2009年09月18日

tabi0293 ジョナサン・D・モレノ「操作される脳」

1人2役の複雑な対話 -神経科学者と神経倫理学者-
長期的に見るならば、人類がこれから辿るべき道筋は、人類の繁栄を妨げる問題の打開に向けて、建設的な手法や技術を大幅に増やし、無差別的な破壊力の増大にそういった手法や技術で対応していくというものだ。人類の合わせ持つ、破壊と建設という一見したところ相反する特質を、神経科学の力をもって、なんとかして関連づけなければならないのだ。神経系は耐え難いほどに複雑ではあるが、それをもっと深く理解することができれば、私たちは心の戦争への向かうのをやめ、魂の平和を目指せるのではないだろうか。P359
ジョナサン・D・モレノ「操作される脳」(アスキーメディアワークス 2008)


本書が紹介していくDARPA(米国防総省国防高等研究計画局)の最先端脳科学研究は、人間の脳を意図的に操作する可能性を探っている。

(1)相手の思考を読み取る、(2)思考だけで物を動かす、(3)記憶をすべて完全に残す、(4)恐怖や怒りや眠気を感じなくする、(5)外気に合わせて体温を変動させて冬眠する、(6)炭水化物型代謝を脂肪分解型代謝に切り替えてダイエットする、(7)傷を急激に治す自己治癒力を高める、(8)他人をロボットのように自在に操作する―といったこと脳科学の可能性を示す、興味深い研究事例が次から次に出てくる。

このような可能性を示しながらも、神経倫理における問いを混入させている。BMIが浸透していくことは止まる事はないだろう。反社会的な技術や思考を用意するということは、われわれ自身が技術に飼いならされないための予防的対抗措置であるのだろう。

■参考リンク
事実はSFよりも奇なり「操作される脳」
『操作される脳』――ビジネスパーソンは管理される
764旅 ジョナサン・D・モレノ『マインド・ウォーズ 操作される脳』



■tabi後記
このような本をどのように生活に反映させるかを考えている。
posted by アントレ at 22:59| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月17日

tabi0292 マンフレッド・クリューガー「瞑想 芸術としての認識」

美は思考内容・思考活動にも宿っていく
ルドルフ・シュタイナーの意味においての瞑想は、3段階に分かれています。意志を強くする沈思は、思考的な感情を取り入れた構成が前提条件になっています。つまり、意志自体には直接語りかけません。そうではなくて意識を通して語りかけるのです。意志は自我(Ich)に導かれています。それと全く同じように感情も自我(Ich)に導かれているのです。(中略)思考、感情、しそして意志はこのようなやり方で高次の認識器官へと高く変容しました。ルドルフ・シュタイナーはそれをイマジネーション、インスピレーション、イントゥイション(直観)と表現し、さまざまなやり方でそれについて詳しく明らかにしています。P16-17
マンフレッド・クリューガー「瞑想 芸術としての認識」(水声社 2007)


本書における瞑想は、只管打坐・止観駄坐することではなく、沈思、沈潜することと捉えられている。

芸術としての認識という副題にみられるように、アイデアのつくり方内面の道をミックスするような内容となっている。ミックスする際の素材になっているのがシュタイナー思想である。

彼は、思考は動きと内容によって構成されていること、それを統合するのが直観であると語る。直観は動きと内容の両輪が熟したときに花開くのだろう。そして本書では、この思考の並列的特性を練習する方法(複式練習法)が紹介されている。「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」の副読本として位置づけられる。

イマジネーションは、思考の活動ではなく思考の内容に注目し、インスピレーションは
思考の内容ではなく動きに注目する。思考の動きというのは、像と像の空間の中で生じる
ものである。その後に本質が本質の中で本質自身をとらえる、イントゥイションという事象が立ち現れるのであろう。

■参考リンク
風のブックメモ
第三十三夜【0033】



■tabi後記
誕生日ということもあって、1986年9月17日の新聞を一通り眺めてみた。当時の書籍ランキングには堺屋太一「知価革命」、大前研一「世界が見える日本が見える」であった。唯一見ているテレビ番組の放送大学では、私が生誕した15:45から「日本語の語源」が放送されていた。この作業に因果めいたものをみてもいいだろうし、1つの遊びとして行なってみるのもいいだろう。
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2009年09月16日

tabi0291 ベン・コーエン /マル・ワーウィック 「ソーシャルビジネス入門」

経済活動は交換ではなく交歓ではないか
アメリカ人のほとんどが、人生にはスピリチュアルな側面があると信じている。人々が集まって企業になったとたんスピリチュアルな面は突然消えてしまうのだろうか。私たちはそう思わない。「与えたものには与えられる。種を撒けば芽が出る」という教えは、個人の生活だけでなく、ビジネスにも当てはまるはずだ。P38
ベン・コーエン /マル・ワーウィック 「ソーシャルビジネス入門」(日経BP 2009)


本書の原題は「Values-Driven Business: How to Change the World, Make Money, and Have Fun」である。「バリュードリブンビジネス」として出版をすると、「一瞬で」内容を伝えるのが出来ないと思われるが、私には原題のタイトルの方が的を得ているように思う。ここが訳書の悩ましいところなのだと考えさせられた。

さて、世の中で取り上げられる「企業」の大半が「大企業」である。それらの中には、経営の未来に取り上げられるような企業や、地球システムにおける人間圏という価値観、思考をもってビジネスを行なっているところも多少はある。では、実際のビジネスにおいて多数を占める「中小企業」は、大企業の模倣をして上手くいくのだろうか?スモールビジネスにはCSRなど関係ないのだろうか?著者は、それが違うと言う。そして、スモールビジネスだからこそ「価値観主導型のビジネス」を行なえるということを多数の事例を用いて説明していくのである。

ここで取り上げられる組織は、仕事を「志事」と捉え、バリューチェーンに志を入れることでプロフィットの先にあるものを見つめていく。彼らは、商品,サービスの交換関係だけで経済活動が終わりになるなど微塵も考えていない。人間的、精神的なつながりを取引先、顧客、パートナー社員、地域コミュニティーなどに希求するような存在なのである。

ドライな関係をビジネスに求める人にとっては、一見、暑苦しく、教条的な聞こえてくるソーシャルビジネスであるが、本書で取り上げらる事例は、クールとウォームの二面性を持ち合わせたプロジェクトデザインの集積である。

■参考リンク
社会起業に目覚める【ほぼ日読書日記 2009年8月6日】





■tabi後記
昨今、見えていないことが見えているんだよ、ということを伝えてあげるのは大切な気がしてきている。
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2009年09月15日

tabi0290 松井孝典「われわれはどこへ行くのか?」

地球に所有されるということ
たとえば太陽光の入射により海が暖まるから水の蒸発が起こります。太陽の熱を吸収し暖められて、その熱の一部を大気に運ぶわけですね。その際、大気中で水蒸気が凝結し、そのときにまわりの熱を奪って冷えて、というぐあいに、エネルギーの受け渡しもやっているのです。ですから、関係性は物質循環であると同時に、エネルギーの移動でもあるわけです。循環というか、エネルギーの流れというかは、何に注目するかの違いで、関係性という意味では同じことです。
モノが移動するわけですから、何か駆動力が必要です。その駆動力は何かというと、ここでの例の場合は明らかに太陽のエネルギーです。P34
松井孝典「われわれはどこへ行くのか?」 (筑摩書房 2007)


ASIA INNOVATION FORUM のトップバッターとして松井さんが講演されていたのが印象に残っている。彼が提起する「地球システムにおける人間圏」というコンセプトは2日間に渡って参照されていたからだ。

著者の根底には「地球システムをつくって生きているわれわれとは何なのか?」という問いがある。この問いこそが、「われわれとは何なのか?」という問いの本質に迫るものとかんがえているからだろう。そして、地球システムにおける構成要素と駆動力と関係性を明確にしながら、1つの「部分」である人間圏について論じていく。

「人類を救う「レンタルの思想」」にて、生物圏から人間圏へ移行していったプロセスを知ることが出来たが、本書は「地球環境」というものを「地球環境問題」としてではなく、1つのシステムとして冷静に論じている。

Oil Based EconomyからSun Based Economyという考え方が、ASIA INNOVATION FORUM におけるコンセンサスとなっていたが、松井さんの視点を取り入れると、人間圏が太陽系に拡張したところと見る事ができる。次はプラズマ圏や銀河系といったところへ人間圏はシフトしていくのだろうか。もしくは人間概念を変更していくのだろうか。

■参考リンク
書評 - われわれはどこへ行くのか?
2旅 松井孝典『われわれはどこへ行くのか?』



■tabi後記
未来を創る者は、いわゆるなマクロトレンドによって内的直観の優先順位を騙されていけないのだろう。そこの耐性がクリエイターには求められる。
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2009年09月14日

tabi0289 ナシーム・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン(上)」

そしてブラックスワンもプラント化された
この本で黒い白鳥と言ったら、それはほとんどの場合、次の三つの特徴を備えた事象を指す。第一に、異常であること。つまり、過去に照らせば、そんなことが起こるかもしれないとはっきり示すものは何もなく、普通に考えられる範囲の外側にあること。第二に、とても大きな衝撃があること。そして第三に、異常であるにもかかわらず、私たち人間は、生まれついての性質で、それが起こってから適当な説明をでっち上げて筋道をつけたり、予測が可能だったことにしてしまったりする。P4
ナシーム・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン(上)」(ダイヤモンド 2009)


タレブ氏は「Platonicity(プラトン化されたもの)」という用語を用い、過度に単純化させるあまりに、しばしば本質まで削ってしまう科学的なモデリングに対して批判をおこなっている。帰納にまとわりつく誤謬について何年も頭を抱えてきた人には、一般ビジネス書でこの類いの本が売れるのは嬉しいことかもしれない。

著者が指摘するように、確かに過度の単純化はモデリングにおいては致命傷である。そして、ソ連の崩壊はBlack Swanだから予想できない、911はBlack Swanだから予想できないとするのも、Black Swanの定義が「予想不可能だが、一度起きるとそのインパクトが強大で、起きた原因を後知恵解釈しかできない事象」なので、そう考えるのもありだと思う。

一方で、ベルカーブ(正規分布)批判における「単純化」という概念の「程度」について、ほとんど言及していないのが喉元を引っかかる原因となった。彼の言うBlack Swanは定性的な話で「Black Swanってあるよね、あるある」だけで終わってしまう。飲み屋において「人生って予想できないことが多いよねえ」と言っている学生の人生哲学と変わらないところが多々あるように思う。(古典的教養と文学的な表現で目を眩まされていけないのだろう)

■参考リンク
wrong, rogue and log The Black Swan
wrong, rogue and booklog
Sceptical Positivism
「ブラック・スワン」、読んだ。
ブラック・スワンとレバノン
「黒鳥」の正体 - 書評 - ブラック・スワン
ナシーム・ニコラス・タレブ「まぐれ」を読んで





■tabi後記
今日、明日とASIA INNOVATION FORUMに参加しています。
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2009年09月13日

tabi0288 ジェームス・W・ヤング「アイデアのつくり方」

関係ないことなんてない
既存の要素を新しい一つの組み合わせに導く才能は、事物の関連性をみつけ出す才能に依存するところが大きいということである。アイデアを作成する際に私の心のはたらき方が最も甚だしく異なるのはこの点であると思う。個々の事実がそれぞれ分離した知識の一片にすぎないという人もいる。そうかと思うと、一つの事実が一連の知識の鎖の中の一つの環であるという人もいる。この場合一つの事実は他の事実と関連性と類似性をもち、一つの事実というよりはむしろ事実の全シリーズに適用される総合的原理からの一つの引例といった方がよさそうである。P28-29
ジェームス・W・ヤング「アイデアのつくり方」(阪急コミュニケーションズ 1988)


ヤング氏は、アイデアが生み出される原理として、次の2点を挙げています。

1.アイデアは既存の要素の新しい組み合わせでしかないということ
2.その新しい組み合わせを発見する才能は、事物の関連性を見いだす能力に依存すること

この原理は様々な方が述べているので、人口に膾炙している感がある。しかし、それを地で行い、アイデアメタボになっている人は稀である。著者も、この方法論を公開したからといって「世界総アイデアマン」になることはないと断言されている。

そして、以下の5ステップがヤング氏が提案するアイデアの創られる過程と方法である。当たり前を当たり前としてとらえずに熟読してみてほしい。

意識的な活動:
1.資料収集の徹底:対象に関係する特殊知識と、世間のできごと全般の一般知識を、常日頃からファイリングする。

2.嫌になるまで資料を咀しゃく:集めた事実をさまざまに組み合わせ、頭に浮かぶことを紙に書いていく。アイデアが出なくて絶望的な気分になるまで続けるのがポイントだ。

無意識的な活動:
3.問題を意識から外す:音楽を聴いたり、映画に出かけたり小説を読むといった、想像力や感情を刺激することに心を完全に移す。

4.アイデアの誕生:すると、ひげをそったりシャワー浴びているといった期待していない時にこそ、突然アイデアがひらめくという。

意識的な活動:
5.人に話しながら具体化:アイデアは心にしまわず、理解ある友人に伝えることでさらに形になっていく。

この当たり前のステップをどれだけ高速、繰り返し行なっていけるかが「アイデアの神様」と付き合い続けられる秘訣なのだろう。ポアンカレは「これまでは無関係と思われていたものの間に関係があることを発見することが美的直観である」と言っているが、この考えが具体化されたのが本書であり、その具体化したプロセスに自らを寄り添わせていくためには、自らのテーマとリラックスのポイントを実験を繰り返しながら開拓することが必要になってくると思う。

■参考リンク
アイデアのひねり出し方
意識的にアイデアを見つけ出すための5ステップ
『アイデアのつくり方』と図書館



■tabi後記
TSUTAYA TOKYO ROPPONGIに来ているが、このようなサードプレイスストアが増えていくと面白くなりそうだ。
posted by アントレ at 18:29| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月12日

tabi0287 永井均「子どものための哲学対話」

遊生における指南書
人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ。P63
永井均「子どものための哲学対話」(講談社 1997)

結果から逆算することで、行為決定するものには鉄槌がくだされるかもしれない。意味の追求を排し、意味から本質的に逃れるための指南であろうから。私たちは、未来の遊びための準備それ自体を、現在の遊びにすることもできることを示されている。

仕事や遊びは、ひとから理解されたり、認められたり、必要とされたりすることは一番大切だというのは、まちがった信仰なのではないだろうか。他者からの承認によって、自らの存在を規定する者は弱いものである。もちろん、他者からの承認を簡単に無視する事ができないから、難しいところである。誰しもが、心の安定所を持ち合わせながら学問をしているわけではなく、自己を直観しているわけでもない。それを嘆いても仕方がなく、自分がそうあればいいのだろうと思う。あとは流れに身を任せるのみであろうか。

■参考リンク
クオ・バディス?


■tabi後記
自由を鎖とも感じないように遊んでいけばいいのだろう。
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2009年09月11日

tabi0286 鈴木秀子「愛と癒しのコミュニオン」

「自分」を捨てないコミュニケーション
「問題所有の原則」を心して、相手の問題を相手の中にとどめることは、本人が問題の本質の探究を推し進めていくことを可能にすると同時に、本来、自分が解決するべきではない問題を背負いこみ、ピントの外れた対処策に頭を悩ますという無駄を避けることができる。P69
鈴木秀子「愛と癒しのコミュニオン」(文芸春秋 1999)


著者は、賛成でも反対でもない、沈黙という受容感覚にもといたコミュニケーションを示されている。それはシュタイナーが言うところの「自分自身の内なる者が完全に沈黙するような習慣」であろう。本書がユニークなのは、私たちの常識とする「コミュニケーション観」を創造的に破壊しているところだ。なぜなんら、私たちの常識とする「コミュニケーション」の大半が「非受容の態度」で成り立っていると示されるからだ。

例えば、「命令・指示」「注意・脅迫」「訓戒・説教」「忠告・解決策などを提案」
「賞賛・同意」「解釈・分析・診断」「激励・理解・同情」「探る・質問・尋問」・・・このような数々コミュニケーション態度は「非受容的な態度」なのである。なぜこれらが問題なのか?それは、このような態度には、相手を変えようとする意志が内在化されているからだという。そして、これらの言葉を発してしまう背景にある「人に対する恐れ」、この深層背景に対して著者は分析をされていく。

人に相談をするということは、少なからず相手へ依存をし、協同して問題解決をしてもらおうとする心的傾向があらわれている。そして、相談を受ける者も、共に解決をしようという態度が出てしまうものである。本書が提案するのは、それを停止することなのである。それは、相手を1人に突き放すことではなく、相手を1人の問題解決者として尊重し、それに対して「あなた」がどのような相談空間を誘うことができるか?という「愛」(成長へと誘う)の実践することなのだ。

■参考リンク
心のおもむくままに



■tabi後記
Soul Village Philosophia(ソウルビレッジ・フィロソフィア)の説明会に参加する。自分が考えていることが、当たり前のように話される環境には早々出会う事はできない。僕は自分でそういう環境をつくってきたけれど、このような学習環境が「パッケージ」として提供することは滅多にないだろう。

木戸さんをはじめとする講師陣の方々は、徹底した本質思考と言語ゲームとの戯れの中で「自己」を見出し、その探究から表出してきた内なる創造性を、ソーシャルデザインとして「企画」をされている。宇宙の根っこをとらえながら、地球の地に足をつけている人は早々いない。このような方々が存在していることを知っておくだけでも、人生は面白くなっていくだろう。笑

農と脳(生命神秘、宇宙の根源へのアクセス)(自由とは何か、平等とは何か、意識と自己とは何か、能力とは何か)支配と組織、マネーと信用、創造と企画。このようなテーマに関心があれば、講座に出るといいかもしれない。
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2009年09月10日

tabi0285 宮本常一「忘れられた日本人」

深層としての異型
こういう山の中でまったく見通しもきかぬ道を、あるくということは容易ではないという感慨を述べると、「それにはよい方法があるのだ。自分はいまここをあるいているぞという声をたてることだ」と一行の中の七十近い老人がいう。どういうように声をたてるのだときくと「歌を歌うのだ。歌を歌っておれば、同じ山の中にいる者ならその声をきく。同じ村の者なら、あれは誰だとわかる。相手も歌をうたう。歌の文句がわかるほどのところなら、おおいと声をかけておく。それだけで、相手がどの方向へ何をしに行きつつあるかぐらいはわかる。行方不明になるようなことがあっても誰かが歌声さえきいておれば、どの山中でどうなったかは想像のつくものだ」とこたえてくれる。私もなるほどなぁと思った。と同時に民謡が、こういう山道をあるくときに必要な意味を知ったように思った。P24-25
宮本常一「忘れられた日本人」(岩波書店 1984)


一般的に、村里生活者は個性的でなかったといわれている。だが、現代のように口では論理的に時代や自我を語るけれど、私生活や私行の上では、むしろ類型的な者を多く見られるのに比べて、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が多かったのではないか?著者は、そのような「忘れられた異型」に気付かさせてくれる。

本書が描いている世界は「無文字社会の日本」である。つまり、語られてきた日本、あるいは記憶の中の日本といえるだろうか。文化には「記録の文化」と「記憶の文化」という分け方がなされることがおある。

記録の文化は文書・絵巻・建築となり、しっかりと歴史の一時期を告げているものをいう。それは、解読可能な文化である。一方で記憶の文化は、語り継がれ、身ぶりとして継承されてきたものである。漠然とし、語りをする者たちのあいだには食い違いがあったりする。したがって、様々な語りをつなげ、そこからある種の「流れ」を引き出してくる必要がある。著者はそういった語りの束を、1つの「生活誌」として編集することが民俗学のつとめであると考え、実行にうつされたのだろう。

■参考リンク
第二百三十九夜【0239】2001年2月28日
解雇されたので起業します
DESIGN IT! w/LOVE 忘れられた日本人/宮本常一
[掲載]誠Biz.ID書評23号は『忘れられた日本人』



■tabi後記
文字にはなっていない異型の振舞いは、どこにあるのだろうか?この国にはないかもしれない。この球の陸や海やネットワークの中に潜んでいるのだろうか。この時代における「世間師」は実体をもちあわせていないのかもしれない。
posted by アントレ at 13:25| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月09日

tabi0284 佐々木俊尚「仕事するのにオフィスはいらない」

IC(Interdependent Creator)というワークスタイル
ノマドについて、ここでいったん整理して定義し直してみましょう。

第1に、ノマドは本質的にフリーランサーです。会社と社員の契約を結んでいるかどうかという形式的な問題ではなく、その精神において。自宅にいようが、カフェにいようが、あるいは公園のベンチであっても、どこでも仕事ができるからこそノマドなのです。

第2に、ノマドは、パーマネントコネクティビティで動いています。オフィスという場所に押し込められているから仕方なくつながっているのではなく、自分から望んで仲間や友人、家族、同僚たち、そして仕事ともしっかりとつながっているのです。

第3に、ノマドはアテンションをコントロールする人たちです。セルフコントロールができてこそ、ひとりの場所でも仕事を完璧に仕上げることができるようになります。

第4に、ノマドは鍛え上げられた情報強者です。顧客や同僚とのメールやメッセンジャーのやりとり、そして業務分野における膨大な専門情報まで、こうした情報を自由自在にコントロールする力を持ってこそ、自由なワークスタイルを実現させることができます。P30
佐々木俊尚「仕事するのにオフィスはいらない」(光文社 2009)


今までは、IC=Independent Contractor(独立請負人)という言葉が主流であった。だが、この言葉を嫌悪する人もいた。

そこで「請負ではなく、創造する人なんだよ」という意味を込めて、IC=Independent Creator(独立創造人)という言葉を用いる人もちらほら出てくることになる。フリーエージェントやクリエイティブクラスも、そのような流れではないかと理解していた。そして、本書で扱われる「ノマド」というスタイル。

この言葉には「Independent」(独立)ならぬ「Interdependent」(共立:オープンコラボレーションという意味をのせて)というニュアンスが込められています。Independent Contractor(独立請負人)からInterdependent Creator(共立創造人)へ。

このようにまとめてしまえば、ただの言葉遊びに過ぎない。本書で紹介されているガジェットやアプリケーションをつぶさに観察/実験することで、自らにマッチするスタイル(アテンションコントロール法)を紡ぎ上げていく。それこそが大切になってくる。

■参考リンク
Be Free, at Home - 書評 - 仕事するのにオフィスはいらない
明日のノマドに開放された窓〜ノートPCとiPhoneで自立と自律を手に入れる
フリーランスはどこへ向かうのか? - 僕のフリーランス学



■tabi後記
21世紀の歴史」に言及しているのも興味深かった。それにしても早朝のスターバックスは快適である。Mac Bookはバッテリーの持ちがいまいちだけれど、電源がない環境では、それが制約になって作業がはかどります。
posted by アントレ at 10:39| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月08日

tabi0283 竹村真一「地球の目線」

たまたま(球・魂)この星に生まれて
グローバリズムとは、国際社会が一つに結ばれることではなく、宇宙のなかの一個の球"globe"として地球を認識し、その一つの球体をシェアするコミュニティの一員として自「分」を認識することだ。(中略)そして、ここでの主題はメディアでもコンピューターでもなく、あくまで「人間」ーすなわち私たち自信のあり方、私たちが地球やそこに住む他者とどんなコミュニケーションを持ちうるか?という「関係のデザイン」である。P228
竹村真一「地球の目線」(PHP研究所 2009)


私たちは地球の上に立っている。だが、少しだけこの「球」の目線に立ってみれば、この球は「地」よりも「水」によって覆われているがわかってくる。この球が自己を称するとしたら、地球よりも水球と呼ぶのではないだろうか。

earth-1.jpg

そして、この膨大な水が優れた地に暮らす者にとっての保温材となり、緩衝材となり、生命を育む稀有の安定した環境を創出しているのである。

竹村氏は、水に祝福された惑星としての「チキュウ」とそこに暮らす「ニンゲン」との関わりを、水/エネルギー/食料という視点から提案している。そして、本書に含まれる提案には、この惑星には本来エネルギー問題など存在しないという前提が存在している。

なぜなら、この惑星には膨大な自然エネルギーが潜んでいるからだ。そして、その自然エネルギーの元手は太陽にある。(ここで、この惑星は太陽系に存在していることに視点が移行される)

Sun_in_X-Ray.png

800px-Solar_sys8.jpg

上昇気流生み、その空隙にまわりから空気が流れ込むことで風が吹く(風力発電)も、地表の水を山の上まで空輸され、雨が降り、川が流れる(水力発電)のも、海洋温度差、光合成(バイオマス)なども、この無料の自然サービスの賜物であるという。このような好都合な真実に気がつくことから、新たな未来が想像されるのだろう。

■参考リンク
Earth Literacy Program
東京も適度に水没して自然に返るくらいが丁度いいんじゃあないかって思っているんですけれど。笑
地球大学 第93回最終回「地球環境とグローバル・メディアの未来」村井純



■tabi後記
globeの認識として、触れる地球地球時計などが登場してきたのだろう。
posted by アントレ at 12:56| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月07日

tabi0282 アニリール・セルカン「ポケットの中の宇宙」

宇宙は馴染みのもの
いま日本に暮らしていて、僕がラクにしていられるのは、日本人が宗教をあまり問題にしないからです。これは大事なことで、世界の中で日本が最も心地よく感じる理由で、それが間違いなく日本のよいところです。もちろん、日本人にしても宗教心が薄いわけではなく、人々の気持ちの中には仏教や神道の教えがあるようです。とはいえ、それは人の邪魔をしないものなです。P18
アニリール・セルカン「ポケットの中の宇宙」(中央公論新社 2009)


あなたのポケットの中には何がありますか?

家の鍵、免許書、iphone、財布などなど、色々なものが入っていると思います。著者は、はじめの中で「わたしたちにとって宇宙はいかに馴染み深いものなのか?」と語ってくれます。それが「ポケットの中の宇宙」というタイトルに結びついたのでしょう。

本書は、宇宙に関する話題だけではなく「水」と「エネルギー」と「食料」をメイントピックとして論じています。そして、彼の自伝を交えながら、空気スタンド、爪携帯、IT戦争、ゴミ問題というアイデアをエッセイとしてまとめているのです。

私が、このエッセイを読みながら感じるのは、「無」と「唯今(ただいま)」という考え方です。(これは彼が好きな漢字のようです。)セルカンは「無」と「唯今」という言葉に、ラッセルの世界五分前仮説、エヴェレット多世界解釈で論じられているような背景をこめているように感じました。

■参考リンク
アニリール・セルカン
アニリール・セルカン特別講演、世界にはおもしろい人っているもんですなあ。



■tabi後記
20年後はすぐにやってくる。振返ればとてつもない変化をしていると思うが、変化のただ中にいる者には、それが馴れになってしまう。クレイジーパワーが必要なのかもしれない。
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2009年09月06日

tabi0281 ヘッセ「シッダールタ」

汎知の鼓動を確かにするとき
「おん身は賢い、沙門よ」と世尊はいった。おん身は賢く語ることを心得ている、友よ。あまりに大きいに賢明さを戒めよ!」仏陀は歩み去った。そのまなざしと半面の微笑は、永久にシッダールタの記憶に刻みつけられた。P39
ヘッセ「シッダールタ」(新潮社 1971)


読自者の記した書物である。それは「ヘッセの読書術」を実践していった者の記録である。

自分を読もうと欲する者は、あらかじめ予想した意味のために、記号と文字を軽蔑する。そして、彼らにとって悩ましきは「時間」であった。
よく聞きなさい、友よ、よく聞きなさい!私もおん身も罪びとである。現に罪びとである。だが、この罪びととはいつかはまた梵になるだろう。いつかは涅槃に達するだろう。仏陀になるだろう。さてこの『いつか』というのが迷いであり、たとえにすぎない!罪びとは仏性への途上にあるのではない。発展の中にあるのではない。われわれの考えでは事物をそう考えるよりほかしかたがないとはいえ。ーいや、罪びとの中に、おん身の中に、一切衆生の中に、成りつつある、可能なる、隠れた仏陀をあがめなければならない。ゴーヴィンだよ、世界は不完全ではない。完全さへゆるやかな道をたどっているのでもない。いや、世界は瞬間瞬間に完全なのだ。P142
ヘッセ「シッダールタ」(新潮社 1971)

一回性への賛美に寄り添ってしまう、一瞬という忘却性。それは記憶となり、文字となり、言葉となり、己を周囲を縛っていく。それが記憶というものに付帯する拘束性と影響力であろう。覚者が悩むべきは時間であった。その悩みから解脱することこそが、読自の旅なのである。
それは知っている、ゴーヴィンよ。気をつけるがよい。その点でわれわれは意見のやぶの中に、ことばのための争いの中に巻きこまれている。愛についての私のことばがゴータマのことばと矛盾していること、一見矛盾していることを、私は否定できない。だからこそ私はことばをひどく疑うのだ。この矛盾は錯覚であることを、私は知っているからだ。私はゴータマと一致していることを知っている。ゴータマがどうして愛を知らないことがあろう!いっさいの人間存在をその無常において、虚無において認識しながら、しかも人間をあつく愛し、辛苦にみちたながい生涯をひたすら、人間を助け、教えることにささげたゴータマが、どうして愛を知らないことがあろう!P146
ヘッセ「シッダールタ」(新潮社 1971)


シッダールタとカマーラとの対話では、静かな避難所を自身の内部にもちあわせてることが、賢き者の条件とされているが、本書の最後には、その避難所すら消えていることに気がつくだあろう。それは「全て」が避難所となされることと、避難をする必要もない心性をもつことの同時性の確保といえるだろう。

■参考リンク
50歳までに読んでおいてよかった本?
230旅 『シッダールタ』 ヘッセ
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
有機的なつながりとは何か?接触時間、頻度、対話の質、いずれでもない気がする。一度たりとも会ったことがなくとも、互いが何をしているか知らなくても、感じてしまう情報はあろうだろうか。我々は、何につながれていないのか、そして、何がつながれる必要があるのだろうか。
posted by アントレ at 20:19| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月05日

tabi0280 ブラフマン/ベックストローム「ヒトデはクモよりなぜ強い」

頭を殴ったら死ぬか?
クモの頭を切り落としたらそのクモは死ぬ。企業の本社機能を破壊したら、おそらくその組織は壊滅するだろう。だからこそ、暗殺者は一国の大統領を狙い、軍隊は国の首都を攻撃するのだ。ミズーリ州の平凡な男、ジョーの命が危険にさらわれることはたぶん、ない。
ヒトデ型組織には切り落とすべき頭がないことが多い。スペイン軍がアパッチ族のナンタンを殺すと、次々に新しいナンタンが登場した。ビル・Wなき後も、アルコホリックス・アノニマスは広がり続けた。レコード会社がなんとかイーミュールの創業者をつかまえても、そのサービスにはなんの影響もなく、続いていくだろう。P50
ブラフマン/ベックストローム「ヒトデはクモよりなぜ強い」(日経BP社 2007)


本書に太字で記載されていた箇所を写経する。クリティカルに眺め、自分の言葉へ持っていこう。

「分権組織における8つの法則」

1.分権型の組織が攻撃を受けると、それまで以上に開かれた状態にあり、権限をそれまで以上に分散させる。
2.ヒトデを見てもクモだと勘違いしやすい。
3.開かれた組織では情報が一カ所に集中せず、組織内のあらゆる場所に散らばっている。
4.開かれた組織は簡単に変化させることができる。
5.ヒトデたちは、誰も気づかないうちにそっと背後から忍び寄る性質がある。
6.業界内で権力が分散すると、全体の利益が減少する。
7.開かれた組織に招かれた人たちは、自動的に、その組織の役に立つことをしたがる。
8.攻撃されると、集権型組織は権限をさらに集中させる傾向がある。
 
「ヒトデとクモの見分ける10の質問」

1.誰かひとり、トップに責任者がいるか?
2.本部があるか?
3.頭を殴ったら死ぬか?
4.明確な役割分担があるか?
5.組織の一部を破壊したら、その組織が傷つくか?
6.知識と権限が集中しているか、分散しているか?
7.組織には柔軟性があるか、それとも硬直しているか?
8.従業員や参加者の数がわかるか?
9.各グループは組織から資金を得ているか、それとも自分たちで調達しているか?
10.各グループは直接連絡をとるか、それとも仲介者を通すか?

■参考リンク
ヒトデはクモよりなぜ強い | EXDESIGN
分散化とは「問題にかかわる者を意思決定に参加させること」
『ヒトデはクモよりなぜ強い』 「ヒトデ型」をありのままにとらえる
嫉妬が生みだす公正な社会
書評 - ヒトデはクモよりなぜ強い



■tabi後記
出会うための言い訳(良い訳)をつくってあげるのが大切だなと思う。
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2009年09月04日

tabi0279 老子/小川環樹 訳「老子」

老子とリバタリアニズム
第三章
賢を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざらしむ。得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗(ぬすびと)為(た)らざらしむ。欲す可(べ)きを見ざらば、(民の)心をして乱れざらしむ。是を以て聖人の治は、其の心を虚しくして、其の腹(ふく)を実(み)たさしめ、其の志を弱くして、其の骨を強くす。常に民をして無知無欲ならしめ、夫(か)の知ある者をして敢えて為さざらしむるなり。無為を為せば、則ち治まらざること無し。


もしわれわれが賢者に力をもたせることをやめるならば、人民のあいだの競争はなくなるであろう。もしわれわれが手にはいりにくい品を貴重とする考えをやめるならば、人民のあいだに盗人はいなくなるであろう。もし(人民が)欲望を刺激する物を見ることがなくなれば、かれらの心は平静で乱されないであろう。それゆえに、聖人の統治は、人民の心をむなしくすることによって、人民の腹を満たしてやり、かれらの志(のぞみ)を弱めることによって、かれらの骨を強固にしてやる。いつも人民が知識もなく欲望もない状態にさせ、知識をもつものがいたとしても、かれ(聖人)はあえて行動しないようにさせる。かれの行動のない活動をとおして、すべてのことがうまく規制されるのである。
老子/小川環樹 訳「老子」(中央公論新社 2005)


この章は愚民政策を説いているのではない。老子は、徹底した不干渉主義の政治が人民にとって最もよい政治だと説いているのである。

私たちは、中国を理解する際に、やたらと儒教「論語」を重んじるが、訳者の小川氏は「儒道互補」を説かれている。それは、儒教「論語」と道教「老子」をセットにして中国を理解することである。

内面に確立した道に基づき「治国平天下」を目指す儒家思想を理想主義と形容するならば、自己の外側の道に随順することによって、あらゆる境遇を甘受する道家思想は、現実主義と呼ぶことができる。中国の人々は、この両者を自己の中に併存させながら、状況に応じていずれかを依るべき価値観として選びとり生き抜いていてきたことを理解する必要があるのだろう。

■参考リンク
『老子』老子 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
In Defence of Negative Value



■tabi後記
無事、大学卒業が決まりました。とらわれものなく「道」に従っていこう。
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2009年09月03日

tabi0278 澁澤龍彦「胡桃の中の世界」

ミクロコスモス・スコア
実際、『胡桃の中の世界』はリヴレスクな博物誌のようなもので、私はここで、幾何学的なイメージや石や動物や各種のオブジェや、あるいはシンメトリーや螺旋やユートピアや庭園や小宇宙などといった、気に入りのテーマを飽きもせずに語っている。(中略)ひたすら原型を求め、イメージの結晶を求めていた私だったが、いまや、それをロマネスクにふくらませることに楽しみを味わっているというわけだ。P283-4
澁澤龍彦「胡桃の中の世界」(河出文庫 2007)


本書は「人類の〈結晶志向〉の夢の系譜」を一冊に封じこめた奇想の博物誌と評されている。冒頭には「石の夢」というエッセイが収められており、プリニウスの「博物誌」からはじまり、ガストン・バシュラール「大地と休息の夢想」、ロジェ・カイヨワ『石の書』、さらには『和漢三才図会』まで渉猟し、興味深いエピソードを掘り起こしていく。

その中でも印象に残るのがアタナシウス・キルヒャーの『地底世界』である。

6059287.jpg
地球の断面図 A・キルヒャー『地底世界』1664年

この図について澁澤氏は、以下のように説明している。

一六六四年にアムステルダムで刊行された『地底世界』、それまでの多くの資料を集大成しているが、それだけではなくて、広範囲な一つの宇宙開闢説となっているところに第一の特徴があった。キルヒャー独特の筆触で描かれた地球の断面図が挿入されていて、それを眺めると、地殻の内部で燃えている火は、細い運河のような数多の裂け目を通り、火山となって地表に噴出している。鉱物も金属も、この燃える地殻の内部から自然に生じるということが示されているのである。地球は一個の有機体であり、自然は人間のように考えたり行動したりする。澁澤龍彦「石の夢」


イエズス会士であるキルヒャーは、すべての現象の背後に神の摂理を見いだしている。自然界において奇蹟を起こすのは常に神の力であり、天に新しい星が生まれるのも、石の中に形が生じるのも全ては「神の力」だという。現在の自然科学とは相反するが、このような神秘主義的解釈は中々面白い。

並行してナシーム・ニコラス・タレブ「ブラックスワン」を読んでいる。そうすると「プラトン的知性」という言葉に敏感にならざるを得ない。2つの書籍で、プラスマイナスを往還することになるからだ。

タレブ氏はマイナスの語尾をもって「プラトン的知性」を語っているが、澁澤氏は神秘的な「プラトン的知性」を面白がっている。双方の知性を併せ持ちながら「黒い白鳥」について語っていくことが必要かもしれない。

■参考リンク
[澁澤龍彦]「異端の肖像」「胡桃の中の世界」「エピクロスの肋骨」



■tabi後記
航海には地図がいる。さて、そもそも「その地図」をつくった人は、どうしたのだろうか。おそらく、大まかな予測を片手にもちながら航海をはじめたのだろう。そして、もう一方の手で地図をつくっていった。
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2009年09月02日

tabi0277 池谷裕二「単純な脳、複雑な「私」」

否定する自由 -リベットを超えて-
僕らがいまここで、重要な結論を手にしたことに気づいてほしい。僕らにとって「正しさ」という感覚を生み出すのは、単に「どれだけその世界に長くいたか」というだけのことなんだ。つまり、僕らはいつも、妙な癖を持ったこの目で世界を眺めて、そして、その歪められた世界に長く住んできたから、もはや今となってはこれが当たり前の世界で、だから、これが自分では「正しい」と思っている。そういう経験が「正しさ」を決めている。この意味で言えば、「正しい」か「間違っている」かという基準は、「どれだけそれに慣れているか」という基準に置き換えてもよい。P111
池谷裕二「単純な脳、複雑な「私」」(朝日出版社 2009)


人は、錯視をはじめとする錯覚をまざまざと見せつけられると、脳の活動こそが事実、つまり感覚世界の総体であって、実際の世界における実在すると思われている「真実」に懐疑的になっていく。

池谷氏は、そのような脳(人間設計)のでたらめさについて、ゲシュタルト群化原理、パターン・コンプリーション、サブリミナル、方法記憶、バイアス(様々な信念(記憶))といったテーマを用いながら、我々にとっての正しさとは、好きと馴れ程度のものでしかなく、日常生活は作話(意味のでっち上げ)に満ちていると物語っていきます。

そして「我々には自由意志はあるのか?」という問いを高校生に発しっていくのです。池谷氏は、リベットの受動意識仮説を紹介したあとで、自由"否定"論を展開していきます。

手首を動かしたくなったとき、たしかに、その意図が生まれた経緯には自由はない。動かしたくなるのは自動的だ。でも、「あえて、今回は動かさない」という拒否権は、まだ僕らには残っている。この構図は決して「自由意志」ではないよね。自由意志と言ってはいけない。「準備」から「欲求」が生まれる過程は、オートマティックなプロセスなので、自由はない。勝手に動かしたくなってしまう。そうじゃなくて、僕らに残された自由は、その意識をかき消すことだから、「自由"意志"」ではなくて「自由"否定"」と呼ぶ。P282
池谷裕二「単純な脳、複雑な「私」」(朝日出版社 2009)


私は、ここに、絶対否定即絶対肯定という考えを垣間みた。

■参考リンク
単純な脳、複雑な「私」 動画特設サイト
池谷さんの本を読む
NOのNOは脳 - 書評 - 単純な脳、複雑な「私」
「脳をハックする」ための最高の入門書――『単純な脳、複雑な「私」』



■tabi後記
すっかり秋になってきました。
posted by アントレ at 14:08| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月01日

tabi0276 北野幸伯「隷属国家日本の岐路」

脱せず、入らず、いかにして立つか
日本のリーダーたちはすでに、無意識のうちに「次の依存先」を探しているのではないでしょうか?「日本は将来、中国に併合されるのではないか?」日本には現在、二つの道があります。「真の自立国家になるか」それとも「中国の天領になるか」。P23
北野幸伯「隷属国家日本の岐路」(ダイヤモンド 2008)

北野氏は、1980年代末「ベルリンの壁が崩れるのを見て」高校卒業後、モスクワ国際関係大学に入学。それ以来、ソ連崩壊からプーチン時代までをつぶさに見てきたようだ。

本書は、防衛面だけではなく、経済・軍事・食糧・エネルギー・教育というトータルな視点で自立国家への戦略を描いている。そして、日本が真の自立国家になるためには、以下のことが必要であると語っている。

・経済の自立(内需型経済・財政の黒字化)
・軍事の自立(自国は自国で守れる体制つくり)
・食糧の自立(自給率100%)
・エネルギーの自立(自給率100%)
・精神の自立(日本の歴史・文化を重んじる教育)

ルーブル、人民元、ユーロの台頭により、ドル=基軸通貨という常識が綻びをみせはじめている。このままの流れでいくと、中国の国力が世界一に近づき、アメリカの財政赤字も本格化(=基軸通貨でなくなること)すると北野氏は考える。

次に「そのような環境化で、日本の国力(経済力と軍事力)を高めるには、どのような外交(国益の確保)を行なっていけばいいのか?」という問いに対して、国益とは「金儲け」と「安全の確保」であるとした定義し、日本が財政破綻を起こさないための施策を論じていく。

施策内容に慧眼たるものは垣間みることは出来ないが、個人が国家を選ぶ時代 が前提とされているのは興味をもてる。「いかに日本は空洞化を起こさずに、人、企業、金を呼び込むことが出来るだろうか?」北野氏は、法人税、所得税のフラットタックスを提案する。

人の呼び込みというテーマは、少子化と共に語られることが多いが、彼が移民として招くのは、いわゆる「3K移民」ではなく「日本人が尊敬出来る外国人」を対象にされている。もちろん、日本にシリコンバレーをつくろう!という安易な移転構想にも類似するところがあるのは否めない。

■参考リンク
ロシア政治経済ジャーナル
シリコンバレーをはるかに超える、世界一のイノベーション都市を、日本に作る方法



■tabi後記
ポストデモクラシーやソーシャルキャピタルに関する専門書を何冊か読んでみたが、特別な示唆や構想を感じられなかった。あなたが考え出せ、というメッセージだと勘違いしている。
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2009年08月31日

tabi0275 中西昭一 編「ワークショップ 偶然をデザインする技術」

ワークショップは創造と解体。0から1を生み出し、1を0へ戻していく。
どんなに自らが提供する商品やサービス、ブランドが所与のものであっても、それらを中立的な存在として徹底して位置づけ、ここから開発対象となる商品やサービス、ブランドのコンセプト、デザイン、コミュニケーションなどにアプローチする。「つくって、さらして、振り返る」というアクティビティを繰り返しながら、参加者は自らの「まなざしの革新」を通して、徹底してコンセプト、デザイン、コミュニケーション等の可能性に近づこうと努力する。このようなアクティビティを繰り返した結果、クライアント側・受注者側を含めた参加者全員が「学ぶ側」に位置するようになる。これが良いワークショップである。P31
中西昭一 編「ワークショップ 偶然をデザインする技術」(宣伝会議 2006)


一般的に、ワークショップの役割は4つに分類されてきた。(参考:中野民夫「ワークショップ」

・自己啓発系
・身体解放系・身体表現系
・社会的合意形成型
・創造力開発系

この本で扱うのは4つ目の「創造力開発系」のワークショップ。私がこの本を手にとった理由は、ブレインストーミングとワークショップの類似性、差異、その組み合わせを考えたかったからです。

この本から得られた仮説としては、ブレストは「コラボレーションのプラクティスではない」ということ。それは、個々の貢献と場の貢献と違いとも言えるかもしれません。何人か集まってのブレストは「プロトタイプをつくるためのプラクティス」ではあっても「コラボレーションのプラクティス」ではないのかもしれないということ。

本書では「中立変異の蓄積」「拘束状況の緩和」を進化のダイナミズムの源泉と位置づける「木村学説」の隠喩が用いてワークショップが説明されています。

すでに価値の決まっている「1」をどのように「10」にしていくかを考えるのではなく、中立的な「0」の蓄積から、参加者がワークの体験を共有していくプロセスで「1」を発見していく。

もしくは、同じワークの共有を通じて、すでに価値があるとされる「1」をもう一度見つめなおすことで解体しながら、それを再度中立的な「0」に戻し、それから再創造のプロセスにのせていく。こうした「解体と創造」の場がこの本で論じられるワークショップ。

ワークショップは、「ワークショップ的」という形容詞に身を潜める事で、あらゆる場所に侵入しています。(本書でも「ワークショップ・バブル」と書かれていたが)この本にも「ワークショップ的」な事例が多数紹介されている。その中で私が面白いと思ったのは「ピクニカビリティ」という言葉でした。

以下に引用してみます。

「ピクニック」というコンセプトには、強力な「イデオロギーの漂白力」があるのだ。東京ピクニッククラブでは、そのことを「ピクニカビリティ」という造語で呼んでいる。これは基本的にはピクニックしやすい都市やピクニック・スキルを身につけた人のことを評価する言葉だが、もうちょっと抽象度を上げて語るならば、ピクニックとは、自由にスタイルを与える行為であり、ピクニカビリティとは、いわば「自由の力量」を表わす尺度のような概念だともいえる。

「拘束状況の緩和」は、私の考えでは、場の持つピクニカビリティを高めることである。ピクニックとキャンプの違いをご存知だろうか。ピクニックは本来社交の場であり、ホストとゲストがない平等な集会である。だから煮炊きのような労働を誰かに課すようなことはしない。これに対してキャンプは軍隊の行動スタイルが基盤になっており、設営や炊事といった労働とその役割分担を通じて仲間意思を共有しようとするものだ。拘束状況のアレンジメントを遊ぶタイプのレジャーである。

私はピクニックが優れてワークショップ的であると思う。逆かもしれない。ワークショップがこなれてファシリテーターを必要としなくなった時、それはピクニックのように自由で楽しい雰囲気になる。どんな人も参加し、それぞれが理解可能なように語り、新たな「発見」を共有する場となるだろう。P132
中西昭一 編「ワークショップ 偶然をデザインする技術」(宣伝会議 2006)


■参考リンク
Blog@Yui はてな出張所
DESIGN IT! w/LOVE ワークショップ―偶然をデザインする技術/中西紹一編著
DESIGN IT! w/LOVE 新しい発想、技術の導入時に問われるプロデュース力



■tabi後記
雨降る中、情報デザインファーラムに参加してきた。情報デザインは、分かりやすく伝えるためではなく、良い体験をつくるためにある。いい言葉です。
posted by アントレ at 23:38| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月30日

tabi0274 入山映「市民社会論」

ボランタリーの失敗という思考軸
ここで錯綜しているかに見える議論の整理を試みると、とりあえず論点は先の公益法人制度の問題点に対応して、四つに分かれていることがわかる。
その一は法人成立にあたっての許可主義と、それと表裏一体の関係にあった指導監督体制の問題。
その二は、法人法定主義を採るわが国の法体系のなかで、これまでの「公益法人」に代わるものが必要か否か。必要ならばどのような法人類型を構築するかという問題。
その三は、どのような活動を営む法人に対して、どのような税制上の優遇措置を講じるのか。その理由は何かという問題。
そして最後に、既存の公益法人のなかで、いかがと思われる存在はどのようなもので、それをどのように淘汰するかという問題。さらには将来にわたりそのような存在の発生を阻止することは可能か、という問題である。P140
入山映「市民社会論」(明石書店 2004)


市場の失敗と政府の失敗を補う希望の星としてのNPOという見方は「社会起業」という言葉の登場によって、徐々に盛んになっている。 「市民セクターの可能性」と題した議論はこれまでも連綿と続いてきた。レスター・サラモンの「ボランタリーの失敗」という理論は、その中でも急進的なものといえるだろう。

本書では、官民、公私といった「当たり前」に使用される思考軸に対して、懐疑の目をもちながら、この次の可能性を探っていく。副題が「NPO・NGOを超えて」となっているのにも納得がいく。

私が興味を持った点は、正統性(legitimacy)の問題と答責性(accountability)の問題である。そして、市民組織と民主主義は3重の意味で関係がないという議論である。

正統性の問題とは、市民社会モデルには、かつて選挙によって選ばれた人々が行っていた決定を、選挙によらない主体が行うようになるという「民主主義的欠陥」を指摘されることである。

答責性の問題は、影響力を行使するNPO/NGOが引き起こした結果に対して「政治的責任を追及する実効的手段」がないという問題である。この2つは、表裏の関係といっていいだろう。

そして、市民組織は民主主義とは1重の意味で関係がない議論について。

まず第一に、組織そのものの目的はいかようにでも反民主主義的でありうるということ。アルカイダもKKKも、はたまたオウム真理教も市民社会組織である。 第二は、組織運営が民主的になされる保証がないということ。成員がそれに同意し、望むならばどのような独裁的・非民主的な運営も可能であるからだ。そして第三は、多くの市民社会組織が部分利益を代弁するという性格をもち、ごく一部の社会階層の利益を極大化し、それを固定する機能を十分に果たしうること。この3つを射程入れながら、市民組織と民主主義については考える必要があるだろう。

■参考リンク
社会変革ベンチャーキャピタリスト ータイズ財団



■tabi後記
戦後初、2大政党における政権交代がなされた。民主主義を採用する国としては、今までが異常な事態だったのだろうか。事態の行く末を見守ると同時に、国家というレガシーシステムを移管するためのプログラミングをしておこう。
posted by アントレ at 23:40| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0273 加藤秀治郎「日本の選挙」

投票はどこから来たのか、投票は何か、投票はどこへ行くのか
選挙制度の議論のパターンをみると、教育問題とよく似ているところがある。まず、誰でも口が出せるし、それを直接の専門とする学者の意見があまり尊重されないことである。また、思い込みの強い議論が多く、意見のことなる人の間では有益な討論がなされないのも似ている。
(中略)
さらには、思想的バックボーンに無頓着な議論が多いことも似ている。多様な教育制度にはそれぞれ理念があるのだろうが、あまりそんな話は聞かない。選挙制度でも平気で思いつきのような改革案が出されてくる。P4(はじめに)
加藤秀治郎「日本の選挙」(中央公論新社 2003)


小選挙区制は安定した政権(二大政党)がつくれるが死票が多い、比例代表制は選挙民の意見を正確に反映しかつ死票がないが小党分立で政権が安定しない・・etc。選挙制度の報道は同じことを繰り返している。

このようなメッセージの裏には何があるのか?そもそも選挙制度とは何か?そして選挙制度はどうなるのか?本書は選挙制度の話は、上記の報道だけでは片付けられないことを教えてくれる。

もともと小選挙区制と比例代表制は根底にある理念が異なっている。選挙制度を論じるには、まず依って立つ政治理念を明確にしなくてはならない。オルテガ・イ・ガセトは「大衆の反逆」にて「民主政治は、その形式や発達の程度とは無関係に、一つのとるに足りない技術的な細目に、その健全さを左右される。その細目とは選挙の手続である。それ以外のことは二次的である。もし選挙制度が適切で、現実に合致していれば、何もかもうまくいく。もしそうでなければ、他のことが理想的に運んでも、何もかもダメになる」と語っている。

90年代の政治エネルギーの大半を選挙制度改革費やしたかに思えるが、井堀利宏氏の「世代間選挙区」のような発想が根源的に議論されたのだろうか。そして、その議論は我々に届いているのだろうか。

以前から、一票の格差に関する話題はことかかない。住居地域における1票格差の議論は徐々に顕在化してきている。また、シルバーデモクラシーといわれる世代間1票格差も注目を浴びている。一方で、誰も当選させたくないけれど「あの人だけは当選させたくない」という意思表示をするための負の投票権(マイナス投票)という考え方も上がってきている。

このように多様な側面がある「選挙制度」について考える日が、人生に1度くらいあっても良いだろう。投票はどこから来たのか、投票は何か、そして、投票はどこへ行くのだろうか。

■参考リンク
選挙の前に読んでおきたい本&目を通しておきたいWebサイト



■tabi後記
ブライアン・カプラン「選挙の経済学」では、大多数の有権者は、市場メカニズムを過小評価し、貿易の利益を過小評価し、労働の価値を過大評価し、経済をあまりに悲観的に見通す傾向がある。こうしたバイアスが存在するために、私たちはわざわざ間違った政策を選び、民主主義を台無しにしていると論じている。

近年は、政党や個人といった縛りではなく「政策」をベースにして投票を行なおうという声が上がっているが、どのマニフェストも判を押したように同じ構図になっている。「両政党の違いよりも、政党内部の違いの方が大きい」という指摘は、1つの迷言として考えておきたい。
posted by アントレ at 14:48| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0272 山口昌男「学問の春 <知と遊び>の10講義」

文化の創造性は危機に直面する技術
「ポトラッチの社会学的基礎」というセクションの最後に、「ポトラッチのような術語は、ひとたび科学的用語のなかに受け入れられてしまうと、たちまち符牒にされやすく、人々はこの言葉を使いさえすれば、もうそれである現象の説明がついたように思って議論をやめてしまいがちな、そういう言葉の一つのなのである」(p.142)と書かれている。使いやすくて意味的な根拠がなくなっても使い続けられる言葉を、ブランケット・タームと英語ではな言う。ブランケットというのは毛布だから、何でもくるんじゃうということ。大風呂敷というわけではないんだけれども、ポトラッチにはその恐れがあるということで、ホイジンガは注意を喚起している。P251
山口昌男「学問の春 <知と遊び>の10講義」(平凡社 2009)


ヨハン・ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」を通じて、人々とその暮らしを、そして万巻の書物を、学ぶことの愉しみを体感する講義録である。ホイジンガを起点にしながら、ヨセリン・デ・ヨングを中心にしたライデン学派、デュルケーム、モースを中心にするフランス社会学やレヴィ=ストロースなどを比較的に扱っていく。山口氏は、このような文化比較が、文化創造、解釈に繋がっていくと話す。

この講義の結びでは、われわれの世界がそうはならなかったもう一つのもの、もう一つの姿、オルタナティブな世界について、われわれが知覚を、情報をもつということの大切を説かれています。そこには「失われた世界の復権」というメッセージが込められており、未知のテーマに肉迫する学びのスタイル、あるいは知の迷宮での発見法的なさまよい方を教える姿勢が垣間見えた。

■参考リンク
読み出すと止まりません、山口昌男『学問の春』



■tabi後記
飛行機で五時間以内で行ける国の言語を一つくらいやっておくことと良いよ、というアドバイスをポロッと話せる人はそう多くないだろう。
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2009年08月29日

tabi0271 梅棹忠夫 編「文明の生態史観はいま」

日本はアジアには属していない、というよりアジアなんて存在しない。
大陸ではなく、海に関心を持ちましょう。海は日本のもともとのふるさとです。海に戻りましょう。海というのはどこのことでしょうか。(中略)大陸へ行くには西に向かって同緯度をたどってゆくわけですが、こんどはそうではなく、南北の同経度連合を考えようというのです。太平洋の諸島を結びあわせた太平洋国家連合というゆきかたがあるのではないでしょうか。日本、インドネシア、ミクロネシア連邦、フィリピン、パプア・ニューギニア、オーストラリア、さらにニュージランド、これらとの島峡国家連合を本気になって考えないといけません。P220
梅棹忠夫 編「文明の生態史観はいま」(中央公論新社 2001)

著者は世界における日本の位置付けを熟考し、東洋・西洋という慣習的区分を乗りこえ、ユーラシア大陸を高度な近代産業文明の段階に達した第一地域、およびそうでない第二地域とに区分する。

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Osuga Blog

そして、日本をユーラシア東側における唯一の第一地域として、ユーラシア西側の西欧諸国と並行的に進化してきたというのだ。第一地域はその特徴として、封建制の存在と早い時期からの市場経済の発達があげられ、第二地域はその特徴として、古くから文明が栄えて専制的帝国を築いたが、封建制を発達させることなく、絶えず遊牧民による破壊的圧力にさらされ続けたことがあげられる。

この理論から考えられるが、中国人とアラブ人の行動様式に多くの共通性があること、日本人と西欧人とに共通する資本主義・市場経済への適応度の高さの指摘などがあるだろう。

「文明の生態史観」がもたらした意義は、東洋と西洋という二分法を放擲させたこと。 単一進化論の神話を破壊したこと(唯物史観では、狩猟ー遊牧ー牧畜と段階説を考えるが、生態史観においては、気候適応しているだけだと考える)。そして、封建社会が日本と西欧にしかなかったということを指摘したことであろう。

以上は「文明の生態史観」についてのレビューであるが、本書のユニークさは「文明の生態史観」出版後に、どのような批判や論理が追加されたのかということ視点が加わっていることだ。その中で特に焦点が当たっているのが、同緯度ではなく同経度というパラダイム転換である。

渡辺利夫「新 脱亜論」で指摘されていたように、日本はもともと海洋国家であるが、西の大陸にばかり関係を持とうとしてきた。最初に大陸に手をだして大やけどをしたのが663年の白村江の戦いで、新羅と唐の連合軍に対して百済と日本の連合軍がこの川で激突し大打撃をうけた。二回目が、秀吉の朝鮮出兵、三回目が日清、日露、日中の大陸出兵へと続いていく。

梅棹氏は、このような西の大陸での痛手や自らのフィールドワークを通じて「アジアというのは、そんなになまやさしいものと違います」という考えをもたれた。アジアの大陸的古典国家は、どろどろした人間の業がいっぱい詰まっているところであり、日本人のようなおぼこい民俗が手をだしてうまくいくものと違うと語っている。



■tabi後記
ガイア的視点にかけると言うのは簡単である。本論のようなクレイジーなことを説得的に語られるような人でありたいと思う。その一方で、観念誘惑には鈍感でもありたい。
簡略していえば「文明は装置系=制度系」であり「文化はそのデザインの問題」であるということになる。そして人類は、人間=自然系としての生態系から、人間=装置系としての文明系に進化してきた。その移行は連続的であり、現代文明といえども多分に生態的要素を残している。P155
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2009年08月28日

tabi0270 くらたまなぶ「リクルート「創刊男」大ヒット発想術」

ちゃんと生活しながら、喜ぶ。驚く。怒る。不思議がる。
マーケティングは「人の気持ちを知る」と訳した。「いい気持ち」ももちろん参考にするので、この訳はこれでOK。しかし、マーケティングの究極の目標は、「人の嫌な気持ちを知ること」だと思っている。今とりかかっているこの市場で、このテーマで、この対象者が、
「もっともアタマにきていることは何か」
「うんざりしていることは何か」
「あきらめてしまっていることは何か」・・・。
それさえ見つければ、それを言葉にすることさえできれば、金脈を掘り当てたようなものだ。まだ商品に手を触れていなくても、サービス内容を検討していなくても、である。P103
くらたまなぶ「リクルート「創刊男」大ヒット発想術」(日本経済新聞社 2006)

ビジネス書の中で最も影響を受けている本かもしれない。手に取ったキッカケは、御立尚資「戦略「脳」を鍛える」の参考文献だったためだ。

私がこの本から学んできた事は「予断を排すること」と「無私になること」である。ビジネスを通じて、こういった学びが出来そうだと知ったのは良かった。その時の私は、目が爛々としていたことだろう。なぜなら「民俗学」や「人類学」や「哲学」に関心を持っていた人間が「ビジネス人類学」という可能性を発見したのだから。
相手がふと口ごもる、言いよどむ、視線をそらす、話題を変える・・・。それを自分の目や耳で確かめて、自分の口でキャッチボールしてみないと、なかなか「不」の核心をつかめない。何でも一人でやるっていう意味じゃない。プロジェクトが何人いても、それぞれが他人まかせにしないという意味である。当事者意識を持って、それぞれがみずから「不」をつかみとる。偉いか偉くないかも、知識も経験も性別も年齢も関係ない。個々人の手ごたえが重要だ。P104

まるで心理カウンセラーやFBI捜査官のようである。ここで示されている、くらた氏の人間観察の根底には「属性の誘惑に負けちゃダメだ。」という思いがある。そんなワナにはまったら「夢」を見つけることなんかできないのだ。

例えば、「関西人ちゅうのは簡単にカネ出さへんで〜」「30代は買わないでしょう」といった「属性の誘惑」である。まとめる集団がデカくなるほどまったくのウソではなくなってしまう。つまり、何を言ったって当てはまるのだ。だからこそ、なおさら始末が悪くなってくる。

属性を議論していれば仕事をした気になってしまう。しかしその実、仕事は止まっている。ただプロフィールを評論しあっているだけだから。属性で商売ができるほど、市場は甘くない。その事を痛感できる本である。

予断を排し、無私へと至る
いくら体験があっても、知識が豊富でも、年齢層がぴたりと一致しても、自分一人で何万人、何十万人のユーザーを代表することはできない。だからこそのヒアリングである。
「嫌いな人」「見知らぬ人」の声も聞かなくてはならないのである。変に自信があるとヒアリングがおろそかになる。オレ自身で十分だ。ま、それでも反省しながら何とか聞きまくった。「声」がたくさん集まり、だんだん核心に近づいてくる。似たような「気持ち」には容易に感情移入できるのに、自分と違うタイプの「不」には腹が立つ。共鳴できない。会議の席上で反論してしまったりする。
「家庭教師のバイトやる奴なんて、お坊ちゃん、お嬢ちゃんだけだろ、どうせ」いや面目ない。きわめて柄の悪い「自分マーケティング」の男だったのである。そんな学習のおかげで、「自分派」の人間がそばにきたら、今はこう言えるようになった。「君の意見はわかった。ところで君って何割のユーザーを代表してるんだい?」P110


■参考リンク
824旅 くらたまなぶ『MBAコースでは教えない「創刊男」の仕事術』



■tabi後記
Mimic Comic Workshopに参加してきた。自分たちの体を動かして、マンガのコマを作成し、10Pのマンガを作成するというものだ。3時間ほどかけて出来上がった作品は、それなりに面白いものとなった。なぜマンガは面白いのか?という問いは、これからの時代において考えなければいけないことの1つであろう。
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tabi0269 中谷宇吉郎「科学の方法」

われわれはただ賭けるだけである。それが生きることだから。
あるところまでは、実験の制度の範囲内でわかる。その先は、実験の誤差である。誤差の範囲内で一致するのだから、これは一致しているといっていたわけである。誤差の範囲内だから、よろしいというのは、法則の方を先に仮定していたのである。何か不変なものがないと、論理の足場がないので、物質不滅とか、エネルギー不滅とかという足場をつくった。今日物質とエネルギーが互いに転換できるということになっても、その和は不変とするのであって、そういうわくを作っておいて、それによって自然界を見ていく。それでやはり人間的要素はいつまでも附随していることになる。P190
中谷宇吉郎「科学の方法」(岩波書店 1958)

小林秀雄「常識」にも登場する中谷宇吉郎の科学哲学エッセイ。統計的手続きによる納得感と誤差に向き合うことが科学哲学の肝であろう。

物質と普通にいわれているものも、またエネルギーといわれている力みたいなものでないものも、本来ともに、自然界の実態ではなく、人間の頭の中でつくられた概念である。そして自然界の実態は、この両者を融合したところにあって、本来互いに移りかわれるものであったのである。P57


ファラデーはクーロムの法則の遠隔作用を否定して、近接作用の理論をつくり、空間のゆがみを電気であるとした。アインシュタインは万有引力の遠隔作用を否定し、近接作用を採用して、重力を空間のゆがみとした。もちろんこれは、人間が見ている世界であり、自然界に眠りし「イデア」を発掘したわけではない。科学とは、先達の信用の上に降り立った上で、その理論における誤差範囲を狭めること、説明範囲の拡張に努めていくのである。
火星へ行ける日がきても、テレビ塔の天辺から落ちる紙の行方を知ることはできないというところに、科学の偉大さと、その限界とがある。P89

ある現象が再現可能・くり返し可能であると見なせる根拠は何か、それはその社会のあるグループにおける多数派がそう見なしているから、という以上の答えはないように思える。当たり前の結論のように響くかもしれないけれど、ある現象が科学的、確率的に扱えるものであるか否かは、その時代の社会的合意によって凡そ決まってしまう。

もちろん、多数決でそのようなことを決めたりしたわけではなくて、例えば、サイコロ投げは確率的現象だと暗黙裡に刷り込まれているわけのである。これに対しても「現象の一回起性」に固執する立場からすれば確率的現象ではない、と強弁することも可能である。大森荘蔵の「賭け」という言葉にみられるような考えである。

■参考リンク
私の人生観を決定づけた大森荘蔵の言葉
第一夜【0001】
第十八夜【0018】
第六百七十夜【0670】
千早振る日々



■tabi後記
Twitter人口が増えてきた。そうなってくると、逃避したくなる。
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tabi0268 渡辺利夫「新 脱亜論」

東アジア共同体は夢物語か
東アジアはその統合度を一段と高めるために、二国間、多国間でFTA・EPAを積極的に展開し、この地域を舞台に自由化のための機能的制度のネットワークを重層的に張りつめるべきであろう。しかし東アジアの統合体はFTA・EPAという機能的制度構築を最終的目標とすべきであって、それを超えてはならない。共同体という「共通の家」の中に住まう諸条件をこの地域は大きく欠いており、また共同体形成の背後に中国の覇権主義が存在するとみなければならない以上、東アジア共同体は日本にとってはもとより、東アジア全体にとってまことに危険な道である。P286
渡辺利夫「新 脱亜論」 (文芸春秋 2008)

「不条理に満ちた国際権力世界を生き延びていくためには、利害を共有する国を友邦として同盟関係を構築し、集団的自衛の構えをもたなければ容易にその生存をまっとうできない。叶うことであれば同盟の相手は強力な軍事力と国際信義を重んじる海洋覇権国家であって欲しい。」これを渡辺氏がイギリスへ送ったラブレターとして読むのもよいが、このような感慨をもたざるを得なくなったことに注目したい。つまり「なぜアジアではないのか?」という問いへの応答である。

大雑把に言えば、渡辺氏は「EUのまねをして東アジア共同体をつくろうというのは幻想である」という主張をされている。そして、この主張を支える点として1.経済発展段階の相違,2.政治体勢の相違,3.安全保障枠組みの区々,4.日中韓の政治関係における緊張状態,5.中国の地域覇権主義の5つを上げている。

渡辺氏の思考前提には、西洋と東洋、ヨーロッパとアジアという従来の思索軸はない。梅棹忠夫氏の「文明の生態史観」によるユーラシア大陸中心部と大陸周辺部国家群という対比的分類を基礎にされている。「ヨーロッパ的普遍主義」に対して「アジア的特殊性」を対置し、後者によって前者を超克しようするパターンをとるのではなく、日本はむしろ「ヨーロッパ的普遍主義」の一員として国家戦略を立てたほうがよいというのが著者の結論である。

■参考リンク
「文明の生態史観」と東アジア共同体
【正論】「新脱亜論」で訴えたかったこと
池田信夫 blog
文明の生態史観



■tabi後記
「文明の生態史観」と東アジア共同体に渡辺氏の主張がまとめられている。
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tabi0267 高山宏「近代文化入門」

「ちがう」という時代に「同じ」をさぐる
何となくいろいろとつながってひとまりと意識される世界が、主に(1)戦乱その他の大規模なカタストロフィーを通し、かつ(2)世界地図の拡大、市場経済の拡大といった急速に拡大する世界を前に一人一人の個人はかえって個の孤立感を深めるといった理由から、断裂された世界というふうに感じられてしまう。その時ばらばらな世界を前に、ばらばらであることを嘆く一方で、ばらばらを虚構の全体の中にと「彌縫」しようとする知性のタイプがあるはずだ。それがマニエリスムで、十六世紀の初めに現れて一世紀続いたとされる。P62
高山宏「近代文化入門」(講談社 2007)

王立協会成立から300年(1660年-1960年)が、高山氏における近代300年である。その300年は、脱魔術化-魔術化の系譜であり、1660年以前-1960年以後において魔術(マニエリスム)が公然と扱われていることを示すための区切りである。

1957年に出版された「迷宮としての世界」ホッケは、次の2点を主眼にしてマニエリスム論を行なった。

1 つなげることで人を驚かせる技術論
2 つなげる方法として魔術的なものをいとわない

それは「分け」ないでワカルことを目指していたのだ。「わけず」に「つなぐ」ことによる理解である。駄洒落がつなぐことの低いレヴェルであるとすれば、魔術思考、魔術哲学が一番高いレヴェルであるとしたのである。このような研究を始動していったのが、1960年代に成熟していくワルブルク研究所(ウォーバーグ研究所)であった。ここからホッケイエイツスタフォードが生み出された。

マニエリスムを振返る
この本なりのマニエリスムの定義をもう一遍整理してみると、それは三つの条件からなる文化相だった。

(1)認識論的な哲学
(2)光学を中心とする自然科学
(3)幻想文学といわれる文学

この三つ組がたえず繰り返されている。引き金になるのはいつも、人間の置かれた不安な状況である。ソリッドなものが成り立たなくなり、固定されたものや足を置ける地盤がなくなったとき、こういったタイプの文化が登場する。
(中略)
「ファンタジー」とは元々はギリシャ語の「ポス」という言葉で、正式には"Phos"と綴る。「光」という意味であった。ギリシャ人が考えていた幻想とは、つまり光あっての幻想である。であるなら、非常に飛躍した比喩を使うと、「光の世紀」たる十八世紀は壮大なファンタジーの世界だったことになる。

「見える」こと即ち「わかる」こと。見えないものは断面にしてでも切り割いてでも何でもいいから、とにかく「見える」ものにする。これはこれで合理という名の狂ったファンタジアなのだ。幻想とは、光の対蹠地にあるものではなく、光そのものが何かの形で変質していくものである。ぼくは光のパラダイムとして近代を考えようとして、合理<対>幻想という批評的バイアスを棄てた。P293-294
高山宏「近代文化入門」(講談社 2007)

本書で紡がれる歴史
1525年 再洗礼派トマス・ミュンツァー処刑
1527年 サッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠事件
1532年「ガルガンチュアとパンタグリュエル」フランソワ・ラブレー
1534年 ミュールハウゼンの反乱
1564年 シェイクスピア生誕
1570年 ユークリッド「原論」英訳 ジョン・ディー序文
1592年 ヨハン・コメニウスウス生誕(ボヘミア 薔薇十字団
1601年 「ハムレット」,リアルの誕生(OED)
1603年 エリザベス一世没
1608年 ジョン・ディー没
1616年 シェイクスピア没,セルバンテス没
1617年 「両宇宙誌」ロバート・フラッド(薔薇十字団)
1618年 三十年戦争始まる
1631年 ジョン・ダン没(英文学 マニエリスム)
1632年 ファクトの誕生(OED)
1637年「屈折光学」デカルト
1642年 ニュートン生誕
1645年「アリストテレスの望遠鏡」テサウロ(アナモルフォーズ:多は一の中にある)
1646年 劇場封鎖令,ライプニッツ生誕
1648年 三十年戦争終わる
1649年 ピューリタン革命
1651年「リヴァイアサン」ホッブズ
1654年 ヨハン・コメニウス ロンドンへ亡命
1658年 レキシコグラファー(辞書編集者)の誕生
1660年 王立協会(自然知を促進するための王立協会),「世界図絵(オルビス)」
1667年「王立協会史」(初代総裁 トマス・プラット),リプリゼンテーション(表象契約)の誕生。(1966年 フーコー「言葉と物」)
1667年「失楽園」 ミルトン
1670年 ヨハン・コメニウス没
1671年「光と陰の大いなる術」キルヒャー
1678年「天路歴程」 バンヤン
1704年「光学」ニュートン
1707年 リンネ生誕
1709年 コンポジション(構図),ピクチャレスクの誕生
1716年 ライプニッツ没
1719年「ロビンソン・クルーソー」,デフォー(知の商人)
1720年 南海泡沫事件
1727年「四季」ジェイムズ・ワトソン,ニュートン文学
1728年「サイクロペディア」チェンバーズ
1757年「美学」バウムガルデン
1753年 大英博物館条例(ミュージアムが始まり、ヴンダーカンマー(驚くべきものを集めた部屋)の終焉)「植物の種」リンネ,「美の分析」ホガース
1762年「崇高と美の観念の起源」エドマンド・バーク
1775年「観相学断片」ラファーター
1852年「ロジェのシソーラス」(ロングマン)ピータ・マーク・ロジェ(王立協会員)

■参考リンク
近代文化史入門 超英文学講義/高山宏



■tabi後記
昨日から半藤一利「昭和史」を読み始めていたところ、ライフネット 出口治明さんが紹介されていた。
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2009年08月27日

tabi0266 菅野覚明「神道の逆襲」

嘆息によって道が開かれる
私たちの眼前に、普段通りの変わらぬたたずまいを見せている山や川。そこで営まれる、働き、子を育て、食べ、休息する、私たちの当たり前の暮らし。見慣れた景色と当たり前の暮らしを、私たちは変わることのない自分たちの世界のありようであると信じている。私たちは、普段、そうした見慣れた日常を、あらためてそれが何であるかを問うことはない。しかし、神はある日突然に出現する。景色は一変し、私たちの生は動揺する。一変した風景が元に戻り、私たちが「記憶と経験」とを回復するまでの時間こそが、私たちの神の経験である。P37
菅野覚明「神道の逆襲」(講談社 2001)

今回は、佐藤弘夫「神国日本」(筑摩書房 2006)を交えながら論じていきたい。神道について考える際は、神道を天皇とナショナリズムへ結びつける常識を捨てることが大切になる。

神道は、常民の日常的な習俗とともに培われてきた民俗的な信仰やトーテミズムを含むものの、それをもって神道と言うわけではない。だが、両部神道や伊勢神道や唯一神道のように、独自の教説によって成立したものも神道の本来というものではなく、それらは広い意味での神道の一部にすぎない。

神道は民俗的な習俗をふまえながらも、伝統的な神に対するある自覚にもとづいたものであって、誰もが「それが神道である」と言えない領域に発達していったものなのであろう。その理由はイデオロギー的には説明がつかない。むしろ、日本の歴史の一つずつの「事件」に応じて形成されていったものだった。

これらの認識を踏まえた上で、菅野は、純粋経験に神を捉え、佐藤は、神道にへばりつく誤解を解きほぐすことを目標とする。

佐藤氏から得られた視座は、神道と音楽の根源が絡むところであった。それは引用部の「記憶と経験」の箇所、そして宣長の「もののあはれ」について論じている箇所から得られたことである。
物のあわれというのは、簡単にいえば、事物に出会ったときに「心が動く」ということである。人が事物に触れるとき、心はそれに反応して嬉しい悲しいとさまざまに揺れ動いている。このアナログメーターの針の動きのような心の動揺における事物の感知が、物のあわれを知るということであるとされる。

そして、この心の動揺が著しく大きいときには、その動きは声となって表にあらわれる。この嘆息の言葉もまたあわれとよばれる。あわれとは元来、「ああ」という嘆息の声である。この声は、心の動きそれ自体の表現であり、動きの大きさ、すなわちあわれの深さを表示するものである。あわれが深ければ、それはおのずと声となってあらわれる。この歎息が歌の根源なのだと、宣長はいうのである。P224
菅野覚明「神道の逆襲」(講談社 2001)

カミは、風景としてみずからをあらわしている「裏側」の何ものかなのであろう。それがカミ隠しであり、カミの表出は嘆息にありとする。嘆息は人間と自然の協同作品であり、その作品こそが音の根源であると考えるのは面白い。

■参考リンク
情報考学 Passion For The Future
Goodpic.com
第四百九夜【0409】
第六十五夜【0065】
第九百十夜【0910】





■tabi後記
松岡正剛氏はどこかでこう語っていた。われわれは、結局、こう答えるべきなのかもしれない。「あなたの宗教は何ですか」「われわれはそのような質問に対する回答をもたないような日々をこそ送ってきているのです」と。
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tabi0265 マルセル・モース「贈与論」

我々は何を受領してしまったのか?(返報性の起源)
現在では、われわれは以前ほどポトラッチの存在に否定的ではなくなってきている。第一に、サモア島における契約的贈与体系は婚姻の時以外にも広がっている。それは、子供の出生、割礼、病気、娘の初潮、葬式、商取引に伴って現れる。第二に、いわゆるポトラッチの二つの本質的要素が確認されている。一つは、富が与える名誉や威信や「マナ」であり、もう一つは、贈与のお返しをすべきであるという要素である。返礼をしないと、このマナ、権威、お守り、そして権威そのものである富の源泉などを失う恐れがある。P30
マルセル・モース「贈与論」(筑摩書房 2009)

モースは、伝統社会においては「贈与」「受領」「返礼」の三つの義務が存在すると考えた。この3プロセスは伝統社会においてだけ見られるものではない。そのようにモースの研究は現代でも脈絡をもっている。

私が気になるのは「返報性の原理」が生まれた地点である。モースの理論を理論の拡大解釈をしてみるなら「受領」が生まれた場所である。恐らく、我々が贈与をしたことは「神」への返礼であったのだろう。

それは、生命が生まること、生きるだけの動植物、自然環境を受領してしまったからだろうが(原罪や業と云えるのか)。であるならば、なぜ「神」は宇宙を贈与したのだろうか。それは誰に対する返礼なのか、想像が働くところだ。

■参考リンク
池田信夫 blog
前回紹介したマルセル・モースの『贈与論』の続き
1205旅 マルセル・モース『贈与論』



■tabi後記
更に想像すると「神」が受領してしまったものは何か?になるだろうか。
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tabi0264 道元/懐奘「正法眼蔵随聞記」

只管打坐・止観駄坐
六ノ二十四 学道の最要は、坐禅これ第一なり
禅師の御教示。
悟りの道を学ぶ上で最も重要なのは、坐禅が第一である。大宋国の人が、多く悟りを得るのも、みな坐禅の力である。文字一つ知らず、学才もなく、愚かな鈍根の者でも、坐禅に専心すれば、長い年月産学した聡明な人にもまさって、出来あがるのだ。したがって、悟りの道を学ばんとする者は、ひたすら坐禅して、ほかのことに関わらぬようにせよ。仏祖の道は、ただ坐禅あるのみだ。ほかのことに、従ってはならぬのだ。P337
道元/懐奘「正法眼蔵随聞記」(講談社 2003)

この言葉に続いて懐奘(えじょう)は、禅師に坐禅と看語(古人の語録を読むこと)について問う箇所がある。それは、語録や公案を見ている場合、百千に一つくらいは会得できたと思われるときがあるが、坐禅にはそういったものが一切ない。それでも、坐禅を心掛ける方がよいのだろうか?という問いである。

それに対して道元禅師は、少し判ったような気がすることが、仏祖の道から遠ざかることなのだと教示される。人とおしゃべりせず、聾唖者のように、常に独り坐禅することを心がけることを強く説くのだ。

私は、只管打坐という言葉を、止観駄坐であると思っていたことがある。もはや坐ることもなく、万物流転のなるがままに世界を止観せよと受けとっていたのだ。

■参考リンク
懐奘 finalventの日記
426旅 懐奘『正法眼蔵随聞記』



■tabi後記
D・ロッシ「バフチン以後 <ポリフォニー>としての小説」を読んだ時に思ったのは、公案や問答をポリフォニーとして扱うことは可能か?という問いであった。本日、書庫籠り2日目である。
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2009年08月26日

tabi0263 四方田犬彦「先生とわたし」

わたしと後生、先生となった「わたし」
師は弟子の前で知的権威として振舞いながらも、その一方で、年齢的にも若く、新進の兆をもった弟子に羨望を感じている。条件の整わなかった時代に自分が行なわざるをえなかった試行錯誤を、弟子はしばしば解決してしまう。彼は新しい方法論をもとに、師には思いもよらなかった道に発展してゆく。弟子が自分の道の領域に進出して自己を確立し、かつて自分が教えた領域からどんどん遠ざかってゆくのを、師は指を銜えて眺めていなければならない。だが自尊心は嫉妬と羨望を率直に口にすることを拒む。屈折に強いられたこうした感情は、ときに怒りに、ときに悲嘆に、道を見出す。だが彼は自分のヴァルネラビリティーを公にすることができない。どこまでも師として振舞わなければいけないのだ。その内面の脆さに気づく者は少なく、たとえ誰かがそれに気付いても、畏怖感が前に立ってまず言及しない。P215
四方田犬彦「先生とわたし」(新潮社 2007)


師と弟子が織りなす共同体について綴られたエッセイである。由良君美を起点にしながら、先生の先生、先生としてのわたし・・など複合的に「先生とわたし」を論じていく。その共同体を育むのは、書物のユートピアである。書物は質量をもったオブジェであり、整理カードや検索機に還元できるものではない。書物を情報の集積物としてのみ遇することはなく、非能率的な何物かでなければならなかった。
由良君美はそうした制度的思考の裏をかき、漫画であろうが実験小説であろうが、等しく文化的テクストとして分析の対象とできるような柔軟な思考の学生を、ゼミ生に期待していていたのである。後に繰り返し聞かされたことであるが、ロシア・フォルマリズムの泰斗であるシクロフスキーが説いた、「高位文化が誕生するためには、低位文化の絶えざる振幅が条件である」というテーザが、彼の方法論の根底にはあった。P18

そのユートピアが織りなしたものは、オルタナティブな視点、議論の深化、解釈共同体の構築、要するに熱い諧謔に裏打ちされた人文教養主義である。

■参考リンク
由良君美と四方田犬彦



■tabi後記
師弟論として読むならば内田樹「先生はえらい」、坂口安吾「教祖の文学」、山折哲雄「教えること、裏切られること」などを勧めたい。
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tabi0262 湯谷昇羊「立石一真「できません」と云うな」

「しってます」と云うな
「こんなふうに、科学、技術、社会の間には二方向の相互関係があって、お互いが因となり果となって社会が変貌し、発展していくんや。つまり、サイクリック・エボリューション、円環論的なツー・ウェイの関係があって、常にサイクリックに流れている」
「何で人間だけが常にそういう新しい技術や商品、システムを求めて進歩を図ろうとするんですか」
「それはなあ、人間の一種の業や、常に進歩したいという意欲が元になってるんや」P244
湯谷昇羊「立石一真「できません」と云うな」(ダイヤモンド 2008)


人間を最も人間らしく遇する道は、その介在をなくすことのできない仕事だけを人間に残して、機械にできることは機械にやらせることである。これはサイバネティックス創始者ノーバート・ウィーナーの言葉である。オムロン(立石電機)創業者の立石一真は、この言葉を地で行なっていた。



ウィーナーの言葉を復誦するだけなら誰もが出来るが、立石氏はそれを事業として表現していった。そして、彼の行動と思考の連続によってSINIC理論というものが生まれた。SINIC理論(Seed-Innovation to Need-Impetus Cyclic Evolution)とは、立石氏が1970年国際未来学会で発表した未来予測理論で、科学と技術と社会の間には円環論的な関係があり、異なる2つの方向から相互にインパクトを与えあっているとする見方である。

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未来を描く「SINIC理論」

ひとつの方向は、新しい科学が新しい技術を生み、それが社会へのインパクトとなって社会の変貌を促すというもので、もうひとつの方向は、逆に社会のニーズが新しい技術の開発を促し、それが新しい科学への期待となるというもの。この2つの方向が相関関係により、お互いが原因となり結果となって社会が発展していくという考えがSINIC理論である。

■参考リンク
教師が教わる生徒 - 書評 - 立石一真『できません」と云うな



■tabi後記
遅咲きの人を見ると、塩谷賢さんの話を思い浮かべる。茂木さんがブログで書かれていたことだ。ソクラテスより引用。

ボクは、塩谷と深夜の牛丼屋に
たどり着いて、本当にうれしかった。

塩谷には、57歳まで、
社会的身体をまとうことを
猶予してもいいよ。

「どうしてだい」と塩谷が
聞くから、
「カントが純粋理性批判を出版したのは
57歳」
と呪文のように答えた。
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tabi0261 小泉文夫「音楽の根源にあるもの」

リズムが生み出すネットワーク
これまで芸術音楽すなわち職業音楽家の音楽と、民俗音楽すなわち素人の音楽という区別は、その中間的なものが多く存在しているが、やはり音楽の分野で最も大きな段階的区別だと考えていたが、実はリズムなどの点からすると、むしろ芸術音楽も民謡も大したちがいはない。それより民俗音楽の中で、芸能化した民謡と、「音楽以前の歌」との間にこそ、最も大きな溝があり、そこに発達段階の上で飛躍があるように思えてきた。P32
小泉文夫「音楽の根源にあるもの」(平凡社 1994)


音楽以前の歌とは何だろう?それはリズムだろうか。そう思うと同時に沸き起こるのは、リズムは歌の前に存在するのだろうか?という問いである。これらの問いへの答えが本書にのっているわけではない。だが、大きな問いをもらうことは出来た。今まで意識していなかったが、私の周囲は様々な音楽が溢れている。そして、溢れていたのだ。相撲の呼び出し、数のかぞえ方、仕事の掛け声、芸能の中のセリフ、BGM、CM、童歌・・・。

「いい調子」という言葉には「調べ(key)」が関係している。身体、他者、風、日、地球、宇宙・・あらゆるリズムの中で、息づく(リズム)私たちを探究する上で、音楽の根源への探究は必要なことであろう。小泉氏は、生活に溶け込む音や、その音を呼び起こすリズム感を起点にしながら比較音楽論を成立させようとしている。その中でも興味深かったのは、日本音楽に見出した「追分形式」であった。

■参考リンク
第六百一夜【0601】
小泉文夫氏の「音楽の根源にあるもの」から〜西洋音楽は絶対で無い!



■tabi後記
朝から晩まで書庫に籠っていた。
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2009年08月25日

tabi0260 金子光晴「絶望の精神史」

絶望の傍でみる絶望は絶望だったのか
これからの日本人の生き方はむずかしい。一口に、東洋的神秘とよばれていた不可解な部分を、日本人もたしかにもっていた。腹切りだとか、座禅だとか、柔術だとか、芭蕉の境地だとか、それに、なにかの実用価値か芸術価値があるにしても、それ以上に神秘な、深遠なものと解釈し、日本人の精神的優位を証明する道具に使われたりすることは、日本人自身としても警戒を要することだ。それは、日本人を世界からふたたび孤立させようとする意図にくみすることにほかならない。日本人の無邪気な微笑とか、わからぬ沈黙とか、過度な謙譲とか、淫酒癖とか、酒のうえのことを寛大にみるへんな習慣とか、それがみな島国と水蒸気の多い風土から生まれた、はかない心象とすれば、日本人がしっかした成人として生きてゆくために、自ら反省し、それらの足手まといを切り払い、振り捨てなければならないのだ。そのためにこそ、日本人の絶望の症状を、点検してみなければならない。P32-33
金子光晴「絶望の精神史」(講談社 1996)


金子氏は、自らの海外体験によって日本の国内で外国文学に憧れていた連中の化けの皮がどういうものだったかを、明らかにしていく。彼らは、外国文学によって、自己を発見する方法を学びうると信じていた。そして、その自己によって、日本人である自分と、まわりにいる日本人を区別していったのだ。だが、日本人に絶望すると同時に、おなじく日本人である自分にも絶望せざるをえなかった。彼らは、サディズムの甘渋い味を知ったのである。

所感としては、金子氏の主張が了解レベルまで落ちなかった。伝わったのは、金子氏はkireているということだけだ。日本人は、どうして下らねえ輩になっちまったのかと。なんでそうなっちまったんだ。その原因はどこからきやがった。それが分ったなら、そのままででいいのかよ?と。そう静かにkireながら、その「根源」を突き止めようとしていく。もちろん、それは簡単ではない。金子氏自らが、実人生を通じて、その生き方を問わざるをえなかったからだ。根源を突き詰めるための自己言及問題である。

問われているのは、液状化する日本を「どのように」述語化するということだろう。河合隼雄さんが仰っている「中空構造」というものが、まざまざと垣間見えてくる。この代替となるのは「アジア統一」的な固体を用意することではない。むしろ液状化する国家と気体化する個人の調整であろう。ノマドのための借国という考えではないかと思う。

■参考リンク
第百六十五夜【0165】
金子光晴『絶望の精神史』を読む
309旅 『絶望の精神史』 金子光晴



■tabi後記
前回参加できなかった座禅会。あれから半年経過し、ついに参加する機会を獲得した。
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tabi0259 高山宏「アリス狩り」

若い日の自分は本当に面白い他人
ヴィクトリア朝英国への総批判としてひっくり返っていくのも、遅れて来すぎたのか早く来すぎたのか、ともかく「人類の進歩と調和」の社会風潮に置き去りにされた男の、置き去りにされることによって初めてものが見えるようになる、その視のすごみと怨みが深く根づいているがためなのである。誰もが軽薄にしゃべり散らしている傍らで、キャロルはどもるよりなく、やがて赤面して黙りこむしかなかったが、それ故にこそ、「不具の肉体が、その不具性のゆえに他に先立って見なければならない肉体や社会のさまざまな背理や暴力を言葉として対象化するとき、リズムの音楽性によってかろうじて生の恐怖として堰を破ることを耐えているナンセンス詩」、見かけの数学的論理学的に潔癖な言語宇宙の皮膚の下に言わく言いがたい怨嗟と狂気のよじれを秘めた作品ー『アリス』ーを生んだのであった。P24
高山宏「アリス狩り」(青土社 2008)


超人の処女作が新版になっていた。高山氏の研究は、ルイス・キャロル「アリス」に始まり、メルヴィル「白鯨」へと発展していく。そして本書には、彼の学士論文、修士論文が収められているが、既にして超人の様相が垣間見える。

その様相とは、テキストから醸し出されるアイロニカルライフ(隘路似加流来歩)の臭気である。氏のように博物学的知性を持つものは、澁澤龍彦が言うように、イデアに生きず、イコンに生きてるいるように感じる。

言語やカタチの束によって紡げないことを誰よりも了解しながらも、その矛盾へ言葉やカタチ投企していく。直線的ではなく、円環的な振舞いであることを分りながらも尚、関係の糸を紡ぎ合っていく。

その地平において読み手は無事ではいられない。その行為を虚しい感じるとのか、「必死だなおい」と嘲笑するのか、隘路に活路を見出すのか、「そのまま」で居続けるのか、居直るのか。ここには、どうする「の」かを問う切迫性が内在されている。だがしかし、その切迫性に焦せる「の」はイマイチだと感じている。まずは「乗」っからないことだ。

■参考リンク
第四百四十二夜【0442】
■[書物]高山宏「アリス狩り」
あらゆる知がネットワーク状に連鎖する――高山宏さん



■tabi後記
もはや、何を書いているか分らないくらいが楽しいかもしれない。「江戸はネットワーク」ならぬ「シャレはネットワーク」。笑
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tabi0258 高山宏「超人高山宏のつくりかた」

学魔を飼いならせ
まさしくパラッドクスそのものの構造。人間の頭脳また一個の図書館(究極的には四つのアルファベットの順列組み合わせで死ぬまで情報を発生させ続けるアーカイブ)なのだから、要するに人間が何かを知るとはどういうことで、それがパラドックスにならざるをえないのは何故で、たとえば文学と呼ばれている世界とそれが触れた時、確実にメルヴィルのアメリカン・ルネサンスが、ジョン・ダンの醇乎たるマニエリスムが、そして誰もが知るパラドクシスト、ルイス・キャロルがうまれざるをえまい。P33
高山宏「超人高山宏のつくりかた」(NTT出版 2007)


「超人」ができあがるまでの行程をしるした書籍。その中身は知の編集術の公開であり、汎知学の目覚めであり、学魔へいたるための「ブックス・イニシエーション」である。高山氏の本を手に取ったのは、昨晩、藤沢さんと話した内容が起点となっている。

その内容とは、井筒俊彦さんについて話す中で出現した「形而上学者と生きること」、「神秘主義者として生きること」というテーマであった。

僕は、話の枕として、この数週間は驚くほどに「主語(自我)」が欠如しているという話をした。私へ突きつけられる「最近、何をやっているの?」という問いは、非常に答えにくいものとなっていったのだ。もちろん、このような違和感は初めてではない。幾度もあったことだが、この時期ほど言葉にならない時はなかった。

言葉に詰まるというよりは、問われていることが了解できない、意味が明瞭ではないという状態であった。このように記述する方が正確であろう。そして、このような心境とは裏腹に、周りからは存在感があるように思われていた。この「開き」は何なのだろうか?それが、僕にとっての問いでだったのだ。

一つ確かだったことは、「最近、どうあろうしているの?」という問いには応えられそうという気分だった。そして、その思いが昨日頂点に達した。私が言葉に詰まっていた理由は、「無境界」という考えに根付いると直覚したからだ。

人は、深く深く思考をしていくにつれて、無意識、統合意識の領域に足を踏み入れていく。そして、深海領域で浮遊、苦悩している際に、自我(境界領域)としての振舞いを求められるのことは、気持ちが悪くなってしまうのだろう。その「開き」を理解することが出来たのは、非常に大きかった。幸いなことに、周囲からの要請に安易に飛びつくことはなく、焦りの兆候もない。

では内田は、そのまま探究を続ける形而上学者(学魔)なのか、それとも神秘主義者として、無境界のまま境界に出現する者なのか(あ、これが無相の自己か!)は定かではない。

おそらく神秘主義者であろうと思うが、今はまだまだ学びたいと考えている。飽きる果てまでやり抜きいてみたい。それが、半期留年というギフトだと考えている。通俗的な意味で「社会人」として思われるまでの時間は、あと半年間。私の場合、この間に決着がつきそうな予感がしている。

■参考リンク
第四百四十二夜【0442】



■tabi後記
高山氏は、首都大学東京を離れ、明治大学に籍をおかれている。何度か授業を聞きにいったことがあるが、実に悪魔的な授業であった。後期からの授業には出来るだけ出てみよう。
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2009年08月24日

tabi0257 ケン・ウィルバー「無境界―自己成長のセラピー論」

することなく、あるように。
誰もが正当なものとして受け入れるもっともありふれた境界線は、有機体としてのからだ全体を取り囲む皮膚の境界だろう。これは普遍的に受け入れられている自己/非自己の境界線のようである。この皮膚の境界の内側にあるものは、ある意味ですべて「わたし」であり、その境界の外側にあるものはそのすべてが「わたしではない」。(中略)だが、「あなたは自分がからだだと感じますか?それとも自分がからだをもっていると感じますか?」と聞いたとすると、ほとんどの人が車や家やほかの物と同様に、自分はからだをもっていると感じる。P18-19
ケン・ウィルバー「無境界―自己成長のセラピー論」(平河出版社 1986)


こういった状況にの下では、からだは「わたし」というより「わたしのもの」として存在する。「わたしのもの」とは定義上、自己/非自己の境界の外側にあるものである。そして人は、自らの有機体全体の一局面に、より基本的で親密なアイデンティティを感じる。それは、心、魂、自我、人格などとして知られている「小さな自己」なのである。

ウィルバーは、往々にして人は、原初の境界を探究し、破壊しようとすると語る。それは、臭いのモトを断つ!という姿勢のあらわれだろうか。だが、原初の境界は存在しないのだ。

なぜなら「自分」と呼ばれる内なる感覚と、「世界」と呼ばれる外なる感覚は、同じ一つの感覚の二つの名前だからだ。これは、そう感じるべきというものではなく、そうとしか感じられないことだと、ウィルバーは語る。なぜ、そう感じざるを得ないのだろうか?

統一意識は真の自己には境界がないという認識であり、鏡がその対象を抱擁するようにあらゆるコスモスを抱擁する。前章で見たように、統一意識の最大の障害は原初の境界である。原初の境界は外の世界の体験者としての内側の「小さな自己」という空想を生み、われわれはまちがってその「小さな自己」にのみアイデンティティをもってしまう。だが、クリシュナムルティがしばしば指摘しているように、個別の自己、「内なる小さな人間」は、すべて記憶によって構成されている。つまり、いま、このページを読んでいるあなたのなかの内なる観察者は、過去の記憶の集合体にすぎないのだ。P125
ケン・ウィルバー「無境界―自己成長のセラピー論」(平河出版社 1986)


このあたりのウィルバーの論運びは、カウンセリング体験を漂わせる。もちろん、ウィルバーやクリシュナムルティは、過去を記憶していることが悪いとはしない。彼らが問題とするのは、そういった記憶がいまの瞬間の「外」に別個に存在しているかのように、すなわちそれらが外の現実の過去の知識を含んでいるかのようにとらえ、それらの記憶との同一化してしまうという事実である。

その事実は、記憶=自己もまた同様に、現在の体験の外にあるように思わせてしまう。そうなると現在の体験である自己が、現在の体験をするようになる。これが「原初の境界」なのである。

■参考リンク
74旅 『無境界』ケン・ウィルバー



■tabi後記
この2日間で松岡正剛、久松真一、岩田寛、鈴木大拙、ドーキンスを読んできたが、今ここでウィルバーによって繋がれた。内震えるような体験が音読の響きと共に去来してきた。これから友人を連れ立って、藤沢烈さんにお会いしにいく。今日は、僕にとって素晴らしい日になりそうだ。
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tabi0256 リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」

利今的な遺伝子
本書の全体を通じて私は、遺伝子を、意識をもつ目的志向的な存在と考えてはならないと強調してきた。しかし、遺伝子は、盲目的な自然淘汰のはたらきによって、あたかも目的をもって行動する存在であるかのように仕立てられている。そこで、ことばの節約という立場からは、目的意識を前提にした表現を遺伝子に当てはめてしまったほうが便利だというわけだった。たとえば、「遺伝子は、将来の遺伝子プールの中における自分のコピーの数を増やそうと努力している」と表現した場合、実際の意味は「われわれが自然界においてその効果を目にすることができる遺伝子は、将来の遺伝子プール中における自分の数を結果的に増加させることのできるような挙動を示す遺伝子だろう」ということなのだ。P303
リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」(紀伊國屋書店 2006)

ドーキンスは、進化論の誤解釈自然主義の誤謬について触れながら、自身の著作が何を意図していないかを述べている。この部分を読み過ごすと、「ドーキンスは、生物は遺伝子のためのサバイバル・マシンであるとみなした」という予断がかかってしまうのだ。

確かにドーキンスは、生物は遺伝子の乗り物(ヴィークル)にすぎないと言っている。そして、このキャッチフレーズが、人々の「ドーキンス像」にいくぶんかの「まやかし」が入ってしまったのだろう。盲目的にプログラムされているのはわれわれだけではなく、地上の生物のすべてであると彼は説明しているが、ドーキンスがこの本で一番説明したかったことは「協力はいかに進化したのか」ということなのである。遺伝子が利己的であることなど、ドーキンスにとっては当然すぎることだったのだろう。

ドーキンスは、第三版のまえがきに、「人生を生きるに値する温かさを、科学が奪い去ると言って非難するのは、途方もなく馬鹿げた間違いである」と言う。彼はその後に、こう説明する。

おそらく、宇宙の究極的な運命には目的など実際に存在しないだろうが、われわれのなかで誰であれ、人生の希望を宇宙の究極的な運命に託す人間など本当にいるのだろうか。もちろん、正気であれば、そんなことはしない。われわれの生活を支配しているのは、もっと身近で、温かく、人間的な、ありとあらゆる種類の野心や知覚である。
 
■参考リンク
第千六十九夜【1069】
分かりやすさという罠「利己的な遺伝子」



■tabi後記
ドーキンスを問いとして捉えるのは、本来の意図とずれるのであろう。問いとしてもつのなら、「あなたは一個の生命ですか?」になるのでしょう。
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tabi0255 松岡正剛「遊学の話―すでに書きこみがある」

未分化の復権を願いて
一本のカラスムギの根毛の総長は地球を一まわりするという。おそらく朝顔とて同じだろう。そのような朝顔というたったひとつ現象から、われわれは何を語りうるかといえば、きっと何もかもを語りうるにちがいない。植物学はむろんのこと、生物や生命について、土や地質学について、さまざまな化学反応について、ゲーテが全力を傾注した原植物と形態学について、そこから文学史や形態学の発展史に広まることなどについて、また、花の文化史や色の文化史について、朝顔を詠んだ多くの俳人について・・いくらだって、ある。僕が「遊学」と呼んでいるところのものは、このように一本の朝顔でさえ全宇宙を必要としているということだ。これを別の言い方にすれば、宇宙を語るのに天体望遠鏡がいらないこともあれば、朝顔を語るのにも天体望遠鏡が必要だということでもある。P271
松岡正剛「遊学の話―すでに書きこみがある」(工作舎 1981)

私たちは、太陽を肉眼で見て、ゆっくり動いているとおもっているが、太陽は実はものすごい速さで動いている。地球ですら毎秒30kmの猛スピードですっ飛ぶ球塊である。見えているものを見ないこと、そして見えていないこと見えていることの繋がりに敏感でいたい。地球が自転・公転していることが、私のサーカディリズム、心臓・呼吸のリズムへの影響に多感であるかもしれない。

話しは飛んでしまうが、日本人の宗教意識について触れてみたい。一般的に日本人は、「あなた宗教は何ですか?」と問われて、神道か仏教か儒教かと答えることは出来ない。この事態は、宗教的混乱なのだろうか?私はそう思えない。むしろ、どこかで「何かが合成されてしまっているのではと思うのであろう。

私は、その何かを探究し、深化していくことに「東洋的見方」のアプローチがあると考えていたが、松岡氏はこのアプローチの深化には難しさをみている。まず、岡倉天心や鈴木大拙のように「東洋のイデア」という統一性をもつには、政治形態の違いに留意する必要がある。そして、この方法は挫折していくと、カリフォルニアが騒ぎ立てた「東洋への道」に堕ちていった事へ繋がっていくからだと語る。



■tabi後記
更に気になることは、日々、ハトやカラスを多量に見ているのに、彼らが大量に死んでいるのを見たことがないことだ。これは一体なぜだろうか?と考える。

一体、彼らはどこで死んでいるのか!
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tabi0254 鈴木大拙「東洋的な見方」

妙なるもの
東洋の人は、すべて何ごとを考えるにしても、生活そのものから、離れぬようにしている。生活そのものに、直接にあまり役立たぬ物事には、大した関心をもたぬのである。そうして、その生活というのは、いわゆる生活の物質的向上ではなくて、霊性的方面の向上である。
それゆえ、この方面を離れないように、物事を考えて進む。庭を作るにしても、何か心の休まるように、品性の高まるようにと構想を立てる。音楽を学ぶにしても、それがどれほど、その人の霊性的面に利することあるか否かと考える。絵をかくにしてもまた然りで、古人は胸に万感の書を収めておかぬと、ほんとうの絵はかけぬといった。美というものは、霊の面から見るべきで、単なる抽象的美をのみ云々すべきでないのである。P29-30
鈴木大拙「東洋的な見方」(岩波書店 1997)


「東洋的」という言葉を聞くと「西洋的」を想起しています。まず行なわなければいけないことは、この想起の基になっている「地理・風土」という分節単位を滅することであろう。大拙が用いる「東洋的」という言葉は、その実践であろう。彼が示したのは、人に内在する思考形式の1つの形である脱思考の現れである。

それが、大拙は世界の只なかで「無分別の分別」を説いたことになる。彼は、西洋世界に対しては、「分別ではない無分別の分別」を挙揚し、翻って伝統世界に対しては「無分別ではない、無分別の分別」と強調するのである。限りなく相反する概念の中で、のたうち回りながら、圧倒的な実在感を感得すること。それこそが「自由」であると、大拙は語る。

■参考リンク
275旅 『東洋的な見方』 鈴木大拙、上田閑照(編者)
半死半生というより六死四生
松岡正剛の千夜千冊『禅と日本文化』鈴木大拙



■tabi後記
ICCにてグループワークをした際に起点となったのは、参加者と切り離されたところでRTDやらないでよー、でした。RTDに気をとられるあまりにワークへ没頭できない不満。RTDに参加したいのに出来ない不満。この2つが出ましたが、これらはRTDへ主眼があてられすぎた余りに起きたのかもしれません。
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2009年08月23日

tabi0253 久松真一「東洋的無」

精神的東洋を索めて
仏教の本質的関心は、人間界がいわんや国家がいかに向上発展するかにあるのではなくして、人間界がいかに棄揚されるかにある。したがって、ここにまた、仏教的批判の根本義がなければならぬ。すなわち人間棄揚の立場から、人間が解脱的であるかどうかを批判するのが、仏教的批判の本質でなければならぬ。ただ、人間の立場に立って、人間の歴史的発展を顧慮し、批判するのみならば、仏教的批判とはいわれない。もしそのような批判ならば、道徳的批判となんら択ぶところないであろう。P208
久松真一「東洋的無」(講談社 1987)

「絶望した私が私自身を救う」ということがある。久松はこのようなプロセスを通れば、無は複雑性であることすら感じられるようになると見た。それが「無相の自己」(formless self)というものがあらわれる瞬間であろう。

無そのものが相貌をあらわして、それを自己とみなせる気分に包まれる。これは主体的無ではなくて、無的主体なのであろう。自身が無の底を割って出湧した自己なのである。それゆえそこには、深さ、広さ、長さの次元が同時にあらわれてくる。

「無相の自己」(formless self)は、近代的自己像と闘いつづけてきた西の哲学の成果に、いまなおクサビを打ちこみうる数少ない「東の溌無」なのだろうか。

■参考リンク
第千四十一夜【1041】



■tabi後記
ICC「学びのテクノロジーとデザイン」に参加してきました。農業の領域では、地産地消に拘りすぎることが、コスト高や環境負荷の悪循環へ入ってしまうことがある。リアルタイムに拘りすぎることにも類似するものが見えた。逆に言えば、そこから、解消のアナロジーも同時に見える。
posted by アントレ at 23:23| Comment(1) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0252 岩井寛「森田療法」

生の欲望こそ自由
「あるがまま」とは、事実をそのままの姿で認めるということである。たとえば、苦手な上司と面接をしなければならないときに、会って自分の構想をよりよく披瀝しようと考える一方で、あの上司は苦手だからなんとかその場を繕って逃げてしまいたいという考えも浮かぶ。これは両者ともに、その現実と直面している人間の欲望なのであって、一方では、苦しくても自己実現をしたいという欲望と、他方で、苦しいから逃避をしたいという欲望と、両者ともにその人に付随する人間性なのである。P13
岩井寛「森田療法」(講談社 1986)

神経質(症)者は、理想が高く、"完全欲へのあらわれ"が強いために、常に"かくあるべし"という理想的志向性と"かくある"という現実志向性が衝突してしまう。そして、その志向性が乖離するほど、不安、葛藤が強くなってしまうのだ。

森田療法はこのような状態に対して、心の不安を「異物」として除去しようとせず、そこに日常とのおおらかな連続性を容認するところを基礎とする。よく知られるフロイディズムとは、依って立つところが大きく異なる。

岩井氏の考え方は、森田療法にすべてに一致しているわけではないが、「あるがまま」の気持ちこそが不安の異常な増幅を解消しうるとする。"かくするしかない"という低きにつことする欲望を"そのまま"にして、もう一方の"かくありたい"という自己実現の欲望を止揚していこうとする欲望の方向性を考えるのである。

■参考リンク
Report 本に溺れて浮いてみる



■tabi後記
本書は、岩田氏が死の間際にいながら口述で完成したもの。終末に出てくる「生きることの自由とは、意味の実現に賭けることなんです。」という言葉の重さを感じる。

周りからは「無理をしないで辞めたほうがいい」という心配の声、「そこまでして名誉がほしいか」という非難の声があったようだ。しかし、どの言葉も岩田氏にとって「あるがまま」ではなかったのだろう。
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2009年08月22日

tabi0251 松岡正剛「神仏たちの秘密」

マレビトは目撃されるのか。
誰だって、好きなものがいろいろあります。きっと、たったひとつのジャンルのものを限定して好むということは、めったにないと思います。でも、「たくさん」という状態をそのまま保つことは案外難しくて、たいていそれらはジャンルというものに分けられて、「どういうジャンルの音楽が好きだ」とか「これこれのジャンルのアートが好きだ」といったところに追いやられていってしまう。
そこをそうしないで、なんとかもう一度述語化してみる。好きなものがあれば、それをさまざまに言い換えてみる。そこからもう一度主語に戻していったときに、今度は沢山の主語が騒然と立ちあらわれていくはずです。P83
松岡正剛「神仏たちの秘密」(春秋社 2008)


松岡氏は、日本には「アワセ・ソロイ・キソイ」という方法があると話します。「アワセ」(合わせ)は二つのものを合わせること、「ソロイ」(揃い)は合わせたものを揃えていくことをあらわします。さらにそこに比較がおこると「キソイ」(競い)になるのです。

この方法で大事なことは、最初に競争や闘いがあるのではなく、まず「アワセ」のための場があるということでしょう。逆に、「アワセ」がないと、場が成立しない。そこからキソイが生まれ、同型・同質ではなく、不揃いでありながらソロイ(揃い)をしていくのが日本流なのでしょう。

追記
本書収録の3回は、それぞれこんなタイトルで開催されたそうです。

第1講 笑ってもっとベイビー 無邪気にオン・マイ・マインド
第2講 住吉四所の御前には顔よき女體ぞおはします
第3講 重々帝網・融通無礙・山川草木・悉皆成仏

本書では、さらにそれぞれの回にサブタイトルがつけられています。こっちをみると、それぞれの回でどんな内容が話されたか、すこし想像できるようになってきます。

第1講 外来文化はどのようにフィルタリングされてきたか
第2講 日本にひそむ物語OSと東アジア世界との関係
第3講 仏教的世界観がもたらした「迅速な無常」

■参考リンク
シリーズ「連塾…方法日本」:『神仏たちの秘密』特集ページ|春秋社
松岡正剛の千夜千冊『てりむくり』立岩二郎
松岡正剛の千夜千冊『神々の猿』ベンチョン・ユー
連塾・方法日本1 神仏たちの秘密―日本の面影の源流を解く/松岡正剛
864旅 松岡正剛『神仏たちの秘密 日本の面影の源流を解く』
華厳の思想/鎌田茂雄



■tabi後記
無事NewRINGへの提出が終了した。
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2009年08月20日

tabi0250 高橋克己/松岡正剛「神秘と冗談」

神秘は降りぬことなく、傍らにあり。
松岡:なるほど。その「外にあるものと一緒に走ろうとする覚悟」ですか、それはすごくよくわかる。大切ですね。自分一人で自己瞑想の中で突進してしまうのではなくて、たまたまそこにあるモノたちや気配たちを伴って走る。決して簡単なことではないけれど、それができないとメディテーションという営為はふたたびフロイトの"エス"に戻ったりしてしまう。(中略)

高橋:場所から見離されてしまう。

松岡:まったくそういうことです。自身の心的瞑想状況が「場の濃度」としてスタートせずに、最初っから「場からの自立」になってしまう。いま、大変なヨーガ・ブームや密教ブームが押し寄せつつあるけれど、この「場との同時的伴走力」がだんだんと軽視されているようにおもう。今日の話のはじめの方でも出たけれど、いわゆる"サイキック・マスターベーション"に陥りかねない。P94-95
高橋克己/松岡正剛「神秘と冗談」(工作舍 1979)


笑いについて。本書を読みながら考えたのは、笑いは間に合わせであるということだ。一体何の間に合わせなのか。笑いは、ある人物(ヒトモノ)が、自らの内側(本質/実存/恥部・・)を外側に開いている(曝している)にもかかわらず、私は、その「内側のはかなさ」に答えられないでいる事態への応対、つまり、答えたい何かが裏返って表出してしまったもの。それが、笑いではないかと思うのだ。

アンドレ・ブルトンが「ナジャ」の最終行で「美は痙攣的なものであるにちがいない。さもなくば存在しないであろう」と語っているが、この表現には目眩はあるが、儚さが存在しない。しかし、人はブルトン以上の事が上手く言えないのだ。その時に起きるのが笑いではないか。「そうではなく・・・」の「・・・」が表出された結果であろうと考える。この文章が「神秘と冗談」に結びついているかは定かではない。



■tabi後記
アルファベット27文字で構成される宇宙に甚だ驚きをもつのだが、母語がもちあわせる表意+同音異義語という構成にも同様の驚きがある。そして、いささかの執着がある。
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tabi0249 佐治晴夫/松岡正剛 「二十世紀の忘れもの トワイライトの誘惑」

一メートルで一挙に宇宙を
佐治:たとえばご飯を食べると、口の中にいれて噛むのは自分なんだけど、喉を通ったら私はコントロールできないわけです。誰もが喉を通してご飯を食べ、おいしかったといって生きている。でも、自分ひとりで生きているわけではないということは、もう当たり前のことなのに、「生きるぞ、生きるぞ」と歯を食いしばっている姿は間違っていると思うんですね。

松岡:そうですね(笑)。もうひとつはね、やっぱりこれは現代病だなという気はしてるんですけど、「全体」について何か研究すればすむという病気がはやってるように思うんです。

佐治:安心するんでしょう、「全体」を見ることでね。

松岡:ええ。日本のいまの病気も「グローバリゼーション」とか「国際化」とかいう言葉を使いますが、これはちょっとダメだと思いますね。そうじゃなくて、ちょっと個別でフラクタルで、フラグメントなものひとつで、十分に「全体」と拮抗するものを見出さなければいけない。それが宇宙論であり、生命論だと思うんですね。

佐治:おっしゃるとおりです。だからそこで考えると、どちらかというと東洋的な考え方の中に、そのひとつのヒントがあるということになりますね。

松岡:そうですね。「路傍の石でも語れる」というところ。P312
佐治晴夫/松岡正剛 「二十世紀の忘れもの トワイライトの誘惑」(雲母書房 1999)


目、鼻、耳、口、首、腕、足・・・といった単位で私は形作られない。私は、自分の顔さえ見ることは出来ない。常に「あなたに対してのあなた」であり続ける。

佐治氏と松岡氏には、そのような剛質なフィジカルイメージを破棄したがる。そして、よりナイーブなフィジカルイメージを追求していく。それが面影であり、片割れであり、ウツロウものであろう。このような追求の根底には、「困惑に対する喜び」があるのだろう。

それは「あなたは一個の生命ですか?」という問いを楽しむことと同義である。木を切ることは、人の肺を切ること。自己という一つの束に過ぎないことを「感じてるか」だろう。生命はひとつではない。

あなたの体内に大腸菌が何億いるのだろうか?サナダムシだっているかもしれない。そして、いろんな微生物が生きている。ひとつひとつの細胞だって生きている。それでも尚、自分に拘らせるものは何か?あなたをそうさせるものは一体何にか。そこから探究ははじまる。

■参考リンク
二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑/佐治晴夫、松岡正剛
アニミズムすぎるくらいがほんとうのアフォーダンスでは?



■tabi後記
半径一メートルで一挙に宇宙を語ること。確かに容易なことだ。
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tabi0248 タモリ/松岡正剛「愛の傾向と対策」

思想の猫背をやっつけたい
セイゴオ―今日、どうしても知りたいのは、なぜ、コトバに挑戦したかという一点に尽きるんだな。

タモリ―かんたんに言えば、理由はコトバに苦しめられたということでしょう。それと、コトバがあるから、よくものが見えないということがある。文化というのはコトバでしょ。文字というよりコトバです。ものを知るには、コトバでしかないということを何とか打破せんといかんと使命感に燃えましてね。

セイゴオ―苦しめられた経験とは?

タモリ―ものを知ろうとして、コトバを使うと、一向に知りえなくて、ますます遠くなったりする。それでおかしな方向へ行っちゃう。おかしいと思いながらも行くと、そこにシュールレアリスムなんかがあって、落ち込んだりする。何かものを見て、コトバにしたときは、もう知りたいものから離れている。

セイゴオ―そうね、最初にシンボル化が起こっていて、言語にするときは行きすぎか、わきに寄りすぎてしまってピシャッといかない。ぐるぐる廻る感じです。ヴィトゲンシュタインがそれを「コトバにはぼけたふちがある」と言った。

タモリ―純粋な意識というのがあるかどうかは知らないけど、まったく余計なものをはらって、じっと坐っているような状態があるとして、フッと窓の外を見ると木の葉が揺れる。風が吹くから揺れるんだけど、それがえらく不思議でもあり、こわくもあり、ありがたいってなことも言えるような瞬間がありますね。それを「不思議」と言ったときには、もう離れてしまっている感じがするんですよ。ほんとうは、まったく余計なもののない、コトバのない意識になりたいというのがボクにある。ところがどうしても意識のあるコトバがどんどん入ってきてしまう。それに腹が立った時期があるんスね、そのあと、コトバをどうするかというと崩すしかない。笑いものにして遊ぶということでこうなってきた。

セイゴオ―なるほどねェ。遊ばせていくしかない。P20-21
タモリ/松岡正剛「愛の傾向と対策」(工作舍 1980年)


本書は、ネクラがネアカへ挑戦し続ける軌跡である。タモリは、意味レスとプロレスしてきたのだ。フロイトもニーチェもブルトンも、何もかも暗い。このような「思想の猫背」を退治するために、タもリは意味レスを追求していく。

時が経つにつれて、その営みは「芸」と呼ばれるに至ったが、タモリは、芸自体が意味的に捉えられぬようにしている。そして、そのように予防すること行為からも解放することを目論んでいるように思えた。複雑な構図(実はシンプルすぎる)の中で楽しんでいく人間を垣間みることが出来た。

タモリの多国語 アフリカ編


■参考リンク
愛の傾向と対策って
イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽
寿司とタモリ



■tabi後記
1つ迷言を発見した。言葉は口から出る糞である。手に唾をつけて擦ると臭いのはその証拠である。(松岡正剛)
posted by アントレ at 08:13| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月19日

tabi0247 マーク・ベニオフ/カーリー・アドラー「世界を変えるビジネス」

横並びCSR(責任)から戦略CSR(機会)へ
企業は事業を行う地域社会に対して惜しむことなく継続的に、支援しなければならないということである。この要求に対して多くの経営者は、それは理想主義だと反論する。彼らの考えをまとめると、企業は効率的に事業を行い、無駄なく経営資源を活用し、雇用および商品・サービスを提供することで、健全な経済を支えている。それだけで十分社会に価値を提供している、というのである。(中略)世の中はもはやそれほど単純ではないということである。(中略)企業の社会貢献活動が、企業収益という点からみて正しいかどうかという議論は、すでに終わりました。それは市場が証明しています。市場、企業が善良な市民かどうかを重視しています。P8
マーク・ベニオフ/カーリー・アドラー「世界を変えるビジネス」(ダイヤモンド 2008)

06年にマイケル・ポーターが「“Strategy and Society: The Link Between Competitive Advantage and Corporate Social Responsibility”」という論文を出したことから、本書に登場するような流れが一層強まった。とはいえ、Corporate Social Responsibilityという言葉を聞いて、嬉々と行なう人はいないだろう。そこでポーターは、責任を「義務」と捉えるのではなく、「機会」としての責任と捉えようと提案する。

企業の責任は「よい製品・サービスの提供」することに尽きる。独自のポジションを築き、市場競争に生き残ることが目的となる。それがあって「雇用創出・維持」「税金の納付」などが行なわれるのだから。「地球環境への配慮」は製造過程における環境負荷の削減であり、「適切な企業統治と情報開示」「誠実な消費者対応と個人情報保護」などは「よい製品・サービスの提供」に内包さてる事項である。CSRというのは経営概念の拡張なのであって、ことさらに強調するまでもないのではないかと考える。

今の時代は「ボランティア活動支援などの社会貢献」「地域社会参加などの地域貢献」「安全や健康に配慮した職場環境と従業員支援」といったものが、拡張概念になっている。こういった活動を行う組織に、セールスフォース、パタゴニア、ホールフーズマーケット等が存在するが、企業人を社外ボランティアに行かせることが、どのように本業に結びつくかどうかは、頭を使って検証していく必要があるだろう。

■参考リンク
Days like thankful monologue



■tabi後記
「驚かすこと」と「意表をつくこと」の区別は、人を聡明にすると考える。
posted by アントレ at 22:10| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月17日

tabi0246 ジョン・エルキントン/パメラ・ハーティガン「クレイジーパワー」

Boys be Crazy
グローバル企業は今、影響力のある社会・環境起業家を血眼になって探している。なぜだろうか?理由はおもに三つある。一つ目は、マーケット情報を得るためだ(社会・環境起業家は、市場のリスクと機会を測る敏感なバロメーターとなる)。二つ目は、人材の維持と開発に役立つからだ(成功した起業家とともに仕事をさせることが、社員の定着率や能力開発の向上につながると考える企業が増えている。たとえば、大手コンサルティング会社のアクセンチュアなどがそうだ)。三つ目は、最近の世界経済フォーラム(ダボス会議)で、あるCEOが率直に言ったように、「人気のある人と協力していることを世間にアピールしたい」からだ。P21
ジョン・エルキントン/パメラ・ハーティガン「クレイジーパワー」(英治出版 2009)

本書は、劇作家のジョージ・バーナード・ショーの言葉から始まる。

「常識のある人は、自分を世間に合わせようとする。非常識な人は、世間を自分に合わせようとする。ゆえに非常識な人がいなければ、この世に進歩はありえない」

この言葉に従って、本書で取り上げる社会・環境起業家は「非常識」な人間ばかりだとしていく。その代表例として上がってくるのが、ムハマド・ユヌスである。

彼は、2006年にノーベル平和賞受賞であるが、数年前、自分を含めた社会起業家のことを「70%クレイジー」だと言ったという。実際、他の起業家の多くも、友人や家族にさえ「クレイジー」呼ばわりされている。クレイジーとは有能の裏返しだ。

彼らは、解決困難なことに(解決する事とも思われていないことに)ソリューションを模索し、見つけてくる。普通の人ならリスクの大きさに怖気づく状況の中で、成功と失敗という対義語はなく、両方とも学習であると考えるのだ。つまり、学ぶ人がいるか、学ばない人がいるか、その違いでしかないのだろう。起業家は、生まれながら起業家である。という言葉には、ウィルソン・ハーレルを彷彿させるものがあった。

■参考リンク
753旅その1 ジョン・エルキントンほか『クレイジーパワー』
753旅その2 ジョン・エルキントンほか『クレイジーパワー』
海外MBAの新しいマネジメント教育、志向性の潮流@WSJ



■tabi後記
久々に大学図書館へ行ってくる。僕が借りようとする本の書庫率が増してきた。開架で借りれるような書籍を選んでいるようじゃ「まだまだ」なのかもしれないなあ。
posted by アントレ at 20:03| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月16日

tabi0245 松岡正剛「日本流―なぜカナリヤは歌を忘れたか」

多様の一途、一途の多様な国のこと
ようするに、ひとつのものから二つの相反するものや相対するものが出ているのです。いわば「一」から「一、一」が出ているのです。これはまさに日本流です。
(中略)
こうした一対の発想を進めるにあたって最初にヒントになったのは、私の母の学校の先生であった美術史家の源豊宗さんと親しく話せるようになったときに、「あはれ」と「あっぱれ」というのは公家と武家とが一対であるように、もともとは一対の言葉なんだよということを教えられたことです。
ここから先は一瀉千里というほどではないですが、次々に日本にひそむ一対が見えてきた。人々の生活にさえ「ハレとケ」があったということ、文字には「真名と仮名」があったということ、宮廷建築には「唐様の朝堂院と和様の清涼殿」があったということ、こういうことがやっと目の前を横切りはじめたのです。P234
松岡正剛「日本流―なぜカナリヤは歌を忘れたか」(朝日新聞社 2000)

まず、日本は多民族国家であり、大きく分けて空間的には東西二つの(あるいは琉球、アイヌも含めて四つの)文化圏と、時間的には縄文、弥生、古墳、平安、鎌倉・・・などの文化が複合的に組み合わさった立体的な文化の座標軸があり、その上をネットワーカーと呼ばれる、例えば出家者・遁世者、職人・芸能者などの遍歴民、遊行者などが動き回ったことで文化が混ざり合って出来ているという考察がある。

この考察に基づいた上で、日本における「多様の一途、一途の多様」と称する姿が起ち現れてきたようだ。松岡氏が、一対の構図を捉えた契機、「この一対を生み出す元々の分光器は何のなのか?」という問いをもちはじめた起点が記されている。その問いに対する思考は、「遊行の博物学―主と客の構造」でみてとれる。

「序章 歌を忘れたカナリヤ」で参照されている童謡






■参考リンク
Kousyoublog



■tabi後記
代々木公園で「新たなプロボラの形を提案する」というグループワークを催してきた。出会い系にインセンティブを求めるプランが多かったが、いくつかのアイデアは思考を刺激するものとして参考になった。個人的には、もう少し準備しておけば良かったなあと。
posted by アントレ at 19:32| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0244 道元「典座教訓・赴粥飯法」

食の根拠を問うていくこと。
十五 五つの瞑想

遍槌を聞くを候ち、合掌し揖食して、次に五観を作す。
一つには、功の多少を計り彼の来処を量る。
二つには、己が徳行の全欠をはかって、供に応ず。
三つには、心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。
四には、正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんが為なり。
五には、成道を為の故に、今此の食を受く。P193
道元「典座教訓・赴粥飯法」(講談社 1991)

訳文:

食事が全員にいきわたった合図の遍食槌が聞こえたら、合掌し、食事に対して頭を下げ、次に五つの事柄について心にえがき反省する。

一つに、目前に置かれた食事ができ上がってくるまでの手数のいかに多いかを考え、それぞれの材料がここまできた経路を考えてみよう。

二つに、この食事を受けることは、数多くの人々の供養を受けることにほかならないが、自分はその供養を受けるに足るだけの正しい行いができているかどうかを反省して供養を受けよう。

三つに、常日ごろ、迷いの心が起きないように、また過ちを犯さないように心掛けるが、その際に貪りの心、怒りの心、道理をわきまえぬ心の三つを根本として考える。食事の場においても同様である。

四つに、こうして食事を頂くことは、とりもなおさず良薬を頂くことであり、それはこの身が痩せ衰えるのを防ぐためである。

五つに、今こうやって食事を頂くのには、仏道を成就するという大きな目標があるのである。

以上が、引用文の訳(P194)である。

近藤正晃ジェームスさんのインタビューを聞き直すと、精進料理の話しが出てくる。近藤さんは、学生時代の座禅体験が食への意識を問いなおす契機になったという。

そこで問われた事は、

・あなたのために植物を殺してきました。
・この植物が喜んであなたに命を捧げたいと思うことをしていますか?
・もしそれだけの価値を出しているなら、堂々とお食べ下さい。
・ところ、あなたは、他の命の食べ物になる気はありますか?
・肉を食べたいなら、せめて自分で殺して下さい。

というものであった。これは本書の内容に通じる内容である。

私は、ベジタリアンでも、マクロビオティックの実践者でもないが、周囲がそのように変化してきていることをヒシヒシと感じる。「食」への態度を確立することは、生命哲学を持論化することと類似するのだろう。もちろん、哲学を重苦しく考えずに、単純に実践している人こそが、長続きするのかもしれません。

食事五観之偈
gokannoge.jpg
過を離るることは貪等を宗とす

■参考リンク
tabi0126 南直哉「日常生活のなかの禅―修行のすすめ」
新社会人が読んどけと思う本のリスト
風を待ちながら・・・



■tabi後記
Twitterでつぶやきをすると「朝トモ」がいることに気がつく。AM4-5時に起きている人は、意外といるみたいだ。
posted by アントレ at 06:38| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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