2009年05月09日

tabi0143 ダニエル・T・マックス「眠れない一族」

プリオン病に罹っているいる人のだれと比べても、私はほんとうに幸運だ。何であれ、慣れるだけの時間が十分にあるのだから。帰ろうとする私に、医師は一年後か二年後にまた受診するように、と言う。そうすることもあれば、しないこともある。ときには、何か新しいことがわかるのではないかと別の医師を訪ねてみる。つまるところ、証拠の不在は、不在の証拠にはならないのだから。いつかどこかでだれかが、治療法を見つけてくれるか、少なくとも病名ぐらいを見つけてくれるだろう。私のが病気が何であるにせよ。P334
ダニエル・T・マックス「眠れない一族」(紀伊国屋書店 2007)


著者自身が「眠れない一族」と類似する病気を抱えていること。「なぜ私が病気にならなくてはいけないのだ?」という理不尽さを抱えながら、自分よりも理不尽な病に対峙する一族に対峙していくなかで本書が書き上げられていったことを知り、関心をもった。

本書はプリオン病の謎に挑むメディカル・ミステリーである・登場するプリオン病はすべて致死性で、十八世紀以来、あるヴェネツィアの一族を苦しめてきた致死性家族性不眠症(FFI)、ヨーロッパ各地で大発生した羊の病気「スクレイピー」、二◯世紀前半に発見されたクロイツフェルト・ヤコブ病、二◯世紀後半にパプアニューギニアのフォレ族に猛威を振るった「クールー」、一九八◯年代後半にイギリスで発生して今に至る牛海綿状脳症(狂牛病)などがある。

これらは発生の時期や場所が違うばかりか、遺伝性、感染性、散発性という形態もさまざまで、症状も同一ではない。そのうえ、ウイルスやバクテリアが原因の通常の病気と違い、非生物のタンパク質が原因で、従来のパラダイムが通用しなかった。「遺伝子が生物の形質を決定する」「生物だけが感染を引き起こす」とばかり思っていた人々は、感染性も遺伝性も散発性も持ち、「何ヶ月も何年も無症候性を保」ち、既知の免疫反応を起こさせない、前代未聞の「不死身」の病原体にとまどう。

「プリオンはタンパク質にすぎず、命はない」にもかかわらず、自分と同じ折り畳まれ方のタンパク質をふやしてゆくので、「生存は自らの遺伝子を広めようとする個体間の競争から成り立っている」という、ダーウィンの説に反することを認めるためには大きな思考の飛躍が必要であったのであろう。飛躍の先で佇まいをしている我々に出来るのは、思考の飛躍が要されているのは常のことであり、メタ認知に優れた人間ですらも容易にパラダイム固執をしてしまうという厳然たる事実を心に刻み付けることだけである。

■参考リンク
成毛眞ブログ
狂牛病 - 食人 - 致死性家族性不眠症
情報考学 Passion For The Future



■tabi後記
Amazon Kindleについて深めのリサーチをしてみようかと考えている。
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tabi0142 岡倉天心「茶の本」

茶はわれわれにとっては、飲む形式の理想化以上のものとなった。それは生の術の宗教である。(中略)茶の湯は、茶、花、絵画を素材に仕組んだ即興劇であった。茶室の調子を乱す一点の色もなく、物事のリズムをそこなうもの音一つ立てず、調和を破る身の動き一つなく、周囲の統一を破る一言も口にせず、すべて単純に自然に振舞う動作ーこういうものが茶の湯の目的であった。そしていかにも不思議なことに、それがしばしば成功したのであった。そのすべての背後には微妙な哲理がひそんでいた。茶道は変装した道教であった。P35
岡倉天心「茶の本」(講談社 1994)


この本をとった(つられた)瞬間にすべてが決まっていた。すごい釣り師がいたものだ。

「西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき、日本を野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国とよんでいる。」といった咆哮から論旨がはじまっていく。

「THE BOOK OF TEA」を手に取った方々(天心がターゲットとした西洋人)は「Tea」についての艶かしい論述を期待していたのではないだろうか。そこでこの出だしである。

次に続くのが
いつになったら西洋は東洋を理解するのか。西洋の特徴はいかに理性的に「自慢」するかであり、日本の特徴は「内省」によるものである。茶は衛生学であって経済学である。茶はもともと「生の術」であって、「変装した道教」である。宗教においては未来はわれわれのうしろにあり、芸術においては現在が永遠になる。
といった記述である。これを釣りといわずして何といおう。とはいえ、釣られたものも釣られたままでは終わらせないのが茶室の美学。天心が述べるところで言うのなら、「出会った瞬間にすべてが決まる。そして自己が超越される。それ以外はない。」「われわれは「不完全」に対する真摯な瞑想をつづけているものたちなのである。」ということであろう。井筒氏と比べることは難しいが、天心が目指していたのもまた「精神的東洋」だったのだろう。
 
■参考リンク
第七十五夜【0075】
Publishing [対訳ニッポン双書]『茶の本』に序文を寄稿
39旅 岡倉覚三(天心)『茶の本』
DESIGN IT! w/LOVE



■tabi後記
明朝は「THE BOOK OF TEA」を素材にして英語学習です。
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2009年05月08日

tabi0141 遠藤秀紀「人体 失敗の進化史」

遺体の現場とともに生き、日々集められる遺体から新しい発見を繰り返し、遺体を未来まで引き継ぐ。こうした私たちの営みの中心にはいつも動物園や博物館がある。そしてそこから生まれてきた一つの知の体系が、この本の中心をなしてきた、身体の歴史にまつわるいくつもの話だ。もうお気づきだろう。遺体科学は、市民社会全体が創っていく動物園や博物館と切っても切れない関係にある。読者のあなたが、動物の遺体を知の源泉として理解するかどうか、動物園や博物館を未来の科学の中心であると認識するかどうかで、遺体科学の発展の成否は決まってくるのである。P243
遠藤秀紀「人体 失敗の進化史」(光文社 2006)


些細な記述であったが、遺体科学者の研究精神は参考になる。遺体科学者にとっては、遺体に対峙する前から闘いははじまっているのである。それは、「自分の目の前に1匹の狸がきたとしたら、どこを見て、どう切り込むか、どこに調査報告をするか..etc」を常にシミュレーションしているのだ。なぜなら、遺体発見連絡/遺体確認を行ってから意思決定をするまでの時間が制限されているからである。つまり遺体の鮮度に起因からだ。

彼らの行いを抽象化すると、情報の入れ物と出し物と組み合わせを身体的にパターン化しているのだろう。遺体状況の把握等は美術品・骨董品の目利きのようなもので、明確に状況把握を出来ることではない。私にとっては、彼らが、どのような認知過程を経ているのかに関心が湧いてしまった。

■参考リンク
Homo Ikiataribattus
DESIGN IT! w/LOVE



■tabi後記
山中俊治さんのブログがクールだ。
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tabi0140 井筒俊彦「叡知の台座 井筒俊彦対談集」

このセム的存在感覚というものは、東洋思想そのものの重要な一つの基礎であるだけでなくて、西洋文化の深い理解のためにも、どうしても身につけておかなくてはならないものじゃないでしょうか。(中略)「神は死んだ」というニーチェ的なテーゼ、遠藤さん的にいえば、「神は沈黙しきってしまった」ということになるかもしれませんが、そういう状況を、少なくとも思想界の前衛的領野では、みんなが表面的に受け入れて仕事している。ところが、「神は死んだ」と口先で言うことはたやすいけれど、実は、そう簡単なことではない。キリスト教的西洋では大問題です。なにしろ、神の死、神不在、ということは、西洋文化のコンテクストでは存在の中心点がなくなるということですからね。そこには当然、言い知れぬ不安があり、焦燥感がある。脱中心の時代などというと、勇ましくて、いかにも聞こえはいいけれど、本当は大変な危機的状況じゃないでしょうか。P12
井筒俊彦「叡知の台座 井筒俊彦対談集」(岩波書店 1986)


遠藤周作、ジェイムズ・ヒルマン、河合隼雄、上田閑照といった思索者との対談集。どれも素晴らしい対談となっているが、ここでは遠藤周作との対談から引用させて頂いた。

井筒氏は、セム的存在感覚を「真に生きた神、人格的一神にたいする情熱的な、なまなましい信仰をもとにして、それを全存在世界の極点として表象する(その実在をわれわれが信じるか信じないかは別として)、そういう形で存在性のギリギリの原点を表象するということ」と定義する。

この感覚は、イスラーム/新約/旧約の三宗教(及びそれから派生した宗教)に存在する聖的な感覚であり、仏教には存在しない感覚であると語る。井筒氏が考える東洋とは地理的東洋ではなく精神的東洋である。その地平は、日本,チベット,中国をはじめとして、インド,トルコ,ペルシャまで延びる。この広大な範囲において、精神的東洋を直観する土台となっていたのは、彼の言語感覚によるところが大きいだろう。

井筒氏は、徹底的/独創的な思考として注目されるほかに、ギリシャ語、アラビア語、ヘブライ語、ロシア語、パーリ語など20ヶ国語を習得・研究し、西洋哲学を徹底して研究した後に、言語と無意識の関連性に関心が向いていったのだという。それが「言語アラヤ識」という考えであろう。

それまでは、パロール/ラングの領域で思考をすすめていたようだ。井筒氏は言語アラヤ識という考えを起点にして、宗教と哲学を結ぶ接点としての「神秘主義」に思考の射程をのばしていく。

東と西との哲学的関わりというこの問題については、私自身かつては比較哲学の可能性を探ろうとしたこともあった。だが実は、ことさらに東と西とを比較しなくとも、現代に生きる日本人が、東洋哲学的主題を取り上げて、それを現代的意識の地平において考究しさえすれば、もうそれだけで既に東西思想の出逢いが実存的体験の場で生起し、東西的視点の交錯、つまりは一種の東西比較哲学がひとりでに成立してしまうのだ。
これは「意識と本質」あとがきにある文章。井筒氏の肩に乗りながら、「読書と無意識と芸術表現」というテーマで思索していきたい。

■参考リンク
553旅 井筒俊彦『叡知の台座 井筒俊彦対談集』
学(ぼ)ぶログ 



■tabi後記
パラレルデットライン読書によって導かれる思考の内的連環構造を進化的なモデルで表現してみたい。
posted by アントレ at 20:32| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0139 丸山真男 「日本の思想」

むしろ過去は自覚的に対象化されて現在のなかに「止揚」されないからこそ、それはいわば背後から現在のなかにすべりこむのである。思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルべったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面にすぎない。一定の時間的順序で入ってきたいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。P11
丸山真男 「日本の思想」(岩波書店 1961)


「日本の思想」自体はは66ページの論文である。論旨は明確であるが、細かな注が多いこともあり現代の新書を読み慣れた人にとっては難解な部類にはいると思われる。日本思想というものは存在したのか?なぜ思想のサラダボールといわれる状況がおきているのか?ササラ型/タコツボ型と思想形成の歩みに対する分類を行っている。

引用文にみるように、日本思想は、流動的伝統であり、精神の内面が構造性をもたない傾向にある。こういった傾向の中で、異なったものを思想的に接合することを合理化するロジックとして用いられたのが「何々即何々」(あるいは何々一如)という仏教哲学の俗流化した適応であった。

このように、あらゆる哲学・宗教・学問を相互が原理的に矛盾するまで「無限抱擁」してこれを精神的経歴のなかに「平和共存」させる思想的「寛容」の伝統にとって唯一の異質的なものがある。それは、こうした精神的雑居性の原理的否認を要請する思想である。近代日本においてこうした意味をもって登場したのが、明治のキリスト教であり、大正末期からのマルクス主義だった。

■参考リンク
第五百六十四夜【0564】

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tabi0138 西田幾多郎「善の研究」

真の宗教的覚悟とは思惟に基づける抽象的知識でもない、また単に盲目的感情でもない、知識および意志の根底に横われる深遠なる統一を自得するのである、即ち一種の知的直観である、深き生命の捕捉である。故にいかなる論理の刃もこれに向うことはできず、いかなる欲求もこれを動かすことはできぬ、凡ての真理および満足の根本となるのである。その形は種々あるべけれど、凡ての宗教の本にはこの根本的直覚がなければならぬと思う。学問道徳の本には宗教がなければならぬ、学問道徳はこれに由りて成立するのである。P56-57
西田幾多郎「善の研究」(岩波書店 1979)


西田の出発点となる「善の研究」は、彼が30代をかけて書き上げた著作である。金沢の第四高等学校で教鞭をとりながら、徐々に徐々に完成させていった。

本書では「西田哲学=場の哲学」という印象は多く感じられないが、「意識統一による意志」「純粋経験」という言葉を丁寧に丁寧に理論づける姿勢に関心をもたされる。(それを煩わしく思い、言語遊戯だという方もいるだろうが・・)

また、幼少期からの禅体験が用いる言葉にも影響をあたえている気がする。引用文はそんな一説。既にこの時、西田の内には宗教的経験(覚悟)が根ざしていたのだろうか。西田が、そこで観取した「知的直観」をロゴス空間へ落し込もうと苦心する様を読後真っ先に想起した。

■参考リンク
第千八十六夜【1086】
61旅 『善の研究』西田幾多郎



■tabi後記
久々に夜更かしをしている。
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2009年05月07日

tabi0137 ウィルソン・ハーレル「起業家の本質」

恐怖について考えれば考えるほど、恐怖とはそもそも会社設立へと私たちを導いたものと同じものー何か根源的、なかば無意識の欲求、つまり、この世界に自分の印を記したい、自分の足跡を時の砂の上に残したい、という欲求からくるとわかってきます。思うに、本当に恐れるのは、自分たちが単なる大衆の一員となり、人々から忘れ去られてしまうことなのではないでしょうか。P20
ウィルソン・ハーレル「起業家の本質」(英治出版 2006)


起業家を対象にしたビジネス雑誌「インク」の創刊者が語る起業家論です。起業家を農耕/狩猟,サイズ/成長性で分類する視点は改めて参考になったが、購入当初に線を引いた箇所は響かなくなっていた。ハーレルに共感するところが薄くなってしまったのだ。

理由としては、引用文にもある「恐怖」に対する考えが変化したことだろう。私は、「時の砂の上に足跡をのこす」ことや、「単なる大衆の一員になること」への恐怖/危機感がこれぽっちもない。それよりも「砂」や「大衆」といった概念から脱すること。自らが時をつくり、一員という枠を創造することに関心が向いている。同時にまた、それを為せない可能性に対する恐怖もない。(とはいっても、概念創造という意味では同定なのかもしれない)

なんと表現すればよいだろうか。多世界的に生きたいというか、いや、生きている。1つがダメだったら、それで終わりという生き方が原理的にできずにいて、またそれを肯定することができる私をもっており、肯定するだけではなく、もとの「居場所」よりも見晴らしの良い地点へ戻っていける自分が存在していると信じきっている。ちょっと止まらなくなりそうなので、このあたりで終わりにしてみます。



■tabi後記
安斎利洋さんのゼミに参加する。ポリフォニーと絡めて、ポリリーディングという発想を頂いた。
posted by アントレ at 23:47| Comment(2) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月06日

tabi0136 岡田英弘「歴史とはなにか」

くりかえしになるが、世界の変化に法則があるわけでも、一定の方向に向かって進化しているわけでもない。だから、「古代」と「現代」、という時代に分けかたはいいけれども、古代から現代への進化の中間期として、「中世」などというものを挿入するのは、不合理である。まして、未来に世界がとるべき姿があらかじめ決まっていて、それに向かって人類の社会が着々として進化しているなどというのは、あまりにも根拠ない空想であって、とうていまじめな話とは思えない、ということだ。P145
岡田英弘「歴史とはなにか」(文藝春秋 2001)


自らがこの世界に生まれる前にも世界が存在していると仮定したときに、私たちの目の前には歴史が立ちはだかる。宇宙開闢の歴史から、生命誕生の歴史、人類祖先の歴史、経済、宗教、組織、共同体、国家・・・といった様々な概念には「歴史」が紐づいている。

本書では、歴史を「人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、斜述する営み」と定義されている。このような定義で歴史を捉えると、インドとイスラム文明には歴史がないことになる。なぜなら、輪廻転生やアッラーといった人智を超えた概念が文明を貫いているため、人間の認識だけで世界を描くことがそもそもできない。ということは、「歴史」という概念がそもそも冒涜となってしまうのである。

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歴史を成り立たせるには、「1 直進する時間の観念」「2 時間を管理する技術(暦,年代)」「3 文字」「4 因果律の観念」が必要であって、これらの要素が存在/軽視されている集団は少なくはないのだ。一方、地中海や中国文明においては、ヘロドトス、司馬遷という二大歴史家が誕生した。彼らの世界においては、合理的精神(変化/正統性)を文明が有していたから歴史が重宝された。

この他にも、神話の扱い方、時代の区分は、現代と古代(いまとむかし)の二分法しかないということ、そしてその分岐点はどこにあるのかということ、現代と古代は常に移ろいゆくわけだが、いかにして歴史を記述していくのかといった論考が入っているので歴史の学習に気乗りがしていなかった方にはお勧めしたい。

歴史認識というと靖国/北方領土といった言葉で思考がストップしてしまうと思うが、そもそも「歴史とは何か?」というフレームワークから考えることで話にも深みが出るだろう。

■参考リンク
601旅 岡田英弘『歴史とはなにか』
資料室:歴史とはなにか
新しい創傷治療



■tabi後記
この2日間で幾度もブログを更新をしたためか「読書法」に関する相談を幾度もうけた。その場で話をしたところで人の習慣は変わらないので、読書法を教える前に「いかに毒書に陥らず、読書にもっていけるか」を話すようにしている。
posted by アントレ at 22:04| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0135 ミルトン・メイヤロフ「ケアの本質―生きることの意味」

私と補充関係にある対象と自分自身の関係は、椅子とテーブルの関係のように外面的なものではない。それどころか、私はそれを拡張した自己であると身に感じとり、その成長と同一化するのである。だからといって、その関係は寄生的なものではない。私とその対象をともに肯定するという意味で、その対象は自分の一部なのである。そしてケアのあらゆる場合に、私はその相手をある意味で自分の一部として身に感じとるのであるが、こうした経験は、その対象が私と補充関係にあり、かつ自分を完成してくれるものと感じた場合に一層顕著なのである。P125
ミルトン・メイヤロフ「ケアの本質―生きることの意味」(ゆみる出版 1987)

先日、学生団体VOICEのメンバーが近藤正晃ジェームスさんにインタビューにいってきたようです。そのインタビュー内容と本書を絡めて論じたい。

近藤さんは、マッキンゼー社が全世界のクライアントに行った「コンサルタントに求める理想像とは?」という調査結果の話しをしていました。コンサルタントや採用担当者は、地頭が良い人、問題解決能力が高い人といった要件をあげていたのだが、クライアントが一様に答えたのは「ケアリングな人間」という回答であった。

メイヤロフのいうケアリングとは、ケアされる他者の成長を可能とする行動である。しかし、それだけにとどまらず、他者をケアすることにより、ケアする人もまた自身に欠けているものに気づくことから成長するのである。この関係性が成立することで、ケアリングが達成される。そのため、ケアリングとは他者志向的な行動であると同時に、自己志向的行動でもあるといえる。このことから、メイヤロフのいうケアリングの本質は、関係性であるといえる。

人は、子供をもったとき、自分の死を悟ったとき、親の死を悟ったときにMe志向からWe志向に変わると考えた。私はこの状況を「体内に時計が出来る」と表現している。このアイデアはメイヤロフでいう「ケアの本質」に気がついたときと言い換えられると気がついた。



■tabi後記
マキネスティ広尾店にきている。美味しいコーヒ、素敵なスタッフ、電源、無線LANがあるので最高です。
posted by アントレ at 16:21| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0134 セネカ「人生の短さについて」

いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。多数の人々が次のように言うのを聞くことがあろう。「私は五十歳から暇な生活に退こう。六十歳になれば公務から解放されるだろう。」では、おたずねしたいが、君は長生きするという保証でも得ているのか。君の計画どおりに事が運ぶのは一体誰が許してくれるのか。人生の残り物を自分自身に残しておき、何ごとにも振り向けられない時間だけを良き魂のために当てることを、恥ずかしいと思わないか。生きることを止める土壇場になって、生きることを始めるのでは、時すでに遅し、ではないか。有益な計画を五十歳・六十歳までも延ばしておいて、僅かな者しか行けなかった年齢から始めて人生に取りかかろうとするのは、何と人間の可死性を忘れた愚劣なことではないか。P15-16
セネカ「人生の短さについて」(岩波書店 1980)

セネカが自分自身へ書いたエッセイではないだろうか。そう思えば思うほどに言葉が重くなってくる。私たちの世代は120-200歳まで生きるのが当たり前になるかもしれない。その時においては、80歳は人生の折り返しにしかすぎない。しかし、寿命が倍になっても「人生」が2倍にはならない。むしろ寿命に占める人生の割合は小さくなるのではないか。私たちは「主体的に生きる」「自分らしく生きる」という言葉で自己規定する必要はない、「準備の人生」「下積みの人生」という言葉で自己説得する必要もない。

セネカが説いたのは、人生があるのではなく、人生を見いだす人がいるという教えである。人生を見いだすとはいかなることか。そこに明確な文章は存在しないが、自分がなぜ存在してしまっているのかという問いに対してシンプルな感覚を持ち続ける事が大切であろう。

■参考リンク
992旅 セネカ『人生の短さについて』
はっきり言います、あなたのような生き方をしている限り、人生は千年あっても足りません。時間などいくらあったところで、間違った生き方をすればすぐに使い果たしてしまうものなのです



■tabi後記
広尾のJICA広場にてTFT(Table For Two)のメニューを食してきた。
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2009年05月05日

tabi0133 永井均「マンガは哲学する」

私がマンガに求めるもの、それはある種の狂気である。現実を支配している約束事をまったく無視しているのに、内部にリアリティーと整合性を保ち、それゆえこの現実を包み込んで、むしろその狂気こそがほんとうの現実ではないかと思わせる力があるような大狂気。そういう大狂気がなくては、私は生きていけない。その狂気がそのままその作者の現実なのだと感じたとき、私は魂の交流を感じる。それゆえ、私がマンガに求めているものは、哲学なのである。P4-5
永井均「マンガは哲学する」(講談社 2004)


マンガでしか表現できない哲学があるという直観にもどづく1冊。私は、「マンガという表現形式」と「マンガというジャンルが人の情報対峙における与える影響」に関心があったので楽しむことができた。

マンガは、実際には発音が伴わなければならないせりふが文字で書かれるという約束事で成り立っている。マンガを読んでいる物は、それを意識していないからこそマンガを自然に読むことができる。

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文字がつくられ、その文字の発音が与えられているにもかかわらず、私たちの頭の中には なんの発音も発生しない。

後者の視点として、このようなコンセプトが堂々と流通することへの愉快さをおぼえる。本書でも登場する『気楽に殺ろうよ』は、性欲よりも食欲が隠されるべきもので、殺人の権利が売買されるのがあたりまえであるような、別の世界に入り込んでしまった男の話である。

そこでの話しを引用すると『食欲とはなにか?!個体を維持するためのものである!個人的、閉鎖的、独善的欲望といえますな。性欲とは?!種族の存続を目的とする欲望である!公共的、社会的、発展的、性格を有しておるわけです。と、こう考えれば、地球社会のありかたもあやしむに足りませんな!』永井さんはこの立場を、「彼の態度を見ていると、いかなる相対化の理屈も、実はそういう絶対性の上にのっかってしか機能しないことがよくわかるのである」と述べている。相対主義の泥沼、その果ての神秘化、それらの往還といった思考形態を深める意味で「相対主義の極北」を本棚からとりだしてみる。

■参考リンク
格安哲学
走りながらOSを変える
吉田戦車



■tabi後記
以前、銭ゲバの書評をしたことがあるが、私の中では新鮮な書評体験であった。(ドラマが放映されていた時ほどではないが、この記事には常時アクセスがある)マンガ/絵本/俳句/絵画/音楽といった芸術表現にとらわれずにtabiをしてみようかと考えている。

『マンガは哲学する』永井均(講談社)が扱っている作品一覧

■第1章 意味と無意味
藤子・F・不二雄「ミノタウロスの血」小学館文庫『異色短編集1』
藤子・F・不二雄「気楽に殺ろうよ」「サンプルAとB」小学館文庫『異色短編集2』
藤子・F・不二雄「絶滅の島」「流血鬼」コロコロ文庫『少年SF短編集2』
手塚治虫「ブラック・ジャック」講談社
吉田戦車「伝染るんです。」小学館
中川いさみ「クマのプー太郎」小学館
諸星大二郎「感情のある風景」集英社『夢みる機械』
城アラキ・甲斐谷忍「ソムリエ」集英社
福本伸行「カイジ」講談社

■第2章 私とは誰か?
萩尾望都「半神」小学館文庫 
萩尾望都「A-A´」小学館文庫 
吉野朔実「ECCENTRICS」集英社
士郎正宗「攻殻機動隊」講談社
高橋葉介「壜の中」朝日ソノラマ『怪談』
川口まどか「ツイン・マン」秋田書店
田島昭宇・大塚英志「多重人格探偵サイコ」角川書店

■第3章 夢−世界の真相
高橋葉介「夢」朝日ソノラマ『怪談』
佐々木淳子「赤い壁」「メッセージ」「Who!」フロム出版『Who!』
諸星大二郎「夢みる機械」集英社『夢みる機械』
楳図かずお「洗礼」小学館文庫

■第4章 時間の謎
藤子・F・不二雄「ドラえもん」小学館
手塚治虫「火の鳥−異形編」講談社
星野之宣「ブルーホール」講談社
佐々木淳子「リディアの住む時に」フロム出版『Who!』
藤子・F・不二雄「自分会議」小学館文庫『異色短編集1』

■第5章 子どもV・S死−終わることの意味
楳図かずお「漂流教室」小学館
楳図かずお「わたしは真悟」小学館
諸星大二郎「子供の遊び」集英社『不安の立像』
松本大洋「鉄コン筋クリート」小学館
吉野朔実「ぼくだけが知っている」集英社
永井豪「霧の扉」中公文庫コミックス『永井豪怪奇短編集2』
しりあがり寿「真夜中の弥次さん喜多さん」マガジンハウス

■第6章 人生の意味について
西原理恵子「はにゅうの夢」双葉社『はれた日は学校をやすんで』
業田良家「自虐の詩」竹書房文庫
しりあがり寿「髭のOL藪内笹子」竹書房
坂口尚「あっかんべェ一休」講談社漫画文庫
つげ義春「無能の人」新潮文庫『無能の人・日の戯れ』
ゆうきまさみ「究極超人あ〜る」小学館
赤塚不二夫「天才バカボン」竹書房文庫

■第7章 われわれは何のために存在しているのか
星野之宣「2001夜物語」双葉社
星野之宣「スターダストメモリーズ」スコラ
石ノ森章太郎「リュウの道」竹書房文庫
永井豪「デビルマン」講談社
岩明均「寄生獣」講談社
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tabi0132 立川武蔵「はじめてのインド哲学」

インド精神史は六つの時期に分けられるが、インド精神が一貫して求めていたものは、自己と宇宙(世界)との同一性の体験であった。世界を超越する創造神を認めないインドの人々が求めた「神」は、世界に内在する神、あるいは世界という神であった。一方、インドは自己に許された分際というものを知らなかった。つまり、自己は限りなく「大きく」なり、「聖化」され、宇宙(世界)と同一と考えられた。もっとも、宇宙との同一性をかちとるために、自己は時として「死」んだり、「無」となる必要はあった。しかし、そのことによって自己はその存在の重みをますます増したのである。
自己も宇宙も神であり、「聖なるもの」である。自己と宇宙の外には何も存在せず、宇宙が自らに対して「聖なるもの」としての価値を与える、すなわち「聖化する」のだということを、何としても証したいという努力の過程が、インド哲学の歴史にほかならないのである。P28
立川武蔵「はじめてのインド哲学」(講談社 1992)


インド哲学は、時間軸、バラモン正統派/非正統派(仏教)、アーリア人/非アーリア人の闘争・融合といった切り口で概観できそうである。

時間軸は立川による切り取りであり、バラモン正統派による思想なのか、正統派の思想の分類は、宇宙原理が、外に存在していると考えるか、存在は妄想と考えるかである。アーリア人/非アーリア人の闘争・融合は、ゴータマ・ブッタが非アーリア系として生まれ、アーリア文化(バラモン文化)と闘争、融合していったところからも分かる。

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立川によるインド精神史の時代区分(1 インダス文明の時代,2 バラモン中心主義の時代,3 仏教などの非正統派の時代,4 ヒンドゥイズム興隆の時代,5 イスラーム支配のヒンドゥイズムの時代,6 ヒンドゥイズム復興の時代)

■参考リンク
インド哲学の話から霊的ヒエラルキアの話へ
意外といけてるインド哲学入門
231旅 『はじめてのインド哲学』



■tabi後記
三冊読自祭では芸が無い。あとひと捻りが必要だな・・。
posted by アントレ at 11:54| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0131 日蓮「立正安国論」

主人と客との対立を「仏法」と「王法」のどちらを優先させるかといったレベルで捉えることは適切ではない。仏法なくして安国もないという点では両者の認識は完全に一致しており、それは議論の共通の前提だった。(中略)客はそれまで法然の信奉者であったように描かれているが、その信仰の内実は法然の説くそれと似て非なるものであった。客は第三段・第四段では、当時が嘉(よみ)すべき仏教全盛の時であるという時代認識を披露している。その上で、「邪説」が蔓延して伝統仏教が衰亡の危機に瀕しているとみる日蓮に疑問を投げかけている。(中略)客の念仏受容は、他の教行を拒否して念仏を専修するという法然的な<選択(せんちゃく)主義>に基づくものではなかった。むしろ念仏も諸行もその価値を等しく肯定した上で、自分に一番ふさわしい教えとして念仏を実践するという、伝統仏教側の<融和主義>を土台としたものだったのである。P28-29 訳者解説
日蓮「立正安国論」(講談社 2008)


全訳注を参考にしながら読み進めた。エックハルト(1260-1328)と同時代を生きた日蓮(1222-1282)の著作。ミチオ・カクから感じた進歩史観とは対極をなすような下降史観を垣間みた。38歳の人間が時の最高権力者に対し、現在の社会状況の考察、状況に対する自らの解決策を自らのの言葉で綴りきった行為は参考に値する。

■参考リンク
立正安国論に見る日蓮のカルト性



■tabi後記
藤沢さんが実践しているパラレル読書を試してみた。15分×12本(3時間)で3冊を読自するというのは容易な試みであることに気がつく。(1冊の時より負荷がない!)松岡正剛の三冊屋というコンセプトとも通底する。
posted by アントレ at 11:30| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0130 ミチオ・カク「サイエンス・インポシッブル」

文明が次の段階の文明へ移行するという保証はまったくない。最も危険を伴うのは、タイプ0からタイプIへの移行とも考えられる。タイプ0文明は、文明の発展段階でありがちな派閥主義と原理主義と民族主義にいまだに悩まされており、こうした民族感情や宗教感情のせいで移行は失敗に終わりかねない。銀河系でタイプI文明が見つかっていないひとつの理由は、この移行が起きずに文明が自滅してしまったからなのかもしれない。いつか、われわれがほかの恒星系を訪ねたときに、大気が放射線で汚染されたり、生命を維持できないほど高温になったりして自滅した文明の廃墟を見つけることになるのだろうか。文明がタイプIIIの状態に達したころには、銀河内を自由に飛びまわり、地球に到達することさえできるエネルギーやノウハウを手にしている。P208
ミチオ・カク「サイエンス・インポシッブル」(NHK 2008)


今日の物理学者には、陽子の中身から膨張宇宙に至るまで、四三桁ものスケールで物事を考えている。微小/極大思考を併せ持つ彼らにとって、未来のテクノロジーがおおまかにどんなものになるかについて、そこそこ自信をもって語れ、ただ単にありそうにないテクノロジーと、本当に不可能なテクノロジーとを、きちんと区別できるんじゃないの?と思って本書を読みすすめたが、やはり期待どうりであった。

本書では、「不可能」なことを三つのカテゴリーに分けている。

第一のカテゴリーを、「不可能レベル1」とする。これは、現時点では不可能だが、既知の物理法則には反していないテクノロジーである。だから今世紀中に可能になるか、あるいは来世紀にいくらか形を変えて可能になるかもしれない。テレポーテーション、反物質エンジン、ある種のテレパシー、念力、不可視化などがこれにあたる。

第二のカテゴリーは、「不可能レベル2」とする。これは、物理的世界に対するわれわれの理解の辺縁にかろうじて位置するようなテクノロジーだ。かりに可能だとしても、実現するのは数千年から数百万年も先のことかもしれない。タイムマシン、超空間飛行の可能性[超空間とは3時元を越える高次元のこと]ワームホールを通過する旅などがこれになる。

最後のカテゴリーは・「不可能レベル3」だ。これは、既知の物理法則に反するテクノロジーにあたる。意外にも・この種の不可能なテクノロジーはきわめて少ない。もしもこれが本当に可能になったら・物理学に対するわれわれの理解が根本的に変わることになる。

彼も書いていることだが、このような分類は非常に重要だと思う。SFに登場する多くのテクノロジーは、まつたく不可能なものとして科学者に切り捨てられているが、実のところ、「「われわれのような文明」にとって不可能である」いう意味なのだ。

惑星一個のエネルギーを使う、タイプ1文明
恒星一個のエネルギーを使う、タイプ2文明
銀河系規模のエネルギーを利用するのが、タイプ3文明

同時に、不可能レベルが上がるにつれて、文明タイプが変容していくという指摘が興味深い。今のわれわれは「タイプ0文明」であって、タイプ1に移行するには数世紀かかると。

■参考リンク
951旅 ミチオ・カク『サイエンス・インポッシブル』
不可能とは、可能性だ「サイエンス・インポッシブル」



■tabi後記
啓蒙主義的な進歩史観に辟易する方もいると思うが、辟易するだけでは、あなたが思い描く方向にも、描かない方向にも進化はしていかない。
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tabi0129 クザーヌス「神を観ることについて」

主よ、私の神であるあなたを、私を何らかの精神的な引き上げにおいて観るのです。なぜならば、もしも眼差しが視覚によって満たされることなく、耳が聴覚によって満たされることがないのであれば、知性は知性認識によってはもっと少なくしか満たされないのだからです。それゆえに、知性を満足させて、それの<目的>となるものは、知性が知性認識するものではありません。しかし、また知性が全く知性認識することのないものも知性を満足させることはできません。ただ、知性が知性認識としてではなく(何らかの精神的な引き上げにおいて)洞察するものだけが、知性を満足させることができるのです。つまり、知性が認識する知性的なものが知性を満足させることはなく、知性が全く認識することのない知性的なものもそれを満足させることはなく、むしろ、十分に知性認識されることはとうてい不可能であるほどのに知性的であると知性自身が知るもの、これのみが知性を満足させることができるのです。P97-98
クザーヌス「神を観ることについて」(岩波書店 2001)

エックハルトの地続きとしてクザーヌスを読了する。「知ある無知」「反対対立の合致」を唱え、中世と近代の最中で生きた人間の思考を垣間みることができた。

tabi0129.jpg

クザヌースは知性/理性/感性を用いて神にアクセスすること企図し、アクセスの統合によって生まれる観/想/信というプロトコル獲得する。という手前勝手な解釈をおこなったあたりで思索は中断された。

■参考リンク
ニコラウス・クザーヌス『神を観ることについて』に関するメディテーション
神論の経歴 一エックハルトの「区別なきもの(indistinctum)」からクザーヌスの「非他なるもの(non−a1iud)」へ一



■tabi後記
八巻さんの記事が面白くなりつつある。もっと飛び抜けてほしい。
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2009年05月04日

tabi0128 飯田泰之「歴史が教えるマネーの理論」

通常、金融論のテキストでは1 交換仲介、2 価値尺度、3 価値保存の3機能を果たすものをマネーとして定義します。取引を行う際に、その支払い手段として用いることができるという性質を交換仲介機能といいます。また貨幣の価値尺度機能とは、モノの価値を表すときにそれが貨幣の単位で表現されるという性質を指し、価値保存機能は貨幣自体が資産として「とっておくことができる」という性質を表します。以上の定義を満たすものとして、現代では現金・預金がマネーであるということになるでしょう。P16
飯田泰之「歴史が教えるマネーの理論」(ダイヤモンド 2007)

交換仲介(腐らない、かさばらない、持ち運びやすいといった物理的制約を突破したことが硬貨、紙幣を発展させた理由なのかもしれない)、価値尺度(共同体の余剰生産と交易で経済が発生し、形而上概念としての「金銭」が発生する)、価値保存(これは「とっておける」ということ。金銭が完全に有限の資源から切り離され、 幻想そのものになっていく)という貨幣の3機能があるが、ぼやーっと貨幣の未来として思うことは4つの事態。

1 貨幣機能の価値が低減していく
2 貨幣の役割が変わっていく
3 交換自体が低減する
4 所有の概念が変わる

これらの事態については、次に貨幣本を読んだ時に書かかせてもらいます。

■参考リンク
天才プログラマー/スーパークリエイターになる方法(2) テーマ編
お金について考える 〜僕と未来と資本主義〜
あなたが中央銀行になるのだ
やる夫が儲けるようです
貨幣のいたずら〜その多機能性が悲劇を生む



■tabi後記
音声を聞く際は2.6倍速が丁度いいかなあ。
posted by アントレ at 22:30| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0127 レーモン・クノー「文体練習」

音声のレベルでの共通性や類似をテーマにした「21.区別」「22.語尾の類似」「46.音の反復」「82.聞き違い」などになると、もはや原文の表面上の「意味」は全面的に無視せざるを得ない。「意味」を無視した翻訳が翻訳と呼べるかどうかはわからないが、とくにかく原文はひたすら音を問題にしているのである以上、訳文でも日本語の音でそれに相当するものを見つけてゆくほかはない。(中略)さてこのような無謀な「翻訳」の試みを通して感じたものは、「自分の」無力さであっても「日本語の」無力さではなかった。「ことばの壁」にぶつかって進退きわまることもしばしばだったが、ひねくりまわしているうちにどこかに迂回路が見つかって「やれば何とかなるものだ」という思いをすることが多かった。P149-151 訳者あとがきより
レーモン・クノー「文体練習」(朝日出版社 1996)

本書は、たったひとつの些細な出来事を、99通りににおよぶ書き換えによって構成した一冊。

些細な出来事とは、

ある日、バスのなかでソフト帽をかぶった26歳くらいの男が隣の乗客が押してくるので腹をたてるものの、その口調はたいした剣幕ではなくて、別の席があくとそそくさと座る。その2時間後、サン・ラザール駅前のローマ広場でその男をまた見かけた。連れの男がいて「君のコートにはもうひとつボタンがいるね」と言っているのが聞こえた。

これだけのことである。

モノーは、この出来事を第2番では、わざとくどくどと書いていく。そして、第3番ではたった4行にし、第4番はメタファー、第7番は夢として、8番は予言として、10番は虹の七色として書いていく。彼はこのように文体を変えてみせていくのである。

読者は、表現の地平に驚きをもつと同時に、フランス語→日本語という翻訳がなされたという事実に驚きをもつ構成になっている。私が気づけたことは、「言葉にならないことを言葉でする」前に、「文体から言葉がでてくること」を刻むことである。

■参考リンク
第百三十八夜【0138】2000年9月27日
ウリポ(潜在文学工房)からウバポ(潜在マンガ工房)へ


■tabi後記
Twitterを再開しました。
posted by アントレ at 17:08| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0126 南直哉「日常生活のなかの禅―修行のすすめ」

苦しみの本質が「思いどおりにならない」ことなら、その原因たる欲望の本質は「思いどおりにしたい」ということであろう。当たり前のことだと言われるだろうが、ここは勘所である。私がこだわるのは、欲望は単に、言わば本能的に「したい」ではなく、「思いどおりにしたい」ことなのだという一点なのだ。食欲と人は言う。腹が減ったから食べたい。よくわかる話である。では、これと「おいしいもの」が食べたい、ということとは同じことなのだろうか。違うであろう。(中略)ここで仮に「腹がへったので食べたい」を食・欲求と言うとすれば、まさしく「おいしいと思うものを食べたい」こそ、食・欲望と言うべきであろう。(中略)「根拠」として絶対者も自己決定も置けないなら、別のもので根拠を代用にする。これがすなわち物の所有である。つまり所有の本質は、物を「思いどおりに、好き勝手に処分できる」こと、つまり自己決定できることなのだ。とすると、こういうことになる。欲望の核心が所有で、所有の実質的意味が自己決定であり、自己決定が「自分であることの根拠」とされうるなら、欲望と所有と自我(自分であることの根拠)は、三位一体のトライアングルを形成する。P50-52
南直哉「日常生活のなかの禅―修行のすすめ」(講談社 2001)

私にとって、この視点は新鮮だった。「食べる根拠はどこにあるのか?」という問いをもつことで根拠づけとしての欲望の扱いを問い直す。問いをもって生きることによって、自我の肥大を抑えつつ、非己との関係をもち自我を薄くしていく。この2つの視点が欲望を飼いならす術(修業)であると。

tabi0126.jpg
根拠付けの分類と仏教(根拠の外部へ)について思索した軌跡

■参考リンク
合田さんの言葉
Argue
何も死ぬことはない



■tabi後記
断絶した未来はタブー(違法・恥・無理)の先にある未来である。
posted by アントレ at 16:03| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0125 中島義道「「私」の秘密 -哲学的自我論への誘い-」

私とは、ー不思議なことにーこういうかたちで過去形を使える者なのです。そのためには、私は<いま>存在していなければならない。過去形を使える者は、現在生きている者です。現在生きつつ、過去においていかに「あった」かを語っているのです。
ここに、現在という時と過去という時という互いに両立しない時、互いに否定的関係にある時(現在は過去ではなく、過去は現在ではない)を「つなぐ」存在者が前提されている。「私はいま覚醒しているが、同一の私がさっき熟睡していた」のです。この同一性の了解こそ、私というあり方を了解することです。
とはいえ、私は現在と過去から等距離にあって、現在と過去を「つなぐ」のではない。現在生きつつ、あくまでも現在の側から過去をつなぐのです。こうして、独特の仕方で過去と現在とを「つなぐ」ところに、すなわち「つながれる」ものとしての現在と過去とが一挙に出現するところに、私が出現します。P15-16
中島義道「「私」の秘密 -哲学的自我論への誘い-」(講談社 2002)


想起モデルと、記憶の糸でつながれる私という考えは同意ではないと感じるのだが言葉にできない。その言葉にできない感を表現する為に、僕の読自模様を公開してみよう。

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「cogito, ergo sum(我思う、ゆえに我あり)」を知らぬものは少ないが、立ち止まる人は多くはない。考える(cogito)と存在する(sum)という視野に 「我思うが、我あらぬ」「我思わぬが、我ある」「我思わぬ、我あらぬ」という視点を挿入し、この「私」(我)がなぜ<私>(我)なのかという視点が入ることで深みと怖さがましてくる。

■参考リンク
まちょっと、本のこととか
増田的認識論不足



■tabi後記
「今、ここに、私としてに存在していること」が問いである。存在としての世界の切り取りが自身が命を絶たずに生存する理由であり、命が経たれても存在できる理由であろうか。その理由からも離脱するのがエックハルトの視点か?
posted by アントレ at 12:27| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0124 エックハルト「エックハルト説教集」

まことに、父はその子を父の単純な本性のうちで、本性のままに生むのであり、その時、父は真実その子を精神の最内奥で生むのである。つまりこれが内面的世界である。ここでは、神の根底はわたしの根底であり、わたしの根底は神の根底である。ここにおいて、神が神自身のものによって生きるように、わたしはわたし自身のものによって生きる。たとえ一瞬たりとも、この根底をのぞみ見たものには、千マルクの純金硬貨といえど、偽造一ヘラー銅貨ほどにしかすぎないものとなる。あなたは、この最内奥の根底から、あなたのわざのすべてを、なぜという問なしに、なさなければならない。P39
エックハルト「エックハルト説教集」(岩波書店 1990)


エックハルトのキータームは「離脱」である。「何も意志せず(無所求)」、「何も知らず(無知)」、「何も持たず(無所有)」という「内なる貧しさ」という自覚をもったうえで、さらにそこからも自由であることが離脱である。自己の外に立てられたどんな獲得対象ももたず、さらに「わたしは離脱した心の状態にある」という「離脱」の自覚からも「離脱」したあり方を語っている。

「一切の被造物および自己自身から離れること」が離脱と名づけられ、離脱とはこの意味で、「この世界と自己とに死すること」であるが、ここで注意を要するのは、それが外的な「隠遁生活」を意味することものではなく、むしろ活動的で豊かな中世都市生活の只中に生きて、しかもそれらの豊かさにとらわれず、不動にして神とひとつとなり、さらにはその神とひとつであるという自覚からも離脱した、真に自由で主体的な人間のあり方を説いているのである。そこにおいて、シャーマニズム的な「脱魂状態」、「霊魂離脱」という意味は無縁と化す。

■参考リンク
マイスター・エックハルト



■tabi後記
早朝から五味さんとディスカッション。最近使っている「Recallability(召還力)」という言葉をつかっている。何かに所属すること、没頭することは、「Recallability(召還力)」の低下につながるという話し。この現象が、知らず知らず私にも当てはまりつつあるという指摘がありがたかった。もちろん、この現象への対処法や抜け道はある。
posted by アントレ at 11:34| Comment(2) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月01日

tabi0123 中島義道「悪について」

彼によれば、人間は「自然本性からして」悪である。どんな善人も悪である。この思想の背景としてキリスト教の「原罪」の思想が認められるが、カントの「根本悪」ははるかに人間的である。人間は、みずからより完全になろうと刻苦精励し、他人の幸福を望み他人に親切にすればするほど、必然的に悪に陥る。(中略)
悪はすべての人の「善くあろう」という意志の中に溶け込み、社会を「善くしよう」という欲求の中に紛れ込む。それは、癌細胞のように、生命現象自体にこびりついて、みずからを増殖させていく。といって、われわれは「善くあろう」とすることを完全に放棄して、魯鈍な羊の群れに戻ることもできない。まさに、出口なしである。われわれ人間は全員(どんな極悪人も、どんな聖者のような人も)「道徳の学校」における落第生であり、いくら努力しても、優等生にはなれないのだ。
これを知って、私はむしろほっとする。われわれは、たえず「善くあろう」と欲しながら、行為のたびごとにそれに挫折し、自分のうちにはびこる悪に両肩を落とし、自分自身に有罪宣告を下し、そして「なぜだ?」と問いつづけるほかはない。なぜなら、このことを全身で受け止めて悩み苦しむこと、それがとりもなおさず「善く生きること」なのであるから。P5-6
中島義道「悪について」(岩波書店 2005)


永井さんの視点が参照されていることを望んでいたので、「もっと踏み込んで下さいよ、中島さん」と感じた次第です。もちろん引用箇所を含め、参考になるところは少なくなかった。特に「カントが犯罪行為に対して徹底的に無関心であり、形式を確立させることを徹底化したこと」には関心もてた。それは、実践の形式を確立しから、そこから溢れるもの、庇えるものを規程していくという作法であろう。

■参考リンク
哲学塾カント



■tabi後記
3年前から私のことをチェックしてくれている子にお会いした。ブログを見てくれていることもあってか、非常に気持ちよく話すことができた。上海にいく際には、お邪魔させてもらいますね。
posted by アントレ at 23:09| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0122 岡田斗司夫「「世界征服」は可能か?」

世界征服を目指す人とは、現状を否定する人のことです。人に優しく、環境に優しく。良識と教養のある世界を目指すことのよって、「悪」の栄える世界を目指しましょう。「いいものを、より安く」ではなく「人を出し抜いて得するのはやめよう」。「トレンドに敏感に」「自分のしたいことを探そう」ではなく「お年寄りを大切に」「ちゃんと学校で勉強しよう」。いま現在の「幸福」と「平和」にノーを言うこと。新しい「幸福」と「平和」を世界に宣言すること。これが新時代の、世界征服への合言葉なのです。P185
岡田斗司夫「「世界征服」は可能か?」(筑摩書房 2007)

一般的には、世界征服とは、人々から平和な生活を奪う行為であり、その時代の価値観=幸福感にダメージを与える行いや言論こそが「悪」になり、現在の社会秩序が保たれている状態が「平和」であるとされます。

本書のがおもしろいのは、悪は負けたから「悪」になってしまったという前提があるからでしょう。その事例として、ショッカーやピッコロ大魔王や死ね死ね団が登場します。もしヒトラーやチンゲス・ハンが負けていなかったら、それは悪ではないだろう視点をもった「世界征服学」である。

■参考リンク
情報考学 Passion For The Future
書評 - 「世界征服」は可能か?



■tabi後記
09年も1/3が過ぎましたね。目標は達成/修正されているでしょうか?
posted by アントレ at 17:15| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0121 長谷川眞理子「進化とはなんだろうか」

しかし、私たち人間は、神経系が発達して、自意識をもち、周囲のものを自分との関係で理解し、自分自身をも理解しようとする存在になりました。私たちは、自分や周囲のものの目的を考え、生きることに意味を見いだそうとします。このような人間の営みに、進化という生物学的事実は、直接的にはなにもモラルのようなものを提供するわけではありません。自然界の成り立ちからモラルを見いだそうとするのは、人間がどうしてもそうしたいからなのでしょう。直接、万人に通用するモラルを自然界から得ようとするのは、「自然主義の誤謬」と呼ばれる誤りです。しかし、進化を知り、生物の適応を知り、生命の流れを知ると、みんな一人一人個人的に、自分自身が生きていく上で、何か重要なものを見いだせるのではないでしょうか?P212-213
長谷川眞理子「進化とはなんだろうか」(岩波書店 1999)

進化とは、生き物が時間とともに変化していくことであり、生き物とは、生き物から生まれ、外界からエネルギーを取り入れて代謝し、成長し、自分と似たものを生み、そして死ぬ存在である。本書はそのような前提で言葉を紡いでいます。「進歩」という言葉は時代的な規定であり「進化」という言葉は時代的な変化である。

善悪や正誤は規定できないということ、進化を起こす先の「社会」像を描けてしまうこと自体凄いということ。この2つのメッセージを基軸に話しをするだけで(濃淡はあるが)大半の悩みは消えてしまうのではないだろうか。



■tabi後記
しんか=しん「進・深・神」+か「化・価・歌」という組み合わせが浮かんだ。
posted by アントレ at 00:19| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月30日

tabi0120 松岡正剛「多読術」

だから読書というのは、読む前に何かが始まっていると思った方がいい。それを読書をするときだけを読書とみなしているのが、とんでもないまちがいです。だいたい、本はわれわれが読む以前から、「読む本」になっているわけです。
テキスト(本文)がすでに書かれているというだけじゃない。テキストはたしかに読むしかないんですが、それも速読術以外にいろいろの方法がありますからあとで説明しますが、それだけではなく、本の著者やタイトルやサブタイトル、ブックデザインや帯や目次などは、読む前から何かを見せている。そういった、読む前も本の姿や雰囲気も、実はもう「読書する」に入っていると思います。ということは、図書館や書店は、その空間自体が「読書する」なんです。P80
松岡正剛「多読術」(筑摩書房 2009)

前回書いた内容と酷似する文章があったのには驚いた。「読書は読む前から始まっている」とは、まさにそうだと思う。それを前提としたうえで、読書前、読書中、読後の経験を構築することが大切になってくる。

■参考リンク
松岡正剛の読書術【入門】
多読術/松岡正剛
書に遊ぶ - 書評 - 多読術



■tabi後記
藤沢さんの家で安斎舟越野島と対話をした。色々な掘下げがあり、始終ニヤニヤする自分がいた。
posted by アントレ at 00:45| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月28日

tabi0119 ヘルマン・ヘッセ「ヘッセの読書術」

一冊の本に何らかの点で魅了され、その本の著者を知り、理解しはじめ、その著者と内心のつながりをもった人は、そのときにはじめてその本から本当の影響を受けはじめる。(中略)千冊の、あるいは百冊の《最良の書》などというものは存在しない。各個人にとって、自分の性格に合って、理解でき、自分にとって価値のある愛読書の独自の選集があるだけである。だからよい蔵書は注文でそろえることはできない。各人が友人を選ぶときとまったく同様に、自分の欲求と愛に従って、自分でゆっくりと書物を集めなければならない。そうしてできたささやかな蔵書が彼にとって全世界を意味するのだ。P47
ヘルマン・ヘッセ「ヘッセの読書術」(草思社 2004)


ヘッセに読書の原点に戻してもらえた。読書をするということは、知識を獲得することではなく、無知から未知への跳躍なのである。その跳躍というのは文字に対してではなく私に対してなのだ。それが読自の本質である。

僕は、「私」の中に外世界をこえた存在があることに気がついてほしいと思っている。書籍は、その内世界にアクセスするためのキーなのである。そして、書籍選定をするさいに「私」は外世界と内世界の狭間にあらわれてくる。そのときに自分を捉えるんだ。掴めるんだ。読書は本を読む前からはじまっているのである。

■参考リンク
882旅 ヘルマン・ヘッセ『ヘッセの読書術』



■tabi後記
本棚をみる行為が「私」を呼び起こすことにつながるという発想をえた。しかし、それは1つの行為でしかないだろう。
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tabi0118 池田晶子「魂とは何か」

<魂の体質>という言葉が、ある時、私にやって来た。性格、気質というものを、生理学的体質の側から、説明しようとする姿勢を拒否した時、「その人」を言い当てる最も生なもの。あるいは、「人物」の初期条件。言い得て妙である。P37
池田晶子「魂とは何か」(トランスビュー2009)

今日、大学の図書館で本をぶん投げてしまった。(破損しなくてよかった!)哲学専攻の院生が読みそうな本をパラパラみる自分に吐き気がしてしまったからだ。

「そういうことじゃねえだろ」という声が自分から聞こえてくる。

「どういうことだ?」と問い直す。

「いま、ここ、わたし」への「認識、存在、感覚」だろうよ。と私。

そのままふっと声は消え去り、池田さんの本を手にとっていた。

本書を読んで、<原体験>という言葉と<魂の体質>が重なる。私が、幼少期から抱えている問いは、「なぜ「今」、「ここ」において「私」なのか?」というものである。

この3つがサイクルしているので、僕が抱える問いは日々異なっている。このあたりの思考(クロニカルシンク、プレイスシンク、ソウルシンク)が組み合わせられた時に起こる問いのパターンを体系化したい。

■tabi後記
池田さんの身体が消え去ってから2年弱が経つ。池田晶子という「私」は何だったのか。
posted by アントレ at 20:51| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月27日

tabi0117 安部公房「第四間氷期」

「それで?」と私がうながしたのに、頼木があわててうなずき返し、
「ええ、それで・・・その結果、分ったことは、やはり、駄目だということだったのです。」
「なにが駄目だ?」
「つまり先生は、やはりその未来には、耐えられなかったということです。結局先生は、未来というものを、日常の連続としてしか想像できなかった。その限りでは、予言機に大きな期待をよせていらっしゃったとしても、断絶した未来・・・この現実を否定し、破壊してしまうかもしれないような、飛躍した未来には、やはりついて行くことが出来なかった。先生は、プログラミングにかけては、最高の専門家かもしれませんが、プログラミングというのは、要するに質的な現実を、量的な現実に還元するだけの操作ですね。その量的現実を、もう一度質的現実に綜合するのなければ、本当に未来をつかんだことになりません。分りきったことですが、先生は、その点でひどく楽観主義的だった。未来をただ量的現実の機械的な延長としてしか考えていなかった。だから、観念的に未来を予測することには、強い関心をよせられたけど、現実の未来にはどうしても耐えることができなかった・・・」 
「分らんね、何を言おうとしているんだか、さっぱり分らんよ!」
「待って下さい、具体的に説明します。後でテレビでお目にかける予定ですが、先生は、その未来に対して公然と反対の立場をとられたのみならず、しまいには、予言機の予言能力にまで疑いをもち始めた。」
「知らないよ、その過去形をつかわれたって・・・」
「でも、予言機が予言してしまったのですから、仕方がない・・・その未来の実現を妨害するために、約束を破って、たとえばつい数時間前にしかけたように、組織の秘密を暴露してしまうことになるんです。」
「かまいやしないじゃないか。水棲人間をつかった海底植民地なんかに反対して、何がわるい。それだって、新しい条件におけるつまり第二次予言値として、立派な未来じゃないか。そんな馬鹿気た未来を未然に防止するためにこそ、予言機の利用価値もあるんだと、私は思っているな。」
「予言機械は、未来をつくるためのものではなく、現実を温存するためのものだと仰るんですか?」
「ね、そうでしょう・・・」と和田がせきこんだ調子で、割込んできて、「結局それが、勝見先生の考え方の根本なのよ。もう何をいっても無駄らしいわ・・・」
「おそろしく一方的な言い方だね。」こみあげてくる怒りを、かろうじてこらえながら、「なにも、その海底植民地の未来だけが、唯一の未来だというわけではあるまい。予言を独占しようとするくらい、危険な思想はないんだ。それはいつも私が口をすっぱくして注意してきたはずじゃないか。それこそファッショだよ。為政者に神の力を与えてしまうようなものだ。なぜ、秘密が暴露されてしまった場合の未来を、予測してみようとしないんだね?」
「しましたとも・・・」抑揚のない声で、頼木が一気に言った。「その結果、先生は、殺されてしまうことになるのです。」
「誰に?」
「外で待っている、あの殺し屋にですよ・・・」P258-261
安部公房「第四間氷期」(新潮社 1970)

自分がふつふつと考えていた概念が、1つの物語として緻密に設計される様に圧倒されてしまった。間氷期というテーマ設定、それに対する予防事業を描き出したことの圧倒されたのだ。ただし、これは本書のサブテーマである。

メインテーマは、サブテーマが設定される過程にある。それを、僕の言葉でいうと、「質性を確保する為の量化作業に質性が宿ってしまった際の応答」というテーマである。

そのテーマが予言機と予言機プログラマーを一体化させる過程にあらわれている。予言機作成者の行動が予言機に予言されてしまう。その現実に立たされたときに本性が現れる。「断絶の未来」に対して露呈した1人のプログラマーが「保守的な、あまりに保守的な姿」が描き出されるのだ。更に加えれば、彼を裁判にかける研究室メンバーの「革新的な、あまりに革新的な姿」も描き出されるのだ。



■tabi後記
村上龍と同時に買った本書。この2冊を連続的に読めたのは幸せである。連想がふくらんでいく。
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tabi0116 村上龍「五分後の世界」

「ここをどう思う?」
(中略)
「処刑の前にそういう質問をせよという命令だ、自分にもわからん、こういう質問は初めてだ」
一言で言うと、と小田桐は答えた。
気に入った、
「気に入った?」
妙な顔で警備の責任者は聞き返した。

疲れたけどな、でも、あんたは知らないだろうけど、オレがもといたところはみんなひどいおせっかいで、とんでもねえお喋りなんだ、駅で電車を待ってると、電車に近くづくな、危ないから、なんて放送があるんだぜ、電車とホームの間が広くあいてるから気を付けろっていう放送もある、窓から手や顔を出すなってことも言われる、放っといてくれっていってもだめなんだ、自分のことを自分で決めて自分でやろうとする、よってたかって文句を言われる、みんなの共通の目的は金しかねえが、誰も何を買えばいいのか知らねえのさ、だからみんなが買うものを買う、みんなが欲しがるものを欲しがる、大人達がそうだから子供や若い連中は半分以上気が狂っちまっているんだよ、いつも吐き気がしてあたり前の世の中なのに、吐くな、自分の腹に戻せって言われるんだから、頭がおかしくなるのが普通なんだよ、ここは、違う、

「よくわからんが」
警備の責任者はずっと液晶パネルを見ている。
「戦う者はおらんのか?オールドトウキョウなどには九十万を超える準国民ゲリラがいるのだぞ」
誰も戦わねえ、と小田桐は言った。

いやあんたにはわからねえだろうが、オレの言っているのは戦争をするってことじゃねえんだ、変えようとしないってことだ、誰もがみんな言いなりになってるんだよ、
「国連軍にか?」
違う、
「誰の言いなりになってるんだ?」
何も知らないあんたに説明するのは難しいが、子は親の言いなりになってるし、親は子供の言いなりになってる、みんな誰かの言いなりになってるわけだ、要するに一人で決断することができなくておっかねえもんだから、あたりを窺って言いなりになるチャンスを待ってるだけなんだよ、

「半世紀前の」
と、警備の責任者は、液晶パネルから小田桐に視線を移した。
「帝国軍みたいだな」
そして、何度も液晶パネルに浮き出た文字を確認してから、散開している兵士に伝えた。
「こいつの処刑は中止だ」
来い、と小田桐はうながした。
どこへ、と小田桐が聞くと、トンネルへの通路を顎で示しながら答えた。
「地下司令部だ」P119-121
村上龍「五分後の世界」(幻冬舍 1998)

本書の解説が的を得たものとなっていた。文学というものは、読物と小説に分けられるという。その分岐点は、自らのパーステクペクティブに変化を及ぼすか、及ぼさないかの違いであると。読物とは、時として人を驚かせ、混乱させ、おびえさせかもしれないが、そのすべてが結局、読者を安心させることを本質とする作品なのである。

しかし、小説とは、自らの生の遠近法を変えずには受けとめられない力をもった作品である。私は、この解説を読んだ時に、ハッとさせられた。それは小説的体験を評論/哲学の書籍で自分が味わっていることに気がついたからだ。同時に、小説体験を提供してくれる「文学」と深く向き合っていなかった自分を恥じる気持ちも生まれてきた。

■参考リンク
五分後の世界(もう一つの日本)
物語の設計図



■tabi後記
読書空間がひろまると同時に、小説という表現形式の可能性に魅かれはじめた。
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tabi0115 佐藤徹郎「科学から哲学へー知識をめぐる虚構と現実」

第三者の批判を受けることによって初めて学問の客観性が確保されるのであり、したがってウィトゲンシュタインのように自己の精神に親近性をもつ人々以外は無視するといった態度は、哲学を主観的、秘教的なものにしてしまうという非難を免れないように見える。しかしこういった常識は、(中略)つまり一口にいえば、批判的態度は結局人々の間の相互理解をもたらすということを前提にしている。ところが、人々の間の客観的なコミュニケーションの可能性についてのこうしたオプティミズムこそ、ウィトゲンシュタインが全面的に否定するものである。P54
佐藤徹郎「科学から哲学へー知識をめぐる虚構と現実」(春秋社 2000)


図書館でたまたま見かけて、永井均が「私の哲学観は本書の全面的な影響下にある」と書いていた人だなと思い出した。読んでみて納得。

特に第1章の「科学的<知>の概念を超えて」は、自然科学をやっている人も、数学をやっている人も、哲学をやっている人も、文学その他の研究に携わる人も、つまりすべての学問をする人が読んで何がしか得るものがあると思います。



■ tabi後記
哲学は私秘性のうえに成り立つものであるとするならば、密教とは矛盾をはらんでいる。私秘であること、それを教えるということの境界領域に関心が向いている。
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2009年04月25日

tabi0114 チップ・ハース,ダン・ハース「アイデアのちから」

SUCCESsチェックリストは、上記の枠組みに代わるものだが、より具体的で「知の呪縛」に左右されない点が強みだ。実際、これまでの章を振り返れば、SUCCESsが五つの枠組みと上手く符号していることがわかる。
(1)関心を払う 意外性がある
(2)理解し、記憶する 具体的である
(3)同意する、あるいは信じる 信頼性がある
(4)心にかける 感情に訴える
(5)そのアイデアに基づいて行動できるようになる 物語生がある
ちなみに、右のリストには「単純明快さ」はない。なぜなら、メッセージの核を見出し、できるだけ簡潔にするというのは、主に「答え」の段階のことだから。P333
チップ・ハース,ダン・ハース「アイデアのちから」(日経BP 2008)


SUCCESは「アイデアを人の記憶に焼き付かせる」ためにつくられたフレームワークである。

Simple:単純明快である
Unexpected:意外性がある
Concrete:具体的である
Credible:信頼性がある
Emotional:感情に訴える
Story:物語性

この本の主張は、あくまでアイディアを人に伝えるときのフレームワークを伝えているのであり、アイディア自体を生み出す方法については言及していない。もちろん「非凡なアイデアが伝え方次第で平凡になってしまうこと」「平凡なアイデアが伝え方次第で非凡なものになってしまうこと」を知るうえでは良いテキストである。

SUCCESの要素が重複・相互依存的になっているためフレームワークとしての使いづらさはあると思うが、アイデアを焼きつかせるために、様々な視点(問い)を発することができるという面では有用だと思う。

追記:問いに変換してみよう

Simple:それは小学5年生でも分かる内容か?
Unexpected:それは立ち止まってしまう内容か?
Concrete:それを聞いて脳に絵が描かれるか?
Credible:それは信頼たるメディアにのっかっているか?
Emotional:それは心拍数をあげるか?
Story:それは帰宅後に話したくなるか?

■ 参考リンク
専門家・勉強好きの人が陥る病 知の呪縛
Made to Stick / アイデアのちから



■ tabi後記
先日、小説を大量に購入した。
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tabi0113 安冨歩「生きるための経済学」

マルクス主義経済理論が、搾取なき交換システムとして提案するのは、人間の理性にもとづいた計画経済である。これを正しく作動させるには、「無限の計算速度」「瞬間的でエネルギーを用いない情報交換」「将来にわたる事前の計画策定に正確にもとづいた経済行為」を必要とするが、この三つはそのまま、相対性理論・熱力学第二法則・因果律の否定を必要とするのである。標準的市場理論とマルクス主義経済理論とが共通に求めるものとは何であろうか。私はそれを人間の自由であると考える。P50
安冨歩「生きるための経済学」(NHKブックス 2008)


本書の流れは、シンプルかつ説得的である。「選択の自由」は計算量爆発と非線形性の前に崩れ去っていくことを説明している。

選択の自由が崩れ去った時に人は、「自由の牢獄」にたたされる。そして、自由からの逃走、プロテスタント的予定説へ導かれていく。

我々は、自動書記や反射や習慣という現象をを受身と捉えるか、創発のヒントと捉えるかを選ぶことができる。

後者は暗黙知とセットで語られる場合があるが、経営学経由でこの言葉を知った人は注意を要する。なぜなら、暗黙知とは、「暗黙の認識処理過程」のことであり、隠れた知識、そして掘り起こせる知識という意味ではないからです。

追記
何かにつけて「創発が起きた!」というような創発ユートピアンには陥らない強さが大切であろう。

■ 参考リンク
池田信夫 blog
経済学と経済のキャズム



■ tabi後記
午前中はSVGTのスキル登録説明会にいってきた。私以外に大学生がいることは想像だにしていなかったので、本当に驚いた。久しぶりに素敵な出会いができた。
posted by アントレ at 16:38| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0112 松井孝典「人類を救う「レンタルの思想」」

農耕牧畜とは、地球システムの物質・エネルギー循環を直接利用する生き方であり、それゆえ新しい構成要素を作って生きる生き方なのである。生物圏の中の物質・エネルギー循環に比較して、その循環の流量は桁違いに大きく、従ってより多くの人類の生存が可能になる。

人間というスケールでこのことを論じれば、この時欲望が解放されたといってよい。以来人類は、大地を、そして地球を「所有」すると、錯覚するようになった。

より多くの人が集団で住むようになり、食糧生産に直接関わらなくて生きられる人が多くなり、さまざまな分業体制が生まれ、人間圏の内部システムの構築に必要な共同体が形成され、その共同体の求心力としてさまざまな共同幻想が作られた。P7
松井孝典「人類を救う「レンタルの思想」」(ウェッジ 2007)

人類は欲望を持つ。それは潜在的に現生人類(ホモサピエンス)という種が分化した時から持っていたのだろう。しかし生物圏のなかにとどまっていた時、その欲望は分をわきまえたものにならざるをえない。

生物圏の食物連鎖に連なるということは、配分されるパイが生物圏の内部での分配により規定され、自分の欲望のままにならないからです。農耕牧畜の開始により、原理的には人類は、それまでのそうした禁欲的な生き方から解放された。

人類は約一万年前そうした選択(これまで何度となく指摘してきたように、生物圏から分化し、新たに人間圏をつくるという生き方)をした。なぜ一万年前かといえば、その頃氷期が終わり、間氷期が始まったからである。間氷期の訪れとともに気候が安定化し、毎年規則的に季節が巡ってくるようになる。季節が巡れば、同じような食糧を定期的に採取することができる。そのことに気付いた人類が、それを自ら栽培しようと考え始めたとしても不思議はない。

その時人類は労働を通じて自然の恵みを採取し安定的に食糧を得るという生き方、すなわち、自らの欲望を満足させる道のあることに気付いたのである。P24
松井孝典「人類を救う「レンタルの思想」」(ウェッジ 2007)


松井孝典との対談相手として岩井克人、糸井重里がでていたので読了。
この3人は私が教養を身につける際の案内人であった。

彼らを見ていて共感するところは、「自分の頭で考え、自分の世界観をもたない限り、自分はここにいる意味はない」というスタンスで生きているところかな。そして、そのために「わかる」と「いきる」をつなげようとしているところ。

岩井氏:
主流派経済においては、欲求(食べたい)と欲望(うまいものが食べたい)が分岐されていない。欲求だけで考慮しても、人口が増えていくと一人当たりの自然資源が低減していく。その欲求にしたがうだけでは「コモンズの悲劇」になってしまうので、それをさけるために私的所有が発明された。それが、外部不経済(乱獲)の内部化(所有権の設定)であった。

しかし松井と岩井は、主流派経済学が、所有権が人間圏で閉じたモデルであること、欲望自体の考察を勘定にいれていないことに限界を感じている。

以下、まとまっていないのでメモ程度に。(いずれ更新されます)

・未来世代の所有権?
・動物、植物、生物の所有権?
・多世界の所有権?

が議論する必要があるかということ。

・資本主義とは私的な利潤の追求を目的とする経済活動
・人はなぜ利潤を追求するのか?
・貨幣があるから
・なぜ貨幣を追求するのか?
・交換可能性があるから
・なぜ交換可能性が必要になったのか?
・価値尺度機能(何でも交換出来る)
・価値保存機能(もっていても腐らない)
・移動容易性(もちはこびやすい)
・交換可能性から貨幣自体を選好ようになった
・なぜ宛先なき貨幣(可能性自体)を求めるようになるのか?
・貨幣の前に法律があり、その前に言語がある。

ということ。

■ 参考リンク
631旅 梅原猛・松井孝典『地球の哲学』
書評 - われわれはどこへ行くのか?



■ tabi後記
更新はしていなかったが読書は習慣されていた。
テキストベースで蓄えることも習慣されていた。
だが、それを人に伝えるために編集しなおすことが習慣されていなかった。

人に言葉を伝えること。
それは著者と読者の繋ぎ目になること。
分かることは変わることでしかないことを伝えきること。

1つ1つの更新をなおざりにせずにいきたい。
posted by アントレ at 15:53| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月14日

tabi0111 伊藤真「憲法の力」

唐突ですが、憲法及び憲法改正にまつわる基礎クイズです。合っているかどうか、○か×か、考えてみて下さい。

1 憲法は、法律の親玉みたいなものだ
2 憲法改正には、内閣及び総理大臣の主導で行うことができる
3 憲法には、国民が守らなければいけないルールや義務が書かれるべきだ
4 憲法は、国民投票で国民の四人に一人の賛成でも改正されることがもある

さあ、どうでしょう。実は1から4までの答えは、憲法学的にいえば全部×です。P8
伊藤真「憲法の力」(集英社 2007)


憲法の根源的な役割は、国家権力に歯止めをかけることであり、国民を縛るものではない。むしろ、日本国憲法は、国民が国家に対して守らせる約束であって、国家が国民に対してするべき約束ではない。

であるならば、

・僕らは何を国家へ約束させているのか?(憲法)
・また逆に、国家は僕らに何を約束させているのか?(法律)

この「約束」のPDCAサイクルへ携わるのが、法に携わることではないかと思います。

■ 参考リンク
日本国憲法
憲法に関するよくある誤解
憲法について知ったかぶりをしている識者を見破る3つのポイント



■ tabi後記
Es ist Regen nach einer langen Abwesenheit.
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2009年04月13日

tabi0110 長谷川徳七「画商「眼」力」

では、いったいどうすれば、本物に出会うことができるのでしょう。真実を見抜く目をどうやって養えばいいのでしょうか。そこにおそらく正解はないでしょう。しかし、こう問うてみてはいかがでしょうか。「なぜ私は本物に出会えないのか」「なぜ私は真実を見抜くことができないのか」と。P210

極論に聞こえるかもしれませんが、私は本物の根拠など、くだくだしく述べる必要などないと思っています。なぜなら、本物とは「まぎれもなく本物」だからです。そこには嘘がないし、言い訳の入り込む隙間がありません。私が画廊なり美術館なりに積極的に足を運ぶのをみなさんに勧めるのは、数多く本物を見ないとわからないことがあるからです。その経験で何がわかるかといえば、くり返し述べてきたように、本物の絵には作家の魂が宿っているということです。P211
長谷川徳七「画商「眼」力」(講談社 2009)


画廊には、
1 場所貸しとしての貸し画廊
2 流通している絵を商品として売買している画廊
3 自分たちで画家を育成している画廊

などが存在している。(死蔵作品を減らすために画商間売買も行われているが)この記事を読むと、画廊のビジネスモデルにも翳りが見え始めていることが分かる。3のインキュベーション機能を担う画廊が求められてくるのだろう。

ベネッセの福武總一郎は 「経済は文化の僕である」という至言をはなっているが、この言葉には「文化は経済で支える必要がある」ことも含意している。

総括としては、本書を読み、日動画廊にいくことをお勧めしたい。

■ 参考リンク
日動画廊
利超える愛と審美眼



■ tabi後記
大学生活もあと1年。悔いのなきよう過ごしていこう。
posted by アントレ at 22:18| Comment(1) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月12日

tabi0109 多木陽介「アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン」

デザインというのは一つの専門分野であるというよりは、むしろ人文科学、テクノロジー、政治経済などにおける批評力を個人的に身につけることから来るある態度(世界や仕事に対する取り組み方)のことなのです。P20

まるで現代の人類学者の言葉のような95年の「学生たちへの助言」にも「人々の当たり前な身振りや慣習順応的態度、人が気にもとめないようなフォルムを批評的な目を持って観察することを」学びなさい、とあるように、世界を前に、分析し、いつでも批評的精神で物を見よ、目の前に提示された現実を鵜呑みにせず、ごくありきたりになってしまっている物のあり方をもう一度批判的に見直し、そうでない物事の在り方を探すための足掛かりにしろということなのだ。P57
多木陽介「アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン」(AXIS 2007)


昨日、三鷹天命反転住宅に行ってきた。荒川修作+マドリン・ギンズが建築した住居である。

「死なないための家」こんな命題を掲げて作られた住居に関心をもった。この住居は、体の外側から人間の宿命(=死に向かう宿命)を変えていくために、家を精密な遺伝子のように構成し、形作っている。

荒川が考える「死なない」とは、「死ぬことをさける」ということではなく、「生きていない」ことをやめてみなませんか?思い出そうよ。ということではないだろうか。

これが、この住宅に数十分浸った感想である。

この家は、身体の知覚を呼び覚ます家である。ここに住むことによって新たな身体の行為や動きが生まれ、そしてその動作を毎日知覚することで人間の未知の可能性が開かれる空間。空間には直線が殆どなく、身体の知覚を刺激する曲線が交差している。床の凹凸が私の三半規管への挑戦してくる。笑

荒川修作の住宅を感じながら、カスティリオーニを読了した休日。

以下の、写真から私の体験をトレースしてくれれば嬉しい。

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■ 参考リンク
ひらめく発想のマネジメント力
アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン
"ほんもの"の生活?
視野は広くを意識して



■ tabi後記

Finish!!

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2009年04月08日

tabi0108 生嶋誠士郎「暗い奴は暗く生きろ」

「【人は多くの他力、他人の愛とか思いやりによって生かされている。自力だけで何でも事をなしてきた、これからもそうだ・・・というのは間違い。人は多くの他力によってこその今なのだ】という思い。」P69

「この"ガテン度数"("手に職が有るか無いか度数")という言葉を世に広めたいね。そしてこの度数の低い者は、我々リクルートの人間を含めて「頭を低くして生きる」という姿勢。そう、さあらば、国会議員も評論家も銀行員もマスコミも「自分たちだけでは商売がなり立たない」自覚のもとで頭が低くなり、世の中がまともになる感じがするけど、どうだい」P72

新しい事業は面白い。立ち上げる過程のあれこれも楽しいが、それが成長路線に乗れば喜びも格別だ。だがそれは既に完成している既存事業の利益を使っての行いである。そして既存事業は、おおむね地味で丹念な積み重ねが要求される。そこで言う。

『お互いに「今日のパン」チームと「明日の夢」チームを時々乗り換えながら進もうぜ』と。大切なことはお互いのエールの交換。とりわけ「明日の夢」を追う人達は、「今日のパン」チームに対する感謝の心を忘れてはいけない。その心があれば、新規事業は正しく会社の期待になる。P162
生嶋誠士郎「暗い奴は暗く生きろ」(新風舍 2007)


クリエティブクラスという言葉が流行っていた。

私にとって魅力的な言葉であった。

本書に登場する"ガテン指数"と"他力本願"という概念の前にたたされるまでは。
"クリエティブクラス"への憧景は静かに息をひそめていった。

それは、「両者において価値分別」はないことの知覚である。(今更といわれてしまうかもしれないが、、)私が一面的な阿呆になり、概念の強制熱が高まっていた事である。

本日、その肝を冷やされた。

気づこうと思っていたのかもしれない。
気づたいすら思っていたのかもしれない。

だが、私の自己欺瞞を痛烈に指摘してくれる方がいなかった。
多分いたのだろう。

ただ、指摘される姿勢をあらわせていなかった。
そういう人をさけていたのかもしれない。

今思うことは。


あー両方、楽しそうだなということ。


そこの本質を見極めてこそ、「他力本願」という意味がわかる。ガテンクラスとクリエティブクラスという根のない対立意識はいたるところにあるようだ。

・管理部門とライン部門
・支社と本社
・発展途上国と先進国

etc

本書の言葉を借りるならば、前者は風である。

後者に心地よさ、追い風を提供している。もちろん、彼らに風自体の存在はみえない。自らが動いてい事実をもってしか風の存在は推し量れない。

私は「どのような風」に支えられているだろうか?

この問いを自らへ「そっと」あてはめてみたときに、広がったのは歴史だった。正確にいえば、僕が生まれてから今に生きる道のりである。

・ふらっと立ち寄ったお店
・いずこで生産されたトマト
・理不尽にも怒鳴り散らしてくれた先生
・名もなき僕をひろいあげてくれた助産師

僕は生かされてきた。

そして、生きるときに入った。

そのための力。何かを生かし、守っていくための「力」が必要である。「被ガバナンス能力&君はそうなるな」という精神をもちあわせて生きていきたいと素直に思えた。


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2009年04月07日

tabi0107 ウェンディ・コップ「いつか、すべての子供たちに」

初年度を通して私が自信を失わずにいられたのは、何かに奇跡のように思える。なぜ、ストレスや仕事量に打ちのめされなかったのだろう。必要な資金を集められないなどと考えて、断念しなかったのはなぜだろう。私が持ちこたえられたのは、私のアイデアが持っている力を盲目的に信じていたからだと思う。失敗の可能性が現実的にあるのか、実のところ私には、よくわからなかった。ただ、そうした考えがふと心をよぎったことは数回あった。(中略)でも、そんな疑問を抱いた時期は、ほんとうにわずかだった。一生懸命にやれば計画は実現できると、当然のように考えていた。単純に、そうなければならないのだ。この国には、全国的なティーチャー・コープが必要なのだ。P65
ウェンディ・コップ「いつか、すべての子供たちに」(英治出版 2009)


読了後に友人と「「Teach For Japan」が存在するとしたら、どのような形になるだろう?」というテーマで議論をしました。

TFAにあるがTFJにはない要素として、「スラム街の存在」と「所与のティーチングスキル」があると思う。前者は、「貧困層」に対してというノブレスオブリージュであり、後者は「風とは何ですか。描写はせずに、ただ風とは何なのかを言ってください。」という質問に応えられる知力と説明する能力。

組織の機能としては、

・リクルーティング
・研修
・資金調達
・ティチャーサポート
・ナレッジシェア
・外部リソースの巻込み
etc

があると思うが、僕が考えるに、TFJ成功の秘訣は、「外部リソース(社会的資本)の巻込み」(注)にあると思っている。自分の「母校」にTFJメンバーが関わっていることを知った時に起こる、共感や協力心を駆り立て、リソース活用することである。Web作成/パンフレット作成/イントラ構築などのスキル提供を受け入れる窓口として機能することである。

注 これは和田中にも垣間みれたモデル。

■ 参考リンク
Wikipedia-Teach For America
[第25回] Teach For America
Teach For Americaに関する一考察



■ tabi後記
読後の行動がとわれる書籍でしょう。
posted by アントレ at 16:02| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月01日

tabi0106 濱中淳子「ミドルの自己学習」

自由時間に仕事生活関連で自発的に行う学習のことを「自己学習」と表現する。職業能力開発がOJT,Off-JT,自己啓発の3つから議論されていることは冒頭で述べたとおりであり、本研究で扱う学習も、自己啓発とほぼ同義だといえる。しかしながら、自己啓発という言葉は、ここで使われている以上に広い意味で使われることが一般的であり、誤解を招く危険がある。したがって、本研究では「自己学習」という言葉を用いながら議論を展開していくことにしたい。P89

つまり、「修得」の部分についての説明を、「内容そのものの修得」という語り方をするのか、「手がかりとしての修得」という語り方をするのか、という2つのパターンを抽出された。(中略)「なにかそこから見えてくればいいんですけど」、あるいは「ものごとを見るときの考え方に知的刺激を与えてくれるような。役に立ちそうじゃないですか」。こうした発言は、知識そのものの獲得ではなく、手がかりを得るための学習とみることができる。P94
濱中淳子「ミドルの自己学習」(リクルートワークス研究所 2008)

先日の考察と関係する論文をレビューします。

何事にも、そして、いかなる場所にも学びは内在する。

この前提で思考を始めると、OJT,Off-JT,自己学習,コミュニティー学習(実践共同体)という区分を行って、1つのカテゴリーを強調する態度は控えがちになる。私は、各々カテゴリーの過剰/不足/運用改善を意識するための区分であり、学びの調和を企図するための区分であると思っている。そして、本論文は「自己学習」に焦点をあてた論文になります。

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フォーマルとは、組織によって管理・運営された行動であり、インフォーマルとは、他者に強制されない、個人の自由意志にもとづく行動です。そして、パブリックとは、ひとりで行う活動ではなく、他者とのかかわりの中で行う活動であり、プライベートとは、個人的に展開する活動です。

■ 参考リンク
ミドルの自主的学び
あなたは、社外で自己学習してますか?
企業内外人材育成!?
わずか10%の可能性でも:OJTなのか、OFF-JTなのか?
posted by アントレ at 13:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月30日

tabi日記002 「09/03/27 学びと創造の場としてのカフェ」

tabi日記も再開していきます!

先週カフェ研究会: 場づくりのサイエンスとアートをめざしてに友人と参加してきました。

tabi002d.JPG
語り合う安斎野島

私が思索が出来たことは、
・「社外の学びを社内で活かす」
・「Fragile Architect(亀裂あるしつらえ)」
の2つでした。

前者については、中原先生のプレゼンで着想を得ました。中原さんが取り上げてたいのは、富士ゼロックスの「他者との「かかわり」が個人を成長させる」という研究結果。(詳細はリンク先を辿ってほしい)

tabi002c.JPG
平日の昼に社外学習を行う素晴らしい方々

ここで得られた発想は、

・平日に社外へ 
出れる 
出れない

・社外の学びを社内で共有 
出来ている 
出来ていない

tabi002e.jpg

という軸で企業を分類すること。分類に対する深堀りは、tabiで行っていきます!

後者は、上田先生が「カフェ的になったとき」が『ルールが逸脱されたとき』であったという発言と、その後のダイアローグで得ることができました。「しつらえが壊れるようなしつらえを行う」という文言は自己撞着的ですね。

tabi002f.jpg

Cafeは「しつらわないものが壊れる」という矛盾に満ち満ちたボックスに位置しています。これは私の理解が足りないからです。

1つだけ付け加えておくと、このマトリクスには「その「場」が閉じているか/開いているか」という視点が抜け落ちています。

「ぷらっと立ち寄った人間」を歓待している/していないかということですね。

■ 参考リンク
カフェ研究会が終わった!: 場づくりのサイエンスとアートをめざして
出会いと創造の場 : 飯田美樹「Cafeから時代は創られる」を読んだ!
クラブ、コーヒーハウス、サロン、カフェ - 学びと創造の場
カフェ研究会終了
"ワークショップ的"とは何か?(ワークショップ勉強会)
posted by アントレ at 19:26| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0105 ショウペンハウエル「読書について」

自分の考えをもちたくなかったら、一番確実な方法は、一分でも空き時間ができたらすぐに本を手に取ることだ。
(中略)
結局のところ、自分自身の根から育った思想だけに真実と生命が宿る。実際に完全に理解できるのは、自分の思想だけだからだ。本で読んだ他人の思想は、他人の食事の残り物、知らない客が脱ぎ捨てた服のようなものである。私たちの内部からあふれ出た思想が、春にいっせいに咲きほこる植物だとすると、本で読んだ他人の思想は、石に痕跡をとどめる太古の植物である。P13

文体は主観的でなければいいのではなく、客観的でなければならない。どうしてその必要があるかと言うと、言葉というものは、著者が考えているまさにその内容を、読者も自動的に想起できるように組み立てなければならないからだ。しかしそれがうまくいくには、思考にも重力の法則が当てはまるということを、著者がつねに意識していなければならない。つまり思考が頭から紙に下りていくのは、紙から頭に上がっていくよりはずっと容易なのである。P131
ショウペンハウエル「読書について」(PHP研究所 2009)

本書は「読自祭 」と共鳴するところが多かった。

私は、「1日1冊の書籍を読むこと」は全くもってスゴいことと思っていない。ましてや、それを推奨しようとも考えていない。この事を意外に思う方がいるようなので、ちょっと説明をする。

私はこういう考えをもったのは、読書家には、毒書家/読自家という分かれ道があることに気づいたからです。それは「生きるために水を飲むようなインプット経験」と「徹底的思索を行える耐性/体力」がついていない段階で、読書が習慣化してしまうのは危険であるという気づきでした。

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上記を満たさない方は、読書をすることによって、他人に思考の道を歩くことのプロになってしまう。その果てには毒書家が待っています。他人に思考の道を歩くことが容易になってしまった現代(検索バカ)においては、読書においても、他人に思考の道を歩くことに慣れてしまいがち。そういった危機意識を明文化してくれたのが本書です。

本来ならば、本すら読まないで思索を行えるのが良いのだが、読書をせずして天才と呼ばれた人間は皆無といってもよいだろう。読書には価値があるが、「本を読んだら、今度は自分を読め」という言葉を認知する必要がある。読書時間の倍の時間をかけて思索をしてほしい。読書自体に価値を認めない方は、自分の思考の道を相対化することを怠っているか、自分の思考を曝すことにより得られる「批判経験」の価値を感得できていないかもしれない。

下記の参考リンクには読自家へ歩むための方法論が銘記されている。参照あれ。

■ 参考リンク
母の名は「不遇」 - 書評 - 読書について
本ばかり読んでるとバカになる
本を探すのではなく、人を探す



■ tabi後記
「Think Straight, Talk Straight(単純に真っ直ぐ考え、率直に言う)」ってのは素敵な指針である。
posted by アントレ at 17:36| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0104 養老孟司「解剖学教室へようこそ」

解剖をやっていた頃、時代には完全に遅れたと思っていたから、遅れることなど、なんとも思っていなかった。いまでも同じである。勝手に時代が動くだけで、解剖に変わりはない。だから本の中身も、いま書いても、さして変わりはないであろう。でももう書けない。なぜかって、解剖をやめたからである。虫の解剖はするが、これはまた別の世界である。今度書くなら、虫の解剖にする。これが面白くて、またやめられない。解剖というのは、じつは面白いことなのではなかろうか。だからしばしば社会をそれを禁止するのであろう。P213 文庫版あとがきより
養老孟司「解剖学教室へようこそ」(筑摩書房 2005)


解剖史から「歴史」へはまる気持ちを考察した。

歴史に関心をもてる人は「どうして、こんなバカをことをやっていたのだろう?」という過去の「前提」(今は存在しない前提)に対し、「前向きな好奇」をもつのだろう。「馬鹿なことをやってたんだね」という棄却姿勢はそこにない。(それはそうだ。今は「その前提」が無いのが当たり前なのだから)

そして、「前向きな好奇」は今に生きる人々を次の姿勢へ誘なっていく。

それは「なんでこんなバカをことをやっていたのだろう?」という問いが、「自分」にも降り掛かってくることの意識である。その問いをもって、過去と現在と未来の視点が混合する。この視点を感得するための歴史なのだろう。

この視点を得ると、後世/歴史において「どう覚えられるか?」「どう問われるか?」という内省を企てる方がでるだろう。一方で、「後世にどう思われるかという意識は無理な推量ではなかろうか?」という思想をもつことで、「諸行無常」の哲学を深める方もいるかもしれない。

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遠近法の導入、系統解剖から病理解剖への解剖目的のシフトが歴史の転換点となっている。もちろん解剖の起源も興味深いのであるが。気になる方には本書を勧める。

■ 参考リンク
解剖仲間8
【誰か教えて】13世紀の解剖図



■ tabi後記
桜が咲いている。花開く前にも、花が散った後にも、それは桜である。「咲く」という一点をもって、桜は理解を得る。人はどういった行為によって理解を得られるだろうか。
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2009年03月25日

tabi0103 中野民夫「ワークショップ」

ビジネスマンとして世のただ中にありながら、少しでもまともな社会をめざしていく、いわば「ネクタイ菩薩」をめざす、などと半ば冗談、半ば本気で友人たちに語っていた。
しかし、大阪支社での営業職から始まった現実の社会は厳しく、「企業社会の変革」など大きな志とは遥かに遠いところで、日々の仕事に追われ、厄介な人間関係に疲れ、よれよれになっていた。「こんなことをやるために生まれてきたんじゃない」と思い悩みながら、「大変なのは承知で就職したはずだ」と辞めたい気持ちを抑えて踏みとどまった。五年半で東京に戻り、大きな競合プレゼンテーションで続けて勝って億単位の金額の規模の大きい仕事をこなしたりし始めると、いつのまにか夢中になってすっかりミイラ取りがミイラになってしまっていた。しかしある時、なぜ就職したのかの初心を思い出すきっかけがあり、このままではまずい、一度仕切り直そうと思い、休職を願い出て、カリフォルニアに留学した。そこで出会ったのがジョアンナ・メイシーだったのだ。P86
中野民夫「ワークショップ」(岩波書店 2001)


第1章「ワークショップとは何か」が参考になる。著者の根本思想をあらわしている図があったので、写経する。

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ワークショップには、スケールとワークショップ中毒という課題があると思います。スケールには家元がワークショップパッケージをつくり、それを検定化するという考えと、ワークショップ内容の記述方式を研究し、波及効果を確保する方法がある。つまりは、遠隔ワークショップです。中毒には、SECIモデルへの考察からヒントが得られると思っています。

■ 参考リンク
第ニ回 小澤紀美子氏×中野民夫氏
中野民夫さんの「ファシリテーター8か条」
知識管理から知識経営へ



■ tabi後記
「子三日会わざれば刮目して見よ」を味わう日々です。
posted by アントレ at 18:59| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0102 竹井隆人「社会をつくる自由」

私の言う「集合住宅デモクラシー」で果たされるのは、自らが社会をつくる主体たることを認識し、自らの「自由」を社会のためにどれだけ制限していくかを決定する政治的過程に関わることである。すなわち、それは他者や社会、あるいは「お上」や「コミュニティー」に隷従することなく、自らを治めることでもある。自ら「責任」を負えぬことなど「自由」であるはずがない。自らの「責任」を自覚できることが「自由」なのであり、そこに「正義」はあるのだ。P144
竹井隆人「社会をつくる自由」(筑摩書房 2009)


人間は、生まれ落ちたその日から「政治(集団意識決定の調整行為」)と切り離されない存在になる。これは、Aristotleが「人はポリス的動物である」という言葉に由来した考え方であろう。

私は、「Political apathy」(政治的無関心)について考えるとき、しばしばこの前提を思い返す。それは、この前提が政治的無関心にとって無力であることを確認するためだ。

私は政治期無関心の解消のために「投票における地域/世代間格差を解消しろ!」と叫ぶことを理想としていない。そもそも解消せざるをえないのか?そもそも「政治」は何を指しているのか?私は、「政治的」関心をもったときの宛先を問いたい。

そもそも投票される「政治」のサイズへ疑問符をなげかけること、ポリスが単一でしかないことに疑問符をむけることを希望している。

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読自内容を煎じ詰めると、「移動の自由がほしい」ということだ。私は、共産主義,社会主義,新自由主義といった主義/主張/制度が存在することは肯定しているが、それを「私」に強制してほしくない。これは、消極的自由という「立場」である。

誤解を回避するためにいっておくが、私は消極的自由を社会に強制したいとは思っていない。気持ちよく生活を送ることを考えると、「社会をつくる自由」がOSになってしまうことを意見しているのだ。その自明さを自明のものとするには「議論」が必要である。(OSがファジー語になっていることは認める。的確なアナロジーをするために学習中です。)

さて、その自明さとは何だろうか?

簡潔に述べるならば、「判断力/思考力が養われた成人は、「社会をつくる自由」,「社会を選ぶ自由」がデフォルトとする」ことです。そのOSにいかなるアプリケーション(共産主義,社会主義,新自由主義)をのせても構わない。

今の社会は、家電量販店で販売されるパソコンのようにデフォルトが肥大化している。不要なアプリケーションがドシドシと搭載されているのだ。

そんなに不満ならアンインストールをするなり、DELLパソコンや自作PCを選べば良いだろうと言う方がいると思う。それが、真っ当な意見である。

社会に目を向ければ分かることだが、インストール/アンインストールする行為に「自由」という言葉はあてがわれていない。こういった社会になれ!ではなく、こういった社会「も」つくれる自由が、「社会をつくる自由」である。

■ 参考リンク
「社会をつくる自由」について



■ tabi後記
自由を得るために、教育という言葉が発生する。教育は強制という形をとるが、短期的強制を回避することによって長期的強制(Ex「自由からの逃走」)を招くことになるならば致し方ない。(もちろん、「自由から逃走する自由」もあります。)私は、そういう判断のもとで教育に価値をおいている。
posted by アントレ at 17:13| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月22日

tabi0101 野田智義 金井嘉宏「リーダーシップの旅」

実績を上げ、人の信頼をかち取り、信用を蓄積していくことは、自分にとってリーダーシップの旅を準備するためにも、旅を始め、継続するためにも有効だ。では、私たちは、この数年で、どんな信用を蓄積したのだろうか。それは、裸の自分として得た信用だろうか。それとも、名刺や所属する組織の肩書によって得た信用だろうか。

信用(信頼)の蓄積には、落とし穴が待ち構えている。手段であるはずの信用蓄積が、いつの間にか目的になってしまうと、私たちは旅に出ることができなくなる。しかも、皮肉なことに、努力家で責任感が強い人ほど、日常に追われ、不毛な忙しさから抜け出しにくい可能性がある。

立ち止まり、自分と対峙し、改めて自分が来た道を振返る。そこに、自分が本当に望んでいたものがあれば、大人になっても夢や志をもつことができる。

現在の競争だけにとらわれていないか。忙しいふりだけをして、「見えないもの」を見ること、大きな絵を描くことを忘れていないか。リーダーシップの旅においては、立ち止まって振り返らないと、見えないものがある。P177
野田智義、金井嘉宏「リーダーシップの旅」(光文社 2007)


本書は、信用蓄積が自己目的化してしまうことを肯定せずに指弾する。中毒者への処方箋は「リード・ザ・セルフ」である。この作業が、 「べき」と「したい」を繋ぐものとなる。

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「Lead the People,Society」をするにあたって、問題のでっち上げへの共感が必要とされている。個人の想いをぶちまけるのではなく、「Sensing Capability」(どのように時代を意味づけ、現前する機会をつかみ取るかの理解)がもとめられるのだ。

■ 参考リンク
私の旅がはじまった契機の本
あなたのまわりに、リーダーはいますか?
わずか10%の可能性でも:OJTなのか、OFF-JTなのか?



■ tabi後記
Sensing Capabilityは

・Inflection Point(時代の変曲点)
アンディー・グローブ(インテル 共同創業者)
・Contextual Intelligence(生きている時代の脈絡を読み取る知性)
ニティン・ノーリア『時代の中に (In Their Time)』

とも言いかえられている。
posted by アントレ at 15:19| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月21日

tabi0100 スコット・ペイジ「「多様な意見は」なぜ正しいのか」

多様性がどういう課題においてより良い結果をもたらすかも定義されていない。そこで第一のステップとして、多様性を定義して、それが恩恵をもたらすと思われる課題を特定しなければならない。例えば家族が心臓切開手術を受けることになっても、肉屋、パン屋、ロウソク職人の集団に胸腔を切り拓いてもらいたくない。当然、練熟した心臓外科医のほうがいいだろう。しかし別の状況、例えば福祉政策を立案する、物理実験をデザインする、暗号を解読する、心臓発作後の治療法を評価するといった場合には、多様性が欲しくなってくる。いつ、そしてなぜ多様性が恩恵をもたらすかを理解することが、本書の目的である。P26
「「多様な意見は」なぜ正しいのか」(日経BP 2009)


今回は問いをえることができたtabiだった。集合知の事例として、イノセンティブなどをあげられることが多い。この事例からは、「多様性がどういう課題においてより良い結果をもたらすか?」を考えるうえで適切である。

課題の要件として、

・解決策が定型化されていないこと
・問いの設定自体がわかっていないこと

と考えていたが、新たな疑問がうかんでしまった。それは、多様性のサイズについて。多様性という言葉をつかうとき、3~8人のイメージをもっていないか?

数千人数十万というような「本当の多様性」はいらないじゃないかと。それは、イノセンティブでソルバーとなるためには、英語が読解でき、Ph.Dクラスの知性をもっていることが必要になってくることからも見て取れる。多様性には土台(エントリーフィルター)がある。

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この図解によって湧く疑問は、「多様性の認定について」です。

例えば(日本だけで考える)、

・東京都
・北海道
・沖縄県
・新潟県
・京都府

これは多様か?

・東京都 男
・北海道 女
・沖縄県 男
・新潟県 女
・京都府 女

これは、多様か?

・東京都 男 22才
・北海道 女 45才
・沖縄県 男 59才
・新潟県 女 14才
・京都府 女 31才

これは、多様か?

・東京都 男 22才 サポーター
・北海道 女 45才 コントローラー
・沖縄県 男 59才 プロモーター
・新潟県 女 14才 アナライザー
・京都府 女 31才 アナライザー

僕らはジオグラフィック,デモグラフィック,サイコグラフィックなどで区分けを行い、そこに多様性(ダイバシティー)という名付けをおこなっているが、何において多様なのか?誰にとっての多様なのか?。それを考えたい。



■ tabi後記
第3回 読自祭をおこなった。
posted by アントレ at 11:40| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月19日

tabi0099 飯間浩明「非論理的な人のための論理的文章の書き方入門」

授業の初めに、私はまず、学生にこう問いかけます。「自分の考えたことを文章にして、読者に間違いなく伝えるには、どうすればいいのか?」これに対する私の答えと、その理由はこうです。「そのためには、クイズ文という、『問題・結論・理由』という形式に従った文章を書けばいい。なぜなら、この形式は、読者と一つの問題意識を共有し、かつ、読者を一つの結論に導くためのものだからだ」
私の言いたいことは、この一言だけです。これで、学生たちが、「そうか、なるほど、分かった。ではそのように書こう」と納得してくれれば、もうそれ以上授業をする必要はありません。P5
飯間浩明「非論理的な人のための論理的文章の書き方入門」(ディスカヴァー 2008)

「クイズ文」というフレームワークを生み出した著者に頭が下がる。

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事例を通じて、問題の立て方、結論の出し方、理由の述べ方を学べる良書です。論理思考を学習する前に、読んでほしい1冊。

■ 参考リンク
名文より明快文 - 書評 - 非論理的な人のための論理的文章の書き方入門


■ tabi後記
今から「Educe Cafe:なぜいま本が愉しいのか?」に参加してきます。
posted by アントレ at 16:05| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0098 内田樹「街場の教育論」

「どうふるまってよいのかわからないときに、適切にふるまう」能力の涵養こそが教養教育の目的である、と。(中略)自分が何を知らないのか、何ができないのかを適切に言語化する。その答えを知っていそうな人、その答えにたどりつける道筋を教えてくれそうな人を探り当てる。そして、その人が「答えを教えてもいいような気にさせる」こと。それだけです。P120
内田樹「街場の教育論」(ミシマ 2008)


私の目に留まったのは、君子の六芸( 礼 樂 射(弓) 御(馬) 書 数)に関する考察。六芸については、礼についてを参考にされたい。

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著者は六芸のうち四芸( 礼 樂 射(弓) 御(馬))に焦点をあて、教養とは他者とコラボレーションするための作法であるという。専門家とは、「専門用語で通じる」場所(内輪のパーティー)にいる人間ではなく、自分と共通の言語や共通の価値の度量衡をもたないものとコミュニケーションが出来る人間をさしている。ただし、伝統的な教養を復古せよといっているわけではない。大学という場には、このような教養的要素が含まれているのだという主張がなされている。「学際的」「専門家人材の越境」といった言葉に半ば虚しさをもってしまう理由を探るうえで、新たな視点がえられる。

■ 参考リンク
asahi.com [評者]香山リカ
Days in octavarium〜知のカンブリア爆発の果てに



■ tabi後記
関連させると「西洋音楽史」が非常におもしろいです。
posted by アントレ at 14:48| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

tabi0097 阿部謹也「自分のなかに歴史を読む」

先生は長い時間待たせたことを詫び、二人で話しだしました。ところが先生は私がローマ史をやりたいといえば、「それは結構ですね」という具合で、特に反対もせず、かといってそれをやれともおっしゃってくださらないのです。いろいろ話をしているうちに先生はふと次のようにいわれたのです、「どんな問題をやるにせよ、それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探すのですね」。そのことばを聞いて、私はもうほかの質問はできなくなり、そのまま家に帰って白紙の状態でふたたび考えることにしました。P18
阿部謹也「自分のなかに歴史を読む」(筑摩書房 2007)


著者にとっては、「ドイツ騎士修道会研究」が「それをやらなければ生きていけないというテーマ」となっていた。上原先生の言葉をうけた阿部さんのメッセージは、「過去の自分を考古学し、現在に自分を工学し、未来の自分を文学する」と変換できるかもしれません。(この表現自体、文学的であるのがミソ。笑)

若い人が丹念に自分を掘り起こしても何も出てこない思うかもしれませんが、そんなことはありません。それは、私たちの意識の奥底に過去がしのびこんでいることを確認すれば分かることです。それは、年中行事のひとつの正月をとっても同じです。誕生日は、過去の再現にほかなりません。僕らが、1年365日を単位として、生まれた日を祝祭するという習慣に「違和感」を覚えたとしたら、そこに学問ははじまる。

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成人になってからの違和感をベースに思考をするのは弱い(健康的ではない)と思ってきた。書籍やニュースなどをベースにアジェンダ設定をするのは、意識的記憶での発動だからなのか。「内なる心」という表現は文学的なきらいがあるが、無意識や前意識などについて知るほどに、15歳までに「私」の志向性はあらわれきっているのではなかろうかと思う。

その時分にいかなる問いをもっていたか。何に違和感をもっていたか。成人した「私」には、それを関係づけることしか出来ない(それを関係づけることが出来るのだ!という意味でとらえている)。

著者の経験によれば。関係づけから、創造までの期間は40歳までに出来れば良いのだよと語っている。ぜひ参考にしてほしい。

■ 参考リンク
書籍内容を知りたい方へ
ちょっとした話



■ tabi後記
非常に暖かくなってきた。いろいろな種が芽生えるころです。
posted by アントレ at 13:50| Comment(0) | tabi☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月16日

tabi0096 ジョン・スチュアート・ミル「自由論」

この小論の目的は、じつに単純な原則を主張することにある。社会が個人に対して強制と管理という形で干渉するとき、そのために用いる手段が法律による刑罰という物理的な力であっても、世論による社会的な強制であっても、その干渉が正当かどうかを決める絶対的な原則を主張することにあるのだ。その原則はこうだ。・・・文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである。P27

この原則は判断能力が成熟した人だけに適用することを意図している。子どもや法的に成人に達していない若者は対象にならない。……同じ理由で、社会が十分に発達していない遅れた民族も、対象から除外していいだろう。……専制統治は、未開の民族に進歩をもたらすことを目的とし、実際にその目的を達成することで手段としての正しさを実証できるのであれば、正当な統治方法である。P28

人間は支配者としてであろうが、市民としてであろうが、自分の意見と好みを行動の規則として他人に押しつけようとする傾向をもっており、この傾向は人間性に付随する最善の感情と最悪の感情のうちいくつかによって強力に支えられているので、権力を制限しないかぎり、この傾向を抑制するのは不可能である。そして、権力は弱まっているどころか強まっているのだから、道徳的な確信によって権力の乱用に強い歯止めをかけないかぎり、現在の状況ではこの傾向がさらに強まっていくと覚悟しなければならない。P37
ジョン・スチュアート・ミル「自由論」(光文社 2006)


・無謬性の想定は真理を遠ざける態度である
・自分の意見に対してだされうる反論はすべて知る必要がある
・反論と反論へ反反論が論を精緻になっていくからだ
・しかし、精緻さが真理へ到達することはない
・その真理は状況/時代によるものであるからだ
・真理は到達されることはなく、希求する態度に内在している

■ 参考リンク
お互いに不干渉/消極的自由論
リバタリアニズムと右翼・保守・左翼・リベラルとの違い
ミル『自由論』新訳と官僚制への批判
ミル『自由論』:悪魔の代弁者
言論の自由について



■ tabi後記
4年ほど前はディベート三昧だった。科学者の態度と科学哲学者の態度を持ち合わせることがバランスのとれた知性であると思う。
posted by アントレ at 11:30| Comment(0) | tabi☆☆☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月15日

tabi0095 ビル・マッキベン「ディープエコノミー」

私は、ここアメリカと世界で、公平に富を配分するべきだという平等の意見には賛成だ(実際、もし関心ごとが成長だけなら、加速させる最良の方法はもっと公平に所得を再配分することだ。それについては説得力のある証拠がある)。そして、いくら指導者が強調しようとも、私たちはこれまでより裕福にはなっていない。そう肝に銘じておくことがきわめて重要だ。それが世の中の、直感には反しているが確固たる事実の一つであり、本書のあちこちで私の主張を支えている。成長は断じて、大部分の人を裕福にはしていない。P. 25
ビル・マッキベン「ディープエコノミー」(英治出版 2007)


1万ドルの悲劇がというものがある、それは成長と幸福の相関関係が崩れるときだ。繋がりと幸福に相関性が見出されてくる。凸凹というのは、GDP,成長率,ジニ係数,失業率などで国力を規定したときに、生じる差である。
格差が固定化するのをふせぐために様々な施策の中で、本書は、グローバルサプライチェーンで食料を流通させるよりも、地域社会で地産地消する食料政策が好ましいという事例を紹介する。該当地に最適な食物を判別することにより、生産価格が下がり、市民間の対話も増える。そして、環境負荷(フードマイレージ)が減る事も示している。詳しくは参考リンクを見て頂きたい。読自祭で作成した図は、コンセプトベースの分類になった。

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「フラット化する世界」
凹を埋めることで凸に近づくようなにすることであろうか。途上国イノベーションなどが言葉として用いられる。
「ぺちゃんこ化する世界」
これはフラット化する世界をネガティブにとらえるている言葉。この様な世界は、凸が成長し、凹がうまるというトリクルダウン的な見方がなされている。
「土砂崩し世界」
凸をけずり凹がうめるという再分配的な見方。
「俺ルール」:凹を凸基準で埋めるな!
経済学的な見方に嫌悪感を抱き、GNH,清貧,全体主義,計画社会主義といった各種各様の自由形態を実行しようとする。

最後はのカテゴリーは半ば強引になってしまった感はいなめない。各ボックスへの考察を深めていく。

■ 参考リンク
経済はだれのために - 書評 - ディープエコノミー
情報考学 Passion For The Future



■ tabi後記
このところ眠気のコントロールが不調である。
posted by アントレ at 23:30| Comment(0) | tabi☆☆ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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