2009年05月09日

tabi0143 ダニエル・T・マックス「眠れない一族」

プリオン病に罹っているいる人のだれと比べても、私はほんとうに幸運だ。何であれ、慣れるだけの時間が十分にあるのだから。帰ろうとする私に、医師は一年後か二年後にまた受診するように、と言う。そうすることもあれば、しないこともある。ときには、何か新しいことがわかるのではないかと別の医師を訪ねてみる。つまるところ、証拠の不在は、不在の証拠にはならないのだから。いつかどこかでだれかが、治療法を見つけてくれるか、少なくとも病名ぐらいを見つけてくれるだろう。私のが病気が何であるにせよ。P334
ダニエル・T・マックス「眠れない一族」(紀伊国屋書店 2007)


著者自身が「眠れない一族」と類似する病気を抱えていること。「なぜ私が病気にならなくてはいけないのだ?」という理不尽さを抱えながら、自分よりも理不尽な病に対峙する一族に対峙していくなかで本書が書き上げられていったことを知り、関心をもった。

本書はプリオン病の謎に挑むメディカル・ミステリーである・登場するプリオン病はすべて致死性で、十八世紀以来、あるヴェネツィアの一族を苦しめてきた致死性家族性不眠症(FFI)、ヨーロッパ各地で大発生した羊の病気「スクレイピー」、二◯世紀前半に発見されたクロイツフェルト・ヤコブ病、二◯世紀後半にパプアニューギニアのフォレ族に猛威を振るった「クールー」、一九八◯年代後半にイギリスで発生して今に至る牛海綿状脳症(狂牛病)などがある。

これらは発生の時期や場所が違うばかりか、遺伝性、感染性、散発性という形態もさまざまで、症状も同一ではない。そのうえ、ウイルスやバクテリアが原因の通常の病気と違い、非生物のタンパク質が原因で、従来のパラダイムが通用しなかった。「遺伝子が生物の形質を決定する」「生物だけが感染を引き起こす」とばかり思っていた人々は、感染性も遺伝性も散発性も持ち、「何ヶ月も何年も無症候性を保」ち、既知の免疫反応を起こさせない、前代未聞の「不死身」の病原体にとまどう。

「プリオンはタンパク質にすぎず、命はない」にもかかわらず、自分と同じ折り畳まれ方のタンパク質をふやしてゆくので、「生存は自らの遺伝子を広めようとする個体間の競争から成り立っている」という、ダーウィンの説に反することを認めるためには大きな思考の飛躍が必要であったのであろう。飛躍の先で佇まいをしている我々に出来るのは、思考の飛躍が要されているのは常のことであり、メタ認知に優れた人間ですらも容易にパラダイム固執をしてしまうという厳然たる事実を心に刻み付けることだけである。

■参考リンク
成毛眞ブログ
狂牛病 - 食人 - 致死性家族性不眠症
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
Amazon Kindleについて深めのリサーチをしてみようかと考えている。
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tabi0142 岡倉天心「茶の本」

茶はわれわれにとっては、飲む形式の理想化以上のものとなった。それは生の術の宗教である。(中略)茶の湯は、茶、花、絵画を素材に仕組んだ即興劇であった。茶室の調子を乱す一点の色もなく、物事のリズムをそこなうもの音一つ立てず、調和を破る身の動き一つなく、周囲の統一を破る一言も口にせず、すべて単純に自然に振舞う動作ーこういうものが茶の湯の目的であった。そしていかにも不思議なことに、それがしばしば成功したのであった。そのすべての背後には微妙な哲理がひそんでいた。茶道は変装した道教であった。P35
岡倉天心「茶の本」(講談社 1994)


この本をとった(つられた)瞬間にすべてが決まっていた。すごい釣り師がいたものだ。

「西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき、日本を野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国とよんでいる。」といった咆哮から論旨がはじまっていく。

「THE BOOK OF TEA」を手に取った方々(天心がターゲットとした西洋人)は「Tea」についての艶かしい論述を期待していたのではないだろうか。そこでこの出だしである。

次に続くのが
いつになったら西洋は東洋を理解するのか。西洋の特徴はいかに理性的に「自慢」するかであり、日本の特徴は「内省」によるものである。茶は衛生学であって経済学である。茶はもともと「生の術」であって、「変装した道教」である。宗教においては未来はわれわれのうしろにあり、芸術においては現在が永遠になる。
といった記述である。これを釣りといわずして何といおう。とはいえ、釣られたものも釣られたままでは終わらせないのが茶室の美学。天心が述べるところで言うのなら、「出会った瞬間にすべてが決まる。そして自己が超越される。それ以外はない。」「われわれは「不完全」に対する真摯な瞑想をつづけているものたちなのである。」ということであろう。井筒氏と比べることは難しいが、天心が目指していたのもまた「精神的東洋」だったのだろう。
 
■参考リンク
第七十五夜【0075】
Publishing [対訳ニッポン双書]『茶の本』に序文を寄稿
39旅 岡倉覚三(天心)『茶の本』
DESIGN IT! w/LOVE



■tabi後記
明朝は「THE BOOK OF TEA」を素材にして英語学習です。
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2009年05月08日

tabi0139 丸山真男 「日本の思想」

むしろ過去は自覚的に対象化されて現在のなかに「止揚」されないからこそ、それはいわば背後から現在のなかにすべりこむのである。思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルべったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面にすぎない。一定の時間的順序で入ってきたいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。P11
丸山真男 「日本の思想」(岩波書店 1961)


「日本の思想」自体はは66ページの論文である。論旨は明確であるが、細かな注が多いこともあり現代の新書を読み慣れた人にとっては難解な部類にはいると思われる。日本思想というものは存在したのか?なぜ思想のサラダボールといわれる状況がおきているのか?ササラ型/タコツボ型と思想形成の歩みに対する分類を行っている。

引用文にみるように、日本思想は、流動的伝統であり、精神の内面が構造性をもたない傾向にある。こういった傾向の中で、異なったものを思想的に接合することを合理化するロジックとして用いられたのが「何々即何々」(あるいは何々一如)という仏教哲学の俗流化した適応であった。

このように、あらゆる哲学・宗教・学問を相互が原理的に矛盾するまで「無限抱擁」してこれを精神的経歴のなかに「平和共存」させる思想的「寛容」の伝統にとって唯一の異質的なものがある。それは、こうした精神的雑居性の原理的否認を要請する思想である。近代日本においてこうした意味をもって登場したのが、明治のキリスト教であり、大正末期からのマルクス主義だった。

■参考リンク
第五百六十四夜【0564】

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tabi0138 西田幾多郎「善の研究」

真の宗教的覚悟とは思惟に基づける抽象的知識でもない、また単に盲目的感情でもない、知識および意志の根底に横われる深遠なる統一を自得するのである、即ち一種の知的直観である、深き生命の捕捉である。故にいかなる論理の刃もこれに向うことはできず、いかなる欲求もこれを動かすことはできぬ、凡ての真理および満足の根本となるのである。その形は種々あるべけれど、凡ての宗教の本にはこの根本的直覚がなければならぬと思う。学問道徳の本には宗教がなければならぬ、学問道徳はこれに由りて成立するのである。P56-57
西田幾多郎「善の研究」(岩波書店 1979)


西田の出発点となる「善の研究」は、彼が30代をかけて書き上げた著作である。金沢の第四高等学校で教鞭をとりながら、徐々に徐々に完成させていった。

本書では「西田哲学=場の哲学」という印象は多く感じられないが、「意識統一による意志」「純粋経験」という言葉を丁寧に丁寧に理論づける姿勢に関心をもたされる。(それを煩わしく思い、言語遊戯だという方もいるだろうが・・)

また、幼少期からの禅体験が用いる言葉にも影響をあたえている気がする。引用文はそんな一説。既にこの時、西田の内には宗教的経験(覚悟)が根ざしていたのだろうか。西田が、そこで観取した「知的直観」をロゴス空間へ落し込もうと苦心する様を読後真っ先に想起した。

■参考リンク
第千八十六夜【1086】
61旅 『善の研究』西田幾多郎



■tabi後記
久々に夜更かしをしている。
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2009年05月06日

tabi0135 ミルトン・メイヤロフ「ケアの本質―生きることの意味」

私と補充関係にある対象と自分自身の関係は、椅子とテーブルの関係のように外面的なものではない。それどころか、私はそれを拡張した自己であると身に感じとり、その成長と同一化するのである。だからといって、その関係は寄生的なものではない。私とその対象をともに肯定するという意味で、その対象は自分の一部なのである。そしてケアのあらゆる場合に、私はその相手をある意味で自分の一部として身に感じとるのであるが、こうした経験は、その対象が私と補充関係にあり、かつ自分を完成してくれるものと感じた場合に一層顕著なのである。P125
ミルトン・メイヤロフ「ケアの本質―生きることの意味」(ゆみる出版 1987)

先日、学生団体VOICEのメンバーが近藤正晃ジェームスさんにインタビューにいってきたようです。そのインタビュー内容と本書を絡めて論じたい。

近藤さんは、マッキンゼー社が全世界のクライアントに行った「コンサルタントに求める理想像とは?」という調査結果の話しをしていました。コンサルタントや採用担当者は、地頭が良い人、問題解決能力が高い人といった要件をあげていたのだが、クライアントが一様に答えたのは「ケアリングな人間」という回答であった。

メイヤロフのいうケアリングとは、ケアされる他者の成長を可能とする行動である。しかし、それだけにとどまらず、他者をケアすることにより、ケアする人もまた自身に欠けているものに気づくことから成長するのである。この関係性が成立することで、ケアリングが達成される。そのため、ケアリングとは他者志向的な行動であると同時に、自己志向的行動でもあるといえる。このことから、メイヤロフのいうケアリングの本質は、関係性であるといえる。

人は、子供をもったとき、自分の死を悟ったとき、親の死を悟ったときにMe志向からWe志向に変わると考えた。私はこの状況を「体内に時計が出来る」と表現している。このアイデアはメイヤロフでいう「ケアの本質」に気がついたときと言い換えられると気がついた。



■tabi後記
マキネスティ広尾店にきている。美味しいコーヒ、素敵なスタッフ、電源、無線LANがあるので最高です。
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tabi0134 セネカ「人生の短さについて」

いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。多数の人々が次のように言うのを聞くことがあろう。「私は五十歳から暇な生活に退こう。六十歳になれば公務から解放されるだろう。」では、おたずねしたいが、君は長生きするという保証でも得ているのか。君の計画どおりに事が運ぶのは一体誰が許してくれるのか。人生の残り物を自分自身に残しておき、何ごとにも振り向けられない時間だけを良き魂のために当てることを、恥ずかしいと思わないか。生きることを止める土壇場になって、生きることを始めるのでは、時すでに遅し、ではないか。有益な計画を五十歳・六十歳までも延ばしておいて、僅かな者しか行けなかった年齢から始めて人生に取りかかろうとするのは、何と人間の可死性を忘れた愚劣なことではないか。P15-16
セネカ「人生の短さについて」(岩波書店 1980)

セネカが自分自身へ書いたエッセイではないだろうか。そう思えば思うほどに言葉が重くなってくる。私たちの世代は120-200歳まで生きるのが当たり前になるかもしれない。その時においては、80歳は人生の折り返しにしかすぎない。しかし、寿命が倍になっても「人生」が2倍にはならない。むしろ寿命に占める人生の割合は小さくなるのではないか。私たちは「主体的に生きる」「自分らしく生きる」という言葉で自己規定する必要はない、「準備の人生」「下積みの人生」という言葉で自己説得する必要もない。

セネカが説いたのは、人生があるのではなく、人生を見いだす人がいるという教えである。人生を見いだすとはいかなることか。そこに明確な文章は存在しないが、自分がなぜ存在してしまっているのかという問いに対してシンプルな感覚を持ち続ける事が大切であろう。

■参考リンク
992旅 セネカ『人生の短さについて』
はっきり言います、あなたのような生き方をしている限り、人生は千年あっても足りません。時間などいくらあったところで、間違った生き方をすればすぐに使い果たしてしまうものなのです



■tabi後記
広尾のJICA広場にてTFT(Table For Two)のメニューを食してきた。
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2009年05月05日

tabi0131 日蓮「立正安国論」

主人と客との対立を「仏法」と「王法」のどちらを優先させるかといったレベルで捉えることは適切ではない。仏法なくして安国もないという点では両者の認識は完全に一致しており、それは議論の共通の前提だった。(中略)客はそれまで法然の信奉者であったように描かれているが、その信仰の内実は法然の説くそれと似て非なるものであった。客は第三段・第四段では、当時が嘉(よみ)すべき仏教全盛の時であるという時代認識を披露している。その上で、「邪説」が蔓延して伝統仏教が衰亡の危機に瀕しているとみる日蓮に疑問を投げかけている。(中略)客の念仏受容は、他の教行を拒否して念仏を専修するという法然的な<選択(せんちゃく)主義>に基づくものではなかった。むしろ念仏も諸行もその価値を等しく肯定した上で、自分に一番ふさわしい教えとして念仏を実践するという、伝統仏教側の<融和主義>を土台としたものだったのである。P28-29 訳者解説
日蓮「立正安国論」(講談社 2008)


全訳注を参考にしながら読み進めた。エックハルト(1260-1328)と同時代を生きた日蓮(1222-1282)の著作。ミチオ・カクから感じた進歩史観とは対極をなすような下降史観を垣間みた。38歳の人間が時の最高権力者に対し、現在の社会状況の考察、状況に対する自らの解決策を自らのの言葉で綴りきった行為は参考に値する。

■参考リンク
立正安国論に見る日蓮のカルト性



■tabi後記
藤沢さんが実践しているパラレル読書を試してみた。15分×12本(3時間)で3冊を読自するというのは容易な試みであることに気がつく。(1冊の時より負荷がない!)松岡正剛の三冊屋というコンセプトとも通底する。
posted by アントレ at 11:30| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0129 クザーヌス「神を観ることについて」

主よ、私の神であるあなたを、私を何らかの精神的な引き上げにおいて観るのです。なぜならば、もしも眼差しが視覚によって満たされることなく、耳が聴覚によって満たされることがないのであれば、知性は知性認識によってはもっと少なくしか満たされないのだからです。それゆえに、知性を満足させて、それの<目的>となるものは、知性が知性認識するものではありません。しかし、また知性が全く知性認識することのないものも知性を満足させることはできません。ただ、知性が知性認識としてではなく(何らかの精神的な引き上げにおいて)洞察するものだけが、知性を満足させることができるのです。つまり、知性が認識する知性的なものが知性を満足させることはなく、知性が全く認識することのない知性的なものもそれを満足させることはなく、むしろ、十分に知性認識されることはとうてい不可能であるほどのに知性的であると知性自身が知るもの、これのみが知性を満足させることができるのです。P97-98
クザーヌス「神を観ることについて」(岩波書店 2001)

エックハルトの地続きとしてクザーヌスを読了する。「知ある無知」「反対対立の合致」を唱え、中世と近代の最中で生きた人間の思考を垣間みることができた。

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クザヌースは知性/理性/感性を用いて神にアクセスすること企図し、アクセスの統合によって生まれる観/想/信というプロトコル獲得する。という手前勝手な解釈をおこなったあたりで思索は中断された。

■参考リンク
ニコラウス・クザーヌス『神を観ることについて』に関するメディテーション
神論の経歴 一エックハルトの「区別なきもの(indistinctum)」からクザーヌスの「非他なるもの(non−a1iud)」へ一



■tabi後記
八巻さんの記事が面白くなりつつある。もっと飛び抜けてほしい。
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2009年05月04日

tabi0126 南直哉「日常生活のなかの禅―修行のすすめ」

苦しみの本質が「思いどおりにならない」ことなら、その原因たる欲望の本質は「思いどおりにしたい」ということであろう。当たり前のことだと言われるだろうが、ここは勘所である。私がこだわるのは、欲望は単に、言わば本能的に「したい」ではなく、「思いどおりにしたい」ことなのだという一点なのだ。食欲と人は言う。腹が減ったから食べたい。よくわかる話である。では、これと「おいしいもの」が食べたい、ということとは同じことなのだろうか。違うであろう。(中略)ここで仮に「腹がへったので食べたい」を食・欲求と言うとすれば、まさしく「おいしいと思うものを食べたい」こそ、食・欲望と言うべきであろう。(中略)「根拠」として絶対者も自己決定も置けないなら、別のもので根拠を代用にする。これがすなわち物の所有である。つまり所有の本質は、物を「思いどおりに、好き勝手に処分できる」こと、つまり自己決定できることなのだ。とすると、こういうことになる。欲望の核心が所有で、所有の実質的意味が自己決定であり、自己決定が「自分であることの根拠」とされうるなら、欲望と所有と自我(自分であることの根拠)は、三位一体のトライアングルを形成する。P50-52
南直哉「日常生活のなかの禅―修行のすすめ」(講談社 2001)

私にとって、この視点は新鮮だった。「食べる根拠はどこにあるのか?」という問いをもつことで根拠づけとしての欲望の扱いを問い直す。問いをもって生きることによって、自我の肥大を抑えつつ、非己との関係をもち自我を薄くしていく。この2つの視点が欲望を飼いならす術(修業)であると。

tabi0126.jpg
根拠付けの分類と仏教(根拠の外部へ)について思索した軌跡

■参考リンク
合田さんの言葉
Argue
何も死ぬことはない



■tabi後記
断絶した未来はタブー(違法・恥・無理)の先にある未来である。
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tabi0124 エックハルト「エックハルト説教集」

まことに、父はその子を父の単純な本性のうちで、本性のままに生むのであり、その時、父は真実その子を精神の最内奥で生むのである。つまりこれが内面的世界である。ここでは、神の根底はわたしの根底であり、わたしの根底は神の根底である。ここにおいて、神が神自身のものによって生きるように、わたしはわたし自身のものによって生きる。たとえ一瞬たりとも、この根底をのぞみ見たものには、千マルクの純金硬貨といえど、偽造一ヘラー銅貨ほどにしかすぎないものとなる。あなたは、この最内奥の根底から、あなたのわざのすべてを、なぜという問なしに、なさなければならない。P39
エックハルト「エックハルト説教集」(岩波書店 1990)


エックハルトのキータームは「離脱」である。「何も意志せず(無所求)」、「何も知らず(無知)」、「何も持たず(無所有)」という「内なる貧しさ」という自覚をもったうえで、さらにそこからも自由であることが離脱である。自己の外に立てられたどんな獲得対象ももたず、さらに「わたしは離脱した心の状態にある」という「離脱」の自覚からも「離脱」したあり方を語っている。

「一切の被造物および自己自身から離れること」が離脱と名づけられ、離脱とはこの意味で、「この世界と自己とに死すること」であるが、ここで注意を要するのは、それが外的な「隠遁生活」を意味することものではなく、むしろ活動的で豊かな中世都市生活の只中に生きて、しかもそれらの豊かさにとらわれず、不動にして神とひとつとなり、さらにはその神とひとつであるという自覚からも離脱した、真に自由で主体的な人間のあり方を説いているのである。そこにおいて、シャーマニズム的な「脱魂状態」、「霊魂離脱」という意味は無縁と化す。

■参考リンク
マイスター・エックハルト



■tabi後記
早朝から五味さんとディスカッション。最近使っている「Recallability(召還力)」という言葉をつかっている。何かに所属すること、没頭することは、「Recallability(召還力)」の低下につながるという話し。この現象が、知らず知らず私にも当てはまりつつあるという指摘がありがたかった。もちろん、この現象への対処法や抜け道はある。
posted by アントレ at 11:34| Comment(2) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月01日

tabi0122 岡田斗司夫「「世界征服」は可能か?」

世界征服を目指す人とは、現状を否定する人のことです。人に優しく、環境に優しく。良識と教養のある世界を目指すことのよって、「悪」の栄える世界を目指しましょう。「いいものを、より安く」ではなく「人を出し抜いて得するのはやめよう」。「トレンドに敏感に」「自分のしたいことを探そう」ではなく「お年寄りを大切に」「ちゃんと学校で勉強しよう」。いま現在の「幸福」と「平和」にノーを言うこと。新しい「幸福」と「平和」を世界に宣言すること。これが新時代の、世界征服への合言葉なのです。P185
岡田斗司夫「「世界征服」は可能か?」(筑摩書房 2007)

一般的には、世界征服とは、人々から平和な生活を奪う行為であり、その時代の価値観=幸福感にダメージを与える行いや言論こそが「悪」になり、現在の社会秩序が保たれている状態が「平和」であるとされます。

本書のがおもしろいのは、悪は負けたから「悪」になってしまったという前提があるからでしょう。その事例として、ショッカーやピッコロ大魔王や死ね死ね団が登場します。もしヒトラーやチンゲス・ハンが負けていなかったら、それは悪ではないだろう視点をもった「世界征服学」である。

■参考リンク
情報考学 Passion For The Future
書評 - 「世界征服」は可能か?



■tabi後記
09年も1/3が過ぎましたね。目標は達成/修正されているでしょうか?
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2009年04月28日

tabi0119 ヘルマン・ヘッセ「ヘッセの読書術」

一冊の本に何らかの点で魅了され、その本の著者を知り、理解しはじめ、その著者と内心のつながりをもった人は、そのときにはじめてその本から本当の影響を受けはじめる。(中略)千冊の、あるいは百冊の《最良の書》などというものは存在しない。各個人にとって、自分の性格に合って、理解でき、自分にとって価値のある愛読書の独自の選集があるだけである。だからよい蔵書は注文でそろえることはできない。各人が友人を選ぶときとまったく同様に、自分の欲求と愛に従って、自分でゆっくりと書物を集めなければならない。そうしてできたささやかな蔵書が彼にとって全世界を意味するのだ。P47
ヘルマン・ヘッセ「ヘッセの読書術」(草思社 2004)


ヘッセに読書の原点に戻してもらえた。読書をするということは、知識を獲得することではなく、無知から未知への跳躍なのである。その跳躍というのは文字に対してではなく私に対してなのだ。それが読自の本質である。

僕は、「私」の中に外世界をこえた存在があることに気がついてほしいと思っている。書籍は、その内世界にアクセスするためのキーなのである。そして、書籍選定をするさいに「私」は外世界と内世界の狭間にあらわれてくる。そのときに自分を捉えるんだ。掴めるんだ。読書は本を読む前からはじまっているのである。

■参考リンク
882旅 ヘルマン・ヘッセ『ヘッセの読書術』



■tabi後記
本棚をみる行為が「私」を呼び起こすことにつながるという発想をえた。しかし、それは1つの行為でしかないだろう。
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tabi0118 池田晶子「魂とは何か」

<魂の体質>という言葉が、ある時、私にやって来た。性格、気質というものを、生理学的体質の側から、説明しようとする姿勢を拒否した時、「その人」を言い当てる最も生なもの。あるいは、「人物」の初期条件。言い得て妙である。P37
池田晶子「魂とは何か」(トランスビュー2009)

今日、大学の図書館で本をぶん投げてしまった。(破損しなくてよかった!)哲学専攻の院生が読みそうな本をパラパラみる自分に吐き気がしてしまったからだ。

「そういうことじゃねえだろ」という声が自分から聞こえてくる。

「どういうことだ?」と問い直す。

「いま、ここ、わたし」への「認識、存在、感覚」だろうよ。と私。

そのままふっと声は消え去り、池田さんの本を手にとっていた。

本書を読んで、<原体験>という言葉と<魂の体質>が重なる。私が、幼少期から抱えている問いは、「なぜ「今」、「ここ」において「私」なのか?」というものである。

この3つがサイクルしているので、僕が抱える問いは日々異なっている。このあたりの思考(クロニカルシンク、プレイスシンク、ソウルシンク)が組み合わせられた時に起こる問いのパターンを体系化したい。

■tabi後記
池田さんの身体が消え去ってから2年弱が経つ。池田晶子という「私」は何だったのか。
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2009年04月27日

tabi0116 村上龍「五分後の世界」

「ここをどう思う?」
(中略)
「処刑の前にそういう質問をせよという命令だ、自分にもわからん、こういう質問は初めてだ」
一言で言うと、と小田桐は答えた。
気に入った、
「気に入った?」
妙な顔で警備の責任者は聞き返した。

疲れたけどな、でも、あんたは知らないだろうけど、オレがもといたところはみんなひどいおせっかいで、とんでもねえお喋りなんだ、駅で電車を待ってると、電車に近くづくな、危ないから、なんて放送があるんだぜ、電車とホームの間が広くあいてるから気を付けろっていう放送もある、窓から手や顔を出すなってことも言われる、放っといてくれっていってもだめなんだ、自分のことを自分で決めて自分でやろうとする、よってたかって文句を言われる、みんなの共通の目的は金しかねえが、誰も何を買えばいいのか知らねえのさ、だからみんなが買うものを買う、みんなが欲しがるものを欲しがる、大人達がそうだから子供や若い連中は半分以上気が狂っちまっているんだよ、いつも吐き気がしてあたり前の世の中なのに、吐くな、自分の腹に戻せって言われるんだから、頭がおかしくなるのが普通なんだよ、ここは、違う、

「よくわからんが」
警備の責任者はずっと液晶パネルを見ている。
「戦う者はおらんのか?オールドトウキョウなどには九十万を超える準国民ゲリラがいるのだぞ」
誰も戦わねえ、と小田桐は言った。

いやあんたにはわからねえだろうが、オレの言っているのは戦争をするってことじゃねえんだ、変えようとしないってことだ、誰もがみんな言いなりになってるんだよ、
「国連軍にか?」
違う、
「誰の言いなりになってるんだ?」
何も知らないあんたに説明するのは難しいが、子は親の言いなりになってるし、親は子供の言いなりになってる、みんな誰かの言いなりになってるわけだ、要するに一人で決断することができなくておっかねえもんだから、あたりを窺って言いなりになるチャンスを待ってるだけなんだよ、

「半世紀前の」
と、警備の責任者は、液晶パネルから小田桐に視線を移した。
「帝国軍みたいだな」
そして、何度も液晶パネルに浮き出た文字を確認してから、散開している兵士に伝えた。
「こいつの処刑は中止だ」
来い、と小田桐はうながした。
どこへ、と小田桐が聞くと、トンネルへの通路を顎で示しながら答えた。
「地下司令部だ」P119-121
村上龍「五分後の世界」(幻冬舍 1998)

本書の解説が的を得たものとなっていた。文学というものは、読物と小説に分けられるという。その分岐点は、自らのパーステクペクティブに変化を及ぼすか、及ぼさないかの違いであると。読物とは、時として人を驚かせ、混乱させ、おびえさせかもしれないが、そのすべてが結局、読者を安心させることを本質とする作品なのである。

しかし、小説とは、自らの生の遠近法を変えずには受けとめられない力をもった作品である。私は、この解説を読んだ時に、ハッとさせられた。それは小説的体験を評論/哲学の書籍で自分が味わっていることに気がついたからだ。同時に、小説体験を提供してくれる「文学」と深く向き合っていなかった自分を恥じる気持ちも生まれてきた。

■参考リンク
五分後の世界(もう一つの日本)
物語の設計図



■tabi後記
読書空間がひろまると同時に、小説という表現形式の可能性に魅かれはじめた。
posted by アントレ at 21:02| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0115 佐藤徹郎「科学から哲学へー知識をめぐる虚構と現実」

第三者の批判を受けることによって初めて学問の客観性が確保されるのであり、したがってウィトゲンシュタインのように自己の精神に親近性をもつ人々以外は無視するといった態度は、哲学を主観的、秘教的なものにしてしまうという非難を免れないように見える。しかしこういった常識は、(中略)つまり一口にいえば、批判的態度は結局人々の間の相互理解をもたらすということを前提にしている。ところが、人々の間の客観的なコミュニケーションの可能性についてのこうしたオプティミズムこそ、ウィトゲンシュタインが全面的に否定するものである。P54
佐藤徹郎「科学から哲学へー知識をめぐる虚構と現実」(春秋社 2000)


図書館でたまたま見かけて、永井均が「私の哲学観は本書の全面的な影響下にある」と書いていた人だなと思い出した。読んでみて納得。

特に第1章の「科学的<知>の概念を超えて」は、自然科学をやっている人も、数学をやっている人も、哲学をやっている人も、文学その他の研究に携わる人も、つまりすべての学問をする人が読んで何がしか得るものがあると思います。



■ tabi後記
哲学は私秘性のうえに成り立つものであるとするならば、密教とは矛盾をはらんでいる。私秘であること、それを教えるということの境界領域に関心が向いている。
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2009年04月25日

tabi0113 安冨歩「生きるための経済学」

マルクス主義経済理論が、搾取なき交換システムとして提案するのは、人間の理性にもとづいた計画経済である。これを正しく作動させるには、「無限の計算速度」「瞬間的でエネルギーを用いない情報交換」「将来にわたる事前の計画策定に正確にもとづいた経済行為」を必要とするが、この三つはそのまま、相対性理論・熱力学第二法則・因果律の否定を必要とするのである。標準的市場理論とマルクス主義経済理論とが共通に求めるものとは何であろうか。私はそれを人間の自由であると考える。P50
安冨歩「生きるための経済学」(NHKブックス 2008)


本書の流れは、シンプルかつ説得的である。「選択の自由」は計算量爆発と非線形性の前に崩れ去っていくことを説明している。

選択の自由が崩れ去った時に人は、「自由の牢獄」にたたされる。そして、自由からの逃走、プロテスタント的予定説へ導かれていく。

我々は、自動書記や反射や習慣という現象をを受身と捉えるか、創発のヒントと捉えるかを選ぶことができる。

後者は暗黙知とセットで語られる場合があるが、経営学経由でこの言葉を知った人は注意を要する。なぜなら、暗黙知とは、「暗黙の認識処理過程」のことであり、隠れた知識、そして掘り起こせる知識という意味ではないからです。

追記
何かにつけて「創発が起きた!」というような創発ユートピアンには陥らない強さが大切であろう。

■ 参考リンク
池田信夫 blog
経済学と経済のキャズム



■ tabi後記
午前中はSVGTのスキル登録説明会にいってきた。私以外に大学生がいることは想像だにしていなかったので、本当に驚いた。久しぶりに素敵な出会いができた。
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2009年04月07日

tabi0107 ウェンディ・コップ「いつか、すべての子供たちに」

初年度を通して私が自信を失わずにいられたのは、何かに奇跡のように思える。なぜ、ストレスや仕事量に打ちのめされなかったのだろう。必要な資金を集められないなどと考えて、断念しなかったのはなぜだろう。私が持ちこたえられたのは、私のアイデアが持っている力を盲目的に信じていたからだと思う。失敗の可能性が現実的にあるのか、実のところ私には、よくわからなかった。ただ、そうした考えがふと心をよぎったことは数回あった。(中略)でも、そんな疑問を抱いた時期は、ほんとうにわずかだった。一生懸命にやれば計画は実現できると、当然のように考えていた。単純に、そうなければならないのだ。この国には、全国的なティーチャー・コープが必要なのだ。P65
ウェンディ・コップ「いつか、すべての子供たちに」(英治出版 2009)


読了後に友人と「「Teach For Japan」が存在するとしたら、どのような形になるだろう?」というテーマで議論をしました。

TFAにあるがTFJにはない要素として、「スラム街の存在」と「所与のティーチングスキル」があると思う。前者は、「貧困層」に対してというノブレスオブリージュであり、後者は「風とは何ですか。描写はせずに、ただ風とは何なのかを言ってください。」という質問に応えられる知力と説明する能力。

組織の機能としては、

・リクルーティング
・研修
・資金調達
・ティチャーサポート
・ナレッジシェア
・外部リソースの巻込み
etc

があると思うが、僕が考えるに、TFJ成功の秘訣は、「外部リソース(社会的資本)の巻込み」(注)にあると思っている。自分の「母校」にTFJメンバーが関わっていることを知った時に起こる、共感や協力心を駆り立て、リソース活用することである。Web作成/パンフレット作成/イントラ構築などのスキル提供を受け入れる窓口として機能することである。

注 これは和田中にも垣間みれたモデル。

■ 参考リンク
Wikipedia-Teach For America
[第25回] Teach For America
Teach For Americaに関する一考察



■ tabi後記
読後の行動がとわれる書籍でしょう。
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2009年03月30日

tabi0104 養老孟司「解剖学教室へようこそ」

解剖をやっていた頃、時代には完全に遅れたと思っていたから、遅れることなど、なんとも思っていなかった。いまでも同じである。勝手に時代が動くだけで、解剖に変わりはない。だから本の中身も、いま書いても、さして変わりはないであろう。でももう書けない。なぜかって、解剖をやめたからである。虫の解剖はするが、これはまた別の世界である。今度書くなら、虫の解剖にする。これが面白くて、またやめられない。解剖というのは、じつは面白いことなのではなかろうか。だからしばしば社会をそれを禁止するのであろう。P213 文庫版あとがきより
養老孟司「解剖学教室へようこそ」(筑摩書房 2005)


解剖史から「歴史」へはまる気持ちを考察した。

歴史に関心をもてる人は「どうして、こんなバカをことをやっていたのだろう?」という過去の「前提」(今は存在しない前提)に対し、「前向きな好奇」をもつのだろう。「馬鹿なことをやってたんだね」という棄却姿勢はそこにない。(それはそうだ。今は「その前提」が無いのが当たり前なのだから)

そして、「前向きな好奇」は今に生きる人々を次の姿勢へ誘なっていく。

それは「なんでこんなバカをことをやっていたのだろう?」という問いが、「自分」にも降り掛かってくることの意識である。その問いをもって、過去と現在と未来の視点が混合する。この視点を感得するための歴史なのだろう。

この視点を得ると、後世/歴史において「どう覚えられるか?」「どう問われるか?」という内省を企てる方がでるだろう。一方で、「後世にどう思われるかという意識は無理な推量ではなかろうか?」という思想をもつことで、「諸行無常」の哲学を深める方もいるかもしれない。

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遠近法の導入、系統解剖から病理解剖への解剖目的のシフトが歴史の転換点となっている。もちろん解剖の起源も興味深いのであるが。気になる方には本書を勧める。

■ 参考リンク
解剖仲間8
【誰か教えて】13世紀の解剖図



■ tabi後記
桜が咲いている。花開く前にも、花が散った後にも、それは桜である。「咲く」という一点をもって、桜は理解を得る。人はどういった行為によって理解を得られるだろうか。
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2009年03月21日

tabi0100 スコット・ペイジ「「多様な意見は」なぜ正しいのか」

多様性がどういう課題においてより良い結果をもたらすかも定義されていない。そこで第一のステップとして、多様性を定義して、それが恩恵をもたらすと思われる課題を特定しなければならない。例えば家族が心臓切開手術を受けることになっても、肉屋、パン屋、ロウソク職人の集団に胸腔を切り拓いてもらいたくない。当然、練熟した心臓外科医のほうがいいだろう。しかし別の状況、例えば福祉政策を立案する、物理実験をデザインする、暗号を解読する、心臓発作後の治療法を評価するといった場合には、多様性が欲しくなってくる。いつ、そしてなぜ多様性が恩恵をもたらすかを理解することが、本書の目的である。P26
「「多様な意見は」なぜ正しいのか」(日経BP 2009)


今回は問いをえることができたtabiだった。集合知の事例として、イノセンティブなどをあげられることが多い。この事例からは、「多様性がどういう課題においてより良い結果をもたらすか?」を考えるうえで適切である。

課題の要件として、

・解決策が定型化されていないこと
・問いの設定自体がわかっていないこと

と考えていたが、新たな疑問がうかんでしまった。それは、多様性のサイズについて。多様性という言葉をつかうとき、3~8人のイメージをもっていないか?

数千人数十万というような「本当の多様性」はいらないじゃないかと。それは、イノセンティブでソルバーとなるためには、英語が読解でき、Ph.Dクラスの知性をもっていることが必要になってくることからも見て取れる。多様性には土台(エントリーフィルター)がある。

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この図解によって湧く疑問は、「多様性の認定について」です。

例えば(日本だけで考える)、

・東京都
・北海道
・沖縄県
・新潟県
・京都府

これは多様か?

・東京都 男
・北海道 女
・沖縄県 男
・新潟県 女
・京都府 女

これは、多様か?

・東京都 男 22才
・北海道 女 45才
・沖縄県 男 59才
・新潟県 女 14才
・京都府 女 31才

これは、多様か?

・東京都 男 22才 サポーター
・北海道 女 45才 コントローラー
・沖縄県 男 59才 プロモーター
・新潟県 女 14才 アナライザー
・京都府 女 31才 アナライザー

僕らはジオグラフィック,デモグラフィック,サイコグラフィックなどで区分けを行い、そこに多様性(ダイバシティー)という名付けをおこなっているが、何において多様なのか?誰にとっての多様なのか?。それを考えたい。



■ tabi後記
第3回 読自祭をおこなった。
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2009年03月19日

tabi0099 飯間浩明「非論理的な人のための論理的文章の書き方入門」

授業の初めに、私はまず、学生にこう問いかけます。「自分の考えたことを文章にして、読者に間違いなく伝えるには、どうすればいいのか?」これに対する私の答えと、その理由はこうです。「そのためには、クイズ文という、『問題・結論・理由』という形式に従った文章を書けばいい。なぜなら、この形式は、読者と一つの問題意識を共有し、かつ、読者を一つの結論に導くためのものだからだ」
私の言いたいことは、この一言だけです。これで、学生たちが、「そうか、なるほど、分かった。ではそのように書こう」と納得してくれれば、もうそれ以上授業をする必要はありません。P5
飯間浩明「非論理的な人のための論理的文章の書き方入門」(ディスカヴァー 2008)

「クイズ文」というフレームワークを生み出した著者に頭が下がる。

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事例を通じて、問題の立て方、結論の出し方、理由の述べ方を学べる良書です。論理思考を学習する前に、読んでほしい1冊。

■ 参考リンク
名文より明快文 - 書評 - 非論理的な人のための論理的文章の書き方入門


■ tabi後記
今から「Educe Cafe:なぜいま本が愉しいのか?」に参加してきます。
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tabi0098 内田樹「街場の教育論」

「どうふるまってよいのかわからないときに、適切にふるまう」能力の涵養こそが教養教育の目的である、と。(中略)自分が何を知らないのか、何ができないのかを適切に言語化する。その答えを知っていそうな人、その答えにたどりつける道筋を教えてくれそうな人を探り当てる。そして、その人が「答えを教えてもいいような気にさせる」こと。それだけです。P120
内田樹「街場の教育論」(ミシマ 2008)


私の目に留まったのは、君子の六芸( 礼 樂 射(弓) 御(馬) 書 数)に関する考察。六芸については、礼についてを参考にされたい。

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著者は六芸のうち四芸( 礼 樂 射(弓) 御(馬))に焦点をあて、教養とは他者とコラボレーションするための作法であるという。専門家とは、「専門用語で通じる」場所(内輪のパーティー)にいる人間ではなく、自分と共通の言語や共通の価値の度量衡をもたないものとコミュニケーションが出来る人間をさしている。ただし、伝統的な教養を復古せよといっているわけではない。大学という場には、このような教養的要素が含まれているのだという主張がなされている。「学際的」「専門家人材の越境」といった言葉に半ば虚しさをもってしまう理由を探るうえで、新たな視点がえられる。

■ 参考リンク
asahi.com [評者]香山リカ
Days in octavarium〜知のカンブリア爆発の果てに



■ tabi後記
関連させると「西洋音楽史」が非常におもしろいです。
posted by アントレ at 14:48| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0097 阿部謹也「自分のなかに歴史を読む」

先生は長い時間待たせたことを詫び、二人で話しだしました。ところが先生は私がローマ史をやりたいといえば、「それは結構ですね」という具合で、特に反対もせず、かといってそれをやれともおっしゃってくださらないのです。いろいろ話をしているうちに先生はふと次のようにいわれたのです、「どんな問題をやるにせよ、それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探すのですね」。そのことばを聞いて、私はもうほかの質問はできなくなり、そのまま家に帰って白紙の状態でふたたび考えることにしました。P18
阿部謹也「自分のなかに歴史を読む」(筑摩書房 2007)


著者にとっては、「ドイツ騎士修道会研究」が「それをやらなければ生きていけないというテーマ」となっていた。上原先生の言葉をうけた阿部さんのメッセージは、「過去の自分を考古学し、現在に自分を工学し、未来の自分を文学する」と変換できるかもしれません。(この表現自体、文学的であるのがミソ。笑)

若い人が丹念に自分を掘り起こしても何も出てこない思うかもしれませんが、そんなことはありません。それは、私たちの意識の奥底に過去がしのびこんでいることを確認すれば分かることです。それは、年中行事のひとつの正月をとっても同じです。誕生日は、過去の再現にほかなりません。僕らが、1年365日を単位として、生まれた日を祝祭するという習慣に「違和感」を覚えたとしたら、そこに学問ははじまる。

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成人になってからの違和感をベースに思考をするのは弱い(健康的ではない)と思ってきた。書籍やニュースなどをベースにアジェンダ設定をするのは、意識的記憶での発動だからなのか。「内なる心」という表現は文学的なきらいがあるが、無意識や前意識などについて知るほどに、15歳までに「私」の志向性はあらわれきっているのではなかろうかと思う。

その時分にいかなる問いをもっていたか。何に違和感をもっていたか。成人した「私」には、それを関係づけることしか出来ない(それを関係づけることが出来るのだ!という意味でとらえている)。

著者の経験によれば。関係づけから、創造までの期間は40歳までに出来れば良いのだよと語っている。ぜひ参考にしてほしい。

■ 参考リンク
書籍内容を知りたい方へ
ちょっとした話



■ tabi後記
非常に暖かくなってきた。いろいろな種が芽生えるころです。
posted by アントレ at 13:50| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月12日

tabi0093 パオロ・マッツァリーノ「つっこみ力」

愛と勇気とお笑い、これがつっこみ力を構成する三大要素です。どれもが、社会と人生をおもしろくするために欠かせない要素です。つっこみ力の目的は、社会と人生をおもしろくすることにあるのです。正しさをおもしろさに変えるのが、つっこみ力の目的です。これに対して、メディアリテラシーの要素は、論理と批判です。私はずっと疑問に思ってたのですが、メディアリテラシーも論理力も批判力も、その目指すところがわからないのです。P99
パオロ・マッツァリーノ「つっこみ力」(筑摩書房 2007)


メディアリテラシーをつっこみ力という言葉へ変換しただけで、価値がある。彼は「正しさ」はつまらないものであると考え、おもしろさこそが民主主義(多数決)の要諦であるという。

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つっこみは「ボケへの愛」を前提としている。つっこみによってボケは増幅し、(際立つ)、分かり易さを高める。笑いの付加価値を創出して観客の興味をひきつけるのである。それがボケの逃げ道となる。彼は、風刺画,四コマ漫画などにみられる「権威へ歯向かう勇気(政治性)」から笑いの重要性を論じている。

以下は、民主党 小沢氏に関して触発された記事を引用してみよう。

「逮捕された人=犯人」ではない。 刑事捜査原則は任意である。
証拠隠滅や逃亡の恐れがある場合に限って、被疑者の身柄を拘束できる。これが逮捕だ。 しかし、この段階では、被疑者は捜査当局が罪を犯したと疑っているに存在に過ぎない。逮捕された人、イコール犯人ではない。新聞などでよく「捜査当局の調べによると……」と書かれているが、あれもすべてが事実であるとは限らない。あくまでも、警察や検察など当局がそう思っているという程度の話なのだ。 さらに言えば、起訴された被告人というのも、検察官が処罰に値すると思っている人に過ぎない。
裁判で有罪が確定するまでの間は、いわゆる「無罪推定」なのである。
「小沢辞めろ」コールはマスコミの怠慢


「これは前提としてもっておこうよ!」という言葉は、山口氏の現場感から表出したのだろう。

だから、ぼくは納税者の視点での監視が必要だと思うのだ。 その捜査、本当に税金をかける価値があるのか?と。人事異動が近いから、ちょいちょいと被疑者をつかまえて、異動前にとっとと起訴してしまえば手柄になる。そう思っていたら、相手が思わぬ反発をしてきたので「けしからん」。マスコミを通じて、どんどん悪性情報を流してしまえ。検察を批判するような男を総理にしていはいけない! そんな気持ちがどこかで働いていなかったか?
「小沢辞めろ」コールはマスコミの怠慢


呼応するかのように、finalvent氏が注目を集めた。

検察権力が恣意的に正義のツラをして市民社会に介入してくるのを市民はいわば本性として批判しないといけないということ。それは市民の義務にも近いものなんですよ。
toroneiさん、それは本当に違うんだよ - finalventの日記


世論調査からみる動向では一国の総理になりうる人だった。それを検察権力が市民の手の届かないところで打ち落としてしまったということなんですよ。
toroneiさん、それは本当に違うんだよ - finalventの日記


それがいかなる「正義」であっても、民主主義というのは、こういう危険な回路を除去しないといけないのですよ。民主主義というのは市民が失敗したら市民が尻ぬぐいをする。愚かさのすっぱい果実をみんなで囓るのです。失敗しないような甘美な「正義」に身を委ねてはいけないのですよ。いかなる権力もそれを市民が「ちょっと待ってね」と制止する回路を組み込まなくてはならない。
toroneiさん、それは本当に違うんだよ - finalventの日記


これが全体に響くかといわれれば、わからない。
というのも「つまらない」話しだからである。

暗に本件を題材にし、検察官,警察,政治秘書,メディア,民衆を登場させるスキット・コント(各々に「チャラクター性」(欠陥)があると良い)をニコニコ動画で実験放送してみるのはどうだろうか。

■ 参考リンク
404 Blog Not Found
nakahara-lab.net



■ tabi後記
今日は友人の見舞いにいく。
posted by アントレ at 11:16| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月10日

tabi0092 山田ズーニー「あなたの話はなぜ「通じない」のか」

人は、自分でつかんでいきたい生きものなのかもしれない。なぞなぞで、もう少しで答えがつかめそうなときに、正解を言われたら、相手を怨むだろう。謎解きをするときのぞくぞくする感じ、わかったときの、頭にパッと電流が走り、すっと腑におちる爽快感。
正論を拒むのは、人間の本能かもしれないと私は思うようになった。正論は強い、正論には反論できない、正論は人を支配し、傷つける。人に何か正しいことを教えようとするなら、「どういう関係性の中で言うか?」を考えぬくことだ。
それは、正論を言うとき、自分の目線は、必ず相手より高くなっているからだ。P140
山田ズーニー「あなたの話はなぜ「通じない」のか」(ちくま文庫 2008)

「メディア力を高める」とは、少し引いた目で、外から観た自分をとらえ、それを「こう見てほしい」という自分の実像に近づけていくことである。その中で、「自分にタグをつけること」、「問いをスクラップすること」、「信頼される自己証明すること」という方法に着目した。

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自分にタグをつける
・自分がどう思われたいのかを決める
・自分が何屋なのか訴求ポイントをはっきりさせること
・場や相手の状況にあわせて多種類の「タグ」を作成しておく

問いをスクラップする
・興味/違和感をもった言葉(意見)を問いに変換する
事例:「本当のことをしゃべるよりも、私はウソをつく方が恥ずかしい。ウソをついてい
るほうが、本当の自分がでるから」(米原万里「言葉の戦争と平和」)
問い:「ウソは本心を隠すものと思われているが本当か?」
   「本当とウソ、どちらを言うときが、より本当の自分が出るか?
・5W1Hなどの便利な問いをストックする

信頼される自己証明をする
・自分の連続性を語る(過去→現在→未来と語る)
・人や社会とのつながりを紡ぐ(自分→社会→世界)

自己証明(自己紹介)は準備しておくほうが良いです。プレゼンは練習するのに、なぜ自己紹介は即興でやろうとするのでしょうか。私も、日々のタグ更新と問いのスクラップをもとにして、自己証明を改訂していきたい。

■ 参考リンク
「メディア力」への意思



■ tabi後記
文庫あとがきにあった言葉を引用したい。
本書は、私の環境を一変させた。何十社もの出版社の編集者が、手に手に本書を携えて私のもとを訪れた。私が何よりうれしかったのが、私に注がれる理解だった。こちらから「私はこういうものです」と苦心して説明しなくても、本書を読んだ人が、一発で私を信頼し、降るほどの理解をよせてくれた。
一発で通じ合える、これが自由だと思った。P248
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2009年03月08日

tabi0090 小山薫堂「考えないヒント」

最後は「面白いかどうか」で決まる
結局、僕がアイデアを出す目的は、どうすれば日常が面白くなるかという一点に尽きるように思います。日常の楽しさを加速されたり、際立たせるための作戦の一つ一つが、いろいろな企画のコンテンツにつながっている。
(中略)
僕は何か新しいことをやろうと決めたとき、三つのことを考えます。
一つは、「それが誰かがやっていないか。すでにもうほかの人が同じことをやっているのではないか」ということ。
二つめが、「それが誰を幸せにするのか」。
三つめは、「それが自分にとって面白いか」。
なかでも「それは誰を幸せにするか」ということは特に大切だと思います。P85,101
小山薫堂「考えないヒント」(幻冬舍 2006)


本書から著者の「人の喜ぶ顔が見たくてたまらなさ」がビシビシと伝わってきた。彼の仕事(志事/私事とも言い換えている)から習慣を抽出した。

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習慣が意識習慣か行為習慣かでわけました。そして、その習慣が自己完結している事なのか、していない事なのかでマトリクスにしてみました。

・旅行者気分で日常を見直す
これは第3者視点で物事をみるということである。著者は、熊本県の天草出身のため野生のイルカをみて育ってきた。しかしそれが魅力だと分かるのは、東京に来てしばらくたってからのことだった。

最初はただの田舎町としか思っていなかったが、東京の人が「イルカはハワイにしかいない」と思っていることに気がついたときに、熊本の天草にこそ「イルカが一番いること」に気づいたのである。

物事の良さを分かりたい場合、変に固執せず、意図的に「考えないよう」にする距離を
とってみることが大切かもしれない。

・企画書は一行
「宇宙人に説明するとしたら」という言い換えもなされていた。『お厚いのがお好き?』という番組のコピーは「君はキルケゴールも読んだことがないのか?」であった。

・誕生日プレゼントのように
友人へサプライズを仕掛ける時の気持ちで仕事に取り組んでほしいというシンプルなメッセージである。このワクワク感こそが、セクシープロジェクトの源泉である。

・勝手にテコ入れ習慣
これは大前研一の思考トレーニング似ているところがある。自分が生活するなかで、触れているサービス/プロダクトに対して、「自分だったらこうする/考える」というクセをつけろいうことである。つまり、世の中にはライバル/先生だらけという発想である。

■ 参考リンク
アイデアがドンドンひらめく体質を作る習慣
小山薫堂『考えないヒント―アイデアはこうして生まれる』が
今日から改めること



■ tabi後記
本書の学びを活かして、さっそく銭湯にいってきた。
posted by アントレ at 23:58| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月07日

tabi0089 石黒浩「アンドロイドサイエンス」

時間を節約するということは、すなわち従来人間が行ってきたさまざまな作業を徐々に技術と置き換えていることにほかならない。人間は人間が行う作業で定義するなら、100年前の人間と今の人間は、かなり違った定義になる。100年前は、食料の確保、衣服の確保、移動に多くの時間を費やしており、概ねそれらによって人間とは何かが定義される。
(中略)
ともかくも、人間は、その技術で置き換えられずに残ったものに、人間らしさを見いだそうとしている。いったん技術に置き換えれば、そこは疑問の余地なく人間を規程するものではなくなり、それ以外の部分に人間性が存在すると考える。そして、それは技術開発の進展とともに、人間とは何かという問題をより深く探究し続けているのである。このように思えば、
人間は人間が何であるかをしるために生きている。ー
という哲学的な人間に対する解釈も、それほど疑問なく受け入れられるのではないかと思う。P18
石黒浩「アンドロイドサイエンス」(毎日コミュニケーションズ 2007)


あなたの身の回りにある「ロボット」は何だろうか?

・パソコン
・冷蔵庫
・洗濯機
・産業用機械

などがあげられるだろうか。

ロボット (robot) とは、人の代わりに何等かの作業を行う装置、若しくは「人のような」装置のことである。
wikipedia:ロボット

この定義に納得感をもつ人は多いだろう。1738年、パリの科学アカデミー で自動「アヒル」が公開されたのがロボットの開闢であった。同じころ日本では、「からくり人形」と呼ばれる "自動人形" が登場する。それから300年が経過した。




筆者によると、このアンドロイドを見て、「これは人間じゃない」と気づくまでに平均2秒かかるようだ。そして、その気づきをを4秒、5秒に伸ばすのは途方もなく難しいことである。

ただ、意識レベルで「これは人間じゃない」とわかっていても、無意識レベルではどうだろうか。人間じゃないからモノとして扱っているのかといえば、違う。

簡単にたたくこともできないし、触るのも躊躇する。実は無意識には人間だと思っているのではないか。人間は意識の部分では高感度のセンサーをもって厳密に見分けているが、人間らしい姿には自然に反応してしまうということだ。

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人間は、食料確保や衣類の洗浄や乾燥等が代替された結果、何をしているだろうか?

自分の生活を振返れば、起きているほとんどの時間をテレビやインターネットを使った情報処理活動や、人との対話という情報処理活動に費やしている。

作業の自動化によって、「暇」をみつけることに成功した。そして、その「暇」は「人間らしさであると考えていた事が「実はロボットできる」という発見作業」に費やされている。(この傾向性を悲観していない、むしろ楽観だ)



この画像はCGである。驚きをもたない方はいないだろう。同時的にSekai Kameraというサービスに注目があつまっている。拡張現実と拡張先の精密さが生活に浸透するころには、さきほどのアンドロイドも同列に機能してくるのではないか。

■ 参考リンク
心の領域
2011年「ゲーム」は質的転換を迫られ、作り手は入れ替わる



■ tabi後記
第1回読自祭が催された。非常に刺激的な環境である。
posted by アントレ at 12:21| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月03日

tabi0087 ダミアン・トンプソン「すすんでダマされる人たち」

ギデンズによると、現代人はいやおうなく「自己の再帰的プロジェクト」にかかわることになるという。(中略)現代に生きる私たちは、自分がどういう人間かという選択をたえず迫られる。しかも、毎日のように新たな可能性が出てくるから、やっと選択しても、またすぐ改訂しなければならない。つまり、私たちはいつまでも未完成の「仕掛品」なのだ。(中略)実際、語るべきことは山のようにある。職業、性的性向、政治的な見解、人生観や宗教的な信念に関して幅広い選択の自由があるのは好ましいことだ。しかし、選択するからには、まず自分がなにを信じるか決める必要がある。「現代人は昔の人が意識せずにやってきたことでも、はたと立ち止まって考えなければならない」とバーガーは書いている。「古今東西変わることのない疑問、すなわち『自分になにがわかるのか』に対する答えは、自信のない不確かなものになった」。P173-4
ダミアン・トンプソン「すすんでダマされる人たち」(日経BP社 2008)


解説はtabi0017 大槻義彦「大槻教授の最終抗議」が行っている。

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以前、藤沢烈さんに「判断基準をいかに定めるか?」という話をきいた。

決断=判断基準(クライテリア)×選択肢(オプション)

判断基準を 見出すまず第一の方法は、判断をする際に「判断基準」と「選択肢(オプション)」を区別することであると。判断基準/選択肢の分離をするためには、A4の紙を二つに区切り、片方に基準を書き、片方にオプションを記す習慣をつけるのが大切。もしそれで解決がつかない場合は、判断基準が決まっていない場合が多いの、基準を決めるのを三ヵ月後などに設定し、その間に徹底して情報収集すること(選択肢を増やす)ことであると教わった。

判断基準が定まりにくい現代においては、ギデンズがいうように「自己再帰的な状況」に立たされる。本書で扱われる反知識(カウンターナレッジ)にすすんでダマされるのは、「自己再帰的な状況」に苦しむ人たちだ。彼らは判断基準を得たいがために向かってしまうのだろう。

また、選択肢を増やす前に、理論武装で「判断基準」つくりきってしまう人は、試行が億劫/恐怖する傾向にある。Just do itだ。

私が思うに、いきなり判断基準(法則)を見つけようとすると悩むことになるので(演繹的決断)、選択肢を増やす事によって判断基準が生まれることを知ったほうがいい。(帰納的決断)。選択肢を多量に浴びる中で、「違和感」や「好奇」を抱くことがある。それを面倒がらずに、言語化していくことが、判断基準獲得のスタートラインにたつことなのだろう。

■ 参考リンク
[書評]すすんでダマされる人たち
反「反知識」- 書評 - すすんでダマされる人たち



■ tabi後記
只今、読書会が終了しました。
posted by アントレ at 13:35| Comment(2) | TrackBack(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0086 宮台真司「14歳からの社会学」

社会学は、「公的(みんな)」という考えが成立するには2つの条件が必要だと考える。1つは「何が『公的』か」「誰が『みんな』か」について、それに関係する人たちの「合意」があること。そしてもう1つは、「コミットメント(熱心な関わり)」があること。かみくだいていうと、まず「誰が『われわれ(みんな)か』ということについて「ぼく」も「君」も「合意」していなければいけない。その上で「『われわれ(みんな)』が生きていくためにこれが大切なんだ」という「コミットメント」がないといけないわけだ。P13
宮台真司「14歳からの社会学」(世界文化社 2008)


14歳のためではなく、14歳からのとなっているのが興味深い。

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行為功利主義:どんな「行為」をすれば、人が幸せになる(=功利)か
規則功利主義:どんな「規則」が、人々を幸せにするのか

主意主義:この世には不条理や理不尽が満ちている
主知主義:人間の知識はすべてをおおえる

「「世界」はそもそもデタラメである」
の際に、併せて論じます。

■ 参考リンク
『14歳からの社会学』 本当にみんな仲良しなのか?
『14歳からの社会学』 社会におけるルールの正当性
『14歳からの社会学』 卓越主義的リベラリズムとエリート

■ tabi後記
ただいま読書会に参加しております、
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2009年02月25日

tabi0082 内田和俊「「依存する人」を「変化を起こす人」にどう育てるか」

「Have」は、持つこと、手に入れることです。資格を取得したり、または目に見えるものを所有することです。「DO」は、すること、つまり、行動です。「Be」は、「Have」でも「Do」でもなく、「Be=あること」、そこに存在するだけで満たされていることです。あるべき理想の姿です。P20
「「依存する人」を「変化を起こす人」にどう育てるか」(日本実業出版社 2006)


依存しがちな個人が主体的な個人に変化するまでの軌跡/行動パターンが記された書籍。その軌跡/行動パターンを図解した。

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着目すべきところは、「III 分岐点に立つ人」「IV 主体者」を比較した時に前者のほうが成果を出す場合が多いということ。

次に着目したのは、成果を創出する人間の行動パターンは、目標は考えずに、決めることからはじめるということだ。

これは「考える」ことをストップしろといっているのではなく、「考える」初心者がよけいな選択肢を増やすことを憂慮しているのだろう。

例えば、「考えた」結果、「決める」のではなく、「あきらめる」「妥協する」「延期する」という選択肢が生まれ、流されながら選択することへの憂慮だ。(もちろん適切な延期もある)。これは、昨日/今日と就活生と話していて感じたことであった。

彼らの思考プロセスで制約になっていることを思考してみると、2点ほど思い浮かんだ。1つめは、言葉が指示する範囲/視点を複数で捉えていないこと。2つめは、仮説的に考え/検証/修正するというループが回せていないことである。

前者は、悩みが変数化されていないともいえる。例えば、「優秀な人と働きたい!」という文章でとまっていて、「優秀」とは何か?を定義/条件付けたり、「人」の範囲を「優秀な同僚/優秀な顧客/優秀な投資家/優秀な仕入先」と働きたい!と分解していく作業のことだ。

後者は、「就職活動」を1ループで捉えているからかもしれない。PDCAの中にPDCAを幾階層も設けながら、検証/修正することが不得手ということか。このあたりはスキルなのでトレーニングによって習得可能である。

追記
後は語彙力が少ないのも大きいと思ったので、とりあえず新書を50冊読んでほしいかな。4万円ほど握りしめ、池袋/新宿などの大型書店をまわるのがよいだろう。書籍は何でも良い。感性が赴くままに購入してみる。購入した書籍を眺めるだけで立派な自己分析になる^^

■ 参考リンク
ビジネスコーチング:言葉と気づきの日記帳
690旅その1 
690旅その2 



■ tabi後記
ストップウォッチで作業管理をするようになったら、場所を問わずに集中出来るようになった。
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tabi0081 勝間和代「利益の方程式」

経営上の課題としてつくづく感じてきたことは、多くの日本企業では、マネジメントや営業の社内の評価基準が「売上」、あるいは売上の代替となるボリューム指標(たとえば契約数や販売台数、販売戸数など)にとどまっていることです。すなわち、売り上げを上げるために利益を度外視して、無理な働き方や、必要もない仕事を作ってしまっているのです。P14
勝間和代「利益の方程式」(東洋経済新報社 2008)


急増する成果報酬型ビジネスによってROICを意識する経営を促しているが、その意識は顧客獲得コストの一部で行われている印象がある。著者は、その意識を単価/原価/顧客数といった変数においても意識してほしいと考えているのだろう。その意識がムリ/ムダ/ムラ仕事を防ぎ、「ワークライフバランス社会」というビジョンへ繋がる構造になっている。

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■ 参考リンク
【実践!】『勝間式「利益の方程式」』勝間和代
4つのすごい - 書評 - 勝間式「利益の方程式」
仕事術オンライン図書館



■ tabi後記
09年も1/6が経過します。
posted by アントレ at 17:48| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月24日

tabi0078 M・チクセントミハイ「楽しみの社会学」

行為への機会が自分の能力よりも大きければ、結果として生ずる緊張は不安として経験される。挑戦に対する能力の比率が高く、しかし依然として挑戦が彼の技能よりも大きいならば、その経験は心配である。フローの状態は、行為への機会が行為者の技能とつり合っている時に感じられ、従って、その経験は自己目的的である。技能が、それを用いる機会よりも大きい時には退屈状態が生ずる。技能の挑戦に対する比率が大きすぎると、退屈は不安へと移行する。P86
M・チクセントミハイ「楽しみの社会学」(新思索社 2000)


挑戦に対して自分の技能があまりに低いとき、人は不安になる。逆に挑戦のハードルに対して技能が高すぎると退屈になる。挑戦と技能のバランスが適切に設定されたとき、人は
フローを体験する。

「挑戦と技能のバランスが適切に設定されたとき人はフローを体験する」という考えは分かっていたが、なぜかしっくりこなかった。

フロー体験は「どんぴしゃ」で体験するのではなく、意識/無意識的な調整が行われているのでは?と考えていたからだ。今回はその一連のプロセスを明示してみた。

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次に必要なことは、どのように環境を認知し、環境を再構成するのかという問いへの応答だろう。

・スケールストレッチ

能力:行為過程における技能の発見

機会:機会を拡張する
単に作業をこなすのではなく、いま行っている定型業務のマニュアル化という機会をもうける。

・シュリンクストレッチ

能力:意図的に能力低下させる
スポーツ等で利き手/足とは逆でプレイすること。将棋,囲碁等でハンディーをもうけてプレイすることがあげられる。結果的に定常能力のスケールにつながるんだけど。

機会:過剰を認識し他者へ依頼する
ここが腑に落ちていない。シュリンクさせないで、能力をスケールさせればいいんじゃない?と思うところですが、機会をシュリンクさせる価値もあるだろうと考えたい。全体的にシュリンクに対する考察が足りてないかな。


■ 参考リンク
情報考学 Passion For The Future



■ tabi後記
昨日、デットライン読書祭を開催した。その模様はまたお伝えしたい。
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2009年02月22日

tabi0077 大前研一「「知の衰退」からいかに脱出するか?」

最近では、世界のエグゼクティブと言われる人間でも、伝統的な教養をあまり知らない。われわれが古典と呼んできたものを、なぜかほとんど話題にもしない。それで、自然とこちらもそういうアプローチを取らざるをえなくなってしまった。(中略)日本人も古典は読まなくなったが、これは何も日本人だけではないのである。では、かつての「教養」は、現代においてどういう言葉と置き換えればいいのか?どんな話題が、彼らエグゼクティブの共通の話題なのだろうか?

「あなたは、近年の環境問題とその対策について、どう思うか?」
「アフリカのエイズの人たちのために、あなたは最近何かをしたか?」

これらが、彼らがほぼお決まりのように口にすることである。(中略)教養というものの重要な機能の1つは、「知的基盤の共有」である。とすれば、この質問に的確に答えられる「知識」と「見識」あるいは自身の「経験」を持っていなければならない。P404
大前研一「「知の衰退」からいかに脱出するか?」(光文社 2009)


自戒しながら思っていることは、「なぜ?なぜと問わない?」ということだ。そして、なぜを拒む空間を創るやつらとは付き合う必要はなく、付き合い続けたいならば、今すぐにその空間へ「なぜ」の一石を投じてほしいということだ。

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大前研一が21世紀の教養と越境心について論じている。僕は高3の時に大前さんの書籍にふれて、学習意欲を刺激してもらった。彼の視点のおかげで、今の自分が出来上がっていると思う。彼が提示するいくつかの事例は、「学力低下は錯覚である」にて反証されていますので、参考までに。

20世紀の教養は、小林秀雄や丸山真男を読むことだったが、21世紀の教養はダニエル・ピンクやジェフリー・サックスを読みながら、現実で実行することのようだ。この考えには承知する部分があるが、両者を越境するが真の教養者であると私は思っている。

■ 参考リンク
HowTo本に飽きたらこの本がおすすめ



■ tabi後記
ちょろちょろやってきた英語ですが、本日をもって本格化。
posted by アントレ at 19:33| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月21日

tabi0075 高橋洋児「マルクスを「活用」する!」

資本主義とは、資本制生産様式を基軸とし他の生産様式(農業・手工業・サービス業などの分野における自営業、"社会主義的"その他の共同体的生産など)を周辺に配置した包括的経済体制、となろう。とりわけ自営業は資本制生産様式のすき間を埋める補完的役割を果たしている。"純粋資本主義"なるものが現実の経済体制として存在したことはない。資本主義は現実には異種な諸生産様式の混在形態でしかありえない。(中略)大事なのは次の点である。経済体制としての資本主義においては資本制生産様式が商品交換を通じて他の生産様式を包摂しているのと同様、資本制生産様式それ自体も商品交換(労働力および生活手段の売買)を通じて家族関係(家庭)を包摂している。資本制生産様式は異質なものに支えられてはじめて存立しうるのであり、異質なものと相互依存関係にある。P45
高橋洋児「マルクスを「活用」する!」(彩流社 2008)


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価値原因を自然(素材)/人工(労働)にわけ、価値認識を事前/事後にわけた。水や金や銅自体に価値があると考えるのが「天然素材一元論(それ自体価値)」であり、素材自体には価値はなく、「誰にとって」や素材に価値を与える主体を考える「生産一元論(用途を見出したら価値)」という視点がある。

しかし、価値が生じるのは交換が行われる時と考えれば生産だけでは仕掛品となってしまうので、「消費一元論(売れたら価値)」という視点が生じるのにも納得出来るだろう。最後の「恊働一元論(合わさったら価値)」であるが、これは各々の労働/仕事が合わさった時に生まれる付加価値のことである。恊働価値というのは算定がしづらく(いわゆるシナジー的な部分)、価値は消費価値から各人の生産コストを差し引いた「余剰」から計算される。



■ tabi後記
今日はすずしかったなー。
posted by アントレ at 00:05| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月19日

tabi0074 堺屋太一「知価革命」

この仕事は、ごく自然に文明論に行き着く。そしてそれぞれの時代と地域の文明の差異の根源を探ることにもなる。私が「豊富なものを沢山使うことを格好よいと感じる美意識と不足なものを節約するのは正しいことだと信じる倫理観」とを育てる人間の「やさしい情知」についての仮説を立ててみたのはこの結果である。P9
堺屋太一「知価革命」(PHP文庫 1990)


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各時代の制約条件と制約突破を概観するうえで適切な書籍ではないだろうか。精神性への傾倒という軸で、中世と現代をアナロジーでとらえる意見がいくつかあるが、本書が起点となっているのかな。

■ 参考リンク
堺屋太一



■ tabi後記
完全に花粉症だ。ティッシュと目薬が手放せない、、。
posted by アントレ at 19:47| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月12日

tabi0072 玄侑宗久「禅的生活」

「うすらぼんやり」には価値判断もなく、好き嫌いものない。その先にはただ廓然無聖のい広々とした世界がひろがる。当然のことながらその状態は言語で表現できない。「言語道断」も「不立文字」も本来はそのことを表現した言葉である。スピノザやキェルケゴールの「あらゆる限定は否定である」というのも同じ主旨だが、それとそっくりのことを唐代の南嶽懐譲は言い残している。「説似一物即不中」というのだが、これはつまり何かだと表現したら最後、そのものの全体性が破れるからそのものではなくなる、ということだ。廓然無聖の世界とは、どうやら理解したり表現したりする世界ではなく、ただ味わうことだけができるものらしい。いわゆる妄想から離れた「悟り」の世界は、意外なことに「うすらぼんやり」という入り口から入るようだ。P50
玄侑宗久「禅的生活」(筑摩書房 2003)

関係づけに苦心するあまりに、雑多さが増し、厳密さが失われている。こういった書籍を読む際には、自分の心をゆさぶったコンセプトをつかみ取り、そのコンセプト間の連関を思考するのが良い。

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点と線とは独立した事象ととられるか/とらえないかという区分ではない。普段捉える点は、ここで使用する「線」に含まれる。点といえば「小さな黒い点」をイメージするかもしれないが、これは線(直線より線分)といえるだろう。ここでの「点」は量子のようなイメージで使用している。

■ 参考リンク
禅的生活のすすめ -玄侑宗久さんに聞く
情報考学 Passion For The Future
他人と比較しない。



■ tabi後記
先日から群馬にきている。伊香保温泉で疲れを癒し、前橋の友人宅でtabiをしている。これから、足利に移動します。
posted by アントレ at 08:43| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月10日

tabi0071 ジョン・ヒック「宗教多元主義」

概してこれまでは、どの宗教的伝統も排他主義の立場に立って、たがいに敵対しあう宗教的帝国主義であった。しかしこれからは相補的な宗教多元主義の立場に立って、真理に対してはたがいに反目しあう敵対者ではなく、同盟者あるいは朋友として、たがいの存在を認めあうものでなくてはならないだろう。そのためには、これからの宗教間の対話は、これまでのように自分の信仰を中心にしてこれを絶対的な真理として語ろうとする信仰告白的な対話ではなく、ともにその前に立つ「神的実在」を中心にして、これに対してともに充実した覚知にいたるよう助け合うような、真理探究的な対話でなければならないだろう。P272 訳者あとがき
ジョン・ヒック「宗教多元主義」(法藏館 2008)

ヒックは排他・包括主義を否定し、多元主義を論じているが、ヒックの論じる多元主義は「覚知多元主義」である。つまり神的存在(霊的存在)に多元性は適応されない。おそらく、神的存在の多元性を想定出来るのは論理上の話であって、「われわれは真理への覚知しか選択ができないのだから、多を想定しても一の中に組み込まれている存在なのだ」と反論をうけるだろう。

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その点に関しては真摯にうけいれるが、方法競争ではなく探究共創という提案はすんなりくる。固定した存在を確定することは、単一尺度による差が生まれてくるだろう。それであれば、方法共創(方理主義)や探究競争(真理多元主義)のほうがしっくりくる。

■参考リンク
ジョン・ヒック 第千二百二十七夜



■tabi後記
tabiは午前中に行う方が過ごしやすい。
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tabi0070 山岸俊男「安心社会から信頼社会」

本書で紹介した日米比較実験の結果が明らかにしていることは、日常生活のなかでわれわれの行動を規制しているさまざまな社会のしくみを取り去ってしまい、顔を合わせてお互いの行動をほめあったりけなしたりする機会さえ取り去ってしまえば、日本人はアメリカ人に比べて集団主義的に行動しなくなってしまうといことです。さらに、安定した社会関係のなかでお互いの行動を観察して相互に影響を与えあうことのできない環境での、あるいはそういった関係にない相手(つまり他者一般)に対する信頼の基準は、日本人の間でよりもアメリカ人の間で高いことも、本章で紹介した調査の結果から明らかにされています。P49
山岸俊男「安心社会から信頼社会」(中公新書 1999)

■安心
社会的不確実性が欠如した状態で、相手が自分の期待通りの行動を取ると期待すること
■ 信頼
社会的不確実性が存在した状態で、相手が自分の期待通りの行動を取ると期待すること

筆者は、「安心」と「信頼」を以上ように定義している。ここでいう期待には「自然的秩序および道徳的秩序の存在に対する期待」という定義が行われている。

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本書では日本が安心社会から信頼社会への変遷過程、適応過程、問題などを指摘している。(そのあたりは参考リンクに任せます。)

これら論点で興味をもったのが、安心、信頼の分類と、「信頼社会の中で安心社会を築くとしたらどうするか?」というと思考実験であった。(「信頼社会を発展させていくとしたらどうするか?」という思考実験はわずかしか論じていないので、補填させて頂いた)

■参考リンク
年始に読んでいた本
安心社会から信頼社会への移行をグーグルが強制している
安心!=信頼 - 書評 - 安心社会から信頼社会へ



■tabi後記
ずっと探していた絶版書籍に出会えました。
posted by アントレ at 11:18| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月07日

tabi0067 K.ブランチャード,S.ジョンソン「1分間マネジャー」

若者は「おやじ」のマネジメントのやり方に対して、いまだに十分のみこめないままに言った。「教えてください。例えば部下がどんどんやめるとか、定着性が悪いとか」「そうね。そう言われてみると、人の移動がかなり多いようね」ゴメスさんは言った。「ああ、それだ」 若者は手ごたえがあったと思って言った。「<一分間マネジャー>のところを離れた人たちは、どうなりましたか」若者は知りたがった。「新しい事務所を委せたわ」 ゴメスさんはすぐに答えた。「彼のところで二年も働くと、部下の人たちは『もう上役は要らない』って言い出すのよ。彼は、部下の訓練にかけてはわが社でベスト・ワンね。空席ができて、よいマネジャーが必要になると、いつも彼に電話するの。すると、いつでも、誰かすぐに使える手持ちの駒を持っているというわけ」若者はあっけにとられ、ゴメスさんにわざわざ時間を割いてくれたことにお礼を述べた。P.59-60
K.ブランチャード,S.ジョンソン「1分間マネジャー」(ダイヤモンド社 1983)


気分の良い部下は、よい成果を生む。この一言に本書は集約出来る。それでは、どのようにして人間は気持ちよく働けるのか?本書では、仕事をきちんとやっているかどうかを誰かがいつも気にしてくれていることが大切であると言う。

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つまり「いつでも援助するよ」という人間的には暖かく、「成果だけでなく君の仕事ぶりについても関心を持っているぞ」という仕事に対しては厳しい目線でもって誰かが自分のことを気にかけてくれているということが、仕事にやる気と勇気を与えるのである。この太い幹に幾つかのテクニックが記載されている。

前提となっている問題意識は、「何を何のためにやっているのかが解らないまま一生懸命に仕事をするなんてことは実は誰にもできない」んだということか。

■ 参考リンク
世界のビジネスプロフェッショナル 思想家編
693旅 K.ブランチャード、S.ジョンソン『1分間マネジャー』
『1分間マネージャー』に1本取られた



■ tabi後記
御茶ノ水から神田まで歩いてみた。天気が良くて心地よい。

上記書籍とセットで読むと良いかもしれない。

運輸業のマネジャーは、自分の上司によく言われたことを思い出すそうです。「もし、お前に言われたとおりに部下が動くなら、お前はいらない」上司には、そのアイデアやプランを翻訳して部下に伝え、部下の行動に結びつけ、行動を修正し、目標に向かわせ続ける能力が求められるのです。

・議論が白熱し、盛り上がったのだから、現場も変わったはずだと思っていないか?
・すばらしい計画を立てれば、実行されるものが当たり前だと思っていないか?
・部下全員に「イエス」と言わせれば、次の瞬間から行動が起こると思っていないか?
・よく発言しスマートに話す社員が、ほんとうに会社に貢献しているのか?
・業績の上がらない部下や部署の責任を問えば、彼らは変わるのか?
・会議室で問題が解決すれば、それでほんとうに問題が解決するのか?
・目からうろこが落ちたら、行動はほんとうに変わるのか?
・わかったら、物事は実現するのか? P51
伊藤守「3分間コーチ」(ディスカヴァー・トゥエンティワン 2008)


■ 参考リンク
思想の実践書 - 書評 - 3分間コーチ
3分間コーチングを、『部下の「やる気」を育てる!』ためにどう使うか?


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2009年02月05日

tabi0065 松田由幸「デザインサイエンス」

デザインの統合化には、従来デザイナーが行ってきた「外的デザイン」とエンジニアが行ってきた「内的デザイン」の両社を、スーパーデザイナーとも呼ばれるべき人物がひとりで行う「デザイン行為の同一化」と、複数のデザイナーあるいは複数のグループ組織により、明確な分担のもとに協調する「デザイン行為の統制化」の二つが考えられます。P17
松田由幸「デザインサイエンス」(丸善 2008)


デザインサイエンスはプロダクトデザイン、都市・建築デザインといった今日まで細分化されている各デザインの枠を超え、デザインという人間の創造的行為を理論的に説明する新たな科学であると。「デザイン行為の統制化」に向けたフレームワークとして「多空間デザインモデル」を提唱する。

「多空間デザインモデル」についてはリンク先の論文か本書をみて頂きたいが、前提には統合化の三つの視点がある。(1):「造る」と「使う」を統合する(2):「物」と「心」を統合する(3):「最適性」と「創発性」を統合すというもの。

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内的デザインと外的デザインの「統合化」で終わるのではなく、そこから創発する「生命化」に関する(バックミンスター・フラーに漸近するような)考察を行っているのが珍しい。

■ 参考リンク
日本デザイン学会 第55回研究発表大会



■ tabi後記
「読書会」(まだ読書が習慣化出来ていない方の集まり)ならぬ「書評会」(読書は習慣になっているが、まだ定着率×実行率に焦点をあてた読書法が確立出来ていない方の集まり)を細々とひらこうかな。
posted by アントレ at 13:11| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月02日

tabi0063 池田清彦「遺伝子「不平等」社会」

自分でも矛盾しているようなことを言うようですけど、極北のリバタリアン的な考え方によると、「自由」と「平等」を両方ともすべて担保するにはどうしたらいいかと考えた時に、一番極端な事をいうと、さっきいったように、すべてクローンにすればいい。これにより、能力の平等があらかじめ担保される。まあ面白くない世の中ですが。それから、すべての死ぬ時に財産を没収して、生まれた時に財産を平等にわければいい。そうすると、これは能力も財産も人生の出発点で全て平等だから、後はそいつの運と努力で決まる。そうすると、格差があってもそれは一代限りのものだから、べつにどうってことはない。そいつはいくら稼いでも死ねばなくなっちゃうからっていうのが、一番極北のリバタリアンの思想だ。P229
池田清彦「遺伝子「不平等」社会」(岩波書店 2006)


○○尊重から○○絶対の跳躍には敏感であり続けたい。本書から得られた問いは、デザイナーズベイビーの決定権は「親」にあるということだ「子」の自己決定権は考慮されていない。ここの区分と分岐点が大事なところかなと。

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また遺伝と環境(氏か育ちか)という区分は分かり易いが、さして分けれてはいないということ。自らの思考停止を認識した。

posted by アントレ at 15:23| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0062 クレイトン・クリステンセン「教育×破壊的イノベーション」

われわれは皆、学校に大きな期待をかけている。人によって言い表し方はさまざまだが、多くの人が共通して抱いている期待が四つあるように思われる。本書では学校への期待を次のようにまとめた。
1 人間の持つ潜在能力を最大限に高めること
2 自己の利益のみに関心のある指導者によって「操られる」ことのない、見聞の広い有権者による、活気に満ちた参加型の民主主義を促すこと
3 わが国の経済の繁栄と競争力を維持する上で役立つ技能や能力、意識を高めること
4 人はそれぞれ違う考え方を持っており、その違いは追害されるのではなく、尊重されるべきものだという理解を育くむこと P1
クレイトン・クリステンセン「教育×破壊的イノベーション」(翔泳社 2008)


クリステンセンが教育現場に理論(「イノベーションのジレンマ」)適用をしている。教育現場における「無消費者」にアプローチするための考えを記述する。

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MI理論をベースにした教育現場をつくるのは、なかなか難しいなと。理由は2つあって、、自らがMIを俯瞰することが難しいということと、チームでMIの全体観を保証しようと考えても、チームの関係づくりは言語的知能に依存してしまうところがあるからかな。

■ 参考リンク
シロクマ日報



■ tabi後記
久しぶりにいい天気です。
posted by アントレ at 13:51| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月29日

tabi0060 スタンレー・ミルグラム「服従の心理」

本書の基本的なメッセージとは、「服従は悪いことだ」というものである。服従という心理的メカニズムにより、人は批判能力をなくし、反社会的なことや非人道的なことを平気でやってしまう。したがって安易な権威に服従せず、自分の道徳観や価値観を常に貫徹させるべきである、ミルグラムは主張する。だが、これは妥当と言えるだろうか。(中略)服従とは、ミルグラムの示唆するような冷たい文章の上意への隷属ではなく、実は信頼の裏返しなのだ。P313-4 訳者解説
スタンレー・ミルグラム「服従の心理」(河出書房新社 2008)


「影響力の武器」でも参照されているミルグラムの実験。通説的な本書の理解は、「正常で心理学的に健康な人たちの多くが、権威者からの命令されると、自分の意に反して進んで危険で極度の痛みを他者に与える。つまり、権威からの要求に服従させるような強い圧力が私たちの社会に存在することがわかる」というものだ。

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しかし、訳者の山形は服従と信頼は表裏の関係にあると論ずる。詳細は本書を見て頂きたいが、初動の原因は権威による力が働いたのかもしれないが、それ以後の継続的行いは彼らが内発的動機によって行ったのでは?という着想である。

■ 参考リンク
「服従の心理」はスゴ本



■ tabi後記
書籍を読む時間よりも思考する時間(自分を読む)を大切にしたい。その考えを再認識出来たのが、次に書評する「読んでいない本について堂々と語る方法」である。お勧めです。
posted by アントレ at 22:25| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月27日

tabi0059 中西寛「国際政治とは何か」

「国際政治」は以下の三つの位相が混ざり合ったものと捉えることができる。その三つを「主権国家体制」、「国際共同体」、「世界市民主義」と呼ぼう。(中略)「主権国家体制」という位相は、(1)主権国家が国際政治の唯一の基本単位である、(2)主権は不可分かつ不可譲であり、国内社会では至高の存在であり、互いに対等である、(3)個人の自由は自らが同意する主権国家をもつことで実現される、といった考え方を骨子としている。(中略)「国際共同体」のイメージは、(1)主権国家は国際政治の基本単位だが唯一の主体ではなく、国際機構、社会集団や個人も一定の範囲で国際政治の主体たりうる、(2)主権は少なくとも部分的に分割、委譲可能である、(3)国際社会の諸アクターは一定の価値、目的を共有しうる、と考える点に特徴があるのである。(中略)第三の位相として、「世界市民主義」が登場する。これは(1)国際社会においても基本単位は個人である、(2)国家は擬制に過ぎず、個人は世界に帰属する、(3)平和は世界の(政治的、社会的、精神的)統一によって達成される、といった内容を骨子とする考え方である。(中略)国際政治を理解し、その中で行動することとは、この抜け出しがたいトリレンマの存在を確認した上で、最善の政策を選択していく作業にほかならない。P24-26
中西寛「国際政治とは何か」(中公新書 2003)


tabi53の影響が手伝って"国際政治"に関心の火が灯つようになった。本書によって一般言説を把握する事は出来たが、アタリの書籍のような躍動感は味わえない。引き続きtabiをしていこう。

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■ 参考リンク
雑読すんの書評コーナー「書海への旅 航海記録」



■ tabi後記
明日から読書傾向を変更していきます。
posted by アントレ at 22:20| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月19日

tabi0048 堀忠雄「快適睡眠のすすめ」

現代ほど、人の眠りが粗末にあつかわれた時代はない。先進諸国と自負する国々は睡眠不足にあえぐ人々があふれ、人口の三分の一は眠りたいが眠れないという苦しみにあえいでいる。タングステン電球を発明したエジソンは、これで太陽にしがみついた原始的な生活は終わり、人は自由に好きなときにはたらき、好きなときに眠ることができるようになると豪語した。つまり二四時間都市を実現し、夜と昼の束縛から解放されれば、人々は自由に思いきり楽しい生活ができるはずだった。 はじめに
堀忠雄「快適睡眠のすすめ」(岩波新書 2000)


太陽を制約条件と捉えていたエジソンの問題意識に感嘆した。そして、太陽を擬似的に再現出来るようになった今の環境下において、快適睡眠という制約条件を最適化するような方法を開発していきたいと考えている。

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上記の項目は自らが体験しつつあることなので、取材と内省が終了するにつれてBlog上で共有していきたい。

■ 参考リンク
情報考学 Passion For The Future



■ tabi後記
本書が出版されから8年が経過しているが、amzon906位に位置している!
posted by アントレ at 18:15| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0047 ムハマド・ユヌス「貧困のない世界を創る」

私たちの住む世界では、経済的な不平等が、持たざる何十億人に大きな苦悩を引き起こしている。しかし、不平等の問題に対する明らかな解決策ー開発途上国での急激な経済成長ーは、開発途上国自身に壊滅的な危険をもたらすように見える。私たちは、このダブルバインドを「成長のジレンマ」と呼んでもいいかもしれない。
ムハマド・ユヌス「貧困のない世界を創る」(早川書房 2008)


経済的な不平等に関する統計について考えてほしい。二〇〇〇年に行われた国連大学の世界開発経済研究所の報告によれば、最も豊かな一パーセントの人々が世界の資産の四○パーセントを所有しており、最も豊かな一○パーセントの人々が八五パーセントを所有していた。対照的に、世界の貧しい半分の人口が所有しているのは、この地球上の資産のわずか一パーセントにすぎなかった。

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自由と平等。平等と自由。平等と自由が語られる際に扱われるのは、「経済的不平等」(:Initial Endowment=生まれと育ち=ハビトゥス)と「平等修正可能性」(自由と干渉)である。この概念を時間軸が伴った視点で考えれたのが本書。この2つの概念に決着をつけるような思考を進めていきたい。(軸自体の変更も含めて。)

■ 参考リンク
四半世紀後のために、今日読んでおくべき一冊
病児保育のNPO法人フローレンス代表 駒崎弘樹のblog



■ tabi後記
久しぶりの更新。昨夜は心置きなく話せる方々と新年会でした。そこで得た学びは今後のBlogをつうじシェアしていきたい。
posted by アントレ at 17:22| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月14日

tabi0045 小幡績「すべての経済はバブルに通じる」

すなわち、リスクの対象が原資産という実体から、他の投資家の動向という目に見えないものに変化したのである。いわば、他人の価値観が将来どうなるかというリスクに変質した。そして、他の投資家とは、集団としての投資家たちであるから、その動向とは市場における流動性であり、それは群集の動向に他ならない。つまり、リスクは、原資産という実体のリスクから、将来の投資家たちという群集の動きのリスクとなり、リスクがいわば「社会化」したのである。証券化による「商品化」がリスクの「社会化」をもたらしたのだ。P55
小幡績「すべての経済はバブルに通じる」(光文社新書 2008)


論点を知りたければ、まえがき、1章、8章で十分だと思う。本書とは関係の薄い図解になっているが、池田信夫Blogに書かれている著者コメントには関係している。

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■ 参考リンク
小幡績PhDの行動ファイナンス投資日記
すべての経済はバブルに通じる



■ tabi後記
オアゾにある丸善 丸の内店の書籍レベルに萎える。
posted by アントレ at 19:32| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0044 小飼弾「弾言」

最も重要なのは、何が正しいかではなく、何が残るか(It's not what is right, it's what is left. )P201
小飼弾「弾言」(アスペクト 2008)


It delivers "live-thinking" driven my thought!

ギモンを抱いて思考が進まなかったのが、「無記名の善意( ≒公共財)の創出」と「ベーシックインカム」をどういう関係性でみるっかてところかな。

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■ 参考リンク
404 Blog Not Found



■ tabi後記
本棚を購入した。これで過ごしやすい環境になる。
posted by アントレ at 17:48| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0043 苅谷剛彦他著「杉並区立「和田中」の学校改革」

(校長は)今まで主義に反対。だから、「今までやってたから」で変えたときに、「なぜ変えちゃいけないか」を知りたいのね。「今までのよいところがこうあるから、今の新しい提案より今までがいい」って言ってほしい。(中略)それが、ただ「それが大変だ」とか、「それをやると大変じゃないか」とか、「今までのほうが楽じゃないか」とか、「われわれが楽だ」とか、そういうのではいけないんで、「子どもにとってどっちがよいか」っていう理由を言えば、今までのも通るの。P33
苅谷剛彦他著「杉並区立「和田中」の学校改革」(岩波ブックレット 2008)


ファクトにこだわることを改めて学べた。これから和田中を評価をする上では、2003年度入学時の文化階層とは大きく異なった層が和田中へ入学してきている事を考慮する必要があるだろう。これは堀川高校の成果をみたときにも感じた事です。(東大合格者の増加と入学者レベルの増加の関係性)

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■ 参考リンク
苅谷剛彦他著「杉並区立 和田中の学校改革」を読んだ!
Real Education-人口の半分は平均以下



■ tabi後記
明日は妹がアメリカへ帰る。Community CollegeでのGPAは4.0みたいだが、思考グセはついていない。「日本語が亡びるとき」を買ってあげたので、近々感想を聞き出してみる。
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2009年01月13日

tabi0042 結城未来「頭がよくなる照明術」

照明や光のもつあらゆる魅力を知ってもらいたいと考えました。インテリアという概念ではなく、それ以上に、私たちの心や身体に大きな影響をおよぼすのが照明であることを知ってほしくて、この本を書いたのです。P255
結城未来『頭がよくなる照明術』(PHP新書 2006)


科学言明への断定を差引けば良書。詳細は参考リンクをみて下さい。

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■ 参考リンク
あなたの知らない照明術



■ tabi後記
数年前から日の目をみることがなかった間接照明達が煌々と輝いている。
posted by アントレ at 23:32| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0040 橋本祐子「リバタリアニズムと最小福祉国家」

まず、公共財とはどのようなものかについて確認しておこう。公共財とは、消費の排除可能性も競合性も持たない財である。排除可能性とは、人々がその財を使用することを他者によって妨げられることがあるということであり、競合性とは、ある人がその財を使用することによって他の人がその財から得る満足が減少するということである。つまり公共財とは、「人々は妨げられることなく利用することができるうえに、ある人が公共財を享受したからといって、他の人の享受できる量が減るわけではない」ような財を指すのである。p23
橋本祐子『リバタリアニズムと最小福祉国家』(勁草書房 2008)


独自の論考もあるがハイエクを初め、引用が目立つ。

見せ方次第なのだが、「過去の叡智を携えながら徹底思考していく姿勢」を演出するのも大切か。今回は、財を分類する。「どこまでを平等とするのか?」という問いを突き詰める上で役立つ。

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■ 参考リンク
西東京日記 IN はてな



■ tabi後記
部屋を改造してから調子がいい。
改めて、睡眠、照明、温度、湿度管理の大切さに気がつく。
posted by アントレ at 17:14| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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