2009年08月15日

tabi0243 十川 治江/松岡 正剛 「科学的愉快をめぐって」

ゆるい因果律・にじんだ対称性
松岡ーただ、僕がこれ以上説明できないのは、エピクロスのイメージが、あまりにも凝縮力が強くって、いろいろなものに応用できない。ふつう、僕の思考方法というのはグラフィク・デザインを見ようと、映画を見ようと、物理学を見ていても、それが直ちに他のものの良さに繋がるというので「ほうっ」と感心できるわけね。一人で悩まないで済んだ、解き放たれたなと思う。エピクロスにはなかなか他のものが棲みつかない。だから少し時間がかかると思っている。
実感としてはね、ミシンの先のようなものが「チュチュチュッ」と、細くて覚束ないながらもシャープにキックするようなフィジカル・イメージがある。さっきの喩えでいえば、ミルクのパックのような量子の中で「チュチュチュッ」とキックしている。こんなでたらめな印象だったら言えるんだけれども。(笑)P94
十川 治江/松岡 正剛 「科学的愉快をめぐって」(工作舎 1979)

・科学には厳密がお似合いだ。
・厳密の裏側には不思議が眠っている。
・愉快な科学を巡るため、不愉快な科学を裏返えそう。

このような企図がそこかしこに潜んでいる。

私にとって科学は愉快なものだったか?それが最初に浮かんできた問いである。

科学との出会いは、理科の授業だろうか。僕はこのあたりを想起することが出来ない。いささか想像力にかける。

私が今でも覚えていることは、小学校低学年のことだ。そのときの私は、ガスコンロでトイレットペーパーを燃やすという「偉大なる実験!」をしていた。何度も、何度も燃やしてみたが、一向に燃えない気配がない。僕は「燃えないことがあるのかもしれない!」と言っていた気がする。

その時に声をかけてくれた方は誰だったろう。担任、教頭、校長だろうか。ここは全く思い出せない。声の主は不在である。だが、声だけは私の中にのこっている。

「いや、燃えないということもある」

誰も聞き取っていなかった言葉だけれど、僕の中では確かに残っている。そして幾分か救われた気がした。

僕が、公教育へお願いがあるとすれば、科学哲学と歴史哲学とゲーデル数学の基礎を教えてほしいくらいだ。それを聞かないと、目が輝けない子供がいるはずだから。

■参考リンク
MILBOOKS
第一夜【0001】
第五十四夜【0054】
第六百六十夜【0660】
第八百二十八夜【0828】



■tabi後記
改めてSkypeが便利だと思う。私のSkype IDは「uchida0917」です。
コンタクトとれていない方、気軽に申請下さい。
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tabi0242 W・チャン・キム/レネ・モボルニュ「ブルー・オーシャン戦略」

Shape!Shape!!Shape!!!
差別化と低コストのトレードオフを解消して、価値曲線を刷新するためには、次のような四つの問いを通して、業界のこれまでの戦略ロジックやビジネスモデルに挑むとよい。
●Q1 業界常識として製品やサービスに備わっている要素のうち、取り除くべきものは何か
●Q2 業界標準と比べて思いきり減らすべき要素は何か
●Q3 業界標準と比べて大胆に増やすべき要素は何か
●Q4 業界標準でこれまで提供されていない、今後付け加えるべき要素は何か P51
W・チャン・キム/レネ・モボルニュ「ブルー・オーシャン戦略」(ランダムハウス講談社2005)

ブルーオーシャン戦略(バリュー・イノベーション)を実現するためには「低コスト」と「差別化」が同時に実現することが大切になる。

ピクチャ 1.png
BOS Concepts, Tools & Frameworks

それを実現するためのフレームワークとして「戦略キャンパス」、「四つのアクション」、「6つのパス」が用意されている。引用で取り上げた「四つのアクション」は、仕組みはモノやサービスに対して、

1. すっかり取り除く要因は何か?(Eliminate )
2. 大胆に減らす要因は何か?(Reduce)
3. 大胆に増やす要因は何か?(Raise)
4. 新たに付け加える要因は何か?(Create)

という問いをもつことが、戦略キャンバスを描く上での助けになります。

ピクチャ 3.png
BOS Concepts, Tools & Frameworks

人は、青い鳥と青い海を求めて旅立っていくのだろうか。コップ一杯のインクを海にたらし、均一になるよう海をかきまぜて、海の水をコップ一杯取り出したときに、もとのインクの分子は何個コップに入っているだろうか?という問いがある。

この比喩を青い海にも適応してみよう。青い海には、赤いインクが入ってくる。それは、気づかぬ内に一滴ずつ入ってくるのだろう。その気配を察知するためには、海の水をかきまぜ続けることと、海を泳ぐの止め、コップを取り出し、海を掬うことが大切になってくる。ここで考えられたのは、変化と止観という相矛盾する2つの視点である。

■参考リンク
戦略的コスト構造を武器に
不況は起業に有利か?/哲学的起業家の可能性
ブルーオーシャン戦略の4つのアクション
厳選書評ブログ



■tabi後記
午前は上野公園、午後は清澄庭園でお話をする。合間合間に溜まっていた物事をこなすことができた。TODOリストは、HAVE TO DOリストではなくWANT TO DOリストとしてこなしくのが大事。
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2009年08月14日

tabi0241 松岡正剛 「遊行の博物学―主と客の構造」

風のスサビ(荒び/遊び)。凝固と気化を反復するように。
私が本書のそこかしこで考えてみたかったことは、こうした主客の構造が、日本においてはしばしば反転や転移、あるいはソラリゼーションをおこしているということである。それは「手前」という自分をあらわす卑下した言葉が、急に語調を荒げた「てめえ!」という相手をあらわす言葉になってしまうという、この日本人ならたいがいが知っている逆転用法に顕著にあらわれている。あるいは、先にのべたような大事な客が来ると、自分の席をゆずって勧めるという行為によくあらわれている。P409
松岡正剛 「遊行の博物学―主と客の構造」(春秋社 2000)

本書は、遊びやスサビの奥にウツという考えがあること。それが現実になって、うつろっていくことに注目しています。

「アソビ」というものの奥には「スサビ」(遊び→荒び)があり、「スサビ」が「アソビ」をつくって日本を動かしたという点がユニークです。さらにそのアソビが「数寄(スキ)」という考えへウツっていくことを示唆しています。

また、さまざまなところにムスビをつくり、そのムスビ同士を結んで全体として動いていたことを「中世ネットワーク社会=贈与経済」と記している箇所は、現代へのアナロジーとして捉えられることも多いと思います。

このような思考を辿るにつれて、人々はそういった文化を持ちながら、頭巾をかぶり、杖を持ち、箱を持ち、そして江戸社会になれば印籠を持って動いていたのか?と問うようになった。

いやむしろ、ここにはコトバの用法を考える必要があるのかもしれない。◯◯風や風土,風味,風俗は、文化を規定するコトバとして用いられているが、「風のようにウツろいゆくこと」自体を捉えるのは如何にして可能なのか。

ウツ(ウツツ/ウツロウ)をウツワ(コトバ)へ入れるというより、ウツがウツワへ隠れてゆく、逃げてゆくプロセスとして捉えながら、問うていくのが気分的に良い。

■参考リンク
[第10談]「ここから日本文化論が出遊する−本書の位置と意味」
[第11談]「遊行を語るマルチメディアへ−本のかたちを手法とアイテムで超えていく」
遊から遊へ



■tabi後記
以前から企画されていた、安斎ゼミ秋月電子通商フィールドワークが実行されることになった。メイドカフェへのフィールドワークも行なわれようなので、楽しみにしている。
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2009年08月13日

tabi0240 杉浦康平 「文字の美・文字の力」

人々が気づかぬ場所にひっそりと現れ、棲みつく文字
いま、多くの文字は、パソコン、携帯メールやTVの画面…などの中に収まり、書くものから見るものへ変わりつつあります。
だが文字は昔から、書いたり刻んだりして記すもの、「身体を動かして生み出す」ものでした。漢字は象形文字だと言われますが、その成立過程を考えてみても、自然の風景を写しとる、動物の姿を書き記す、人間のたたずまいを表現する…といった身体的な行為が文字のかたちの背景に潜み、文字に生気をあたえています。
(中略)
もう一つ、文字にとって大事なことは、「声の乗り物」だということです。ただ単に目で見るだけでなく、人間の音声をも写しとるものでありました。
文字は黙っていない。叫びを発しています。P4
杉浦康平 「文字の美・文字の力」(誠文堂新光社 2008)

手足をのばし、声をのせて踊り出す文字。

呪力あふれ、霊気をはなつ文字。

本書は、思いがけないふるまいで、眼に見えない力をたぐりよせ、日々の暮らしを活気づける文字たちの、予想をこえた変幻の妙、魅惑にみちた姿・形に眼をこらしていく。

私は、キーボードの上にある指を左右上下に動かすことによって、大半の文字を生み出している。近年は、全くもって形/サイズが身体次第の文字を生み出せていていない。

もちろん、その状態を問題であると言うのは易しい。その問題だと思ってしまったことを「伝統」帰りの論理に用いるのではなく「伝統」を創るための論理として思索していきたい。

豊穣を生む「山水」の絵文字 芹沢_介
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いのち宿る墨汁の「心」字
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sugiura-moji.jpg
idea-mag.com

■参考リンク
それでも、デザインの核は装飾である。
生きた文字が溢れている
芹沢_介の文字絵・讃/杉浦康平
杉浦康平先生のトークショウ「壽字爛漫(じゅじらんまん)に行ってきたよ



■tabi後記
識が熟し爆発しそうである。この動力をもちいながら、様々なことへ決断をくだしていこうと思う。
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tabi0239 ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」

自由の極北としての遊び
カイヨワは、1競争と2運の組み合わせと3模擬と4目眩の組み合わせのみを根源的、あるいは本質的とし、しかも3と4の組み合わせから1と2の組み合わせに移行するところに、近代社会への決定的な道程を読み取っているのである。彼はじつに慎重な表現をえらびながらも、目眩の支配する混沌の領域(3,4)から、競争の支配する計算の領域(1,2)への社会と文化の移行を、人類の歩みとして当然、かつ支持しうるものとしている。P355
ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」(講談社 1973)


本書の訳者解説には、ホイジンガ,カイヨワ,訳者(多田道太郎)の思考が結晶化されている。カイヨワは2つの「遊」をみたのではないだろうか。

1つは、目眩の支配する混沌の領域(聖)から、競争の支配する計算の領域(俗)への移行に「遊」であり、もう1つは競争の支配する計算の領域(俗)から、目眩の支配する混沌の領域(聖)への移行(逆行くにみた「遊」である。

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カイヨワは、目眩の支配する混沌の領域が「聖なるもの」であり、競争の支配する計算の領域が「俗なるもの」でする。そして、それを往還するのが「遊び」であるとするのだ。混沌から計算へというのは、ミクロコスモスからマクロコスモスの統合過程に似ている。

ホイジンガは、客観科学主義時代への移行に伴って喪失してしまった「聖なるもの」を「遊び」の中に残存していることを突き止めたのだ。そして、カイヨワは、ホイジンガの視点を正当に引き継ぎながらも、その概念を発展させていく。

計算と混沌という軸だけでなく、意志と脱意志の往還があることを突き止めたのだ。この4方向の移動に自由論(遊び)を絡めて壮大に論じていく。

一般的に見方では、聖と遊は、生活を軸として対照的な位置を占めている。遊びは、当然生活を恐れる。生活は、一撃にして遊びを打ち砕き、消滅させるからである。反対に、生活は聖なるものの持つ至高の力に対して不安なまま依存している。

聖なるものからの「脱却」として俗があり、俗生活からの「脱却」として遊びがある。そのように考えられている。そして自由とは、歴史的にみて、何からの束縛からの自由であった。聖から俗へ、俗から遊へ。このようなヒエラルキー構造をカイヨワは指摘しながらも「遊」という概念のもつ「浮遊性」にも注目した。その浮遊性というのは、最初に指摘した往還としての「遊」であろう。

遊びの定義と分類
1.自由な活動
すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
2.隔離された活動
すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
3.未確定の活動
すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
4.非生産的活動
すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
5.規則(ルール)を持った活動
すなわち、約束事に従う活動。この約束ごとは通常法規をを停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが適用する。
6.虚構の活動
すなわち、日常生活対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。P39
ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」(講談社 1973)


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■参考リンク
第八百九十九夜【0899】
第七百七十二夜【0772】
アクスラインの遊戯療法の8つの基本原則とロジェ・カイヨワの『遊びと人間』に見る“遊び”の本質
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
【遊楽せし魂を】 内田洋平

真に美を見出すは、退屈也

善に美を見出すは、窮屈也

美に美を見出すは、偏屈也

真善美

この3対関係を考察せすもの、いづこにもおる

いづこの中で光るには

真善美より遊離すること


遊離するとはいかなるか

つまりは疑悪醜を察し

行いしめること


ひねりのさきに真善美をあらわし

そこで落ちつく

振り切るのは控えること

ひねりの構造にすら

飽きをもてめてしまう

その心的性向がある

それを弁えること


弁えるとはいかなるか

弁えの連続性のなかに佇むことである

遊楽せし魂を習熟すること
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2009年08月12日

tabi0238 トム・ケリー 「発想する会社!」

ブレスト。それは、礼拝のように。
「あなたがたはブレインストーミングをしていますか?」という質問に「イエス」と答える人の目には、「そんなことはとっくにやっている」と言わんばかりの独りよがりが見てとれる。実際、ビジネス・コンサルティング会社のアーサー・アンダーセンによる最新の調査では、七◯パーセント以上のビジネスマンが自分の組織でブレインストーミングを活用していると答えている。
(中略)
同じアーサー・アンダーセンの調査で、ブレインストーミングをしていると答えた人の七六パーセントが、回数が多くても月一回だと認めている。多くても月一回。私は映画ファンを自認していて、たいてい年に三◯本から四◯本の映画を映画館で観る(そして同じくらいの数をビデオで観る)が、それが多くても月に一本になったら、以前は映画ファンだったと言わなければならないだろう。
トム・ケリー 「発想する会社!」(早川書房 2002)


・その場所から飛び出して、市場、顧客、製品を観察しよう!

・狂ったようにブレインストーミングをしよう!

・山のようにプロトタイプをつくろう!

これが本書のメッセージである。

IDEOで日々行われているという「観察」「ブレインストーミング」「プロトタイプづくり」は、個人間の知識移転を促進させ、暗黙知の広がりを可能にするのでしょう。そこからイノベーションが生まれてくる。核となる3つの手法の中で、「ブレインストーミング」における秘訣と落とし穴を列挙しておこう。

■よりよいブレインストーミングのための7つの秘訣

1. 焦点を明確にする
2. 遊び心のあるルール
3. アイデアを数える
4. 力を蓄積し、ジャンプする
5. 場所は記憶を呼び覚ます
6. 精神の筋肉をストレッチする
7. 身体を使う

■ブレインストーミングを台無しにする6つの落とし穴

1. 上司が最初に発言する
2. 全員に必ず順番がまわってくる
3. エキスパート以外立入禁止
4. 社外で行う
5. ばかげたものを否定する
6. すべてを書きとめる

これらはどれも当たり前のことで、なんら特別なルールがあるわけではない。そう、大切なのは、方法論でなく回数なのだ。IDEOでは「ほぼ宗教みたいなもので、ほぼ毎日、礼拝のように」行われている。創造性は、日常の連続から生まれてくるものであって、そのための習慣・雰囲気・空間を組織が担う必要があるのだろう。

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IDEOで使われている、イノベーションを起こすためのステップは、理解、観察、視覚化、評価と改良、実現の5つからなる。

■参考リンク
100%のなかの確率を高めるのではない。その外の世界を発見するのがイノベーション
ユーザーに尋ねても必ずしも正しい答えは返ってこない
IDEOが教える「イノベーションを生む秘けつ」



■tabi後記
開高健「人とこの世界」が文庫化されたので、久しぶりに手にとってみた。もし、本書を読まなかったら、広津和郎,大岡昇平,武田泰淳,きだみのる,金子光晴,今西錦司といった方々と向き合うことはなかったんだろう。

本書は「対談→作品論→人物」という型が3,4回転して1対話の構成になっているため、不思議な読書体験ができます。ちなみに、開高さんは父方の実家近く(井荻)に住んでいました。
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2009年08月11日

tabi0237 津島秀彦/松岡正剛 「二十一世紀精神―聖自然への道」

たまに地球のことを想い出してみるのもいい
▲-なぜ、自然的な一日があるか。もちろん、そこには地球が廻っているということがある。われわれは地球の回転とともにある。
★-したがって、われわれは何もしていなくても、畳の上に寝ころんでいても、地球とともに、全宇宙の事態とかかわっているということです。
▲-すべては関係しあっているのです。それが存在の内容でしょう。
★-われわれの内部でも同じ事態がおこっています。血液はぐるぐる廻り、分子は廻り、原子も廻っている。その最小単位である素粒子もスピン(旋転)しています。
▲-われわれは、さまざまな「回転速度」の中にある、と言っていいでしょう。
★-ミクロコスモスとマクロコスモスは、同じ夢をみているのです。そうであるならば、われわれもまた、その夢の世界を知らなければならないし、その夢とともにあることを知らなければならない。P20
注:▲津島秀彦★松岡正剛
津島秀彦/松岡正剛 「二十一世紀精神―聖自然への道」(工作舍 1975)


1日を考えることは、地球を通して全宇宙を考えることである。こう初めから迫ってくるのだから、面白くないはずがない。両氏は、1日を考えるとは「起きること」と「眠ること」であると納得していく。

両氏は、重力観念との闘いこそが人の歴史であるとする。それは、大地にへばりつくのをやめて立ってしまったということ、一切はここから始まるからだ。立ち上がったから手が自由になり、粘土版に文字を彫ることも道具をつくることもできた。

私たちにとっては、何のそのと思われる「起き上がる」という動作は、重力への抵抗する驚異的な習慣であるのだ。次に来るのが「おやすみなさい」という地球への挨拶である。

私たちは、重力からの自由のために「眠る」のである。そして「座る」(禅)という方法まで編み出した。夢をみること、禅的体験にいたること。この体験的時の最中において、重力との闘いは終止符を打とうとされる。

■参考リンク
イメージを揺さぶり脳をマッサージする音楽



■tabi後記
80年代のニューアカデミズムには想像力が及ぶが、70年代の工作舍は異常な雰囲気を朧げに感じられる程度。この10-20年の知的変遷が綴られた資料はあるのだろうか。
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tabi0236 市村浩一郎「日本のNPOなぜ不幸なのか?」

Non-profit organizationという言葉が生み出した不幸 -
いつの間にかNPO法の取り組む本質的課題が、日本社会の仕組みを変革することから、本人格という権利を獲得するということにすり替えられてしまった観がある。だからあえて繰り返すが、私は特定非営利活動促進法の制定は、失策であると考えている。そもそも「NPO法」とは私が作った造語であるが、特定非営利活動促進法を私はNPO法だとは思っていない。P221
市村浩一郎「日本のNPOなぜ不幸なのか?」(ダイヤモンド 2008)

著者らが構想したNPO法案は、NPOの法人格取得手続きを定める法律のみならず、税制上の優遇措置を規定する諸税法の改正を含むもので、ひとつの体系としてのNPO法を志向していたようだ。それとは異なる現在の特定非営利活動促進法については5つの問題を指摘している。

1. NPO法人の活動領域を17項目に制限されていること

2. 寄付税制の不備

3. NPOを「不特定多数の利益」の増進を図る活動をするものと規定されているため、特定少数のサービスが行ないづらくなっていること

4. 無償労働要件:役員のうち報酬を受ける者は3分の1以下でないといけない、という無償労働条件と10人以上の社員を有する者ものであるという条件があること。

5. 監督制度:行政の関与は、登記または登録などが正しく行われているかという点に留まるべきで、何か問題が発生した場合は、司法で解決を図るのがセオリーである。お上意識が招く設立認証の煩雑さを回避しなければならない。

NPOが含有する意味は、たかだが「分配のあり/なし」という意味でしかなかった。

その意味が、「収益追求あり/なし」と誤解されてしまったことに不幸のはじまりがあるだろう。意識せずとも、結果的として「経営不在」という事態が生じている。これが、日本のNPOの課題である。

現在は、Not for Profit(収益は酸素である)という意識を持つ方も増えている。これを意識だけで終わらせないためにも、実際にProfitをあげられる商才ある人が、NPOセクターへ参入したくなる制度設計が必要であろう。

■参考リンク
tacanoblog
TABLE FOR TWO小暮真久氏×チャリティ・プラットフォーム佐藤大吾氏×ETIC.宮城治男氏「社会起業はとにかく面白い」〜あすか会議2009レポート〜



■tabi後記
体調ももどってきたし、そろそろ運動を再開しよう。

「たい・ない」

人は何者かでありたい。
人は何者にでもありたい。
人は何者でありたくない。
人は何者にでもありたくない。
人は何者かにあれない。
人は何者にもあれない。
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tabi0235 鈴木一誌「ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン」

書体、文字、ページのむこうにいる「あなた」
ひとつずつの活字を拾うことで行になり、行が集まってページとなる。ページが累積して書物ができる。この過程を、ページネーションと言う。ページネーションとは、本の一ページを生み出していく行為でありつつ、同時にページ相互の連続性を誕生させていくことだ。
(中略)
ページは、相互にあらわれとして共通したものをもっていなければ、視覚的な連続性を読者に伝えれない。また、何時をもって一行とするか、行がどのような書体によって形成されるのか、行と行のあいだの余白はどのくらいかなど、ページを発生させるルールが必要となる。そのルールの束をフォーマットと呼んでおく。
(中略)
垂直に累積するばかりでなくズレながら水平にも伝播していくページのフォーマットは、われわれを何重にもとり巻いている文字やことばと干渉しあい、われわれの生活環境そのものとなっているにちがいない。P9-10
鈴木一誌「ページと力―手わざ、そしてデジタル・デザイン」(青土社 2002)


鈴木氏は、デザインは、ときには「情報を公開する技術」をあつかうのではなく、つねに「情報を公開する技術」なのだろう。と語りながら、デザインが既に隠してしていることがあることも認める。テクストが裸の状態で提示されることは滅多にないからだ。

デザインが見る者の行動に関与しているという意味での政治性は、すでに発動している。その事態をあらためて対象とすることでしか、つまりは対抗的にしかデザインは政治性を取りもどせないことを深く自覚しているのだ。このような自覚から、最大の観察対象となるの自分を思索していくのである。

書体、文字、余白、ページ、装幀のむこうがわにいる「あなた」とこちらがわにいる「あなた」、それを取り持つデザイナーは開かれたデザインをしながらも、閉じられたデザインをする。このアンビバレンスな存在であり続けるには、深い哲学が必要であろう。本書では、その一端を垣間みることが出来る。

■参考リンク
文字の官能性、書物としての身体
デザイン:情報を公開する技術
解釈を代行するのが道具



■tabi後記
「身体」や「他者」という言葉に重きをおきすぎる時流には乗りたくない。
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tabi0234 藤井直慶「つながる脳」

我慢の表と我慢の裏が社会をつくる
それでは、強いサルから弱いサルに移行したときに発現される機能とは何でしょう。それは今回の実験の見えてきた通り、行動の「抑制」であると僕は考えます。強いサルに対して、自己の欲求を抑制することが彼らの行動から私たちが見ることができる最大の変化です。ということは、抑制の形をとって表現される弱いサルの行動は、非言語的なメッセージとして私たちが理解できるように、強いサルにも間違いなく伝わっているはずです。つまり、抑制というものが社会性の根本にあるのではないかというのが、この実験を通じて到達した僕の考えです。P128
藤井直慶「つながる脳」(NTT出版 2009)

「それで安心した」
「何が安心したんだ」
「結論が常識に一致したからさ」

一読後、小林秀雄「常識」の会話を思いだした。

抑制(我慢)が社会性の本質であるというメッセージに驚きを持つ者は多くないだろう。この常識から推論できることは、社会契約の合理性(我慢の表)とそれに伴う革命の論理(我慢の裏)である。

「リヴァイアサン」に見られるように、自分も他人も自己保存権を優先するという現実を認識したからこそ、それを調停するための社会契約がつくられた。人は、競争や憎悪や対立や摩擦や侵犯を積極的に予防するために我慢をしたのである。それが社会性という名をもったのである。

一方で、我慢に裏がある。我慢を消極的予防(保留)とするのが革命の論理である。我慢の背後に、社会の安定は実は下が決めているという心が含まれているのだ。

下位のサルは常に上のサルに従っているのではなくて、相手の力を常に観察し、隙があれば上手く上のサルの餌をちょろまかす。このような生物としての図太さが、革命の論理になっているのだろう。

■参考リンク
勢川びきのX記:4コマブログ
下位の「したたかさ力」



■tabi後記
天気/天災を意識的に感じられる期間は、人にいかなる影響を及ぼしているのだろうか。実家のマンションは11Fであるが、昨年に耐震工事が行なわれたので、以前よりも強い揺れを感じない・・。
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2009年08月10日

tabi0233 松岡正剛「17歳のための世界と日本の見方」

トレース・クリエイターとしての編集者
そのままではいっしょにしにくいものや、それまで誰も関係があると思っていなかった現象や情報に、新しい関係性を発見をしたり、もう一つ別な情報を加えることによって関係線を結んでいく。新たな対角線や折れ線を見つけていく。このときに、編集工学が大事にしているのが「方法の自由」ということなんですね。方法を自由自在に使うことで、どんな大胆な編集をすることもできる。それは、この講義の最初でのべた「関係の発見」ということです。P310
松岡正剛「17歳のための世界と日本の見方」(春秋社 2008)

本書には数多くの編集者があらわれる、その編集者自体を編集することによって、我々は「見方」というものを体験的に獲得していくように構成されている。

紀元前6世紀から5世紀にかけた宗教編集者、三位一体の編集者、ミクロコスモスとマクロコスモスを並走させたバロック時代の編集者、関係性自体を具象化する編集者・・。松岡氏が用いる「編集」という概念は多義に及ぶ。このような状態にある概念を、厳密性という名の下に評価することは容易い。

深沢直人氏が、「すばらしいものはもう過去に達成されていると思います。すべて完璧に達成されてしまっている。」と語っていることを思い出すにつれ、私たちは過去を完全にトレースすることすらも出来なくなってきたと考えてしまう。

このような事態は、職人技法が語られる際によく取り上げられるテーマだ。僕がテーマとしたいのは、もっと生活的なこと、かつ非生活的なこと。五感や運動や喜怒哀楽といったものから、論理・情理の構成や感動・畏敬の対象といったことである。私は三浦梅園のような思考表現・編集方法がしっくりきそうだ。

■参考リンク
まずはテーブルに載せてみなけりゃはじまらない!
17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義/松岡正剛
146旅 『17歳のための世界と日本の見方』 松岡正剛
ワニの脳とネズミの脳と



■tabi後記
amzonから本が届くまでに「読みたい」気持ちがなくなってしまう。奇跡的に立ち会われた「欲」が喪失してしまうことを、「読みの保留」というコンセプトで認めていたが、この欲を救済するコンセプトも必要であると感じている。方法的に解決したい。
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tabi0232 竹田青嗣「中学生からの哲学「超」入門」

世界像の崩壊が人を聡明になる
だいたい高校までは、ふつうの人は誰でも、自分の家族、学校、友人などから自然に受け取ったはじめの「世界像」を育て、これをまわりの人間と共有している。これが一枚目の世界像です。ところが、大学などに入ると(もちろん大学だけとはかぎらない)、言葉の力がたまってきて、本とか耳学問で、突然新しい世界像が開かれることがある。世界と人間についてのまったく新しい観念、考え方です(宗教の形をとるこもある)。

これが二枚目の世界像で、これが入ってくると、なかなか強い力を発揮する。というのは、二枚目の世界像は、これまで自分が持っていた考えはみな間違ったもので、ここにこそ「ほんとうの世界」の姿がある、といった一種の世界発見の魅力をもって現れるからです。ちょうど、恋をすると、相手の美質について結晶作用が起こるのと同じく、世界についてのロマン的な結晶作用が起こるのです。P46
竹田青嗣「中学生からの哲学「超」入門」(筑摩書房 2009)

竹田現象学をシンプルにまとめ上げた1冊となっている。

竹田氏は、この引用文に続けて、「二枚目の世界像がさらに相対化されて三枚目の世界像を得たとき、われわれは、世界経験というものの全体像をはじめてつかむのだけれど、そのためには、この二枚目の世界像がなんからの仕方で挫折する必要があるのです。」と語る。

ヘーゲルは、二枚目の世界像に欺瞞に気がつきながらも、それに拘泥することを「不幸の意識」と呼んでいたが、私は、この世界像崩壊にともなう自己修復能力こそが、人を聡明にすると考えている。

客観主義にも懐疑主義にも寄り添わない現象学を目指して
世界の意味の秩序は中心点なる目標を失うと、いったん壊れてばらばらになる。ちょうどクモの巣の真ん中を破ると、全体がばらけてしまうように。しかししばらく存在の重さに堪えていると、世界は不思議な自己回復力で、もういちど意味の秩序を少しずつ張り巡らそうとする。クモが破れた巣を編み直すのと似ている。つまり深刻な挫折を体験すると、人は、世界がいったん壊れ、また自分を編み直してくる、という過程を必ずたどることになります。でも挫折がそれほど深くないと、人はそれに気づかない。挫折が深く、とことんまでいかない場合、根本的な世界の再構成ではなく、いわばつぎはぎ的な修復が起こるのです。P55

竹田氏は、自我の崩壊を夢判断で修復しようとしたが、ついには真の意味を獲得出来なかった。しかし、そこで獲得したのは「自己確信」という所作であった。

「自分の感情の海の中に、絶対的にそうだと思えることと、この先はもう何とも確信をもてないことと、そしてその中間地帯との、三つの領域の境界線がはっきりある、ということが分かること。」という態度を手に入れた。それが現象学研究のはじまりであった。

「世の中には、はっきりとした答えを見いだせる問いと、問うても決着の出ない問いがあるいうこと、このことが「原理」として腑に落ちていることは、どれだけ人を聡明にするかわかりません」と竹田氏は語る。

神は存在するのか、人間と世界の存在の意味はなにか。これらの問いに決定的な答えは誰も出せないという、形而上学の不可能性の原理は理屈では理解できる人も多いでしょう。しかし、このことがいったん深く腹の中におちれば、人間は本当に聡明になります。

この原理(カントによる原理)がわからないと、「人は、いつまでも一方で極端な「真理」を信奉したり、一方で、世の中の真実は誰にもわからないといった懐疑論を振り回すのです」と氏は語る。

■参考リンク
[書評]中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ(竹田青嗣)
社会システムとルール社会を越えていくもの
哲学は哲学者より簡単 - 書評 - 中学生からの哲学「超」入門



■tabi後記
妥当性の強度を欲望相関性で区分したモデルのver0.1が出来上がる。世界像崩壊パターンを区分することで、その人の世界像=疑団=業を知りたいという思いがあるからだろう。
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tabi0231 ジャック・ワース「売り込まなくても売れる! 」

最高の営業は、生涯の付き合いとなる出会いとなること
サム:セールスが「説得」でないなら、いったい何なのでしょう?
VP:見込み客と《合意を重ねていく》のがセールスなのだよ。見込み客というのは、まず商品に対するニーズがあり、商品を希望し、資金があり、こちらが【満足条件】を満たせば一定の時間で購入契約をする意志のある相手のことだ。P45

われわれは反論の「処理」はしない。【高確率セールス】の環境では、買い手はセールスパーソンとの《合意に達するプロセス》の途中にいるのであって、無理に勧めれられたら抵抗しようと身構えているわけではない。「反論」は、買わない理由や言い訳になって表面化するのではない。検討し、話し合い、交渉すべき課題として出てくるのだ。P54
ジャック・ワース「売り込まなくても売れる! 」(フォレスト出版 2002)

■セールスは売り込みではない
この一言が世に通じれば、どれだけ素晴らしくなるだろう。そもそも、「売ろう」とし過ぎることはセールスではないというメッセージから本書は始まる。

■プロセス全体がクロージング
そして、セールスは客に買わせることではなく、双方向のビジネスの下地があるかを見ることである。満足条件を満たすためのヒアリングを行なうプロセス全体がクロージングになるのであり、それが満たされれば相手からYESという声を引き出せる。

■顧客志向は、顧客の意図を裏切ることも包含する
そのためには、相手のニーズを引き出す必要があるだろう。良く言われる例えであるが、顧客はドリルではなくドリルの穴がほしいのだ。大切なのは、ウォンツを見ずに、ニーズを捉えるということ。

■顧客は良い提案が欲しい。私は良い提案がしたい。その下地を築くこと。
「今回○○なわけですが、いまの××に何かお悩みでもおありですか?」 という質問からニーズ探索の旅ははじまっていく。

決して表面的なウォンツに食らいついてはいけない。顧客の成功に貢献するための本質的な経営課題を抽出する必要があるのだ。そのためには憚らずに理想(満足条件)を聞こう。

「良いご提案をさせて頂くために、○○のことをいくつかおうかがいしてもよろしいですか?」

「今回○○なわけですが、どのような××になれば、ご満足にほんの少しでも近づきますか?」

顧客は良い提案が欲しい。私は良い提案がしたい。その下地を築くことである。

■「良いものがわかるあなた」のために、顧客は何でも話してくれる
ヒアリングを許可をとることの裏には「私は良いものが分かる人間である。」という社会的証明が隠れたメッセージとなっている。

ヒアリングが承認されるなら、何を聞いてもいい。聴きにくいことでも何でも。「良いものがわかるあなた」のために、顧客は気づかずうちに普段なら答えないことでも聞かれると答えてしまう。

■顧客のために影に隠れるキーマンを特定せよ
満足条件が確認され、その条件にあなたが貢献出来ることが明らかになったとしよう。しかし、そこでセールスは終わらない。影に隠れるキーマンを特定する必要があるからだ。

「お客様が、この人の意見も尊重した方がいいと思われる方は、他にいらっしゃいませんか?」

という質問が大切である。

この問いで相手に「失礼」なく、キーマンを特定できる。セールスは、ヒアリングしたこと(満足条件)にズレがないかを「確認」していくプロセスである。その中で、安心感は形成されていく。

■再現性のある教え
人間は、自分の話を聞いて貰うだけで満足はしていない。それが本当に伝わったか、それが本当に共感されているか、行動レベルで落とせているかが確認できて、満足をする。

その作業を怠って、信頼関係を手に入れるのは難しい。人間的な魅力や説得の話術で信頼関係が手に入ることもあるが、それは仕組みではなく才能と個性であり、普遍的なものではない。再現性を確保した教えを頂いた。



■tabi後記
昨日参加させて頂いた李英俊さんの「セールスプロフェッショナル講座」の内容をブレンドしながら書評をしました。
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2009年08月08日

tabi0230 小林弘人「新世紀メディア論」

Publiserは「そんなコミュニティー」が存在したことを公にする
特定の読者に対して情報を提供し、コミュニティーを組成し、そのコミュニティに価値が宿るのではないでしょうか。つまり、メディアビジネスとはコミュニティへの影響力を換金することであり、自動車販売や家電製品のようにすっきりしないのは、1台売っていくら、という商行為ではないからです。メディアという言葉のうさん臭さと高貴さは、コミュニティの価値を自らプライシングしているからであり、その価額と価値については厳密な物差し(発行部数やページビュー数)以外に上乗せされる部分ーブランド価値ーが付随するからです。P22
小林弘人「新世紀メディア論」(バジリコ 2009)


この本を読んで改めて確認することは、ブログパブリッシングをするうえでもっとも大切なことは、ほかの人じゃなくて、あなた自身がそれを読む事に興味があるかどうかということだ。

販促のボトルキャップを収集している人たちがいて、すごくレアなキャップがあるとする。(製造不良がプレミアムになったりね)もしあなたが、そのレアキャップ持っている収集家ならば、それらの美しいキャップを写真にとったブログを始めることだろう。しばらくすれば、ほとんどのレアキャップコレクターたちがあなたのブログを訪れることになる。

ラージ・フォーカス、スモール・プロフィットの時代から、スモール・フォーカス、スモール・グループ、ラージ・プロフィットの時代の中では、ブロード・ファーカスではなくて、ターゲット・フォーカスこそが価値がある。

■参考リンク
グーグル「ブック検索」和解は作家と出版社の関係を見直す好機
【必読!】「新世紀メディア論-新聞・雑誌が死ぬ前に」小林弘人
ブロガー必見!新世紀メディア論



■tabi後記
昨日は、カリエール:ポール・ヴェルレーヌにやられてしまったのだ。ハンマースホイ:ピアノを弾く妻イーダのいる室内の油絵の具の重なり方。あの襞感覚もスゴかった。そして、ポロック:ナンバー8, 1951 黒い流れの余白づくりに興味をそそられた。
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tabi0229 樫尾直樹「スピリチュアリティを生きる」

開花する明日の能力が文化をつくる
中牧:やっぱり上田さんのやってることは教育じゃない。
上田:何なんでしょうね。
中牧:梅棹忠夫先生のテーゼのひとつに、「教育はチャージで、文化はディスチャージである」というのがある。これまでの議論はその線に沿ってもいたわけですが、上田さんが考え、実践していることは、教育の現場にいるから、教育と間違いやすいけど、まぎれもなくクリエイティブな文化活動ですよ。
上田:なるほどクリエイティブな文化活動か。僕はポエティックス・オブ・ラーニングというか「学びをつくる」っていう言い方がわりと好きなんです。共につくっていくという共同性、楽しい仲間といっしょに、わいわいがやがや言いながらつくっていくというプレイフルな姿勢、これですね。
中牧:それこそ文化の創造ですよ。過去の出来事や伝統をたたき込むのとわけがちがう。
P101
樫尾直樹「スピリチュアリティを生きる」(せりか書房 2002)


本書内「スピリチュアルな場をつくる」の「プレイフル/ピースフルからスピリチュアルへ」という対談から引用しました。

教育という言葉は、「目指すべき姿と現状の姿にギャップを見出し、それを埋める手段である」と考えられることが多いだろう。しかし、そもそも目指すべき姿が教育者に見えていることは少ない。たとえ、見えていたとしても、それを教えるのは教育の使命だろうか?

Jean Piagetは「教育の使命は、子どもから創造者をつくることにあるので、世の中に適合して、よろしくやっていく人間をつくることにあるのではない。そのためには、子どもに教えてしまってはならない。子どもが自分で考え、自分でつくっていくように助けるべきである。」と語っている。

私は学習者に「もう教えられたくない!自分で学ぶ!」という気持ちをつくるために、「あえて教えにいく」という自己撞着な態度をもつことこそが教育者の姿勢だろうと考えている。学びたいだけではたりず、学び合いの促進や、学びほぐしの仕立てなども大切であろう。このように、問いは深まるばかりである。

■参考リンク
私のワークショップ未来図
上田信行 インタビュー 教育って、面白くていいんだ!
上田信行先生の「プレイフルシンキング」を読んだ!



■tabi後記
昨日、東京大学総合研究博物館で行なわれている「鉄 - 137億年の宇宙誌」にいってきた。入口には、「そもそも鉄という元素が、いかにして誕生したのか?」という問いがある。地球の重量の1/3は鉄。それならば「地球は鉄の惑星」と名づけてみるのはどうだろう?と提案してくるのだ。このような小粋さがあった。
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2009年08月07日

tabi0228 池田洋一郎「ハーバードケネディスクールからのメッセージ」

ボランティアをOJT研修/CSRと最解釈したビジネス
営利と非営利の垣根をまたいでNPOと企業をつなぎ、双方の強みを活かし、弱みをサポートし合いながら相乗効果を発揮する手助けをしながら恊働へと導いていく、そんな「触媒(Catalyst)」の役割を果たすプレーヤーが必要であり、それが僕のPAEのクライアントとなったコモン・インパクトなのだ。具体的には、

・潜在力はあるけれどスキルのある人材(とそういう人を雇うお金)が足りないためマネジメントの問題に直面しているNPO

・企業経営と社会の両方に実質的なインパクトを与えるCSR活動に取り組もうと考えているが具体的なアイディアが浮かばず悩んでいる大企業

という二つのプレーヤーとの間に、「Skill based volunteering(スキル・ボランティア)」という架け橋をかけてマッチングするというサービスを展開している。P295
池田洋一郎「ハーバードケネディスクールからのメッセージ」(英治出版 2009)


彼のブログを始まりから終わりまで付き合っていた私は、本書をブログ読者の延長として楽しませてもらった。

今回取り上げるのは、Skill based volunteeringである。この考え方は、Probono,Professional Volunteer,Service Grantとも称されている。

私がこのコンセプトを知ったのはコンサルティング会社のプロボノ活動であった。しかし、プロボノを研修/CSRとして再解釈してプロボノの規模を増加される流れを知ったのは、このブログを通じてだった。

プロボノは、ロールとセルフのつながりをつくっていると思う。ロールはビジネスパーソンという仮面であり、ビジネススキルという提供技術だ。そのロールが、セルフ、一人の人間として捉えられることによって、原初的な承認欲求が満たされるのだろう。

本書にも「自分の持っているスキルが社会の中でこんなに役に立つものと知らなかった"ありがとう"と人から感謝されることがこんなにすばらしいものだとは、長年その感覚を味わっていなかった。」と描かれている。

この欲求は、バックオフィスなどのストレスフルな環境下にいる方に潜在しているのではと思う。ストレッチされた環境下では、多くのスキルが身につけると思うが、スキルを得て、「成長」した後が問題となってくる。そのスキルの宛先が中々見えないのである。

それは、顧客から直接感謝の欠如や、高度専門人材が周囲にいることによる相対的な劣等感があるためだろう。こういった環境下での不満足観が、自分自身にも及んでしまうのがメンタルヘルスなのだろう。

プロボノを行なう組織は、たいてい小さい。そういった場所では、オーナーシップをもって仕事をしなくていけない。また社外に出ていく事は、リフレクションを行なう絶好の時間なのだろう。

■参考リンク
全ての官僚の皆様に読んでもらいたい本
Key Considerations for Launching a Skills-Based Volunteer Program
PDF:Skills-based volunteerism at Deloitte
PDF:Skills-based Volunteerism Presented by: Juliana Deans–Deloitte



■tabi後記
国立西洋美術館にいってきた。何がすごかったかというと、ロダンとカリエールに壮絶したこと。そして、そして2人が繋がっていたこと。この心情は、関連書籍を読む中で記していきたい。

ロダンは、既知から未知へという驚きだった。まあ、これは良くある。しかし、カリエールはスゴい。これは何だろう。もうドカンと稲妻がおちてくるような感じだった。というよりも、稲妻をつくった自分に驚いた自分という思いだった。
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tabi0227 武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」

音楽の起源的な構造を想像的に志向する
<音>が肉体にならずに観念の所有となるのは音楽の衰弱ではないだろうか。この私の原則はたぶん変わるまい。が、これはあくまで観念であって、私はこれを具体的な方法に置きかえなければならない。民族学的な面から、その手段を発見するのも一つの方法にちがいない。民謡には美しいものもあるし力あるものもあるだろう。しかし私はそれに素直にはなれない。私は、もっと積極的に現代を音楽の手掛かりとしたい。現代の視点から民謡を・・・などというただし書きはまやかしにすぎない。なぜなら作者はあまりに現代を客観視しすぎる。作者が相手にすべきは真に同時代の思想や感情である。この激しいウズのなかで、おのれをいかし、それを証すことだけが正しく伝統につらなることにはならないか。P35
武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」(新潮社 1971)


武満は、<音>というものに対しては、標本箱の昆虫のように、外部の体裁だけをととのえた安直な秩序に魂を売らなかったのだろう。人間というものは何でも無いわかりきったことを疑問にしてその葛藤に巻きまれてどうにもならなくなってゆく。言うまでもなくそれは、愚かの骨頂なのであるが、この愚かさそのものが人を人たらしめている。それが、好奇心というものであろう。

彼も、既知の分類表にしたがってそれぞれ「概念」の運命をふりあてていけばよかったのだが、ふと立ち止まってしまった。そして、その立ち止まりの原因をも安易に分類しない。分類しないで居続ける「様」が、その応えになっているのだろう。彼の生活/文章がそれを物語っている。

■参考リンク
第千三十三夜【1033】
どうであれ



■tabi後記
山中俊治さんがディレクションする、「骨」展にいってきた。音の中に潜む「骨」を見出すことは、構造把握という生易しいものではないだろう。構造の裏に潜む構想。それを突き詰める精神を垣間みることができた。
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tabi0226 ニコラス・P・サリバン「グラミンフォンという軌跡」

ベーシックライツ・ベーシックニーズ
ある日、コンピュータのネットワークがつながらなくなって困っていたカディーアの胸に、ふとバングラディッシュの田舎にある祖父の家の記憶がよみがえってきた。戦争を逃れてひっそりと暮らした村の記憶だ。電話がなかったので、弟の薬を探すため一日かけて10キロの道を歩いたことがあった。ところが薬局に行ってみると、薬剤師は薬を入手するために村を離れており不在だった。なんというムダだ。カディーアはマンハッタンのオフィスで数時間仕事ができなかっただけで、イライラした。だがバングラディッシュは、アレクサンダー・グラハム・ベルが電話を発明して以来ずっと、電話によるコミュニケーションができず骨抜きになっている。
「私は、<つながること>はすなわち生産性なのだと気付いた。それが最新のオフィスであろうと、発展途上国の村であろうと」P42
ニコラス・P・サリバン「グラミンフォンという軌跡」(英治出版 2007)

私は、グラミン・グループが単に貧困を解消する組織とはとらえていない。グラミンフォンをはじめとする企業によって「貧困解消」が行なわれる可能性はあるだろうが、私が興味をもつのはそこではない。途上国と呼ばれる国に住む人々が、モバイルバンキング、モバイルコマースという地点から技術的な生活を送っていることに興味がある。

これからバングラディッシュは、技術的には先進国、生活的には途上国という状態が続いていくだろう。私は、このような時代に生きている・生きてしまう人間が何を考えるているかを対話してみたかった。

■参考リンク
書評『グラミンフォンという奇跡』
グラミンフォンが営利事業として成立する理由
愛の手より種籾 - 書評 - グラミンフォンという奇跡



■tabi後記
僕がバングラディッシュで問いたかったことは、すでに退屈時代における遊びとして問われていた。問いは深まっていく。
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2009年08月06日

tabi0225 大橋正明/村山真弓(編著)「バングラデシュを知るための60章」

人の一生は、重き荷を背負うて遠き道を往くが如し
バングラディッシュは、インド・バキスタン分離独立の時に東西に分割されるまで、長い間共通の文化を育んできたベンガル地方の東側半分に成立した国である。その国の歴史というとき、特に一九四七年以前の歴史を考えるとき、ベンガル地方の歴史のなかから、東側の歴史だけをどのようにして取り出すのか、問題にならざるを得ないであろう。新しい国であること、長い間統合されていた地域の半分を占める国であるという二つの事情が、バングラディッシュという国の歴史を語る上で、独特の難しさをもたらしているようである。P16
大橋正明/村山真弓(編著)「バングラデシュを知るための60章」(明石書店 2003)


バングラディッシュを語るときは、その国の歴史をどこまで語るかを考えざるをえない。バングラディッシュとは「ベンガル人の国」という意味であるが、「ベンガル人とは何者か?」という問いは、容易なものではない。

一般的なバングラディッシュ史は、ベンガル人ムスリムのアイデンティティ形成の歴史でされている。ここで注目されるのは、言語と宗教である。

言語は概ね、ベンガル語であり、英語やウルドゥー語も存在する。宗教は、イスラム教が83%、ヒンドゥー教が16%、その他が1%であるとされている。(その他の宗教には仏教、キリスト教、無神論が含まれる。)

彼らがもつ世界観で印象的なのは「水と共生意識」が挙げられる。

バングラディッシュは、日本と人口を半分の国土で抱える、世界一の人口密度国である。そして、この国ではモンスーンと未整備河川の影響で、多くの洪水が発生している。

このように、洪水は多くの被害をもたらす一方で、バングラデシュの農民は毎年繰り返される規模の洪水を「ボルシャ」、被害をもたらすものを「ボンナ」と区別しているのである。

ボルシャは伝統的な雨季の農業を保証するばかりでなく、土壌の肥沃度を保ち、漁場をも提供してくれる。ボンナが災害をもたらすのに対し、ボルシャは恵みの洪水として人々に受け入れられてきた。

■参考リンク
バングラディッシュ 写真集



■tabi後記
住まう場所、住む場所が異なったとしても、背負うものが違うだけ。ただ、それだけなのだろう。ことさらに違いを取り立てない。違いを認めるという「メッセージ」もいらない。類似を見つめ、讃え合えば良い。類似をみる影に、相違をみる作業があるのだから。
posted by アントレ at 12:33| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0224 中川淳一郎「ウェブはバカと暇人のもの」

ウェブはヒトでありモノ
悲しい話だが、ネットに接する人は、ネットユーザーを完全なる「善」と捉えないほうがいい。集合知のすばらしさがネットの特徴として語られているが、せっせとネットに書き込みをする人々のなかには凡庸な人も多数含まれる。というか、そちらのほうが多いため、「集合愚」のほうが私にはしっくりくるし、インターネットというツールを手に入れたことによって、人間の能力が突然変異のごとく向上し、すばらしいアイディアを生み出すと考えるのはあまりに早計ではないか?P18
中川淳一郎「ウェブはバカと暇人のもの」(光文社 2009)


ひろゆき氏の「ネットには怒りの代理人を引き受ける無敵の人がいる」という指摘は、なるほどと思う。

別の話しをする。リンク先にある「ウェブは誰のものでもない」という考えは、少し拡げると、岩井克人の法人概念に似てこないか。モノでありヒトであるという概念。ヒトとしてのウェブ。所有する側のウェブ。

■参考リンク
“ウェブの大衆化・リアル化”でハイカルチャーな理想社会・知的生産性のベクトルから逸れたウェブ
梅田望夫と中川淳一郎の共通点 - 書評 - ウェブはバカと暇人のもの



■tabi後記
seesaaにはお世話になってきたが、このフォーマットでは表現しづらい部分が多々でてきた。表現欲のはけ口を準備したい。
posted by アントレ at 12:03| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0223 飯田美樹 「caf´eから時代は創られる」

カフェ。それは、才にきづき、才をのばし、才がひらく場所。
カフェに出会い、人生が開けていく以前の彼らは決して「天才」と呼ばれるほどの人物ではなく、まだまだ無名の若者である。ただし、才能のある人が皆「天才」になれるわけではないように、カフェに通った人が皆「天才」になれるというわけではない。
(中略)
第一に彼らに共通している点は「何者か」になりたいという想いを長期間持ち続けていることである。第二に、彼らは自分の周囲の人たちとは異なる価値観を持っており、それを大事にするが故に周囲からなかなか理解されずに孤独を感じることである。第三に、彼らはそれ故自分を周囲に合わせて曲げようとはせず、そのかわりに自分を認めてくれそうな人や居場所を「ここではないどこか」に求めるということである。P68
飯田美樹 「caf´eから時代は創られる」(いなほ書房 2008)


caf´eから時代は創られる。それは名詞ではなく形容詞としての宣言。カフェではなくカフェ的であるならば、カフェ的は何か?を問うのは袋小路になりそうだ。それよりもカフェ的な場をつくるなかで、カフェ的「知」をつみあげるほうが全うであろう。

◯◯的という言葉は、幻影的な装いもつことから、コミュニティーに膾炙しやすい。しかし、リジッドな言明がもとめられるときに(それは定義!)、その影は脆くも消えてしまう。その儚さを取り繕うための言語操作をおこなうか。はたまた、脆さを修繕しながら、事路なる理解をえていくか。そんな日々を送れそうだ。

■参考リンク
tabi日記002 「09/03/27 学びと創造の場としてのカフェ」
出会いと創造の場 : 飯田美樹「Cafeから時代は創られる」を読んだ!
カフェ研究会が終わった!: 場づくりのサイエンスとアートをめざして



■tabi後記
蕁麻疹のためバングラディッシュ渡航はあきらめ、日本におります。1週間ほど療養したおかげで、ほぼ全快になりました。
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2009年07月21日

tabi0222 川口盛之助「オタクで女の子な国のモノづくり」

女性的な細やかさや恥じらいの心情と、子供のような好奇心やファンタジー的な世界観が、日本のモノづくりの特徴の下地にあることがわかってきます。女性的で子供っぽい、すなわち「女の子っぽい気質」こそが、日本企業が一連の製品を生み出してきたユニークさの源泉なのです。P213
川口盛之助「オタクで女の子な国のモノづくり」(講談社 2007)


日本企業が開発、製造する製品をリバースカルチャリングすることによって「女性的で子供っぽい」というモノづくりの背後にある精神を汲み取っている。著者のことは、川口盛之助の「ニッポン的ものづくりの起源」という連載記事で知っている方もいるだろう。

子供のファンタジーの世界観
針ですら供養するほど道具に感情移入し(擬人化)、箸や茶碗のように「自分専用」にこだわる道具へのパートナー感覚をもています(個人カスタマイズ)。また、誰もが潰すのが癖になる気泡シートに愛着を持って「プチプチ」という商標名をつけ(病みつき)、自動車の室内の静粛性を完璧にせずエンジン音を効果音にしてしまう発想(寸止め)も卓越しています。これらは、いずれも、日本人が「マシンとうまくつき合うメンタリティを持っているが故の特徴」と言えるでしょう。子供のファンタジーの世界観に近いものがあります。P212

子供っぽさを構成する4つの法則があるという。メモと示唆を交えて書いておこう。

法則1 擬人化が大好き

供養とタンの世界が象徴としてあげられている。いかなる物も供養の対象とするメンタリティーと◯◯タンにより全てが萌え擬人化されるということだ。僕が注目したのは、後者の中に潜んでいる「メタ擬人化」という現象である。メタ擬人化とは、既に擬人化されている対象を更に擬人化(萌え擬人化)することである。

法則2 個人カスタマイズを志向する

著者は、検索のカスタマイズが出来ないかと思案している。例えば、特定人物の検索モードを体験(イチロー検索,部長検索,村上春樹検索・・・)、時間をずらした検索(2年前検索)をすることで、2年前のページしか引っかからない状態をつくる。この空間内でピックアップしたおもしろい記事を「現在ボタン(仮)」で戻すと、その記事を参照してきた2年分の記事が表示されるといったシステムだ。

携帯の未来像として考えられているのは「ケイタイは目玉のオヤジになる」というものだ。つまり、ウェアラブル、ナビゲーション、カウンセリング&コーチングといった機能を備えた、自分を分かっていて良いアドバイスをくれる奴という存在だろう。

法則3 人を病みつきにさせる

これは、ザリガニワークス 自爆ボタンや無限プチプチに代表とされるもである。裂きたくなる、つぶしたくなる、触りたくなるといった、病みつきアフォーダンスを製品に潜ませていると。自爆ボタンにいったっては、自爆機能がないボタンという、押す事だけが目的化された製品となっている。

法則4 寸止めを狙う:
できることをあえてやらないことが、習熟化という楽しみを付与することができるのだ。ディスプレイ行為と寸止め的贅沢の対比。クルマの走行音は、もう消せるにも関わらず、ドライビングサウンドという見せ方によって機能を保っている。

女性的な繊細さや相手を慮る心情
預金通帳すら抗菌処理するほど、日本人は清潔や長寿への貪欲さがあります(健康長寿)。一方では、マネキンまでアニメ風にしてしまうデカダンぶりを発揮します(生活の劇場化)。それでも、周囲への配慮や遠慮の精神を忘れず、腹の虫が鳴くのを抑えるお菓子を作る(「恥ずかしい」対策)と同時に、運転中、隣の車線に割込んだときには、尻尾を振って「ありがとう」と表現する装置を開発しています(かすがい)。(中略)このあたりの特徴は、女性的な繊細さや相手を慮る心情に通じるものがあります。P213

そして、女性らしさを構成する4つの法則がある。

法則5 かすがいの働きをする

法則6 「恥ずかしさ」への対策になる
恥じらい気質という才能から製品が生まれている。用足しの恥ずかしさから生まれた音姫であり、腹の虫の恥ずかしさから生まれたお菓子や、生理用ナプキンの開封音から生まれた製品など。

法則7 健康長寿を追求する
ありとあらゆるものが抗菌される潔癖志向と身体にいいもの(ビタミンなど)を出す電気製品の登場

法則8 生活の劇場化を目指す
象徴例は、ボクといっしょに食べようよ、イーテぃン。

このような8法則から、

法則9 地球環境を思いやる 気配りの文化
法則10 ダウンサイジングを図る ビルトイン化になる、折り畳み

という2法則の記述がなされている。本書には日本人ではなく日本語人という表現がつかわれている。その背景に、角田忠信の理論を用いているのが興味深かった。

同世代の日本語人は、男性的/女性的の軸ではなく両性具有っぽく、大人っぽい/子供っぽい軸ではなく、幼形成熟(ネオテニー)を体現している気がしている。この世代が、どのような製品(未来)を開発/表現していくのか。それはそれで楽しみである。

■参考リンク
書評 - オタクで女の子な国のモノづくり
日本語ということばを使う日本人




■tabi後記
久々の再開。書きかけのレビューが溜まりに溜まめてしまった。僕にとって、読みと書きを分けることは苦行でしかない。
posted by アントレ at 23:24| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月09日

tabi0221 ウィリアム・イースタリー「エコノミスト 南の貧困と闘う」

貯蓄=投資は成長の主因にならない
資金ギャップ・モデルがそのとおりなら、今ではザンビアは一人当たり所得二万ドルの工業国になっていたはずである。しかし現実は、一人当たり所得六◯◯ドルの貧困国である。(この水準は独立時の三分の一である)。ザンビアは資金ギャップ・アプローチの最悪のケースである。ザンビアは多くの援助を受け取ったが、援助が流入する前にかなりの投資率を達成していた。しかし援助が増えても、ザンビアの投資率は上昇するのではなく、低下し投資水準がどうであれ成長はもたらされなかった。P59
ウィリアム・イースタリー「エコノミスト 南の貧困と闘う」(東洋経済新報社 2003)


イースタリーは、援助機関が採用するハロッド=ドーマ・モデルにもとづいた資金ギャップアプローチは、発展途上国の成長を生んでこなかったと指摘する。

以下で、資金ギャップアプローチの理論的背景に説明を加えます。

マクロ経済学では、国民総生産は、現在の「消費」と将来の生産能力増加のための「投資」に分けられる(Y=C+I)が、発展途上国では元々の所得水準が低いために所得の多くが現在の消費に用いられ、十分な投資を行うことができない。

だから、国が目標とする経済成長率にとって必要な水準の投資と実際の投資額とのギャップを埋めることが、開発援助の意義であるとされています。(モデルにおいては、貯蓄と投資が一致することを前提に貯蓄率が用いられる)

例えば、ある国において生産量を1単位増やすのに必要な資本への投資額が5であることが知られているとします。

この場合に、目標とするGDP成長率が6%とすれば、必要な対GDP投資率は30%(6%×5)となります。このとき、この国の対GDP貯蓄率が10%だとすれば、対GDP比で20%の投資が不足しているということになります。

そこで、この対GDP20%に相当する額の援助をすれば、目標成長率が達成できる。という論理をつくりあげるのが、資金ギャップモデルなのです。

そして、イースタリーは、資金ギャップ・モデルの前提である「資本への投資額」と「経済成長率」が一定比率の正の相関関係を有するという仮定を批判します。

資金ギャップ・モデルは、設備投資に対して資本が投入されれば、一定比率で生産量が増えると仮定していますが、通常、生産設備への投資を増やしていった場合、限界生産量は当初は増加しますが、以降は少しずつ低下していくことが知られています。

資金ギャップ・モデルでは、その限界を克服するために、発展途上国においては余剰労働力が豊富にあり、企業の生産能力の制約条件は「生産設備の不足」だけであると仮定しているのです。

しかし、発展途上国においては、余剰労働力が豊富にあると仮定するよりは、その生産要素の初期配分のあり方(労働力と設備の割合)に応じた生産技術が「すでに」用いられていると仮定する方が自然です。

そうすると、生産性の制約条件が資本的要素だけであって余剰労働力は遍在しているという仮定は現実的ではありません。これがイースタリーの批判の一つめの理由です。

もう一つの批判は、発展途上国側におけるインセンティブの歪みの問題です。

援助国側の開発援助額決定が資金ギャップ・モデルに従って決定される。そして、資金ギャップが存在する限り援助はなされるということを、発展途上国が知っていた場合どうなるでしょう。

常に資金ギャップを最大化するような戦略をとることが最も自己の利得を最大化することにならないでしょうか?

具体的には、消費を増加させ、貯蓄を抑制する政策を採用することです。意図的にこのような戦略をとることにより、途上国は常に援助を受け取ることが可能になるのです。

概ね、イースタリーは、このような批判を加えた上で、ハロッド=ドーマ・モデルからソローモデルの解説にうつっていきます。

その後のイースタリーの主張は、技術発展と人的資本の蓄積が成長の要因であるということです。そして、そのためには知識の波及と移転が必要だと説きます。私は、イノベーションにまつわる話しは、クリステンセン/レイナー「イノベーションへの解」に触れるほうが説得的であると思います。

債務救済には新政府のコミットを添えて
借入れを増やそうとするインセンティブを避けるためには、債務救済が今後二度と行なわれなくてすむような信頼性のある政策を、債務救済プログラムによって確立するよう努めなければならない。もしこれがむずかしいとするなら、そもそも債務救済の発想自体が問題である。途上国の政府には、いざとなれば債務が救済されることを予想して、借入れを続けようとするインセンティブが強すぎるのである。P191
ウィリアム・イースタリー「エコノミスト 南の貧困と闘う」(東洋経済新報社 2003)

支援機関はインセンティブの歪みを是正すると同時に、HIPC側に債務救済にコミットメントがともなう事を確約させ、HIPCに説明責任を求めていく必要がある。

また、国を富ますのではなく、人を富ますという前提を抜きにして経済開発は語れないだろう。人的資本投資が国外への人材流出を加速させることも視野にいれる必要がある。

■参考リンク
Libertarianism@Japan The Elusive Quest for Growth 
サックスとアンジェリーナ・ジョリーの重荷(1)
「開発」(あるいは「発展」)って何だろう? (1)
イースタリー講演と日本の開発援助
ハイエクと知的財産権


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■tabi後記
知が広がることよりも、無知が広がることを実感していたい。
posted by アントレ at 07:27| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月08日

tabi0220 ゲーテ/柴田翔 訳「ファウスト 下」

Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch, du bist so schoen !
メフィスト
どんな快楽にも どんな幸福にも満足せず
次々と移り変わる姿を追って 挑み歩く男だったが
哀れなことには最後になって 何ともつまらぬ
空っぽの瞬間を わが手に握っておきたがった。
随分と俺に手を焼かせたが
時間には逆らえず老いぼれて ついに砂の上で往生だ。
時計は止まった

合唱 
時計は止まった! 真夜中のように黙り込んだ。
針は落ちた。

メフィスト 
針は落ちた。<事成れり!>

合唱 
事は過ぎたり。

メフィスト 
過ぎた? 馬鹿な言葉だ
何で過ぎるのだ?
過ぎたも 初めから無いも 完全に同じことだ!
それでは われらが<永遠の活動>はどうなるのだ
造られたものを無へと帰する活動は?
「これにて事は過ぎたり!」ーいったいどんな意味だね?
それならもともと無かったと同然で
その癖 結局は輪を描いて 有ると同じということになる。
むしろそれより俺の気に入るのは 永遠の空虚という奴なのだ。P475-476
ゲーテ/柴田翔 訳「ファウスト 下」(講談社 2003)


ギリシャに関するパートでは少々つまづいてしまったが、この本は何度も読むことにしようと決めたときに、全てがスッと入ってくるように感じた。引用したのはファウストが絶命した後、作品も終盤にはいった場面である。

このシーンは、メフィストが契約通りと判断しファウストの魂を奪おうとするが、合唱しながら天使達が天上より舞い降りてくるところだ。その後、天使は薔薇の花を撒いて悪魔を撃退しファウストの魂を昇天させる。

私にはこのシーンが未だに理解出来ていない。一般的な理解は、ファウストが「憂い」に視力を奪われても尚、その意思を捨てずに新しい土地に新しい人々の理想郷を作るおとを惜しまなかったことが救済に値する行為だったという判断です。もちろん真理は闇のなかである。

だが、第一部にも書いたように、ゲーテが対峙したのは「全て」である。その「全て」がこれなのか?と思う。考えとしては、華々しい結末を期待する心性にこたえないということや、メシア的救済といった理解もできるであろう。

しかし、それでいいのか?と思う。私が今のところの理解しているところでは、「それいいのか?」と読者へ想起し続けるための「開かれた結末」だったということだろう。

■参考リンク
第九百七十夜【0970】
Wikipedia ファウスト 第二部
精神的陽光
グノー 「ファウスト」 


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■tabi後記
Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch, du bist so schoen ! における「dU」が大切であろう。
posted by アントレ at 20:10| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0219 ゲーテ/柴田翔 訳「ファウスト 上」

全ての果てにある全て!
天主
よいだろう。お前にまかそう!
彼の精神をその根源から引き離し
もしお前の手におえるものなら
それを好きなように引きずり下ろしもするがよい
そして最後には恥じ入って白状するのだ
心ばえ秀でた人間は 暗くおぼろなる衝動のうちにあっても
自分の踏むべき道を忘れることは決してないものだと。P30
ゲーテ/柴田翔 訳「ファウスト 上」(講談社 2003)


小説/戯曲を読むということは主張をもとぬことであろうと思う。バフチンポリフォニー理論にもとづいて考えると、「ファウスト」という作品に登場するファウスト・メフィスト・天主・マルガレーテ(グレートヒェン)・学生などの言葉を拾い上げることは控えることになる。

ある人間の発言から何かを論じるのではなく、関係性(場)に起ち現れていること「全て」がファウストという作品なのである。この視点から論じると、ファウストはメタポリフォニーな作品だといえそうだ。なぜならファウストが望むものは『全て』であるからだ。そして、メフィストも<全て>、天主も【全て】を希求している。ゲーテは全ての連なりによって「全て性」を論じているように思えるのだ。

■参考リンク
第九百七十夜【0970】
475旅 ゲーテ『ファウスト 第一部』
Wikipedia:ファウスト 第一部
精神的陽光
グノー 「ファウスト」 


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■tabi後記
古典を読むと、眠りし魔物を呼び起こすことになる。非常に危険な営みだ。スポーツやグラディエーターの世界を体感するようだ。
posted by アントレ at 19:30| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0218 池谷裕二/糸井重里「海馬」

絶妙なバランスのうえに成り立つ生活
外界にアンテナを巡らせることは、つながりの発見には必須だ。情報入力のためのアンテナ、これを認識力と言い換えてもよいだろう。入力なくして出力はありえない。そして次に問われることは、認知された情報に、いかに新規な視点を付加するか。言うまでもなく、この過程こそが全行程の律速だ。と同時に、個性顕示の場でもある。P312
池谷裕二/糸井重里「海馬」(新潮社 2005)


インプットを惜しまず、かといってインプットしすぎない。アウトプットを大切にしながらも、根底への思索をないがしろにしない。頑固になることが大切であるが、柔軟性も大切である。このような態度は矛盾である。

だが海馬は、それを好しとする。むしろ安易な統合を好しとしてない。相矛盾する考え、統合と同時にあらわれる対立概念/別概念。これらを並列に飼いならすことを指南しているのかもしれない。

並列に飼いならすことに辟易せず、拍子抜けすることもなく、ただ自らが行なっていることが「そうであるか?」と反省的にいられるかどうかが試されている。「脳」にだまされず、「脳」をだましていきたいと思う。

■参考リンク
ねむりと記憶。
海馬 脳を困らせる旅に出る?


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■tabi後記
久々に多摩市に足をはこぶことになりました。戸籍謄本を本籍地まで取りにいかなくてはいけないことに驚きをおぼえた次第です。確定申告はネットでできるのに、戸籍謄本を共有するシステムはないようです。
posted by アントレ at 18:31| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月07日

tabi0217 玉城康四郎「仏教の根底にあるもの」

見性から性見へ
「形なき純粋生命が、全人格的思惟を営みつつある主体者に顕になるとき、初めて人間自体の根本転換、すなわち目覚めが実現する」このなかで、主体者はなにか。さらに具体的には何を指すのか。それがブッタのいう業熟体であり、いわゆる人格的身体である。唯識思想のアーラヤ識もこれにつながるが、単に識というのみでは不徹底である。識も何もかも呑みこんでいる身体がここに問われている。P306

存在の統括体が、業熟体であり、人格的身体である。それは、自己意識も、無意識も一切が融けこんでいる、自己存在の根源体であり、自己の自己なるものである。同時に、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものとの交わりにおいてこそ現われているものなるがゆえに、宇宙共同体の結節点である。私性中の私性と、公性中の公性との、二つの同時的極点である。P307
玉城康四郎「仏教の根底にあるもの」(講談社 1986)


禅では全人格的な推理および体得を「見性」と呼ばれている。性を見るとは、確かに体得することであるのだが、そのことが問題であると玉城氏は言うのだ。

なぜなら、見性ではどうしても見る主体が残ってしまうからだと。

実際に残って、元の木阿弥の日常の自己に戻ってしまう。そこで玉城氏は、瞬発的/一時的な神秘体験ではなく、持続的なこととして見性を取り扱っていくことにする。

すると、仏教の根底が「性見」にあるかもしれないと思いはじめたのだ。それから十年くらい経った時に「性が見われる」ということを原子経典の文献で抑えたのである。それが「ダンマ」であり、「如来」であり、「アーラヤ識(能蔵、所蔵、執蔵)」と「マナ識」の関係である。

このような根底の視点から法然・親鸞・空海・道元を同質的に論じていったのが本書である。今までは、法然・親鸞は浄土教として連続しているが、空海(真言)や道元(禅)は、浄土教とは異質的なものと考えられてきた。しかし根底から見れば、まったく同質的であるのだ。

■参考リンク
仏教の根底にあるもの NHK教育テレビ「こころの時代」
覚醒・至高体験の事例集 玉城康四郎氏


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■tabi後記
実際のところは、全く消化しきれていない。久々にスゴい学者に出会った気がします。
posted by アントレ at 09:15| Comment(0) | tabi☆☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0216 茂木健一郎/江村哲二「音楽を「考える」」

異常が正常になったとき
作曲ということの一つには、自分の心の奥底にある、ある意味では決して開いてはいけない部分に、何かを探って切り裂いていく、そういう過程があるんです。(中略)それを茂木さんは「自分が傷ついていくこと」と表現しています。自分が傷つくことをやっていながら、「傷ついている」ことそのものを表現してしまったらおもしろくもなんともない。その「傷ついていく」プロセスが何か新しいものを生み出すわけです。P22
茂木健一郎/江村哲二「音楽を「考える」」(筑摩書房 2007)


作曲とはいわば、ぎりぎりの境界線上に位置しながら生み出し続けるものである。

モーツァルトの弦楽四重奏K465《不協和音》冒頭のアダージョは、そういった「闇」の部分をかいま見せている作品である。弦楽四重奏K465《不協和音》は対斜という問題を含んでいる。

Mozart 'Dissonance' Quartet K.465


しかし、ウェールベルンや現代の曲に慣れ親しんだ人たちには対斜や半音階進行などは「正常」なことであろう。私も何の違和感も聞ける。

Anton Webern Fünf Sätze 1


しかし「正常」は「異常」であったのだ。

「異常」といわれる地点へ跳躍したものの軌跡が音楽には存在している。それはジョン・ケージ(「きく」の復権)も、ワーグナー(無調性という時代性の表現であり、12音技法への確かなつながり)もそうであろう。

本書では、マルセル・デュシャン(1回性の創出)も一例としてあげられている。このような視点は、解釈学・系譜学・考古学を実践しているようで心地よいものがある。

John Cage "4'33"


John Cage about silence


Richard Wagner. Tristan - Isolde Prelude


Mozart Piano Concerto No. 9, First Mvt, Mitsuko Uchida


■参考リンク
江村哲二の日々創造的認知過程
想い出


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■tabi後記
Youtubeへの投稿数にあらためて驚いてしまう。
posted by アントレ at 02:27| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0215 糸井重里「ほぼ日刊イトイ新聞の本」

クリエイターの「まかないめし」を提供してもらう
「あの会社の『幸福感』が好きだから、私はこのクルマに乗るのよ」というようなことを、いまの人たちは、無意識にやっていると、ぼくは思う。P348

つまり、ぼくは、「あらゆる不幸は、全力を尽くせないという悲しみにあるのではないか?」と考えているのだ。逆に言えば、不幸に思える環境でも、全力を尽くすことができたら、ものの見方ひとつで、死ぬ前に「あぁ、面白い人生だった!」とつぶやくことができるかもしれない。
『ほぼ日』は「人が全力を尽くす場を開拓するメディア」になりたいと思うし、すでに読者から反響をもらっているように、「人が全力を尽くすことを手助けするメディア」でありつづけるべきだろうと思うのだ。P352
糸井重里「ほぼ日刊イトイ新聞の本」(講談社 2004)


糸井さんとの出会いはなぜ吉本隆明/糸井重里に出逢ったのか?に書かせてもらったが、「ほぼ日」との出会いは未だに分からない。恐らくは、ネットサーフィンで出会ったのだろう。

このように出会いの起源がモヤモヤしているときは「その物事との出会い方」に焦点をあてたくなります。また、出会い方よりも付き合い方に特徴があるのでは?と考えたくもなる。

私の付き合い方は「ほぼ日」をRSS登録し、ほとんどの記事をスルーするような状態です。(山田ズーニーさんの記事をたまに見るくらい。)

けれど、対談企画が立ち上がってくると様子がかわる。池谷さん、岩田さん、吉本さんなどが、それである。これが「まかないめし」といわれるものであろう。

糸井さんは「ほぼ日」というものを放課後のパワー/退社後のパワーを突き動かすメディアにしたいと語っていた。私は、それを突き動かす役割はサイトにあるのではなくて、手帳をはじめとする物販品が担っていると思っている。

手帳などをつうじて、ほぼ日的幸福感に僅かながらに接触していることが、(近づき離れずという)出入り自由な宗教性が演出されていると考えている。

■参考リンク
ほぼ日刊イトイ新聞
人格というブランド


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■tabi後記
Grameen Change Makers Programに内田も参加することになりました。告知した時は別予定が入っていたため、参加など考えてもいませんでした。

と思っていたら、V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」を読了した後から嘘のように予定キャンセルが発生したのです。笑

ということで「バングラディッシュへ行ってほしいという人生からの期待だな」と錯覚して、応募したのです。行くからには成果出してこようと思います。考えを整理したうえで、旅立とう。
posted by アントレ at 00:29| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月04日

tabi0214 木下是雄「日本語の思考法」

語尾に苦しむ緩衝人
論文のなかで、「ほかの可能性もあるのにそれを斟酌せずに自分の考えを断定的に述べる」ことにはいつもひどく引っかかる。心のなかで押し問答をくり返したあげくに、やっと「である」と書くけれども、じつは「であろう」、「と考えられる」とふくみを残した書き方をしたいのである。これは私のなかの日本的教養が抵抗するのであって、精根において私が逃れるすべもなく日本人であり、日本的感性を骨まで刻みこまれていることの証拠であろう。P105
木下是雄「日本語の思考法」(中央公論新社 2009)


もちろん英語にだって主張の強さややわらげる叙述法はいろいろある。

perhaps,probably,presumably,...というような副詞もあるし、would(やwill)を推量や遠慮の意をこめて使う可能性もある。It seems to me thaat...,I suppose...などという言い方もできる。

だが、欧米人には、論文のなかの推理や主張のような場で、日本語の「であろう」、「と思われる」、「と見てもよいのではないか」に相当する緩衝性のある表現を使う心的習性がないようだ。

こういった推論から、論文などの場で使われる「であろう」は翻訳する手段がない。形式的にぼかした言い方をしてみても<場ちがい>で著者の気持ちは伝わらないーという考えた生まれている。

翻訳不可能性についての話しよりも、自分自身が引用文にある経験をしていることが興味深かった。それは「ほかの可能性もあるのにそれを斟酌せずに自分の考えを断定的に述べる」ことにはいつもひどく引っかかる。心のなかで押し問答をくり返したあげくに、やっと「である」と書くという行為である。まるで「語尾に苦しむこと自体が、ニホンゴを話者の制約である」と宣言されてしまったようだ。

■参考リンク
youngblood


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■tabi後記
八重樫さんとお会いし、彼女が去年書き記した「みること」という論文について話をしました。

論文の流れとしては「なぜ人はモナリザをみたときに「意外と小さかったね」という言うのか?」という問いを起点にし、ベンヤミン(アウラ)→高山宏(ピクチャレスク)→スタフォード(身体の疎外)→荒川修作(建築的身体)を援用しながら、「今・ここ」を論じていている。先験的体験にも、神秘的体験にも回収されない確かな「実感ある見る体験」を探究した素敵な論文だった。
posted by アントレ at 22:06| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0213 丸谷才一「思考のレッスン」

問いをもち、問いをそぎ、問いをそだてる
われわれだってホームグランドは持てる。といっても、これは、よく言われる全集を読めというのとは違います。(中略)そうではなくて、自分にとっての主題というか、もっと広い意味でのホーム・グラウンドがあるようにして読む、それはおのずからできると思うんですよ。たとえばフランス革命史がホーム・グラウンドであるような読書とか、あるいは米ないし稲作という問題が自分のホーム・グラウンドであるような読書とか、それが、本の読み方のコツではないかという気がします。P149
丸谷才一「思考のレッスン」(文芸春秋 2002)


人は図書館/大型書店を回遊することによって、自らの「問い/ホーム・グラウンド候補地」を見つけ出すことができる。

あるコーナーで、ふと足がとまってしまう。ふと手にとった本を数ページを読んでみて、「これは!」と思えるものに出会えらしめたもの。その本が、あなたのホーム・グラウンド候補地になるだろう。

しかし、ここからが大事ところである。

「問いをそぎ」「問いをそだてること」というフェーズに入るからだ。

原初的な「問い」は、誰かの「問い」であることが多々ある。あなたの「問い」は、単に無知だったがために「問い=謎」という形をとっていることが大半なのだ。それを前提にしてもっておくことは非常に大切なことです。

なぜなら、最初に抱いてしまった問いを、何か神秘的なものと勘違いして、それを捨て切れない人が往々にして見かけるからだ。そこで執着しないこと。それが問いをそぐことである。

問いをそぎ、それでも残ってしまうものがある。そこから問いとの伴走がはじまる。それが「この問いをいかに育て上げるか?」というフェーズである。

このフェーズでは「比較と分析を大切にしたほうが良い」と著者はアドバイスする。「これは!」と思った著者の本、それと同カテゴリーの本、また著者が参考/推薦している本を読んでいくのだ。こういった方法で50冊ほど読破していくと、自分の中で「キーワード」が湧いてくると思う。

次はそのキーワードに基づいて「インデックスリーディング」をしていくのである。(具体的な方法は、参考リンクをみて頂きたい。)

この域に達した人は、自分の思考方法を編み出してきていると思う。その時になると、教える立場にたつ機会をえているだろう。本書を入口にして、多くの思索家が生みいでることを期待する。

■参考リンク
読書は人間がベッドの上でおこなう二つの快楽のうちの一つ


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■tabi後記
「まとまった時間があったら本を読むなということです。本は原則として忙しいときに読むべきものです。まとまった時間があったらものを考えよう。」という主張は、ショーペンハウエルを想起させる。
posted by アントレ at 21:29| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0212 ドン・タプスコット「デジタルネイティブが世界を変える」

アナログ・イミグレイトが世界を変える
人間の歴史における何とも特異な時期が訪れたものである。若い世代が年長者に対して未来にどう備えるべきかを教えてくれる時代が初めて到来したのだ。(中略)ネット世代から学ぶことで、生産性の高い仕事、二十一世紀の学校や大学、革新的企業、よりオープンな家庭、市民が関与する民主主義、そして、おそらくは新しいネットワーク化された社会という新しい文化を知ることができるだろう。P15
ドン・タプスコット「デジタルネイティブが世界を変える」(翔泳社 2009)


デジタルネイティブ世代の特徴としては:

・現実の出会いとネットでの出会いを区別しない。
・相手の年齢や所属肩書にこだわらない。
・情報は無料と考える。

などが指摘されている(らしい)。また、インターネットオークションなどでは購入にも売却にも積極的な層であるとのこと。

さてどうしたことか。どうも僕の関心はデジタルネイティブにはないみたいだ。というのも、周りでは次の世代がはじまっていると感じているからだ。

読後に思ったことは、デジタルネイティブがあるならアナログネイティブがいるのか?ということ。そして、デジタル国とアナログ国があるなら、互いの国への移民がいるだろう?という考えです。

と思いながら検索をしてみると、すでに論じられていました・・。

アナログネイティブに関しては、アナログ原理主義者とデジタルネイティブという記事があり、デジタルイミグレイトに関しては、アナログなんて知らないよ! デジタルネイティブが開く時代に記載してあります。

しかし。言葉遊びが好きな私としては、ここで「アナログイミグレイト」という言葉を登場させたい。

tabi0212.jpg

アナログ・イミグレイト世代の特徴としては:

・仕事はプロジェクト制を基本とするが、受注先にも個人的な関係を求める
・現実の出会いとネットでの出会いを区別しないが、出会い方を激しく重視する
・相手の年齢やジェンダーや国籍にこだわらないが、良い問いをもっていること重視する

などが指摘されている(らしい)。

また、近隣コミュニティーが志向性に共鳴し合うコーポラティブハウスになっているため、自律的な経済圏が生まれているらしい。最も大事な特徴としては、アナログ・イミグレイトは「ALWAYS 三丁目の夕日」のようなノスタルジックなものは大嫌い。

■参考リンク
今からやつらに任せろ - 書評 - デジタルネイティブが世界を変える


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■tabi後記
デジタルネイティブに類似する言葉は、ネタとしても使用しないことにした。それは、こういう類いの言葉に限ることではない。誰かが生み出した言葉を無批判に使うほど、自らの思考を制約することはないと考えているからだ。
posted by アントレ at 21:06| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月02日

tabi0211 V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」

意味から意身へ
「生きる意味があるのか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。P27
V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」(春秋社 1993)


フランクルの名は「夜と霧」で知っている方もいるだろう。本書はフランクルがナチスの強制収容所から解放された翌年にウィーンの市民大学で自らの体験と思索を語った講演集である。

意味が相対化され、解が納得化された時代において「意」とうのは虚しい。このようなニヒリズムが優勢をしめる中で、フランクルは「意」について探究していく。

「意味から意身へ」というフレーズをつくらせてもらったが、彼が伝えたかったのは「意」を味わうくことではなく、「身」で意することなのだと思う。

つまり色も味もなき「意」(人生=世界)を味わおうとしたり、探そうとしたりするのは笑止千万、荒唐無稽な話なのだ。

未来が無いように思われても、怖くはありません。もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのです。その際、どんな未来が私たちを待ち受けているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのですp28
V・E・フランクル「それでも人生にイエスと言う」(春秋社 1993)


意身とは「私は人生にまだ何を期待できるか」から「人生は私に何を期待しているか」という「イミ論的転回」を遂げたときに生ずるのであろう。

■参考リンク
981旅 フランクル『それでも人生にイエスと言う』


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■tabi後記
つぶやき書評になってしまった。
多くを書くまでもないのだろう。

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tabi0210 マーカス・バッキンガム「さあ、才能に目覚めよう」

強みの理解が他者の理解を導く
「強み革命」を起こすには、弱点にこだわるのをやめ、人に対する認識を改めることが何より大切だ。人に対する正しい認識を持ちさえすれば、配属、評価、教育、育成などその他の事柄もすべて自ずと正しい方向に向かうはずだ。それをすでに実践している、すぐれたマネジャーが、共通して持っている二つの認識を示そう。
1.人の才能は一人ひとり独自のものであり、永続的なものである。
2.成長の可能性を最も多く秘めているのは、一人ひとりが一番の強みとして持っている分野である。p12
マーカス・バッキンガム「さあ、才能に目覚めよう」(日本経済出版社 2001)


本書は、「才能(強み)」とは、無意識に繰り返される思考、感情、行動のパターンと定義する。ユニークだと思った点は「才能」はなんら自慢すべきものではないという視点である。

一般的に才能という言葉は、持って生まれた「特殊な」資質および素質と考えられている。もちろんこの考え方自体は誤りではないが、才能が宿っているのは「ごく少数の人」と考えてしまうのは誤りなのだろう。

また「強みは常に完璧に近い成果を生み出す能力」とも書かれている。この完璧に近い成果というものが、インパクト勝負になってしまうと「少数」という考え方がつくのだろう。

本書ではそのような「インパクト」を問題とするよりも「満足のいく結果を出すには、あらゆることがうまくこなせなければならないのは嘘」であることを認識することに重きをおいている。

この主張を極端にすれば「オールラウンドはいらない」ということであろう。だが、ここで伝えられていることは「強みが見えれば、自分の(相対的な)弱みもみえてくる」ということだ。強みに気づくことで「餅は餅屋」という考えを理解できる。

この理解が「チーム」で仕事をするということに情熱をもたせるのだろう。

強みはどう表現されるのか?

例えば「人あたりがいい」という表現は何をさすのだろうか?

・一度しか会ったことのない人とでも信頼関係を築く才能があることなのか?
・初対面で相手に好印象を与える才能があるのか?


「自主性がある」とはどういうことか?

・どのような業務を与えられても意欲的に取り組む姿勢があるということか?
・意欲をかきたてられる目標を与えられると、がぜんやる気を起こして取り組むことか?

これと同じようなことが本書で提示される「強み」にもいえる。

テストを行なった人は、包含、社交性、内省・・・といった34の強みから5つの強みが提示されていると思うが、ここで提示された5つの強みは「深堀り」されなくてはいけないだろう。ここで示された言葉から演繹的に強みを理解することが求められるのです。

私は、

1 収集心 Input
2 指令性 Command
3 個別化 Individualization
4 活発性 Activator
5 着想 Ideation

という言葉があてがわれた。

明らかなことだが「この5つが私の強みです」などと語っていては意味がない。この言葉(概念)を踏み台にして、過去の事例(現在の状態)を探っていくことが大切である。

ここで提示された「強み」は想起を促進するためのツールなのであって、語るための強みではない。語るためには、エピソードを誘発するような「問い」が必要である。

テスト実施後に送られてくる「強み」の解説があると思います。その解説を参考にしながら「問い」をつくりだすことが必要です。

例えば、私は以下のように「問い」を設定して、エピソードや習慣化された行動特性(頑張り方の根っこ)を掘り下げて行きました。

1 収集心 Input
・今までどのようなものを集めていただろうか?
・集めたものをどう整理していたのか?
・集めたものをどのように活用していたのか?

2 指令性 Command
・どのような考えを他人に押しつけてきただろうか?
・対決を恐れずに突き進んだことは何だったか?
・自分が強い存在感をもったのは何時だったか?

3 個別化 Individualization
・どのような一般化、類型化に我慢できなかったか?
・どのような人の個性、物語を理解しようとしてきたか?

4 活発性 Activator
・皆が恐れる中で行動を起こさずにいられなかったことはありますか?

5 着想 Ideation
・ほとんどの出来事を最もうまく説明できる考え方はありましたか?
・どのように誰でも知っている世の中の事柄をひっくり返しましたか?

皆さんもやってみれば分かると思いますが「示された強み」には「問い」に変換しやすいものとしにくいものがあります。

私でいうなら、1,2,3は変換しやすいが、4,5は変換しにくい部類にはいりました。この部類わけが生じるのは興味深いところです。

つまり「なぜQuetion-Induced(質問誘発性)に差が生まれるのか?」ということです。これから考えてみたいとテーマです。

■参考リンク
これで百戦危うからず? - 書評 - さあ、才能に目覚めよう



■tabi後記
思索のヒントとして「キャリアをつくる9つの習慣」に記載されている、コミットメント系、リレーションシップ系、エンゲージメント系という動機性質はつかえると思った。

・コミットメント系
達成動機(最上志向など)、パワー動機(闘争心)

・リレーションシップ系
社交動機(親和欲)、伝達動機、理解動機、感謝動機

・エンゲージメント系
自己管理動機(鍋奉行)、外的管理動機(ルール志向)、抽象概念動機(内省)、切迫動機(活発性)

とわけられている。
posted by アントレ at 08:44| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月01日

tabi0209 藤井大輔「「R25」のつくりかた」

無意識に辿り着くインタビュー
「ダ・ヴィンチ」時代、作家のみなさんと一緒に、人間の奥深い業のようなものを追いかけていたこともあり、そもそも人間はそんなに単純なものではないと思っていました。パソコンの画面からラジオボタンで調査票に答える、でも、それは本当の気持ちなのか。そのデータをそのまま考察して、「これがファクトです」と単純に分析してしまうのは、あまりに危険なことではないか。人間とはもっとややこしくて難しくて面倒臭い存在のはずではないか・・・。人は簡単に本音を語らない。P41-42
藤井大輔「「R25」のつくりかた」(日本経済新聞出版社 2009)


くらたまなぶ「リクルート「創刊男」の大ヒット発想術」を地で行なったような内容となっている。「M1層のイタコ化」という表現や「帰りの電車で読む」という状況設定から判断した。

tabi0209.jpg

R25をAMIAモデルでまとめてみた。私自身は「R25って読んでいるの恥ずかしくない?」という層にあたってしまうので、1事例として興味深く読ませて頂いた。(参考リンクが充実しています)今後の展開に注目したい。

追記
R25式モバイルは、2005年7月のサービス開始以来、多くのお客様にご支持いただいておりましたが、諸般の事情により、2009年7月30日(木)17時をもちましてサービスを終了させていただくことになりました。
http://r25.jp/b/static/a/static/stn/mobile

■参考リンク
"「R25」のつくりかた" のつくりかた
藤井大輔著「R25のつくりかた」を読んだ!
「R25」のつくりかた
1042旅 藤井大輔『「R25」のつくりかた』



■tabi後記
R25って読んでいるの恥ずかしくない?という層は、どのような本音をもっているのだろうか。
posted by アントレ at 19:18| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0208 盛田昭夫「MADE IN JAPAN わが体験的国際戦略」

われわれは一技術者にすぎなかったのに、企業的大成功を夢みていたのである。ユニークな製品を作れば大儲けできると考えていた。私はこのテープレコーダーを必ず成功させてやろうと決意した。

毎日チャンスをとらえては人に見せた。トラックに積んで会社や大学に持って行き、友人の家を回り歩き、彼らの話し声や歌を吹き込んでみせた。まるで芸人になったようだ。

機械を回しては人の声を録音し、本人に聞かせてやると、みな大喜びしたり驚いたりした。だれもがこの機械を気に入ってくれた。が、だれ一人買おうという人はいなかった。みんな異口同音に言ったことは、「確かに面白い。だがおもちゃにしては高すぎるよ」であった。

ようやくわれわれは、独自の技術を開発しユニークな製品を作るだけでは、事業は成り立たないことを思い知ったのだった。大切なことは商品を売るということだった。P113
盛田昭夫「MADE IN JAPAN わが体験的国際戦略」(朝日新聞社 1990)


盛田氏は、同じ高価なものでも、なぜ実用価値の無い骨董品が買う人がいて、実用的なテープレコーダーが売れないのかを考えた。

その結果、「買い手にその商品の価値をわからせなければ売れない」ことに気がついた。そして、商品の価値を分かってもらえる人にアプローチをしたのである。それが最高裁判所の速記担当者であった。

娯楽としてではなく実用として認識価値をもってくれる相手へ、商品を売り込みにいくというマーケティングが記されている。ここで感得したことがウォークマンなどのマーケティングへ活かされていったと思うと、彼の原点はテープレコーダー営業にあったのだと考えさせられる。

■参考リンク
Made on the Japanese Soil
895旅 盛田昭夫『MADE IN JAPAN わが体験的国際戦略』



■tabi後記
やはり、早朝に読むほうがいいかもしれない。
posted by アントレ at 07:08| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0207 魯迅「故郷/阿Q正伝」

自己への期待と共同幻想

希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。
魯迅「故郷/阿Q正伝」(光文社 2009)P69


帰郷の船の中で「わたし」は故郷への未練を捨て 「ホンアル」や「シュイション」を始めとする「新しい世代」に期待を寄せる。

だが、この期待は「ルントウ」へ抱いていた期待と同じものであることに気づかされる。そして「わたし」は、他者に期待をかけてばかりで何もしていなかった自分に気付くのである。これが最終場面での大きな「心の転換」である。

引用の部分には 「わたし」 が「他者」へ期待するのではなく 「自己」へ期待し希望の実現に向かって歩き始めようとする意志が表現されている。

この意志は「Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.」というJohn F. Kennedyが要求したものと類似する。

自剰期待が生む精神的勝利

「結局俺は息子に殴られたようなもの、今の世の中、間違っとるよ・・・」こうして彼も満足し勝利の凱歌とともに去っていくのだ。P81
魯迅「故郷/阿Q正伝」(光文社 2009)


魯迅は「阿Q正伝」において、列強に侵略されながらも中華思想という文化の高さがあることで現実を見ずに、むしろ侵略してくる相手を軽蔑することによって精神的勝利(安定)を保とうとした当時の人々を滑稽に描こうとした。

私は「阿Q」の中に「故郷」の「わたし」から地続くものをみる。それは「偶像崇拝」という事態である。

「故郷」における崇拝対象が「他者」であった。そしてそこから「自分」へとまなざしが移行していった。ここで物語は終わらない。魯迅は更に先をみていたのだろう。それが「阿Q正伝」で描かれる事態である。

人はまなざしの対象であった「自分」を「崇拝」として対象化してしまう。魯迅は目線であったものが、対象へ変わりきってしまうことへ危惧をしたのだろう。私にはそのように感じられた。

■参考リンク
第七百十六夜【0716】
新春プレゼント魯迅「故郷」の感想文



■tabi後記
光文社古典新訳文庫は解説が充実している。例えば魯迅と村上春樹について。「阿Q」の「Q」は中国語で幽霊を意味する「鬼」に通ずるという。そして、魯迅文学の愛読者である、と村上自身が語っている文章が紹介されている。

「Q氏」という人物が登場する短篇小説(「駄目になった王国」)を村上氏が書いていることから、その影響が垣間見えると藤井氏は指摘している。本書刊行後に出版された「1Q84」もまた「阿Q」からきているのだろうか。
posted by アントレ at 06:47| Comment(2) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月30日

tabi0206 デカルト「方法序説」

モウラアウラ

本書の正確なタイトルは、「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(序説)、加えてその方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」である。

全体で500ページを超えるこの大著の最初78ページが「方法序説」であり、3つの科学論文集の短い序文となっている。

デカルトは、ありとあらゆる書物を読むことで、真理を獲得できると考えていたが、それによって多くの疑いと誤りに悩まされ、自分の無知を知らされることになってしまった。

デカルトは、この旅にあまりに多く時間を費やすと、しまいには自分の国で異邦人になってしまうと考えていた。それは、過去の世紀になされたことに興味をもちすぎると、現世紀におこなわれていることについて往々にしてひどく無知なままになるということであろう。

以上の理由で、わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問(人文学)をまったく放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探究しようと決心し、青春の残りをつかって次のことをした。

旅をし、あちこちの宮廷や軍隊を見、気質や身分の異なるさまざまな人たちと交わり、さまざまの経験を積み、運命の巡り合わせる機会をとらえて自分に試練を課し、いたるところで目の前に現れる事柄について反省を加え、そこに何らかの利点をひきだすことだ。

というのは、各人が自分に重大な関わりのあることについてなす推論では、判断を誤ればたちまちその結果によって罰を受けるはずなので、文字の学問をする学者が書斎でめぐらす空疎な思弁についての推論よりも、はるかに多くの真理を見つけ出せると思われたからだ。P17
デカルト「方法序説」(岩波書店 1990)


モウラになるか。アウラになるか。更に言葉遊びをするならば、「モアウラ(More裏)」という言葉生まれてくる。「ヨリウラ」とは「何より」なのか、「ウラ」は何を示すか。メタファーとして思索してみてほしい。

世界が欲する自分の秩序という視点

「餅は餅屋」を感じきったデカルトは、自分の仕事を「全生涯をかけて自分の理性を培い、自ら課した方法に従って、できうるかぎり真理の認識に前進していくことである」と確信している。
わたしの第三格率は、運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めることだった。そして一般に、完全にわれわれの力の範囲内にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけることだった。

したがって、われわれの外にあるものについては、最善を尽くしたのち成功しないものはすべて、われわれにとっては絶対的に不可能ということになる。そして、わたしの手に入らないものを未来にいっさい望まず、そうして自分を満足させるにはこの格率だけで十分だと思えた。P38
デカルト「方法序説」(岩波書店 1990)


デカルトを還元主義者の一言で片付けられるだろうか?いや、そういう問いではないかもしれない。

私は彼の著作を読むことで「自身にあるデカルト」を気づこうとてもしたのではなく、デカルトが見ていた地平は「還元主義」だったのだろうか?という違和感があるからだ。

もちろん、問いは謎のままである。

■参考リンク
方法序説×方法叙説
哲学書を無心に読むこと……的
困難は分割せよ・・・ルネ=デカルトの教え



■tabi後記
どうも近音異義語(韻)が引っかかるらしい。
posted by アントレ at 22:35| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0205 G・ポリア「いかにして問題をとくか」

われわれは全体の仕事を4つに区分することとしよう。まず第1に問題を理解しなければならない。即ち求めるものが何かをはっきり知らなければならない。第2に色々な項目がお互いにどんなに関連しているか、又わからないことがわかっていることとどのようにむすびついているかを知ることが、解がどんなものであるかを知り、計画をたてるために必要である。第3にわれわれはその計画を実行しなければならない。第4に解答ができ上がったならばふり返ってみて、もう一度それをよく検討しなければならない。P9
G・ボリア「いかにして問題をとくか」(丸善株式会社 1954)


このように数学を教えてもらった生徒は幸せだろう。55年前の本であるが「いかにして問題をとくか 」というプロセスを探究した結果は全く色あせない。55年経過することで、中川氏のような書籍が出来たのだろう。

tabi0205.jpg

今でも価値があると思ったのは、計画立案(方略立案)における「問題の言い換え」であろう。これはクレージーブレインストーミングとしても使われている。

例えば「どのようにして子どもに苦い薬を飲ませることができるか?」を考えてみる際に、「子ども」を「猫」に「苦い薬を飲ませる」を「お化け屋敷につれていく」と置き換えてみる。

この置き換えた問題について、ブレインストーミングを行っていくのだ。その後に、そこで出たアイデアを本来の問題に適用できないかを考えるということ。

このワークはアナロジーを誘発するものなので、本書で扱われている「問題の言い換え」よりも広義になっている。しかし、問題を言い換えてしまうという掟破りは大切な作業であろう。



■tabi後記
この本には出版社丸善としての志が感じられる。この時代、この本を手にとった者は何を議論したのだろうか。
posted by アントレ at 21:43| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0204 平川克美「経済成長という病」

経済は成長を要求するのか?

経済成長そのものは、社会の発展プロセスのひとつの様相であり、おそらくは発展段階に起こる様々な問題を解決してゆくだろう。しかし、経済均衡もまた社会の発展プロセスのひとつの様相であるに違いない。その段階において無理やり経済成長を作り出さなければならないという呪縛から逃れられないことこそ、私たちの思考に取り憑いた病であると思うのである。P70
平川克美「経済成長という病」(講談社 2009)


本書は、病の診断書ではない。

本書は、新たな正常を提示し、現在を異常とするような提言書ではない。

本書は、抑制をもったつぶやきである。「病だと思うんだけど・・・。どうでしょう?」という語り方である。平川氏の違和感は前書で論じられた内容を引き継いでいる。

ユヌスが言う経済成長には共感するが、マッキベンが触れるような経済成長には疑問をもつ方がいる。

偶然にも先進国に住むことになってしまった者の役割に「貧困の終焉後」の社会/経済の設計があげられるあろう。課題先進国,定常型社会という言葉は、その自体を象徴するものである。

「先進国貧困の終焉」と「後進国貧困の終焉」は異なる。そして終焉後の世界も異なるだろう。各自がこれからの時代性と欲望の変遷を目一杯考えながら、その予期される時代に「予防事業」を図っていくことがもとめられる。

■参考リンク
Joe's Labo
『経済成長という病』。 - 考えるための道具箱



■tabi後記
一人カラオケを経験してきた。声をメタ認知する装置としてつかえそうだ。
posted by アントレ at 20:53| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月29日

tabi0203 猪野健治「山口組概論―最強組織はなぜ成立したのか」

ヤクザ(任侠道)になるしかなかった人間の存在

山口組が暴対法違憲訴訟を起こした際に弁護団が用意した原告側尋問書案には次の一節がある。

<任侠道に差別はない。彼ら(引用者注・被差別部落出身者や在日朝鮮人、前歴者)の受け入れを拒否するようになったとき、それはすでに任侠道と呼ぶことはできない>

ここでいう<任侠道>がギリギリの土俵際まで追い詰められている。その問題意識が本書執筆へ私を駆り立てた。P265
猪野健治「山口組概論―最強組織はなぜ成立したのか」(筑摩書房 2008)



元公安調査庁調査第二部長の菅沼光弘は、山口組のナンバー2である高山清司から聞いた話として、ヤクザの出自は部落(同和)60%、在日韓国・朝鮮人30%、一般の日本人など10%であるという見解を示している。(あくまで伝聞資料である)

マイノリティが暴力団員となるのは、差別により経済的な理由で学校に通えなかったり、就職差別で一般的な職に付くことができなかったりしたためというケースが多い。著者は、ヤクザには「かけこみ寺」としての機能があったことを指摘している。

マフィア(暴力団)になるしかない制度改革

しかし現在の状況としては、「任侠道」というセーフティネットは瓦解の危機にある。官憲による改正暴力対策法に影響を受けて「できのわるい」(ハイリスク)人材がリストラされているのである。人材育成機関としてヤクザをポジショニングしてみると、更なる考察が出来るかもしれない。

P.S.
最強組織が成立したのは山口組が「力」をもたなくなったからだろう。

田岡一男が山口組三代目を襲名したのは一九四六年(昭和二十一年)、三十三歳のときである。須磨の「延命軒」で執り行われた襲名式には親代わりとして国会議員・佃良一も列席した。田岡一男は、襲名にあたって三つの誓いを自らに課した。

・組員各自に正業をもたせること。
・信賞必罰によって体制を確立すること。
・昭和の幡随院長兵衛を目指すこと。P79


■参考リンク
第百五十二夜【0152】
任侠は弱し官吏は強し - 書評 - 山口組概論



■tabi後記
何事もですけど。1回じゃ分からないものです。当然ながらですけれど。ただ、やり続ければ分かるかといったら、そうでもないのも現実。明日もやりたいか?といわれて「もちろん」とこたえるならば、やればよい。楽しいかどうか。楽しめそうかどうか。
posted by アントレ at 19:07| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0202 大蔵雄之助「一票の反対―ジャネット・ランキンの生涯」

気にしているのは再選よりも50年後に何と言われるか

おそらく百人ぐらいの議員は彼女と同じ事をしたかったであろう。一人としてそうする勇気がなかっただけのことである。当新聞は彼女が立場上とった考え方とは全面的に意見を異にする。あdが、それにしても何という勇気ある行為であろうか!今から百年後にこの国で、道徳的義憤に基づく勇気が、真の勇気が称えられる時、信念のために愚かしくも堂々と立ち上がったジャネット・ランキンの名前が、その業績の故にではなく、その行動の故に、記念の銅像に刻まれるであろう。P39
大蔵雄之助 「一票の反対―ジャネット・ランキンの生涯」(麗沢大学出版会 2004)


ジャネット・ランキンの名を知る人は多くないかもしれない。1888年に米国で生まれ、女性初の下院議員になった。女性の参政権運動を率いた人でもあるから、日本なら市川房枝のような存在であろうか。

生涯を通じて平和主義者として活動し、アメリカ合衆国が第一次・第二次大戦に参戦することに対して、ただ一人両方に反対したことで知られ、ベトナム戦争での反戦活動の先頭にも立った。

68年前、日本軍は真珠湾を攻撃した。それを受けた議会の対日宣戦決議に、一人反対票を投じたのがランキンである。議会は日本への憎悪を燃やし、上院は満場一致で可決し、下院は賛成が388、彼女だけがノーを唱えた。

この反対票で、ランキンは全米を敵に回してしまう。非難が渦巻き「売国奴」のレッテルを張られた。頼みの故郷 モンタナからも「あなたの味方なし」と電報が届く。その後、再選されることはなかった。あの「一票」は散った花なのか、それとも、後世に種子を残しているのだろうか。

■参考リンク
ちょっこっと
映画の街ロサンゼルスで A Single Woman
ジャネット・ランキン - Wikipedia



■tabi後記
ボルダリング終了。この遊戯は、登る経路、登り方について考え、実践することで快感を得る営みな気がする。手足を制約にしながら方略を考えること。最低限の疲労で登ることに関心があれば、やってみてほしい。
posted by アントレ at 17:43| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0201 高橋昌一郎「ゲーデルの哲学」

判事が、「あなたは、現在ドイツ市民権を所有していますね」と尋ねると、ゲーデルは、それを遮って「いいえ。オーストリア市民権です」と言った。「いずれにしても、独裁国でしたな。しかし、わがアメリカ合衆国では、そのようなことは起こりえませんからね」と判事が言うと、ゲーデルは、「それどころか、私は、いかにしてそのようなことが起こりうるのかを証明できるのですと言った。アインシュタインとモルゲンシュタインは、慌ててゲーデルを制して、一般質問に話題を戻した。一九四八年四月二日、ゲーデルとアデルは、アメリカ合衆国市民権を宣誓した。P155
高橋昌一郎「ゲーデルの哲学」(講談社 1999)


ゲーデルの入門書として評価が高い一冊。ゲーデルの死後に明かされた大量の遺稿から、ゲーデル像を新たに築きなおし、ゲーデルによる神の存在論的証明について、日本で始めて紹介した点がユニークなのだろう。

ゲーデルの不完全性定理によって「人間の知性の限界が示された」という人もいるが、少し注意が要る。直接的には「形式化できる論証」の限界が示されたのであって、それ以外の人間の知性ー形式化されていない価値観・感性・構想・意図・直観などまでにはかかわっていないからである。P273
野崎昭弘「不完全性定理」(筑摩書房 2006)


ゲーデルには、ウィーン学団期とプリンストン高等研究所期があると考えられており、後者の時期において、形式化されていない知性を探究するために、反人間機械論や神の存在論へ向かったとされる。

このあたりの文章にふれると、理性主義を貫く神秘学者というようなイメージを抱かされる。自身の思索をガベルスベルガー式速記にまとめあげたことにも関心がむく。

理性の限界が示されたときに、その理性を脱構築(脱魔術)してしまうのは容易い。その容易さに溺れずにいることは大切であろうが、魔術の起源問題に寄り添いすぎずにいることと並走させていたい。

限界の果てに何をみるのか。限界から何が生まれるのか。限界の敷かれぬところへいくのではなく、限界の敷く/敷かれぬという地点ではないところへいくのか。「ところへいく」から離れるのか。「はなれる」などの述語をどう扱うかも射程にはあると思えば、一向に深みがましてくる。

追記
高橋悠治 × 茂木健一郎: 他者の痛みを感じられるかと併せてみるといいかもしれません。

■参考リンク
第千五十八夜【1058】
数式なしでわかった気になれる「ゲーデルの哲学」
337旅 『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』



■tabi後記
周囲はボルタリングに嵌っているようだ。事の真偽を確かめるべくRhino and Birdいってきます。
posted by アントレ at 11:51| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月28日

tabi0200 鴨下信一「日本語の学校」

声に出すことからどう声に出すかへ

朗読・音読とは何か、と聞かれたら<文を区(句)切って読むことだ>と答えます。

日本語は世界一美しい言葉です

あなたはこれをどう句切りますか?

ひと息で読めますーいきなり困った答えですが、まあ結構。その読み方を0とします。でもそのほかに、少くとも二通りに句切れます。

1 日本語は/世界一美しい言葉です
2 日本語は/世界一/美しい言葉です

1では「日本語」という言葉に聞く人の注意がいきます。ああ、日本語について話すんだな、ということがはっきりする。文の「構成」、つまり「意味」がはっきりするんです。

2では「世界一」に注意がいくでしょう。こうすると何か「気分」「感情」が入ってくるような気がしませんか。感情が生れるということは、そこに「表現」が存在するということです。この区切り方は「表現」のために句切るのです。(中略)

読み手は<自分で句読点を再構成しなければならない>、これが大事な点です。P18-20
鴨下信一「日本語の学校」(平凡社 2009)


本書は「声に出して読む」ことから「どう声に出して読むか」かへ焦点をあてる。そして、声に出して読むことで見えてくるだろう<何か>、日本語の<何か>を探ろうとしている。

自身の「読書」を考えると、音読でも黙読でもない。速読ですか?といわれるが、そうでもない。(ここを語り出すと時間がかかるので「そうです」といってしまうのだが)

近い感覚では、見つめているといえるだろう。まなざしを送っている。(フォトリーディング的ではある。もちろん、プロの写真家が被写体と対峙する感覚で「フォト」という語彙を使用しているなら)

けれど、フォトリーディングとも異なる気がしている。そう思うのは、フォトするのはテクストではないからだ。むしろインナーテクストである。

目は本を、耳は心を、体は声を、口は言葉に「まなざし」をむけている。諸感覚を分けてるいないことを伝え買った。かといって5感というように統合的ではなく。あえていえば繋ぎ目と繋がるような営み。

■参考リンク
こどものもうそうblog



■tabi後記
tabi200まで6ヶ月強かかったことになる。
年末までに400と決めていたので、予定としては順調である。

振返ってみると、本を読んだ月ほど調子がいい月だった。
6月が不調だったかというと、まだ2日あるので保留しておくが。笑

2009年06月(19)
2009年05月(60)
2009年04月(15)
2009年03月(22)
2009年02月(23)
2009年01月(34)
2008年12月(29)

7月からは60冊/月は保っていきたい。
陰ながら読んでくれてる皆さん、ありがとう。(tabi後記しか読んでくれない方も。)

内田はまだまだ頑張ります。
posted by アントレ at 18:12| Comment(1) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0199 結城浩「プログラマの数学」

語られ方に敏感であること

プログラミング/プログラマという言葉について考えることが多い。

一般的に、プログラミング(Programming)という言葉は「人間の意図した処理を行うようにコンピュータに指示を与える行為」(Wikipedia)と考えられており、「プログラミングをする人をプログラマ」(Wikipedia)と思われている。そして「ほとんどのプログラミングは、プログラミング言語を用いてソースコードを記述することで行われる。これをコーディング」(Wikipedia)という前提があるだろう。

私はこの「語られ方」に違和感をもっている。なぜPro(前もって)-Gram(書く)がComputer Programと捉えられてしまったのか?という問いと、なぜComputer Programという行為がCodingと捉えられてしまったのか?という問いを保っているからである。

ここでは後者に視点をあててみたいと思う。以下はアジェンダを設定するだけなので、問いに答えは見出されていない。

本書を振り返ってみると、「人間は何が苦手か」が浮き彫りになります。そして、その「苦手」なところを克服するためにさまざまな知恵が生まれたのです。

人間は、大きな数を扱うのが苦手です。ですから、数の表記法がいろいろ工夫されました。(中略)人間は、複雑な判断を間違えずに行なうのが苦手です。ですから、論理が作られました。論理式の形で推論をしたり、カルノー図で複雑な論理を解きほぐしたりします。人間は、たくさんのものを管理することが苦手です。ですから、グループ分けをします。(中略)人間は、無限を扱うことが苦手です。

・・・このように、さまざまな知恵と工夫をこらして、人間は問題に立ち向かいます。なんとか問題の規模を縮小し、複雑さを軽減し、「あとは機械的に繰り返せば解ける」という状態に持ち込もうとします。その状態に持ち込めさえすれば、強力な次の走者-コンピューター -にバトンを渡すことができるからです。P238
結城浩「プログラマの数学」(ソフトバンク 2005)


先の言葉に対応させるなら「あとは機械的に繰り返せば解ける」ような問題を定義するのが"プログラム"することであり、それを記述することが"コーディング"であろう。

さて「なぜComputer Programという行為がCodingと捉えられてしまったのか?」という問いに戻ってみよう。この問いに対峙するためには「機械」「繰り返す」「解く」の3点に光をあてる必要がありそうだ。

■参考リンク
結城浩にインタビュー『プログラマの数学』



■tabi後記
何かをしないことで、何かをすること以上に何かを伝えることができる。勘違いを自己産出してあげるようなしつらえを。
posted by アントレ at 17:15| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月27日

tabi0198 野崎昭弘「不完全性定理」

ヒルベルトによって映えるゲーデル

いくつかの公理と、その公理によって証明された定理を使えば、どんなものでも証明できるという数学体系をヒルベルトは望んだ。そして、彼はそれを実現しようと努力したのである。

ついでながら、ヒルベルトののロマンチックな標語「われわれは知らねばならない。われわれは知るであろう」は、ゲーデルの定理からそれが不可能とわかっているいまでも、私の好きな言葉である。特に「知る」というのが「何となくそう思う」とか「暗記する」ということではなく「理解する」ということであって、「納得するまで根拠をと問う」知性にもとづいていることに、私は感動を覚える。P270
野崎昭弘「不完全性定理」(筑摩書房 2006


誰しも、大なり小なり「ヒルベルト欲」と「ゲーデル欲」があるのだろうと思う。ここではゲーデル欲だけを取り上げる。

・すべてのxyzについて、x+(y+xz)=(x+y)+z
・すべてのxyについて、x+y=y+x
・ある特別の対象eがあって、すべてのxに対してx+e=x

例えばこれが、僕らの生きている系の話であるとしよう。ゲーデル欲は、このようなテンションなのだ。常に「であるとしよう」とする。

話をすすめると、このような系だとeというのは0しかありえない。だからと言って、上記三つの公理が、e=0でしか成り立たない、ということにはならないのである。

ある系では「+」という記号が「×」という意味で使われているとしよう。(クワス算を想起してもらってかまわない)そうなると、e=1である。

また「x+y」が「xyの大きいほう」を表わす系が存在するとしよう。するとこちらもe=1となる。

さらにある系では「x+y」というのが「xyのうち辞典のあとに出てくるほう」という意味だとする。するとe=その辞典の最初の見出し語ということになる。

どうだろうか?

公理というのは系の前提を生み出すもので「実際そうであるかどうかは関係ない」というの「ゲーデル欲」をなんとなく分かっていただけたであろうか。

ヒルベルトは死んだのか?隠れただけか?

ゲーデルの不完全性定理によって「人間の知性の限界が示された」という人もいるが、少し注意が要る。直接的には「形式化できる論証」の限界が示されたのであって、それ以外の人間の知性ー形式化されていない価値観・感性・構想・意図・直観などまでにはかかわっていないからである。P273
野崎昭弘「不完全性定理」(筑摩書房 2006)


限界を示せぬものを求めるために、不完全証明をおこなっていく。ヒルベルト欲を満たすために、ゲーデル欲を開放していく。どちらにも振り切らずに、その循環自体の新鮮さを楽しむことが、大なり小なり学びには潜んでいるのだろう。

■参考リンク
第千五十八夜【1058】
書評 - 不完全性定理



■tabi後記
最近のキータームであるベタ認知とメタ認知。これは、ヒルベルト欲とゲーデル欲に変換できるだろう。
posted by アントレ at 01:22| Comment(2) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月24日

tabi0197 入不二基義「哲学の誤読」

哲学の文章は「誤読」の可能性に満ちている

そう、本書は誘惑する。

「誤読」にはどのような可能性かあるのか?

ここであげられているのは4つの誤読である。

1 すべてを人生や道徳の問題であるかのように曲解する「人生論的誤読」
2 思想的な知識によってわかった気になる「知識による予断」
3 「答え」を性急に求めすぎて「謎」を見失ってしまう「誤読」
4 そして新たな哲学の問いをひらく生産的な「誤読」

本書は、大学入試に出題された野矢茂樹・永井均・中島義道・大森荘蔵の文章を精読する試みである。出題者・解説者・執筆者だけではなく、入不二自身の「誤読」に言及したうえで歩をすすめていく。ここでは第二章 <外>へ! ―永井均「解釈学・系譜学・考古学」(ぜひ本文を読んでみて下さい)のみ取り上げる。

「過去の過去性」のとらえかた

「鳥はもともと青かった」という解釈学的な生から始まっていた考察は、一巡りして、「鳥はほんとうはもともと青くはなかった」という逆の解釈学的な意識(自己解釈)に落ち着くことになる。「解釈学的な生→進行形の系譜学→完了系の系譜学→新たな解釈学的意識」というように。内部から始まって、それを外部から視線で疑い、疑いが明らかにしたことに基づいて、それを前提とする新たな内部へと回帰したことになる。P109
入不二基義「哲学の誤読」(筑摩書房 2007)


解釈学、系譜学は過去の過去性を殺すとことで一致する。「系譜学には迂回性があるぶん解釈学より深みがある」と感じてしまうのは「人生論的誤読」であろう。

そして、過去殺しへの抵抗として考古学的視点が提出される。ここで、フーコーを想起するものは「知識による予断」による「誤読」をおこなってしまうことになる。

われわれは、そのように「忘却」のほうを主体にただ黙々と生きているのだとすると、そのわれわれの姿は、解釈学的な生を「物語」だと気づくことなく、ただ端的にその生を生きるだけのあの「彼ら自身」の姿に似てこないだろうか?ただ忘却にまかせて生きている「われわれ」とは、実は「彼ら自身」のことなのではないか?そして、疑いの視線もなくただ忘れながら生きることと、過去の過去性を殺さないように努めることとは、実は一致するのではないか。P131


考古学的視点とは「みつめられない過去」にまなざしを向けるという撞着的な営みであり、その営みすらも忘れることでしか「過去性」には到達できないと語られる。だがその視点では「解釈学的物語」に気がつかない「彼ら」と同じである。またもや解釈学の地平へと回収されてしまう。と著者は解説していく。

ここで「では一体何なんだ!」と叫んでしまうのは、哲学ではない。「どうぞ文学でも宗教でもいって下さい」というコトバがきこえてくる。このような注釈も飽き足りてるかもしれないが。さて「ここから」思考を生み出していくが哲学であろう。

総じてみると「解釈学・系譜学・考古学」は循環運動のように見えなくもなかった。だが本質的には解釈学だったのであり、そして「解釈学」というコトバが生まれない地点へ立戻らされてしまったのである。「この地点に立たされた」ということは、語れるのだろうか。語らないのではなく、語れないことが本質であるような状況では、いかなる発話も「知識による予断」となってしまうだろう。この地点とあの地点(これが過去!)をつなぐものを求めるのか(統合,体系)、単に知りたいのかといわれたら、後者に近いと思う。

■参考リンク
『哲学の誤読』入試問題の哲学的読み
高速道路効果抜群「哲学の誤読」
2002年東大前期・国語第四問「解釈学・系譜学・考古学」



■tabi後記
大学にいる1,2年生はDQNばかり。
元気なら、それもありだろう。
posted by アントレ at 16:29| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0196 クリステンセン/レイナー「イノベーションへの解」

製品がどのような用事をするために雇われているかを理解できれば、そしてうまく片づけられずにいる用事にはどんなものがあるかを知ることができれば、イノベーターは顧客の目から見た真の競争相手を打ち負かすために、製品を用事のあらゆる側面において改良するための、明快なロードマップを手に入れられる。P97
クリステンセン/レイナー「イノベーションへの解」(翔泳社 2003)


「イノベーションのジレンマ」は破壊的な技術革新を受けて優位を脅かされる側の企業に視点を置いていたが、「イノベーションへの解」ではその技術革新で新事業を構築し、優位企業を打ち負かそうとする側に置いている。

この「破壊される側ではなく破壊する!側となって」という立場が本書の特色である。

本書にも書かれているが、抜け目の無い投資家は、企業の既存事業の期待収益率を株価に織り込むだけでは飽き足らず、経営陣がまだ立ち上げてもいない新規事業から将来生み出すであろう成長まで織り込んでしまう。

本書で書かれているのは、この飽くなき成長をドライブさせる「投資家」から逃れる為の成長ではない。実際のところは、本書から「成長(イノベーション)」に対する根本思想は読み取ることはできないが、クリステンセンが教育、医療といった領域で破壊的イノベーションの可能性を思索している事から推察してみるといい。

さて、本書で扱っているトピックは広範である。

どうすれば最強の競合企業を打ち負かせるのか、どのような製品を開発すべきか、もっとも発展性のある基盤となるのはどのような初期顧客か、製品の設計、生産、販売、流通のなかでどれを社内で行い、どれを外部に任せるべきか…というような、きわめて具体的な意思決定の「解」が提出されている。

また、議論の進め方にも関心がもてた。「適切な分類を行うことが、取り組みに予測可能生をもたらすための鍵となることを説明する」という考えをベースに敷きながら、理論が予測できなかったであろう例外や特殊事例を発見しようと真剣に努力している。そうすることによって理論を大きく向上させようとしているのだ。

クリステンセンから破壊的プレイヤーへに送られた問い

新市場型破壊
・これまで金や道具、スキルがないという理由で、これをまったく行わずにいたか、料金を支払って高い技能を持つ専門家にやってもらわなければならなかった人が大勢いるか?

・顧客はこの製品やサービスを利用するために、不便な場所にあるセンターに行かなければならないか?

ローエンド型破壊

・市場のローエンドには、価格が低ければ、性能面で劣る(が十分良い)製品でも喜んで購入する顧客がいるか?

・こうしたローエンドの「過保護にされた」顧客を勝ち取るために必要な低価格でも、魅力的な利益を得られるようなビジネスモデルを構築することができるか?

・このイノベーションは、業界の大手企業すべてにとって破壊的だろうか?

もし一社もしくは複数の大手プレイヤーにとって持続的イノベーションである可能性があれば、その企業の勝算が高く、新規参入者の見込みはほとんどない。


■参考リンク
「場面」 経営戦略コンサルの洞窟
戦略的コスト構造を武器に
UBブックレビュー



■tabi後記
本文もさることながら、注も面白い。彼らの賢さやユーモアが非常にあらわれている1例を紹介しよう。

われわれの知り合いはおそらく気付いているだろうが、ファショナブルなブランド服に身を固めることは、われわれがこれまでの人生で片づけようとしてきた用事ではない。したがって最新ファッションにはまったく何の洞察も持っていないことをここで告白する。おそらく永久に収益性が高いままだろう。われわれに分かるものか。P206
posted by アントレ at 15:34| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0195 伊丹敬之「よき経営者の姿」

私が考える、よき経営者に共通する顔つきの、次の三つの特徴である

1.深い素朴さ
2.柔らかい強さ
3.大きな透明感

三つの特徴は、鍵になる名詞(素朴さ、強さ、透明感)と、そのありようを説明する形容詞(深い、柔らかい、大きな)の組み合わせで表現してある。

一つの名詞だけで表現しきれずにさらに形容詞を重ねなければならない、ある意味で複雑な顔つきである。しかも、形容詞は一見すると後に続く名詞とは逆のこと、あるいは違う筋のことをいっているような語になっている。P18
伊丹敬之「よき経営者の姿」(日本経済新聞出版社 2007)



三枝氏と伊丹氏の対談本で知ることになった本書は、今までに伊丹氏が対峙してきた経営者達を「よき経営者の姿」としてモデル化した内容になっている。

「顔つき」からはじまり「退き際」にいたるまでのプロセスを精緻に描いている。その中でも、私が気になったのは「顔つき」に関する記述である。

伊丹氏は人相見ではないが、出会った経営者の顔には「1.深い素朴さ」「2.柔らかい強さ」「3.大きな透明感」という3つの特徴がみられたという。やはり、名詞と形容詞が相反するような意味をもってているのがポイントであろう。

伊丹氏はこのような表現にたどりついた経緯を細かく説明している。大意としては、「経営はしばし矛盾の中おこなわれる。そのような環境下を泳ぎきる人は、その様相が顔にあらわれてしまうのではないかと。」いうことだ。科学性からは縁遠きこの推論には、確かな納得感がある。

夏目漱石「草枕」の冒頭に「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」という有名な文章がありますが、よき経営者とはこのような「住みにくい」人の世を「住みやすく」する人のことを示している。

■参考リンク
よき経営者の姿。 - 考えるための道具箱



■tabi後記
久々に和泉キャンパスの学食を味わっている。知らぬうちに、無線と電源が備えられていた。快適です。
posted by アントレ at 15:06| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0194 ジェリー・ポラス他「ビジョナリー・ピープル」

なぜ今の今、私は自分の生きがいに打ち込んでいないのだろうか?

最近は、自分のしていることを好きになるのが大事、という議論が盛んになっている。しかし、大半の人はそれを鵜呑みにしているわけではない。大好きなことをするのは、いいことに違いない。けれども、ほとんどの人は、現実の問題としてそうしたぜいたくをしている余裕はないと感じている。多くの人たちによって、本当の生きがいというのは、そうあってほしいという感傷的な空想で終わってしまう。P54
ジェリー・ポラス他「ビジョナリー・ピープル」(英治出版 2007)


本書を語るには、この問いだけで十分だろう。

なぜ今の今、あなたは自分の生きがいに打ち込んでいないのだろうか?

内容を知りたい方は下記が詳しいです。

■参考リンク
ココロにガソリンを「ビジョナリー・ピープル」
ビジョナリーピープルを一気に読んでみた
All About ...+Me



■tabi後記
同じ質問を同時にうけることがあるが、解決はいつも単純です。それは、質問者が一歩が踏み出された時に終わる。私は、一押しを我慢することだけかな。一歩と一押しの順番を間違えてはいけない。
posted by アントレ at 00:03| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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