応した無味乾燥な行為ではなく、オートポイエティックな営みと捉えたい。そこには、構造的カップリングされた情報が存在していると思うのです。

アーティスト(色々な意味を込めて)という生き物は、ある情報(作品)から世界の解釈フレームの変更をせまられる感動を得たときには、感動による稲妻を帯電し、レンガによる衝撃を反発にし、自分自身の創作を始めていくと思うが、私は、人が本に線を引くという表現にアーティストへの灯火をみる。そして、その解釈表現(それは読み手/書き手を越境して)を表象できるウェブサービス/ソフトウェアをつくりたいなと考えるのである。

■参考リンク
第千六十三夜【1063】
ムサ美オートポイエーシス論
永井俊哉ドットコム
情報考学 Passion For The Future こころの情報学



■tabi後記
皆さんのコメント/アドバイス(entrepreneur1986@gmail.com)待ってます。
posted by アントレ at 20:52| Comment(4) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0167 大津由紀雄/波多野誼余夫「認知科学への招待」

大津:先生、そろそろまとめに入りたいと思うのですけれども、認知科学の将来に寄せる夢のようなものを語っていただけますか?
波多野:1つの夢は、すべての科学の上に立つ科学というような考えがあるでしょ?つまり、科学というのは基本的には人間の認知だから、科学というものは全部認知科学の対象になりうる。そうすると全部の科学を取りまとめた科学としての認知科学というのはありうると思うのですけれども、私はそこまで不遜ではない。もう少し現実的な夢としては、科学の専門分化によって失われてきた要素の一部分が認知科学によって回復できるのではないか、ということだと思うのです。P280
大津由紀雄/波多野誼余夫「認知科学への招待」(研究社 2004)


「ほんとのこと」は哲学でしか扱えないが、「やってみたいこと」は認知科学で扱えそうと感じれる招待状。本書で扱われているのは、認知発達、学習科学、比較認知科学、神経心理学、神経生理学、動物行動学、言語の認知科学、心の哲学といった領域である。

認知科学が科学の基礎になりうるかは、科学哲学との寄り添いになるだろう。認知を1つの枠組み(パラダイム)とした時に、その枠組みを措定してしまう認知的傾向を研究する認知科学哲学といった領域であろうか。コネクショニズム/ニヒリズムに解消されないような現象学的な道具立てが必要かと感じました。

私が認知科学領域でやってみたいと思ったのは、協調的読書の可能性を工学的に探究すること。本書に適切な事例が紹介されていたので驚く。

文章を読む過程はそのままでは観察しにくいが、1単語や1文を1枚のカードに印刷し、そのカードを2次元空間に配置しながら読んでもらうと、読みの過程を観察できる。このカード配置を2人で文献を読む際に利用すれば、2人が互いに相手の「読み方」にコメントしながら協調的に読む状況を作り出すことができる。P26
第2章 学習科学 三宅なほみ


本=グーデンベルクの銀河系/私=言語アラヤ識/読書=社会的生命情報と言語的生命情報のカップリング(瞑想的読書体験?)として考察するのだろうか。同時に、パラレル読書下における認知仮定(時間制限有無,偏見有無,目的設定の強度,書籍関連性,)も探究してみたい。

■参考リンク
DESIGN IT! w/LOVE



■tabi後記
今の自分がコンバージェンスとダイバージェンスのどちらに居心地を感じるかを見定めておくことが大切。
posted by アントレ at 17:10| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0166 多木浩二「ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読」

いったいアウラとは何か?時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを、目で追うことーこれが、その山脈なり枝なりのアウラを、呼吸することにほかならない。P144
多木浩二「ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読」(岩波書店 2000)


写真/映画という芸術作品を起点にして「複製技術時代の一回起性」を論じていく。ベンヤミンは「技術」を第一の技術/第二の技術にわけ、前者がもたらしたアウラの喪失と第二の技術がもたらした遊戯空間の創造を並列に論じている。

礼拝的価値/展示的価値を対立させて、「礼拝的価値=アウラ」と解釈することによって一回起性に重点をおいた思索者としてベンヤミンを捉えることもできるが、彼のユニークさは展示的価値に触覚的可能性を覗きみたところにあるだろう。彼は触覚にはミメーシス喚起と巨大な遊戯空間の同時的開きがあることに迫ろとしたのである。

写真芸術が本質的に志向するのは事物の一回起性そのものである。他ならぬこの自分にだけ垣間見えた世界の一瞬の像を定着させる行為は、その瞬間にどこまでもコピー可能、再現可能、流通可能なデータと化していく。そこで交わされる己の他者と想定する他者からの意味/無意味の反駁合戦がスタートするのである。そこを抜け出す施策として触覚を措定したのは感心するが、本書からは「その触覚」に関する論考は物足りないものとなっている。

■参考リンク
一回起性と写真
第九百八夜【0908】
複製技術時代の教育



■tabi後記
石井君レアジョブをお勧めしてくれたので無料体験を予約してみた。
posted by アントレ at 08:58| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月19日

tabi0164 ポール・グレアム「ハッカーと画家」

物資的にも社会的にも、技術は富める者と貧しい者の格差を拡げるのではなく縮めている。レーニンがYahoo!やIntelやCiscoのオフィスを見学したら、社会主義は勝ったと考えただろうね。だって全員が同じ服を着て、同じような調度を備えたオフィス(というよりブース)で仕事し、お互いを尊称ではなく名前で呼び合っている。すべてがまさに彼が予想した通りではないか。ただ、銀行の口座を見たらびっくりするだろうけどね。P124
ポール・グレアム「ハッカーと画家」(オーム社 2005)


ポール・グレアムのエッセイは数多く公開されている。その中でも「就職なんてもう古い」「本当は上司なんて必要ない」「都市と野心」Paul Grahamエッセイ集を読んでおけば、すんなりと読める本です。グレアムは対象に埋没しながらも、そこから離脱する知性(ディタッチメント)をもっていると思うが、この姿勢は本書よりも、リンク記事のほうに如実に現れるていると思う。

■参考リンク
諸悪の根源は物理的
道具の時間軸
スペシャリストとオタクはどこが違う



■tabi後記
ハッカーでもいい。画家でもいい。起業家でもいい。自信の存在感覚に敏感であること。その存在で世界を分節する方法論を実験によって獲得すること、実験によって該当がないことを観るならば開発すること。その営みに真摯であることを伝えていると感じる。
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2009年05月17日

tabi0161 田中克彦「ことばと国家」

「母語」ということばに私がとりわけこだわるのは、じつは、日本語にはいつの頃からか「母国語」ということばが作られて、それが専門の言語学者によってさえ不用意にくり返し用い続けられているからである。母国語とは、母国のことば、すなわち国語に母のイメージを乗せた煽情的でいかがわしい造語である。母語は、いかなる政治的環境からも切りはなし、ただひたすらに、ことばの伝え手である母と受け手である子供との関係でとらえたところに、この語の存在意義がある。母語にとって、それがある国家に属している否かは関係がないのに、母国語すなわち母語のことばは、政治以前の関係である母にではなく国家にむすびついている。P41
田中克彦「ことばと国家」(岩波書店 1981)


本書でも言及されているが、母語との(母)国語との関係を、あたかも実験場であるかのようにうつし出しているのがイスラエル国家である。1948年にイギリス政府によって建設されたイスラエルには多数のユダヤ人が「生まれ故郷」をすてて新設の「母国」へ戻っていった。

しかし、ここで使用している「母国」という言葉が日本語を母語する者にとっては奇妙な感じを抱かせるであろう。世界各地から持ち込まれた多用な言語を話すユダヤ人はイスラエル国民であり、その「祖国」はイスラエル国家であるかもしれないが、「言語的母国」はポーランドやブルガリアだったりするのである。なかには新しく参加した祖国の国語であるヘブライ語よりは「異国の母語」をなつかしみ、手放さない者もいたようだ。

とりわけ関心が向くのは、イーディシュとドイツ語を母語にする人たちの母語への執着である。様々な表現題材にされてきた(されていく)ドイツからの追害を受けた経験をもちながらも、ドイツ語への執着をみせることに関心が向く。そして、この現象は方言/在日朝鮮人にも考えられることである。方言というのは、アイヌ語/琉球語もそうだが、関西弁/◯◯なまりといったものまで含めて考えている。

「日本語」というひとつの言語で用が足りてしまい、隣の国の言葉と日常的に接する機会もない日本人にとっては、言語というのは空気のように身近で透明な存在であり、こうした言語状況は稀であることは意識の片隅にもっているだろう。本書では、ひとつの国家が自国内の多数の言語をある方向に統御していくという、海外では常に目の当たりにさせられる事を例を提示しながら論じている。



■tabi後記
「母語に選択する自由はあるか?」という問いは惹き付けられる感はあるが、些か単純な知性のような気がする。私は「母語は複数性をもてるか?」「母語と思考(表現)に影響関係はあるか?」といったことに関心が向いた。
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2009年05月15日

tabi0157 西田圭介「Googleを支える技術」

Googleの内側を知ったからといってなにがうれしいのか、と感じる人もいるかもしれません。Googleはすでにそこにあるのだから、それをただ利用すればよい、というのも一つの考え方でしょう。しかし、Googleのしてきたことは、コンピューティングの未来の先取りです。さほど遠くない将来、Googleの中にいない私たちにもその未来は届くでしょう。未来に備える。本書の本当の目的はそこにあるような気がしてなりません。P4(本書に寄せて:まつもとゆきひろ
西田圭介「Googleを支える技術」(技術評論社 2008)


この本で記載している「Googleを支える技術」は大きく分けて次の4種類

1) サーチエンジン技術
2) 分散ソフトウェア(と分散ファイルシステム)
3) ハードウェアメンテナンスと電力消費等の解析
4) 開発体制

それぞれ断片的に情報公開されている(主に英語)が、それが論文であったりすると中々アクセスすることが出来ない(背景にある技術も含めて)。本書はGoogleの分散ストレージ(GFS/BigTable/Chubby)、分散データ処理(MapReduce/Sawzall)、運用コスト、開発体制について公開論文を参照しながら解説されています。レビューをするのがいささか遅い感がありますが、先月発表されたAmazon Elastic MapReduceと絡めるとすれば、視点を広げるチャンスになるのではと思います。

Amazonのクラウドサービス(Amazon EC2/S3)は、手元に PC 1台とクレジットカードさえあれば、大規模な並列計算機とストレージを使うことができるというコンセプト。大量の情報のインデックス付け、シミュレーション、データマイニング、集合知プログラミン等をもとにして、世の中に溢れて出ている生データを自分が「意味がある」と思えるように情報を抽出/変換することが出来る。このような大規模計算を分散・並列処理の勉強をしさえすれば、誰もが実行できる時代になった。これを使って何ができるか/できないか、その前にこの「おもちゃ」をいじくりまわすことで何をしたいのか。それらを思慮したうえで(じっくりとではなく、ざっくりと)嵌ってみようかなというのが私の心境です。

Google container data center tour


■参考リンク
ユメのチカラ
Beauty Deeper than the Skin - 書評 - Googleを支える技術
21世紀の「公民」教材としての「Googleを支える技術」
検索エンジンはまだまだ先があると思う
もはや化学プラント? グーグルのデータセンター内部を紹介する動画
「Googleを支える技術」に載っていない日本語検索エンジンの技術
Hadoop 調査報告書



■tabi後記
Eins plus eins ist zwei.Eins mal eins ist zehn!
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tabi0156 ジュリア・クリステヴァ「ポリローグ」

《ポリローグ》というのは新語です。これによって私が示したいと思ったのは、私たちを成り立たせている「ロゴス」が、ひとつの全体あるいは総体という首尾一貫性をもってはおらずーあるいはもてなくなってー、複数のロゴスへと細分されていくこと、それら複数の論理が、私たち一人一人を突き抜け、現代の世界を複数の記号象徴的実践で満たしているということです。実際、夢をみる《私》、赤ん坊のことばを想像する《私》、ヘーゲルを読む《私》、ジオットやアルトーを解読する《私》ーこれら複数の《私》は、同じ私ではなく、同じことばを話してはおらず、同じ時間を生きていません。このような作業の一つ一つのなかに、さまざまな論理を呼び集めているのです。P3
ジュリア・クリステヴァ「ポリローグ」(白水社 1986)


「テクスト」という言葉は構造主義の登場により大きな変容をみせる。それは、テクストは作者が完結させた自立的なものではないという見方が示されたことだ。この問いが生成されたことは大きな事態である。

「テクスト」を「織りもの」と訳してみるなら、私が読み/書く「テクスト」は「引用の束」にすぎない。この問いに立たされたときに思考の射程は、「生成起源」「生成プロセス」「生成効用」に向かっていくと思われる。

私は、クリステヴァは「テキストに対峙し合う読み手・書き手の存在意識」を志向していたと理解する。その志向から「間テクスト性」(intertextualit )という概念が提唱されたのだろう。私がこの概念に注目したのは、昨今「読み手と書き手に歴史/構造/生命を見出すこと」に関心が向いているからです。

例えば書籍には、参考文献と注釈というのがあるが、そこに掲載される文献の背後には、その人間が読んできた書籍/思考の掲載可能性が失われた結果がある。(予め言っておくと、私はその人間に隠されている汎知を記述したいという欲があるのではない)読み手にも、該当分野に関する知識の有無や、既存にあるパターンをどのように生成し、適応をしているかがテキスト経験を語る上では大切になってくる。

また、新刊書であれば、同時期に数百、数千の「読者」がパターン認識/パターン崩壊を起こしている。そこで生成される情報に関心があるのだ。そして、読み手が書き手に変わるとき、その情報が書き手と交わるとき、書き手が読み手であるときのことに関心は広がる。その中で私が考えてる地平が、【ポリローグ】の共時的実践である。クリステヴァが語るのは《ポリローグ》の通時的事態であり、また《ポリローグA》と《ポリローグB》が交わされる「間テクスト性」であろう。

私は、【ポリローグ】の共時的実践に関心がある。それは、個人が並列的に間テクスト性を操作することにより、意図しない認知(切り口?)が立ち上がることの探究だと考えている。といっても、大概の認知は意図しない事態であるから、意図せざる認知の中において「特別性」を付与する必要がある。

それが「アハ体験」といわれるものなのか、「アブダクション」という切り口で向かっていくことなのかは煮詰めていない。今は数多くのアプローチを鑑みると同時に、独自の傾向性を議論/具象化していきたいと考えている。

■参考リンク
第千二十八夜【1028】ジュリア・クリステヴァ
クリステヴァの<間テクスト性>についての引用
こっくりさん



■tabi後記
すると多重人格/境界性人格に関心が芽生えてくるが、ビリーミリガンの存在を知ったのが高校に入学時であることを思い出すと、この思考/アプローチ傾向に違和感がある。まあ、離れていた思考が「ここ」に立ち上がってきたことに騙されてみよっと。
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2009年05月13日

tabi0151 中野京子「怖い絵」

ドガは舞台より楽屋での踊り子たちを好んで描いた。その中にはシルクハットに蝶ネクタイ、夜会服と、黒づくめの紳士たちが、踊り子と立ち話するシーンなども含まれている。ドガの描写は控え目だが、他の画家による絵や石版画ではかなり露骨に両者の関係が示されている。明らかに媚を売る踊り子の様子、まるで娼婦と値段交渉をしているかのような男たちの姿が山ほど描かれ、いかにもそれが日常風景であったかを教えてくれる。(中略)これはつまり当時の人々にとっては一目瞭然だったろうが、現代の我々、バレエを洗練させた芸術を考えている者には、なかなか見えてこない点だ。いやにくっきりした黒が使われていながら、目に入ってこないのだ。ところがこうしたことを踏まえて見直すと、エトワールの首に巻かれたリボンの色もまた、紳士の服と同じ鮮やかな黒で描かれているのが目にとまる。まるで金で縛られていることの象徴のように・・・。P18-19
中野京子「怖い絵」(朝日出版者 2007)


本書には20作品が取り上げられているが、最初に掲載されているエドガー・ドガ(1834-1917)『エトワール、または舞台の踊り子』(1867年,パステル,60×44cm,オルセー美術館)という作品に目が止まった。

中野氏が展開する図像学(iconography)によって私の思い込みが反転させられた。記事を書くために本作品について調べてみると、本書で言及される解釈をしることができるが、普通に生活している限りは出逢うことはなかった。中野氏が「怖い絵」というコンセプトを紡ぎだし、それを世に問うことがなければ、私は解釈に出逢うことがなかったのだろう。

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Quote:『エトワール、または舞台の踊り子』

引用文をみてもらえば分かるように、この絵からバレエの歴史が読み取れる。女性の労働状況、それを支えたパトロンの存在である。ベネッセの福武總一郎は 「経済は文化の僕である」という至言をはなっているが、この言葉には「文化は経済で支える必要がある」ことも含意している。その言葉をリアリティーをもって感じることができる作品ではなかろうか。

■参考リンク
エドガー・ドガ Edgar Degas 1834-1917 | フランス | 印象派
中野京子の「花つむひとの部屋」
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
一つの一つの行為に驚嘆してしまう日々です。「なぜ、このような絵が描けるのか」というものから、「なぜ、このガードレールが出来ているのか」というものまで。視点が広がることは素晴らしいが、怖いものでもある。
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2009年05月12日

tabi0148 網野善彦「日本の歴史をよみなおす(全)」

それでは、現在の転換期によって、忘れ去られようとしている社会、いまや古くなって、消滅しつつあるわれわれの原体験につながる社会はどこまでさかのぼれるのかというと、だいたい室町時代ぐらいまでさかのぼれるというのがこれまでの研究の常識になっています。つまり、ほぼ十四世紀に南北朝の動乱という大きな変動がありますが、それを経たあとと、それ以前の十三世紀以前の段階とでは、非常に大きなちがいがある。十五世紀以降の社会のあり方は、私たちの世代の常識で、ある程度理解が可能ですが、十三世紀以前の問題になると、どうもわれわれの常識ではおよびがつかない、かなり異質な世界がそこにはあるように思われます。
いわば、現在の転換期と同じような大きな転換が南北朝動乱期、十四世紀におこったと考えられるので、この転換期の意味を現在の新しい転換期にあたってもう一度考え直してみることは、これからの人間の進む道を考えるうえでも、また日本の文化・社会の問題を考えるうえでも、なにか意味はあるのではないかと思うのです。P14
網野善彦「日本の歴史をよみなおす(全)」(筑摩書房 2005)


網野氏は、時代の転換点を見定める上で、文字(伝達)/貨幣(信用)/畏怖(アイドル)/賤視(タブー)/女性(血縁/家族)/天皇といった切り口をもって歴史を縦横無尽に駆け回る。その勢いには素晴らしいものを感じる。また、これらの切り口をはじめとして、網野氏がどのように日本を「読みなおしていったか」については目次が教えてくれる。

――日本の歴史をよみなおす――

第一章 文字について
村・町の成立――遺跡の発掘から/日本人の識字率/片仮名の世界/女性と平仮名/文字の普及と国家

第二章 貨幣と商業・金融
宋からの銭の流入/富の象徴/どうしてモノが商品となるか/どうやって利息をとったか/神仏、天皇の直属民/聖なるものから世俗のものへ/鎌倉新仏教の役割

第三章 畏怖と賤視
古代の差別/悲田院の人びと/ケガレの問題,「非人」の出現とその仕事/特異な力への畏れ/神仏に直属する「非人」/河原者/放免/童名を名乗る人たち/聖別から卑賤視へ/『一遍聖絵』のテーマ/絵巻をさかのぼる/差別の進行/東日本と西日本の相違

第四章 女性をめぐって
ルイス・フロイスの書物から/男女の性のあり方/太良荘の女性たち/女性の社会的活動/女性職能集団の出現/公的世界からの女性排除/穢れと女性,女性の地位の低下

第五章 天皇と「日本」の国号
天皇という称号/「日本」という国号の歴史/天皇の二つの顔,租税の制度/「職の体系」、神人・供御人制と天皇/仏教と天皇/日本列島には複数の国家があった/天皇家の危機/権威と権力/大転換期

――続・日本の歴史をよみなおす――

第一章 日本の社会は農業社会か
百姓は農民か/奥能登の時国家/廻船を営む百姓と頭振(水呑)/村とされた都市/水田に賦課された租税/襖下張り文書の世界

第二章 海からみた日本列島
日本は孤立した島国か/縄文文化,弥生文化/西と東の文化の差/古墳時代/周囲の地域との交流関係/「日本国」の誕生/「日本国」の範囲/海の交通と租税の請負/金融業者のネットワーク/諸地域での都市の成立

第三章 荘園・公領の世界
荘園公領制/塩の荘園/弓削島荘/鉄・紙・漆の荘園,新見荘/銭の流入/請負代官の業務/山臥の代官

第四章 悪党・海賊と商人・金融業者
悪党と海賊/「悪」とはなにか/一遍の教え――都市的な宗教/貿易商人、事業家としての勘定上人/村と町の形成/海の慣習法

第五章 日本の社会を考えなおす
「農人」という語/「重商主義」と「農本主義」の対決/新しい歴史像/飢饉はなぜおきたのか/封建社会とはなにか/西園寺家の所領/海上交通への領主の関心/「重商主義」の潮流
Quote:Reading Diary-MEMO


この中から印象に残った事を列記すると、

・日本の村の四分の三が室町時代に出発点を持っている

・14世紀を超えて15世紀にはいる頃になると、それまで漢字中心の文章からひらがな交じ
りの文章の割合が圧倒的に増える

・天皇という称号が制度的に定着するのは天武・持統朝。日本という国号もそれとセットで7世紀後半に定まった。つまり、聖徳太子は「倭人」ではあっても「日本人」ではない

・縄文時代からすでに日本は朝鮮半島や北のサハリンと交流があった。海は日本の国境ではなく、むしろ東と西をはじめ、いまの日本の国内に複数の国が存在していた

・百姓は必ずしも農民を意味しない。土地をもたず貧しいと考えられていた水呑百姓は必ずしも貧しくはなく、むしろ廻船業を営むなどして裕福である場合もあった

・これまで貧しい村と考えられていた田畑の少ない離島や山奥の村であっても必ずしも貧しいとは限らなかった。むしろ、海路や陸路における要衝の地で栄えている場合も少なくない

・律令国家はすべての民を戸籍に記し田畑を与え、稲による租税の徴収を行おうとしたが、実際はすべての民が農業に従事することはなく、租税も米に換算した別の物資(鉄、海産物、絹や麻など)で支払われることになった。また、律令国家はそれまでの海や河を通じた交易から、陸路による交易へと転換しようとして、都から地方へと延びる真っ直ぐな道を整備したが、しばらくすると海路・水路による交易に戻って、陸路の道は廃れていった

歴史と対峙する時には、いろいろなパターンがあると思う。

・特異点を見いだし、自らを重ねる
・諸行無常を感じ、変化を企てる現在行為を駆動する
・今に残るものを風情よく感じとる
etc

私にとって歴史は、数字でもなければ、特異点を見いだし微笑するためのものも、雑学として語り継ぐものでもない。それは他の人がやっているので任せたい。私にとって歴史は、なぜ、たった今、この場所に、私は存在しているか。この点について光を照射してもらうためである。

■参考リンク
第八十七夜【0087】
NED-WLT
DESIGN IT! w/LOVE



■tabi後記
昨日からLawrence Lessig「Remix」を読んでいる。
posted by アントレ at 10:20| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月11日

tabi0146 平川克美「ビジネスに「戦略」なんていらない」

人間の人間性を基礎づけているのは、この「絶対的に遅れて世界に到来したことの覚知」です。先ほどの比喩を繰り返せば、「すでに始まっているゲームにプレイヤーとして参加することを通じてゲームの全体をだんだんと理解してゆく」という背理的なありようだとぼくには思えるのです。
ぼくたちが立っているこの場はすでに誰かが作ったものであり、誰かが出した「パス」をそれと気づかぬまま受け取ってしまったという仕方で、ぼくたちはそのゲームの当事者になっている。ですから、そこで行われている交換が「等価交換」であるはずがないのです。それは最初の「贈与」から始まる(人類の歴史と同じだけ長い)連鎖反応から派生した、ひとつの効果にすぎないんですから。
ですから「オーバーアチーブ」ということは、本当はありえないんです。というより「与えられたものと等価のものを返す」という適切なる反対給付が人間にできるはずがないのです。だって、起源よりさらに前の起源(レヴィナス老師の言葉を借りて言えば、「いまだかつて一度も現在になったことのない過去」」)において、誰かに何かを譲渡されたことによって「アチーブする」主体そのものは立ち上げられたわけですから。P239-240
平川克美「ビジネスに「戦略」なんていらない」(洋泉社 2008)


「人間がビジネスをするのではなく、ビジネスをする動物が人間なのだ。」という射程で本書ははじまる。引用文は、著者と内田樹の対話から。

平川氏が問題意識としているのは、ビジネスを「お金」であれ「達成感」であれ、あるいは経営者の自己実現であれ、明確な目的が事前にあるものだとする考え方そのものが、ビジネスをつまらなくさせているという点について。

そこで彼は、ビジネスプロセスを「収益」や「売上」の手段という地位から引き上げて、ビジネスプロセスそれ自体に「価値」を見出すことに論を進ませる。主に扱われのは、「商品の迂回性」と「交換の反復」の2点。

個人の欲望は必ず「商品」を媒介として、迂回的に実現する他はないと平川氏は考えており、それがビジネスの構造であるとする。もちろん迂回的というところがミソである。つまり、評価が確定され続けないものがあるということであり、その評価されなかった部分はつまりのところ「やりすぎてしまう」ということに繋がる。

例えば、自己評価と外部評価の壁。これは、互いが氷山の一角しか見えていないことに起因しているが、この氷山の一角の「一角」を見えるものにしている無数の条件を我々は無意識のうちに排除しているのだ。そして、その排除したものが何かを分からないあまりに、追い求めている。

そして人間が、使用価値を超え出る象徴価値(ブランド)を求めるのは、それを所有することが社会的位階差を表象するからであると。社会的位階差とは何か?それは、「その人にもう一度会わずにはいられない(しかし、どうやったら会えるのか、そのルールがわたしには明かされていない)という焦燥感」のことである。(ex『ローマの休日』のラストシーン)

以上は書籍内容であるが、ここと絡めて思ったことをいくつか書きたい。1つは、我々に潜んでいる投資家的態度と起業家的態度ついて。もう1つは、欲望について。

投資家的態度とは、未来の株価から出発して、現在の投資を決めるというDCF的態度。これに対するのが起業家的態度は、絶えず現在を更新しながら未来を切り拓くという態度。我々人間は、他者の欲望を模倣し、同時に他者に欲望されたいと欲望する存在である。他者と同じでありたいということ、同時に他者とは異なっていたいということ、この2つの欲望をひとつの精神に宿っていることが、我々の観念的欲望を無限に再生産/駆動していく。

まとめると、「上記にみられる複雑な構造を考えながらビジネスをするのは楽しいぞ」という文系教養人による真っ当なビジネス論です。

■参考リンク
カフェメトロポリス



■tabi後記
S.I.ハヤカワ「思考と行動における言語」とスティーブン・ピンカー「思考する言語」が気になる。さあ、どうでしょうかね。
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tabi0145 小沼純一 編「武満徹 対談選」

武満:明らかに僕が聴いたのは、ジャレットさんの即興演奏、ジャレットさんが創り出している、おっしゃったように暗い闇から引き出してきた音、音楽であったわけだけれど、それはたいへんパーソナルでありながら、何と言ったらいいかな、感じたことを適切に言う言葉ちょっと大げさに響くかもしれないけど、ユニヴァーサルというか、いやもっと宇宙的(コズミック)な、つまりジャレットさんが弾いているってことを忘れちゃうような世界ですね。

それはさっきジャレットさんが言っていた、さらに深く深化していくことによってもう音楽なんか何もないような世界といってもよい。つまりそれは、音楽が満ちあふれていて音楽が見えなくなっているような状態というか、人間はこの宇宙の中では実に小さな存在だけれど、しかしそういう小さなものがこの大きな宇宙のパーツであり、また大きなシステムのなかにあるのだということを感じたんですね。

ジャレット:何という詩人が言ったのかは知らないのだけれど、私の好きな一節に"the more personal the statement is, the more universal it is"(主張がパーソナルであればあるほど、それはユニヴァーサルなのだ.)というのがあります。
武満さんはこの二つの言葉をちょうど今言われたわけだけれど、この詩を読んだからというのではなく、私の経験から、即興の経験から言えることは、それは強力なホースで毎回すべてを洗い流してしまってから、そこに残るものを見るようなことだと思うんです。P157
小沼純一 編「武満徹 対談選」(筑摩書房 2008)


世界でもっとも知られる日本人作曲家、武満徹。一方で「武満徹の名を多くの外国人外交官は知っているが、日本人外交官は彼を知らない」と語られることもある。私も彼の名前を知っているだけ(また、大学受験国語で読んだことがあるくらい!)でしたが、ジョン・ケージ、ヤニス・クセナキスらの音楽家や、谷川俊太郎、大竹伸朗らの芸術家、そして黒柳徹子など幅広い分野の人々との対談をつうじて、彼の人なりと根本思想のようなものが薄らと見えた気がする。

これらの対談の中で私は、武満徹とキース・ジャレットの対談に目がとまった。彼らを熟知していたわけではないが、これを機により知りたいと思わされた。

そう思わせたのは、彼らに通底する哲学であろう。それは、ミクロコスモスとマクロコスモスに対する理解であり、2つのコスモスを「1」にする調和を目指すのでもなく、2つのコスモスを対立させることを目指すのでもなく、ただその融和のなかに佇むということを認識/存在の両方で感じていること。そして、そこに佇む<私>を全力で表現していること。その2点が私を好奇心に駆り立たせた。

Takemitsu:November Steps(excerpt)


Keith Jarrett Solo Concert


■参考リンク
第千三十三夜【1033】
武満徹/追悼小論 ノヴェンバー・ステップスへのジャイアント・ステップス
キース・ジャレット・創造の秘密
Takemitsu Soundtrack Documentary (1 of 6)



■tabi後記
生みの苦しみとはいかなるものだろうか。煮え切らぬ思い、そして表現の壁か。本日も外は熱している。
posted by アントレ at 16:48| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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