2010年03月22日

tabi0343 藤井直敬「ソーシャルブレインズ入門」

他者へのリスペクト、ヘリテージへの畏敬
わたしたちの脳は、認知コストバランスと社会的制約の両方からの制約を積極的に受けることで、わざと自由度を残していないのかもしれません。エネルギー効率という点で見れば、制約に従う生き方は脳のリソースをほとんど使わない最適な生き方だからです。社会的な制約は、ともすると人の創造性を奪う大きな問題のように見えますが、視点を変えれば、一人一人のエネルギーコストを下げることで、社会全体のオペレーションコストを下げるという利点があるのかもしれません。P50
藤井直敬「ソーシャルブレインズ入門」(講談社 2010)


認知コストの押しつけあいのしくみが社会的駆け引きの原理であるという著者の見方が面白い。何かを考える、行動規範を変えるというのは、脳に負担がかかる。だから、上司や強者は、部下や弱者に問題解決の認知コストを払わせる。人間にはもともと自分の認知コストをできるだけ少なくすまそうとする圧力があるようだ。

敷衍すると認知コストが低い状態が幸福という見方ができる。

社会ルールは社会全体の認知コストを減らす。その問題についていちいち考えなくてよくなるからだ。「人が人に与える、母子関係に源を持つような無条件な存在肯定」=リスペクトも、相互の信頼によって認知コストを減らす効果を持つと著者は考える。リスペクトを持ってくれている相手は、自分の利益を気にかけてくれているので、考えるべき変数が少なくなるからと。

個人的にはECoGを用いて脳活動を計測するという新しい試みが興味深かった。藤井さんのグループの研究を記述した章は、未来への胎動の確かな手応えに満ちており、今後の展開を期待させるものがある。

■参考リンク
茂木健一郎 他者に対する「リスペクト」
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
久方ぶりに更新。
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2010年01月13日

tabi0334 ロン・ロバート「ダイアネティックス」

ロン・ロバート「ダイアネティックス」(new era 2000)の要約を掲載する。

存在のダイナミック原則とは、生存せよ!である。

生存には4つの領域が存在し、これらの領域は生存のダイナミックと抑制力の比率によって左右される。

生存のダイナミックは、自己(とその共生体)、セックス、集団、人類によって規定されており、これらは生存的な行動様式という。

生存の絶対的目標は、不滅、すなわち無限の生存である。

人間はこの目標を、さまざまな形で追い求める。一個の有機体として、または精神、名前、子供、自分が属している集団を通じて、あるいは人類と子孫、自分の共生体、さらには他の人々の共生体を通じて追い求めるのである。

人間の心は、四つのダイナミックのすべてにのっとて知性を発揮する。
知性は問題を認識し、提起し、解決する能力である。

しかし、ダイナミックと知性は、エングラムによって抑制される。

エングラムとは、肉体的な苦痛あるいは感情的な苦痛と、その他すべての知覚を含む「無意識」の時間であり、分析心が経験として利用できるものではない。

再刺激とは、現在の状況がある状況と似ているために、その過去の記憶に対する反応が引き起こされること。リターンという想起能力(反応心)が分析心を乱しているとするならば、その乱れている「7」を取り除く必要がある。(この「7」の意味することは本書で確認頂きたい)

それが反生存と同情のエングラムである(ソニック、ノンソニック、ダブインによるチェーン)、この逸脱された状態からクリアになることを目的とされた思考の科学がダイアネティックスである。



■tabi後記
80%書き終わっている書評が何個かあるので、それをアップしていこう。
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2010年01月01日

tabi0329 岸田秀「ものぐさ精神分析」

幻想と現相の調停をはかる源層はあるか、もしくは原装か
突然奇妙な言動をしはじめるとはたの者には見えるが、発狂した者の主観としては真剣なのであって、これまで無理やりにかぶせられていた偽りの自己の仮面をかなぐり捨て、真の自己に従って生きる決意をしたときが、すなわち発狂なのである。外的自己と内的自己との分裂が悪循環的に進行し、外的自己が内的自己にとって耐えがたく重苦しい圧迫となって限界に達したとき、それまで内奥に隠されていた内的自己が、その圧迫を押しのけて外に表われたのである。内奥に押しこめられて現実の世界との接触を絶たれていた内的自己は、当然のことながら、現実感覚を失っており、妄想的になっている。だから、当人が真の自己と見なしている内的自己にもとづく行動は、はた眼には狂った、ずれた行動と映る。逆に内的自己から見れば、現実の世界に適応し、妥協しようとする外的自己の行動は真の自己を敵に売り渡す行為である。P24
岸田秀「ものぐさ精神分析」(中央公論新社 1982)


本書内で唯幻論を明快に説明しているのが「国家論」「性的唯幻論」「時間と空間の期限」の3論考であると思う。岸田氏は動物と比べて人間の本能はどこか歪んでしまい、補正して生きるために文化や自我が作られた。そして、補正のために幻想を作り出す機能は今でも続いていると語る。

■参考リンク
1086旅 岸田秀『ものぐさ精神分析』



■tabi後記
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2009年10月06日

tabi0307 三留理男「悲しきアンコール・ワット」

博物館という権威を壊す事実
一般に、現在のカンボジアとベトナム両国の関係は、これまでになく蜜月関係にあるといわれている。ベトナム戦争時代はともにアメリカと戦った盟友であり、カンボジアのポル・ポト恐怖政治を終わらせたのもベトナムである。歴史的にはそのとおりなのだが、一般のカンボジア人は違った見方をしている。彼らはいまもなお、植民地(フランス)時代と同じように、常にベトナムが上で、カンボジアが下、一番はいつもベトナムでカンボジアは常に二番の位置に固定されているような気がしているらしいのだ。P79-80
三留理男「悲しきアンコール・ワット」(集英社 2004)


カンボジア王国はインドシナ半島にあり、国民の90%以上がクメール人(カンボジア人)である。言語はクメール語(カンボジア語)、宗教は仏教(上座部仏教)である。面積は18万1035km2で日本の約50%、人口約1338万人(2008年)となっている。

1884年にフランス保護領カンボジア王国となり、1953年にカンボジア王国としてフランスから独立する。1970年のベトナム戦争の影響を受けて勃発した内戦は、1991 年にパリ会議が開催されるまでの約22年間の長きに及んだ。

そして、1976年から約3年間に渡って続いたポルポト政権の独裁政治および虐殺という歴史を経て、「東洋のパリ」と呼ばれていたほどのカンボジアの文化や社会は荒れ果ててしまった。

Cb-map-ja.png

カンボジア政府によると、カンボジアにはアンコールワットの他にも仏教やヒンズー教の遺跡が1000ヶ所以上あり、文化財がたくさん残っている。しかし、植民地支配や内戦など不幸な歴史が折り重なり合い、盗掘が相次いできたらしい。

古くはタイのアユタヤ朝との戦いに敗れてアンコールワットの美術品が戦利品として持ち去られたし、フランスの植民地支配時代にはアンコールの仏像の美しさに魅せられた不心得なフランス人達が遺跡から仏像を切り取ってフランスに持ち帰るなどした。

第二次大戦後に独立を果たしたものの、貧しさのために盗掘はエスカレートし、内戦期やポル・ポト派が国を支配した時代には公然と文化財がタイへ持ち出され、世界中に密輸された。1993年にポル・ポト派とフン・セン派で停戦合意し、その後はカンボジアに平和が訪れ、遺跡の盗掘も止むかと思われたが、事態はそう単純ではないようだ。

というのも現政権の政府軍は、断続的にポル・ポト派を吸収するかたちで成立しており、軍の要職をポル・ポト派の元幹部が担っているらしい。従って地方によっては政権の力が及ばず、賄賂を握らされた軍人達が盗掘を黙認しているケースもあるそうだ。

ここで考えるのは、文化財があるべき場所は、遠い先進国の博物館のガラスケースの中なのか、愛好家の管理の行き届いた金庫の中か。筆者の三留さんは、違う、と言う。

「その地から出土した物は、基本的にはその地に戻すべきではないだろうか。」P161

仏像は寺に、ギリシャ彫刻はアテネの山に、アンコールの文化財は、アンコールの森のなかに。その情景を守ろうとしている人たちの闘いぶりを伝えて、ルポは終わる。この問いは「博物館」という権威にヒビを入れるものとなるだろう。そして読者は思考を迫られる。

話は転じて、このような内戦からの復興・発展に向けて、社会をリードする役割は若者に期待されている。それは、カンボジアの人口の構造としてそもそも若者が多いことに帰すると考えられいるからだ。

同国の人口の70%は、30歳以下であり、52%は18歳以下である。その中でも、国内で一番歴史が深く唯一の王立大学である王立プノンペン大学(Royal University of Phnom-Penh)と、国内で企業に優秀な人材を輩出している国立経営大学(National University of Management)に在学する人たちが注目に値するのだろう。

■参考リンク
portal shit! : 悲しきアンコール・ワット
窪橋パラボラ
東京外国語大学東南アジア課程
カンボジア地図からの旅行
タグふれんず



■tabi後記
降りしきる 雨をかき分け 見初め合う

最近、俳句を何個かつくっているので、載せてみました。
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2009年10月05日

tabi0306 柿崎一郎「物語 タイの歴史」

それは、自分のなかの歴史を読ませるか?
実はタイの歴史を辿っていくと、「世渡り上手」なタイの姿が見えてくる。山田長政がアユッタヤーで活躍した理由は、タイ人であろうと外国人であろうと能力のある人物を登用する伝統がアユッタヤー時代から存在したためである。独立を維持できた理由は、タイに関心を示す列強の勢力を極力拮抗させて、一国がタイ国内で権益を持ちすぎないように調整したバランス外交の成果であり、その過程では領土の割譲というパイを行使して、身を小さくしてでも国を守ろうとした。さらに、第二次世界対戦ではタイは日本の「同盟国」となったものの、括弧付きの「同盟」であったことから戦後に日本と同じような敗戦国としての扱いを受けずに済んだ。P5-6
柿崎一郎「物語 タイの歴史」(中央公論新社 2007)


タイ王国は、東にカンボジア、北にラオス、西にミャンマーとアンダマン海があり、南はタイランド湾とマレーシアと面している。国土はインドシナ半島の中央部とマレー半島の北部であり、面積 51万4000km2(日本の約1.4倍),人口 約6283万人である。

ThaiMap.jpg
タイ王国:タイの基本情報 - General Information of Thailand

本書は、タイの視点を一国史として捉えるのではなく、周辺地域の歴史や世界史との関係性を重視して描写しながら、タイのナショナルヒストリーを批判的に検討するものとなっている。教科書としては良くまとまっており、多くの資料を編集した労苦には尊敬の念を示したい。一方で、まとまった通史ほど平凡なものはないことを再認識させられる。

恐らく、素材の繋ぎ方に価値があると思うので、楽しさを感じる事ができないのだろう。それは旅にも言えることだろう、ガイドブックや口コミや遺産などを「既知」のものを舐め回すような確認作業には楽しみは宿らないであろう。

僕の繋ぎ方としては共時的に生きる同世代が何に違和感(潜めた問い)をもっているかということ。そして、読書を初めとする知的生産生活から「思考の裏側」を垣間みるということかもしれない。そうなると「大学」というものが1つの象徴として立ち上がってくる。タイであれば、チュラーロンコーン大学チエンマイ大学の方々などだろう。彼らが何を考えているのか、思考の深層、違和感の陰部を対話することが出来たらと思っている。

■参考リンク
タイ王国の歴史
バンコク旅行で学んだこととかをまとめてみる
『ホテルバンコクにようこそ』 下川 裕治



■tabi後記
メールではなくTwitterやmixiボイスで呼びかける方が、思ってもいない角度から情報が飛び込んでくる。グーグルとTwitterはリアルタイム検索で激突するかなどから示唆がえられるかもしれません。
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tabi0305 藤巻 正己/瀬川真平「現代東南アジア入門」

植民地空間から国民国家へ、そして民族空間へ
日本においては、東南アジアの華人に対して、依然として「華僑」・「中国人」という見方がされがちである。しかし今日、東南アジアの華人の中で、東南アジアを仮住まいの地と考え、また中国のことを「祖国」「我国」という言い方をする者はほとんどいない。また、今でも中国本土の祖先の出身地と送金や手紙のやり取りなどで定期的なつながりを維持している華人はきわめて少ない。P52
藤巻 正己/瀬川真平「現代東南アジア入門」(古今書院 2009)


1943年以降から「東南アジア」という言葉が使われはじめたが、初めて文字として登場したのは1839年のハワード_マルコムの旅行記であった。当然の事ながら日本からみた「東南アジア」は「東南」ではないので、戦前は南方、南洋というように曖昧に呼んでいた。本書で際立つのは、ASEAN諸国における華人の構成比が無視出来ないほど存在することへの示唆である。

・シンガポール(華人77%,マレー人14%,インド系8%)
・マレーシア(マレー人53%,その他土着民族12%,華人27%,インド系8%)
・ブルネイ(マレー人67%,華人18%,イバン人・ドゥスン人など先住民族5%)
・タイ(タイ人系75%,華人14%,マレー人,クメール人,山岳少数民族)

以上の4カ国においては、多民族国家という点だけではなく「東南アジア空間」においては投資,貿易,労働などによって華人を筆頭に常時、人間/民族が移動をしている。

また、イスラム,仏教,キリスト教を初めとする宗教の渾然一体となっており、物理空間、精神空間、時間意識が住み分けられ、混ぜ合わせれている。ASEAN10の面積・人口・宗教・言語・政治体勢が記載された画像を添付する。
ピクチャ 1.pngピクチャ 2.png

このような世界の中で、どのような思考、生活が発生しているのだろうか。分けても分からない社会の中で、自律的に生活が営まれている「背後」にあるもの、もしくは「内部」にある仕立てを探ってみたいと思う。

■参考リンク
新世界読書放浪
ASEAN日本統計集



■tabi後記
最初から、東南アジアという言葉、行き先を国名で呼ぶこと自体に違和感がある。国ではなく文明でとられるというあり方もあるが、僕としては「同じ」を探っていきたい。それは深層的なことかもしれないし、言語的なことかもしれない。差をつかまえて、分けいることは一線を越えると大いなる価値があるが、それを認めたうえでも、分類とは距離をおいていきたいと思う。
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tabi0304 鶴見良行「東南アジアを知る」

包丁を持って旅に出よう
台所という場は、学者の仕事場である書斎よりも、学者にとってより豊かな発見の場所である、と私は考えています。料理好きの私は、包丁をたずさえて東南アジアを旅しているのですが、台所で料理させてもらうことは、食というかれらの暮らしの一つの実質に近づけるだけでなく、女衆の労働も観察できます。包丁と台所は、文化人類学的なアプローチにとって、まことによき切り口だと思います。P156
鶴見良行「東南アジアを知る」(岩波書店 1995)


どこの国であれ、書かれたものをはじめとする文字史科は、生活に余裕がある"エライさん"が残したものであり、歴史認識のこのまぬがれがたいゆがみを克服するには、宮本常一のような「歩く学問」が必要であると説かれている。主に、自分で歩いて現場を見ることと、自分で作業に加わってみることの二つに焦点をあてながら自らの「東南アジア」を綴られている。

このように情報になりづらい「周辺」に意識を向けるのが、鶴見氏のスタンスであった。さて、私にとってのアジアは、どのような切り口になるだろうか。本書を読みながら、いくつか思うところがあったので、その大枠をとらえ次第、出発しようと思う。

■参考リンク
1199旅 鶴見良行『東南アジアを知る 私の方法』



■tabi後記
組織の時代は終わったと分かっているのに、なぜ組織に個人は居着いてしまうのか?この矛盾を解消するのが、これからの働き方なのだろう。
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2009年10月03日

tabi0302 牟田淳「アートのための数学」

脈絡づくりまでの象牙期間
人間の耳に聞こえる音の範囲があります。20Hz~20000Hzくらいの範囲の音の高低が、だいたい人間に聞こえる音です。音の波の速さである音速を仮に340m/sとすると、式3.1から、波長にして1.7cm~17mの音が人間に聞こえる音ということになります。これは可視光の波長(380~780nm)と比べるととても長い波ですね。P43
牟田淳「アートのための数学」(オーム社 2008)


昼と夜では明るさは1億倍も変わっているのに、人間はその違いに気がつかずに生活を送っている。(とはいってもルクスという照度尺度による驚きでしかないのだけど)

何の脈絡もなくサイン、コサイン、タンジェントとやるよりも、ドレミと一緒に三角関数を習った方が飲み込みやすい。デシベルと対数の関係など、あやふやだった知識も生活の話題と紐付ける事で上手く整理される。

プログラマの数学にもみられるような説明態度が本書にもみられた。分かりやすさを提示するためには、分かりにくいことを徹底する期間が必要であると考えている。分けるの魔力に吸い寄せられることでお素晴らしい作品を書く人もいるし、分けずに繋げることで「分かる」をつくる人もいるのだろう。

■参考リンク
厚木と中野ではたらく准教授・牟田淳の奮闘日記
オブジェクト脳@kcg



■tabi後記
日本が示す大小はとても面白い。例えば、不可思議(10^64)無量大数(10^68),刹那(10^-18=クオーク)六徳(10^-19)虚(10^-20)といったものだ。
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2009年09月22日

tabi0298 ダニエル・ピンク「ハイコンセプト」

紙ナプキンに書き殴られたアイデアは掘り起こされるか?
電気照明は一世紀前には非常に珍しいものだったが、今ではごく当たり前のものである。電球は安い。電気はどこにでもある。ロウソク?誰がロウソクを使うのだろう?しかし、使う人はたくさんいるらしい。アメリカでは、ロウソクは年間24億ドル(3000億円弱)規模のビジネスである。照明用という論理的な必要性を超えたところに、最近の豊かな国々で見られるようになった「美しさや超越への欲求」があるからだ。P78
ダニエル・ピンク「ハイコンセプト」(三笠書房 2006)


本書は、左脳/右脳という分類ではなく、左脳主導思考/右脳主導思考という傾向性を提示する。そして、これからの新しい時代には一人ひとりが自分の仕事を注意深く見つめ、次のことを問う必要があると提案している。

1.この仕事は、他の国ならもっと安くやれるだろうか?
2.この仕事は、コンピュータならもっと速くやれるだろうか?
3.自分が提供しているものは、豊かな時代の非物質的で超越した欲望を満足させられるだろうか?

ピンク氏は、この三つの質問が成功者と脱落者とを分ける指標であるという。海外のコストの安い労働者にはこなせず、コンピュータが人よりも速く処理できないような仕事に集中し、繁栄の時代の美的・情緒的・精神的要求に応えられる個人や組織が成功することになる。本書は、全脳思考とも通底するテーマであり、これからの働き方にも影響を及ぼした内容であろう。

■参考リンク
雇われない働き方とは?米国にみる企業とフリーエージェントの新たな関係
『フリーエージェント社会の到来』要約
zuKao Daniel H.Pink著「ハイコンセプト」



■tabi後記
本書を読んだ頃は、イノセンティブ(Innocentive)が話題に上がっていた。アイデアと自分自身をさらけ出し、影響力と資金を受け取れるようなスポットは意外に少ない。
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2009年09月17日

tabi0292 マンフレッド・クリューガー「瞑想 芸術としての認識」

美は思考内容・思考活動にも宿っていく
ルドルフ・シュタイナーの意味においての瞑想は、3段階に分かれています。意志を強くする沈思は、思考的な感情を取り入れた構成が前提条件になっています。つまり、意志自体には直接語りかけません。そうではなくて意識を通して語りかけるのです。意志は自我(Ich)に導かれています。それと全く同じように感情も自我(Ich)に導かれているのです。(中略)思考、感情、しそして意志はこのようなやり方で高次の認識器官へと高く変容しました。ルドルフ・シュタイナーはそれをイマジネーション、インスピレーション、イントゥイション(直観)と表現し、さまざまなやり方でそれについて詳しく明らかにしています。P16-17
マンフレッド・クリューガー「瞑想 芸術としての認識」(水声社 2007)


本書における瞑想は、只管打坐・止観駄坐することではなく、沈思、沈潜することと捉えられている。

芸術としての認識という副題にみられるように、アイデアのつくり方内面の道をミックスするような内容となっている。ミックスする際の素材になっているのがシュタイナー思想である。

彼は、思考は動きと内容によって構成されていること、それを統合するのが直観であると語る。直観は動きと内容の両輪が熟したときに花開くのだろう。そして本書では、この思考の並列的特性を練習する方法(複式練習法)が紹介されている。「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」の副読本として位置づけられる。

イマジネーションは、思考の活動ではなく思考の内容に注目し、インスピレーションは
思考の内容ではなく動きに注目する。思考の動きというのは、像と像の空間の中で生じる
ものである。その後に本質が本質の中で本質自身をとらえる、イントゥイションという事象が立ち現れるのであろう。

■参考リンク
風のブックメモ
第三十三夜【0033】



■tabi後記
誕生日ということもあって、1986年9月17日の新聞を一通り眺めてみた。当時の書籍ランキングには堺屋太一「知価革命」、大前研一「世界が見える日本が見える」であった。唯一見ているテレビ番組の放送大学では、私が生誕した15:45から「日本語の語源」が放送されていた。この作業に因果めいたものをみてもいいだろうし、1つの遊びとして行なってみるのもいいだろう。
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2009年09月01日

tabi0276 北野幸伯「隷属国家日本の岐路」

脱せず、入らず、いかにして立つか
日本のリーダーたちはすでに、無意識のうちに「次の依存先」を探しているのではないでしょうか?「日本は将来、中国に併合されるのではないか?」日本には現在、二つの道があります。「真の自立国家になるか」それとも「中国の天領になるか」。P23
北野幸伯「隷属国家日本の岐路」(ダイヤモンド 2008)

北野氏は、1980年代末「ベルリンの壁が崩れるのを見て」高校卒業後、モスクワ国際関係大学に入学。それ以来、ソ連崩壊からプーチン時代までをつぶさに見てきたようだ。

本書は、防衛面だけではなく、経済・軍事・食糧・エネルギー・教育というトータルな視点で自立国家への戦略を描いている。そして、日本が真の自立国家になるためには、以下のことが必要であると語っている。

・経済の自立(内需型経済・財政の黒字化)
・軍事の自立(自国は自国で守れる体制つくり)
・食糧の自立(自給率100%)
・エネルギーの自立(自給率100%)
・精神の自立(日本の歴史・文化を重んじる教育)

ルーブル、人民元、ユーロの台頭により、ドル=基軸通貨という常識が綻びをみせはじめている。このままの流れでいくと、中国の国力が世界一に近づき、アメリカの財政赤字も本格化(=基軸通貨でなくなること)すると北野氏は考える。

次に「そのような環境化で、日本の国力(経済力と軍事力)を高めるには、どのような外交(国益の確保)を行なっていけばいいのか?」という問いに対して、国益とは「金儲け」と「安全の確保」であるとした定義し、日本が財政破綻を起こさないための施策を論じていく。

施策内容に慧眼たるものは垣間みることは出来ないが、個人が国家を選ぶ時代 が前提とされているのは興味をもてる。「いかに日本は空洞化を起こさずに、人、企業、金を呼び込むことが出来るだろうか?」北野氏は、法人税、所得税のフラットタックスを提案する。

人の呼び込みというテーマは、少子化と共に語られることが多いが、彼が移民として招くのは、いわゆる「3K移民」ではなく「日本人が尊敬出来る外国人」を対象にされている。もちろん、日本にシリコンバレーをつくろう!という安易な移転構想にも類似するところがあるのは否めない。

■参考リンク
ロシア政治経済ジャーナル
シリコンバレーをはるかに超える、世界一のイノベーション都市を、日本に作る方法



■tabi後記
ポストデモクラシーやソーシャルキャピタルに関する専門書を何冊か読んでみたが、特別な示唆や構想を感じられなかった。あなたが考え出せ、というメッセージだと勘違いしている。
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2009年08月26日

tabi0263 四方田犬彦「先生とわたし」

わたしと後生、先生となった「わたし」
師は弟子の前で知的権威として振舞いながらも、その一方で、年齢的にも若く、新進の兆をもった弟子に羨望を感じている。条件の整わなかった時代に自分が行なわざるをえなかった試行錯誤を、弟子はしばしば解決してしまう。彼は新しい方法論をもとに、師には思いもよらなかった道に発展してゆく。弟子が自分の道の領域に進出して自己を確立し、かつて自分が教えた領域からどんどん遠ざかってゆくのを、師は指を銜えて眺めていなければならない。だが自尊心は嫉妬と羨望を率直に口にすることを拒む。屈折に強いられたこうした感情は、ときに怒りに、ときに悲嘆に、道を見出す。だが彼は自分のヴァルネラビリティーを公にすることができない。どこまでも師として振舞わなければいけないのだ。その内面の脆さに気づく者は少なく、たとえ誰かがそれに気付いても、畏怖感が前に立ってまず言及しない。P215
四方田犬彦「先生とわたし」(新潮社 2007)


師と弟子が織りなす共同体について綴られたエッセイである。由良君美を起点にしながら、先生の先生、先生としてのわたし・・など複合的に「先生とわたし」を論じていく。その共同体を育むのは、書物のユートピアである。書物は質量をもったオブジェであり、整理カードや検索機に還元できるものではない。書物を情報の集積物としてのみ遇することはなく、非能率的な何物かでなければならなかった。
由良君美はそうした制度的思考の裏をかき、漫画であろうが実験小説であろうが、等しく文化的テクストとして分析の対象とできるような柔軟な思考の学生を、ゼミ生に期待していていたのである。後に繰り返し聞かされたことであるが、ロシア・フォルマリズムの泰斗であるシクロフスキーが説いた、「高位文化が誕生するためには、低位文化の絶えざる振幅が条件である」というテーザが、彼の方法論の根底にはあった。P18

そのユートピアが織りなしたものは、オルタナティブな視点、議論の深化、解釈共同体の構築、要するに熱い諧謔に裏打ちされた人文教養主義である。

■参考リンク
由良君美と四方田犬彦



■tabi後記
師弟論として読むならば内田樹「先生はえらい」、坂口安吾「教祖の文学」、山折哲雄「教えること、裏切られること」などを勧めたい。
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2009年08月25日

tabi0260 金子光晴「絶望の精神史」

絶望の傍でみる絶望は絶望だったのか
これからの日本人の生き方はむずかしい。一口に、東洋的神秘とよばれていた不可解な部分を、日本人もたしかにもっていた。腹切りだとか、座禅だとか、柔術だとか、芭蕉の境地だとか、それに、なにかの実用価値か芸術価値があるにしても、それ以上に神秘な、深遠なものと解釈し、日本人の精神的優位を証明する道具に使われたりすることは、日本人自身としても警戒を要することだ。それは、日本人を世界からふたたび孤立させようとする意図にくみすることにほかならない。日本人の無邪気な微笑とか、わからぬ沈黙とか、過度な謙譲とか、淫酒癖とか、酒のうえのことを寛大にみるへんな習慣とか、それがみな島国と水蒸気の多い風土から生まれた、はかない心象とすれば、日本人がしっかした成人として生きてゆくために、自ら反省し、それらの足手まといを切り払い、振り捨てなければならないのだ。そのためにこそ、日本人の絶望の症状を、点検してみなければならない。P32-33
金子光晴「絶望の精神史」(講談社 1996)


金子氏は、自らの海外体験によって日本の国内で外国文学に憧れていた連中の化けの皮がどういうものだったかを、明らかにしていく。彼らは、外国文学によって、自己を発見する方法を学びうると信じていた。そして、その自己によって、日本人である自分と、まわりにいる日本人を区別していったのだ。だが、日本人に絶望すると同時に、おなじく日本人である自分にも絶望せざるをえなかった。彼らは、サディズムの甘渋い味を知ったのである。

所感としては、金子氏の主張が了解レベルまで落ちなかった。伝わったのは、金子氏はkireているということだけだ。日本人は、どうして下らねえ輩になっちまったのかと。なんでそうなっちまったんだ。その原因はどこからきやがった。それが分ったなら、そのままででいいのかよ?と。そう静かにkireながら、その「根源」を突き止めようとしていく。もちろん、それは簡単ではない。金子氏自らが、実人生を通じて、その生き方を問わざるをえなかったからだ。根源を突き詰めるための自己言及問題である。

問われているのは、液状化する日本を「どのように」述語化するということだろう。河合隼雄さんが仰っている「中空構造」というものが、まざまざと垣間見えてくる。この代替となるのは「アジア統一」的な固体を用意することではない。むしろ液状化する国家と気体化する個人の調整であろう。ノマドのための借国という考えではないかと思う。

■参考リンク
第百六十五夜【0165】
金子光晴『絶望の精神史』を読む
309旅 『絶望の精神史』 金子光晴



■tabi後記
前回参加できなかった座禅会。あれから半年経過し、ついに参加する機会を獲得した。
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2009年08月19日

tabi0247 マーク・ベニオフ/カーリー・アドラー「世界を変えるビジネス」

横並びCSR(責任)から戦略CSR(機会)へ
企業は事業を行う地域社会に対して惜しむことなく継続的に、支援しなければならないということである。この要求に対して多くの経営者は、それは理想主義だと反論する。彼らの考えをまとめると、企業は効率的に事業を行い、無駄なく経営資源を活用し、雇用および商品・サービスを提供することで、健全な経済を支えている。それだけで十分社会に価値を提供している、というのである。(中略)世の中はもはやそれほど単純ではないということである。(中略)企業の社会貢献活動が、企業収益という点からみて正しいかどうかという議論は、すでに終わりました。それは市場が証明しています。市場、企業が善良な市民かどうかを重視しています。P8
マーク・ベニオフ/カーリー・アドラー「世界を変えるビジネス」(ダイヤモンド 2008)

06年にマイケル・ポーターが「“Strategy and Society: The Link Between Competitive Advantage and Corporate Social Responsibility”」という論文を出したことから、本書に登場するような流れが一層強まった。とはいえ、Corporate Social Responsibilityという言葉を聞いて、嬉々と行なう人はいないだろう。そこでポーターは、責任を「義務」と捉えるのではなく、「機会」としての責任と捉えようと提案する。

企業の責任は「よい製品・サービスの提供」することに尽きる。独自のポジションを築き、市場競争に生き残ることが目的となる。それがあって「雇用創出・維持」「税金の納付」などが行なわれるのだから。「地球環境への配慮」は製造過程における環境負荷の削減であり、「適切な企業統治と情報開示」「誠実な消費者対応と個人情報保護」などは「よい製品・サービスの提供」に内包さてる事項である。CSRというのは経営概念の拡張なのであって、ことさらに強調するまでもないのではないかと考える。

今の時代は「ボランティア活動支援などの社会貢献」「地域社会参加などの地域貢献」「安全や健康に配慮した職場環境と従業員支援」といったものが、拡張概念になっている。こういった活動を行う組織に、セールスフォース、パタゴニア、ホールフーズマーケット等が存在するが、企業人を社外ボランティアに行かせることが、どのように本業に結びつくかどうかは、頭を使って検証していく必要があるだろう。

■参考リンク
Days like thankful monologue



■tabi後記
「驚かすこと」と「意表をつくこと」の区別は、人を聡明にすると考える。
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2009年08月11日

tabi0236 市村浩一郎「日本のNPOなぜ不幸なのか?」

Non-profit organizationという言葉が生み出した不幸 -
いつの間にかNPO法の取り組む本質的課題が、日本社会の仕組みを変革することから、本人格という権利を獲得するということにすり替えられてしまった観がある。だからあえて繰り返すが、私は特定非営利活動促進法の制定は、失策であると考えている。そもそも「NPO法」とは私が作った造語であるが、特定非営利活動促進法を私はNPO法だとは思っていない。P221
市村浩一郎「日本のNPOなぜ不幸なのか?」(ダイヤモンド 2008)

著者らが構想したNPO法案は、NPOの法人格取得手続きを定める法律のみならず、税制上の優遇措置を規定する諸税法の改正を含むもので、ひとつの体系としてのNPO法を志向していたようだ。それとは異なる現在の特定非営利活動促進法については5つの問題を指摘している。

1. NPO法人の活動領域を17項目に制限されていること

2. 寄付税制の不備

3. NPOを「不特定多数の利益」の増進を図る活動をするものと規定されているため、特定少数のサービスが行ないづらくなっていること

4. 無償労働要件:役員のうち報酬を受ける者は3分の1以下でないといけない、という無償労働条件と10人以上の社員を有する者ものであるという条件があること。

5. 監督制度:行政の関与は、登記または登録などが正しく行われているかという点に留まるべきで、何か問題が発生した場合は、司法で解決を図るのがセオリーである。お上意識が招く設立認証の煩雑さを回避しなければならない。

NPOが含有する意味は、たかだが「分配のあり/なし」という意味でしかなかった。

その意味が、「収益追求あり/なし」と誤解されてしまったことに不幸のはじまりがあるだろう。意識せずとも、結果的として「経営不在」という事態が生じている。これが、日本のNPOの課題である。

現在は、Not for Profit(収益は酸素である)という意識を持つ方も増えている。これを意識だけで終わらせないためにも、実際にProfitをあげられる商才ある人が、NPOセクターへ参入したくなる制度設計が必要であろう。

■参考リンク
tacanoblog
TABLE FOR TWO小暮真久氏×チャリティ・プラットフォーム佐藤大吾氏×ETIC.宮城治男氏「社会起業はとにかく面白い」〜あすか会議2009レポート〜



■tabi後記
体調ももどってきたし、そろそろ運動を再開しよう。

「たい・ない」

人は何者かでありたい。
人は何者にでもありたい。
人は何者でありたくない。
人は何者にでもありたくない。
人は何者かにあれない。
人は何者にもあれない。
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2009年08月08日

tabi0230 小林弘人「新世紀メディア論」

Publiserは「そんなコミュニティー」が存在したことを公にする
特定の読者に対して情報を提供し、コミュニティーを組成し、そのコミュニティに価値が宿るのではないでしょうか。つまり、メディアビジネスとはコミュニティへの影響力を換金することであり、自動車販売や家電製品のようにすっきりしないのは、1台売っていくら、という商行為ではないからです。メディアという言葉のうさん臭さと高貴さは、コミュニティの価値を自らプライシングしているからであり、その価額と価値については厳密な物差し(発行部数やページビュー数)以外に上乗せされる部分ーブランド価値ーが付随するからです。P22
小林弘人「新世紀メディア論」(バジリコ 2009)


この本を読んで改めて確認することは、ブログパブリッシングをするうえでもっとも大切なことは、ほかの人じゃなくて、あなた自身がそれを読む事に興味があるかどうかということだ。

販促のボトルキャップを収集している人たちがいて、すごくレアなキャップがあるとする。(製造不良がプレミアムになったりね)もしあなたが、そのレアキャップ持っている収集家ならば、それらの美しいキャップを写真にとったブログを始めることだろう。しばらくすれば、ほとんどのレアキャップコレクターたちがあなたのブログを訪れることになる。

ラージ・フォーカス、スモール・プロフィットの時代から、スモール・フォーカス、スモール・グループ、ラージ・プロフィットの時代の中では、ブロード・ファーカスではなくて、ターゲット・フォーカスこそが価値がある。

■参考リンク
グーグル「ブック検索」和解は作家と出版社の関係を見直す好機
【必読!】「新世紀メディア論-新聞・雑誌が死ぬ前に」小林弘人
ブロガー必見!新世紀メディア論



■tabi後記
昨日は、カリエール:ポール・ヴェルレーヌにやられてしまったのだ。ハンマースホイ:ピアノを弾く妻イーダのいる室内の油絵の具の重なり方。あの襞感覚もスゴかった。そして、ポロック:ナンバー8, 1951 黒い流れの余白づくりに興味をそそられた。
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2009年08月06日

tabi0225 大橋正明/村山真弓(編著)「バングラデシュを知るための60章」

人の一生は、重き荷を背負うて遠き道を往くが如し
バングラディッシュは、インド・バキスタン分離独立の時に東西に分割されるまで、長い間共通の文化を育んできたベンガル地方の東側半分に成立した国である。その国の歴史というとき、特に一九四七年以前の歴史を考えるとき、ベンガル地方の歴史のなかから、東側の歴史だけをどのようにして取り出すのか、問題にならざるを得ないであろう。新しい国であること、長い間統合されていた地域の半分を占める国であるという二つの事情が、バングラディッシュという国の歴史を語る上で、独特の難しさをもたらしているようである。P16
大橋正明/村山真弓(編著)「バングラデシュを知るための60章」(明石書店 2003)


バングラディッシュを語るときは、その国の歴史をどこまで語るかを考えざるをえない。バングラディッシュとは「ベンガル人の国」という意味であるが、「ベンガル人とは何者か?」という問いは、容易なものではない。

一般的なバングラディッシュ史は、ベンガル人ムスリムのアイデンティティ形成の歴史でされている。ここで注目されるのは、言語と宗教である。

言語は概ね、ベンガル語であり、英語やウルドゥー語も存在する。宗教は、イスラム教が83%、ヒンドゥー教が16%、その他が1%であるとされている。(その他の宗教には仏教、キリスト教、無神論が含まれる。)

彼らがもつ世界観で印象的なのは「水と共生意識」が挙げられる。

バングラディッシュは、日本と人口を半分の国土で抱える、世界一の人口密度国である。そして、この国ではモンスーンと未整備河川の影響で、多くの洪水が発生している。

このように、洪水は多くの被害をもたらす一方で、バングラデシュの農民は毎年繰り返される規模の洪水を「ボルシャ」、被害をもたらすものを「ボンナ」と区別しているのである。

ボルシャは伝統的な雨季の農業を保証するばかりでなく、土壌の肥沃度を保ち、漁場をも提供してくれる。ボンナが災害をもたらすのに対し、ボルシャは恵みの洪水として人々に受け入れられてきた。

■参考リンク
バングラディッシュ 写真集



■tabi後記
住まう場所、住む場所が異なったとしても、背負うものが違うだけ。ただ、それだけなのだろう。ことさらに違いを取り立てない。違いを認めるという「メッセージ」もいらない。類似を見つめ、讃え合えば良い。類似をみる影に、相違をみる作業があるのだから。
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tabi0224 中川淳一郎「ウェブはバカと暇人のもの」

ウェブはヒトでありモノ
悲しい話だが、ネットに接する人は、ネットユーザーを完全なる「善」と捉えないほうがいい。集合知のすばらしさがネットの特徴として語られているが、せっせとネットに書き込みをする人々のなかには凡庸な人も多数含まれる。というか、そちらのほうが多いため、「集合愚」のほうが私にはしっくりくるし、インターネットというツールを手に入れたことによって、人間の能力が突然変異のごとく向上し、すばらしいアイディアを生み出すと考えるのはあまりに早計ではないか?P18
中川淳一郎「ウェブはバカと暇人のもの」(光文社 2009)


ひろゆき氏の「ネットには怒りの代理人を引き受ける無敵の人がいる」という指摘は、なるほどと思う。

別の話しをする。リンク先にある「ウェブは誰のものでもない」という考えは、少し拡げると、岩井克人の法人概念に似てこないか。モノでありヒトであるという概念。ヒトとしてのウェブ。所有する側のウェブ。

■参考リンク
“ウェブの大衆化・リアル化”でハイカルチャーな理想社会・知的生産性のベクトルから逸れたウェブ
梅田望夫と中川淳一郎の共通点 - 書評 - ウェブはバカと暇人のもの



■tabi後記
seesaaにはお世話になってきたが、このフォーマットでは表現しづらい部分が多々でてきた。表現欲のはけ口を準備したい。
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2009年07月08日

tabi0218 池谷裕二/糸井重里「海馬」

絶妙なバランスのうえに成り立つ生活
外界にアンテナを巡らせることは、つながりの発見には必須だ。情報入力のためのアンテナ、これを認識力と言い換えてもよいだろう。入力なくして出力はありえない。そして次に問われることは、認知された情報に、いかに新規な視点を付加するか。言うまでもなく、この過程こそが全行程の律速だ。と同時に、個性顕示の場でもある。P312
池谷裕二/糸井重里「海馬」(新潮社 2005)


インプットを惜しまず、かといってインプットしすぎない。アウトプットを大切にしながらも、根底への思索をないがしろにしない。頑固になることが大切であるが、柔軟性も大切である。このような態度は矛盾である。

だが海馬は、それを好しとする。むしろ安易な統合を好しとしてない。相矛盾する考え、統合と同時にあらわれる対立概念/別概念。これらを並列に飼いならすことを指南しているのかもしれない。

並列に飼いならすことに辟易せず、拍子抜けすることもなく、ただ自らが行なっていることが「そうであるか?」と反省的にいられるかどうかが試されている。「脳」にだまされず、「脳」をだましていきたいと思う。

■参考リンク
ねむりと記憶。
海馬 脳を困らせる旅に出る?


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■tabi後記
久々に多摩市に足をはこぶことになりました。戸籍謄本を本籍地まで取りにいかなくてはいけないことに驚きをおぼえた次第です。確定申告はネットでできるのに、戸籍謄本を共有するシステムはないようです。
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2009年07月04日

tabi0214 木下是雄「日本語の思考法」

語尾に苦しむ緩衝人
論文のなかで、「ほかの可能性もあるのにそれを斟酌せずに自分の考えを断定的に述べる」ことにはいつもひどく引っかかる。心のなかで押し問答をくり返したあげくに、やっと「である」と書くけれども、じつは「であろう」、「と考えられる」とふくみを残した書き方をしたいのである。これは私のなかの日本的教養が抵抗するのであって、精根において私が逃れるすべもなく日本人であり、日本的感性を骨まで刻みこまれていることの証拠であろう。P105
木下是雄「日本語の思考法」(中央公論新社 2009)


もちろん英語にだって主張の強さややわらげる叙述法はいろいろある。

perhaps,probably,presumably,...というような副詞もあるし、would(やwill)を推量や遠慮の意をこめて使う可能性もある。It seems to me thaat...,I suppose...などという言い方もできる。

だが、欧米人には、論文のなかの推理や主張のような場で、日本語の「であろう」、「と思われる」、「と見てもよいのではないか」に相当する緩衝性のある表現を使う心的習性がないようだ。

こういった推論から、論文などの場で使われる「であろう」は翻訳する手段がない。形式的にぼかした言い方をしてみても<場ちがい>で著者の気持ちは伝わらないーという考えた生まれている。

翻訳不可能性についての話しよりも、自分自身が引用文にある経験をしていることが興味深かった。それは「ほかの可能性もあるのにそれを斟酌せずに自分の考えを断定的に述べる」ことにはいつもひどく引っかかる。心のなかで押し問答をくり返したあげくに、やっと「である」と書くという行為である。まるで「語尾に苦しむこと自体が、ニホンゴを話者の制約である」と宣言されてしまったようだ。

■参考リンク
youngblood


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■tabi後記
八重樫さんとお会いし、彼女が去年書き記した「みること」という論文について話をしました。

論文の流れとしては「なぜ人はモナリザをみたときに「意外と小さかったね」という言うのか?」という問いを起点にし、ベンヤミン(アウラ)→高山宏(ピクチャレスク)→スタフォード(身体の疎外)→荒川修作(建築的身体)を援用しながら、「今・ここ」を論じていている。先験的体験にも、神秘的体験にも回収されない確かな「実感ある見る体験」を探究した素敵な論文だった。
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tabi0212 ドン・タプスコット「デジタルネイティブが世界を変える」

アナログ・イミグレイトが世界を変える
人間の歴史における何とも特異な時期が訪れたものである。若い世代が年長者に対して未来にどう備えるべきかを教えてくれる時代が初めて到来したのだ。(中略)ネット世代から学ぶことで、生産性の高い仕事、二十一世紀の学校や大学、革新的企業、よりオープンな家庭、市民が関与する民主主義、そして、おそらくは新しいネットワーク化された社会という新しい文化を知ることができるだろう。P15
ドン・タプスコット「デジタルネイティブが世界を変える」(翔泳社 2009)


デジタルネイティブ世代の特徴としては:

・現実の出会いとネットでの出会いを区別しない。
・相手の年齢や所属肩書にこだわらない。
・情報は無料と考える。

などが指摘されている(らしい)。また、インターネットオークションなどでは購入にも売却にも積極的な層であるとのこと。

さてどうしたことか。どうも僕の関心はデジタルネイティブにはないみたいだ。というのも、周りでは次の世代がはじまっていると感じているからだ。

読後に思ったことは、デジタルネイティブがあるならアナログネイティブがいるのか?ということ。そして、デジタル国とアナログ国があるなら、互いの国への移民がいるだろう?という考えです。

と思いながら検索をしてみると、すでに論じられていました・・。

アナログネイティブに関しては、アナログ原理主義者とデジタルネイティブという記事があり、デジタルイミグレイトに関しては、アナログなんて知らないよ! デジタルネイティブが開く時代に記載してあります。

しかし。言葉遊びが好きな私としては、ここで「アナログイミグレイト」という言葉を登場させたい。

tabi0212.jpg

アナログ・イミグレイト世代の特徴としては:

・仕事はプロジェクト制を基本とするが、受注先にも個人的な関係を求める
・現実の出会いとネットでの出会いを区別しないが、出会い方を激しく重視する
・相手の年齢やジェンダーや国籍にこだわらないが、良い問いをもっていること重視する

などが指摘されている(らしい)。

また、近隣コミュニティーが志向性に共鳴し合うコーポラティブハウスになっているため、自律的な経済圏が生まれているらしい。最も大事な特徴としては、アナログ・イミグレイトは「ALWAYS 三丁目の夕日」のようなノスタルジックなものは大嫌い。

■参考リンク
今からやつらに任せろ - 書評 - デジタルネイティブが世界を変える


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■tabi後記
デジタルネイティブに類似する言葉は、ネタとしても使用しないことにした。それは、こういう類いの言葉に限ることではない。誰かが生み出した言葉を無批判に使うほど、自らの思考を制約することはないと考えているからだ。
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2009年06月30日

tabi0204 平川克美「経済成長という病」

経済は成長を要求するのか?

経済成長そのものは、社会の発展プロセスのひとつの様相であり、おそらくは発展段階に起こる様々な問題を解決してゆくだろう。しかし、経済均衡もまた社会の発展プロセスのひとつの様相であるに違いない。その段階において無理やり経済成長を作り出さなければならないという呪縛から逃れられないことこそ、私たちの思考に取り憑いた病であると思うのである。P70
平川克美「経済成長という病」(講談社 2009)


本書は、病の診断書ではない。

本書は、新たな正常を提示し、現在を異常とするような提言書ではない。

本書は、抑制をもったつぶやきである。「病だと思うんだけど・・・。どうでしょう?」という語り方である。平川氏の違和感は前書で論じられた内容を引き継いでいる。

ユヌスが言う経済成長には共感するが、マッキベンが触れるような経済成長には疑問をもつ方がいる。

偶然にも先進国に住むことになってしまった者の役割に「貧困の終焉後」の社会/経済の設計があげられるあろう。課題先進国,定常型社会という言葉は、その自体を象徴するものである。

「先進国貧困の終焉」と「後進国貧困の終焉」は異なる。そして終焉後の世界も異なるだろう。各自がこれからの時代性と欲望の変遷を目一杯考えながら、その予期される時代に「予防事業」を図っていくことがもとめられる。

■参考リンク
Joe's Labo
『経済成長という病』。 - 考えるための道具箱



■tabi後記
一人カラオケを経験してきた。声をメタ認知する装置としてつかえそうだ。
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2009年06月28日

tabi0199 結城浩「プログラマの数学」

語られ方に敏感であること

プログラミング/プログラマという言葉について考えることが多い。

一般的に、プログラミング(Programming)という言葉は「人間の意図した処理を行うようにコンピュータに指示を与える行為」(Wikipedia)と考えられており、「プログラミングをする人をプログラマ」(Wikipedia)と思われている。そして「ほとんどのプログラミングは、プログラミング言語を用いてソースコードを記述することで行われる。これをコーディング」(Wikipedia)という前提があるだろう。

私はこの「語られ方」に違和感をもっている。なぜPro(前もって)-Gram(書く)がComputer Programと捉えられてしまったのか?という問いと、なぜComputer Programという行為がCodingと捉えられてしまったのか?という問いを保っているからである。

ここでは後者に視点をあててみたいと思う。以下はアジェンダを設定するだけなので、問いに答えは見出されていない。

本書を振り返ってみると、「人間は何が苦手か」が浮き彫りになります。そして、その「苦手」なところを克服するためにさまざまな知恵が生まれたのです。

人間は、大きな数を扱うのが苦手です。ですから、数の表記法がいろいろ工夫されました。(中略)人間は、複雑な判断を間違えずに行なうのが苦手です。ですから、論理が作られました。論理式の形で推論をしたり、カルノー図で複雑な論理を解きほぐしたりします。人間は、たくさんのものを管理することが苦手です。ですから、グループ分けをします。(中略)人間は、無限を扱うことが苦手です。

・・・このように、さまざまな知恵と工夫をこらして、人間は問題に立ち向かいます。なんとか問題の規模を縮小し、複雑さを軽減し、「あとは機械的に繰り返せば解ける」という状態に持ち込もうとします。その状態に持ち込めさえすれば、強力な次の走者-コンピューター -にバトンを渡すことができるからです。P238
結城浩「プログラマの数学」(ソフトバンク 2005)


先の言葉に対応させるなら「あとは機械的に繰り返せば解ける」ような問題を定義するのが"プログラム"することであり、それを記述することが"コーディング"であろう。

さて「なぜComputer Programという行為がCodingと捉えられてしまったのか?」という問いに戻ってみよう。この問いに対峙するためには「機械」「繰り返す」「解く」の3点に光をあてる必要がありそうだ。

■参考リンク
結城浩にインタビュー『プログラマの数学』



■tabi後記
何かをしないことで、何かをすること以上に何かを伝えることができる。勘違いを自己産出してあげるようなしつらえを。
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2009年06月24日

tabi0195 伊丹敬之「よき経営者の姿」

私が考える、よき経営者に共通する顔つきの、次の三つの特徴である

1.深い素朴さ
2.柔らかい強さ
3.大きな透明感

三つの特徴は、鍵になる名詞(素朴さ、強さ、透明感)と、そのありようを説明する形容詞(深い、柔らかい、大きな)の組み合わせで表現してある。

一つの名詞だけで表現しきれずにさらに形容詞を重ねなければならない、ある意味で複雑な顔つきである。しかも、形容詞は一見すると後に続く名詞とは逆のこと、あるいは違う筋のことをいっているような語になっている。P18
伊丹敬之「よき経営者の姿」(日本経済新聞出版社 2007)



三枝氏と伊丹氏の対談本で知ることになった本書は、今までに伊丹氏が対峙してきた経営者達を「よき経営者の姿」としてモデル化した内容になっている。

「顔つき」からはじまり「退き際」にいたるまでのプロセスを精緻に描いている。その中でも、私が気になったのは「顔つき」に関する記述である。

伊丹氏は人相見ではないが、出会った経営者の顔には「1.深い素朴さ」「2.柔らかい強さ」「3.大きな透明感」という3つの特徴がみられたという。やはり、名詞と形容詞が相反するような意味をもってているのがポイントであろう。

伊丹氏はこのような表現にたどりついた経緯を細かく説明している。大意としては、「経営はしばし矛盾の中おこなわれる。そのような環境下を泳ぎきる人は、その様相が顔にあらわれてしまうのではないかと。」いうことだ。科学性からは縁遠きこの推論には、確かな納得感がある。

夏目漱石「草枕」の冒頭に「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」という有名な文章がありますが、よき経営者とはこのような「住みにくい」人の世を「住みやすく」する人のことを示している。

■参考リンク
よき経営者の姿。 - 考えるための道具箱



■tabi後記
久々に和泉キャンパスの学食を味わっている。知らぬうちに、無線と電源が備えられていた。快適です。
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tabi0194 ジェリー・ポラス他「ビジョナリー・ピープル」

なぜ今の今、私は自分の生きがいに打ち込んでいないのだろうか?

最近は、自分のしていることを好きになるのが大事、という議論が盛んになっている。しかし、大半の人はそれを鵜呑みにしているわけではない。大好きなことをするのは、いいことに違いない。けれども、ほとんどの人は、現実の問題としてそうしたぜいたくをしている余裕はないと感じている。多くの人たちによって、本当の生きがいというのは、そうあってほしいという感傷的な空想で終わってしまう。P54
ジェリー・ポラス他「ビジョナリー・ピープル」(英治出版 2007)


本書を語るには、この問いだけで十分だろう。

なぜ今の今、あなたは自分の生きがいに打ち込んでいないのだろうか?

内容を知りたい方は下記が詳しいです。

■参考リンク
ココロにガソリンを「ビジョナリー・ピープル」
ビジョナリーピープルを一気に読んでみた
All About ...+Me



■tabi後記
同じ質問を同時にうけることがあるが、解決はいつも単純です。それは、質問者が一歩が踏み出された時に終わる。私は、一押しを我慢することだけかな。一歩と一押しの順番を間違えてはいけない。
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2009年06月22日

tabi0192 内田和俊「俺様社員をどうマネジメントするか」

本書は、前書でいう「II 自称勝者(俺様社員)」に焦点をあてたものになっている。

数々の障害を乗り越えながら人は成長していきますが、本人の努力によってしか、それらの障害は乗り越えられません。それは、自分との闘いになりますが、同時にfruitful monotony(実りある単調)との闘いでもあります。しかし、上司や周りの人たちからのサポートがあれば、fruitful monotony(実りある単調)に耐え、モチベーションを持続することができます。P166
内田和俊「俺様社員をどうマネジメントするか」(ダイヤモンド社2008)


「II 自称勝者(俺様社員)」は、明らかに本人の資質・能力に問題があるのに、その事実を直視せず他者や会社の批判に明け暮れる新入社員を指しています。

そのような新入社員をどうマネジメントしていくかが問われている。「言い続けること」がマネジャーの仕事であり、ティンチングをやらずしてコーチングに逃げるべからずというメッセージが主旨となっている。

本書におけるコーチングはGROWモデルを基本にしながら、コーチーを他責型(具体強化),無関心型(期限強化),評論家型(オプション強化)に分類しているのが特徴でしょう。

■参考リンク
GROWモデル(2)ゴール
No,002:俺様社員をどうマネジメントするか



■tabi後記
7/12(日)にサバイバルゲームをすることになりました。気になる方がいましたら連絡下さい。
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tabi0191 ダン・ケネディ「究極のマーケティングプラン」

どうしてあなたを選ばなくてはいけないのか?

この問いを浴びせ続けることしかUSPヘ辿り着けないと語る。USPを見つけずして、適切な人に適切なメッセージを伝えることはできない。

「焼きたてのアツアツのピザを三十分以内にお届け。遅れたら代金はいただきません。」これはドミノピザのUSPとして紹介されている文章である。これを書き出した後に、いかにしてドミノピザが「腹を空かせた群集」を見つけ方が書かれている。

まずは、他にもいろいろ選択肢があるのに、どうしてあなたのビジネス/サービスを選ばなくてはいけないのか?に答えること。

さいきん、売ってますか?

躊躇せず、売ることを実践するかどうかは、あなた次第であるが、確実に言えることは、本書を読むことにより、売る勇気が身体の中に宿るということである。そのようなエネルギーを与えてくれる本には、なかなかお目にかかることができない。P4(監訳者まえがき)
ダン・ケネディ「究極のマーケティングプラン」(東洋経済新報社 2007)


メッセージを展開するさいは「相手は頑として信じようとしないこと」を頭に入れておく必要がある。その為に、売り物を証明する写真を見せたり、良い証言を集めるといった下準備が必要なのだろう。

この下準備や細かいテクニックに踊らされていては何も意味が無い。この手段があるのは「選ばれる」という目的が達成するためである。そして、選ばれることによって創られる未来を見据えての話である。

■参考リンク
活かす読書



■tabi後記
タイガー・ジェット・シン仕事術というのは、おもしろい考え方だな。「いきなり核心を突いた仕事をする」「前置きなしに本題の仕事に取り掛かること」ということです。

彼は、会場に現れるなりサーベルを振り回し、観客を襲い始める。そのままレフリーの紹介も待たずに、相手選手に攻撃を仕掛け、パイプ椅子で殴りかかったり、噛み付いたりするんだ。この動画でも4:30にて、いきなりターバンで首を絞めはじめる^^:


グレート・カブキ VS タイガー・ジェット・ シン(1/2)
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tabi0190 ミチオ・カク「アインシュタイン よじれた宇宙の遺産」

孤独であること

時間と空間に関わる新理論を生み出し、人類の宇宙観を一変させたアルベルト・アインシュタイン。彼は、1921年に「光量子効果」の発見などの功績に対してノーベル物理学賞を受けた。アインシュタインは1879年3月14日にドイツのウルムに生まれる。

1900年にチューリッヒ工科大学を卒業するが、友人たちは助手として採用されたのに、彼だけは教授から「なまけもの」と決めつけられ採用されなかったの。そして、父の事業も同時期に倒産してしまう。アインシュタインは経済的危機にたたされてしまう。

アインシュタインは、新聞の求人広告を漁り、補助教員の仕事を探しまわっていたようだ。仕事にありついても、校長とあわずに解雇うけてしまう。アインシュタインは餓死寸前まで追いつめられていた。

このような充てが定まらぬ状態で2年近くが経過したころに、学生時代の友人グロスマンが特許局に審査官の口が見つけてくれたのだった。ここから彼の思索活動がはじまる。

アカデミーのグループとともに過ごした日々は、アインシュタインの生涯でもっとも楽しいときだったかもしれない。科学論文を読み、喫茶店やビヤホールでにぎやかに議論を戦わせ、「エピクロスの"楽しき貧しさの何とすばらしきことか"という言葉は我々のためにある」と豪語した。P38
ミチオ・カク「アインシュタイン よじれた宇宙の遺産」(WAVE出版 2007)


「光を光のスピードで追いかけたらどのように見えるか?」

ニュートン、マクスウェル、マッハといった先人が残した思考に後押しされながら、答の出ない難問に取り組み、一人暗闇の中を模索する青年。

ものになるかわからない。果たしてまともに生きていけるかさえわからない。そんな中でも希望を失わず、努力を惜しまなかった若きアインシュタインの孤独の中にこそ栄光はある。その孤独がコトバを生み出しのだろう。

私は頭が良いわけではない。
ただ人よりも長い時間、
問題と向き合うようにしているだけである。

過去から学び、今日のために生き、
未来に対して希望を持つ。

大切なことは、何も疑問を持たない状態に、
陥らないようにすることである。

われわれが進もうとしている道が、
正しいかどうかを、神は前もって教えてはくれない。


■参考リンク
850旅 ミチオ・カク『アインシュタイン よじれた宇宙の遺産』
アインシュタインの孤独



■tabi後記
後輩達が「Grameen Change Makers Program」を始動しました。日本人学生をグラミンへ招いた上で、 現地でフィールドワークを行い、そこから得られた知見を基にしてグラミンにアイデアを提案するという企画です。頑張ってほしい。
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2009年06月21日

tabi0189 茂木健一郎「脳内現象」

並列状態を統合するか運動するか、はたまた

本書は「経験科学的方向」と「私の特別性という唯我論的方向」の2つをどちらも棄てずに、どちらも活かすような方略をたてる。これは注目に値する。それだけに「どのように料理するのか?」に直に関心がいく。

読み始める前に考えるのが「脳内現象」という言葉である。文字どおりに捉えるなら、1000億の脳細胞の相互反応のパターンによって世界はつくらるという考え方であろう。茂木氏の言葉でいうならば「全てがクオリア」である。

茂木健一郎×入不二基義氏トークセッション「脳内現象」刊行記念「意識はいかに成り立つか〜脳と時間をめぐって」)は興味深いセッションである。

このセッションで入不二氏は、「クオリアの中には脳のクオリアも存在しているはずです。そうすると脳はクオリアの中にあると同時に、クオリアを産み落とすものでもある。つまり、心の内は外の脳で生み出され、その脳はクオリアによって生み出される。外が内へ取り込まれ、内側へとりこまれないものとして外があり、さらに内へ、、といったダイナミズムこそが考えることではないか?」と言及する。

完了的理解と無時間的理解


近代科学は近接作用に基いた因果作用で世界が解釈されている。その中で、本書はメタ認知に焦点をあてる。

このようなメタ認知が新たに立ち上がる時、もっとも不思議なことの一つは、立ち上がったメタ認知の対象になっていることが、「そういえばそういう感じは前からあった」というような、既視感を伴って感じられることである。外部から入ってきた感覚情報を認知する場合と異なり、メタ認知の対象になるものは、もともと自分の内部にあったものである。このような対象の出自が、私たちが新たなメタ認知で新たな世界観を手に入れつつも、同時に既視感を感じる理由ではないだろうか。P158
茂木健一郎「脳内現象」(NHKブックス 2004)


メタ認知は「そうだったんだ」という完了の真理認知がなされる。同時に「そういうことになった」「そういうことになることだったんだ」という無時間的な真理に転換するのである。

■参考リンク
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
戯言1:天気がわるいとは何ぞや?雲の上は晴れている。
戯言2:寝過ぎるとは何ぞや?それだけ記憶は定着している。
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2009年05月23日

tabi0173 多木浩二「雑学者の夢」

われわれの読書とは記憶や想起のみならず、忘却をも構成要素とする経験ではないかと考えるようになる。忘却とはわれわれが現実の世界を生きている証拠なのかもしれない。しかし最初に読んだときの理解や感動、あるいは理解の困難を克服しようとした経験は無意味だったのか。そうではないということが、読書という経験の不思議なところだ。たしかに細かい意味や個々の文章は覚えていなくとも、ある書物という意味の時空間を通り抜けた経験は無意識のなかに沈殿している。書物は物体ではない。生きている人間の経験のなかで変質もし、消滅もするテクストなのである。再読することは、埋もれた記憶を掘り起こす行為である。かつて読んだ書物の内容だけを思い出すのではない。忘却のあいだに経験した世界によって、変形された記憶として想起することなのである。読書とはわれわれの生命と離れがたいものであり、世界を認識とも分ちがたいものなのである。P165
多木浩二「雑学者の夢」(岩波書店 2004)


図書館で「グーテンベルクの森」というシリーズを発見し、興味深い企画だと思ったので、先日読んだベンヤミンの解説をされていた多木氏の本を読ませて頂きました。

面白い,役に立つ,考え込む,癒される,運命が決まる,新しい世界が見えてくる….人は本と出会うことで心を強く揺さぶられ,それまでとは違う自分を見出します.書物が織りなす〈グーテンベルクの森〉とは,どこまで深く豊かなのでしょうか.様々な分野を代表する案内人が,書物との関わりとその魅力を自由に語ります.
岩波書店 グーテンベルクの森


多木氏はバルト/ソシュール/バンヴェニスト/カッシラー/ベンヤミンといった経路で言語観を形成することで、「名づけることが人の本質」という創世記にみられる言語モデルとフロイトや井筒氏に近いスタンスで思索をされているようです。グーデンベルクの森を彷徨い歩いた雑学者が垣間みた夢から、彼の生き方が滲み出てくるようでした。

1つのお話したとして考えられたのが、引用文章の読書観を歴史観と読み替えてみることです。ある人の経験は時空間を通り抜け、共持的無意識のなかに沈殿し、生きている人間の経験のなかで変質し、消滅するテクストのようである。そのテクストを我々が再読し、埋もれた記憶を掘り起こす行為が「歴史を読む」ということなのでしょう。忘却のあいだに経験した世界によって、変形された記憶として想起することが歴史なのである。



■tabi後記
選書が偏ってきたので、そろそろ変えていこう。
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2009年05月17日

tabi0160 大河内直彦「チェンジング・ブルー」

エミリアーニやシャクルトンによる海底コアの酸素同位体比の結果は、氷期に海水の酸素同位体組成を変える巨大な氷床の大きさが、およそ五◯◯◯万平方キロメートルにも及びことを明らかにした。こうした研究の成果がひとつずつ蓄積されて、氷期の気候の姿が少しずつ正確に描けるようになる。P79
大河内直彦「チェンジング・ブルー」(岩波書店 2008)


地球の気候が、過去数万にわたってどのように変動してきたか、そうした変動を引き起こすシステムはいかなるものか、について丁寧に解説した書籍である。本書は、「地球の気候」という複雑なシステムの解明にあたって、物理学や化学、生物学、地質学、海洋学など、さまざまな学問分野の成果が巧みに組み合わされていることが、じつによく描き出されている。海洋地質化学と呼べる学際的なアプローチをリアルに感じる事が出来た。

例えば、、海洋深層水の地球規模での循環の様子を解き明かすにあたっては、光合成で二酸化炭素から有機物を合成するときに働く酵素の性質を使う。気候変動の謎を解き明かすために、人類は持てる叡智を総動員してき。そして、この数十年の間に、古気候変動の実態を解明する研究や、放射同位体を駆使した分析/手法の開発、そして地球各地を掘削する技術が飛躍的に発展したことを描いている。

■参考リンク
成毛眞ブログ
がくの飛耳長目録



■tabi後記
私は、「この領域で表現するのは私ではない」と自信をもって言うために、有能なサイエンスライターの書籍を読むのかもしれない。
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2009年05月16日

tabi0158 ダリル・トラヴィス「ブランド!ブランド!ブランド!」

ブランド構築について理解できない経営者が多いなかで、わずかだが、それについてそっと教えてくれる人もいる。そのなかには感銘するものもある。たとえば、次のような言葉だ。「偉大なブランドとは、完結しない物語なのです。それは、進化し続けるたとえ話です。そして、深遠なもの、神話を理解する根本的な人間の力と結びつくのです。人間は、物事をより高い次元で理解する必要があったのです。われわれは、自分よりも大きな存在の一部にであると思いたいのです。この意識を従業員や顧客に顕示している企業は、何か力強いものを呼び起こすのです」(中略)スコット・ベドベリーやフィル・ナイトにとって、事業は決して無味乾燥なものではない。すべてが理詰めでもない。事業の無形の部分は、建物や機械よりもはるかに重要で価値がある。ブランドをつくり育てていくことがこのうえない楽しみだ、と彼らはきっと言うだろう。P7
ダリル・トラヴィス「ブランド!ブランド!ブランド!」(ダイヤモンド 2003)


アテンションシェアという命題がアテンションを高めた時がありましたが、その時に私が考えていたのは、「誰とも比較されることなく、顧客の中で絶対的価値を持つものは可能か?」という問いでした。物理的に時間を投入していなくとも、その人間の中で比較考慮なく絶対価値をもっているものは「自分であるということ」だと考えたのでした。或る種、ブランドを拒否するもの/成立要件を探ることが哲学であるともいえると思います。

このように語ると「ブランド=常識」と転換できるように思えるが、そう単純にはいかない。というのも、消費活動においては、消費者と企業という関係性が発生し、常識が選択的になるからである。ここで使用する「関係性」とは約束とも言い換えられると思います。つまり、ブランドとは、「顧客に対する約束(契約/密約の束)」であると。この定義は教科書で掲載されるようなものだったりしますが、(tabi後記に定義史を載せました)この文をみて忘れてはいけないことは、約束というのは「2者間」で交わされるということ。

誰に(ブランドターゲット)、何を(ブランドエッセンス/提供価値)約束するか。 その前に、果たして「誰が」約束するのかということを考える必要がありそうです。 コミットメントの主体を明確にして、それを「示すこと」がブランドの第一歩なんだと思います。

逆に考えれば、主体的なコミットメントの「低い」人間や集団にブランドは生まれないということ。 言わんとすることは、 企業というものはブランドオーナーであれ、そして構成員である人間もブランドオーナーであれということかな。 (最後はトム・ピーターズ的になってしまいましたね)

■参考リンク
ブランドって何だろう(1)
仕事メモ カタカナメモ デザイン 10%
真の「ユニーク」とは何なのか。



■tabi後記
パンデミック予兆があるなか、このイベントに参加してきます。

ブランド定義史

「ブランドとは個々の製造者の製品もしくは個々の卸や小売人によって供給された商品を見分けるための手段。ブランドの強さは、消費者マインドにおける選好の程度によっている」Copeland(1923)

「ブランドは、ある販売者あるいは販売者グループの商品やサービスを識別する意図の下に競合他社のものと差別化を図るための名前、名称、符号、図案あるいはそれらの組み合わせである。」AMA(1960)

「ブランドとは、他社の製品やサービスとの違いをはっきりと示す名前、言葉、デザイン、シンボルなど。ブランドの法律用語は商標、ブランドは売り手の一つの商品、商品ファミリー、さらに全商品について、その独自性を示すものである。」AMA(1988)

「消費者はブランドを製品を構成する重要な要素とみているので、ブランド化は製品に価値を付加することができる」Kotler(1995)

「ブランドとは製品である。ただし、同一のニーズを充足するようにデザインされた他の製品とは何らかの方法で差別化するための次元をともなった製品」Keller(2000)

「ブランドは工場でも、機械でも、特許でも、創業者でも、著作権でも、ロゴマークでもない。製品でさえない。製品は工場でつくられるが、ブランドは頭の中でつくられる。ブランドはアイデンティティを示すバッジである。」Travis(2000)

「製品は消費者にとっての便益の束であり、基本価値、便益価値、感覚価値、観念価値の4つの価値階層からなる。基本価値(製品としての必須価値。最低条件)、便益価値(便利で、簡単に使用できる価値)の2つの価値は製品の品質に対応し、良い悪いの尺度で評価できる一方、感覚価値(心地よく、楽しく消費できる価値)、概念価値(品質や性能以外のストーリー性、文化性、意味、解釈が付与された価値)はブランドの生み出す価値であり、これらは良い悪いではなく好き、嫌いの尺度によって評価される。」和田(2002)

「ブランドの3つの役割は1識別機能、2品質保証、3存在感である。」 平山弘(ブランド価値の創造)

「人間には、物理的なモノによって得られる満足感以上に感情面で満たされたいという欲求がある。人間の欲求の根底にある強い願望・衝動を刺激することで、商品と消費者を感情的に結びつけるのがブランドの役割である。ブランディングとは提供する者と提供される者との間の心の感情の共有であり、信頼と対話で成り立つものだ」Marc Gobe(2002)
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2009年05月15日

tabi0155 釈徹宗「不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者」

『妙貞問答』の場合、「キリシタンという新しい宗教を理解させるため」と「キリシタンは従来の宗教とは異なったものであり、しかも最も勝れている」ことを語るために、仏教・儒教・道教・神道と比較したのである。しかし、「比較」というプロセスは、ある特定の宗教体系を理解したり説明したりする手法以外にも、意外な機能を果たす。それは、比較する主体の信仰を成熟させるという機能である。
(中略)
中でも、宗教を比較するということは、それ自体、宗教的行為であり宗教体験である。禅僧としてのトレーニングを積んだハビアンにとって、キリシタン信仰を確立するためには、「比較」は避けて通ることができないプロセスだった。そして、間違いなく、彼にとっては他宗教とキリシタンとを比較すること自体が彼の信仰営為だったのである。P112
釈徹宗「不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者」(新潮社 2009)


禅僧→キリシタンへ改宗→棄教→「野人」という転変を果した不干斎ハビアン。

神も仏も棄てた先にハビアンがみたものは何だったのだろうか。キリシタン時代に護教論として執筆された『妙貞問答』と、転じてキリスト教批判のために発表された『破堤宇子』(はだいうす)。この両書を総合して、神・仏・儒・基の比較宗教学を史上初めて成し遂げた画期的な書として位置づける著者に関心をもって読み始めた。

ハビアンは、仏教の性向である徹底した相対化を体得したうえで、キリスト教がもたらした絶対の神と救済の信仰に魅了されていった。本書でも紙幅を割いて説明されているが、山本七平も不干斎ハビアンに着目した一人である。彼は『日本教徒』の中で「不干斎ハビアンが提示した宗教への態度と感性は、その後の日本人にとって宗教に対するひとつのモデルとなった」と説明している。ハビアンは、キリスト教のうち、自分のその基準に合うものを採用し、基準に合わないものは、実は、はじめから拒否していた。

「聖☆おにいさん」というマンガがある。私は読んだことがないのだが、このマンガがヒット出来ること自体が日本教徒という枠組みに準拠されるのかもしれない。

■参考リンク
「いきなりはじめる」縁起



■tabi後記
的外れだろうが、ハビアンにはパッチワーク/まかない的な精神を感じる。
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2009年05月13日

tabi0152 斎藤孝「読書力」

私は自分の大学でのゼミの案内に、「単独者として門を叩くこと」という言葉を掲げている。要するに、つるんで来るなということだが、単独者になるのは意外に難しい。読書をたくさんしている者ほど、単独者となりやすい。自分自身の世界を持っているからだ。読書は元来、著者との一対一の空間で行われる。みんなで読み合わせをすることもあるが、現代の読書では一人が基本である。(中略)自分から歩いて行って門を叩くからこそ、言葉は身にしみ込む。P63
斎藤孝「読書力」(岩波書店 2002)


本書でも言及されているが、読書をする場所を変えることは試みている。実験として行っているのは、場所/時間/身体状況という3つの変数を意識しながらら読むことです。

例えば、身体状況というのは、走りながら読む/競歩で読む/スキップで読む/逆立ちで読む/階段を上りながら読む...といったことである。まだまだ「違い」を見いだせる段階にたっていないが、心拍数やBGMスピードは読書リズムに影響を及ぼしている。

また本書の最後に書かれている読書トレーナー/本のプレゼントも面白い試みです。カウンセリング/コーチングというのがあるように、ブックセラピーからブックコンサルティングという仕事は興隆していきている。

■参考リンク
斎藤孝 おすすめブックリスト



■tabi後記
実験として、特定の友人に読書トレーナーをやってみようかしら。書籍から得るのは、世界の分節パターンであろう。そのパターンを組み合わせること、パターンを見いだすことに「その人間」の自己形成/個性が宿るのではないかと考えている。それは自己分析ともいえるかもしれない。読書前(開心/選書/購入),読書中(前戯/本番),読後(後戯/共有/復習)を分解してアプローチしてみようか。
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2009年05月12日

tabi0147 勝間和代「読書進化論」

私たちの脳は無限の可能性があり、その可能性を引き出すには、自分でいろいろな経験をすることがいちばんであると私は考えています。しかし、ひとりひとりの時間には限界があります。他者の経験を疑似体験することができれば、人生はより豊かになるでしょう。できれば、本当はすべての経験を著者本人の口から語ってもらうのがよいのですが、互いに時間にも、交友関係にも限りがあり、そういうわけにはいきません。しかも、亡くなった人からはそれはできなくなります。(中略)その人が何を語ってくれているのかについて、本のフレームワークを確認しつつ、著者に対して「ちょっと、ここのところを教えてくれる?」「ちょっと、そこは違うんじゃないの?」というような感覚で、いろいろな本を読み進めていけばいいのです。P91
勝間和代「読書進化論」(小学館 2008)


本書にはmixiの勝間和代コミュニティーの書き込みが多く用いられています。そのことに内容の「薄さ」を感じる読者がいたようです。(amazonに評価を書く方々)

私はmixiコミュニティーの書き込みに転載する行為は「社会実験」として興味深く感じた。それは、ファンのロイヤリティーを高める行為であり、Webか本ではなく、Webも本もであるという執筆スタイルである。発信の形とコンテンツの創られ方としてメディアを区切るのではなく、双方の特性を生かして(実験してみることで)新たな跳躍を行おうとしているのではないだろうか。

毒書読自については以前も書いたが、他者の考えに頼らないで読書をするというのは中々難しいものです。それは、目的をもって読むという行為自体が「何かを得たい」という頼りが入ってしまうからです。

そこで取り入れたのが、15分ごとに読む本を変えるという読書法です。これによって、自立的(3冊を組み合わせて考える自由)/自律的(時間によって本を手放す自由)な読書ができるようになってきた。そして、もう1つの視は、自分はこの著者に「何を与えられるか」という視点でしょう。亡くなった著者の場合は難しいので、Blogなどで「宛先の籠った」レビューをするのがいいのではないでしょうか。

突然話は変わるのだが、最近考えていることとして「読み手⇔書き手の歴史性」がある。それは良き書き手は良き読み手であったし、読み手であり、読み手であり続けること。良き読み手も良き読み手であったし、読み手、書き手になり、書き手となるかもしれないこと。そして同時代的に同一書/関連書を読み込んでいる人々の連環をつくりたいということかな。そして、パラレル読書をしていて感じた事は自分の中に潜んでいるいくつもの自分を認識できるようなツールであったり、読自前,中,後にはどのような情報が巻き起こっているのか、それを何かの形で表現してみたいと考えている。まあ非常にざっくりしたものです。

■参考リンク
琥珀色の戯言
All About ...+Me
読書から用書へ - 書評 - 読書進化論



■tabi後記
まだまだ不正確なのだが「発書→読書⇔見書→感書⇔発自→読自⇔見自→感自」といった構造を描きつつある。
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2009年05月09日

tabi0144 西林克彦「あなたの勉強法はどこがいけないのか?」

「わからなくならない知識」は、どこが「おかしい」かと言えば、その知識を使っていない点なのです。もう少し正確に言えば、決まり切った使い方しかしていない点です。「わからなくなる危険」を冒していないのだと言ってもいいでしょう。決まり切った使い方しかしないと、「わからない」ことは出てきません。P140
西林克彦「あなたの勉強法はどこがいけないのか?」(筑摩書房 2009)


勉強法に関する書籍がひしめく中で西林さんのスタンスには共感がもてる。本書では、素質と思われるものの大半が能力であり、「素質」があるとわかるにはある程度能力をつけてから判断されるものであると考える。そして、能力がつくことによって得られる「楽しさ」は一定以上のは時間がかかるということを前提としたうえで、ただ単に時間をかければいいのではなく学習質を追求してほしいと願っている。本書は、そのための方法論,考え方を小学校の算数,理科といった身近な事例によって促してくれるのだ。

勉強とは出来ない事が出来るようになる事であると考えられるが、それは無知から既知への飛躍ではない。無知から未知への飛躍なのである。未知に浸る事ができること、自分が何を知っていて、何を知らないのか、またどうしたら知っていることを知らなくすることができるのか。この思考過程が楽しいのである。

■参考リンク
「わからない」を自分の身で引き受けること
「あれもできる、これもできる」ではなく「あれもできない、これもできない」、しかし・・・



■tabi後記
酒井さんと英語勉強会をはじめました。来週から本格的に開催するのですが、コンセプトとしては「Koten meets Siliconvalley」です。来週は「茶の本(THE BOOK OF TEA)」を英文で読み込んだうえで、その要約/感想をシリコンバレー的にプレゼンする。僕は、茶の本×Amazon Kindleを着想させ、彼は茶の本×Dropboxを着想させるようです。茶室や茶碗という「見方」によってWeb/プロダクトを論じるというのは面白いと思う。
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2009年05月08日

tabi0141 遠藤秀紀「人体 失敗の進化史」

遺体の現場とともに生き、日々集められる遺体から新しい発見を繰り返し、遺体を未来まで引き継ぐ。こうした私たちの営みの中心にはいつも動物園や博物館がある。そしてそこから生まれてきた一つの知の体系が、この本の中心をなしてきた、身体の歴史にまつわるいくつもの話だ。もうお気づきだろう。遺体科学は、市民社会全体が創っていく動物園や博物館と切っても切れない関係にある。読者のあなたが、動物の遺体を知の源泉として理解するかどうか、動物園や博物館を未来の科学の中心であると認識するかどうかで、遺体科学の発展の成否は決まってくるのである。P243
遠藤秀紀「人体 失敗の進化史」(光文社 2006)


些細な記述であったが、遺体科学者の研究精神は参考になる。遺体科学者にとっては、遺体に対峙する前から闘いははじまっているのである。それは、「自分の目の前に1匹の狸がきたとしたら、どこを見て、どう切り込むか、どこに調査報告をするか..etc」を常にシミュレーションしているのだ。なぜなら、遺体発見連絡/遺体確認を行ってから意思決定をするまでの時間が制限されているからである。つまり遺体の鮮度に起因からだ。

彼らの行いを抽象化すると、情報の入れ物と出し物と組み合わせを身体的にパターン化しているのだろう。遺体状況の把握等は美術品・骨董品の目利きのようなもので、明確に状況把握を出来ることではない。私にとっては、彼らが、どのような認知過程を経ているのかに関心が湧いてしまった。

■参考リンク
Homo Ikiataribattus
DESIGN IT! w/LOVE



■tabi後記
山中俊治さんのブログがクールだ。
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2009年05月07日

tabi0137 ウィルソン・ハーレル「起業家の本質」

恐怖について考えれば考えるほど、恐怖とはそもそも会社設立へと私たちを導いたものと同じものー何か根源的、なかば無意識の欲求、つまり、この世界に自分の印を記したい、自分の足跡を時の砂の上に残したい、という欲求からくるとわかってきます。思うに、本当に恐れるのは、自分たちが単なる大衆の一員となり、人々から忘れ去られてしまうことなのではないでしょうか。P20
ウィルソン・ハーレル「起業家の本質」(英治出版 2006)


起業家を対象にしたビジネス雑誌「インク」の創刊者が語る起業家論です。起業家を農耕/狩猟,サイズ/成長性で分類する視点は改めて参考になったが、購入当初に線を引いた箇所は響かなくなっていた。ハーレルに共感するところが薄くなってしまったのだ。

理由としては、引用文にもある「恐怖」に対する考えが変化したことだろう。私は、「時の砂の上に足跡をのこす」ことや、「単なる大衆の一員になること」への恐怖/危機感がこれぽっちもない。それよりも「砂」や「大衆」といった概念から脱すること。自らが時をつくり、一員という枠を創造することに関心が向いている。同時にまた、それを為せない可能性に対する恐怖もない。(とはいっても、概念創造という意味では同定なのかもしれない)

なんと表現すればよいだろうか。多世界的に生きたいというか、いや、生きている。1つがダメだったら、それで終わりという生き方が原理的にできずにいて、またそれを肯定することができる私をもっており、肯定するだけではなく、もとの「居場所」よりも見晴らしの良い地点へ戻っていける自分が存在していると信じきっている。ちょっと止まらなくなりそうなので、このあたりで終わりにしてみます。



■tabi後記
安斎利洋さんのゼミに参加する。ポリフォニーと絡めて、ポリリーディングという発想を頂いた。
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2009年05月05日

tabi0132 立川武蔵「はじめてのインド哲学」

インド精神史は六つの時期に分けられるが、インド精神が一貫して求めていたものは、自己と宇宙(世界)との同一性の体験であった。世界を超越する創造神を認めないインドの人々が求めた「神」は、世界に内在する神、あるいは世界という神であった。一方、インドは自己に許された分際というものを知らなかった。つまり、自己は限りなく「大きく」なり、「聖化」され、宇宙(世界)と同一と考えられた。もっとも、宇宙との同一性をかちとるために、自己は時として「死」んだり、「無」となる必要はあった。しかし、そのことによって自己はその存在の重みをますます増したのである。
自己も宇宙も神であり、「聖なるもの」である。自己と宇宙の外には何も存在せず、宇宙が自らに対して「聖なるもの」としての価値を与える、すなわち「聖化する」のだということを、何としても証したいという努力の過程が、インド哲学の歴史にほかならないのである。P28
立川武蔵「はじめてのインド哲学」(講談社 1992)


インド哲学は、時間軸、バラモン正統派/非正統派(仏教)、アーリア人/非アーリア人の闘争・融合といった切り口で概観できそうである。

時間軸は立川による切り取りであり、バラモン正統派による思想なのか、正統派の思想の分類は、宇宙原理が、外に存在していると考えるか、存在は妄想と考えるかである。アーリア人/非アーリア人の闘争・融合は、ゴータマ・ブッタが非アーリア系として生まれ、アーリア文化(バラモン文化)と闘争、融合していったところからも分かる。

tabi0132.jpg
立川によるインド精神史の時代区分(1 インダス文明の時代,2 バラモン中心主義の時代,3 仏教などの非正統派の時代,4 ヒンドゥイズム興隆の時代,5 イスラーム支配のヒンドゥイズムの時代,6 ヒンドゥイズム復興の時代)

■参考リンク
インド哲学の話から霊的ヒエラルキアの話へ
意外といけてるインド哲学入門
231旅 『はじめてのインド哲学』



■tabi後記
三冊読自祭では芸が無い。あとひと捻りが必要だな・・。
posted by アントレ at 11:54| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月04日

tabi0128 飯田泰之「歴史が教えるマネーの理論」

通常、金融論のテキストでは1 交換仲介、2 価値尺度、3 価値保存の3機能を果たすものをマネーとして定義します。取引を行う際に、その支払い手段として用いることができるという性質を交換仲介機能といいます。また貨幣の価値尺度機能とは、モノの価値を表すときにそれが貨幣の単位で表現されるという性質を指し、価値保存機能は貨幣自体が資産として「とっておくことができる」という性質を表します。以上の定義を満たすものとして、現代では現金・預金がマネーであるということになるでしょう。P16
飯田泰之「歴史が教えるマネーの理論」(ダイヤモンド 2007)

交換仲介(腐らない、かさばらない、持ち運びやすいといった物理的制約を突破したことが硬貨、紙幣を発展させた理由なのかもしれない)、価値尺度(共同体の余剰生産と交易で経済が発生し、形而上概念としての「金銭」が発生する)、価値保存(これは「とっておける」ということ。金銭が完全に有限の資源から切り離され、 幻想そのものになっていく)という貨幣の3機能があるが、ぼやーっと貨幣の未来として思うことは4つの事態。

1 貨幣機能の価値が低減していく
2 貨幣の役割が変わっていく
3 交換自体が低減する
4 所有の概念が変わる

これらの事態については、次に貨幣本を読んだ時に書かかせてもらいます。

■参考リンク
天才プログラマー/スーパークリエイターになる方法(2) テーマ編
お金について考える 〜僕と未来と資本主義〜
あなたが中央銀行になるのだ
やる夫が儲けるようです
貨幣のいたずら〜その多機能性が悲劇を生む



■tabi後記
音声を聞く際は2.6倍速が丁度いいかなあ。
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2009年05月01日

tabi0123 中島義道「悪について」

彼によれば、人間は「自然本性からして」悪である。どんな善人も悪である。この思想の背景としてキリスト教の「原罪」の思想が認められるが、カントの「根本悪」ははるかに人間的である。人間は、みずからより完全になろうと刻苦精励し、他人の幸福を望み他人に親切にすればするほど、必然的に悪に陥る。(中略)
悪はすべての人の「善くあろう」という意志の中に溶け込み、社会を「善くしよう」という欲求の中に紛れ込む。それは、癌細胞のように、生命現象自体にこびりついて、みずからを増殖させていく。といって、われわれは「善くあろう」とすることを完全に放棄して、魯鈍な羊の群れに戻ることもできない。まさに、出口なしである。われわれ人間は全員(どんな極悪人も、どんな聖者のような人も)「道徳の学校」における落第生であり、いくら努力しても、優等生にはなれないのだ。
これを知って、私はむしろほっとする。われわれは、たえず「善くあろう」と欲しながら、行為のたびごとにそれに挫折し、自分のうちにはびこる悪に両肩を落とし、自分自身に有罪宣告を下し、そして「なぜだ?」と問いつづけるほかはない。なぜなら、このことを全身で受け止めて悩み苦しむこと、それがとりもなおさず「善く生きること」なのであるから。P5-6
中島義道「悪について」(岩波書店 2005)


永井さんの視点が参照されていることを望んでいたので、「もっと踏み込んで下さいよ、中島さん」と感じた次第です。もちろん引用箇所を含め、参考になるところは少なくなかった。特に「カントが犯罪行為に対して徹底的に無関心であり、形式を確立させることを徹底化したこと」には関心もてた。それは、実践の形式を確立しから、そこから溢れるもの、庇えるものを規程していくという作法であろう。

■参考リンク
哲学塾カント



■tabi後記
3年前から私のことをチェックしてくれている子にお会いした。ブログを見てくれていることもあってか、非常に気持ちよく話すことができた。上海にいく際には、お邪魔させてもらいますね。
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tabi0121 長谷川眞理子「進化とはなんだろうか」

しかし、私たち人間は、神経系が発達して、自意識をもち、周囲のものを自分との関係で理解し、自分自身をも理解しようとする存在になりました。私たちは、自分や周囲のものの目的を考え、生きることに意味を見いだそうとします。このような人間の営みに、進化という生物学的事実は、直接的にはなにもモラルのようなものを提供するわけではありません。自然界の成り立ちからモラルを見いだそうとするのは、人間がどうしてもそうしたいからなのでしょう。直接、万人に通用するモラルを自然界から得ようとするのは、「自然主義の誤謬」と呼ばれる誤りです。しかし、進化を知り、生物の適応を知り、生命の流れを知ると、みんな一人一人個人的に、自分自身が生きていく上で、何か重要なものを見いだせるのではないでしょうか?P212-213
長谷川眞理子「進化とはなんだろうか」(岩波書店 1999)

進化とは、生き物が時間とともに変化していくことであり、生き物とは、生き物から生まれ、外界からエネルギーを取り入れて代謝し、成長し、自分と似たものを生み、そして死ぬ存在である。本書はそのような前提で言葉を紡いでいます。「進歩」という言葉は時代的な規定であり「進化」という言葉は時代的な変化である。

善悪や正誤は規定できないということ、進化を起こす先の「社会」像を描けてしまうこと自体凄いということ。この2つのメッセージを基軸に話しをするだけで(濃淡はあるが)大半の悩みは消えてしまうのではないだろうか。



■tabi後記
しんか=しん「進・深・神」+か「化・価・歌」という組み合わせが浮かんだ。
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2009年04月30日

tabi0120 松岡正剛「多読術」

だから読書というのは、読む前に何かが始まっていると思った方がいい。それを読書をするときだけを読書とみなしているのが、とんでもないまちがいです。だいたい、本はわれわれが読む以前から、「読む本」になっているわけです。
テキスト(本文)がすでに書かれているというだけじゃない。テキストはたしかに読むしかないんですが、それも速読術以外にいろいろの方法がありますからあとで説明しますが、それだけではなく、本の著者やタイトルやサブタイトル、ブックデザインや帯や目次などは、読む前から何かを見せている。そういった、読む前も本の姿や雰囲気も、実はもう「読書する」に入っていると思います。ということは、図書館や書店は、その空間自体が「読書する」なんです。P80
松岡正剛「多読術」(筑摩書房 2009)

前回書いた内容と酷似する文章があったのには驚いた。「読書は読む前から始まっている」とは、まさにそうだと思う。それを前提としたうえで、読書前、読書中、読後の経験を構築することが大切になってくる。

■参考リンク
松岡正剛の読書術【入門】
多読術/松岡正剛
書に遊ぶ - 書評 - 多読術



■tabi後記
藤沢さんの家で安斎舟越野島と対話をした。色々な掘下げがあり、始終ニヤニヤする自分がいた。
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2009年04月25日

tabi0114 チップ・ハース,ダン・ハース「アイデアのちから」

SUCCESsチェックリストは、上記の枠組みに代わるものだが、より具体的で「知の呪縛」に左右されない点が強みだ。実際、これまでの章を振り返れば、SUCCESsが五つの枠組みと上手く符号していることがわかる。
(1)関心を払う 意外性がある
(2)理解し、記憶する 具体的である
(3)同意する、あるいは信じる 信頼性がある
(4)心にかける 感情に訴える
(5)そのアイデアに基づいて行動できるようになる 物語生がある
ちなみに、右のリストには「単純明快さ」はない。なぜなら、メッセージの核を見出し、できるだけ簡潔にするというのは、主に「答え」の段階のことだから。P333
チップ・ハース,ダン・ハース「アイデアのちから」(日経BP 2008)


SUCCESは「アイデアを人の記憶に焼き付かせる」ためにつくられたフレームワークである。

Simple:単純明快である
Unexpected:意外性がある
Concrete:具体的である
Credible:信頼性がある
Emotional:感情に訴える
Story:物語性

この本の主張は、あくまでアイディアを人に伝えるときのフレームワークを伝えているのであり、アイディア自体を生み出す方法については言及していない。もちろん「非凡なアイデアが伝え方次第で平凡になってしまうこと」「平凡なアイデアが伝え方次第で非凡なものになってしまうこと」を知るうえでは良いテキストである。

SUCCESの要素が重複・相互依存的になっているためフレームワークとしての使いづらさはあると思うが、アイデアを焼きつかせるために、様々な視点(問い)を発することができるという面では有用だと思う。

追記:問いに変換してみよう

Simple:それは小学5年生でも分かる内容か?
Unexpected:それは立ち止まってしまう内容か?
Concrete:それを聞いて脳に絵が描かれるか?
Credible:それは信頼たるメディアにのっかっているか?
Emotional:それは心拍数をあげるか?
Story:それは帰宅後に話したくなるか?

■ 参考リンク
専門家・勉強好きの人が陥る病 知の呪縛
Made to Stick / アイデアのちから



■ tabi後記
先日、小説を大量に購入した。
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2009年04月14日

tabi0111 伊藤真「憲法の力」

唐突ですが、憲法及び憲法改正にまつわる基礎クイズです。合っているかどうか、○か×か、考えてみて下さい。

1 憲法は、法律の親玉みたいなものだ
2 憲法改正には、内閣及び総理大臣の主導で行うことができる
3 憲法には、国民が守らなければいけないルールや義務が書かれるべきだ
4 憲法は、国民投票で国民の四人に一人の賛成でも改正されることがもある

さあ、どうでしょう。実は1から4までの答えは、憲法学的にいえば全部×です。P8
伊藤真「憲法の力」(集英社 2007)


憲法の根源的な役割は、国家権力に歯止めをかけることであり、国民を縛るものではない。むしろ、日本国憲法は、国民が国家に対して守らせる約束であって、国家が国民に対してするべき約束ではない。

であるならば、

・僕らは何を国家へ約束させているのか?(憲法)
・また逆に、国家は僕らに何を約束させているのか?(法律)

この「約束」のPDCAサイクルへ携わるのが、法に携わることではないかと思います。

■ 参考リンク
日本国憲法
憲法に関するよくある誤解
憲法について知ったかぶりをしている識者を見破る3つのポイント



■ tabi後記
Es ist Regen nach einer langen Abwesenheit.
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2009年04月13日

tabi0110 長谷川徳七「画商「眼」力」

では、いったいどうすれば、本物に出会うことができるのでしょう。真実を見抜く目をどうやって養えばいいのでしょうか。そこにおそらく正解はないでしょう。しかし、こう問うてみてはいかがでしょうか。「なぜ私は本物に出会えないのか」「なぜ私は真実を見抜くことができないのか」と。P210

極論に聞こえるかもしれませんが、私は本物の根拠など、くだくだしく述べる必要などないと思っています。なぜなら、本物とは「まぎれもなく本物」だからです。そこには嘘がないし、言い訳の入り込む隙間がありません。私が画廊なり美術館なりに積極的に足を運ぶのをみなさんに勧めるのは、数多く本物を見ないとわからないことがあるからです。その経験で何がわかるかといえば、くり返し述べてきたように、本物の絵には作家の魂が宿っているということです。P211
長谷川徳七「画商「眼」力」(講談社 2009)


画廊には、
1 場所貸しとしての貸し画廊
2 流通している絵を商品として売買している画廊
3 自分たちで画家を育成している画廊

などが存在している。(死蔵作品を減らすために画商間売買も行われているが)この記事を読むと、画廊のビジネスモデルにも翳りが見え始めていることが分かる。3のインキュベーション機能を担う画廊が求められてくるのだろう。

ベネッセの福武總一郎は 「経済は文化の僕である」という至言をはなっているが、この言葉には「文化は経済で支える必要がある」ことも含意している。

総括としては、本書を読み、日動画廊にいくことをお勧めしたい。

■ 参考リンク
日動画廊
利超える愛と審美眼



■ tabi後記
大学生活もあと1年。悔いのなきよう過ごしていこう。
posted by アントレ at 22:18| Comment(1) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月25日

tabi0103 中野民夫「ワークショップ」

ビジネスマンとして世のただ中にありながら、少しでもまともな社会をめざしていく、いわば「ネクタイ菩薩」をめざす、などと半ば冗談、半ば本気で友人たちに語っていた。
しかし、大阪支社での営業職から始まった現実の社会は厳しく、「企業社会の変革」など大きな志とは遥かに遠いところで、日々の仕事に追われ、厄介な人間関係に疲れ、よれよれになっていた。「こんなことをやるために生まれてきたんじゃない」と思い悩みながら、「大変なのは承知で就職したはずだ」と辞めたい気持ちを抑えて踏みとどまった。五年半で東京に戻り、大きな競合プレゼンテーションで続けて勝って億単位の金額の規模の大きい仕事をこなしたりし始めると、いつのまにか夢中になってすっかりミイラ取りがミイラになってしまっていた。しかしある時、なぜ就職したのかの初心を思い出すきっかけがあり、このままではまずい、一度仕切り直そうと思い、休職を願い出て、カリフォルニアに留学した。そこで出会ったのがジョアンナ・メイシーだったのだ。P86
中野民夫「ワークショップ」(岩波書店 2001)


第1章「ワークショップとは何か」が参考になる。著者の根本思想をあらわしている図があったので、写経する。

tabi0103.jpg

ワークショップには、スケールとワークショップ中毒という課題があると思います。スケールには家元がワークショップパッケージをつくり、それを検定化するという考えと、ワークショップ内容の記述方式を研究し、波及効果を確保する方法がある。つまりは、遠隔ワークショップです。中毒には、SECIモデルへの考察からヒントが得られると思っています。

■ 参考リンク
第ニ回 小澤紀美子氏×中野民夫氏
中野民夫さんの「ファシリテーター8か条」
知識管理から知識経営へ



■ tabi後記
「子三日会わざれば刮目して見よ」を味わう日々です。
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2009年03月15日

tabi0095 ビル・マッキベン「ディープエコノミー」

私は、ここアメリカと世界で、公平に富を配分するべきだという平等の意見には賛成だ(実際、もし関心ごとが成長だけなら、加速させる最良の方法はもっと公平に所得を再配分することだ。それについては説得力のある証拠がある)。そして、いくら指導者が強調しようとも、私たちはこれまでより裕福にはなっていない。そう肝に銘じておくことがきわめて重要だ。それが世の中の、直感には反しているが確固たる事実の一つであり、本書のあちこちで私の主張を支えている。成長は断じて、大部分の人を裕福にはしていない。P. 25
ビル・マッキベン「ディープエコノミー」(英治出版 2007)


1万ドルの悲劇がというものがある、それは成長と幸福の相関関係が崩れるときだ。繋がりと幸福に相関性が見出されてくる。凸凹というのは、GDP,成長率,ジニ係数,失業率などで国力を規定したときに、生じる差である。
格差が固定化するのをふせぐために様々な施策の中で、本書は、グローバルサプライチェーンで食料を流通させるよりも、地域社会で地産地消する食料政策が好ましいという事例を紹介する。該当地に最適な食物を判別することにより、生産価格が下がり、市民間の対話も増える。そして、環境負荷(フードマイレージ)が減る事も示している。詳しくは参考リンクを見て頂きたい。読自祭で作成した図は、コンセプトベースの分類になった。

tabi0095.jpg

「フラット化する世界」
凹を埋めることで凸に近づくようなにすることであろうか。途上国イノベーションなどが言葉として用いられる。
「ぺちゃんこ化する世界」
これはフラット化する世界をネガティブにとらえるている言葉。この様な世界は、凸が成長し、凹がうまるというトリクルダウン的な見方がなされている。
「土砂崩し世界」
凸をけずり凹がうめるという再分配的な見方。
「俺ルール」:凹を凸基準で埋めるな!
経済学的な見方に嫌悪感を抱き、GNH,清貧,全体主義,計画社会主義といった各種各様の自由形態を実行しようとする。

最後はのカテゴリーは半ば強引になってしまった感はいなめない。各ボックスへの考察を深めていく。

■ 参考リンク
経済はだれのために - 書評 - ディープエコノミー
情報考学 Passion For The Future



■ tabi後記
このところ眠気のコントロールが不調である。
posted by アントレ at 23:30| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月02日

tabi0085 池上彰「池上彰のメディア・リテラシー入門」

先日、ドイツの児童用の世界地図を入手しました。世界各国の特徴が、可愛いイラストで描かれています。日本はどう描かれているだろうかと思って見ると、そこには忍者、芸者、富士山、お相撲さん、広島のキノコ雲が描かれていました。現代の日本に忍者と芸者!思わず絶句してしまうのですが、私はここで考えました。待てよ。ドイツで日本はそう見られていると知って私たちは憤怒するけれど、では、私たちは、ドイツといったら何を思い出すだろうか、ということです。ソーセージとビールしか思い出さないのではないでしょうか。これが。「ステレオタイプ」な見方というのです。P7
池上彰「池上彰のメディア・リテラシー入門」(オクムラ書店 2008)


リテラシーというのは本来は「読み書き能力」のことを指していました。印刷技術の発達によって、文字情報が多くの人に共有された時代に、情報を正しく受け取るための技術として考えられたのです。

文字に書かれた情報には、直接体験を、いわば完全に離れた形での間接体験として受け取れる特性があります。このような情報を受け取る時に、リテラシーという技術がなければ、部分的な間接経験(さらに編集が行われた)に翻弄され、情報を正しく受け取ることが出来なくなってしまいます。

リテラシー技術の獲得によって「事実は限りない多面体であること。メディアが提供する断面は、あくまでもその一つでしかないということ。」を常に意識すること出来るのです。

 tabi0085.jpg

上記は、いわゆる「リテラシー論」です。世の中の大半はこのような論で満ちており私はその現状に怒りををもっています。笑

リテラシー論はいいます。情報を多面的に情報を捉え、自分が接している情報が部分でしかないことを常に認識しながら情報に接する必要があると。

僕はあえて、「しかし」と言いたい。

なぜ、一面的な情報に頼ってはいけないのか?
そもそも、正しく受け取るとはどういうことか?

こういった論には、相対感/部分感を僕らに与えはしないか?つまり全体があることが前提となった思考である。ある真理が前提とされるメンタリティーが潜まれてはいないかということです。(相対的でしかないのだからというニヒリズムに心を奪われてはしまうかもしれないね)

私はここで、「誰にとって」を考えることが急務であると考える。それが「リテラシーの宛先性」を問うことに繋がる。あなたは、伝える側のリテラシー、受け取る側のリテラシーというものを考えたことがあるだろうか?

相手にとって大事なことは何か?自分の大事なことは何だったか?

各人には、自分の人生を織りなす大事なことがある。あなたにもあれば、私にもある。人は、自分の大事なことを分かってもらいたい、分かってほしい、理解してほしいという欲望がある。

だが、その欲望は聴き手にとっては関係のない話である。それがあなたにとっての大事なことと重なるのか。(大事なことであるかもしれないと思えるか?)この一点が、何にもまして大切なことである。つまり、話し手の大事なこと/受け手の大事なことのお見合いが情報リテラシーの本質である。その擦り合わせには経験と判断基準がいる。好きな女性のタイプがいるように、あなたが好きな/欲している情報のタイプを知ることが最初のステップ。

■ 参考リンク
2chを見る前に、、頭のおかしな人には気をつけましょう
あなたが正しいと思っていることが間違っている26の理由
レポートのコピペがダメな理由とそれを防ぐ意外な方法




■ tabi後記
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2009年02月28日

tabi0084 粂 和彦「時間の分子生物学」

生物時計は体の中のどこにあるのでしょうか?生物の種類によって異なりますが、動物の場合その中心は脳にあります。人間を含む哺乳類の場合は、脳の中の視床下部にある、視交叉上核(SCN=suprachiasmatic nucleus)という直径一〜二ミリの小さな場所が概日周期の中枢です。SCNはその名の通り、左右の目と脳をつなぐ二本の視神経が交わる部分の、ほぼ真上にあります。ここが生物時計にとっては標準時を刻むグリニッジ天文台にあたります。P32
粂 和彦「時間の分子生物学」(講談社 2003)



視交叉上核一元主義な視点ではなく、それを取り巻くシステム的見方と取っ組み合う必要がありそうだ。

tabi0084.jpg

■ 参考リンク
視交叉上核
情報考学 Passion For The Future
京都大学大学院薬学研究科



■ tabi後記
明日から3月。春も近い。
posted by アントレ at 16:47| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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